治に居て乱を忘れず
村雨の予想は、瞬く間に的中した。
組織の革新を唱える本部長・笛吹慶久が非業の死を遂げたことにより、それまで水面下にて燻ぶっていた会長への不満が一気に爆発。ついに大鷲会は笛吹派と藤島体制派に分裂し、内部抗争が始まったのである。
生前の笛吹と特に親しかったとされるヒラ幹部が藤島の腹心の若頭を射殺した事件を皮切りに、両陣営は横浜市内各所で衝突。血で血を洗う惨劇が繰り広げられるようになった。
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・「鶴見区で発砲 組員ら3人死亡」
・「あざみの駅前の変死体 暴力団関係者と判明」
・「伊勢佐木町で不審火相次ぐ 放火の目撃情報も」
・「組幹部を撲殺した疑い 30代の男逮捕」
・「青葉区の雑居ビル爆発 4階に暴力団事務所が入居か」
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これらは全て、一連の事件をローカル紙「神奈川新報」が報じた際の見出し。いずれも前述の若頭射殺から1週間の内に起こった事案だった。
笛吹派は長きにわたって会長に対する憎しみを募らせていたこともあり、行動に一切の躊躇が無い。片や藤島体制派も反逆者をまんまと生かしていたのでは極道社会の世間体にもかかわる、との意図もあってか徹底した掃討作戦を展開。
日を追うごとに抗争は勢いを増し、連中はバー、キャバクラ、スナックといった繁華街周辺に留まらず郊外のガソリンスタンドやスーパーの駐車場などでも、出くわせば即座に銃を抜いて撃ち合いを始める始末だ。
無関係なカタギの一般人が巻き添えを食らって死亡・負傷するケースも頻発し、横浜の街は恐怖と緊張の渦に一気に包まれていった。市民の間で暴力団排除の機運が高まり始めたのは、もはや言うに及ず。
しかし、それでも己を抑えられないのがヤクザという生き物。ひとたび抗争の火蓋が切って落とされれば格上の存在に仲裁を受けない限り、相手を木端微塵に討ち滅ぼすまで制圧前進を続けてしまうのだ。
皆が頭に血が上った状態で乗り込む「戦争」という名のバスに、ブレーキなどは存在しないものだ。誰も止めようとしないし、誰も降りられない。
その構図が身内同士で互いをひどく憎み合うものであれば、尚更だろう。やがて世間で云うところの盆が明ける頃になると、双方合わせて死者24人を出すまでに情勢が悪化していた。
一方、村雨組はというと――。
特に何か、行動を起こしているわけではなかった。大鷲会分裂の予兆を察知した時点で大量の武器を揃えてはいたが、これは組長が日頃より口癖にしている“治に居て乱を忘れず”の方針に沿ったもので、言ってしまえば「いつものこと」。
強いて挙げるならば屋敷のある山手と、桜木町や北仲通、それから関内駅周辺の各拠点の警戒と見回りを強化したくらいで、日課は至って平常通り。その所為か、村雨邸の廊下ですれ違った4人の組員たちはこんな会話を繰り広げていた。
「はあ。いつまで、こうして指を咥えて見てれば良いのやら。大鷲会の内輪揉めが始まってから、もう2週間も経つじゃねぇか」
「だよな。じっくりと情勢を見極めるとか何とか言ってたけど、そもそも戦争に“じっくり”なんてモンがあるのかよ。準備だけ整えて何もしねぇってのは、どうにも納得いかねぇ。いったい、あの人は何を考えておられるんだか」
「俺たち下っ端は戦争が無けりゃ、出世できねぇってのによぉ」
「まったくだ。ああー、これじゃあストレスが溜まる一方だ。早く撃ちまくりてぇぜ……」
見るからに気が昂っていた一同だが、これには理由がある。
大鷲会で事が起こった翌朝、村雨がスギハラや日高を含めた組関係者全員を大広間に集めて「しばらくは様子を見る」旨を通達したのだ。
『私が号令をかけるまで、決してお前たちは動くな。今は来るべき日に備えて戦の支度を整え、領地の守りを固めておれ。良いか? 勝手な行動は許さんぞ』
こうした厳命を組長から受けてしまった以上、おとなしくジッとしている他ない。血気に逸る名うての武闘派たちも、流石に村雨の意向には逆らえぬらしい。しかしながら、それでも苛立ちは募るもの。
「クソがッ! 大鷲会の野郎ども、後でまとめて殺してやる!!」
こみ上げてくる激情を制御しきれなかったのか。1人の組員は大きく叫ぶと、直後に思いっきり廊下の壁を殴った。そして、やり場のない怒りに身を震わせながら仲間と共に去っていく。
(だいぶ、イラついてるみたいだな……)
俺が横浜に来る前から、長きにわたってシノギを妨害され続けてきただけあって、やはり村雨組の下っ端連中が大鷲会に対して抱く恨みは決して尋常なものではないようだ。
ただ、そんな彼らの中にあって唯一、冷静さを保つ男がいた。
「気持ちは分かるけどさ。まだ、時期じゃねぇと思うんだよ。先ずは敵が内輪揉めで弱るのを待つんだ。で、こっちは焦らず着実に準備を整えておく。大丈夫。そうすれば、必ず勝てるから。な?」
木幡だ。戦争を前に浮足立つ仲間を少しでも諫めようと思ったのだろう。彼は屋敷の中で顔を合わせた組員たちと、懇々と話し込んでいた。相手がどんなにピリピリとした様子であっても落ち着いて言葉を投げかけるその姿は、まるで教会の神父のようだ。
「いや、でも……このままだと大鷲会の片割れが俺らのシマに入り込んでくるかもしれねぇし! モタモタしてる間に先手を打たれる可能性だって!」
「心配ご無用だ。その辺も含めて、ちゃんと組長は考えておられるよ。とにかく、今は信じようぜ。俺たちは村雨耀介って漢に全てを賭けると決めたから、あの人の盃を呑んだわけだし。だよな?」
「あ、ああ……」
当初は興奮して顔を真っ赤にしていたチンピラも木幡と話しているうちに自然と気持ちが落ち着いたのか、数分後には静かにコクンと頷くだけになっていた。とてつもない変化だ。
(うわっ。あいつ、すげぇなあ……)
まさか、彼にそのような技術があったとは。どんなに激昂して荒ぶっている者でも木幡の手にかかれば、みるみるうちにおとなしくなってしまう。
いちばんは“聞き方”、だろうか。木幡は相手の愚痴やら不平不満やらを真正面から受け止めて、細かく丁寧に「うん、うん」と相手の目を見て相槌を打つ。
一方で自分の意見は最後にそっと伝え、なるだけ押し付ける形にならないよう共感を求める疑問形で締めくくる。
これにより、相手は「この人ならばどんな意見も受け止めてくれる」といった安心感をおぼえる。そうして自分の中に溜め込んでいた負の感情をとことん吐き出し、清々しいまでの面持ちで去ってゆくのだ。
つい前月に書庫で目の当たりにした、せっかちで几帳面な姿とは実に程遠い。決して大袈裟ではなく、本当に同一人物かと疑ってしまうレベルの豹変ぶりだ。
また、こんな場面もあった。
特に用事があったわけでも無く、ただ適当に2階の廊下をぶらぶらと歩いていた時のこと。前方の方で何やら言い合う声が聞こえてきた。
「ど、どういうことです!? エリの件を忘れろってのは!」
「いやいや。『忘れろ』とは言ってねぇよ。ただ、もうお前が報復に固執する必要は無いだろって話だよ」
ふと声のする方を見ると、そこにいたのは木幡と金髪の青年だった。派手な蛇柄のシャツという服装からして、青年はおそらく組員か。木幡のことを「兄貴」と呼んでいる点を鑑みるに、彼の弟分のようだ。
「兄貴は平気でいられるんですかい!? もしも自分が俺の立場だったら……愛する女の命を奪った連中に借りを返せる絶好の機会に、何も出来ねぇっていうのに!!」
「うん。悔しい。もしもお前の立場だったら、今すぐ伊勢佐木に飛んでって大暴れしたいって思うだろうよ」けど、それはあくまでも俺たちの個人的な事情だ。組とは関係ない」
「……」
木幡が諭していた青年は、例によって言葉をなくす。ただ、今までの者と違うのは、その瞳が未だ怒りで燃えていたこと。その矛先は木幡ではなく、かつて自分の恋人を殺したという大鷲会に向けられている。
「……ッ!」
唇を真一文字に結んだまま歯を食いしばり、声にならない声で悔しさと共に不服の意を露にした男。そんな彼に、木幡は静かに語りかけた。
「もし、あれだったら。俺のことを殴っていいよ。遠慮は要らねぇ。俺を殴ってお前の気が紛れるんだったら、いくらでも頬を差し出してやる。だから、お前は……」
――バキッ!
生々しくも鈍い音が響き渡る。なんと、木幡が言い終わる前に激昂した青年の拳が彼の左頬をとらえたのである。よもや本当に殴るとは思わなかったので、俺は少し面食らってしまう。
ところが驚くべきことに、当の木幡は至って落ち着いている。わずかに赤く腫れた口元を左手で押さえながら、まっすぐに青年を見据えて言った。
「どうだ? すっきりしたろ? やっぱ、俺たちは極道だもんな。人を殴るのが一番のストレス発散方法だったりしてな。まあ、これで収めてくれや。な? お前の彼女さんを殺した笛吹は、もう村雨組の麻木が落とし前をつけてる。もう、この世に居ねぇんだよ。だからお前も、そんな奴の為に何時までもウジウジするこたあねぇんだ。そうだろ?」
青年は何も答えない。衝動的にパンチを繰り出してしまった己の行動を深く後悔したのか、それとも「兄貴分を殴った」という事実を前に気が動転したのか。本当のところは分からないが、呆然としていることだけ確かだった。
「……」
しばらくの沈黙を挟んだ後、ひどく気の抜けた声で漸く言葉を返される。
「……あ、麻木って、あの組長が連れてきた?」
これに対し、そうだよと大きく頷いた木幡。すぐさま、彼は説明を付け加えた。
「あいつは組長の命令で、先月末に笛吹を弾いたんだ。いがみ合ってる藤島の仕業に見せかけてな。だから、いま起こってる大鷲会のお家騒動は全て組長が裏で糸を引いてることなんだよ」
「えっ……それ、本当ですか?」
「おう。本当だとも。だからこそ、組長はこのまま大鷲会が内輪揉めを続けて兵隊の数を減らしてくれるのを待ってるんだ。で、向こうが弱りきったタイミングを見計らって一気にカチコんで、ぶっ潰そうって計画さ」
「……そうですか。そういうことでしたか」
話を聞いた青年は大きなため息をついた後、ゆっくりと薄ら笑いを浮かべる。そして真上に視線を移して目を閉じると、ボソッと吐き捨てるように呟いた。
「なるほど。俺は今までずっと蚊帳の外、だったのか……」
そう言い終わるや否や彼は木幡に踵を返し、とぼとぼとこちらに向かってきた。ここで立ち聞きしていたことに気づかれると面倒なので、俺は慌てて身を隠す。
「……」
がっくりと肩を落としたまま歩く青年は、こちらに気づかぬまま無言で通り過ぎて行ってしまう。杞憂に終わったが、どうにも気まずかった。
先ほどの会話を聞く限り、俺は彼が自ら落とし前をつける機会を奪ったことになる。こちらとて事情を知らなかったとはいえ、どこかやるせない気持ちになってくる。
(わざわざ、そんなこと教えなくたって良いのに……)
抗争への即時参戦に燃える仲間を諭すのは結構なことだが、少しばかり余計な情報を伝えすぎではないのか。相手を落ち着かせるために自らの頬を殴らせた器量の良さは感心できるものの、後は蛇足だ。
「おい!」
しかし、何か1つでも苦言を呈してやろうと俺が柱の陰から身を乗り出した時には、木幡の姿は既にそこには無かった。
(あれっ!?)
どうやら考え事をしている間に、こちらとは逆の方向に歩いて行ってしまったようだ。以前にも感じたが、恐ろしいほどに足が早い男である。
(ま、いいか……)
物申したいことは確かにある。だが、わざわざ追いかけてまで文句を言ってやりたいかと問われれば決してそうではない。さほど重要なテーマでもないはずだ。特に深くは考えず、忘れることにしたのだった。