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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第6章 氷の夏
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動き出す事態

 菊川が刑務所を出てから、3日後。


 俺は再び、奥の座敷へと招かれた。呼び出しの下っ端曰く、組長から俺に直々の話があるのだという。それも「火急の用」とのこと。また何か、決して簡単ではないミッションを申しつけられるのか。


 不安と期待を半分ずつ抱えて襖を開けると、いつになく険しい顔をした村雨の姿があった。入室早々「さっさと座れ!」と強い口調で腰を下ろすよう促されたので、これは何か良からぬ事態が起きたのだと瞬時に悟った。


(まさか、菊川のことか……?)


 真っ先に浮かんだのは若頭との因縁。


 無駄にプライドが高くて、ナルシスト気味な菊川のこと。自らの行動が原因とはいえ己の顔に傷をつけた俺を快く思っているはずがない。もしも横浜へ戻ってから彼が俺に関するこんな讒言を組長に吹き込んでいたのだとすれば、非常に厄介だ。


 あの後、麻木に襲われて殺されそうになった――。


 件の殴り合いでは俺自身も腹部に軽いケガを負っているので、十分に考えられる展開だ。自分を屈辱的な言葉で煽って暴力で試そうとした若頭の理不尽さに対する怨恨は、犯行に至る動機としては十分自然なものと考えられる。


 しかし、自分はやっていない。そもそも一昨々日に美濃刑務所前で修羅場を演じて以降、菊川とは全く口を聞いていなかった。当然、顔を合わせてもいない。「気まずくなるから」という理由で、出獄祝いの席にも俺だけ呼ばれなかったくらいである。


 だからこそ何を言われても、冷静に無実を主張するのみ。いくら幼馴染みの訴えとはいえ片方の言い分だけを盲信するほど、村雨耀介も愚かではないだろう。そう強く信じて心の準備をし、俺は組長の言葉を待つ。


「涼平。お前に伝えておくことがある。夕食時にしても良かったのだが、あまり他の者には聞かれたくない事情でな。ゆえにこの場を選んだ。良いか? 今からする話は一切、他言無用だ。断じて外で漏らすなよ? お前の心の内に密かにとどめておくように」


「……あ、ああ。わかったよ」


 ところが、数秒の沈黙を挟んだ後に切り出されたのは思いもしない話だった。


「笛吹の件だがな。どうにも、腑に落ちない点がある」


「ええっ!?」


 素っ頓狂な声を上げてしまった俺。どうやら、問罪のために呼び出されたのではないらしい。「若頭が讒言をした」というのは、こちらの早合点からくる勝手な思い込みだったようである。驚きで丸くなった瞳とは裏腹に、自然と安堵感がこみ上げてきた。


(はあ……良かった……)


 だが、いつまでもホッとしている暇は無い。菊川のことでは無かったにせよ、村雨の口調は非常に重々しく、内容の深刻さが伝わってくる。俺は慌てて気持ちを切り替えると、咄嗟に思いついた相槌を打った。


「笛吹が? 腑に落ちない?」


「そうだ」


 大きく頷いた後、村雨は1枚の紙を渡してくる。たしかA4くらいのサイズだったと思う。『鑑定結果 通知書』と太い黒文字で記された下に、何やら数字が六角形らしき図式のイラストと共にずらりと細かく羅列されていた。


「先日、お前が持ち帰ってきた国産米の袋。あれを開科研で調べさせたのだ」


「開科研って……里中がいた、あの病院みたいな所か?」


「ああ。そこにある機器を使えば、袋の中身をじっくり調べられるからな。入っていたのが本当に米なのか。それとも、クスリの粉末を小さな錠剤に固めて米粒を装っていたのか。その真偽を確かめようと思ったのだ」


 曰く、麻薬の粉末を錠剤のように形成し大量に袋詰めして空港から密輸するのは、中国やロシアの売人が世界各国で頻繁に用いている手口なのだという。


 米や小麦粉の袋を使えば見た目で発覚する恐れはないし、ひと粒ひと粒にそれらの匂いのエキスを染み込ませておけば麻薬探知犬の鼻さえも誤魔化せるとのこと。


 村雨はそうした方面に関して少なからず知識があったので、例の袋を廃棄する前に念のため、開化研で鑑定を行わせたというわけだ。


 やはり、後々で「偽物と思って捨てたものが実は本物の麻薬でした」などという展開になっては非常にまずい。実に分かりやすい理由であった。


「なるほどな。で、どうだったんだ?」


「そこに書いてある通りだ」


 俺は用紙に視線を落とす。鑑定の内容としては、袋の中の米粒が麻薬の主成分と一致するか否かを調べるという、ごくごくシンプルなもの。線で区切られた項目に、それらの結果が1つずつ明記されていた。


【アンフェタミン 不一致】


【トロパン誘導体 不一致】


【ピロリジジン誘導体 不一致】


【ピペリジン誘導体 不一致】


【ジアモルヒネ 不一致】


【ベンジルイソキノリン型アルカロイド 不一致】


 大学で有機化学でも専攻しない限りは一生お目にかかることは無いであろう、カタカナ表記の複雑な単語たち。それが一体何を指すのかはもちろん分からなかったが、直後にあった「不一致」の3文字で何となく結果は理解できた。


「……麻薬じゃなかった?」


「ああ。この国で“クスリ”と定義される成分は、何ら検出されなかった。それどころか化学ばけがくに関連する物質ですらない。正真正銘、ただの米だった」


「そっか。じゃあ、やっぱり笛吹は騙されてたのかな」


「いや、そうとも考えづらい」


 少しの間だけ目を閉じて何かを考える仕草を見せた後、村雨は声のトーンをやや低くして言った。


「そもそも、取引は行われていなかった可能性がある」


「えっ? どういうことだよ?」


「腑に落ちんのだ。あの時は食堂に他の者が居たゆえ、言わなかったが……どうにも怪しいと思っていた。何故、笛吹は渡されたシャブが真っ赤な偽物と気づかなかったのか。奴のように悪知恵がはたらく男であれば、先方に代金を支払う前にその場で本物かどうかを確かめるのが自然であろうに。私ならば必ずそうする」


 ましてや、笛吹は藤島会長が御法度としているシノギを平然と行って巧妙に立ち回り、あまつさえ親分の頭越しに組織の勢力を拡大しようとさえ目論むほどの実力者である。


 麻薬を扱う大陸系の業者の中には取引と偽って金だけを奪おうとする不誠実な輩が多いことも当然、若くして組の本部長にまで昇った彼ならば想定しているだろう。


 にもかかわらず、まんまと偽物を買わされたというのはあまりにも不可解――。


 それが村雨の考察だった。言われてみれば、確かにおかしい出来事である。話を聞いた俺は素直に頷いた。


「うん……たしかに。1億も出して仕入れるんだもんな。そりゃ、本物かどうかは確かめるわな。偽物だったら大損しちまうわけだし」


 一方で、別の疑問も浮かび上がってくる。


「でも、だったら何で笛吹はあのホテルにいたんだ? シャブの取引をやってないんだとしたら、わざわざあそこに行く理由がぇよな。あと、はっきりとは覚えてないけど、ホテルから出てくる時に笛吹は『上物が手に入った』みたいなことを舎弟と話してた気がする。それって、自分が持ってるのが本物だと思い込んでたからなんじゃねぇの?」


「うむ。鋭いな」


「えっ?」


 既に、村雨は先回りして考えていたようだ。現時点では全て憶測の範囲内でしかないだろうが、彼の推理がいかなるものか非常に気になった。食い入るように、俺は黙って耳を傾ける。


「麻薬の買い付けを行っていないのに、笛吹がホテルに居た理由。それと、持っているのが本物ではないと分かっているのに、あたかも本物が手に入ったかのように振る舞っていた理由。この2つを軸にして考えると、ある仮説を導き出すことができる。それは……」


「それは?」


「……笛吹は、自らが殺されることを事前に予期していた」


 何も言えなかった。俺の想像のはるか斜め上をいく、あまりにも衝撃的な仮説。一体、どういうことなのか。まるで意味が分からない。


 一瞬、荒唐無稽な冗談を言ったのかとも思えたが、それを語った村雨の表情は真顔。それどころか、眉間にしわを寄せていたので直ぐに本気なのだと分かる。


 もともとユーモアの類は口にしない人ではあるものの、話が話だけに、すんなり受け入れられない。しかし、組長がふざけているようにも到底見えないのだ。


(ってことは、マジで笛吹はわざと殺された!? 何で……?)


 すぐにでも論拠を問いたかったが、思考が混乱しているせいか上手く言葉にならない。そんな俺の頭の中を悟ってか悟らずか、村雨は静かに説明を寄越してきた。


「笛吹が例のホテルで覚醒剤の買い付けを行う、との情報を私が掴んだのは先月の28日の深夜のこと。大鷲会に張りつかせている者から急に連絡があってな。本人が酒の席で自慢気に話していたらしい。今えば、この時から怪しかった」


 いつも裏のシノギを行う際には当日まで内容を秘匿し、自身の派閥の組員はおろか側近にまで詳細な情報を伏せておくという笛吹。それが何故か、今回に限っては3日前に伊勢佐木町のキャバクラで「中国人からシャブを買う」旨を豪語していたという。


 アルコールが入ったせいで気持ちが緩んだとも考えられるが、その店は大鷲会がケツモチを担っているので、話したことは自動的に藤島会長の耳にも入る。取引の件を自ら会長に漏らしてしまっているようなものだ。


「藤島が知れば確実に激怒する。だからこそ、あの老人による粛清を装うには都合の良い機会だと思ったのだが……どうやら、笛吹はその状況を自ら望んで作り出したようだ」


「な、何のために?」


「真意は分からぬ。だが、おそらく奴は己の死と引き換えに何か途方もないことを企んでいたのだろう。命を散らしてでも成し遂げたい理想が笛吹にはあった。それだけは、はっきりと言える」


「……」


 目を丸くしたまま無言で首を傾げた俺だったが、村雨の推理を否定することはできなかった。ふと振り返ってみると、あの日の笛吹の行動にはどうも「わざとらしさ」があったのだ。


 ホテルの地下玄関から出てきた際に、上機嫌で大はしゃぎしていた笛吹。粛清のヒットマンの襲撃を警戒している様子は皆無。秘密裏に行われた取引の帰り道とは思えぬ声のボリュームだった。


 あれでは、まるで「私は藤島会長の意向に背くことをしているのでどうぞ粛清してください!」と言わんばかりではないか。切れ者と名高い笛吹にしては、ずいぶんと軽率で迂闊な行動である。


(だからって、死んで何を成し遂げようってんだ……?)


 自分の中で、少なからぬ違和感が渦巻き始めていた。笛吹の死に関して、腑に落ちない点は確かにある。されど、そのモヤモヤとした疑問を裏付けるだけの確証が揃っているかといえば、決してそうではない。


 村雨が語った話は現時点では憶測に基づいた推論、つまりは推論の範疇を出ないのだ。彼もまた、自分が立てた仮説に今一つ手応えを掴めないようだった。論より証拠。あともう少しばかり、説を補強する材料が欲しいとでもいったところか。


「……」


 そんな時、背後から不意に声がした。


「組長! 失礼いたします!」


 ビクッとして振り向くと、そこには組員が立っていた。入室時に襖を勢いよく開けた点から察するに、何やら村雨に急ぎの報せがあるようだ。


「おい、血相を変えてどうした?」


「大変です。たった今、報告がありまして……大鷲会の中崎が、高島町で若頭の江藤を殺しました」


「何だと!?」


 この日の午前中、横浜市西区高島町2丁目の路上で横浜大鷲会幹部の中崎なかさき圭一けいいちが若頭の江藤えとうまことと鉢合わせして、口論になった末に中崎が手持ちの拳銃で江藤を射殺、そのまま逃走したとのこと。


「中崎といえば、死んだ笛吹の側近ではないか。それが江藤を殺したとなれば……そう遠くないうちに、連中は割れそうだな」


「ええ。既に中森をはじめとする笛吹派7名に、大鷲会本部は絶縁処分を通達したとのことです」


「わかった。急ぎ兵隊を集めよ。こちらもいくさの備えだ!」


「承知いたしました!!」


 事態が、大きく動き出そうとしていた。

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