サソリの罠
戦慄が止まらなかった。
本庄の指示で隠れた、高さ185センチ、幅45センチの密閉空間。外気を取り込む隙間が少ないせいもあってか、非常に蒸し暑い。ジッとしているだけでも、肌の表面に滴が浮かんでしまうほど。
その大半は、“冷や汗”だ。
横浜で因縁のあった里中が、30人の手下を引き連れて奇襲を仕掛けてきた。数では本庄組の3倍以上で、圧倒的に分が悪い。おまけに全員、拳銃を携行している。
そんな彼らと電話で折衝を試みただったが、あろうことか連中を事務所に通すという選択をしてしまった。何らかの策を練り上げた様子ではあったものの、決して楽観視できる状況ではない。
俺には、恐怖しか生まれなかった。
(大丈夫かよ……)
一方、ロッカーの扉の覗き穴から見える本庄は、至って冷静そのもの。いつもと何ら変わらない表情で、事務所の玄関ドアの方を静かに見つめていた。その隣には、2人の組員。それぞれ、拳銃を構えている。
入ってきた敵を待ち受けて、同時に射撃を浴びせる作戦なのか――。
されど、弾の数は足りない。襲ってくる村雨組全員を倒すには、あまりにも不十分である。その上、本庄たちの前には身を隠せる遮蔽物の類が、まるで無い。これでは銃撃戦になった際に悉く、やられてしまうではないか。
机やテーブルを動かしてバリケードでも作れば良いのに、とも思ったが、時間的な余裕に恵まれなかったのだろう。緊迫した場面の下、俺は心の中で祈る事しかできなかった。
やがて、数十秒後。
少なくはない数の靴が、事務所の階段を上る音が聞こえてきた。無機質な音をコツコツと響かせ、ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。室内の空気も、次第に張りつめたものへと変わってゆく。
「……」
緊張がピークに達した俺が、大きく息を吞んだ瞬間。
――ガチャリ!
玄関の扉が、開く音がした。入室してきたのは、3ピースの背広に身を包んだ痩せ型の男。
「邪魔するぜ!」
里中だ。タキシードを彷彿とさせる上下白の背広に、黒のワイシャツ。もう夏だというのに、首元まできっちり締めたネクタイの色は灰色で、いささか趣味の悪い組み合わせである。ヤクザらしいと言えば、ヤクザらしいのだが。
彼の後に続いて、厳つい集団がぞろぞろと入ってくる。
全員がノーネクタイの黒スーツで、里中とは正反対に比較的、地味な装いである。ただ、眉毛が剃り落されていたり、髪型がリーゼントやパンチパーマだったり、目元に大きな刃傷跡があったりと皆、個性的な風貌をしていた。
手には大小、様々な形をした拳銃を持っており、まさに臨戦態勢。中には、いつでも発砲できるぞと言わんばかりに、わざとらしく引き金に指をかけている者も見受けられた。
「……」
彼らは待ち構えていた本庄組の面々と相対し、睨み合う。緊迫した空気が、室内を包み込む。ロッカーの分厚い戸を隔てた俺にさえ、それは伝わってきた。まるで、猛獣の行き交うジャングルの中に1人、放り出されたような心地である。
(これから、どうなっちまうんだ!?)
撃ち合いが始まるのか。それとも、肉弾戦による乱闘か。他の何物にも代えがたい恐怖感と緊張で、俺の心は破裂寸前だった。手足の震えも止まらず、目は大きく見開いて、実に間の抜けた顔になっていたと思う。
沈黙は続く。
「……」
オフィス内で稼働するエアコンの動作音が、空気感にさらなる不気味さを添える。対峙したまま膠着状態となった両陣営が作り出した雰囲気は、どんどん重苦しく、澱んでいった。いま思い返してみても、まさに地獄のような時間だ。
そんな中、俺はある事に気づく。
(ん?)
エアコンの音に混じって、何かが聞こえるのだ。聴覚を研ぎ澄ましてみると、どうやら完全な静寂というわけではないらしい。ボソボソとした話し声が、わずかながらに耳へ飛び込んでくるではないか。
「おいおい…‥って……」
「これ……が……違ぇよ」
「どういうことだよ……じゃなかったのか……?」
覗き穴から状況を確認した結果、ざわめき立っていたのは里中たちだった。互いに顔を見合わせ、周囲をキョロキョロと見まわし、皆、ひどく落ち着かない様子だ。
俺はロッカーの中で、思わず首を傾げてしまった。
(どうしたんだ?)
拳銃を持って事務所に押し寄せておきながら、実力行使に出るわけでもなく、ただ冷静さを失っているだけの村雨組。彼らは、明らかに動揺していた。入ってきた際の威勢は、もはや消え失せている。
いったい、何があったというのか――。
思考の中で疑問が湧き起こった矢先、会話が聞こえてきた。
「里中さん、どういうことだよ! ただの工務店じゃなかったのか!?」
「いや、こ、これは……」
「話が違うじゃねぇか!! 中川の事務所を襲うだなんて、俺たち聞いてねぇぞ!」
純白のスーツに身を包んだ里中が、取り巻きの男と言い争っている。男は見るからに取り乱し、焦っている様子が窺えた。一方の里中も、大きく肩を落とし、呆然としているようだ。
すると、そんな彼らに本庄が言った。
「フフッ。やっぱ、勘違いしとったんやな。ぜんぶ、わしの計算通りや」
「……」
勝ち誇ったように笑う本庄の言葉に、うなだれる里中たち。俺は、兎にも角にも訳が分からなかった。
(勘違い? 計算通り?)
しかしながら、今は身を隠している真っ最中。ここで迂闊に顔を出して、本庄のこれまでの努力を水の泡にするわけには、断じていかないのである。渦を巻き始めた疑問の種には、そっと蓋をしておいた。
当事者たちの会話は、そんな俺を置き去りにするように繰り広げられてゆく。
「里中。わしをカタギの社長と、勘違いしとったんやろ? せやさかい、さっき電話で『土建屋ふぜいが』なんて、抜かしてきよった。こっちが中川の代紋を背負うてると分かっとったら、カチコミなんざかけられへんよなぁ。違うか?」
「いや、その……まさか、あなたが同業者……それも、中川会の直参だとは思わなくて……」
「ま、たしかになあ。うちは表向きには『本庄総業』っちゅう、何でも屋の看板出しとるさかいのぅ。パッと見てカタギの会社と間違うても、何ら不思議とちゃうな。無理もないわ」
「……あ、ああ」
すっかり、姿勢が低くなった里中。両足をガタガタと竦ませながら、背中を丸め、震える声で返事をしている。電話越しに怒声を浴びせ、こちらを口汚く罵っていた先ほどとは、実に対照的な姿と言えよう。
「せやけどな。それとこれとは、話が別や。なんぼ勘違いした言うても、他所の人間がうちの領地に土足で踏み込んで、事務所に弾丸を撃ち込んだ事実に変わりはあらへん。こういうの、わしらの業界じゃ『戦争』って言うんとちゃうか?」
「……」
「ワレ、自分が誰に向かって喧嘩売ったか、分かっとんのか? こちとら、中川の盃貰うとる身やぞ。それを知ってて、こないな真似をしでかしたんか?」
「い、いや……」
静かに俯き、返答に窮する里中。
どうにも彼らは、本庄組をカタギの建設会社「本庄総業」と思い込み、襲撃してきたようである。窓ガラスに向けて発砲したのも、電話口で傲慢な申し入れをしたのも、全ては相手が中川会の直参だと認識していなかったから。
そして、何も知らぬまま事務所内に踏み込み、室内奥の代紋入りの掛け軸を見て、ようやく事の重大さを理解するに至ったのであろう。
同時に、自分たちが敵にまわしてしまった相手が言わずと知れた本庄利政であることを悟り、戦々恐々となっているのだ。当時、彼の悪名は既に「五反田の蠍」として関東中に轟いており、その狡猾なやり方を恐れる者は多かった。
「おう、どないすんねん。さっさと答えろや。中川と戦争するのか、しないのか。そっちがその気なら、今すぐやったってもええんやで?」
「……」
「ククッ、出来へんやろうなぁ。おどれらは所詮、煌王の下っ端のチンピラに過ぎん。その分際で本家に断りもなく勝手に戦争を始めたとなったら、後できっついケジメを取らされる。その覚悟、あるんか?」
「……いえ」
鋭い眼光で恫喝の台詞を浴びせてきた本庄に対して、ついに丁寧語を使い始めた里中。どうやら、完全に屈服してしまったようである。連れてきた組員たちも皆、恐怖に震え、動けなくなる者ばかり。敵の戦意は、すっかり喪失していた。
そんな状況を好機と捉えたのか、本庄はなおも続ける。
「おい、里中。ワレに戦争する気が無かったとしても、や。わしの事務所に弾丸を撃ち込んだ以上、そいつは立派な『煌王会の宣戦布告』っちゅうことになる。この落とし前、どないしてつけるつもりや? おお?」
「か、勘弁してください。 窓ガラスの修理費用なら、きちんと弁償させて頂きます。もし必要っていうなら、小指だって詰めますので……」
「そんなんで済む話かい! ワレの指なんざ、鼻くそ1つの価値も無いわ。チンピラふぜいのケジメで、戦争が止まるわけあらへんやろ。ちっとは、頭を使って考えんかい!」
悲壮な面持ちの里中は、両ひざを床に着けて首を垂れていた。この動作を分かりやすい語句で表現するならば、まさしく「土下座」。カチコミに行った先で頭を下げる羽目になるとは、彼とて夢にも思っていなかっただろう。
そんな若頭代行に続くかのように、後ろの部下たちも武器を捨て、次々と平伏した。中には、額が床に接する勢いで土下座をする者まで見受けられる。まったくもって、情けない姿であった。
(みっともねぇ奴らだな。反吐が出る)
奇遇にも、俺とまったく同じ感想を抱いたのか。本庄は嘲笑った。
「おいおい、お前ら、恥っちゅうものを知らんのかい。ようもまあ、こないにみっともない真似ができるなぁ」
「お願いします! 勘弁してください!!」
「アホか。せやったら最初から、カチコミなんかかけてくるなや。何を今さら、必死こいて謝っとんねん。もう、おどれらの土下座で片付く話とちゃうわ」
「で、では……どうすれば?」
――バキッ!
その瞬間、鈍い音が響いた。本庄が、平伏している里中の顔を思いっきり、蹴飛ばしたのだ。
「ぐへぇっ!!」
蹴られた衝撃で上体がのけぞった里中は、たまらず後ろにひっくり返り、尻餅をつく。すぐ背後には土下座を続ける部下がいたので、彼を押しつぶす格好となってしまった。
「どうすればもこうすればも無いわ。このボケが」
「い、痛ぇ」
「自分のケジメでどうにもならんのやったら、答えは1つしかあらへんやろ……考えてみぃや。ガキみたいに足りん頭でも、分かりそうなもんやけどなあ」
しかし、里中は蹴られた鼻を両手で押さえつつ、苦悶の表情を浮かべて転げまわるだけ。他の者も、ただブルブルと身体を震わせるのみで、答えが返ってくることはない。
そんな彼らに数十秒の猶予を与えた後、本庄は低い声で言った。
「村雨耀介の首」
「えっ!」
「簡単な話や。おどれの親分に腹を切らして、その首を赤坂に届けろ。せやったら、いちおうのケジメにはなるからのぅ。本家も納得するやろ。わしとしても、それで手打ちにして構わへんで?」
思いもよらぬ条件の提示に、静まり返った一同。
「……」
しかし、本庄の姿勢に容赦はない。
「嫌ならええんやで。東と西の、中川と煌王の大戦争が始まるだけやさかいな。わしにとって、何ら不都合はあらへん。むしろ、運が良かったと言うべきかのぅ。おどれらのおかげで、絶好のチャンスが生まれたわけやし」
ひと呼吸ほどの間を挟んだ彼は、愕然とする里中たちに更なる一撃を浴びせるかのごとく、勝ち誇るように言い放つ。
「おどれらは、わしに機会を与えてくれたんやで……中川会、いや、本庄組が横浜へ攻め込む、繊細一隅の機会を!!」
その瞳は、たしかな野望で燃えていた。