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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第6章 氷の夏
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初陣へ

 1998年7月31日。


 この日の横浜は、朝から蒸し暑かった。天気は曇ときどき雨。おかげで湿度も上がりっぱなし。もう梅雨はとっく明けたというのに、ジメジメとした空気感でひどく心地が悪い。


(ったく……夏なんだから、晴れてくれっての)


 そんな鬱屈とした気分のまま自室で過ごしていると、扉を強かにノックする者が現れた。たしか、あれは時計の針が午前10時をまわった頃だったか。


 急いでドアを開けると、そこにはジャージ姿の男が立っていた。


「組長がお呼びだ。“奥の座敷”へ行け」


 その瞬間、俺はすべてを察する。


(ついに来たか!!)


 伝令係の組員が言った“奥の座敷”というのは、この屋敷の2階にある村雨耀介の寝室兼執務室のこと。あの高名な「厭離穢土 欣求浄土」の掛け軸が飾られた部屋である。


 そこは組長のプライベートな空間というだけあって、配下の人間は基本的に立ち入りが許されていない。一方、組長の方も何か特別な用件や命令を伝える時以外でその部屋に部下を入れることは、滅多に有り得ないという。


 そんな大切な部屋に、下っ端どころか未だ盃を貰ってすらいない部外者の俺が呼ばれるのだ。きっと何か、重大なことを告げられるに決まっている。恐らくは笛吹暗殺の実行命令。「行って来い」と、作戦のゴー・サインが出るのだろう。


 この時点では俺の勝手な想像に過ぎず、大して確証があったわけでもない。だが、いつもであれば食堂に呼ばれるところを座敷に呼ばれたという事実が憶測に補強を施した。自然と胸が高鳴ってくる。


「わかった。他に何か言ってなかったか?」


「いや。特には。でも、急ぎの用みたいだったぞ」


 急ぎの用――。


 ということはやはり、笛吹の首を取りに行けとの命令が下されるのか。会長の息のかかった者の仕業に見せかけて本部長を殺すことで横浜大鷲会の内紛を誘発する、という今回の戦争の口火を切る役目を俺が担う時が、いよいよ目前に迫っているのか。


「……了解。すぐに行くわ」


「おう。急げよ」


 呼び出しの組員が去った後、俺は即座に着替えを始める。


 まずは、ズボンを長いものに履き替えた。これは万が一相手と揉みあいになった際、ナイフの刃が脚に触れてケガをする事態を防ぐためである。俺なりの予防策であった。


(よし。いいな)


 次にいつでも着て行けるよう事前に用意していたレインコートを1枚取り出し、ゆっくりと袖を通す。こちらは使用後には完全に焼却して処分する段取りである。


 そして、最後に軍手を嵌めれば準備完了。俺の出撃体制は整った。


「……行くか」


 本当は心の中で、そっと呟こうと思っていた。だが、気持ちが昂っているせいか実際に声になって出てしまう。どうにか落ち着けようとあれこれ試してはみたものの、全て徒労に終わる。


 結局、組長の部屋に入るまでに興奮を鎮めることができなかった。


「おい、何だ? その格好は?」


 当然、村雨からは指摘の声が飛んでくる。失笑に呆れが混ざったその表情に、俺は一瞬、顔から火が出そうなほどの羞恥心を催してしまった。どうにか、必死で取り繕う。


「いや、ほら! この格好で来た方が良いんじゃないかと思って」


「ほう。私は『部屋に来い』としか、言っていなかったのだが?」


「で、でも、この方が着替える手間も省けるし!」


「まったく。ずいぶんと浮足立っているようだな。気が早い奴め」


 大きなため息をつくと、村雨は俺に座るよう促した。


 やはり、この人には何もかもがお見通しのようだ。まだ『笛吹を殺しに行け』と命じられていないにもかかわらず実行時の装いで来てしまった俺の心境は、まさに彼の言う通り。初めての殺しの仕事を前に、余裕というものを丸ごと欠いていたと思う。


 おそらくは入室時、襖を開ける際の動作がひどくそわそわとしていたのだろう。無理もない。


「あ、ああ……」


 まるで親に叱られた子供のように、しゅんとしながら俺は腰を下ろしたのだった。そんなこちらの姿を見て、ローテーブルを挟んで向かい側に座る村雨は更なる憂いの声を吐き捨てる。


「涼平。察しが良いのは結構なことだが、大事を前に平静さを保てぬようでは困るな。いつも通りの己でいるよう心がけよ。さもなくば、ここぞという局面で必ず間違いをしでかすものだ」


「大丈夫だって。心配いらねぇよ」


「案ずる必要が無いなら態度で示せ。命取りになるぞ」


 いくら俺の口で「大丈夫」と語ったところで、もはや無駄なのだと悟った。興奮が冷めやらぬ少年の姿は、村雨から見れば実に危なっかしいのだろう。


(マジで心配なんかいらねぇのにな……)


 されど、延々と否定し続けるのもそれはそれで面倒だ。組長を怒らせてしまえば弁解どころではなくなる。出撃を前に説教を食らうのも気が引けたので、ここはひとまず素直に従っておいた。


「……うん。わかったよ」


「とりあえず、今は頭を冷やせ。飲むが良いぞ」


 そう言って、彼が手渡してきたのはペットボトル。中に入っているのは見たところ、水。おそらくはミネラルウォーターだろう。側面のラベルが剝がされていたので、一瞬何が入っているのか分からなかった。


 それはまた、不気味なほどに冷たい手触りを俺に与える。組長の部屋の片隅には小さな冷蔵庫があり、そこに直前まで押し込まれていたせいだと思う。口の中に注ぎ込めば、忽ち左の奥歯が痛み出しそうだった。


(でも……ここは飲むしかないのか!?)


 正面から無言の圧力を感じる。村雨が、ずっと俺の方を凝視しているのだ。こちらが封を開けるその瞬間を今か、今かと待ち侘びているのだろう。


 これまでに虫歯を患った経験は無いが、どうにも知覚過敏気味だ。しかし、そんなことはもう気にしていられない。覚悟を決めた俺は素早くキャップを外すと、ボトルの半分くらいの位置まで勢いよく飲んだ。


「どうだ? 少しは落ち着いたか?」


「……ああ。おかげさまで」


「そうか。ならば良かった。私の経験上、気を鎮めるには水を飲むのが一番だ。人の体の7割は水で出来ているとも言うからな。お前も覚えておくと良い」


 案の定、俺の口の中にはズキズキとした感覚が走る。それも左の奥歯どころか右にまで飛び火し、とてつもない痛みが俺を襲った。この任務が終わったら歯医者にでも行こうかな、と思うほどに耐えがたい苦しさだったと思う。


 一方、村雨の言う通り心はすっかり落ち着いていた。まさに効果覿面。自分でも驚かざるを得ないレベルの変化だった。村雨自身、水を飲んで気持ちを穏やかにした経験があるのかもしれない。


 歯の痛みが次第に鳴りを潜めてゆくのを確認しながら、俺はボトルのキャップを締める。すると、一方の村雨もこちらの精神状態の変化を視認し「大丈夫そうだ」と確信したのか。1枚の紙を渡してきた。


(ん? 何だ?)


 見たところ、どこかの地区の俯瞰図のようである。詳細に視線を落としていくと、所在地と思われる住所が赤いペンの文字ではっきりと記されていた。


【中区長者町5丁目53番地 横浜伊勢佐木町ロイヤルホテル】


 そこは市営地下鉄の伊勢佐木長者町駅から歩いて5分ほどの距離にある高級ホテルで、地図に小さく書かれた補足情報によると外国からの観光客も数多く宿泊する老舗の名店らしい。


 施設の規模も横浜ではトップクラスで、内部にはコンビニやカラオケパブ、さらにはフィットネスジムまでテナントとして入っているのだとか。他にも、地図には「各界の著名人が不貞の相手と密会する定番スポット」とまで書かれていた。


(すげぇな。誰が作ったんだろう)


 いったい、この地図は誰が作り上げたのだろうか。記載されている情報はあまりにも詳しくて、なおかつ図柄も分かりやすい。その精巧さに目を奪われていると、村雨がゆっくりと語り始めた。


「……今晩、このホテルで笛吹が中国人と会うことになっている。相手は大陸に根城を置く密輸組織の大幹部で、笛吹はこの男から億単位で覚醒剤を買い付けるらしい。前にも話した通り、横浜大鷲会は藤島の方針でクスリ絡みのシノギは御法度。ゆえに、これは会長には無断で行われる取引となる」


「なるほど。そこを襲えば『無断で中国人と取引した“裏切り者”の笛吹を殺すために、藤島がヒットマンを送り込んだ』って風に見えるわけだな」


「おう。珍しく理解が早いな。その通りだ。藤島にとって、今回の笛吹の動きは立派な反逆行為と言って良い。当然、看過できぬ話であろう。粛清の刺客を差し向けても何らおかしくはない状況が生まれる。それを利用してやるのだ」


 見事な作戦ではないか。普通に日常を過ごしている場面を狙うよりも、圧倒的に偽装工作がしやすい。笛吹殺害を藤島の息のかかった者の仕業と見せかけるには、実に都合の良いやり方だった。


「たしか、お前は台詞を考えたのだったな」


「あ、うん」


「何と言うつもりだ?」


「え。『藤島の親分が、あんたによろしくってさ』って……」


 俺の答えを確認した村雨は、大きく頷いた。


「よし! 存分に言ってやれ! 周囲にも十分、聞こえる声でな。そうすれば、残された笛吹の取り巻きどもは間違いなく藤島がやったと疑う。いまの大鷲会において笛吹の下に集うのは皆、会長の方針に不満を抱く者ばかりなのだからな。忽ち、激昂するはずだ」


 そして、この件をきっかけに横浜大鷲会は会長の藤島を戴く主流派と死んだ笛吹を慕っていた反主流派に分裂し、やがては混迷の内部抗争が勃発するだろう――。


 それこそが、村雨が思い描いていた展望である。あとは大鷲会が内紛で自壊する時を待つか、組織の屋台骨が大きく揺らいだタイミングで総攻撃を仕掛けて一気に壊滅させるかの二択。どちらにしても正攻法で挑むよりはずっと自陣営の損害を気にしなくて済むので、効率的な策といえる。


(まさか、俺の案に絶妙なアレンジを施してくれるなんて……)


 頭が下がる思いだった。相手を刺した際に例の台詞を放つというアイディアは、斬新ではあるものの何処かフィクションじみていて、自分でも少なからず稚拙だと自覚していたのだ。


 心の中で感激の余韻に浸りながら、俺は尋ねる。


「ところで、その取引は何時から始まるんだ?」


村雨組われらが掴んだ情報によると、本日の夕方5時から夜9時までの間、最上階が丸ごと貸し切りになっているそうだ。最上階には一等客室があり、笛吹はそこで先方に会うものと考えられる」


「そっか。じゃあ、5時から9時までのどっかでカチ込めばいいのか……」


「いや、足を踏み入れる必要は無い。お前は地下の駐車場にて待ち伏せ、笛吹が取引を終えて出てくる瞬間を狙って襲え。取引の間、最上階の廊下には沢山の歩哨が詰めているはず。それを1人ずつ片づけて笛吹の元へたどり着くとなれば、いくらお前でも流石に危うかろう」


 多数を相手に乱闘に興じてやるのもそれはそれで面白そうだったが、笛吹の護衛の取り巻きたちはおそらく銃を持っている。それに対してこちらの武器が1回しか使えない氷のナイフだけときているので、圧倒的に不利なのは明白。


 まともに正面から襲撃をかけたところで、せいぜい蜂の巣にされるのがオチだろう。久々に暴れたい気持ちもあったがグッとこらえて、ここは村雨の意見に従うことにした。


「ああ。わかったよ……」


 ただ、そうすると別の問題が浮かび上がってくる。待ち時間だ。


 遅くとも決行の30分前に到着したとして、そこから最長で4時間は身を潜め決行の時をうかがっていなければならないのだ。現場の駐車場は特に冷房が効いているわけでもなさそうなので、蒸し暑い夏の日には実に不向きなミッションである。


「あと、お前にはこれを渡しておく」


「ん?」


 ついでに差し出された1枚の写真。それは、真っ黒なワンボックスカーを斜め右の前方から写したものだった。後部座席の窓にスモークシールが貼られている点からして、明らかにカタギの車ではないと一目で分かる。


「これは笛吹が秘密のシノギを行う時に使っている車だ。ちょうど昨晩、運よく手に入れることができた。笛吹本人の写真は以前に渡してあったな。それも含めて、持っておくが良い」


 なるほど。この写真を参考に笛吹の車の駐車位置を特定し、その付近に隠れ、やがて取引を終えた本人が戻って来たタイミングで刺しに行けば良いのか。


【横浜300 せ 54‐58】


 写真に写るナンバープレートには、そのような表記があった。


(よし。こいつを使って探せば良いんだな)


 ホテルの地下駐車場という場所にあって何十台もの中から目当ての車を探し出すのは少々骨の折れる作業だが、本人の写真のみを頼みの綱とするよりは遥かに負担が少ないので、これは非常に助かる。とてもありがたかった。


「仕事を終えたら、公衆電話から屋敷ここへ連絡を入れろ。私に繋がなくとも、電話番に一言『終わった』と告げて切れば良い。出来るだけ現地から離れた所から掛けるのだ。間違っても携帯は使うなよ? あれは政府に傍受されるからな」


「ああ。了解した。っていうか、そもそも持ってねぇよ」


「そうか。ならば良いのだが。では、涼平。武運を祈るぞ。時間になったら部屋に使いの者を行かせるゆえ、お前はそれまで暇を潰しておれ。私はこれより、名古屋へ向かう」


「えっ、名古屋? どうして?」


 ゆっくりと立ち上がった村雨は、俺の問いに薄ら笑みを浮かべて答える。


「本家からの呼び出しだ。何でも、私が斯波と身内同士で事を構えているのが気に入らぬようだ。六代目から直に釘を刺されるやもしれん……だが、そう易々と動きを封じられるほど私も軟弱やわではない。うまくやってみせるさ。いずれ、近いうちに直系へと昇るためにもな」


 そう言うと、村雨は足早に去って行ってしまった。


 ひとり残される形となった俺は、しばらくの間ぽかんとしていたと思う。だが、ハッと我に返ると慌てて自分も部屋を出る。あるじが不在の部屋に、いつまでも居座るわけにはいかないのだ。


 座敷を歩きながら、ふと頭の中を整理してみる。


 組長不在――。


 俺が初めての仕事へと挑むという時に、何とも心許ない話である。しかし、煌王会の上層部による召喚を受けたというのであれば止むを得ないだろう。詳しい状況は分からないが、話の内容からして村雨自身も厄介事に直面しているらしい。


(あの人もいろいろ大変なんだな)


 それよりも、今は自分の仕事に集中しなくてはならない。


 昼食を挟んで、夕方まで猶予がある。時が来るまでに心の準備を整えるのは勿論の事、本番で手間どらないよう殺しの手筈を今一度確認しておいた方が良いだろう。日高から凶器を受け取ることも必須だ。


(……とりあえず、これを脱がなくちゃな。飯が食えねぇ)


 こうして、俺は初陣への道筋を歩き出していったのだった。

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