変貌する闇
スイシェンの変貌はいよいよ、佳境を迎えつつあった。黒光りする鋼鉄の肌に、紺碧色の角。そして、憎しみに満ちた瑠璃色の視線がアケライから逸れることは決してない。それでも、アケライはただただ怒りに耐えようと……同じ空間の隅で展開されていた茶番にすら、気を向ける余裕も持てずにいた。なにせ……。
(クッ……流石に、これ以上は厳しいか……)
いくら熟練の狩人とは言え、今のその身は人間のものに逆戻りしている。技術や武力はそのままであったとしても、肉体の機能は全体的に目減りしていた。疲労と心労、そして愛しい相手が助からないかもしれないという焦燥。身も心も黒く染めて、禍々しく変化していくスイシェンの姿に……アケライはやはり自分こそを仕留めれば、彼は納得するのだろうかと、困憊した思考回路で諦め始めてもいた。
「スイシェン……お前はそんなにも、私が憎いのか? ……そんなにも……私はお前を失望させてしまっていたのか……?」
返事はない。アケライに浴びせられるのはただただ、理性さえも失ったらしい獰猛な唸り声。そうして、振り上げられる爪の一手をようやく躱すが……。
(しま……った……!)
彼女の着地点を見計らうように、スイシェンだった悪魔はもう片方の腕を薙いでは鋭い斬撃を走らせる。アケライの方はほんの少しバランスを崩しただけではあったが、戦いの場において一瞬の隙が命取りになることはままあることだ。だからこそ相手の攻撃を見極めて、弱点を探し出せと……さも偉そうに「弟子」にも教え込んできたと言うのに。「師匠」の方がそれを守れていないのだから、ますます情けない。
(……⁉︎)
しかし、今回ばかりは「命取り」を幸運にもフォローしてくれる助っ人がいたらしい。身に走るはずの激しい痛みに備えていたアケライの前に立ちはだかるのは……4本の腕を持つ戦神と、漆黒の羽毛に覆われた妖艶な怪物の2つの背中。それぞれに得意な得物を持ち寄って、勇猛果敢にスイシェンを迎え撃つ。
「大丈夫かえ、アケライ。ここはあたしらも参戦することにしたよ。もうちょっとの辛抱さね」
「……その様子だと、だいぶ消耗しているようであるな? であれば、後は私達に任せて休んでおれ。……スイシェン様は私の婿殿ぞ。お前なんぞに渡しはせぬ」
「なっ……。私は、ただ……」
ただ……? ただ、なんだと言うのだろう? スイシェンは渡さないと、言えればいいのだろか? スイシェンを横取りするなと、怒ればいいのだろうか?
がむしゃらにスイシェンを止めようと、彼の爪を受け止めては弾いてきたが。しかし、それだけではスイシェンを納得させるどころか、状況は悪化するばかり。ラハイヤがやってくるまでの辛抱だと自分に言い聞かせてみても……その先の未来を思い描くこともできない。
「兄様、援護をお頼みします」
「やれやれ……あたしが援護役かい? それで、勝算は?」
「……ここはひとまず、スイシェン様を眠らせます。少しチクンとしますが……ふふ。私の婿様であれば、この愛をきちんと受け止めてくれるでしょうに」
「ほぅ? ……お前さん、意外と純情なのさね?」
「……意外と、は余計ですわ」
何故か自信満々に「愛を受け止めてくれる」などと言ってしまえるメイシャンが羨ましい。そうして、彼らの背後に庇われる形でアケライは疲労が残るその身をようやく、立て直すものの。どこか遠くにさえ思える、2人の奮闘も苦しくて直視できない。しかも……。
「スイシェン様……あぁ、なんとお労しや。申し訳ございませぬ……私があなた様に余計な事を申したばかりに……」
「って、悠長なことを言っている場合でもないかね、これは。アケライ! 何をボケッとしているのさね! シェンちゃんの狙いはあんたのようだ。ここは、シャキッとせにゃならん!」
(そういう……こと、か。シェンは……やっぱり……)
彼は自分こそを恨んで、自分こそを憎んで……自分こそを殺そうとしている。僅かにメイシャンの声に反応する素振りは見せたものの……すぐに視線をアケライに定め直しては、苦渋と悲憤に塗れた咆哮を上げ始めた。そんなスイシェンの拳をマハカラが既のところで受け止めるのを横目に、自身の羽で作り出したらしい鏃を打ち込むメイシャン。黒い羽が彼女の身から軽やかに放たれては、鋼鉄の肌にさえしっかりと食い込む。
「さて……もう1条、行きますわ! あなた様が眠れるまで、私はいくらでも……」
「あまり無理はしなさんな、小娘。……自傷行為はほどほどにしておきな」
マハカラの言葉からするに、どうやらメイシャンの鏃は自身の命を糧にして作り出したものらしい。動きに鈍りを見せないスイシェン相手にもう1条と、身に生える羽をブツリと抜いてすぐさま放ち続けるが……痛みも相当に強いのだろう。羽が抜かれた傷跡から流れる血の色と同じように、彼女の頬が苦痛の赤にポッと染まる。
(そう、か……あの娘はスイシェンこそを助けようとしているのだな……)
愚直に、そしてどこまでも貪欲に。彼女はスイシェンこそを求めては、痛みを伴うはずの身を削る手段さえも選択して。メイシャンはスイシェンこそを「取り戻そうとしている」。その素直さに羨ましいと同時に、自分でもおかしいくらいにアケライは沸々と怒りを覚えていた。
(いいや……まだ、終わりじゃないし、終わりにはしない。……スイシェンに……)
しっかりと、伝えなければ。
そうしてゆらりと決意と一緒に立ち直ったアケライが顔を上げると……スイシェンの背後に、更に大きな黒い影が蠢いているのも見えてくる。大広間の壁という壁を常闇の影で覆い尽くす、異常な何か。しかし、得体は知れずとも……黒い何かが吐き出す雰囲気はマハカラもメイシャンも、そしてアケライも。明確な形はなくとも3人もよく知り得る、悍ましい誰かの面影を孕んでいた。