菫色の死神
浅いとは言え、傷の数は非常に多い。いくらスイシェンが若いと言えども、彼は超人でもなくただの人間である。薬を塗っただけで、すぐに傷が塞がるはずもなし。怒りに任せてアケライから離れてしまったものの……今は手負いの状態だったことにも気づいては、自分の間抜け加減に肩を落とす。
(何れにしても……これ以上は動かない方がいいか)
彼女が追いかけてくるかもと、甘い考えが脳裏を掠めるが。自分は怒っているのだと、敢えて決めつけては……今はとにかく体を休めようと、木の根元に体を寄せる。そうして、着込んでいた外套を前にかけ直してみるものの。見事に穴だらけの無惨な様子に、ハハ……とスイシェンは堪らず力なく笑ってしまう。
(去年、新調してもらったばっかりだったのに。もう……こんなにボロボロになるなんてな)
防寒性にも優れた、どこまでも真っ黒で優美な外套。舶来品の織物だというそれは、厚みがある分、やや重たいが……高級品ならではの意地を見せつけるように、黒一色でありながら細かい唐草模様の織り目で彩られている。きっと、本来は地位の高い人間が着るものなのだろう。
(アケライはどうして、こんなものを俺に着せているんだろうな。……仕事をしていたら汚れるし、こうして穴だらけになったりするし。どうして……)
自分のような拾い子に、こんなにも高い物を買い与えたりしたのだろう。
アケライは普段から最低限の話しかしないし、必要以上の言葉をスイシェンにかけることもない。それでも、スイシェンだってそれとなく、分かってもいたのだ。彼女が何よりもスイシェンの事を優先していた事くらい。だから、彼の方も少しだけ期待してもいたのだ。いつか守られる立場ではなく、対等な立場になれた時。その時には……。
(……足音……? この音はアケライじゃないな。だとすると……もしかして、追手か……?)
今となっては虚しい憧憬に成り下がった思い出にスイシェンが浸っていると……左手の方から、サクサクと草を掻き分ける誰かの足音が聞こえてくる。その足音の妙な軽さから、アケライではなさそうだと聞き分けては、ガッカリしている自分に辟易しつつ。……それでも、スイシェンは息を潜めては腰の蒼天に手をかける。追手だったらば最悪の場合、切り捨ててでも逃げなければならない。
「……見ぃつけた。ふ〜ん……君がスイ君?」
(結構、アッサリ見つかったか。こいつは何者なんだ……?)
できる限り息を潜めては、木の根元に身を埋めていたつもりだったけれど。彼女の方はいとも簡単にスイシェンを見つけ出しては、悪戯っぽい表情を浮かべている。薄紫色の髪の毛に、パッチリとした紅い瞳。口調こそ幼いが、見た目はアケライと同じくらいの年頃にも見える。そんなちょっぴり年上らしいお姉さんが、さも興味深そうに首を傾げて、マジマジとスイシェンを見つめては……嬉しそうに体をくねらせ始めた。
「アハ……! まぁまぁ、なかなか可愛いお顔をしているじゃない。結構、好みかも。お仕事がなければ、このまま攫ってしまいたいくらいにキュートだわ、あなた。だけど……強さは今ひとつ、ってところかしら? ライ姉様の代わりにはなりそうもないわね」
「アケライを知っているのか? それに……代わりって、どういう意味だ?」
「それを話してやる必要はないわ。とにかく……君がいると、ライ姉様はこっちに戻って来れないの。だから……ここでスパッと死んじゃってくれる? ほら、本当は自分こそが狩り取られる側だった事くらい、知ってるんでしょ?」
「そんな話が出るってことは……もしかして……」
彼女も死神……か。なるほど、彼女はアケライの代わりに本来はターゲットだった自分を改めて狩ろうとしているのか。
「……分かったよ。どうせ、もう……俺には生きている理由もない。それに……きっと、俺がいなければアケライも馬鹿な事をしなくて済むんだろ?」
「あんらぁ? もぅ……若者が簡単に生きることを諦めちゃ、ダメでしょ……。ま、確かにぃ? 私も君がいない方が好都合だけど。でも……なーんか、つまんないわねぇ。もうちょっと、死ぬ前の抵抗ってものを期待してたんだけど」
超ガッカリ〜……と、お手上げのポーズを取りながらも、彼女は仕事に取り掛かることにしたらしい。明らかに蒼天と同じ雰囲気を漂わせる武器を腰の鞘から引き抜くと、嬉しそうに構え始める。
「ふふっ。今夜もいい感じよ、紫雲。サッサとこの子を狩って、バダルハ様に褒めてもらわなきゃ。……あぁ、心配しなくても大丈夫よ? その素直さに免じて、と・く・べ・つ・に! 苦しまないように、一発で楽にしてあ・げ・るッ!」
「そっか。それじゃ、それでお願いできる? あぁ〜あ。それにしても……」
本当に、自分は何のために生きてきたんだろうな。物心つく頃から、厳しく稽古をさせられて、無理やり仕事に引き摺り込まれて。挙げ句の果てに……。
(……結局、彼女に振り向いてもらう資格さえ、最初からなかった。何せ……)
自分はアケライにとって、アズラという最愛の相手の身代わりでしかなかったのだから。しかも、守られてばかりで、彼女と同じ高みに登ることさえ許されなかった。隣に立つことさえ……叶わなかった。
「さーて、と。それじゃぁ……!」
目を閉じて、頭を垂れて。夢も希望も人生も。何もかもを投げやりに諦めて。スイシェンは既に、蒼天に手をかけることさえ、忘れていた。しかし……。
「……⁉︎」
ガキンッ……と、鋭い音が響いたと同時に、ズザザッと重々しく土を荒らす摩擦音が聞こえてくる。そうしてスイシェンが恐る恐る目を開けると……そこにはどこまでも見慣れた緋色の後ろ姿が立ち塞がっていた。
「……まさか、こんな所でお前に会うなんてな。それはそうと、お前……スイシェンに何をするつもりだった…?」
「ライ姉様……! 何をしているも何も……この子がいなければ、姉様の助けになるって……」
「バダルハにそう言われたか? ……まさか、メイラを引っ張り出してくるとは。相変わらず悪趣味だな」
「あ〜! 何ですか、その言い草ぁ! バダルハ様はあれで、ライ姉様がいなくて寂しい思いをされているんですよ? それに……メイラちゃんも一生懸命、ライ姉様が帰って来れるように、頑張っているんですけどぉ⁉︎ とにかく、そこをどいてくださいよ! ライ姉様ができないんなら、私が代わりにサクッと狩ってあげますから」
「……お節介も大概にしておけ。……私を怒らせたいのか……?」
「うぐっ……! もぅぅぅぅ! だったら、力尽くで行くまでですっ!」
死ねなかったらしい落胆と、死ななかったらしい安堵と。自分が結局、どうしたかったのさえ分からないスイシェンの目の前で、緋色の元・死神と菫色の死神とが睨み合っている。そもそも、アケライ相手に力尽くが通用するんだろうか?そんな事をどこか他人事のように考えながらも……スイシェンには彼女達の闘争の予感さえも、遠くの出来事のようにさえ思える。