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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第6章 氷の夏
91/261

菊川塔一郎の登場

 1998年8月3日。


 つい前週に発足した新内閣に新聞大手各紙が世論調査の結果と共に「伸びた蕎麦」なる冷ややかな渾名をつけたこの日、俺は朝から車に揺られていた。


「……」


 同乗者が総じて口を閉じているせいか、聞こえてくるのは四輪の走行音だけ。どういうわけか、車内が恐ろしいほどの緊張に満ちている。胸の鼓動は自然と早鳴ってしまう。


 外の気温が摂氏30℃越えの猛暑日でも、きちんとエアコンが効いているおかげで空気自体はひんやりとしていて涼しい。されど、前述の胸騒ぎのせいで落ち着かなかった。


(っていうか俺、そもそもどうして車に乗ってんだ……?)


 理由を語るには、この日の朝まで時を遡らなくてはならない。村雨組長の昨日の言いつけに従って午前7時に玄関前へ行くなり、車に乗せられたのである。「どこへ行くんだ?」と目的地を尋ねても「着けばわかる」と、本題を濁した返答しか寄越してくれない。


 要は、しばらく黙って乗っていろという事なのだろう。


 気にはなったが、下手にしつこく尋ねて激昂されても面倒なので追及は諦めた。組長と隣り合った後部座席のシートに深くもたれかかり、ただぼんやりと車窓の景色を見つめて静かに時間を潰すしかなかった。


 ちなみに昨日と同じ車の中にいたのは俺と組長、そして運転手の3人。ところが、その組長座乗のセダンの後ろを更に黒色のワンボックスカーが追走してくる。そちらには7人の組員が乗っているらしい。よって、計10人での外出となる。明らかにいつもと違う。


(もしかして、これから殴り込みをかけるのか……!?)


 最初はそう思った。しかし、車は町田JCTから東名高速に入り、そのまま横浜の街を抜け出てしまう。目的地は当初俺が予想していた大鷲会の縄張り、それも鶴見区に建っているという藤島茂夫の本家屋敷ではないようだ。


 少しばかり拍子抜けしてしまったが、そもそも笛吹暗殺の翌日である。大鷲会内の反主流派が本部長の死をどのように受け止めているのかさえ把握できていない状況において、総攻撃をかけるには時期尚早なのかもしれない。


(だとすると、どこへ……?)


 やがて海老名あたりに差し掛かった頃、組長はようやく詳細を明かしてくれた。


「我らが向かっているのは岐阜だ」


「ぎ、岐阜!?」


 さすがに想像もしていなかった地名の登場に、うわずった声で聞き返した俺。まさか県内どころか、首都圏内ですらないとは。どこか特別な場所へ赴くであろうとは高速に乗った時点で何となく察してはいたが、2県を跨いだ先へ行くとなると話が変わってくる。


 言ってしまっては悪いが、岐阜にはそれまで行ったことも無ければ興味を持ったことも無い。「日本列島の真ん中らへんにある」というざっくりとした地理的情報を辛うじて認識していたくらいで、俺にとっては完全に未開の地だった。


「でも、何でわざわざ岐阜くんだりまで?」


「出獄する者がいてな。それを迎えに行ってやるのだ」


 どうやら目的地は岐阜にある監獄、つまりは刑務所らしい。そこから本日付けで満期出所してくるという構成員の“出迎え”。それこそが、今回の長旅の趣旨だった。組長を含めた大人数で行くだけあって、組織の中でも相当な立場の人物なのだとすぐに分かった。


「その者の名は菊川きくかわ塔一郎とういちろう。お前にはまだ話していなかったが、この組の若頭だ。芹沢と同じく、私の懐刀だ。これまでに3人で、いったいどれほどの修羅場を潜り抜けてきたことか」


「若頭ねぇ……じゃあ、あんたとは長いんだな」


「もちろんだ。菊川とはこの世界に入るずっと前の、幼い頃からの付き合いになる。かれこれ20年は数えるか。私が渡世で盃を交わした者の中では、奴がいちばん古い」


 そんな組長の最大の腹心にして、幼馴染の菊川。彼の出所に俺を敢えて同行させる理由を村雨は語らなかったが、どことなく見当がつく。今後の事を見据えて、可能な限り早い段階で俺を組のナンバー2に紹介しておきたいのだろう。


 読む人によっては自意識過剰と嫌悪感を抱かれることは百も承知だが、当時はそれだけ自分が組長に目をかけられているとの覚えがあった。何せ、俺は正式加入前にして既に「敵の大幹部の首を獲る」という武功を挙げているのだから。


(でも、その菊川ってのはどんな奴なのかな?)


 残虐魔王・村雨耀介の右腕というからには、きっと大きな器量を備えた極道のはず。俺がこれまで村雨組で遭遇したのは嘉瀬といい里中といい小物が多かったので、自然とその人柄の如何いかんが気になってしまう。


 未だ会ったことが無い若頭の姿について色々と考えをめぐらせながら次々と移り変わる車の窓の外を眺め続けること、実に4時間34分。


 ついに、車が停まった。


「……ここか」


 のどかな田園風景の中に物々しく佇む、コンクリート製の高い塀で周囲をぐるりと囲まれた施設。広大な敷地内には3階建ての建物が何棟か並んでいて、一見すると団地のようにも思えなくもない。


 しかし、敷地内を睨みつけるかのごとくそびえ立つ鉄の監視台とサーチライトが視界に入った途端、ここが何のための場所なのかを改めて強く認識させられる。


 美濃刑務所――。


 岐阜県内の某所にある法務省所管の刑務所で、ここに収容されている受刑者は主に犯罪傾向の進んでいる連中らしく、再犯で長期刑を受けた者や暴力団その他犯罪組織の構成員が3分の2以上を占めるとのこと。


 全国各地から選りすぐりのワルが集まる、まさに「この世の地獄」と言って良いかもしれない。そんなところに菊川は3年7か月もの間、服役していたそうだ。


 当時の俺は刑法はおろか法律全般に関して全くもって無知だったので、3年という刑期が一体どの犯罪に該当するかいまいちピンと来なかった。


(どれくらいの重さなんだろ。何でパクられたんだ?)


 菊川はヤクザの若頭なので、そうそう下手な理由では捕まらないはず。となると、さしずめシノギに関連して下手を打ってしまったのだろうか。そんなことを考えていると、隣の村雨が口を開く。


「涼平、降りるぞ。車酔いはしてないな?」


「あ、うん。大丈夫」


「ならば良い。あと、菊川が何のとがで獄に繋がれていたかは決して尋ねぬことだ。せっかく禊を終えたというのに、出獄早々に蒸し返されては流石に不憫だからな。その件については、後で個人的に教えてやる。ゆえに、本日は笑って出迎えることだけに心を注ぐように。可能な限り、明るく振る舞うのだ。分かったな?」


 さっそく、釘を刺されてしまった俺。15歳といえば他人の醜聞やらゴシップに最も興味を抱いてしまう年頃なので、その辺は村雨もよく分かっているようである。


「あ、ああ。もちろん。わかったよ……」


「よし。では、行くとするか」


 村雨に続いて、俺も車のドアを開けた。すると、真夏の熱気に包まれた体がみるみるうちに熱くなってゆく。レーザービームのような陽光も恐ろしいほどに眩しい。


(うわっ! 何だ、こりゃ……!?)


 さすがは、四方を山々に囲まれた盆地の岐阜県。猛烈な暑さである。夏がこんなにも照り付ける反面冬が極寒とあれば、まさに罪人たちを痛めつける刑務所として絶好の立地条件ではないか。好ましくない喩えだが、そう言われると納得してしまう。


 ちなみに、当日の東海地方の気温は35℃にも達していたらしい。ここまで来ると、もはや横浜の比ではない。それまでずっとクーラーで冷えた車の中にいたことも手伝ってか、ただ立っているだけでもじんわりと汗が出そうになるほどだった。


 出来ることなら、今すぐにでも涼しい車の中に飛び込みたい。だが、その本音を表に出すことは絶対に避ける必要がある。村雨に「明るく振る舞う」よう申しつけられた以上、それに相反するような言動は御法度。当人の体調の良し悪しなど、組長の命令の前では何の言い訳にもならないのだ。


(か、帰りてぇ……)


 そんな気持ちをグッと押し殺しつつ、俺は村雨たちの後を懸命について行った。思わず愚痴をこぼしてしまいそうな心に蓋をして、刑務所脇の歩道を外塀づたいにひたすら歩いていく。


 すると、10メートルほど進んだところで大きなドアのような所に着いた。刑務所の通用口、俗称「釈放扉」。出所する者は必ずここを通るらしく、謂わば出迎えの定番スポットだ。


 愛用の金の懐中時計に目をやった村雨が、静かに呟く。


「さて。間に合ったな」


 時刻は午後12時58分。事前に菊川から手紙で伝えられていた満期釈放の時刻は13時ちょうどであり、俺たちはギリギリの到着となった。


 無論、定刻より早いので扉周辺に人の姿は無し。常識的に考えれば至極当然のことであるが、この炎天下であと2分も時を潰さなくてはならないのは流石に気が滅入るというもの。


(2分が長く感じるぜ。暑すぎる)


 と言えども、耐えるのが自分の役目。俺は居並んだ組員たちと一緒に、その時が来るのを静かに待ち続ける。途中、村雨が大きな扇子をあおいで細やかな涼をとり始めたので、自分も団扇の1つくらいは用意して来れば良かったと後悔した。最も、この暑さの中では気休め程度にしかならないだろうが。


 ――ガチャン!


 その時だった。不意に鈍い金属音が聞こえるや否や、視線をあげた先からゾロゾロと2人の男が出てくる。片方は制帽に制服を纏った姿で、もう片方はノーネクタイの背広に身を包んでいた。


「じゃあな、菊川。もう戻ってくるんじゃないぞと言いたいところだが、お前の場合はスジモンだからな。2度目、3度目があるかもしれん」


「あははっ! 大丈夫ですよ。おかげさまで、だいぶ反省させられましたし。今じゃあ、すっかり善良な一市民ですよ」


「黙れ。何が善良だ。満期出所願いを出しておきながら、よく言う。お前のような奴に反省もクソもあったもんじゃないだろう……まあ、とにかく。今日で出所なんだ。これからは真っ当な人生を歩めよ」


「はいはい。どうも、お世話になりました!」


 眉間にしわを寄せた制服の中年男は最後に居並んだ俺たちを苦々しい目で一瞥した後、勢いよく扉を閉めてしまった。胸のあたりに『法務省 名古屋矯正管区』と記された名札が見えたので、おそらくあれは刑務官だと思う。


 一方、会話において敬語を使っていたスーツの男。茶色い革製の鞄を左手に下げた彼は、俺たちの方に視線をおくるとゆっくり歩み寄ってきた。


「やあ! 待たせたね!」


 その表情は満面の笑み。出所したての元受刑者らしく、久々に取り戻した自由に心の底から浸っている様子が見て取れた。幾年ぶりかの娑婆シャバの空気を体全体で味わっている、とでも言ったところか。


「おう。戻ったな。前に比べて、少し瘦せたのではないか」


「そりゃあ、もちろん。君は僕が3年間、いったいどういう生活を送っていたと思っているんだい? 朝・昼・夕の3食とも野菜中心で、週に4度は嫌でも運動させられるとあっては誰だって痩せるよ」


「フフッ。ならば、無理もないか」


「うん。無理もないよ」


 組長と笑顔で語らった後、ガッチリ握手を交わした細身の男――。


 そう、彼こそが村雨耀介の最大の腹心にして村雨組の若頭・菊川塔一郎であった。


(あれが……)


 菊川の風貌は俺がそれまでに出会ってきた極道たちの中でも、ひと際異彩を放っていた。彼が全身から醸し出す雰囲気からは、アウトロー特有の「男らしさ」がまるで感じられないのだ。


 顔の輪郭は全体的に淡く、おまけに彫りも浅い。大きな瞳と薄い唇、それから睫毛まつげは一般的な男性よりも長め。どこか中世的な顔立ちをした美青年だった。


 一見すると、とてもヤクザとは思えない。肩のあたりまで伸びたボサボサ気味の黒髪のせいか、物静かで穏やかな優男といった印象さえも受けてしまう。


 ただ、こちらにゆっくりと歩み寄ってきた彼の瞳の奥を覗き込んだ瞬間、俺は息を呑んでしまった。


(あっ!!)


 緩んだ口角や頬とは対照的に、氷のように冷たい目元。そこに糸のように細くてピクリとも動かぬ眉が加わることで、凄まじい視線のプレッシャーを放っているのだ。


 この眼差しは明らかにカタギのものではない。きっと今までに数えきれないほどの人間を自らの手で殺してきたであろう、狂気に満ちあふれた極道者の目だ。


 彼から受ける威圧感は尋常ではない。自分の中で沸々と恐怖が湧き起こってくる。俺が無言のまま気圧されてしまうのは、村雨組長と初めて会った日以来だった。


 何度も言うが、その姿を肉眼で捉えたのはこの日が初めて。今まで何度か「村雨組の菊川」という名前だけは聞いたことがあったものの、まさかここまで凄みのある人物とは思ってもいなかった。


 やはり、組長が「自分と肩を並べる存在」と認める男だけの事はある。伊達に20年以上も一緒に修羅場を潜ってきたわけではないようだ。


 若頭という立場にもかかわらず、親分である村雨と対等な接し方をしている点もさることながら、相当な実力の持ち主なのだと一目で分かった。


(ヤバいな……)


 一方、村雨は俺を差し置いて菊川に話を振る。


「ここ最近は面会にも行けず、悪かったな」


「いやいや。こちらは別に構わないよ。岐阜ここと横浜とでは、あまりにも離れすぎているからね。それに組長も忙しかったんでしょ? 私がいない3年の間に、斯波ともだいぶ事を構えたとか。うちの者も大勢死んだって聞いたけど」


「……色々あってな。その件に関しては後ほど、ゆっくり話すとしよう」


「ああ。頼むよ。刑務所の中にいては、得られる情報に限りがあるからねぇ。もう、外で何が起きていたのかさっぱり分からない。まさに浦島太郎にでもなった気分だ。ハハッ」


 端麗な顔をくしゃりと歪めて、菊川は軽快に笑い飛ばした。そんな若頭に対し、居並んだ組員たちも次々と頭を下げて労をねぎらう。


「カシラ、この度はお勤めご苦労様でした!!」


 任侠映画にもたびたび出てくる、非常にベタな光景。だいぶ前に観た昭和のドラマにおける出所シーンとあまりにも似ていたので、俺は思わず吹き出しそうになってしまった。


 連中の動作の中で唯一フィクションとは違った点を挙げるとするならば、皆膝を中腰の姿勢にせずに真っ直ぐ立礼をしていたところだろうか。


 当の本人は苦笑していた。


「おいおい。やめたまえ。お勤めだなんて大袈裟な」


「カシラ、本当にお疲れさまでした!!」


「いや、だから。それは違うって」


「お帰りなさいませ!!」


 よほど若頭のことを慕っているのか。本人がいくら突っ込んでも、組員たちは止めてくれない。それどころか周りを取り囲み、胴上げまでしてしまいそうな勢いだった。


 当初は困惑していた菊川もやがて少し諦めたように「はいはい」と呟くと、彼らの肩を1人ずつポンポンと叩いてようやく元の姿勢に戻していった。


「まったく、困ったものだよ。こんなに連れて来なくても良かったのに……それより、あれだ。前に手紙で書いた“例のもの”は用意してくれた?」


 ため息混じりに、村雨は大きく頷く。


「お前が満足するかは分からんがな。ひとまず、言われた通りに揃えておいた。放免の祝いの席にでも味わえば良かろう」


「おお! そりゃあ楽しみだ。いやあ、3年も入ってたからさあ。ひどくご無沙汰なんだよねぇ」


「相変わらずだな。まあ、私は関知せぬゆえ。好きに致して構わん。ただし、節度は弁えろよ。次期に大鷲会との戦争も始まるのだ。お前が再び捕まるようなことになっては困るぞ」


「大丈夫だって! 今度は気をつけるから。ああ、そんなことより早くぶちかましたい。もう、待ちきれないよぉ……」


 子供のように目を輝かせた菊川。彼が切望している“例のもの”とは、いったい何だろう。どうにも引っかかった。やや呆れ気味な村雨の反応から、その正体が良からぬものであることは間違いなさそうだ。


(もしかして出所早々、シャブでも吸うつもりか……?)


 だとすると流石に人として不体裁が過ぎるような気もしたが、1度でも手を出すと忽ち虜になってしまうという覚醒剤の依存性を考えれば仕方のない話なのかもしれない。むしろ、中毒者にとって3年ものブランクは辛いだろう――。


 そんな仮説を基にあれこれ考察を繰り広げていると、菊川が言った。


「あれ。そういえば、見かけない顔がいるね」


 不意に、視線が俺の方に向く。菊川は眉に思いきりしわを寄せていた。そして、おそらくは気づいていたはずなのに、わざとらしい声で村雨に問う。


「例の新入り? 幹部が3人も欠ける原因をつくった暴れん坊の」


 きっと、俺のことは出獄前に先んじて手紙で伝えられていたのだろう。村雨がどこまで説明していたのかは分からないが、里中と嘉瀬の件は既に知っているようだ。ゆえに組を引っ掻き回した厄介者である俺に対して、怪訝な目を向けたというところか。


 里中が斯波一家に内通していたくだりを抜きにしても、俺の迂闊な行動が原因で舎弟頭・若頭補佐・若頭代行の3役が揃って消える結果を招いたのは事実だ。そこに言い訳を並べ立てる余地など無い。


「ああ。あれは……」


 他人の口から紹介されるのも格好悪く感じたので、俺はゴクリと唾を飲み込んでから1歩前に出て、村雨の言葉を遮る形で淡々と名乗りを挟んだ。


「初めましてだな。俺は麻木。麻木涼平。あんたも名前くらいは知ってんだろ? この夏から村雨さんのとこで世話になってんだ。あと、まだヤクザじゃねぇから。いろいろあると思うけど、そこんところ頼むわ」


 菊川は大きな歩幅で俺との距離を詰めると、静かに睨みを利かせてくる。間近で接するとより背が高く見えるが、こちらとて身長は180cm以上あるので負けてはいない。だが、菊川は体格のことなどは一瞬で忘れてしまうほどの凄みで静かに声を放った。


「……ずいぶんなご挨拶じゃないか。新入りクン」


「っ!!」


 たった二言だけ。短い台詞ながら、俺に戦慄をおぼえさせるには十分なインパクトを備えていた。思考を通り越して、精神そのものが揺れ動かされるような感覚。それにあの氷のような眼差しが加わるとなれば、怖さは十倍増しだ。


 ふと俺の脳裏をよぎったのは、村雨組長に初めて会った夜の光景。あの時は恐怖で手も足も出なかった。それと寸分変わらぬ脅威と、自分は再び対峙しているのだ。


 またもや口をつぐんでしまう俺に、菊川の言葉が飛んでくる。


「ねぇ、何で黙ってるの? もしもーし」


「……」


「あれれー? もしかして、怖くなっちゃった? ププッ。格好悪いねぇ。さっきはあれだけ威勢が良かったのに、1分も経たないうちにこのザマかぁ」


「……」


 こちらが返答に窮していると、まさに「隙あり」とばかりに煽り文句をぶつけてくる菊川。それはさながらボクシングの連続パンチ。相手に受け流す間を一切与えぬほどの早口で、罵詈雑言の数々をまくし立てる。


 ごく一般的なヤクザのように大声で啖呵を切るわけでもなく、口調自体は穏やかで声のトーンも低め。だが、彼の発するセンテンスの1つ1つが鋭い刃のように心に突き刺さっていき、戦意と気力を根こそぎ奪っていくのだ。


「ま、無理もないわな。見るからにヘタレっぽい顔してるし」


「……」


「ほらほらー。新入りクン。何とか言ってよぉ。ダンマリは無いじゃんか。本職に怒られて怖いのは分かるけどさぁ。とりあえず返事をしようよ、ねぇ。ねぇってば!」


 どうやら、村雨と菊川はまったく同じ素質を持つようだ。特に暴れたり拳を振るったりせずとも、目元から醸し出す雰囲気もしくは言葉の力だけで相手を制圧できてしまう恐ろしさ。まさに極道らしい圧倒的な天性の貫禄といえよう。


 しかし、屈してなるものか。ここですくみ上がろうものなら、俺は侮られてしまう。「ビビった男」として金輪際、菊川塔一郎から見下され続けるのである。それだけはまっぴら御免だ。


 やるなら、今しかない。ここで何も返せなければ、きっと永遠に後悔する。確かな直感に拳をギュッと固めるや否や、俺の体は衝動的に動いていた。


 ――バキッ!!


 生々しい音が響く。


「ぐうっ!?」


 ほんの一瞬の出来事だった。菊川は驚きと困惑が混じったうめき声を上げ、両手で額を押さえてそのまま地面に右ひざを着く。


 周囲が唖然とする中、俺は崩れ落ちた相手を見据えて静かに言った。


「お前、いきなり何をする……」


「ご要望の通り、くれてやったぜ。若頭さんよ。こいつが俺の返事だ。別に『怖い』なんて思っちゃいねぇさ。ただ、あんたの減らず口がキモすぎてドン引きしてただけだ」


「何だと?」


 俺が菊川に浴びせたのは右のフック。こちらを罵ることに気を取られ、完全に油断していた隙を突かせてもらったのだ。おかげで思いっきり拳を振りぬくことができた。


 言うまでもなくクリーンヒット。反応と回避行動が遅れ、俺の拳撃を丸ごと食らう羽目になった菊川の唇の左端は赤紫色に変色している。


 無論、そこで終わる相手ではなかった。ポタポタと滴り落ちる血を手の甲で拭いながら、菊川はゆっくりと立ちあがる。そして両眼を大きく開いて、物凄い形相で俺を睨みつけてきた。


「最低限の礼儀も知らない奴だとは思っていたが、まさかここまでとはなぁ。僕の顔に傷をつけるとは良い度胸だ……舐めるなよ、このガキがぁーっ!!」


 ――ドスッ。


 今度は鈍い音がしたかと思えば、腹のあたりに強い衝撃が走っていた。


「うおっ!」


 何が起こったか、2秒ほど遅れて状況を理解する。どうやら俺のみぞおちに菊川の拳が叩き込まれたようだ。とてつもない速さで繰り出されたボディーブロー。予想もしていなかったので当然、避けられなかった。


「ううっ!!」


 数秒遅れでジワジワと痛みが広がっていく。腹部に向けたパンチの厄介な点は、まともに立ってはいられないほどのダメージがゆっくりと効いてくるところにある。


 どうにか耐えてやろうと腹に力を込めて踏ん張った俺だったが、急所を打たれては成す術が無い。次第に激しくなる痛みを他所へ逃すことができず、前かがみの体勢になってしまう。


(クソっ! 俺の負けかよ……)


 どんどん奪われていく気力。みぞおちを突くという攻撃が、これほどまでに痛いとは夢にも思わなかった。もう戦闘態勢を維持することは出来ないだろう。


 だが、このままダウンするのは俺じゃない。腹パンを正面から食らってしまったが、まだ勝負は続いている。どうせ痛みで倒れるならば、最後に1発くらいはぶちかましてやりたい。


「クソったれがぁぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!!」


 ありったけの声で叫ぶと、俺は痛みに支配されてゆく体に再び魂を入れる。そして体を左に傾け、左脚を軸に大きくもう片方の脚を高く振った。


 ――バキッ!


 聞こえてきたのは快音。


「ぐおっ!?」


 俺が土壇場で最後の力を振り絞って放った渾身のハイキックが側頭部に命中し、菊川は左右に大きくふらつきながら背後に倒れた。先ほどの痛みが残っていた俺もまた、仰向けの姿勢で地面に腰を落としてしまった。


 ――ドサッ。


 まさに、両者ノックアウト。相打ちになった。俺も菊川も大きく息を切らし、大きく目を見開いて相手を睨みつける。


「はあ……はあ……」


 頭を蹴られたことで三半規管に大きな衝撃が加わったのか、菊川は額を押さえて何度もまばたきをしていた。されど、その瞳の奥では闘志がメラメラと燃え続けており、その視線は俺に真っ直ぐ浴びせられる。


「……ふっ……やるじゃないか……出所したてで体がなまっていたとはいえ、この僕をダウンさせるなんて……いいねぇ。久々に思い出したよ。これが喧嘩の面白さだ……君はなかなか、骨のある男のようだね……」


 俺も負けじと言い返す。


「う、うるせぇ……テメェが雑魚ざこだっただけだ……」


 こちらの返答を受けた菊川は、ニヤリと笑った。


「その雑魚に君は倒されたわけだが……?」


「黙れ……次は必ずぶっ倒してやる……必ずだ……」


「ほう! まだやる気とはねぇ……いいよ。もう1回やろう……僕も久々に本気になってきた!」


「いいじゃねぇか……望む……ところだ……」


 頭を押さえたままフラフラと立ち上がった若頭に続いて、俺もゆっくり体を起こす。腹部の痛みは完全に消えたわけではないが、第2ラウンドができる分には回復してきた。一方の菊川も、頭部へのダメージが少し残っているようである。


「……」


 直立したまま無言で睨み合う俺たち。お互いに体力を消耗しているため、すぐに拳を振るったり体をぶつけたりはしない。できるだけ距離をとり、相手の出方をうかがう。


 俺は菊川が飛びかかってきたら即座に身をかわして反撃できるよう、必死で気を配った。菊川も俺の一挙一動を目で追いかけ、同様にカウンターを狙っているようだった。


「どうした……新入りクン……? かかってきなよ……」


「テメェこそ、かかってきやがれ……俺はいつでも良いぜ……」


「ほら。早くきてよ……あれ、もしかしてビビっちゃった?」


「そいつはこっちの台詞だ……」


 互いに自分からは仕掛けないということは、それだけ一向に勝負が始まらないということ。俺たちは睨み合ったまま、直線上に真正面で対峙し続ける。


「……」


 周囲の組員たちが固唾を飲んで見守る中、静かに時だけが流れてゆく。このような緊張に包まれていては他の一切が些末事に感じるもので、カンカン照りの炎天下も、額を伝う汗も、地面に敷かれたアスファルトの熱さも、まるで気にならない。


 ただ、目も前の相手を倒したい。その欲動だけに心身を支配されていたと思う。向こうがどう考えていたかは分からないが、たぶん同じ思いだったのではないだろうか。


「……君が来ないなら、いい加減こっちから仕掛けるよ?」


「おう。いつでもいいぜ……さっさと来やがれ……」


 睨み合いに痺れを切らした菊川が俺に向かって1歩を踏み出した、その時。


「そこまでだ!」


 聞き覚えのある、低くて太い声が辺りに響く。声の主は村雨。彼は俺たちの間に割って入るように歩みを進めると、双方に視線を向けず静かに言った。


「もう、気は済んだであろう……帰るぞ」


 それまで張りつめていた空気感が、一瞬で変わった。組長に言われては従うほかない。菊川は無言で構えを解く。「気が済んだ」の意味が分からなかったが、俺も渋々相手に合わせることにした。


「涼平。私と菊川は名古屋の煌王会本家へ挨拶に赴く用事がある。ゆえに、お前はあの車で先に横浜へ帰っておれ」


「あ……うん……」


 往路に乗ってきたセダンではなく、随行の者たちと共にワンボックスカーで帰路に就くよう指示した村雨。出所後に本家へ挨拶に行くのは極道の慣習らしいが、菊川と一緒に帰らなくて良いのは非常にありがたい。俺は何も聞かず、素直に言う通りにした。


「とにかく、お前は気を鎮めろ。良いな?」


 その後、復路の車の中でとある組員から聞かされた話だが、村雨組長は全てを知っていたらしい。菊川が俺に喧嘩を売り、こちらが激昂して殴り合いになる展開まで予め織り込み済みだったとのこと。


「う、嘘だろ……」


 衝撃の事実に呆然となる俺に、その組員は言った。


「菊川のカシラは出所の前から、お前のことを組長から手紙で伝えられていたんだ。それで興味を持ったらしい。『どういう奴なのか』『どれほど腕が立つのか』って。だから、カシラが自らの手でお前を試す機会を組長が作ったんだよ」


「じゃあ、俺のことをヘタレだの格好悪いだのと煽ったのも、あれは全部演技だって言うのか!?」


「そうだ。ああやって挑発すれば、喧嘩っ早いお前は確実に乗ってくるからな。カシラなりに言葉が過ぎた部分はあるだろうが、ほとんど芝居みてぇなもんだよ」


 道理で、誰も制止しなかったわけである。普通、組の若頭と下っ端にもなっていない部外者の少年が殴り合っていたら、組員たちはきっと割って入るだろうに。


 考えてみれば確かに不自然な状況ではあったが、喧嘩のアドレナリンのせいで全く気がつかなかったのだ。妙な納得をおぼえると同時に、大きなため息をついてしまった。


「なんだよ……」


 全ては村雨が仕組んだ事だったとは。そういえば、5月頃にもこういうシチュエーションがあった気がする。またもや、俺は何も知らされずに試されたというわけだ。


 勿論、決して良い気はしない。けれども、承服せざるを得ないだろう。極道社会に足を踏み入れれば、きっとこの理不尽が日常茶飯事になるのだから。


(……なんか、すっげえ疲れた)


 やり場のない気持ちを胸の中で燻ぶらせたまま、俺は横浜へと戻る車に揺られてゆく。頭の中にあったのは「これから菊川塔一郎と上手くやっていけるのか」という不安ではなく、良くも悪くも「自分がひとつ渡世のことわりをおぼえた」。


 ただ、その実感であった。

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