第壱話
眞暦1807年6月1日。
坡州中部の小城市、塢宜は夕暮れ。その貧民街の酒家は夜の帳が下りる前から早くも騒がしい。
「おう、何処を獲るよ?褐剣髯。」
小さな酒家はガラの悪い無頼漢で溢れかえり、立錐の余地もないが、そこで堕叉と塊協半は立ち飲みしている。
塊協半は答えようとしたが、
「そうだなあ」
「痛っ。なんだ、てめえ!」
堕叉は肩が当たった他の酔客に絡んで、話の腰が折れた。
堕叉は上背があるものの、ひょろりと細く、顔は青白くて、酔客の方は体格が良かったから、組し易しと思ったかもしれない。だが次の瞬間、肩をすくめ、
「あ、すみません」
と急に眉をハの字に下げてその場から逃げ去った。
卓の対面にいる塊協半の面構えに恐れをなしたのである。
大きな一重眼をギョロリと動かし、毛虫のような眉を蠢かし、酔客の背中を塊協半が見送る。幅広の鼻を膨らませながら、黄硝子の盃を傾けると、硬い褐色の髯がジャラリと鳴った。
彼は塢宜の顔であった。
酒場の喧騒に埋れてはいるが、その面相を発見した者は、はっとして怖気をふるう。今や、塢宜の町に巣食う無頼の徒で、塊協半を知らぬ者なく、皆彼の威に服していた。
一方で堕叉は、
「クソ餓鬼が。俺ァ、塊協半の軍師だぞ。喧嘩すんなら、相手を見てやれや。」
軽薄に悪態をつき、
「で、坡州の何処から獲るんだ?」
塊協半に向き直ると、声高に、再び問うた。
「こないだご招待状を下さった、東の婆さんのところだろ。」
堕叉は決めてかかる。塊協半が黄硝子の盃を再び舐め、
「声を落とせ。」
と友人をたしなめると、堕叉はペロリと舌を出した。
「見に行ったのは去年の4月だったなあ。いい城ではある。だが、坡中の大城、坡路や坂隷なぞもなかなか獲り甲斐があるぜ。」
「そっちは西の婆さんだな。東の婆さんよりも手強いだろう?」
「そりゃあそうだ。坡州の王であり、妖天にも騙されなかった婆さんだ、東の婆ァよりかは切れる。」
塊協半は少し周りの喧騒を気にしながら、声を低め、身を乗り出して堕叉との距離を縮めた。
「だがな、大城が手強いからって、小城を獲っても意味はない。」
堕叉も応じる。
「おうよ。小城を獲ったら、途端に周りの大勢力に取り潰されちまう。」
「それが大城なれば防御も厚く、籠城の間に情勢が変われば、いかな大勢力でも退かざるをえない。」
「よし。この塢宜や圭粒とかの小城を獲るつもりは無えって訳だな?」
堕叉は猿臂を伸ばして卓の対面に座る友の、逞しい肩をバン、と叩き、
「近い将来の大英雄、『褐剣髯』塊協半よ!」
と、途端に大声で叫んだ。
一瞬、店中の無頼の徒は静まった。
塊協半は、
「声を落とせ、って言うに。」
と再び友をたしなめつつも、今度は嬉しげに笑い、くい、と黄硝子の盃をあおった。
そして店内はすぐ喧騒を取り戻し、将来の大英雄とその軍師の存在は再び酒場の中に埋没していく。
店の外には古びた、殆ど倒壊しそうな家々が並び、路地にはすえた臭気が充満し、地面に落下したままの看板がそこここに放置され、幽鬼のように生気の無い住民が落下物をうまく避けながら歩いていた。
貧民街の夜は更けていった。
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「謫徒、貴様何をこそこそ企てておる!」
塊協半たちが噂していた坦陸の城にもこの頃、騒がしい場所があった。
坦陸城主邸の中講堂。
財務総監の埼執が、二重顎に生やした長い髭を震わせて叫んでいる。
中講堂では、城主である壘渋が重臣と軍議中だ。
ただその顔触れはずいぶん寂しくなっている。軍の最高司令官である坤斧が敗戦で行方不明になっていたり、同じく軍の首脳だった詭月納や兵糧管理官の庵貞なぞの文官も壘家を裏切って死んでいる。今列席している中でまともな将は、財務を司る埼執と、彼が名指しで批判している壘渋の側近・謫徒、軍備総監の蘭政丕、東西治安総監の墸竟・塲岺ぐらいである。いまだ12歳の少女に過ぎないが、壘渋の孫、壘魍も一部将として列席している。
「州内の野盗団が、壘渋様の名義で怪文書が来たと申しておる。お前の仕業じゃあないのか?」
埼執は唾を飛ばしている。中講堂最奥の瀟洒な椅子にどっかりと腰を下ろしている老婆 ― 壘渋は、埼執に物憂げな様子で問う。
「埼執よ、その怪文書が野盗に届いたのはいつのことなのか。そしてそれには何と書いてあったのか。」
「先月のことに御座います。内容は『野に臥す猛獣よ。我が坦陸に来たれ。』で始まるのですが、要は流賊に助けを求めているのです。しかも、ご当家の開祖である後閔の壘洗将軍の名前を出している。また、壘家の幕閣に登用するとまで約しています。流賊をこの坡東の名族たる壘家に招き入れんとしているのですぞ。壘渋様には覚えはございませんよなあ。こんなふざけた文書をお許しされる筈がない。」
「私が決裁する文書は、星の数ほどあるのじゃ。そんな文書もあったような、無いような。」
「なんと。こんな文書がお手元に回れば必ず記憶に残る筈です。野盗の手を借りてこの坦陸に引き込もうという、稚拙で愚昧な策、壘洗将軍以来の高貴なるお家の誇りを穢すもの。」
「そうだが、美獣連合の包囲いよいよ厳しく、彼奴等にくだった勅命の前では表立った支援を期待できない今、我が坦陸はあらゆる手立てを講じねばならぬ事態でもある。起草した者も、我らの苦境を打開すべく死に物狂いで一策を捻り出したのであろ。」
のらりくらりと弁ずる壘渋に痺れを切らしたか、埼執は青筋を浮かべ、
「その起草者は謫徒ですっ。」
謫徒を指差した。
さて、名指しされた謫徒は、優しい杏仁型の目を床に向けたまま、蚊の鳴くような声で弁明した。
「この危急の次節、私の仕事も星の数ほどございます。私が関与したかどうか、未詳にございます。」
その瞳は深淵の如く黒く、空虚であった。ただ、俯いていたがために、他の列席者は気付かずにいる。
中講堂を巡る回廊の向こう側には奇岩の庭園が広がり、その後ろには十黄旗塔が遠く聳えている。十黄旗塔の赤茶の塔身は、暮れかけた夕陽によって金色に照らされ、塔頂にぐるりと突き立つ黄の大旗は上空の風にはためいていた。
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その日の夜。
「先程のことで」
謫徒は襦袢一つを羽織って跪いている。その視線の先には主君である壘渋が座っている。
「埼執のことかい。」
「はっ。」
壘渋も就寝前なので、豪奢な睡衣をしどけなく着ていて、眼は妖しく濡れている。
「殺せませんか。」
謫徒の声は、錐を揉み込むように壘渋に迫った。
「難しい事を言うねえ。」
壘渋は顔をしかめたが、謫徒が襦袢を脱ぎ始めると、眉間の皺が消え、にわかに表情を和らげた。壘渋は膝の痛さにも構わず立ち上がり、謫徒の前に立つ。
「それは難しいよ、本当に。」
沁みだらけの手で、謫徒の裸の肩をゆっくり撫でた。彼女の老いた目袋は青黒く、その上に開かれている瞳はいよいよ妖しげに光っている。
壘渋の居館である洗王殿の上空に星々が散らばっている。しかし星がゆっくりと一つづつ消えていく。雲が広がり始めたのである。




