幸せな毒
あれ程までに全てをメチャクチャにしてやろうかと、沸々と良からぬ思いを抱いていたというのに。スイシェンの輝かしい笑顔を見た瞬間、アケライはその笑顔にこそ失望し……その場の何もかもに耐えきれず、それ以上は見たくないとばかりに踵を返していた。
アケライも初めて見る、スイシェンの笑顔。そう言えば、スイシェンは子供の頃から本当に楽しそうに笑っていたことがない気がする。アケライが見つめてきた彼の顔と言えば、懸命な顔か、疲れた顔か……はたまた、何かを確かめるような悲しい顔か。そして、その悲しそうな顔の意味を知りつつも、無視してきたのは他ならぬ自分だと気づいては、更に落ち込むアケライ。
(……私の方こそがこのまま身を引いた方が良いのかも……しれないな……)
ひっそりと、気取られることなく……静かに。そうしてその場を離れていくアケライの様子を見つめながら、一方のルーシンは今は放っておいた方がいいだろうと考えると同時に、周囲の異常な空気も感じ取っていた。今のアケライにはどう頑張っても「持ち前の冷静な判断」ができない以上、代わりに様子を探るくらいのことはしてやっても良いだろう。何せ……。
(あたしも、ちょいと意地悪な事を言ってしまったし……ねぇ。しかし……こいつはまだまだ、アケライが諦めるには早いかも。この饅頭は……妙にきな臭い)
そうして抜かりなくユンルァと一緒に寿桃包と「足代」を受け取りながら、尚も嫌な感じだと鼻を鳴らすルーシン。引き出物も、周囲の領民の空気も……そして、スイシェンを見上げてうっとりと頬を染めている花嫁の姿も。何もかもに違和感を覚えながら、ユンルァを促しつつ。ルーシンも一旦は撤収だと、いそいそとアケライの後を追うように馬車へ戻るのだった。
***
夢見心地というのは、まさにこういう事を言うのだろう。耳障りのいい言葉と、肌触りのいい境遇とに包まれて。スイシェンは朧げながらも、いよいよ自分の置かれている立場を受け入れそうになっていた。手のひらに重なるのは、今朝紹介されたばかりの花嫁の柔肌。白く透き通っていて、どこまでも頼りなさげで。時折潤んだ翡翠色の瞳でこちらを見上げながらも、目が合えばいじらしく恥じらうその表情は……スイシェンが心のどこかで渇望していた類の面差しだった。
「メイシャン、大丈夫かい?」
「えぇ、大丈夫ですわ……お前様。ただ……ほんの少しだけ、疲れてしまいまして……」
自然と相手を気遣える程に愛しいと錯覚しては、領民達の熱視線に疲れたらしい花嫁の身を抱き上げる。そうされて嬉しそうに柔らかく微笑みながら、胸元に赤く染まった頬を寄せてくるメイシャンの様子に……何かが満たされる感覚を覚えて。スイシェンは初めて感じる「頼られる側」の充足感に身震いしていた。
(……アケライが相手だったら、こうはならない。……そう、だよな。俺が彼女の隣に立つ日は……絶対に来ない)
仕舞い込んだ心の奥で忘れるなと足掻く思い出さえもねじ伏せては、本当は何よりも求めていた相手をとうとう、諦めるスイシェン。今までアケライは自分を頼ることもなければ、こんな風に身を寄せてくれることさえなかった。上手くできた時に褒めてくれることもあるにはあったが……大抵の場合は「遅れを取るな」とか、「何のためにお前を鍛えたと思っている」と厳しい叱咤が飛んでくるのが、関の山。スイシェンがどんなに努力しようとて、いつだって、どこだって……彼女は峻厳な師匠であり、厳格な保護者でしかなかった。いざ、アケライの運命の相手だったと言われようとも……その運命の相手さえもスイシェン自身ではなく彼の前世だった時点で、スイシェンの自我は無視されてきたに等しい。
「……どうされましたの、お前様。……何か、悲しいことがおありですか?」
「あぁ……いや。問題ないよ、メイシャン。……うん。俺は多分……今、とっても幸せなのだと思う。だから、悲しいことを思い出している場合じゃないよな」
「ふふ、そうですわ。折角の門出に婿様に悲しい顔をされたら、メイシャンも悲しゅうございます。大丈夫ですわ。……その悲しい思い出、このメイシャンがしっかりと上書きして差し上げます。……これからは一緒に、素敵な時間を過ごしましょう」
たっぷりと、じっくりと。
最後の毒を吐くことこそ、決してしないものの。じわじわと幸せという名の幻想に絡め取られていくスイシェンの様子こそを見上げながら……メイシャンは親譲りの悪趣味を発揮しつつも、チクリと胸を痛める。親の命令で彼と渋々一緒になったつもりでいたが……意外にも充てがわれた婿殿は眉目もキリリと通った、なかなかの美丈夫だった。蒼天ごとコレクションに加えるにも、申し分ない相手である。
(……ふふ。そうよ。だったら……1つくらい、ワガママを言っても良いわよね? ……だって、私もご褒美が欲しいもの)
メイシャンにしてみれば期待値が低かった分、今やスイシェンは手放し難い存在になりつつある。父親に与えられた「アケライを絶望させる」役目をしっかりと演じ切った後は……本気で花嫁の役目を継続しても、きっとバチは当たるまい。