魔王と蠍、そして密約。
同盟――。
本庄の口から飛び出したこの2文字の単語に、室内はしんと静まり返ってしまった。それだけ、俺も村雨も全くもって予想もしていなかったということだろう。実に突拍子もない申し出だ。
まず、中川会と煌王会は冷戦状態。いつ、どこで、何をきっかけに全面戦争が始まっても決しておかしくはない、非常に張りつめた緊張関係である。極道社会において代紋違いの兄弟盃はさほど珍しい話ではないが、中川と煌王の間では流石に実現不可能のように思えた。
仮に盟約を結んだとして、関係が表に出れば厄介だ。最悪の場合、互いの組織で“内通者”と疑われる危険性すらある。俺と全く同じ感想を抱いたのか、村雨はあからさまに顔をしかめた。
「貴殿と私が組むだと?」
しかし、本庄は平然と答えてのける。
「せや。その方が、将来的にもええと思うてな」
そもそもこの料亭へ来る前、彼は俺たちに「わしはこれから、横浜を制圧する!」と宣言していた。中川会本家に依らず、本庄組独自で横浜を手に入れる将来構想を打ち出していたのである。それが何故、数時間後の今になって「村雨と組む」という話に至るのだろうか。どうにも、理解できない。
(まさか、気が変わったのか……!?)
とはいえ、本庄利政という男が目先の情に流され易い人物でないことは、俺もよく分かっていた。彼の行動の裏には必ずと言って良いほど、野心に基づいた打算が潜んでいるのだ。ゆえに俺は、本庄が村雨が置かれた状況に同情し、それまでに抱いていたプランを急に翻したようには思えなかった。
進退窮まった人間に表向きは善意を装って取り入り、相手に力を貸すように見せかけて裏では巧妙に暗躍してジワジワと内部を侵食し、最終的には全てを奪い取る――。
五反田の蠍の常套手段だ。この狡猾な手法の恐ろしさを俺は大井町で、嫌というほどに思い知らされている。きっと今回も、何らかの思惑があるのだろう。そうとしか考えられなかった。
村雨もまた、露骨に疑念をあらわして本庄に問う。
「……何が目的だ?」
「利害の一致ってやっちゃ。わしとあんたは、目指すところが一緒や思うてのぅ。もちろん、代紋が違うんは百も承知やけど……」
「くらだぬ冗談を言うな。煌王と中川がどんな間柄にあるか、貴殿も承知しているはずだ。謂わば“仮想敵”の私と組めばいかなる因果を招くか、分からぬわけではあるまい」
「そら、バレたらめんどいことになるやろうな。お互いに本家の心証は悪なるやろうし、場合によっては裏切り者扱いされるかもわからへん。せやけど、逆に言うたらバレなきゃええねん。表に出さえしなけりゃ、何の問題もあらへんわけや。そやさかい、お互いバレへんように気ぃつける。シンプルな話やないけ」
そういった類の問題ではなく、何故このタイミングで「同盟」の2文字が出てくるのか。一気に募った猜疑心を吐き出すかのように、村雨は眉をひそめて質問をぶつける。
「兄弟の盃を交わせと言うのか?」
「違うねん。あくまでもわしと村雨はんだけの、水面下での協力関係や。ほんまやったら、五分盃でも交わすのが一番なんやろうけど。そんなんした日にはバレてまうやん」
「盃事ではなく、私と貴殿の間の個人的な取り決めということか。なるほど。理屈としては分かる。だが、仮にそれを結ぶとして……そちらに何の利点があるというのだ? 貴殿とて、何の見返りも無しに格下の者へ手を差し伸べるほどお人好しでは無いだろう?」
「うーん。せやなぁ」
少しばかりの沈黙の後、答えは返ってきた。
「出世払いで構へんで。あんたが煌王で偉なってから、ここぞって時にわしを助けてくれや。それまで何年かかっても、わしは気にせぇへんさかいな。あんたが返せる時に恩を返してくれたら、それでええ」
「ほう。恩を売ろうというわけか。この私に」
「ま、そういうことになるわな。20代やそこらで『魔王』って呼ばれてるくらいや。あんたはこの先、必ず関西で……いや、この渡世で成り上がってくとわしは思うとる。もしかしたら、天下を取ってまうかもわからへん。そんだけの貫禄ってもんをあんたからは感じるんや。なら、今のうちになんぼか恩を売っとった方がええやろ」
「天下を取る? それほどの器の持ち主だと?」
自分を買いかぶり過ぎだと言わんばかりに、やや困惑を混じえて尋ねた村雨。すると、本庄は首を縦に大きく振って見せる。
「おう。我ながら、わしの人を見る眼はいつも正確やさかいな。かれこれ渡世に20年以上はおるけど、読みが外れたことなんか1度たりともあらへん。あんたはそのうち、誰も手ぇ付けられへんくらいの怪物に化ける思うんや。さほど、遠ない未来にのぅ」
「本気で思っているのか?」
「当然や。思うてへんかったら、最初からこないな所には来ぇへんで」
穏やかな笑みを浮かべた本庄だが、その表情はひどく不気味に見えた。口角こそ上がってはいたが、目元が全く笑っていない。その瞳の奥で、底知れぬ野望の炎がメラメラと燃えているような気がした。確実に、何かを企んでいる時の顔。
(同盟を組むと見せかけて、水面下で侵略するつもりなのか……?)
そんな懸念を拭い去ることが、俺にはどうしても出来なかった。やはり、大井町での出来事が脳裏をよぎってしまう。無実の天ぷら職人が大量殺人の罪を着せられた挙句、土地と財産を奪われたあの忌まわしい一件が胸を離れないのだ。
現に本庄は山崎以下、己の子分らに「本庄組だけで横浜を獲る」と宣言している。人数的に難しいようにも見えるが、彼の知略をもってすれば割と容易いのかもしれない。きっと今回も、協力するふりをして秘密裏に謀りごとを進める腹積もりなのだろう。
ゆえに、本庄の申し出に安易に乗っかることは避けた方が良いように思われた。狡猾さからくる甘言の類に流され、全てを失ってからでは遅い。転ばぬ先の杖というものだ。ここはいったん受け流し、もっと詳しく話を聞くのが得策といえよう。
だが、当の村雨は違った。
「わかった。応じよう」
思いのほか、ひどく前向きな返事をしたのである。先ほどと同様に、断固たる態度で拒絶するものだとばかり考えていた。あまりにも意外な返答に、俺は腰が抜けそうになってしまう。
(えっ!?)
将来的に天下を取る器だの怪物に化けるだのと持ち上げられて、すっかり気をよくしたのか。それとも、思いがけず降って湧いた“同盟”の話に微かな希望の光を見出したのか。
もちろん、村雨が左様に単純な人物でないことは知っていたが、本庄の謀略の恐ろしさを痛いほどに分かっている身としては素直に賛同できぬ話だ。お世辞にも、賢い選択だとは思えない。
(もしかして、この人は本庄さんのヤバさを知らないのか……?)
真意のはっきりしない怪しい提案であるにもかかわらず、あっさりと受け入れてしまった村雨。無知が過ぎるとは思わなかったものの、俺は目の前で堂々と構える彼の判断を疑わずにはいられなかった。
それでも、両者の対話は続いてゆく。
「ほう。こらまた、意外やな。てっきり、断られるもんだ思うとったさかいのぅ。まあ、あんたが乗ってくれるのならええわ。ほんまに、おおきにな。わしもあんたのために本腰を入れて……」
「そんなことはいい! それより、目的を聞かせろ。私に恩を売りたいのは分かった。だが、貴殿は先刻『目指すところが一緒だ』と言ったな。あれはどういう意味だ? どこに利害の一致があるというのだ?」
「斯波をシバくこと。なんつってな」
「何だと?」
困惑気味に尋ね返した村雨に、本庄は苦笑いを浮かべて頷いた。
「ああ、いちおう言うとくけど駄洒落と違うぞ。真面目な話や」
「分かっている。だが、どうして貴殿が斯波を相手にする必要がある? 本庄組と浜松の間には、何の因果も関わりも無いであろうに」
「実は……あるんや」
その瞬間、本庄の様子が一変する。微笑みをたたえていた口元がキュッと引き締まり、突如として真顔になったのだ。連鎖するかのように、室内の空気感も一気にひんやりとしてくる。
「昨日、里中のガキがカチコミかけてきた時に連れとった兵隊が全員斯波の人間やったって話は……さっき教えたよな? わしとしては、これにケジメをつけなあかんのや」
「斯波に報復がしたいというわけか」
「せや。わしは中川の直参やさかいな。売られた喧嘩にはきっちり落とし前をつけな、組の代紋に泥を塗ることになる。それに、のぅ……」
低い声のトーンを維持したまま、本庄は続ける。
「村雨はん。この際、あんたに横浜を獲らせたろ思うとんねん」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味や。村雨組が他所を蹴散らして横浜を丸ごと手中に収める。わしは、その手助けをしたろ思うてるんや。あんたが思う存分、横浜で暴れられるようにな」
1998年当時、村雨組は横浜を完全掌握していたわけではなかった。その頃の領地は、組長が邸宅を構える山手町を拠点に桜木町、北仲通周辺の港湾地帯など、せいぜい数か所程度。
そうした中で、村雨は他の関東系の組や、中国もしくはロシアといった外国系の犯罪組織と街の覇権をめぐって日夜抗争を繰り広げていたのだ。そこに本庄は加勢しようというわけである。
「たしかにな。正直に申せば、力を貸してくれるのはありがたい。私とて、そろそろ横浜を固めねばと思っていたところなのでな。だが、貴殿の利益は何だ? 私の助太刀をすることで、貴殿に何の旨味があるというのだ?」
「そらぁ、もう、旨味しかあらへんわ。横浜全体を押さえたとなったら、それ手土産にあんたは煌王の直系に昇れるんやろうし。直系に昇ったら、斯波に気ぃ遣わへんでも自由にシノギができんねんで。ああ、他にもあったわ。東京に目障りなハエが入って来なくなるっちゅう、最高の旨味がな」
「目障りなハエ……もしや、大鷲会のことか?」
「せや。あいつら、最近は五反田でもチラホラ見かけるようになってのぅ。わしのシマで悪さばっかりしよるさかい、困っとったんや。あんたが横浜を制圧して連中を一掃してくれたら、大助かりや。わしだけじゃのうて、中川会全体にとっても好都合なんやで」
大鷲会――。
以前、本庄組の事務所に居た時に山崎から少しだけ噂を聞いたことがあった。正式名称を横浜大鷲会と云うこの組織は、横浜の地で古くから勢力を張る名門所帯。南区真金町に本拠地を置き、構成員は500人前後くらい。
山崎曰く、戦後の闇市を暴力で牛耳った愚連隊に起源を持つといい、他所のいかなる組織の傘下にも属さない所謂「一本独鈷」を貫き続けてきた筋金入りの武闘派だ。
90年代に横浜へやってきた村雨組とは犬猿の仲。無論、同じく関東に根を張る中川会ともこれまでに何度となくトラブルになっているそうで、東京に立ち入らないことを条件に大鷲会の横浜での活動を黙認する約束事が前年に締結されたと聞いていた。
本庄の話では、今年に入ってから大鷲会の末端のチンピラが五反田や目黒、さらには池袋あたりで頻繁に目撃されるようになったという。また、一部では覚醒剤の密売などで荒稼ぎする輩もいるのだとか。
これは前述の不可侵協定の明確な違反であり、中川会に対する敵対行為だ。本庄としても、彼らを快く思っていないのは当然だろう。
「退治しようにも、わしが横浜へ足を踏み込んでまうと問題になるさかいのぅ。今日の今日まで、手ぇこまねいとったんや。せやから、あんたには大鷲会をぶっ潰してもらいたい。その間、わしらは斯波の動きを止めとく。ええ策があるんや」
「なるほど。では、私は浜松の出方を気にせずとも横浜での戦に専念できるというわけか……うむ。妙案だ。貴殿が斯波を東京に引きつけてくれるなら、私は大鷲会と刃を交えている間に西から攻められなくて済むのだからな」
「そうや! んで、大鷲会が片付いたら今度は本庄組と村雨組が一緒になって斯波と戦うて壊滅させる。そしたらあんたは横浜のすべてを手にできる上に直系へ昇格できて、わしは斯波からケジメが取れるっちゅう寸法や!」
「フフッ。無謀な道ではあるが……冥土の土産話くらいにはなりそうだな。良かろう。貴殿の申し出に応えてやる」
もはや、両者はとんとん拍子で同盟へと進んでいくようだった。会話の雰囲気から察するに、ここまで来て「やっぱり止めておく」などという選択肢は有り得ないだろう。何故か、村雨が乗り気なのである。
(ついさっきまで、死にたいとか言ってなかったか……?)
愛娘のために自らを終わらせる覚悟を決めた清々しさは、目の前の男が放つ言葉の節々からは微塵も伝わってこない。表情にしても然りだ。破滅へと向かう己の運命を在るがままに受け入れんとしていた先ほどの神妙さが、すっかりと消えている。
完全に、いつもの強気な村雨の姿勢に戻っているのだ。
室内には時計の類が一切無かったために正確な時刻こそ分からなかったが、自分の体内時計では30分も経っていなかったと思う。たったそれだけの間に、ここまで変化するものなのか。彼の異様ともいうべき感情の切り替わり様に、俺は強い違和感をおぼえた。
かと言って、下手に口を挟んで真意を尋ねる勇気も無い。村雨が自ら死を望まなくなっただけでも、良しとするべきだろう。これで当面の間は、絢華が再び父親を失う心配も無くなるのだから。
様々な思いを抱きつつも、俺は静かに己を納得させることにした。




