横浜新聞社前銃撃事件
外は、相変わらず熱帯夜だった。
事前に天気予報を観ていないので断言こそできかねるが、おそらく32℃くらいはあったと思う。考えてみれば、8月に入ってから毎日のごとく猛暑日続き。1日くらいは陽射しが穏やかな時があっても良いものだが、やはり自然は俺たち人間の都合など気にしてくれないらしい。
「ったく。これじゃサウナだろ」
蒸し風呂を彷彿とさせる嫌な空気感を独り言で誤魔化していると、不意に背後から呼び止められた。
「おい、しばし待て!」
ふと振り返ると、玄関を少し出た植木鉢の辺りに村雨が立っていた。その表情からして、まだ俺に伝え忘れたことがあるらしい。何だろうか。
「先ほども申したが、藤島を捉えても決して手を出さず、まずはどこへ行くかを見極めろ。しかし、着いた先で万が一、奴が不穏な動きを見せたら……その場合は絶対に解散届を出させるな。力ずくでも、書状を奪い取ってくるのだ。できるか?」
「ああ。できるけど」
「くれぐれも頼むぞ。その間、私は五反田に問い合わせてみるとしよう。さあ、行くが良い!」
もう少し事情を尋ねたかったが、出発を急かされてしまったのでやむを得ない。村雨に背中を見送られ、とりあえず捜索開始。
まずは屋敷の門を出てから西へと進み、150mほど進んでから右へ曲がって暫く直進し、さらに信号を右折した。タクシーが少ないこの時間帯なら、谷戸坂方面から行くと思ったのだ。
(あっ!)
俺の予想通り、藤島は谷戸坂から港の見える公園の前に差し掛かった地点を歩いていた。青の作務衣に藁草履という簡素な出で立ち。間違いない。本人だ。街灯のおかげで、宵闇の中にあっても姿が鮮明に視認できる。
組長に指示されたように、声をかけたり捕まえたりはせずにひとまず泳がせる。俺は気取られることのないよう、反対側の歩道にわたって10mほどの距離を保ちつつ後を追いかけてゆく。
谷戸坂を全て下りきった後、首都高神奈川3号線沿いの歩道を南に進んみ、元町河岸通りとの交差点で右折する。それからは谷戸橋、県民ホール前を通過して、やがてはみなと大通りへと入っていった。
(おいおい……)
国道133号線の大交差点付近に位置する、橙色レンガ造りの古めかしい大きな建物。そう。ご存じ神奈川県庁である。尾行を続けるうちに、とうとう目的地へ着いてしまったというわけだ。
当然ながら、この深夜の時間帯では全館消灯中。各種行政サービスを担う窓口が開いている気配はゼロ。上階を見ても電気が付いている部屋がまるで無いことから、居残り業務に励む職員もいないようである。
これでは、知事に書状を渡すことは叶わないだろう。そもそも本人が不在なのだから、出そうにも取り次いでさえ貰えない。時間を改めて出直すしかないように思えた。
しかし、藤島は歩みを止めない。
(えっ?)
思わず、声が出そうになってしまった。立ち止まるどころか速度をさらに上げ、県庁前の大通りをまっすぐ進んでいくではないか。やがては横断歩道を渡って反対側の歩道へと移り、向かい側の路地へと入ってゆく。
俺も慌てて後を追う。県庁前の路地は噴水の備わった大きな公園へと通じていて、その中を経由して東の出口へ進めば街道へと出る。そこはいくつもの高層ビルが立ち並ぶオフィス街だ。地元民からは俗に「かものはし通り」と呼ばれているらしい。
気が付くと、県庁からは少し離れたところまで来ていた。見失わないようありとあらゆる神経を尾行に集中させているため、時の流れが早く感じてしまう。本当にあっという間だ。
(あの爺さん、どこへ行きやがるんだ?)
やがて、藤島は1軒の大きなビルの前で足を止める。そこはメインストリートを少し外れた所にあって、県庁の静寂ぶりとは対照的に全階とも灯りがついていた。どこかの企業のオフィスビルかとも思ったが、どうやら違うらしい。
【横浜新聞社】
ビルの屋上に備え付けられた巨大な看板には、そう記してあった。横浜新聞とは云わずと知れた神奈川県の地方紙で、通称「ハマ新」。1998年時点で県内1位の購読者数を持つ有力メディアだ。無論、俺も読んだことがある。と言っても目を通すのは専らテレビ欄で、政治面や社会面などは一切スルーしてしまうのだが。
(へぇ。ここが、あの新聞の本社なのか……けっこうデカいんだな)
そんなことを考えていると、不意に前方から声がした。
「よう! そこにいるのは分かってんだぜ?」
おっと、いけない。初めてお目にかかったハマ新の本社ビルの大きさに見惚れていたせいで、うっかり気が抜けていたようだ。視線を正面に戻すと、ニヤリと薄ら笑いを浮かべた藤島がこちらを直視していた。
「つけられてることなんざ、到に気づいてらぁ。こちとら、谷戸坂の辺りからお見通しだっての。下っ端さんよ! まさかとは思ったが、本当に追手を差し向けてきやがるとはな。やっぱ食えねぇ野郎だよ。村雨は」
「……」
尾行失敗。俺の存在は最初からバレバレで、それでも敢えて気づかないふりをしてきたという藤島。どうやって気づいたのか。歩いている間、背後を振り向く動作は1度たりとも無かったはずなのだが。
(足音? それとも、勘……?)
いずれにせよ、藤島茂夫という男は不穏な気配を察知する能力に長けているようだ。流石、70歳手前まで極道を張っていただけのことはある。尾行が上手くいっていると思っていた自分が恥ずかしい。むしろ、泳がされていたのは俺の方ではないか。
「おい、そこに居るんだろ? さっさと出てきたらどうだ?」
「……」
「ケッ。だんまりかよ。なら、今ここで騒いでやろうか? 『追い剥ぎだ! そいつを捕まえてくれ!』って。すぐそこには交番もあるからよ、すぐさまポリ公が飛んでくるぜ。そうなったらヤべェんじゃねぇの?」
俺が路上強盗でないことは覆面の類を着けていない点から見ても明白だったが、ポケットにはパタフライナイフを忍ばせてあったので、警官が来れば厄介な事になる。刃物の用途は強盗ではなく一応の護身用だったが、俺が「刃物を持った怪しい男」であることに変わりは無いのだ。
もう、こうなっては致し方ない。隠密作戦の継続を断念し、俺は身を隠していた花壇の陰から姿をあらわした。
「はあ……」
「おう。素直なもんだな」
ため息をつきながらゆっくりと立ち上がった俺を見て、藤島は吹き出した。
「何だよ、お巡りを呼ばれるのがそんなに怖いか? ハハッ。安心しな。さっきのはハッタリだ。いくら今日限りで引退するからって、極道が最後の最後で警察に頼るなんて真似が出来るかよ。カッコ悪いにも程があんだろ」
「別に、怖いなんて思っちゃいねぇよ……騒がれると面倒なだけだ」
「同じ事じゃねぇか! 青いなあ。ところでお前さん、尾行は初めてかい? 気づかれねぇように後をつけるなんざ、素人に成せる技じゃないからなぁ。バレちまうもの無理はねぇ。もう少し、ゆっくり歩いた方が良かったぜ。人は走ると、どうしても音が出ちまう生き物だからよ。覚えときな」
嘲笑された上に、余計なアドバイスまで頂戴してしまった。後者は極道の大先輩からの金言として有り難く胸に刻んでおくにしても、前者は腹立たしい。
ただ、この場で襲いかかるのは得策ではない。眉間にしわを寄せて軽く舌打ちをするだけに留め、俺は憤りを胸の奥へと押し込んだ。そして、できるだけ冷静に尋ねてみる。
「……どうも。それよりさ、あんた。ここに何の用だ? まさか『新聞を買いに来た』なんて言わねぇよな? 老いぼれのヤクザが新聞社で何をするってんだよ。ああ?」
「ハハッ。老いぼれたぁ、ずいぶんな言いぐさじゃねぇか」
「事実だろ」
さながら好々爺のごとく頬を緩めながら、藤島は答えた。
「おいらが横浜新聞社へ来たのは他でも無ぇ。実はよぉ、ちょっとした記事を書いてもらう予定なんだわ。ヨコ新にゃあ昔から馴染みの記者がいてよ」
「記事?」
「おうよ。俗に言えやぁ『独占インタビュー』ってやつだ。おいらもタダでお前らに街を託すわけじゃねぇ。横浜の今後を見据えて、それなりに“保険”をかけときてぇんだ」
ほのかに嫌な予感がしてきた。一体、何を話すつもりなのか。このような深夜に取材を受けにきている時点で、よからぬ内容であることは言わずもがな。“保険”というワードもまた、然り。ひどく不穏な空気が俺を包んでいった。
「何だよ。そりゃ」
「せっかくだから、教えてやるか。帰って組長に伝えてくれや。クッククッ……」
ビルからこぼれる蛍光灯の明るさに視線を移しながら、しみじみと語り始める藤島。その口からゆっくりと紡ぎ出されたのは、思いがけない言葉であった。
「……おいらが頼んでたのは、暴力団追放の特集記事だ。大鷲会の解散を一面に載せてもらうのさ。『これまで善良な市民の皆様にご迷惑をおかけして、どうもすいませんでした』っていう、おいらの詫び文と一緒にな」
何という事だろう。だいぶスケールが小さい。申し訳ないが、些か拍子抜けだ。意図せず、ひどく間の抜けた声が本能的に出てしまう。自分の目が忽ち丸くなるのが分かる。
「えっ?」
独占インタビューというからには、てっきり重大な暴露を行うと思っていたのだ。村雨組に関する機密情報をリークするつもりでは無さそうだ。みるみるうちに緊張が解れてゆく。
「はあ……」
あふれ出たのは、安堵と辟易が混ざり合ったため息だった。まったくもって馬鹿馬鹿しい。勿体ぶった言い方の割には、こちらが焦るほどのことでは無かったではないか。
冷や汗が引いてゆくと同時に、目の前の老人への怒りがマグマのごとく込み上げてきた。俺は拳をと力強く固め、丸くなった目を鋭くして睨みつける。
(ビビらせやがって……少しボコってやろうか。クソ爺め)
ところが、それは束の間だった。掴みかからんとするこちらの動きに先手を打つかのように、藤島はニヤリと口元を緩めるや否や、早口で説明を再開する。
「おう! 今、お前さん『そんな記事を書かして何になんだ』って顔をしやがったな。ケケッ。やっぱり青い。肩透かしと決めつけんのは、まだ早いぞ。話のミソはこっからだ」
「ああ!?」
「暴追運動やら何やらで極道の旗色が悪い今だからこそ、わざわざ広告料に大枚はたいて新聞に詫び文を出す意味があんだよ。そして、そいつはおいらに旨みをくれる。自分が渡世を引退した後も村雨組を抑えつけられるっていう、最高の旨みをな」
何を言っているのやら。さっぱり分からない。
たしかに話の通り、横浜では暴力団追放のムードが広がりつつあった。これは大鷲会の内部抗争の流れ弾で無関係な一般人に死傷者が出たことに端を発するものであり、当時はリベラル的な論調で知られていた横浜新聞も協賛。ここ数日は特集欄に暴追の連続シリーズが載る有り様だった。
しかし、そうした機運が藤島にメリットを与えるとは思えない。むしろ極道の排斥を主張しているのだから、いわゆる目の上のたんこぶでしかないだろう。これまでも、非常に煙たく思っていたはずだ。
出来るだけ、俺は冷ややかに返してやった。
「言ってる意味が分からねぇな! あんた、もしかして年食ったせいでボケちまったのかよ。ヨコ新がヤクザのために何をしてくれるってんだ。街から追い出せだの、社会の敵だの、さんざん悪口書かれてんじゃねぇか。少しは現実見ろって!」
「ふう。これだけヒントを出してやっても未だ分からねぇか。現実とやらが見えてねぇのは、お前さんの方だぜ」
「おい、ボケるのもいい加減に……」
「じゃあ、おいらが詫び文の中に一筆添えたらどうなるかね? 『連日の報道を見て、手前どもの存在が地域の皆様にとっていかにに脅威となっているかを思い知るに至り、これ以上社会に迷惑をかけないために組の解散を決意いたしました』と。そいつを読んだ暴追の連中は、きっとこう思うはずだぜ? 『自分達の訴えがきっかけで大鷲会が消えた』ってな」
抗争で街の安寧を脅かすヤクザを市民の力で打倒した――。
この事実は、暴力団追放を訴える者たちにとっての大きな自信となるだろう。藤島が大鷲会を解散させる本当の理由は別の所にあるにせよ、市民の目から見ればシュプレヒコールの“成果”であることに変わりはないのだ。
今後の運動はますます盛り上がり、極道に対する市民の風当たりは強まっていく一方だろう。横浜のみならず、これまで極道の脅威に怯えてきた全国各地の都市に波及していく可能性だって十分に考えられよう。
しわ寄せを一番に被るのは、無論大鷲会に代わって横浜全土を支配せんとする村雨組だ。極道に好意的な人間が減れば、シノギに影響が出るのは明白。市民の声に触発されてヤクザの根絶を掲げる政治家が出た日には、そこれこそ死活問題である。
藤島の語った“保険”の正体。それは、引退の直前に暴追の機運を勢いづかせることによって自分が渡世を去った後も村雨組を牽制し続けるという老獪な妙手であった。
「……」
「おう! 恐れ入ったか? おいらみてぇに長年極道をやってるとそれなりに知恵が働くようになるんだわ。ま、今日で極道じゃなくなるわけなんだけどな。アッハッハッハ!」
豪快に笑い飛ばしてみせた藤島。片や、俺は呆然と立ちつくすのみ。目の前の老人が思い描いていた絵図があまりにも大きすぎて、どう反応すれば良いのやら全く分からなかったのだ。悔しいが、嫌味を返すのが精一杯だった。
「……あんた、見た目の割に頭がキレるんだな」
「当たり前だい。お前さんもヤクザで飯を食ってくつもりなら、よく覚えとくんだな。いくら腕っぷしが強かったところで、知恵の無い奴は生き残れねぇ。特に、浅はかな早とちりを繰り返すようなのは真っ先に死ぬ。運よく長生きできたとしても、インテリにアゴで使われるのが関の山だ。いいか? 『死にたくなければ、知恵をつけろ』。この世界の掟だ。そいつぁ昔も今も、これからもずっと変わりゃしねぇよ」
とんだ説教を食らってしまったものだ。以前より引け目に感じていたからこそ、そして九割近く的を得た図星だからこそ、激しい怒りがこみ上げてくる。
(舐めやがって……!!)
だが、ここですべきは憤慨に身を震わせることではない。藤島が誇らしげに明かした話について、少しでも対処せねば。このまま何もせずに彼を新聞社の中に行かせてしまっては、後々で村雨組に大きな禍をもたらしてしまうのである。
怒りを押し殺してやや強引に余裕の表情を作った俺は、急ごしらえの台詞をぶつけてみた。
「どうも。頭の片隅にでも置いとくわ。んなことよりもあんた、本当に良いのかよ。新聞に詫び文なんて載せたら、最後の最後で負けを認めることになるんじゃねぇの? ほら、ずっと悩まされてたんだろ? ボウツイってやつに」
「その心配は要らないぜ。勘違いしちゃあいけねぇよ。負けを認めるも何も、おいらは素人と勝負したことなんざ1度も無い。悩んだことだって無い。暴追の声が上がるのも仕方ねぇ話だと思ってる。さっきも言ったが、カタギあっての極道だ。それを60年間、ずっと忘れずにやってきた。そのカタギに『社会の敵』と言われたから身を引く。ただ、それだけのことだ」
「へぇー。随分と弱気なもんだな」
「どうとでも抜かせよ。今の世は平成なんだ。街の用心棒として、極道が多少なりともカタギに必要とされてた時代は到に終わってんだよ。お前さんとこの親分は、おいらを『時勢に乗れぬ古い人間』なんて言ってたけど、むしろ逆だと思うぜ。お前さん達の方こそ、時代が変わってることに気づいてない。極道が世の中全ての敵になってる現実に、まるで気づけていないのさ」
藤島の意志は固い。如何なる言葉を浴びせられようとも、揺るぎはしないようだ。ヤクザを辞めた後で、世間的に肩身の狭い思いをする可能性があることは承知の上と見た。大鷲会が消えた後で、村雨組をどうやって押さえるか。彼の頭の中には、もうそれしか無いのだろう。
「たしかにおいらは街を『託す』と言ったが、『支配させる』たぁ一言もほざいちゃいない。村雨組の役割は、あくまでも中川が横浜に来ねぇよう睨みを利かせておくことだ。もし、大鷲が消えた後の釜を狙おうってんなら……その時は街全体がテメェらの敵にまわる。くれぐれも、行動には気をつけるこったな。さっさと帰って組長に伝えろや」
さて、どうするか。ハマの英雄から凄みのある声で直々に釘を刺されてしまったわけだが、ここで素直に回れ右するほど間抜けな俺でもない。言葉でどうにかできないのであれば、もはや方法は1つ。
「そっか。でも、爺さん。悪いけどさ。あんたの思ってるようにはさせられねぇわ」
「……おいらを止めようってのかい?」
「ああ。力ずくでもな。知っての通り、俺は村雨組の人間だ。聞いちまったからには、このままじゃ帰れねぇよ。ここであんたをぶん殴ってでも止めなきゃならねぇ。それが俺の役目なもんでね」
藤島をまっすぐ見据えた俺。これから彼がやろうとしている事が組長の云う「不穏な動き」なのかは分からないが、村雨組に不利益が生じることだけは明らかである。この状況で何もせずノコノコ帰ろうものなら、忽ち無能の烙印を押されてしまう。
「若造。おいらと殴り合おうってんなら、よしといた方がいいぜ。お前さんとおいらじゃあ、踏んできた喧嘩の場数が月とスッポンだ。無駄にケガするだけだと思うがな」
流石はハマの英雄。特に声を荒げたりせずとも、己が醸し出す雰囲気だけで相手を威圧できるようだ。されど、残虐魔王や五反田の蠍の下で常にプレッシャーと隣り合わせの日常を過ごしてきた俺には通用しない。平然と返してやった。
「やってみなけりゃ分からねぇさ。少なくとも、俺はあんた相手に負ける気がしない。さっきは雑魚相手に大暴れできたみたいだけど、今度ばかりはそうはいかねぇぜ。70手前のジジイなんか、俺にかかれば5分で倒してやる」
「自分が強いって言いてぇのか? そんなんでおいらを脅かしてるつもりか? ケッ。やっぱり青いなあ。お前さんは。良いぜ。やってやる。生意気なガキに身の程ってモンを教えてやるとするか!」
「望むところだ」
次第に張りつめてゆく空気。この日が熱帯夜である事などは忘れるほどに、全身の鳥肌が立つのを感じた。とりあえず啖呵は切ってみたものの、やはり緊張してしまう。
老人とはいえ、武闘派で知られる村雨組の組員を相手にあそこまで立ち回れるのだ。手強い敵であることは言うに及ばず。決して生易しい喧嘩にはならないだろう。だが、ここで怯めば一生の不覚だ。
(大丈夫だ……必ず勝てる……)
ゆっくりと構えをとった俺に、藤島は腕組みしながら言い放つ。
「先に言っとく。今、ここでおいらを殺したところで何にもならねぇぞ? 実を言やぁ、取材は前もって受けてんだ。今日はその原稿の最終確認に来ただけだしよ。あと、おいらがここで死ねば解散届だって出せなくなる。大鷲会は残ったままで、泥沼の戦争にお前さん達が引きずり込まれることになる。それで良いってのか? ええ?」
「ああ、さっきの言葉を返すぜ。あんたはそんなんで俺をビビらせてるつもりなのか? そう言えば俺が大人しくここからいなくなるとでも思ってんの? だとしたら、思った以上の耄碌ジジイってことになるなあ!」
「ハハッ。そう来やがったか。大口が叩けるのも今のうちだぞ。若造。こちとら、引き返すチャンスをくれてやったんだがな。どうやらよっぽど殴られてぇみたいだ」
「言ってろ。クソジジイ」
こうなってしまったからには、もう双方とも下がるに下がれない。立っているだけでも体力を奪われる蒸し暑い気温の事や、近くには交番がある事などはすっかり忘れてしまっていた。
ただ、正面に立ちはだかる敵を殴りたい――。
脳内にあったのは、その欲動だけ。きっと藤島も似たような精神状態だったと思う。彼は作務衣の上を脱ぎ、見事に引き締まった肉体を露にしていた。
古希を目前にした老齢とは思えぬほどの筋肉量もさることながら、目を引いたのは肩から胸、二の腕にかけて彫られた刺青。おそらくは、定期的に色を入れ直してきたのだろう。荒々しく牙を剥いた虎の鮮やかな絵柄がそこにはあった。
「若造。最後に聞いといてやる。お前さん、名前は何ていうんだ? こりゃあ、おいらの極道人生最後の喧嘩になりそうだからよ。名も知らねぇガキを殺したとなれば悔いが残る。教えてくれや」
この状況でよくもまあ平然と質問ができるものだと思ったが、答えてやらないこともない。構えたまま、俺はボソッと呟くように答える。
「……麻木だ。麻木涼平」
「麻木? 涼平? どこの出身だ?」
「川崎。おい。くだらねぇこと言ってねぇで、さっさと始めようぜ。来るなら来やがれってんだ。ボケ老人」
こちらとしては返事がてら軽く煽ってやったつもりだったが、藤島は乗ってこなかった。むしろ、俺の答えを聞くや否や目を細めて笑みを浮かべる。その顔はどこか、満足そうな様子だ。どうしてだろう。
「ヘへッ。そうかい。川崎の麻木。なるほどな。どうりで似てるわけだ。なんでもかんでも腕っぷしでどうにかしようとする喧嘩っ早さもそっくりだ。やっぱ、血は争えねぇわな」
「ああ!? 何をグダグダ抜かしてやがる!?」
「いいや、何でもねぇや。ちょいと昔の話を思い出しちまっただけだい。んじゃ、始めるとするか。渡世に入って60年! 侠藤島茂夫、極道人生最後の喧嘩と……」
――ズガァァァァン!! ズガァァァァン!!
藤島の古風な名乗り向上は、2連続の爆音によって遮られた。
何が起こったのか。すぐには分からない。しかし、ほんの2秒ほどの差で爆音の正体に気づく。銃声だ。俺たち以外の誰かが、銃の引き金をひいたのだと推察できた。
「……」
ふと我に返って前方を直視すると、藤島が静止していた。彼は格闘の構えの体制のまま、両目と口を大きく開いてピクリとも動かずにいる。とてつもない衝撃に襲われたかのような表情で、余裕に満ちていた数秒前とは実に対照的だった。
(えっ?)
俺が声をかけようとした、その時。
――ドサッ。
藤島の体が、ゆっくりと後方に倒れた。うつ伏せの状態で真上を向いた彼の腹部には2つの穴が開いていて、赤黒いドロッとした汁のようなものが流れ出ている。
ここにきて俺は、ようやく状況を理解できた。どうやら、撃たれたのは藤島らしい。俺とのタイマンに集中している隙を狙われる形で、死角から発砲に遭ったようだ。
恐る恐る後ろを振り向いて、驚愕した。倒れた藤島の後ろで右手にベレッタM92を握り銃口から立ち昇る煙に軽くフッと息を吹きかけるその顔に、俺は僅かながらも見覚えがあったのだ。
「あ、あれは!?」
その場に立っていたのは、ひょろりとした痩せ型で長身の男。午後に村雨邸で見かけた金髪の下っ端組員だ。たしか、菊川との会話では清水と呼ばれていた気がする。つい数日前には勢いで木幡を殴ってしまう光景を目撃したせいか、妙に印象に残っていた。
そんな清水は拳銃を片手で構えたまま、ゆっくりと近づいてくる。
「あんた、どうしてここに……」
「アヒャッ! アッヒャッヒャッヒャッヒャッ!」
俺の問いかけには答えず、ひどく不気味な笑い声を上げて歩いてゆく清水。やがて彼は俺を通り越して藤島のところまで行くと、虫の息で倒れている彼に向かって何やら高い声で語り始めた。
「藤島さぁ~ん。やっとぉ、この日が来ましたよ~。俺は今までぇ、ずっと我慢してたんですぅ! 3年前のぉ、あの日からぁ、ずっと!!」
「ぐうっ……おっ……お前さん……むっ……村雨の人間か……?」
「そうですぅ!! 俺はぁ、この世の中でいちばん不幸な男でぇ~す! いやぁ、本当はぁ、笛吹を殺したかったんですよぉ。だけどぉ、そこにいる麻木がぁ、先に殺しちゃったからぁ。もう大鷲会の人間ならぁ、誰でもいいと思ってぇ!!」
「なっ……何だと……?」
目を大きく開いてニコニコと笑いながら話す清水に対し、藤島は声にならない声で返すのがやっと。おそらくは、先ほどの銃撃で肺あたりを損傷したのだろう。呼吸さえもままならなくなり始めていた。胸部の傷口からは鮮血がとめどなく流れ、石畳が敷かれた地面を赤く染めてゆく。
「それじゃぁ、藤島さぁ~ん。あなたには今からぁ、代償を払ってもらいまぁ~す! 俺の大事な人を奪った罪ぃ、その身でたっぷりと味わってくださぁ~い!! 悪いのは笛吹なんですけどぉ、親分としての監督責任ってことで」
「ちょっ……ちょっと待っ……」
――ドンッ!
清水の銃の引き金は、藤島の言葉の終わりを待たずに引かれた。
「ぐあっ!」
「ごちゃごちゃうるさいんですよぉ。御託なら結構ですぅ。あなたがいくら誤ったしたところで、エリは戻って来ないんですからぁ!」
――ズガァァァァン! ズキュュュュュン!
「ぶほっ……ぐぅ……」
計6発もの銃弾をその身体に撃ち込まれ、藤島は沈黙した。出血の量が多すぎたのか、白目を剥いて泡を吹いている。どうやら、完全に意識を失くしてしまったようだ。
(マジかよ……)
あまりにも急で尚且つ衝撃的な出来事を前に、俺は茫然となった。ただ、無言で立ち尽くすだけ。どんな反応をすれば良いのか分からなかった、というのが本音だった。
一方、清水は再びおどろおどろしい笑い声をあげる。
「アッヒャッ! ヒャーッヒャッヒャッヒャッ!」
その異様さは最早、常識における理解の範疇を超えていた。生まれて初めて、人間があのような顔をする様を見たと思う。頬を曲げ、歯を見せて笑う口元とは対照的に、その眼差しは笑っていない。白目をおどろおどろしく血走らせ、瞳全体が激しい怨みの炎で燃えている。まさに化け物だ。
「そこまでだ!」
「動くな! 銃を捨てろッ!!」
騒ぎを聞きつけたのか。2人組の制服警官が急行してきた。彼らは腰帯にランヤードで繋がれた9mm口径のリボルバー拳銃を構え、緊張の面持ちで清水を威嚇し、大人しく投降するよう促す。
しかし、狂気の殺人者は意に介さなかった。
「アッヒャーッ! お前らも敵だぁ~! 死んでくださ~い!」
――ズガァァァァン!
「ぐぁっ!!」
「うああっ!!」
腹部、左大腿部をそれぞれ1発ずつ撃ち抜かれ、2人の警官はその場へ崩れ落ちる。両者ともに傷口を両手で顔を歪め、激しい痛みに悶え苦しんでいた。
(なっ……)
仮にも日頃から射撃訓練を積んでいるであろう警察官をこうもあっさり、倒してしまうとは。清水の銃の腕前はなかなかのようだ。駆け付けた交番の連中が単に間抜けだった可能性も捨てきれないが、少なくとも常人以上の技量は持つと見える。
だが、ここで感心に浸っている場合ではない。清水は拳銃を持っている上に、極度の興奮状態にあるのだ。詳細な理由こそ不明だが、明らかに正気を失っている。そんな人間の近くに居ては危険だ。
「ああああああああ! エリ、やったよ! 俺、仇を討ったよ! エリの命を奪った大鷲会に、この手でケジメをつけてやったんだッ! エリッ、だから、褒めてくれッ! あの頃みたいに、俺を抱きしめてくれ……今からそっちに行くからさぁ! うおおおおッ! うおおおおおおおおおおーッ!!」
少し掠れた声で渾身の雄叫びを上げながら、清水は倒れた警官たちに向かって引き金をひき続ける。弾が命中する度に相手の体からは赤いしぶきが上がって面に滴り落ち、やがては血の海となって横浜新聞社前の広場を汚してゆく。まさに、地獄のような光景であった。
それを無言で見つめ続ける俺の思考の大半を占めていたのは「組長に何と報告しようか」という、あまりにも単純な疑問。生まれて以来の衝撃的な出来事に立てつづけに遭遇したせいで、きっと情緒が麻痺してしまっていたのだと思う。
「アヒャッ! アッヒャッヒャッヒャッヒャッ!」
夜の横浜の街を鮮血で染めた、狂乱の銃弾。程なくして自分と村雨組を混沌の災厄に引きずり込んでゆく契機となるのだが、この時の俺には知る由も無かった。