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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第6章 氷の夏
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帰り道

 いったい、どれほどの勢いで駆け抜けただろうか。


「はあ……はあ……」


 駐車場を飛び出してから2つ目の交差点を右折して、さらにひたすら真っ直ぐ進んだ辺りで俺の足は止まった。大きく乱れた呼吸を元に戻しつつ、俺は電柱の番号表示に目をやった。


【横浜市中区扇町1丁目】


 ホテルのある長者町からは、だいぶ離れたようだ。正面にはフェンスが立っていて行き止まり。その向こうに見えるのは京浜東北線の線路。どうやら、走っているうちに小路へ入り込んでしまったらしい。


(どこへ行けば……?)


 流石に線路を横切るわけにはいかないので、これ以上の直進は不可能。かと言って左の道を進めば、再び大通りに出てしまう。ゆえに俺はやむなく右に曲がり、車止めの間を抜けて「扇町公園」と記された区画の中へと入っていった。


 歩きながら思い出すのは、つい10分ほど前の出来事。


 俺は極秘の取引を終えたばかりの笛吹を襲撃し、毒が仕込まれた氷のナイフを背中に突き刺した上、大量に買い付けたとみられる覚醒剤を鞄ごと持ち去ってきた。


 現場からは全力で走って逃亡し、ここに至る。麻薬強奪の件は蛇足だったかもしれないが、ひとまず任務達成。後はナイフの毒が上手く作用してくれることを願うばかりである。


「ふう……終わった……」


 独り言と共にホッと安堵の息を漏らした俺は、公園右隅のベンチの所まで行ってゆっくりと腰を下ろす。肩の荷がひとつ降りたというか、それまで重くのしかかっていたプレッシャーから解放されたかのような心地であった。


(……とりあえず、こいつを捨てるか)


 ホテルを出る時に激しく降っていた真夏の雨は、既に止んでいる。公園内に人影は見当たらないものの万が一人が通った際に怪しまれてもいけないので、俺はレインコートを脱ぎ、事前に用意した白いビニール袋の中へ放り込んだ。


 次に軍手も外して、同じく袋にしまう。現場にいる間はずっと着けていたので、すっかり汗が染み込んでしまっていた。心なしか、脱いだ手もひんやりと涼しく感じる。


 それだけ、地下駐車場という閉鎖空間が暑くて過酷だったということだろう。喉もひどく乾いている。


(水が飲みてぇなあ)


 周辺をぐるりと見渡してみると、幸いにも敷地内に水道を見つけることができた。さすがは公園。すぐさま駆け寄って蛇口をひねり、俺は念願の水分をガブガブと口の中に流し入れる。


「ああー! 生き返る!」


 いつもは苦くて仕方のないカルキまみれの水道水も、この時ばかりは不意に声が出てしまうほどに絶品。やはり、人は水を飲まなければ生きてはいけないらしい。決して大袈裟ではなく、それまで生きてきた中で最も水を美味いと思えた瞬間だった。


(さて。これからどうしようかな……?)


 村雨には、事が済んだら現場から出来るだけ離れて電話をかけるように言われている。ただし、警察に回線を傍受される可能性があるので、必ず公衆電話を使えとの条件付き。


 ひとまず園内をぐるりと見渡してみるが、それらしい緑色の物体は見当たらない。やはり、どこか置いてあるスポットへ赴く必要があるようだ。


(ったく。めんどくせえなあ)


 軽い脱水を引き起こしたせいもあってか、俺の体にはいつも以上に疲労が溜まっていた。そこから更に歩くのは些か面倒だが、組長の命令とあらば従わざるを得ない。


 リュックを背負い直し、バッグを左手に抱え、俺は再び移動を開始した。最も、当時は携帯を持っていなかったので、組長からのお達しが無くとも電話ボックスを探すほか無かったのだが。


 そんな重たい足取りで歩いていると、多くの車が行き交う道路に出た。中区扇町から片倉町を結ぶ新横浜街道。歩道にも沢山の人の影が見える。


(大通りか……)


 少し気が引けた。時刻がちょうど午後7時をまわったばかりとあって、これから家路へと向かう人や夜の遊びに繰り出す人の群れで溢れていたのだ。


 大多数の人間に顔を見られるのはまずい――。


 きっと俺でなくとも、何か後ろめたい出来事からの帰り道をゆく人は誰もがそう思うはずだ。軽い窃盗や強盗ならともかく、ましてや俺はすぐ近くのホテルで起こった殺人事件の犯人。


 正体が露見すれば、忽ちとんでもない騒ぎに発展するだろう。ゆえに慎重な行動が求められる。無論、警官に出くわして職務質問を受けるなどもっての外だ。


(っていうか、ここは敵のシマじゃねぇか!!)


 任務完了後の余韻にかまけてすっかり忘れていたが、そもそも扇町周辺は横浜大鷲会の領地。地回りの組員がうろついている可能性があるのだ。その事実を急に思い出し、胸がキュッと締め付けられる思いがした。


 こちらはつい先ほど向こうの本部長を殺してきたばかりなので、万が一バッタリ遭遇してしまえば警察より厄介だ。笛吹の死が既に連中の知る所となっているのかは不明だが、用心するに越したことは無い。


 村雨組の代紋を引っ下げて歩くのとは状況が違うが、それでも迂闊に敵の縄張りのメインストリートを闊歩するのは避けた方が良いに決まっている。


 だが、他に通れる抜け道や人目につかぬ小路を知っているわけでもない。


 俺はしばらく足を止め、思案に暮れた。俗に聞く慣用句の「千思万考」とは、きっとこういう行為のことを指すのだろう。これまでの経験やら悪知恵やらを総動員し、必死で脳内シミュレーションを繰り返す。


 どうすれば、警察や大鷲会に見つからずに済むのか。その一点だけを見据えて熟慮に熟慮を重ねた末、ようやく自分なりの結論を導き出すに至った。


(よし。行くか)


 進路を変えず、真っ直ぐに歩み出す。そう。俺が辿り着いた結論とは即ち「このまま大通りを歩いて公衆電話を探す」。実にシンプルなものだった。


 一見すると危険かつ、博打じみた行動に思えるだろう。


 しかし、人通りが多いということはそれだけ人混みの中に紛れやすいということ。横浜は日本有数の観光地でもあるので、大きな荷物を抱えたカタギの旅行者を装えばさほど不自然でもないと考えたのだ。


 また、警察は主に閑静な場所をパトロールする傾向がある。泥棒や不審者が好むのは大抵、人通りの少ない道。だからこそ、警邏のポリ公はそうした場所を優先的に巡回するだろうと踏んだのである。


 俺自身川崎に住んでいた中3の頃、深夜の公園でタバコを吸っていた際に警官と出くわし、補導されてしまった思い出がある。彼らの職務質問を回避するという視点でも、大通りを行くのが最適解だった。


(……うん。やっぱりだ)


 結果、俺はヤクザと警察の両方に見つかることなく、賑わう夜の横浜街道を無事に通り抜けることが出来た。


 途中、客引きのティッシュ配りの女に執拗に絡まれたり、酔っ払ったサラリーマンらしきおっちゃんに肩をぶつけられたりといったハプニングに見舞われたが、それらを除けば全て想定の通り。


 走ればあっという間の50m弱の距離がいつもよりずっと長く感じたものの、交差点に差し掛かるまでどうにか歩ききった。疲労に緊張が加わっていた所為か、横断歩道を渡り終える頃には完全にヘトヘトだった。


「ふう……」


 体力には自信があるはずの俺だが、この日ばかりはスタミナ切れ。流石に激しく消耗していた。おまけに空腹。崩れ落ちそうな勢いで、その場にしゃがみこんでしまう。


(今夜はもう限界だな……)


 その時。ふと視線を上げると、遠くの看板が目に付いた。


(ん、あれって……コンビニか!?)


 車道を挟んだ斜向かい側にあったのは『エイトウェルブ』の店舗。何という僥倖だろうか。コンビニならば公衆電話が備え付けられているし、飲み物も食べ物も豊富に手に入る。これから延々と電話ボックスを探し続ける手間も省けるではないか。


 そこから村雨組に電話をかけて迎えの車を寄越してもらい、着くまでの間にハンバーガーでもおにぎりでも何らかの軽食を買って、軽く腹を満たせれば良い――。


 もはや、行くしかない。行かない選択など有り得ない。俺は疲れた体に鞭を入れて立ち上がると、全力で店へと向かう。そして運よく入り口付近にあった黄緑色の電話機に100円玉を投入すると、俺は事前に教えられた番号を入力しつつ受話器を手に取った。


 電話に出たのは、女性の声だった。


『はい。村雨でございます』


「あ、もしもし。俺。麻木だけど」


『麻木さん? あの、失礼ですが、下のお名前は?』


 秋元とも、また違う。完全に知らない声だ。


「えっ! あ、ああ……」


 まさか女性が電話番をやっているとは思わなかったので、俺は少し戸惑いをおぼえた。一体いつの間に、組長は受付嬢を雇ったのだろう。


 たしか、普段は下っ端の組員が交代で電話を受けていた気がする。そんないつもとは違う状況にどこか違和感を抱きながらも、俺は落ち着いて問いに答えた。


「……涼平だけど」


『麻木涼平さん、でございますね。ご用件は?』


「終わった!」


『え?』


 俺の滑舌が悪かったのか、聞き返されてしまった。公衆電話からの発信なので、雑音も少し混じるのかもしれない。今度は少し、ゆっくりと声を出して言ってみた。


「終わった」


『あのう、いま何て?』


「終わった!」


『はい?』


 どうして通じないのか。またもや聞き返された苛立ちをグッとこらえ、俺はできるだけ冷静に再度伝達を試みる。


「終わった。終わったんだよ」


『失礼ですが、麻木様。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?』


「いや、だから。終わったって!」


『終わったとは、用件が終わったということでございましょうか?』


 駄目だ。まったくもって通じない。こちらがどんなに「終わった」と告げても、女は苦笑いを含んだ反応をするだけ。俺は組長の指示通り、電話番に合言葉で伝達を頼もうとしているのに。


(もしかしてコイツ、聞かされてないのか?)


 すると数秒ほどの間を置いた後、聞いたことのある声が電話に出た。


『おう。お疲れさん。木幡だ。いま、電話を代わった』


 やっと話の通じる相手が出た。自然と、安堵の本音が漏れる。


「はあ。あんたか」


『全部組長から聞いてるぜ。仕事は終わったのかい?』


「……終わった」


『了解。今からそっちに迎えを行かせるわ。どこにいる?』


 現在地の住所を尋ねられたので、俺は首をひねって電柱のプレートを確認しようとした。ところが、電話機からはあいにく死角になっているので窺い知ることが出来ない。


 なので止む無く、滞在している店舗の名前で答える。


「ええっと……あ、扇町のエイトウェルブ。交差点のとこの」


『ああ、あそこか。わかった。そうと決まりゃ、すぐに向かわせる。そんなに時間はかからないと思うから、今いる場所を動くなよ。じゃあな』


 そうして10分後、迎えに来た別の下っ端の車で俺は村雨邸へと戻った。道中、車内ではハンドルを握る組員に「部屋住み以下の分際で送迎付きとは良い身分だな」と嫌味を言われたが、完全にスルー。考えていたことと言えば専ら、先ほどの電話番の応対について。


 組長から事前に聞かされていた内容をうっかり忘れていたのか、それとも俺を小馬鹿にして楽しんでいたのか。


 前者なら誰もがやらかす仕事上のケアレスミスとして笑って許してやれるが、もしも後者であれば言語道断。聞き返した回数分の3発くらいはぶん殴ってやらないと、流石に気が済まない。


 しかし、車が山手に入って村雨邸に近づくにつれて、感情は次第に収まってくる。その日はあまりにも疲れ切っていて、もはや怒る気力も無くなっていたのだろう。


 おまけに、生憎この日の夜は村雨が名古屋へ出かけていて不在。クレームも兼ねた告げ口をぶちかましてやろうにも、本人がいないのではどうにもならない。


(まあ、いいか……ひと晩寝て忘れるか)


 仕方が無いので、俺は屋敷に着くとそのまま部屋へ直行。シャワーを浴びて身体中の汗を洗い流した後は、食事もとらずにベッドへ潜り込む。そして、死んだようにぐっすりと眠ってしまったのだった。

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