幸福の隙間
ルーシンとユンルァも人混みからようよう脱出しては、馬車に戻るものの。薄暗い座席の隅に落ち込んだ様子で紅月の鞘を撫でては、ため息をついているアケライの姿がそこにはあった。彼女は彼女で暴れる事を諦め、身を引くつもりでいるようだが……そうと決めつけるのはまだ早いと、ルーシンが「手土産」を示しては、アケライを鼓舞し始める。
「アケライ。多分だけど、ね。あの様子だと、シェンちゃんも領民達もちょいとした幻術にかけられていると思うよ。だから、まだ遅くないさね。……このままじゃきっと、シェンちゃんも危ない」
「幻術、ですか? ……しかし……私が今まで、シェンの笑顔を見たことがなかったのは事実です。そんな事に今更気づく時点で……私に彼と共に暮らす資格はないように思えます。私のことなぞ、忘れていた方が……シェンは幸せなのではないかと」
例え偽りの境遇だったとしても、スイシェンの笑顔はどこまでも眩しかった。豪奢な衣装に、堂々とした佇まいもさる事ながら……表面だけ見れば彼の英雄譚は功績の一部として、一国の王女を娶るというこれ以上ない程の栄華に彩られている。この現実のどこに、アケライが付け入る不幸があるというのだろう。
「……アケライ、ちょいと聞いておくれ。一応、あたしらもお土産を頂いてきたんだけどね。……こいつは普通の饅頭じゃぁないよ。ユンルァも分かるよね?」
「無論だ。この寿桃包とやらにはかなりの毒が仕込まれているようだな。……おそらくだが、ハッキヤムの差金だろう。領民達にこれを配ることで、奴らは獲物を量産するつもりなのだろう」
「獲物を……量産?」
桃は縁起のいい果物とされており、神の果物とまで言われる聖なる果実でもある。そのため、この大陸のお祝い事では必ずと言っていいほど桃を模した菓子やら、果実そのものが食されるが、ルーシン達が持ち帰ってきた寿桃包にはそんな神聖な祈りは包まれていないらしい。ユンルァがどれどれとサクリと割ってみると、ギッシリと詰まった餡の色はどこか、不気味と黒ずんで見える。
「……これは……まさか?」
「あぁ。そのまさか、だろうな。おそらく妖術の一種だろうが、こいつはいわゆる洗脳の毒だ。神の眷属である我らには通用せぬが、これを生身の人間が吸ったらどうなるか……アケライも分かるのではないか?」
「そういうことか。落ち魂は度を超えた欲望に誘き寄せられ、その魂にこそ根付く傾向がある。この毒で人間の欲望を刺激して、落ち魂を定着させれば魔の者を狙って作り出すことも可能だろう」
「そう、だな。……と、そこまで分かったところで、こいつは燃やしてしまうか。……アケライにまで落ち魂が取り憑いたら、我の手にも負えん」
「……その辺は大丈夫だろう。魂こそ人間の物になったとは言え、私が着ている外套は死神の法衣だ。落ち魂に対峙せねばならなかった以上、最低限の対抗手段は持ち得ているさ」
「そういや、そうだったね。……だからシェンちゃんにも、アズラの外套を着せていたんだっけね」
しかし、そのスイシェンは今やアズラの形見でもある「対抗手段」を脱ぎ捨てて、装い新たに花婿衣装を着込んでいた。そうして、ようやくその事が意味する事にも気づいたのだろう。沈痛な面持ちを希望と不安とを混ぜ込んだ表情に切り替えながら、アケライがようやく顔を上げる。
「だとすると……ハッキヤムはスイシェンも魔が者に仕立てるつもりでしょうか……?」
「かもしれないね。何せ、ハッキヤムの頭はあのバダルハだし。……アケライに執着していた以上、シェンちゃんはバダルハにとって、邪魔以前に憎たらしい相手でもあるだろう。……幸せを与えておいて、叩き落とす事くらいは平気でやってのけるだろうさね」
そこまでルーシンが予測を溢せば、どん底までに落ち込んでいたアケライも、気分と同時に矜持も吹き返す。このままではスイシェンを失う以上に、スイシェン自身がこの世界からいなくなってしまう。しかもルーシンの予想が合っているとすれば、彼に与えられる「死」は魂を輪廻に戻すだけの単純な形ではなく、「バダルハの囚人」という艱難を永劫に味わう事になりかねない。
「……彼らが動くのは、夜だろうか?」
「だろうな。……落ち魂は基本的に夜にしか顕在化せぬ。昼間に切り離そうとしても不可能なばかりか、最悪の場合宿主の魂だけを傷つける結果になる。……回収人の狩りが必ず夜に行われるのは、そういう理由でもあったろう?」
「その通りだ。とは言え……白昼堂々に殺生をするような悪趣味を持ち得ていないだけなのだが」
ユンルァの問いにチクリとどこか皮肉めいたことを言ってのける時点で、アケライはようやくいつもの冷静さも取り戻しつつあるらしい。澄ました表情で紅月を鞘から抜き出しては、愛おしげにその刀身を撫でている。そうして、アケライは胸の奥で明らかな怒りを静かに燃やしながら……今度こそ思い人と望んだ形で再会するのだと、牙を研ぎ始めた。