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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第6章 氷の夏
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たしかに、刺さっていた。

 午後6時03分。


 さながらサウナのごとく蒸し暑い空気の中、俺は必死で身をかがめていた。額には水滴が浮かんでいる。きっと、ジンワリとした嫌な熱気が発汗を促したのだろう。実に不快だった。


 出来る事なら、冷房の効いた部屋に今すぐ飛び込みたい。だが、それは叶えられぬ欲求だ。この地獄のような環境に時機が来るまで留まり続けることが、自分に与えられたミッションだからだ。


 ここは横浜伊勢佐木町ロイヤルホテル、地下駐車場。


 つい1時間ほど前、俺は村雨の手下に連れられてやって来た。目的は他でもない。今晩、このホテルにて大量の覚醒剤の買い付けを行うという横浜大鷲会本部長・笛吹慶久の暗殺である。


 既に頭の中で、何度も何度もシミュレーションを行っていた。きっと、相手は大口の取引を終えて気が緩んでいるはず。そこを狙って一気に走り込み、腹部にナイフを思いっきり突き刺す。そして、俺は例の台詞を浴びせてやる。


『藤島の親分が、あんたによろしくってさ』


 これを笛吹の取り巻きにも聞こえる声で言い放つことにより、犯行を横浜大鷲会会長・藤島茂夫が送り込んだヒットマンによるものと偽装できるのだ。


 ゆえに、下手人の正体を絶対に秘匿する必要がある。


 俺はレインコートのフードを今一度、深く被り直した。ちなみにこの日は午後から雨が降り続いており、雨合羽姿の者が駐車場にいても何ら不自然な状況ではない。


 しかしながら、中には長袖のジャージを上下着ていたために物凄く暑い。外の気温は30℃を超えていたらしく、ほぼ密閉された駐車場内はそれ以上になっていたものと考えられた。


 ただ柱の陰に姿勢を低くして隠れているだけでも、この暑さだ。体力がどんどん削られてゆく。他にも、視界が左右に揺れ動くような感覚を催してしまう。


(やべぇ……クラクラする……)


 これは、体内の水分が著しく消耗されたことに起因する現象であった。いわゆる「脱水症状」。程度としては非常に軽度のものだったが、放っておけば熱射病(98年当時は熱中症のことをそう呼んでいた)を引き起こして最悪、死に至る可能性すらある危険な兆候だ。


 本来であれば早急に水を飲んだ方が良いのだろうが、俺が後ろに背負ったリュックサックには生憎ペットボトルの類は入っていなかった。中には凶器の氷製ナイフを格納した魔法瓶と、任務遂行後に使用済みレインコートをしまうためのビニール袋があったのみ。


(そういや、ホテルの1階には売店もあったよな。買ってくるか)


 されど、目的を果たすまではここを離れるわけにはいかない。そうなったら作戦は忽ち失敗、渡世入りを前に村雨組長の不興を買うことになってしまうのだ。今までに味わったことがないくらいに酷いコンディションであるが、ここは辛抱するに限る。


「はあ……」


 どうにもならない状況の中で、俺は大きく嘆息をついた。そして、村雨邸からミネラルウォーターの1本も持ってこなかった己の浅慮ぶりを深く悔やみつつ、必死で気持ちを奮い立たせたのだった。


(それにしても、奴は何時いつになったら来るんだ?)


 先ほどからずっと同じ場所で待ち続けているが、ターゲットの笛吹が姿を見せる気配が一向に無い。それらしい人物が「まったく」と言って良いほどに現れないのだ。


 うっかり見過ごしてしまったのか、と一瞬は自分の目を疑った。しかし、俺が見を潜めている柱は駐車場からホテルの館内へと続く地下玄関のちょうど斜向かいにあり、人の出入りは完全に視界で捉えることが出来る。


 また、待機を始めてから俺は絶えず注意を玄関に向けてきたので、それまでにホテルへ入った人間の顔は全員視認している。無論、笛吹とはその何人ともに似つかない。ゆえに、見過ごしたという可能性は考えられなかった。


(だとすると……変装してたとか?)


 その線は大いに有り得た。何故なら今回の笛吹の取引は、組織に無断で行われる裏のシノギに当たるのだ。藤島の目を気にしていたとしても不思議ではない。むしろ、警戒心を研ぎ澄まして最大限の用心をはかるのが普通であろう。


 もしも本当に笛吹が変装して秘密裏にホテルへ入ったのだとしたら、実に厄介だ。俺が記憶している彼の容姿はあくまでも極道らしい真っ白なスーツを着用した平常時のもので、カタギの一般人に扮した姿ではない。


 写真で見た笛吹は剃り上がった眉に長髪、さらには目元に入った傷という「いかにも」な顔つき。その風貌の特徴からくるイメージが強烈すぎて、外見を変えた彼の姿に気が付かなかった可能性は十分に考えられる。つば付きの帽子を深く被って目元を隠すだけでも、人の印象は大きく変わるものだ。


(おいおい……まさか、スルーしちまったか!?)


 胸がざわつく。大きな不安が湧き起こってきた。まだ見過ごしたと決まったわけではないが、自分がそこで既に63分も待ち伏せているという事実が気持ちに更なる焦りの色を添える。次第に動悸も激しくなってきた。


 だが、一方でチャンスは他にも残っている。笛吹がホテルへ入った瞬間を見過ごしたのなら、今度は出てくるところを確実に捉えれば良い。ここからが本番だ。次こそ逃がさなければ、このミッションは成功である。


 そう考えて何とか心を落ち着かせようとした、次の瞬間。


「いやぁ、たくさん手に入りましたねぇ! 上物が!」


「まったくだ。今日は思ったより、安く買い叩けたからな。こんなに得をした日は初めてだ。上手くいきゃあガッポリ稼げるぞ」


 不意に、話し声が聞こえた。玄関から誰かが出てくるようだ。慌てて柱の陰に身を隠しつつ、俺はそっと様子を窺ってみる。視界に入ったのは、上機嫌な2人組だった。


(ん……?)


 1人は花柄のオレンジのシャツに黒のスラックスという出で立ちで、頭は金髪。何故か頬が紅潮していて、その低い背丈も相まってどこか猿のようにも見えた。


 そんな彼が敬語を使って話すもう1人の男だが、対照的にスマートな装い。グレーのジャケットを羽織ってネクタイは締めず、第2ボタンの位置まで白いシャツの胸元を開けている。


 彼らの関係性は上司と部下のようだ。


「どうです? 今夜、景気づけに真金まがねへ行きませんか?」


「おっ、いいな。久々に女を抱きたい気分だしなぁ」


「そう来なくっちゃ。例の店、手配しておきましたよ」


「さすが! 気が利くねぇ!」


 真金というのはホテルから歩いて10分くらいの距離にある歓楽街で、いわゆる遊郭街。これからそこへ繰り出さんと盛り上がっているのだから、決して上品な会話ではない。おまけに、周囲にも響くような芝居がかった大声で話している。


 普通のサラリーマンとは思えぬ派手なルックスのせいもあってか、彼らは相当目立っていた。たまたま駐車場内に人の姿は見当たらなかったが、もしも他の利用客が居たら悪い意味で注目の的になっていたことだろう。


「そうと決まれは、今日はとことん遊びましょうよ。明日から、うちには大金がジャンジャン転がり込んでくるはずですし。夏は需要もありますから稼ぎ時ですよぉ~」


「うん。たしかに夏は皆、お祭り気分だ。今年はフェスもあるしな」


「売るとしたら、どこら辺が良いですかねぇ?」


「とりあえず桜木町駅の周りとか。あそこは最近、路上ライブが増えてきたからなぁ。夢見るジリ貧バンドマンは良いカモになるだろうぜ。他にも、家出少女なんかをクスリ漬けにして海外に売り飛ばしたって儲かるかもしれん」


 妙にテンションが高い2人。俺の目に留まったのは、後者の方だった。


(あれは……笛吹か!?)


 すらりと高い身長に、後ろで束ねた長髪。そして左の目元に入った細長い刃傷の跡。事前にインプットしてきた彼の身体的特徴と、見事に一致している。


 それだけでも十分にピンと来たが、直後に聞こえてきた会話が俺に更なる確信を抱かせた。


「あれ? でも、桜木町って村雨のシマですよね? さすがに敵の領地のド真ん中で捌くのはマズいんじゃ……」


「大丈夫だよ。強いのは組長だけで、他は雑魚の集まりだ。俺が跡目を獲ったら一気に叩き潰してやる。それに、ほら。若頭代行の里中がこないだパクられただろ。あいつ抜きで村雨組に銭勘定なんか出来やしねぇよ」


「あははは! 違いねぇや! やっぱ笛吹の兄貴は頼りになるなあ~」


 間違いない。灰色のスーツを着た長髪の男は横浜大鷲会本部長・笛吹慶久だ。その左隣を歩く舎弟らしき猿顔のチンピラは、片手に大きなボストンバッグを抱えている。おそらく、あの中には買い付けたばかりの覚醒剤がぎっしり詰め込まれているのだろう。


(そうか。あれを村雨組の縄張りで売るつもりなんだな)


 俺は両手の拳にグッと力を込めた。ずいぶんと舐めた真似をしてくれるものだ。立場的には正式な組員でないので必ずしも怒る必要は無いのだが、そんなことは無関係。これから村雨の盃を受ける者として、報いの鉄槌を下してやろうではないか。


(あいつのシャブも根こそぎ奪い取ってやる)


 村雨からは「笛吹を殺せ」としか言われていないが、任務完了の証拠として持ち帰るには格好のアイテムだろう。また、仕入れる手間が省けるので組長も喜ぶはず――。


 そんな野心を抱きながら俺は後ろに背負ったリュックを前に移動させ、中から魔法瓶を取り出す。続いて蓋を開け、中で冷気に包まれて眠っていたものを右手に持ち、そのまま外に出した。氷のナイフだ。


 その瞬間、掌全体にひんやりとした感覚が走る。


「ッ!?」


 滑り止め付きの軍手を嵌めていたので低温やけどは免れたが、どう我慢しても冷たいものは冷たい。長く握りしめてはいられぬらしい。日高の言った通り、ここは短期決戦。さっさと標的を仕留め、早急に決着をつけてやらねば。


「ふう……」


 軽く呼吸を整えた後、俺は歩き始める。それまでこちらが隠れていた柱の前を通り過ぎた笛吹たちが、駐車場の中をどんどん進んでゆくのが見えた。玄関前に車を横付けしなかった点から察するに、どうやら彼らは2人だけで取引にやってきたようだ。


(護衛はあいつだけか。なら、思ったより簡単かもな)


 順手に持ったナイフを腰の位置で構え、笛吹の背後を取るようにゆっくりと静かに近づく俺。10m、9m、8mと距離も次第に縮まってくる。やがて、彼らが乗って来たと思われる車のナンバーが見えた。


【横浜300 せ 54‐58】


 資料にあった情報の通りだ。ここは、行くしかない。


(やってやるか!!)


 ナイフを強く握りしめて、俺は走り出した。


 狙うは相手の背中。当初の予定であった腹とは違うが、刃には血液と混ざり合うことでショック症状を引き起こす毒が含まれているので、何処を刺しても別に問題は無いだろう。ともあれ、刺せば良いのである。


「笛吹ーッ! 死ねやぁぁぁぁッ!!」


 ありったけの声でそう叫んだ直後、俺は笛吹とぶつかった。


 ――ザクッ。


 刹那に聞こえたのは鈍い音。だが、両手には確かな衝撃が伝わっていた。両手で構えた刃が、固い何かにグイッと入ったような感触。持ち手越しに味わってきたそれは、どちらかと言えば「刺した」というよりも「めり込んだ」に近かったと思う。


 しかし、ふと視線を手元の方に落としてみると違っていた。


 疑うまでもなく、完全に刺さっていたのだ。俺が構えた氷のナイフは服の布地を突き破り、笛吹の背中の皮膚を貫いて、周囲を赤色に染めていた。数秒ほど遅れて、うめき声が発せられる。


「うぐぇあっ!」


 人間とも他の動物とも取れるような断末魔を上げた笛吹は、糸が切れたように前方へ倒れてゆく。俺は慌ててナイフの柄から手を放す。毒を効かせるためにも、刃は刺したままにしておかねばならないのだ。


 ――ドサッ。


 うつ伏せの体勢でダウンした笛吹。


 一方、猿顔の舎弟はその瞳を大きく見開き、呆然と立ち尽くしていた。あまりにも急な出来事に接し、さしずめ気が動転してしまったのだろう。彼が左手で抱えていた覚醒剤入りのバッグは地面に落ちている。それをひょいと持ち上げて奪い取った後、俺は言い放つ。


「よう、笛吹! 藤島の親分が、あんたによろしくってさ!」


「……っ」


「ま、悪く思わねぇでくれや。こいつは命令だからな」


 気持ちが昂っていた所為もある。予定していた台詞に余計なアドリブを加える形にはなってしまったが、それでも告げるべきことは告げた。あとは現場を離れるのみ。


 俺は即座に踵を返し、一目散に駆け出した。


「うわっ、マジかよ! やっぱり来やがったか!!」


 背後からそんな声が聞こえてきたが、もちろん振り返りはしない。駐車場の出口を目指して全力疾走。誰が追いかけて来ようとも、とにかく逃げきってやる。ただその一心で脚を動かし続けたのだった。

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