ふたたび、与えられた“仕事”
朝食が済むと、J・B・スギハラと日高健次郎の2人は食堂を後にした。
それぞれの仕事場へと戻るらしい。帰り際、スギハラが俺に「また会おうね! ハヴァ・ナイス・デーイ!」と軽快に片手を振った一方で、日高は相変わらず無言で目を伏せたまま。実に対照的で、個性の強い2人だと改めて感じさせられた。
「さて、涼平。“仕事”の話だ」
食後の口元をナプキンで拭った直後に発せられた村雨の言葉で、ここへ呼ばれた理由が思い出される。これより俺は、組長から“仕事”という名の試練を仰せつかるのだ。
正式に村雨組の盃を貰い、ヤクザになるための最終関門――。
本来であれば6月に実施されるはずだったが、様々な事情が重なって1ヵ月も延びてしまっていた。五反田で暮らしていた間も、ずっと心の片隅に引っかかり続けた懸案事項。それが今、ようやく姿をあらわしたという感覚であった。
ただ、気になるのは内容だ。組長の性格からして、厳しい任務となることは容易に想像がつく。村雨組の現状が戦争勃発の一歩手前という段階であれば、尚更だ。下手をすれば「討ち死に覚悟で最前線で戦え」と、命じられる可能性すら考えられる。
しかし、それでも俺は成し遂げなくてはならない。
部屋住みから脱走するという大罪を犯したにも関わらず、温情で特別に許された身である。当然、次は無い。いかなる試練が来ようとも快く引き受ける覚悟で、ゆっくりと返事をした。
「……うん」
この試練を乗り越えないことには、自分は村雨組に入れない。そうなっては絢華と添い遂げられなくなるどころか、ヤクザになることさえ叶わない運命。ならば、何が何でも達成してやろうではないか。
勿論言葉には出さなかったが、頭の中は単純かつ強固な決意で満ちていた。それが若干、声に表れていたのだろう。俺をジッと見つめた村雨は、やや満足気な笑みを浮かべた。
「フフッ。良い返事だな」
そして卓上のティーカップに手をかけた後、静かに語り始める。
「昨晩も聞いたと思うが、いま我々は2つの敵と睨み合っている。片や同じ横浜の大鷲会、そしてもう片方は伊豆の斯波一家だ。無論、この状況は決して喜ばしいものではない。ゆえに、まずは大鷲会をの方から片づけようと思う。斯波と事を構える前に大鷲会を潰して、横浜を村雨組の手で完全に制圧してしまうのだ。それが成されれば、我々の元には今以上のシノギが転がり込んでくるだろう。自ずと、足場を固めることにも繋がる。斯波と戦うための力が整うというわけだ」
「たしか、それまでの間は本庄さんにもう片方の動きを抑え込んでもらうんだっけ?」
「ああ。斯波を牽制するのに、あの男が如何なる術を用いるのかは皆目見当もつかぬのだがな。私としてはあまり不確定な要素に身を委ねたくないが、状況が状況だ。やむを得まい」
そう言って紅茶をひと口啜った村雨の目には、少しばかりの懸念の色が見て取れた。
中川会随一の切れ者といえど子分がたった9人しかいない本庄が、一体どうやって1000人規模の兵力を誇る斯波一家の干渉を封じるのか。俺にも、まったく想像がつかなかった。きっと今回も彼らしい策略を弄して頭脳戦を展開するのだろうが、先行きは不透明だ。
とりあえず、しばらくは本庄を信頼して任せる他ない――。
様々な不安材料が持ち上がってくるが、いまの自分達に出来ることは目の前に立ちはだかる敵=横浜大鷲会を倒すことだけ。ここで悩んだところで、何も始まらないのだ。俺も村雨も、ほんの細やかな希望的観測に賭けて話を前に進めるしかなかった。
「……俺は何をすればいい?」
「お前の役目は陽動と攪乱。徹底的にな」
「ん? それって、どういう……?」
村雨は言った。
「敵の目を欺きつつ、組織の統制を内側から破壊してやることだ。そもそも、我々と大鷲会では兵の数に10倍近い差がある。正面からマトモに戦っては骨が折れるし、何より手間がかかる。だからこそ、敵が疑心暗鬼に陥って自ら崩壊するよう仕向けるのだ」
「具体的にどうやんの?」
「お前は未だ、敵方に面が割れていない。それを活かして大鷲会の人間に成りすまし、同じく大鷲会の代紋を掲げる者を手当たり次第に殺せ。連中は身内に攻撃されたと思い込んで混乱し、やがては内輪揉めを始めるだろう。そうして組織の中に動揺が広がった隙を突き、一気に攻勢をかけて壊滅させる」
つまりは、大鷲会の内部抗争を煽って最終的には分裂・崩壊に追い込むということ。たしかに最初から正攻法で挑むよりも、その策を用いて相手の数を事前に減らしておいた方が良いに決まっている。話を聞く分には、シンプルかつ効率的な方法だった。
(だけど……)
大鷲会側の立場で考えてみれば、どうにも確信が持てなかった。急に仲間が殺されたとなれば、抗争相手である村雨組の仕業と考えるのが自然といえよう。少し思慮をめぐらせてみたものの、身内の犯行と信じ込ませるトリックが浮かんでこない。
しかし、その時。
「おい。例のものはどうした?」
「あ、いま取ってきます!」
入り口付近に立っていたチンピラに、村雨が声をかけた。問いを受けた男は慌ただしく食堂を出て行くと、ほんの1分ほどで再び戻ってくる。どうやら、組長から俺に渡す何かを預かっていたらしい。
戻って来た彼の手にあったのは、2枚の写真。
「ほらよ」
そう言って、組員は俺の前に並べて見せる。映っていたのは、それぞれ厳めしい顔つきの男。ただ、まるで見覚えが無い。いずれも初めて目にする顔である。
(ん? 誰だ……?)
突如渡された写真をジッと見つめていると、向かい側の村雨が説明をよこしてきた。
「まず、1枚目は藤島茂夫。横浜大鷲会の会長だ」
角刈りにした白髪と釣り上がった太い眉、それから口元と顎に蓄えた立派な髭が特徴的な老人で、年齢は見たところ60代後半といった辺りだろうか。皺とともに顔の節々に刻まれた古い傷跡も相まって、老練な貫禄を放っている。
写真の中で着ているのが和服なのもあってか、まさに「昔気質の頑固な親分」といった風貌だ。村雨曰く、実際の人物像も俺の印象とさほど違わぬようである。
「藤島は義理人情とやらを何よりも重んじる男でな。近頃の煌王会にはまず居ない、ひと時代前の任侠精神を地で往く極道だ。私と違って汚いシノギには一切手をつけず、高利貸しさえやらぬと聞く」
カタギに害を及ぼす行為を何より嫌い、組織内でもご法度にしているという藤島。ヤクザにとっては基幹的な収入源であるみかじめも、相手が自ら保護を求めてきた場合を除いて取らない主義らしい。
覚醒剤やMDMAといった麻薬の密売や人身売買で荒稼ぎする村雨とは、言うまでもなく対照的な存在といえよう。喩えるならば、水と油だ。
また、藤島は「極道は地域社会に尽くすもの」という強固な信念を持っているらしく、実際に横浜の街を長きにわたって表・裏の両方で守り続けてきた功労者でもあるとのこと。ゆえに、彼のことを敬意をこめて“ハマの守護神”と呼ぶカタギの市民も横浜には多いのだとか。
そんな藤島にとって、数年前から横浜で活動を始めた関西=煌王会系の村雨組は街の安寧秩序を脅かす外敵以外の何者でもなく、事実上の冷戦状態にある。ちょうどその頃は、たしか公共施設の建設工事の利権をめぐって両組織の緊張が過去最大級に高まっていた時期だと思う。
とはいえ、当時までに村雨組と大鷲会が全面衝突に至ったことは無いそうで、過去には小規模なトラブルや諍いが散発的に続いてきたのみ。それがここへ来て、いよいよ戦争の火蓋が切って落とされるというわけである。
「なるほど。じゃあ、この爺さんを殺せばいいのか?」
「違う。2枚目を観てみろ」
村雨に言われるがまま視線を移した、もう一方の写真。
そこにあったのは上下真っ白なスーツに身を包んだ、長身の男の姿だった。ストライプの入ったジャケットの中に黒のシャツを着込み、首元は花の模様があしらわれた灰色ネクタイを締めている。
瞳はやや小さくて細めだが、剃り上がっている眉のせいで一切の弱々しさを感じない。肩のあたりまで伸ばした黒の長髪を後ろで束ねた、これまた独特の雰囲気を放つ人物である。
「……こいつは?」
「笛吹慶久。横浜大鷲会の本部長だ。シノギの大方を取り仕切っている男で、組では若頭に次ぐ3番目の序列にある。実はこの笛吹という男、会長の藤島とは長いこと揉めていてな。近頃では謀反の噂も聞こえてくるほどだ」
「へぇ。そうなのか。けど、なんか律儀っていうか……めっちゃ真面目そうに見えるけどな」
しかし、実際はそうではないらしい。村雨がそれまでに収集した情報によると、笛吹は己の立身出世に意欲を燃やす野心家とのこと。組の方針をめぐって藤島とはしばしば対立し、険悪な仲になりつつあるという。
「さっきも言ったが、藤島にとっては横浜が全て。街の外へ勢力を拡げんとする欲は無い。横浜さえ守れれば、あの老人にとっては十分なのだ。ところが、笛吹は違う。奴の関心事は専ら領地の拡大。変わりゆく時代の中でも変わらず組織を守っていくには、それこそが最も肝要であると考えている男だ」
ゆえに、笛吹は大鷲会の東京進出をこれまでに何度も主張。その都度、藤島に悉く一蹴され続けてきた過去がある。だが、それでも笛吹は諦めず、やがて彼は会長の意向を無視し独断で東京にてシノギを行うという暴挙に出てしまったようだ。
なお、この話に関しては俺も少しピンと来ていた。
「そういえば、本庄さんが言ってたな。最近、五反田で勝手にショバ代を取ったり、麻薬を売ったりするアホがいたって。それも、その笛吹って奴がやったことなのか?」
「ああ。正確には、笛吹の息がかかった現地のチーマーという話だがな。たしか、名前はベルセルクだったか。まったく。どこの街でも半端なガキは厄介なものだ」
ベルセルク――。
数秒の間を置いて、ようやく思い出した。あれは俺が横浜を逃げ出して五反田へ流れ着いた最初の夜、宿に選んだ漫画喫茶を襲撃した集団である。漫画喫茶の店主にショバ代を要求し、店主が拒否するや否や袋叩きで暴行。
それを俺が制止し、全員ボコボコに返り討ちにしてやった。皆、喧嘩の「け」の字も無いほどに弱かったので、さほど記憶にも残っていなかった。まさか、連中が横浜大鷲会本部長の手足として動いていたとは。
さらに記憶を掘り起こしてみれば、彼らはこんな事を言っていた。
『俺たちにだって“後ろ盾”はいるんだよ』
何も気にせず聞き流していたが、おそらく笛吹のことを指すのだろう。最も、ベルセルクの面々は全員本庄組に処刑されてしまったので“後ろ盾”になるどころか、捨て駒として切り捨てられたも同然なのだが。
(なるほどな。そういうことだったか)
自分が過去に遭遇した事件と、これから対峙しようとしている敵が思わぬ形で繋がっていた。極道社会というものは思いのほか、狭い。そして時に、恐るべき因果をもたらしたりする。
少しせつなさに似た感情がこみ上げてきた俺は、大きくため息をついてしまった。
「ん? どうした?」
「いや。何でもない。ただ、ちょっと笛吹のやり方がセコいなと思ってさ」
「そうか。では、話を戻すとしよう。お前が知ってるかは分からんが、そのベルセルクの者どもは後に中川会に捕縛され、拷問の末に自分達の雇い主が大鷲会の笛吹であることを吐いた。無論、中川の上層部は激怒し、すぐさま藤島宛てに不可侵協定の違反を糾問する旨の書状を送った。そうして、藤島は己の目の届かぬところで勝手に動き回っていた笛吹の所業を全て知ることになったわけだが……奴は一切の罰を受けなかった。何故だと思う?」
「うーん。何だろ。『稼ぎ頭だったから』とか」
俺の答えに、村雨は大きく首を横に振る。
「違う。藤島はカネに左右される男ではない」
「じゃあ、子分に情があったから?」
「それも違う」
昔気質で頑固一徹、特に身内の不始末には人一倍厳しいという藤島。そんな彼が、無断で街の外へ踏み込むという謂わば反逆行為をやらかした子分を不問に付した理由は、一体何なのか。頭を捻って考えてみたが、適切な答えがまるで出てこない。
(えっ、どういう意図だ?)
傍から見たら「そこまで深く考え込まなくても良いのに」と思われるかもしれないが、その時の俺は真剣そのもの。本気で当てるつもりだった。この問いも、俺に対する試験のような気がしてならなかったのだ。ならば、見事に正解を導き出してみせる方が良いに決まっている。
ところが、10秒ほどで時間切れ。俺が言い当てる前に村雨の口から出てきた模範解答は、こちらの想像をはるかに凌駕するものだった。
「藤島が笛吹を断罪しなかった理由。それは、組の維持だ」
「組の維持?」
「ああ」
再び、村雨は説明を始める。
「大鷲会には笛吹を慕う下っ端が多くてな。下手に追い出せば、その者たちが一斉に笛吹の後を追って組を割りかねん。そうなったら大鷲会は分裂。忽ち、いまの勢いを失ってしまう。さすがの藤島とて、それだけは避けたいのだろうな」
「えっ、そんなに人気なの? そいつ」
「少なくとも、藤島よりはな。大鷲会は元来、藤島が戦後の焼け野原から己の器量一本で旗揚げした組だ。今日の栄華があるのも、藤島の手腕の賜物であることは間違いない。しかし、奴のやり方は時代に合わなすぎる。古き良き任侠道を掲げたところで、今どき米粒ひとつ手に入らぬ。平成の時代に極道が生き残っていくためには、シノギの方法を変えていく他ないのだ」
ヤクザが効率的に金を稼ぐためには、麻薬を売ったり娼館を経営したりするのが最も手っ取り早い。しかし、藤島はそれらの行為を「任侠道に反する」という理由で蛇蛙のごとく嫌っている。
おかげで横浜大鷲会の構成員たちは、賭場の開帳や用心棒といった昔ながらのやり方で稼いでいくしかない。にもかかわらず上納金の額が変わらないというのであれば、下っ端連中にフラストレーションが溜まるのも必至だろう。
そんな彼らの受け皿となっているのが、笛吹なのだという。
彼は経済的に困った組員たちの相談に乗り、時には生活の面倒を見たり、上納金を肩代わりするなどして確固な信頼関係を築いてきた。村雨によると、人望は今や会長を超えているらしい。
(なるほど。藤島もそれが分かってるから、笛吹を破門にできねぇのか……)
考えてみれば、実に分かりやすい構図である。あくまでも任侠道に基づく古いやり方に固執する会長ら保守派に対して、組織の近代化を推し進めんとする笛吹ら改革派。
村雨が考えていた作戦とは、そうした横浜大鷲会内のイデオロギー闘争を利用したものだった。
「涼平。今回のお前の“仕事”は、藤島の仕業に見せかけて笛吹を殺すことだ。そうすれば、奴に靡く連中は本部長が会長に粛清されたと怒り狂い、積年の恨みを爆発させて現体制に反旗を翻すであろう」
「で、あんたはその隙を突いて一気に攻め込むってわけか?」
「そうだ。頃合いを見計らって、奴らの本丸を落とす。また、私は時を同じくして大鷲の下っ端どもに誘いをかけるつもりでいる。『今のうちに村雨組に寝返れば、将来を約束してやる』とな。容易い話だ。負ける気がせん」
さながら三国時代の軍師を彷彿とさせる、明快な勝利の方程式。徹底した武闘派と噂されているだけあって調略に長けたイメージが無かった村雨組長が、このような策を立てていたとは。予想外というか、少し見直してしまった。
ただし、その作戦の中核を担うのは俺だ。
与えられた“仕事”は、横浜大鷲会本部長・笛吹慶久を殺すこと。それも普通に殺すのではなく、会長・藤島茂夫の犯行に偽装するという条件が付いていた。些か、レベルが高すぎる気がしてならない。
「涼平。よろしく頼むぞ」
「あ、ああ! 任せてくれ!」
表面上は明るい返事をした俺だったが、心の中ではさっそく思案が始まってしまった。




