思いがけない提案
その時、本庄が静かに口を挟んできた。
「なるほどのぅ。やっと合点がいったわ。あんた、最初から死ぬつもりやったんやな? 的屋の庭場にノコノコ踏み込んだんも、さっきわしを挑発したんも、全ては命を取られるため。ここで殺されて死ぬのが、あんたの望みやったわけや。ちゃうか?」
「……ああ」
コクンと頷く村雨。ほんのわずかにも瞬きをすることなく、彼の視線はまっすぐに前を見据えている。いつになく神妙な面持ちはさながら、悟りをひらいた修験道者であろうか。
破滅――。
即ち、終わりへと向かう己の運命をしっかりと見極め、在るがままを受け入れようとする「諦観」の表情。彼の中において、死への恐怖などは到に捨て去られているのだろう。他の誰にも真似は出来ない確固たる覚悟と矜持の2つが、前に座る村雨からはうかがえた。
無論、こんな彼を見たのは初めてである。横浜に居た時に間近で見てきた姿とは、まるで比べ物にならない。野心に満ちあふれた残虐魔王の面影が、一切感じられなくなっていたのだ。
(いったい、どうしたっていうんだよ……?)
俺は戸惑いを隠せなかった。
海外で行われる絢華の手術が成功すれば、彼女は身体の自由を取り戻すことができるというのに。そうすれば、また父娘2人で幸せに暮らしていけるはずなのに。明るい未来が、すぐそこまで見えているのだ。
普通に考えればプラスしかない状況で、何故に村雨は自ら死を望むのか。俺には理解することはおろか、想像をめぐらせることもできなかった。
一方、本庄はあくまでも淡々と会話を続けてゆく。
「あんたが何を一番心配しとんのか。そら、お嬢ちゃんのことやわなぁ。たしか、今はアメリカにおるんやったよな。いろいろと調べさせてもろうたわ。そこで手術を受けて、リハビリして、秋口には日本に帰ってくる予定だとか。でも、あんたは自分が邪魔になる思うとんのやろ? 極道である父親の存在が。このままだったら、またお嬢ちゃんがドンパチに巻き込まれかねん、ちゅうて」
「そうだ。そもそも絢華がああいう身体になったのは1年前、敵の鉄砲玉に襲われたからだ。あの頃、我らは港の仕切りをめぐって横須賀と揉めていてな。連中は私への報復のつもりで絢華を狙ったそうだ。これは私が極道だったゆえに起こった出来事だ。ゆえに、私は決めたのだ。もう2度と、絢華を極道の世界の戦火に巻き込まぬことを」
「ま、気持ちは分かるで? わしにも娘が2人おるさかいな。あの子らがドンパチの巻き添えを食うたらって、考えるだけでもゾッとするわ。せやけど、わざわざ父親が自ら死ぬことは無いと思うで。子供にとっても、親を失うんは耐え難い話やろうし」
「しかし、私が生きている限り……あの子は狙われるのだ。手向かう者があらば、身内ごと標的にかけるのが平成の渡世の常だからな。その危険に絢華を晒すわけにはいかない」
ようやく、全てが分かった。
抗争で愛娘を傷つけてしまった1年前の出来事が、村雨耀介にとって痛恨の不覚となったのは言うまでもないだろう。幾ほどの時が流れようと決して拭えはしない、永遠の悔恨が彼の胸には刻まれたはずだ。
同じ悲劇を繰り返してなるものか――。
そんな思いを強く抱いていたからこそ、村雨は覚悟を決めたのだ。自らが死ぬことで全てにケリをつけ、全ての因縁を断ち切ろうとしていたのである。これまでに己が作り上げてきた、あらゆる遺恨と禍根に。
「ほう。なら……あんたは精算しようとしているわけやな? お嬢ちゃんのために、忌まわしい過去を。自らの命で」
「そういうことだな」
他にも、村雨の中には絢華の未来を浄化せんとする意図もあったと思う。
ヤクザの娘である限り、彼女には抗争の火の粉が降りかかるリスクが常に付きまとう。避けられない宿命だ。ゆえに自ら死を選ぶことで、それを払拭しようと考えていたのだろう。
「たしかに、寂しい思いはさせるだろう。あの娘の心の傷をさらに深くしてしまうやもしれぬ。しかし……それでも私が死ねば、絢華は解放される。『極道の娘』という呪縛から」
「で、あんたは死ぬしかないと?」
「そうする他に道はない」
ざっくりと聞いた限りでは愛娘のことで頭がいっぱいになった挙げ句に自棄を起こし、極端で破滅的な考えに取り憑かれているようにも感じられる村雨の態度。
だが、彼は己が置かれた情勢を冷静に見据えているようだった。
「私は今、浜松の斯波一家と事を構えている。貴殿も知っているだろうが、私は数ヶ月前から斯波に上納金を納めていない。連中から独立し、煌王会直系への昇格を目指していたのだ。ところが、そこに思わぬ強敵が加わってしまった」
「中川会のことやな?」
「ああ。まさか、中川を敵に回すとは夢にも思っていなかった。斯波だけなら未だしも、関東だけで2万の兵を有する中川が相手では流石に不利だ。さっきも言った通り、戦は数ではない。だが、守るべき者を抱えているとなれば……話は別だ」
本庄は頷く。
「せやなぁ。たしかに、村雨はんは一騎当千の極道や。たとえ中川会2万5000が相手でも大暴れできるやろうし、あんたほどの腕っぷしがあれば少なくとも10年は戦えると思うわ。下手すりゃ、東京を丸ごと壊滅させることも容易いやろ。けど、重要なんはその間や。お嬢ちゃんに危険が及ばん保証なんか、どこにもあらへんさかいな。あんたにとっての“負け”とは、お嬢ちゃんが死ぬことなんとちゃうか?」
「そうだ。このまま中川とも戦争になれば、真っ先に絢華が狙われる。それだけは、何としても避けなくてはならない」
後から知った話だが、当時は組同士の抗争に組員の家族が巻き込まれて死亡する事案が、全国で増えていた時代だった。流れ弾を食らうのではなく、最初から暗殺対象者として標的にかけられるのだ。前年に絢華が撃たれた件も、これに該当する。
だからこそ、村雨は彼女の今後をひどく憂いていたのだと思う。せっかくアメリカで手術を受けて元の健康な身体を取り戻したとしても、また敵に襲われるような事態が起これば全てが水泡に帰す。最悪の場合、命を落とすことにもつながりかねない話だ。
なら、常に娘の側にいて守ってやれば良いではないか――。
それは物理的に不可能なのだろう。事が起これば組長として、抗争の最前線で指揮を執らねばならない。親分が体を張ってこそ、子分たちの士気も上がるというもの。これは村雨が横浜に居た時から何かにつけて語っていた“責務”であり、また彼なりの“矜持”だと思う。
愛する者を完璧に守りながら抗争を勝ち抜くことなど、どんな人間にも出来はしないのだ。自分の命か、組の行く末か、はたまた家族の命か。有事に突きつけられる選択肢の中で、守れるのはたった1つだけ。
村雨の場合、残りの全てを犠牲にしてでも大切な家族・絢華を守ることを選んだというわけだ。それが苦渋の選択であったことは、決して想像に難くない。彼とて、悩みに悩んで決めたことであるはずだ。
とはいえ、容易に承服できる話でもない。俺は声を張り上げた。
「おい、ちょっと待ってくれよ! 村雨さん、あんたが死んだら絢華はどうなるんだ? これからアメリカで手術なんだろ? その後、独りぼっちでどうやって暮らしてくんだよ!」
「案ずるな。あの子がこれから生きていくのに不足のない分の金は、既に貯めてある。米国の妹にも託してある。少なくとも、あと5年は……」
「そういう問題じゃねぇだろ!!」
村雨の返答を遮った俺。このようなシチュエーションにおいて、後先考えずに感情を爆発させてしまうのは昔からの悪い癖だ。しかし、ここで言わなくては永久に後悔する。
「あんた、またあいつを苦しめるつもりかよ。あいつから実の親を奪っといて、また独りぼっちにさせるつもりかよ。何が『呪縛』だ。ふざけんじゃねぇよ!! いいか? 絢華にはもう、あんたしかいねぇんだ。あんたが唯一無二の父親なんだよ。あいつだって、これからの人生を父親と過ごしたいって強く思ってるよ。そんな時に……父親のあんたが消えてどうすんだよ!!」
その時の俺の中に、忖度や配慮といった感情の類いは一切無かった。ただ、思うところをストレートにぶつけてやるだけ。脳内で適切な語句を捻り出しながら、意を決して続ける。
「さっき、俺が絢華の想いを踏みにじったって、あんたは言ったよな? ああ、その通りだよ。間違いない。手術に立ち会うって約束しといて、俺はアメリカへ行けなかった。きっと、あいつは怒ってるだろうよ。約束を破った俺に、愛想を尽かしてるかもしれねぇ。だから……だからこそ、あんたが側にいてやるべきなんじゃねぇの? いや、側にいてやってほしい……これからも、ずっと!!」
言い終わるや否や、俺は深々と頭を下げた。
「頼む!!」
稚拙な懇願であることは、百も承知だ。とはいえ、俺にはどうしても出来なかったのである。愛する女のたったひとりの父親が、むざむざと死にゆく様を見過ごすことが。
(どうか、伝わってくれ……)
頭を下げている間、村雨は無言だった。つい数秒前の俺の台詞に、いったい何を思ったのか。目を伏せていたせいで分からないが、どこか先ほどとは違う気配のようなものを感じ取ることができた。
すると、本庄が口を静かに開いた。
「涼平の言う通りやで。いっぺん、頭冷やして考えてみぃや。わざわざ死ぬことなんかあらへんやろ。せやけど……今さら引退するわけにもいかへんしのぅ。ケツまくったところで、斯波ならとことん追い込みかけてくるかもわからへんし。戦うて家族を死なせるか、それとも自分の死と引き換えにでも手打ちに持ち込むか。もう、2つに1つしかあらへんわな」
また、彼は続けて問う。
「あんた、さっきは涼平をスパイ扱いしよったけど、ほんまはそんなん1ミリも思うてへんな? 勘の鋭い村雨はんのことや。ほんまはここへ来る前に、気づいとったんやろ。内通しとったのは涼平やのうて、里中のガキやったって。せやのに、さっきはわざと怒鳴り散らして涼平を責めた。そうすることで、涼平を復帰させへん口実ができるさかいな」
「どういう意味だ」
「そのまんまの意味や。いま涼平が横浜に戻ったら、滅びる村雨組と心中することになってまうがな。あんたにとって、涼平は磨けば光るダイヤの原石や。そんな未来ある若者を自分と一緒に死なせるんは惜しい、なんて思っとるんやろ。せやから、敢えてスパイの汚名を着したまま追い返そうとした。すべては、涼平の今後を守るために。どや? 違うか?」
「……貴殿の勝手な思い込みだ」
とは言ったものの、あからさまに視線を逸らした村雨。ばつの悪そうに唇を少しだけ噛んだ後、それ以上は何も答えなかった。間近で見ていた本庄は、ニヤリと目を細める。
「なんや、図星かい。思った以上に情の深い男のようやな。あんたは」
意外だった。
先ほど思いっきり怒鳴られた時点で、もはや村雨は俺に愛想を尽かしているものだと認識していたのだ。まさか、あれが本心でなかったとは。己の死を覚悟した村雨が俺を巻き込まない為に、敢えてあのような厳しい態度を取っていたなどとは、ゆめゆめ考えもしなかった。
「ま、そらさておいてだ。そろそろ、こっちも本題に入らしてもらおか。さっきは『条件』て言うたけど、今からあんたに話すのは『提案』や。このアホみたいな状況をどうにかブチ破れる、とっときのな。ほな、単刀直入に言わしてもらうで!」
少し間を置いた後、本庄は少し声を潜めて持ちかける。
「村雨はん。わしと組まへんか? 昔風の言葉を使えば……同盟や!!」
それは、思いがけない提案であった。




