第参話
翌6月3日昼。
坦陸は曇天の下に騒然としている。
運程跌は、芋売りの格好で坦帖東路に並ぶ庁舎の影にうずくまり、眼前の光景を見ている。
(「圭粒参虎」が一頭だけ生き残ったか。)
坦帖東路は東街区の大通りで、官公庁が多く建ち、普段は気難しげな役人が多く歩いていて緊張感があるが、今日は市民の熱気で溢れていた。
「欄三秀さまあ!」
「お帰りなさい、『黄焔弓虎』!」
「欄将軍が帰還すれば、連合軍になぞ負けんわ!」
平民や貧民が、痩せこけた顔を歪ませ、精一杯の歓声を張り上げている。坦帖東路は彼らで埋め尽くされている。
それをかき分けるようにして山車が進み、その上に黄と緋色の鎧に身を包んだ長髪の武人が一人、立っている。
(虎と称されるだけあるぜ。片脚を失ってより顔相の鋭さが増したかな。)
運程跌は、ぶる、と身体を震わせた。彼もまだ若いから、威圧感を受けた際の対処を知らぬ。だが、運程跌は諜者だから、怖がりぐらいが丁度いいかもしれない。緊張感のない垂れた眼ながら、瞳の奥に鋭敏な光を宿していた。
(だが、欄三秀だって確か22歳だ。俺とそんなに変わらない。)
運程跌はガサガサの両掌を擦り合わせて心を落ち着かせようとしたが、膝の震えは止めることができなかった。
「黄焔弓虎」欄三秀は山車の上からただ睥睨し、丸く大きな眼は瞬きもせず見開かれていた。
「やりました!坤斧将軍の行方不明は無念ですが、『虎』が一頭でも帰ってくれれば心強いです。」
「まったくその通りだ。墸竟殿も勇将だが、美獣を相手にするにはあまりに苦しいからな。」
「これで籠城戦の展開も全く違ってきますよ。」
厩舎兵の訴模比と墻西である。
坦帖東路にいるのは平民ばかりではなく、この二人のように壘家の官人や正規兵も欄三秀を出迎えていた。
「見ろ。彼の威風を。あの戦さを体験して、さらに一回り武勇が増大したようだ。」
訴模比は墻西の肩を叩いて、山車の上の欄三秀を指差す。
「ええ。右脚を失われましたが、それで逆に武人として研ぎ澄まされた感じがします。」
「思えば、圭粒攻略の際、坤斧将軍が在地の若者三人を見出し、登用したのが『圭粒参虎』だった。坪蓋往、坪欽、そして欄三秀。」
「そうでしたね。1804年の冬でしたから、2年半前でしょうか。以来、三人はこの坦陸の武略に大変な貢献を致しましたね。」
「うむ。そして、坤斧将軍の慧眼は、坦陸が絶体絶命の窮地に陥った今となって、我々を救ってくれているのだ。」
「もしあの時、坤斧様が三人を召し出していなかったら、と思うとゾッと致します。」
墻西はそう言うと、肩を抱いて身震いした。
視線の先、ぼさぼさに荒れた埃だらけの欄三秀の長髪は腰までかかり、山車が軋むたびに揺れている。
(ふん。虎が一頭帰ってきたか。)
欄三秀を見つめる男がここにも一人。
(坤斧以下、虎は三頭とも頭の堅きは巌の如し。でもまあ一応、金をチラつかせてみるか。)
下唇を突き出し、脂ぎった禿頭をバリバリと掻きむしり、膨らんだ太鼓腹を前に突き出し、黒の木椅子を軋ませた。
(受けとりゃあせんか。)
大路を見下ろす官衙の高楼に吹く風は気のせいか生臭い。
「お、塘畳。早いな。太った年寄りの割に動きが早い。」
高楼に若い男が上がってきた。
「これは壘勉独様。」
塘畳は下唇を突き出したまま、下卑た笑いを浮かべた。
「そりゃ、猛虎のご帰還ですからなあ。」
「くく。火事場泥棒を、も少し続けられるかもしれないーという訳か。」
壘勉独はそう言って、上に向いた鼻をさらにあおりながら高楼の外に顔を出した。その先では「黄焔弓虎」欄三秀を取り囲む城民の大歓声が渦をまいている。
――――――――――――――――――――
その日の夜。
「埼執を断じましょう。」
城主邸の奥深く。壘渋の顔相は燭燈の明かりで明暗がくっきりして、魔女の如くである。
「謫徒の進言ですか?それは。」
その前に立つ幼女、孫の壘魍は小さな声だが、鋭い語気で祖母に詰問する。
「この危急の時、諸将の前でいたずらに妄言を吐き、忠臣を貶め、皆を惑わせる奸臣。美獣に通じて我が城内を撹乱しようとしているのかもしれない。もうそうなれば、埼執を生かしておくことはできないわ。」
「お祖母様。それは謫…」
壘渋は青黒い目袋を震わせ、妖しく潤んだ目で宙空を見つめ、孫娘の諫言を遮った。
「埼執の首を斬ります。」
壘渋の房室にジジ、という燭燈の火の音が響き、壘魍は幼い顔を苦痛に歪めながら、紅い髪飾りをいじっていた。




