step14.リグレット(2)
「まだ一部の人しか知らないけど、年度末で退職するんだ」
「……誰が?」
「私」
驚きで声が出ない由基を見て、三咲はにやりと笑い、両手でジョッキを持ち上げてこくこくビールを飲んでから淡々と話を続けた。
「最初からその予定だったのにね。入社したのは、企業の内部を少し勉強しておくかってつもりで、一通りのことがわかるようになったら、契約オーナーになるつもりでいたんだもの」
そういえば、そんな話を聞いた気もする。複数店舗を持っているフランチャイズオーナーの父親の地盤を彼女が引き継ぐことは、本社の人間も周知していたことで。
「それが意外と役職に就けてさ、本部の仕事が面白くなって辞めるのが惜しくなって、それなら代わりにオレが店長やるよって言ってくれる人が現れて、甘えちゃったんだよね」
「…………」
「自分では必死にやってきたつもりだけど、会社では今がめいっぱいでもう上には行けない。気がつけば何もかも中途半端でさ。ヤになっちゃった」
「そうか」
「ドロップアウトじゃないよ。ただ少し、軌道修正しないとなって」
「そうだな」
「まだまだ、もう一花も二花も咲かせられるし」
「そうだよ」
「あんたもさ、一度転んでみれば怖くないよ」
頬杖をついて三咲は三杯目のジョッキを引き寄せた。
「顔面から思い切りいってみたら?」
「んなもん怖いに決まってるだろ」
「じゃあ、背中から」
「ムリ」
「根性ナシ」
はあっと息をついて体を起こし、三咲はまた勢いよくビールを飲んだ。由基は由基でちびちび塩辛を舐めつつお湯割りを飲む。
「……ことちゃんは納得してたの?」
「わからん」
「子どもに言い聞かせるのはタイヘンだからね」
つぶやいて、三咲は自分の口に軟骨を放り込む。以前「子ども」と表していたのは琴美のことだったのかと由基はぼんやり思った。
「前と違って店では普通にしてくれてるぞ」
「そっか」
ふと下を向いたかと思うと、三咲は肩を震わせはじめた。笑っているのか失礼な、と気を悪くして顔を覗き込んでみると、逆に目に涙を滲ませていて、しまったと由基は思った。
「ぐす。かわいそうなことちゃん。こんな男に振られるなんて屈辱だよね。それでもちゃんとお仕事来るなんてエライ。オトナだね」
ついさっきは子どもと言ったくせに。
「失恋休暇があればいいのに」
振った方だって痛手を負ってるんだぞ、と主張しても同情してはもらえないだろうから由基は黙って二杯目のお湯割りを飲んだ。
時間を確認するため鞄の中のスマートフォンを覗くと、アコからメッセージが届いていた。いつものように「お疲れさま」と「またデートしようね」という誘い文句だ。既読スルーが常態なのでこのときにもそうする。
「アコちゃんでしょ?」
尋ねられ、曖昧に頷くと、酔っぱらっている風だった三咲は急に視線を鋭くした。
「その子のことはどうするのさ?」
「どうって……同じだよ」
「同じって? ことちゃんと?」
「そりゃあ」
「あんたもバカだね」
今夜何回目の「バカ」だよ。
「アコちゃんはことちゃんと同じようにはいかないよ。わかってるくせに」
そりゃあ、骨身に染みてわかってる。由基はため息をこらえて軟骨をかみ砕いた。
製造スタッフの募集をかけると、やって来たのは調理専門学校に通う男子学生だった。今まで男性スタッフを雇ったことはない。が、まっさきに面接に来てくれたのだから採用してみることにした。
専門の勉強をしているからといってチェーンの洋菓子店の流れ作業に順応できるとは限らない。合わずに本人が音を上げるようならまた募集をかければいい。そのつもりで琴美も余裕を持って申告してくれたのだろうから。
その琴美の丁寧な指導が良かったのか、本人が元から要領が良いのか、十九歳になったばかりだという新人君はすぐに店舗の仕事に慣れてくれた。
「わたしはもう用無しですね」
自嘲的なことを言いつつも琴美は先生役を楽しんでいるようでもあり、若者同士で仲良く並んで作業している様子を見ていると、由基の方が置いてけぼりにされたような寂しさを覚えてしまう。琴美が吐露していた痛みを自分が味わってしまっているわけで、「バカね」と三咲の声が頭の中でこだましたりする。




