招かれざる客
1998年8月18日。
この日の朝、組長から「海曼屋のうなぎを買ってこい」と命じられた俺は、久々の“おつかい”に勤しんでいた。何でも、組員たちは各拠点の警備に当たらせているために、雑用の買い物を任せられる人間がいないらしい。
山手から大豆戸町までは地理的にかなり離れていて、途中で電車を使っても1時間弱はかかってしまう。単なるパシリだが、頼まれた以上は引き受けざるを得ない。渋々、炎天下の横浜を往くことにした。
(でも……あの人が、うな重を食うのか? イメージが湧かねぇ)
やや下世話な想像が頭の中をよぎりながらも、俺は従順に仕事をこなしてゆく。前日に電話で予約されていたという「特選かば焼き重」を受け取り、引き換えに代金を釣り銭なしで渡して店を出る。
その帰り道だった。あまりにも暑いのでコーラの1つでも買おうと思い、菊名6丁目のコンビニに入った時。店内に妙な空気感を察した。
(あれ?)
店の奥が騒がしい。男同士で、何やら激しく言い争っているような声が聞こえる。
「いやいや、困ります。勘弁してください」
「別に良いじゃねぇかよ! タダで寄越せって言ってるわけじゃねぇんだしよう。その分のカネなら払うって。ほら、さっさと勘定しろや!!」
客と店員が揉めているようだ。自分にとっては特に関係の無いことなのだが、声のする方向が一番奥の飲み物コーナーの付近のような気がしたので、とりあえず近づいてみる。
うな重の入ったビニール袋を左腕に下げたまま、ゆっくりと歩みを進めた俺の目に飛び込んできたのは、あまりにも異様な光景だった。
(えっ……)
缶ビールや缶チューハイ、日本酒やウィスキーといった様々な酒が並んだ陳列棚の前で、中年の店長を10人前後の男が取り囲んでいる。
男たちは皆、夏なのに上着まで揃えた背広姿。しかし、一般的なサラリーマンといった雰囲気ではない。彼らが羽織るジャケットの柄から、俺は招待を一瞬で看破した。
(こいつら、ヤクザか!?)
全員がきわめて彩度の高いスーツを着ている。無論それだけでは断定できないのだが、連中が胸に付けた薄銀色のバッジの中央には大きな翼のようなデザインに、でかでかと「大鷲」の2文字。
(……マジかよ)
店内に居たのは、横浜大鷲会の構成員たちだった。彼らは店員のおっちゃんをぐるりと取り囲み、雷のような勢いで口々に怒号を浴びせている。
それに対して懸命に抗うおっちゃんの会話から察するに、どうやら大鷲会のチンピラたちは「店にある酒を全て寄越せ」と迫っているようだ。言うまでもなく、無茶苦茶な要求だ。
「おい。カネは出すって、さっきから言ってるだろうが!!」
「お売りできません!」
「この野郎!! 何が不満なんだよ!! テメェ、俺たちが大鷲会の人間だって分かってて虚勢張ってやがるのか? ああ!?」
「も、申し訳ありませんが、規則ですので……」
大鷲会が札束をちらつかせて迫るも、一貫して要求を跳ね除け続ける店長。押し問答がしばらく続いた後、さすがに業を煮やしたのか。チンピラの中の1人が言った。
「ああー、もう埒が開きませんわ。中崎の兄貴、こうなったら力づくで分からせてやりましょうよ。俺たちに逆らったらどうなるか、体で覚えさせるんです」
“中崎”と呼ばれた白いスーツを着た年長者らしき男は、それに対して不気味な笑顔で応じる。
「ああ。そうだな。やっちまうか! どうせ警察は俺らの味方をするんだし。おう。こいつを血祭りにあげて、これから村雨をぶっ潰す前の景気づけと行こうじゃねぇか!!」
「な、何を……」
次の瞬間。
――ドガッ!
目を大きく見開いて驚きの表情を浮かべた店主の顔面に、白スーツの極道が前蹴りを見舞った。
「ぐっ……ぐふっ……」
ハイキックを真正面から食らう形になってしまった店主は、その場にうつ伏せの姿勢で倒れ込む。そこに別の2人の極道が両脇を抱えて無理やり体を起こさせ、目で合図を送った。
その場に居た組員たちは歓声を上げる。そして、店主の腹めがけて代わる代わる次々と拳を叩き込んでいくではないか。
「おらっ! どうだッ! 痛ぇか、この野郎!!」
「ぐはぁっ……ぐあっ……ううっ!」
まさに集団リンチ。1人を10人で押しつぶすかのごとく痛めつける、鬼畜のごとき所業だ。それから5分以上にも渡って暴行を受け続けた店主は、やがて口から真っ赤な液体を吐き漏らした。
「うえぁぁっ……」
腹部を一方的かつ集中的に殴られたことで、内臓にダメージが及んだのだろう。明らかな吐血だった。
「うわっ! 汚ねぇ! こいつ、ゲロしやがった!!」
「このくらいで血反吐とか……弱すぎだろ。ププッ」
「だっせぇなあ。まったく」
「ほんとだよ。痛い目に遭うくらいなら、最初から素直に俺らの言うこと聞いてりゃ良かったのにねぇ。マジでバカすぎるだろ」
これまた醜悪な感想を言い残しながら、続々と引き上げていくヤクザたち。完全に失神した店主の顔に最後尾の男が唾を吐きかけた後、あっという間に姿が見えなくなった。
すると、それまで店の隅で怯えていた若いアルバイトらしき女が店主に駆け寄って体を抱き起す。
「オーナー! 大丈夫ですか!?」
「……」
だが、呼びかけには応じない。伸びてしまっているので意識は無い。辛うじて息はあるものの顔じゅう血と傷だらけで、見るも無惨で痛々しい姿だった。
「誰か! 誰か、救急車を! 早く!」
女の叫びで、レジに居た別の店員が慌てて奥へと駆けこんでゆく。おそらくは119番通報をするために、電話を取りに行ったものと思われる。他に、店員らしき人物の姿は見当たらない。
(こりゃあ、もう買い物ができるって雰囲気じゃない……)
また、店内に俺以外の客は無し。いまコーラをレジに持って行ったところで、きっと店主の介抱と応急処置が優先されて、俺の会計は後回しになってしまうだろう。そんな気がした。
(しょうがねぇ。帰るか)
喉が渇いていたが、このまま店に留まっていると面倒なことになりそうなので、静かに店を出る。退店の自動ドアが開いて早々真夏の熱気に包まれて後ろ髪を引かれるも、冷えた水なら村雨邸でたっぷりと飲める。前だけを向いて、ひたすらに足を進めた。
されど歩いている途中、つい先ほど自分の目の前で起こった出来事が何度もフラッシュバックする。
気になったのは、ハゲ頭の店主の容態ではない。店内で狼藉をはたらいていた大鷲会の男が、意気揚々と尚且つ高らかに放った台詞だ。
『これから村雨をぶっ潰す前の景気づけと行こうじゃねぇか!!』
文字通りに受け取れば、大鷲会には村雨組と事を構える意図があることになる。それも、生易しいものではないだろう。わざわざ「ぶっ潰す」という表現を用いるからには、かなり本腰を入れて攻めてくると予想される。
(だったら、早く知らせなきゃ……!)
こんな所で油を売っている暇は無い。すぐ目前に迫った危機を組長に伝えて、早急に対策を立ててもらわねば。敵の襲来までに残された時間があと僅かだとしても、せめて守りを固めるくらいのことは出来るはず。
自分の推論が単なる“早とちり”であることを心の底から願いつつ、俺は山手町までの道を全力で駆け抜けた。こうなってくると、もはや暑さなどは気にならない。ただ、1秒でも早く。頭の中にあったのは、それだけだ。
ところが到着後、俺を待っていた村雨の反応は予想よりずっと軽いものだった。
「そうか。まあ、可能性としては有り得るな」
買い物帰りに見知った情報をありのまま、何から何まで省略せずに丸ごと全て報告したにもかかわらず、村雨はいつも通りの表情でコクンと頷くだけ。
(えっ?)
てっきり、驚かれると踏んでいた。むしろ、こちらの方が驚きだ。どういう反応をすれば良いのか、分からなくなってしまう。鏡で見たわけでもないので断言はできないが、きっとひどく間の抜けた顔をしていたと思う。
「……」
呆気にとられた俺に、村雨は平然と問うてくる。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「あ、いや……その……」
「もしや、この炎天下の中を水も飲まずに走ってきたのか? ご苦労なことだな。しかし、鰻はという魚は暑さに強い。そう慌てずとも良かったものを」
違う。そうではなくて。今は、料理の話題に現を抜かしている時ではないというのに。何の話をしているのだろう。冗談のつもりなのか。
顔を左右に大きく振った後、俺は訴えるように尋ねた。
「あんた、よく落ち着いてられるよな……これから大鷲会の連中が攻めてくるかもしれないんだぞ? 少しは驚かないのかよ……?」
「フフッ。なればこそ、だ」
「はあ!?」
思わず、顔をしかめてしまう。意味が分からない。敵が本格的に牙を剥いてくるであろうタイミングで、何故に平静さを保っていられるのか。
だが、村雨は薄く笑みを浮かべながら答えるのだった。
「私は組長だ。この立場にある限り、子分たちは私の命令のまま動く。皆、己の頭で考えることなく、ただひたすらに我が意に従うのだ。例えるならば、私が奴らの“頭脳”の代わりをしているとでも云えようか……その“頭脳”が落ち着きを欠いていたのでは、皆を誤った方向へ導くことになる。戦なら、尚の事であろう」
「……たしかに」
「良いか? 極道の世界において『人の上に立つ』とは、それ即ち『下の者の命を預かる』ということだ。よく覚えておけ」
なお、大鷲会が攻めてくる兆候は10日ほど前から既に大多数の組員が察知していたようで、村雨組としては到に迎撃態勢が整っているらしい。
下っ端たちの間に好戦的なムードが広がり「逆に、こちらから攻め込んでやろう!」と興奮する者がここ最近で増えていたのも、それが原因なのかもしれない。考えてみると、すぐに納得できた。
組が抗争へと向かう熱気の中でこそ、その長たる自分は冷めた姿勢でいなくてはならない――。
これが村雨耀介の持論だった。まさしく、組織の統率者としての哲学とでも言うべきか。全ては己に従う者を無駄死にさせたくはない、という強い思いに由来しているのだろう。彼の組長としての器量の大きさを窺い知れる、実に素晴らしい言葉だと思った。
ただ、その一方で新たな疑問も持ち上がってくる。
「けど……あんたはそれで良いのか? 大鷲会が内輪揉めのドンパチで弱りきったタイミングを狙う計画だったろ。あちらさんから来るってなりゃ、とんだ誤算なんじゃねぇのか?」
「案ずるな。奴らが攻めてくることは無い」
「ど、どうしてそう言い切れるんだ?」
「連中に余裕が無いからだ。藤島も笛吹一党も、今は互いを叩き潰すことで精一杯。もし、この状況で我らに手を出せば、それは即ち敵を増やすことを意味する。仮に奴らが攻めてくるとすれば内紛が落ち着いた時か、もしくは村雨組の人間が向こうナンバー2あたりを殺した時だろうな」
情勢を踏まえれば、大いに頷ける見解だった。
藤島体制派、離脱派双方とも度重なる衝突でかなり数を減らしているらしく、決して楽観視できない痛手を被っていることは明白。そのような状況で村雨組の“参戦”を招けば、まさに両者共倒れだ。
しかし、俺がコンビニで見かけた大鷲会の男は「これから村雨をぶっ潰す前の景気づけと行こうじゃねぇか!!」と言っていた。
敢えて「これから」という格助詞をつけるくらいなので、彼らの中で「村雨組をぶっ潰す」に及ぶ時期はそれなりに早いのではないか。その辺がどうにも引っかかる。俺は、不安を拭い去ることができなかった。
「えっ、大丈夫かな?」
「心配することは何も無い。今はとにかく、敵が疲れて動かなくなる時を待つ。ゆえに、それまでは慎重に動くことだ。間違っても不用意に手を出さぬようにな」
「……」
「あと、ひとつ言っておくことがある」
何かを思い出したような表情を見せた後、村雨は続ける。
「笛吹を殺したのが実はお前だという話は、大鷲会が片付くまで決して他言するなよ。自慢して誇りたい気持ちはあるだろうが、今はあくまでも私とお前だけの秘密だ。無論、菊川にも伝えていない。くれぐれも頼むぞ」
「……ああ。わかったよ」
他言などするわけが無い。そんな事をすれば、隠密作戦の意味が薄れてしまう。どこから情報が洩れるか分からない以上、やはり秘密は守っておくべきだろう。アホな俺にも最低限、それくらいのことは理解できる。
(っていうか、先ずは大鷲会をどうするかだろうに……)
だが、もう俺の口から何かを具申したところで村雨は聞かないだろう。彼の中で「どうせ大丈夫」と定まっている以上、その視点が揺らぎはしない。後は運にでも任せて、村雨がしっかりとした備えを固めていることを祈るのみだ。
モヤモヤとした気持ちを抱えたまま、俺は奥座敷を出る。
何か今すぐにでも大鷲会が攻めてきそうな気がしてならなかった。取り越し苦労だろうか。所詮、俺のようなチンピラ以下の存在が不安に怯えたところで、仕方がないのは分かっている。けれども、妙な胸騒ぎが続くのだ。
真っ先に頭に浮かんだのは、かつての友が味わった苦い経験。
俺が横浜に出てから初めてつるんだ大学生・高坂晋也は、チーマー集団のアルビオンを手駒に使いヤクザの縄張り内で麻薬を売っていた。彼は極道とトラブルになる可能性について「どうせ大丈夫」と踏んでいた。
ところが、3か月も経たぬうちに跳ねっ返りが来襲。組長に直談判しに行って話をつけることでどうにか事は収まったが、結果として高坂の楽観論はアテが外れた。「どうせ大丈夫」ではなかったわけだ。
ならば、今回はどうだろうか。高坂と村雨。両者を単純に比較してはいけないことは百も承知だが、嫌な予感が心を支配し続ける。これから何が起こるのかが、非常に恐ろしかった。
(……とりあえず、シャワーでも浴びるか)
漠然とした不安で心が重い。だが、それ以上に全身が汗臭い。きっと、それは炎天下を走った所為だろう。気分転換をはかるためにも先ずは風呂に入ろうと思い、俺は廊下を歩き出した。
その時。
「いい加減に腹を決めたらどうだい? キミだって、いちおう極道なんだからさあ。ここぞって時に動かないと侠が廃っちゃうよ?」
「で、ですが……」
前方で会話が聞こえた。ふと視線を移すと、そこには見慣れた顔がいるではないか。菊川だ。下っ端の組員を相手に、彼は何やら得意気に説いて聞かせているようだった。
「気持ちは分かるよ。たしか、組長はキミたちに『勝手に動くな』って言ったんだよね。でもさ、何も言葉通りに受け取ることは無いと思うんだよ。少しくらいなら、キミの裁量で動いて良いんじゃないかな? ほら、向こうの事務所に弾丸を撃ちこむとかさ。キミならやれるって」
「いや、後で組長にキレられますって!」
「大丈夫だよ。その時は僕が間に入るから。組じゃ、一番僕が古い付き合いだからね。大丈夫。ちゃんと話せば分かってくれると思うよ。それに……」
「それに?」
少し溜めて間をつくった後、菊川は囁くような声で言った。
「……誰も真似できないような、すっごく大きい手柄を立てれば良いと思うんだ。そしたら、独断専行の罪なんか一瞬で帳消しにされる。むしろ褒めてもらえるよ。上手くいけば、幹部に取り立てられるんじゃないかな」
「か、幹部に!?」
「そりゃそうさ。信賞必罰を徹底するのは組長の流儀だからね。口では『勝手に動くな』なんて言ってたけど、本当はキミたちが自分から動いてくれるのを待ってるんだよ。素直じゃないからねぇ……あのおバカさんは。きっと、天国にいる彼女さんもキミが出世して偉くなるのを一番に望んでるんじゃないかな」
後ろ姿だけでは気づかなかったが、菊川に懇々と諭されている組員は知った顔だった。先日、木幡から気を鎮めるよう諫止された挙句、勢い余って彼の顔面を殴ってしまった金髪の青年だ。
(……なるほど。そういうことかよ)
だいたいの事情を察した。どうやら木幡の説諭を受けても納得できず、もはや自分では制御しきれなくなった報復心を若頭に打ち明けたといったところか。
菊川は半ば自棄を起こした青年の気持ちを上手く受け止めたようで、「大丈夫」だの「キミならやれる」だの、穏やかな口調を用いて実に暖かなエールを送っていた。
ただ、問題はその中身。村雨のことを「おバカさん」呼ばわりしただけに留まらず、あろうことか命令を無視して無断で行動を動くよう唆したのである。前者はともかく、後者は明らかな背信行為ではないか。流石に見過ごせなかった。
(何を考えてやがるんだ?)
すると、菊川は青年の型を軽快にポンと叩き、笑顔で語り掛ける。
「自分の頭で考えて決めれば良いよ。せいぜい納得のいく結論を出せば良い。どうせキミの人生なんだし。けど、動くなら早めにね。あんまりもたもたしてると、その間に麻木涼平が成り上がっちゃうから。あの子は組長のお気に入りだからね。たぶん、この先もトントン拍子で出世していくと思うよ」
「ええっ? 麻木が?」
「うん。僕がムショに入ってる間に、だいぶ力をつけたらしいじゃない。そのうち幹部どころか、若頭補佐くらいにはなっちゃうと思う。そう考えると僕の地位も危ないなぁ……ここだけの話、麻木を止められるのは清水クン。キミしかいないと思ってる。まあ、いまのは忘れてくれ。それじゃ!」
そう言い残すと、菊川は早歩きで去っていった。
(適当なこと言いやがって……)
ずいぶんと、余計な事を吹き込んでくれたものである。清水なる組員に独断専行を入れ知恵した上、あまつさえ俺の名前を出して無駄な対抗心を煽るとは。
初対面の日から抱いていた感想ではあるが、どうも菊川塔一郎という人物はおしゃべりが過ぎるようだ。兎にも角にも口が達者。機関銃のごとく次から次へと言葉が出てくるので、相手を自分のペースへと滑らかに引きずり込んでしまう。
嘉瀬や里中とは対照的だが、俺に因縁がという点では同じ。やはり武闘派の村雨の幼馴染みだけあって喧嘩の腕もなかなかのようなので、今度ばかりは侮れない相手である。
(気をつけねぇとな……)
怖いもの知らずでアホな俺にだって、それくらいの想像力と警戒心はある。口八丁の若頭と次にやり合う時のことを考えながら、そそくさと風呂場に向かった。
その途中、とある部屋の前を通った時。
『次です。おととしの衆議院静岡7区をめぐる大規模買収事件で、□□元議員の集票に協力する見返りに現金を受け取っていたと週刊誌に報じられた三島市の△△市長が、今年秋の市長選に立候補しないことを表明しました』
報道を伝えるテレビの音声が漏れ聞こえてきた。そこは通称「待機室」と呼ばれていて、屋敷に詰める組員が仮眠や休憩などに用いる部屋だ。ふと覗いてみると、2人の下っ端が民放の定時ニュース番組を観ながら、煙草を吹かしているところだった。
『きょう午前、市議会での一般質問で表明したもので、△△市長は一連の疑惑について「2年前のことなので、記憶にない」とした上で、「誤解を招く行動があったのは私の不徳の致すところ。私の軽率な振る舞いが原因で、市民の皆様に多大なご迷惑をおかけした責任をとる」と述べ、今年11月の三島市長選に出馬せず、今任期の満了を持って市長を退任する意向を表明しました』
無機質なトーンで淡々と原稿を読み上げるアナウンサーの声に混じって、組員の談笑も聞こえてきた。
「ケッ、出たよ。政治家の常套句が。『記憶にない』って言った時には大体、そいつはクロだ。そう言っとけば後々で偽証罪に問われることが無ぇんだもん。まったく、便利な言葉だよな。『記憶にない』って」
「おうおう。極道の世界じゃ、そんな方便なんざ通用しねぇってのに。村雨組でのたまおうもんなら『ならば記憶が戻るよう痛めつけてくれるわ!』なんて、組長にドヤされるぜ。あーあ、良いよなあ。政治家って。俺も政治家になろっかな~」
「馬鹿野郎。極道に投票する奴がいるかよ」
「ハハッ。違いねぇや」
冗談を披露したのか、それとも本気で愚痴をこぼしたのか。彼らの会話には、恐ろしいほどのリアリティーがあった。真意ほどは定かではないが、村雨組での日々には少なからず不満があるようだ。
一方、ニュースは続く。
『なお、今秋発売の週刊新星では収賄疑惑のほか、過去に指定暴力団煌王会系二次団体・斯波一家と癒着していたとされる疑惑についても報じられていますが、△△市長はいずれも「記憶に無い」として詳しい説明を避けています』
これに対しても、組員たちは下品な笑い声をあげた。
「キャハハハッ! また、出やがったぜ! お決まりの『記憶に無い』が! こいつ、もうそれしか言えねぇんじゃねぇの? 任期満了まであと3ヵ月、どうやって過ごすんだよ~」
「たぶん、あれだろ。今度は『体調不良により入院』とか言って、どっかの病院に部屋だけ借りて雲隠れするとか!」
「それでいて、給料だけはきちんと受け取るっていう! クククッ。完全な税金泥棒じゃねぇか! あ~、羨ましいなあ。政治家って。秋の三島市長選、俺が出てやろっかな~マジで」
「だから、ヤクザは当選できねぇっての。っていうか俺たち横浜市民だから、出られねぇし! そもそも投票権すら無ぇし!」
ニュースの内容よりも政治家という職業の給与ないし待遇の方が、彼らにとっては重要事であるようだ。よっぽど金には困っているのだろう。されど、同情はしない。全てを聞かなかったことにして、俺は静かにその場を離れたのだった。
(それにしても……疲れたな)
シャワーを浴びて風呂場から出る頃には、だいぶ疲労が溜まっていた。足が棒のように痛い。このような時は飯も喉を通らないものだ。自室に戻ると、俺は夕食も摂らずにベッドへ潜り込み、そのまま眠りに落ちてゆく。
しかし、朝まで睡眠をとらせてはもらえなかった。
どれくらい時間が経った後だろうか。ふと目を開けると、外が何やら騒がしい。誰かが廊下をドタドタと走る音が聞こえたと同時に、何やら叫び声のようなやり取りがドアの隙間から室内に入ってくる。
「おい! 急げ! 道具だ! 道具を用意しろ!」
「何人だ? 何人いやがるんだ!?」
「今のところ1人だ! いや、もっといるかもしれねぇが、暗くて分からん!!」
一体、何の騒ぎだろうか。眠い目をこすりながらも、俺は部屋から出て廊下を見渡す。そして、偶然近くに居た組員に次第を尋ねてみた。
「なあ? さっきからうるせぇな。何があったんだ?」
「カチコミだ! 大鷲会がカチコミをかけてきやがったんだ!!」
「なっ……」
カチコミ――。
その4文字の響き、背筋が刹那的にゾクッとする思いがした。菊川への怒りにかまけてすっかり忘れていたが、そちらの心配もあったのだった。
「クソッ……あいつら、マジで来やがったか……」
「おう、お前も手を貸せ! 守りを固めるぞ!!」
まさか、ここまで早いとは。想像もしていなかった。だが、来てしまった以上は迎え撃つしかない。まだ正式な組員ではないが、俺も村雨組に関わる者の1人として体だけは張らせてもらおうではないか。
「ああ。もちろんだ! 俺も行くぜ!」
組員と共に廊下を駆け抜けながら、頭の中にて急いでシミュレーションを立てる。
この時間に来たということは、敵の目的は差し詰め夜襲だろう。警戒が緩んでいるであろう夜間を狙って、村雨組長の首を獲らんとする意図があるのかもしれない。
だとすると、人数はどれほどになるのか。村雨組は傾斜のきつい坂道を上った丘の上にあるから、大軍を展開するには不利な地形と考えられる。やはり、それを踏まえた上での少数精鋭部隊か。
また、カチコミというからには何かしらの武器を携行しているはず。銃か、それとも刃物ないしは鈍器といった近接系か。飛び道具だった場合は少々、厄介な戦いになってしまう。
(とにかく、行ってみるしかねぇか……)
ろくな作戦も立てられないまま、やがては思考を中断して走ることだけに集中した。後先考えずに疾走するのは昔からの悪癖だが、今ならば止むを得ない。廊下を往く中で合流した他の連中と共に、俺は勢いよく玄関から出る。
しかし、その瞬間。瞳に飛び込んできたのは、異様な光景だった。
「……えっ?」
大きく開いた門の前で、青い作務衣に身を包んだ1人の壮年の男が大立ち回りを演じている。かかってくる相手を次々と左右に投げ飛ばし、ドスを片手に突進してくる者がいれば即座にひらりと身をかわしてお返しの蹴りを叩き込む。
現場には既に複数人の組員が転がっており、みんな傷だらけだった。おそらくは襲撃者に倒されたのだろう。急所をよほど強く打たれたのか、中には泡を吹いている奴も見受けられる。
「舐めるなよッ、このクソ爺!! ここをどこだと思ってやがる!?」
そんな襲撃者に対して道具を構えたのは、この晩たまたま門番を任されていた木幡。だが、相手はまったく臆しない。むしろドスの効いた声を周囲に響かせながら、ゆっくりと木幡の方へと歩み寄ってゆく。
「撃てんのか……若造」
「ああ?」
「ハンマーが落ちてやがるぜ。そいつぁ、お前さんに撃つ度胸がまるで無ぇって証拠だぜ……人様にハジキ向けんなら、ちったぁ気合い入れてからにしろやァーッ!!」
――ズガァァァァァン。
轟音が響いた。組員が引き金をひく一瞬の隙をうかがい、その手元を老人が強く蹴り上げたのだ。けたたましい銃声と共に放たれた弾丸は空へ飛んでいき、蹴られた衝撃でベレッタM90は組員の手を離れて宙を舞い、やがては襲撃者の足元に落ちた。
(あ、あの爺さん……すげぇ……)
街灯の光に照らされた男の頭髪は真っ白で、顎に蓄えられた立派な髭の色も、また同じ。見るからに齢60は過ぎているであろう老人だった。それなのにあそこまで俊敏な動きが可能とは。明らかに、ただ者ではない。
一方、ゆっくりと銃を拾い上げた老人は、その銀色の身に手をかけてガチャリと後ろに引っ張る。そして両眼を大きく見開いて驚き慄く組員の額に突きつけると、静かに言い放ったのだった。
「……おう、半端者。俺は喧嘩をしにきたわけじゃねぇんだ。村雨に伝えてくれや。横浜大鷲会の藤島茂夫が、話をつけに来たってな!」




