緋色の悪魔
「……諦めろ、バダルハ。私がお前に負けることはあり得ぬ。それに……」
「分かっているサ。……ここまで縮んだら、あとは消滅するのみだろうネ。だけど……ふふっ。本当に、兄上は何も分かっていないんだから。……僕がこの程度で諦めるとでも……?」
「なに……?」
巨大な悪魔から、細小な魔獣に成り果てても。バダルハは尚も獰猛な唸り声を上げながら、悪あがきに打って出る。確かに、影は光を浴びれば掻き消えるしかない。あらゆる角度から眩く照らされれば、その存在を維持することもできない。しかし、影は光が途絶えれば再びゆらりと存在の息を吹き返す。そうして、確かに黒々とした影を作り出している彼女に狙いを定めると……バダルハは、光に消滅させられ切る前に彼女の影に潜り込んだ。
「なっ……! バダルハ、お前……そんな事をしたら、どうなるか分かっているのか⁉︎」
「もちろん……分かっているヨ。神様失格……落ち魂として人間に取り憑くだなんて、落ちぶれるにも程がある。だけど、こうしてしまえば、今度こそアケライは僕のものサ。そうだ……最初っから、こうしておけば良かったんだ。闇は人間の影にこそ宿るもの。それに……アケライ。お前……今、とっても絶望しているでしょ? ……元・死神のお前の魂が1番真っ黒だなんて、ホント笑っちゃうよね」
「……なるほど。この場において……私の魂が最も欲望に溢れていると言うこと、か。……落ち魂に取り憑かれる身になるなんて、我が身も情けない限りだな」
影を奪われたと言うのに、至極冷静にアケライが足元に吹き溜まる暗黒神に応じる。今や自分は「何か」を掴み損ねた、負け犬。そして、心の負傷を自分自身で埋めることもできない、惨めな人間でしかない。
「だが……無抵抗でお前を受け入れるほど、落ちぶれていはいない。私がお前の物になることは、永遠にないと……いつになったら、分かるのだ?」
「ふん……本当に生意気だよね、お前は。だけど……もう強がるのは、お止しよ。お前だって、欲しかったんだろ? アズラが。彼を手に入れるために、面倒な子育てもやって、面倒な子守もして。それなのに……アッサリと裏切られたんだから、本当に間抜けだよね。ふふ。そう言う意味では……メイシャンを作ったのも、間違いじゃなかったって事かな?」
「……」
不慮の恋敵の名前には、アケライもピクリと眉を動かしては反応せずにはいられない。それに……言われてみれば確かに、アケライはスイシェンに裏切られたのだろうと、思い込み始めてもいた。あれ程までに骨身を惜しまず、育ててきたのに。あれ程までに心血を注いでは、愛してきたのに。だけど……その気持ちは一片たりとも彼には届かなかったばかりか、僅かたりとも伝わらなかった。
「……そう、いい子だよ、アケライ。もう、色々と諦めちゃいな。僕と一緒に、仕返しをしよう? 何もかもが思い通りにならない、この不愉快な世界に……さ」
「仕返し……いや、違う。私は復讐したいわけではない。ただ……」
ただ、なんだと言うのだろう。既に、自分の愛情は彼には届かない。既に、自分は彼に愛される存在ではなくなっている。アズラの魂を乗せただけのスイシェンが、自分を満たしてくれることも絶対にないだろう。それこそ……スイシェンがアケライの物になることは、永遠にない。
(……そう、か。全てを受け入れてしまえば……楽になれるのか? いや……違う。楽になる以前に……きちんと責任を取らねば)
自分は確かに愛を与え損ねた、不適格者。自分は紛れもなく愛を掴み損ねた、脱落者。尽く愛を失った、ただの負け犬でしかない。だけど、そうなったのはどこまでも自分のせいだ。スイシェンが自分を裏切ったのではない。……アケライの方こそが、彼の気持ちを裏切り続けていただけに過ぎない。
そこまで考えた時、グラリと揺らぐ精神をようよう持ち直すアケライ。仄暗い負の感情を足元の影が包み込んでは、いつの間にか彼女そのものを取り込もうとしていたが……。そこまでされて、逆に明瞭になっていく意識の中で、アケライは1つの決意を胸に、紅月を見つめる。
「……本当に、情けないことだ。かつて当て馬と吐き捨てた相手と……まさか、同じ境遇に身を窶すことになるとは」
「アケライ、それはやっちゃいけない! 今のお前さんが紅月を取り込んだら……」
「えぇ、存じていますよルーシン様。ですが……私はやはりいつまで経ってもアズラと私はすれ違うだけなのだと、痛感致しました。ですので、ここで全てを終わりにしようかと。そうそう……シェン。これの仕留め方は……覚えているな?」
「あ、あぁ……。だけど……」
バダルハこそを逆に取り込んで、アケライが緋色の悪魔に姿を変える。全てを終わりにするには、バダルハごと自分こそがいなくなった方がいい。だって、最初から分かっていたではないか。助けてもらえるのは、片方だけ。スイシェンと過ごすのは、彼が人生を全うするまでの長くて短い、最後の旅路の間だけ。それが終われば、全てを終わらせるつもりだったのだと……本当は最初から、覚悟していたのだから。