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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第6章 氷の夏
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「カラスみたいだな」

「こ……氷の……ナイフ……だと?」


 日高の問いに、俺は大きく頷いてみせた。


「そうだ。あんたが知ってるかは分からねぇけど、俺には組長の命令で近いうちに消さなきゃならねぇ相手がいてな。そいつをるための道具が必要なんだよ。けど、使い終わったら確実に処分したい。道具もろとも、俺がやったって痕跡を全て消さなきゃならねぇんだ」


「そ……それで……氷なのか……?」


「ああ。氷なら、溶かせば水になるだろ。後はその水をどっかに流しちまえば、ぜんぶ片が付く。絶対に殺しの証拠は残らねぇってわけだ」


 いくら日本の警察が優秀と云えど、完全に溶けて水になった凶器を復元し、そこから特定の人物の関与を割り出すことは絶対に不可能なはず。その水が川などに流れたとなれば、尚更だろう。


 我ながら、素晴らしいトリックだと思えた。こちらの説明を黙って話を聞いていた日高の反応も、直前に想像していたよりずっと良好だ。


「な……なるほど……よく思いついたな……センスのある発想だ……たしかに……溶けてしまったら……後はどうにもならないだろうからな……」


「だろ?」


 ただ、その案を具現化するのは決して簡単ではなかった。


 氷のナイフを作るには、まずは氷を整形する段階から始めねばならない。それもただ単にナイフっぽい形にすればOKというわけではなく、きちんと役割を果たすよう刃先や刀身を出来るだけ鋭利にしておく必要があるのだ。


 役割とは即ち、切れ味のこと。無論、肉や野菜が切れる程度では不十分。人を一撃で殺せるだけの威力と強度を備えて、初めて完成といえよう。氷の本来のツルツルとした表面からその状態になるよう加工するのだから、製作においてかなりの手間がかかることは容易に想像できた。


「と……とりあえず……形は……シリコンで型を……取るとして……ヤスリで削ってみるか……強度の方は……煮沸させた水を使えば……どうにか……なると思う……」


「ん? シャフツってなんだ?」


「み……水を煮て……沸騰させることだ……そうすることによって……水の中の空気が飛んで……強度が増す……氷は中に……気泡が……入っていなければいないほど……割れにくくなるからな……」


 日高曰く、強度における課題はそれで一応の解決がはかれるらしい。だが、ウィークポイントはそれだけではなかった。


「こ……氷のナイフができたとして……それを……どうやって……現地へ持って行くかだ……分かってると思うが……いまは夏だ……普通に手に持ってれば……1分も経たないうちに……溶けてきてしまう……」


「じゃあ、事を起こすまで何かのケースに入れとけば良いんじゃねぇか。んで、そこから出して1分以内に敵を仕留める。簡単な話だろ」


「そ……その入れ物をどうするかが……問題だ……」


 世間でも広く知られている通り、氷の融点は0度。ゆえに凶器を携行するためのケースは、内部の温度をそれ以下に保っておかねばならないのだ。


 保冷性を備えた入れ物として真っ先に思い浮かんだのは、魔法瓶。内と外で二重に瓶を設けることでその間を真空状態にして熱の移動を防ぎ、長時間の保温もしくは保冷を可能にした容器だ。


 ただ、魔法瓶に入れておけば大丈夫というわけでもなく、氷のナイフを入れる前の時点で瓶の中の温度が0度を下回っている必要がある。徹底的に冷やす方法の考案が求められた。


「冷蔵庫に入れて、瓶を冷たくしておくってのはどうだ?」


「ま……魔法瓶は……どんな環境でも内部の温度を……一定に保つための道具だ……それだと常温が保たれて……いつまで経っても……冷たくはならない……」


「あー、そっか。だったら、冷蔵庫に入れる前に冷やせば良いのか。じゃあ、ドライアイスを入れとくのは? あれなら火傷するくらいキンキンに冷たいし、この暑さでナイフが溶けることも無いんじゃねぇか?」


「う……うーん……どうだろう……」


 相変わらず視線は背けたまま、ジッと俯いて考え込む日高。俺の出した案を頭の中で吟味しているのだろう。村雨によると日高の頭脳は国立大の研究者レベルらしいので、彼の理解と賛同を得られれば俺の案は最適解ということになる。


「そ……そうなると……もしかしたら……たぶん……」


 思考の中の声は、独り言として完全に漏れていた。挙げ句、時折ボソボソと呟きながら目を閉じて思案に耽る。そんな日高の姿から醸し出される雰囲気は、様々な薬品や実験器具・工具やらが並んで埃っぽい室内の空気も相まって、実に陰鬱としていた上にとにかく暗かった。


 そして何より、微妙な緊張感に包まれているので気まずい。可なら可、不可なら不可と、早く評価を下してほしかった。その時の俺は、さながら志望校の合否判定を観に行く受験生のような心境だったと思う。


「ド……ドライアイス……」


 やがて、しばらくの間を置いた後。日高は静かに結果を告げてきた。


「……素晴らしい……」


 その瞬間、肩に溜まっていた力が一気に抜けるような感覚に襲われる。俺の中で張りつめていた緊張の糸が、音を立てることもなくゆっくりと切れた。同時に、こみ上げてくるのはとてつもない安堵。自然と大きく息をついてしまった。


「はあー。良かったー」


 もしも却下されていた場合、代わりのアイディアを繰り出す自信は無かったと思う。「氷のナイフをドライアイスを詰めた魔法瓶で持ち運ぶ」という方法は、云うまでもなく渾身の起案。恥ずかしながら、それ以上の発想は無理。まさに、頭脳の限界だった。


 勿論、科学の知識などは有りはしない。ドライアイスというのは小学生の頃、買い物から帰ってきた母親が生鮮食品を保存するべく袋に詰めていた光景が不意に脳裏をよぎって、咄嗟に思いついた単語。単に「冷たいもの」という認識しかなかった。決して大袈裟ではなく、それだけ当時の俺がバカだったということである。


 しかし、たとえ無知でも博識でも、対処せねばならない現実があるのは一緒。自嘲の色が強まった気持ちを即座に切り替えて、俺は日高にまっすぐ問うた。


「作れそうか? 氷のナイフは」


「つ……作れることには……作れる……だが……あまり……期待しないでくれ……ナイフと言っても……所詮は氷だ……そう何度も何度も……使えるものじゃない……ひと刺しすれば……それで終わりと思ってくれ……」


「おう。最初からそのつもりだよ。首の後ろを狙って一撃で仕留めてやる。ところで、完成にはどれくらいかかる?」


 薄汚い壁にかかったカレンダーに視線をやりながら、日高は答える。


「と……とりあえず……今から始めるとして……少なく見積もって24時間……それくらい貰えれば……作れると思う……」


 半日とは。思ったよりも短かった。最低でも2日は覚悟していたが、流石は村雨組御用達の偽装師兼道具職人というだけある。その前向きな返事に、俺は少なからぬ希望を見出すことができた。


「よし。恩に着るぜ」


「あ……ああ……ちなみに……どこを狙うつもりだ……さっきお前は……首の後ろを一撃でとか言ってたよな……もしそうなら……やめておけ……首の後ろは……盆の窪は……意外と分厚いんだ……氷でつくったナイフじゃ……貫けない……それこそ……本物の……アイスピックでも使わないことには……」


「は? いや、でも。ナイフは1回しか使えないんだろ? だったら、一撃必殺の急所を狙った方が良いじゃねぇか。盆の窪が駄目なら、どこにぶっ刺せってんだよ」


「腹だ……」


 俺の質問を遮るように、ほんの瞬く間に返ってきた答え。鈍牛のような話し方が常の日高にしては珍しく、ストレートに言い切られた。ただ、あまりにも意表を突いたので思わず聞き返してしまう。


「えっ、腹?」


「そ……そうだ……または背中でも……大丈夫だ……」


 どうしてなのか。俺が読んだ文献における急所の一覧には勿論、腹は含まれていなかった。そこを刺したところで、人間はそう簡単には死なないように思われる。出血こそするものの、結果的に一命をとりとめてしまうのではないか。


 しかし、日高によると今回は必ずしも急所を狙わなくて良いらしい。


「こ……氷を作るのに使う水には……毒薬を混ぜ込んでおく……だから……刺したら……ナイフを抜かないで……そのまま帰って来れば良い……どうせ指紋は付かないんだ……後は……気温と相手の体温でナイフが自然に溶けて……中の毒が溶けだして……終わりだ……」


 氷のナイフは使い終わった後、全てが溶けてなくなることを前提にしている。ナイフの表面に付いた使用者の指紋なども水に流れてしまうので、分からなくなるだろうとのことだった。


「たしかに、終われば全て溶けちまうんだもんな。だったら指紋を気にする必要は無いか。でも、本当に大丈夫なのか? 急所を狙わなくて」


「大丈夫だ……今回……使うのは……殺虫剤にも使われる……危険な猛毒だ……それが相手の体に刺さって……血液と混ざれば……3分と持たないうちに……そいつはあの世行きだ……」


 刺殺とは本来、相手の体に刃物を突き刺すことでおびただしい出血を起こさせて失血死に追い込む殺し方を云う。その出血を利用して相手の体内に毒を溶け込ませるのが、今回の作戦だ。


 凶器が「氷製」である事情を最大限に活かした、実に巧妙な手口だと思った。きっと俺の独力では思いつかなかっただろう。目の前にいる日高が非常に頼もしく見えた。素直に感服の念を抱いてしまう。


「なるほど。日高さん。すげぇな。あんた、大人しそうな顔して意外と悪知恵がはたらくんだな。見習いてぇくらいだ。冗談抜きで。尊敬しちまうぜ」


「お……お世辞は要らない……ほら……用が済んだら……さっさと出ていけ……作業の邪魔だ……完成したら……声をかけるから……それまでここへは来るな……わかったな?」


「うん。ありがとな。じゃ、また明日の夜にでも」


 軽く一礼して、俺は部屋を出た。


 完成は少なくとも24時間後を見積もっているので、まだまだ時間がある。無心でボーッと過ごせばあっという間に過ぎるが、待つという行為に及べば長く感じられるもの。同時進行で他の準備を整えておくのも良いが、それでも時間は余ってしまうだろう。何をして潰せば良いのか。


(あ、でも。まずは……!)


 休む暇も無く、1階へと足を急いだ。目指す先は食堂。村雨組長の待つ所である。日高との話にかまけてすっかり忘れていたが、そもそも俺たちは夕食の最中だったのだ。


「おう、遅かったな。腹でも壊したのか?」


 扉を開けると、村雨は相変わらずふんぞり返って座っていた。実に20分ぶりの再会だが、彼にとっては十分「遅かった」と感じたのだろう。日高の部屋に時計が無かったせいか、まだ5分くらいしか経っていないものとばかり思っていた。


「悪い。急に行くところが出来ちまってさ」


 突然中座したことを詫びつつ、俺は先ほどと同じ椅子に腰を下ろす。


「どこへ行っていたというのだ?」


「日高さんの部屋。頼みたいことがあって」


「ん、日高の部屋だと? 何かあったのか?」


 食堂から離れてから20分の間に決まった事実を全て、なおかつ順を追って丁寧に説明した。


 凶器には氷のナイフを選んだこと、現場へはドライアイスの冷気を充填させた魔法瓶に入れて携行すること、そして氷に使う水の中には致死性がきわめて強い猛毒を混ぜておくこと――。


 話が終わるや否や、村雨はため息混じりの笑みをこぼした。


「フフッ。なんと、まあ……単純な」


 言うまでもなく、失笑。完全に呆れているのが伝わってくる。その直後に俺の方をジッと見つめた視線もまた、実に冷ややかであった。


「お前は本当に、これをやるつもりなのか」


「ああ。だから、もう日高さんにも作ってもらってるよ。明日の夜くらいには出来るかもって」


「もう動き始めているとは……」


「やっぱり駄目か?」


 村雨は大きく首を横に振った。


「いいや。たしかに単純で些か稚拙が過ぎる方法ではあるが、こけおどしではない。ナイフに毒を仕込んでおけば、相手は確実に死ぬ。それをひらめいた点は褒めてやる。お前が本当に『やりたい』と思うなら、やってみるが良い」


「えっ! 良いのか?」


「良いも何も、無謀と思うのならば止めている。しかし……」


 意外な反応である。批判の言葉が返ってくると構えていたので、良い意味で拍子抜けしてしまいそうだった。ただ、最後に付け加えた含みのある接続語がどうにも気になる。


(しかし、何だ!?)


 俺が実際に尋ねようとしたその瞬間、村雨は静かに言い放つ。


「涼平、これだけは伝えておく。お前の方法は画期的だが、私ならばそのような策は用いない。もっと賢明で安心の置ける方法を採る。相手の息の根を確実に止めることが出来て、その上で絶対に証拠を残さぬようにな」


「えっ!? それって、どういう?」


「そのうち教えてやる。そう遠くない頃に、お前に見せる時が来るであろうな。ゆえに今は、目の前の仕事に専念しろ。己が選んだやり方で上手くやることだけを考えるのだ」


 具体的にどうするのかを問うてみたかったのが本音だが、それ以上深堀りすれば怒られそうな雰囲気だったので渋々断念した。


(とりあえず、準備を進めるしかないか……)


 翌日。朝食を済ませた後で、俺は更なる買い物に出た。向かった先はみなとみらいの某ショッピングモール。1998年当時では市内最大の品揃えと集客数を誇っていた施設である。入口の自動ドアをくぐって早々、俺は3階のファッションフロアへに足を運んだ。


「ええーっと、何か無いかな……」


 そんな独り言を呟きながら、テナントを1軒ずつまわって物色する目的は犯行時に着ていく服を探すため。当時、俺が持っていた着替え類はあまりにもカラフルなもの多く、とても隠密作戦に向いているとは言えなかった。


 また、相手を刺せば確実に返り血を浴びてしまうだろう。血が付いた衣類は証拠となるので、犯行後には燃やさなければならない。いくら必要な事といえど、自分の私服を処分してしまうのは流石に気が引けたのだ。


 やがて俺は、とある商品に目が留まった。


(おっ。これ、良いじゃん!)


 陳列棚の値札に書かれていた名称は『使い捨てレインコート・黒』。読んで字のごとくポリエチレン製の黒い雨合羽が計10着、小さな袋に折り畳まれて梱包されている。


 パッケージの写真を見る限りではフードも付いているようで、深く被れば目元を隠せるほどの大きさだ。価格は消費税込みで1500円。買わない理由など無かった。


(さて、あとは……)


 続いて向かったのは、4階の生活雑貨・日用品フロア。そこでは特に物色を行う必要は無い。目当ての商品は最初から決まっていたのだ。


「あのさ、軍手ってどこに置いてる?」


「左の一番奥の棚にありますよ」


 店員に案内された陳列棚にあったのは、滑り止め付きの作業用手袋。1セット105円という低価格だ。何セット買うかは悩んだが、こちらもまた使い捨てだ。いちおう先ほどのレインコートと同じ枚数があれば事足りるだろう。まとめて買い物カゴに放り込むと、俺はすぐレジへと向かった。


「合計、1050円になります」


「ほらよ」


「ちょうどお預かりいたします。アウトドアか何かですか?」


 まさか、会計のタイミングで用途を聞かれるとは。レジ担当の店員としては軽い雑談のつもりだったのだろうが、こちらとしては特に答えを想定していなかったのでドキッとしてしまう。必死で取り繕った。


「あ、ああ。今週末にキャンプに行く予定なんだわ」


「左様でございましたか! いまの時期は、まさにシーズンって感じですからね。バーベキューをやるにはもってこいです。私も先週、家内と子供を連れて茅ケ崎の柳島へ行ってきたんですよ~」


「へぇ。そうなんだ……」


 本当は、氷のナイフを握りしめた際の低温火傷を防ぐため。ドライアイスで冷やす以上、素手で触ればタダでは済まないことくらい分かっていた。だが、勿論そんな話はできない。


「まいど、ありがとうございました~! キャンプ、楽しんできてくださいね!!」


 どうも話好きらしい初老の店員を背に、俺は足早に店を出た。これ以上、雑談に付き合わされては何かと面倒な事になる。俺がキャンプへ行くという話はその場しのぎの嘘でしかないので、無駄に会話を進めればどこかでボロが出てしまう恐れがあったのだ。


 もし、店員が大鷲会や警察と繋がっていたら――。


 考えただけでも背筋が凍りそうになる。きっと単なるカタギの市民に過ぎないのだろうが、用心をするに越したことは無い。ただ、少しでも疑いの目を持ってしまうと道行く人すべてが敵に見えてくる。村雨邸へ戻るまでの時間が、ひどく長く感じた。


(はあ……やっと着いたか)


 帰ってすぐ、俺は袋から購入品を取り出してさっそく開封。とりあえず、レインコートと軍手を装着してみようと思った。それらが今回の作戦における俺の戦闘服となるのだ。


 しかしながら、俺が住む使用人部屋には顔を写す小さな鏡しかないので、身にまとった全体像をいまいち把握できない。必ずしも確認する必要は無いのだが、一応は念のため。俺は自室を出て、大きな姿見のある部屋へと歩き出した。


(うん。動きやすいな)


 同梱の説明書の用途一覧に「防災」とあったので、前のボタンを全て閉めきった状態でも身動きがとりやすいよう作られているようだ。これなら、敵を前にして走ることも容易いだろう。


 そんな時、2人組の男が廊下の前方からやってきた。


「今夜、久々に桜木町で飲まないか?」


「おっ。いいねぇ!」


 見たことのない顔だったが、2人とも厳つい容姿をしていたのでおそらくは組員。双方ともに派手な柄のワイシャツを着ていた。どうやら、街へ遊びに繰り出す予定を立てているらしい。


(ったく……)


 戦争に向かって組が動き出している時に、遊興に耽る体たらくぶり。随分と呑気なものである。歩いてくる彼らの姿からは一切の緊張感が伝わってこなかった。


 どうしようもねぇなと呆れ半分に苛立つ気持ちをグッとこらえ、俺は廊下の右端に寄って無言で道を譲ってやる。


「……」


 だが、その直後だった。


「おいおい。何だよ、あれ。この季節にレインコートかよ。おまけに室内!」


「なんか、カラスみたいだな。あいつの格好」


「カラスか。ククッ。いいじゃねぇか。傑作だぜ」


 すれ違ってからほんの3秒も経たぬうちに、俺を揶揄する2人の会話が聞こえてきたのだ。まるで舞台俳優のような声のボリュームに、大仰でわざとらしい言い方。明らかに、こちらに聞こえるように言葉を発している。


(嫌味のつもりか?)


 出来る事なら一言、物申してやりたい。場合によっては拳を食らわせてやっても良いところ。されど、今の俺は喧嘩沙汰を起こせる立場でもない。それは身に染みて理解していた。


「あー! クソッ!!」


 廊下の壁を思いきり殴って怒りを発散し、俺は先を急ぐ。


 少し冷静になって考えてみれば、たしかにその時の服装は違和感だらけだった。まず、屋敷の中でレインコートを着ているという事実。これは雨を凌ぐという本来の製品の使い道からは、大いにかけ離れたものだ。続いて黒という色も、一般的な雨合羽としては珍しい部類に入るのかもしれない。しかし、最後の生き物に喩えた表現だけはどうにも腑に落ちない。


(そんなに似てるのか……?)


 たしかに黒一色という見た目はそれに近いのかもしれないが、ゴミ捨て場を漁って人間が食べ残した物を貪り食らう下品な鳥に重ねられては、いくら何でも気分が悪い。当時の俺の中で、カラスとはそういう認識だった。


 ところが、組員専用の風呂場前の脱衣所にあった大きな鏡を見た瞬間、俺に衝撃が走る。


「うわっ!」


 思わず、素っ頓狂な声が上がってしまう。想像以上に“カラス”だったのだ。


 丈が長いせいか、足元から上半身までが真っ黒。袖は異様に長くて、軍手を嵌めた手をすっぽり隠している。そして、極めつけは頭部。フードで顔の半分が覆われているために、何か人間ではないような、不気味な存在感を放ってしまっていた。


(あ……これは無理もねぇわ)


 ようやく理解した俺は、静かにレインコートを脱いで自室へと戻る。目立たない色ということで黒を選んだが、まさかそれが予想を超えた結果をもたらすとは。しかし、それはあくまでもルックスの話。買った服が動きやすくて尚且つ使い捨てができる優れた服である以上、着ないわけにはいかないだろう。


 カラスみたいだな――。


 先ほど浴びせられた揶揄の言葉が再び脳裏をよぎるが、もはや気にはならない。大事なのは見栄えの良し悪しではなく、与えられた任務を果たせるか否かであるのだから。


「……まあ、仕方ないわな」


 そう呟きながら、自分を納得させたのだった。

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