意外な結果
1998年7月17日。
事務所のテレビは、夕方の帯のニュース番組を映していた。翌日から始まる3連休の話題に軽く触れた後、画面の向こうの女性アナウンサーが神妙な面持ちで言葉を紡ぎ出す。
『東京都品川区の飲食店で起こった集団食中毒について、速報です。警視庁は先ほど、業務上過失致死の疑いで経営者の男を逮捕しました』
その瞬間、雑用仕事に励んでいた俺の手がピタリと止まった。ブラウン管から聞こえてきた情報に、自然と反応してしまったのである。それは当時オフィスにいた山崎たちも同様で、みんな仕事を一時的に中断してテレビの前に集まった。
傍らにいた俺にも聞き取れる声で、組員が山崎に問う。
「カシラ。まさか、経営者の男って……?」
「ああ。あの爺さんだ」
一方、テレビは取材映像へと画面が切り替わった。
『逮捕されたのは、品川区大井町の「天ぷら処 おぐに」店主、小國正雄容疑者、64歳です。警察によりますと小國容疑者は12日、毒性のあるスイセンの葉を天ぷらとして12人の客に提供し、そのうち10人を死亡させた疑いが持たれています』
映像の中で小國は手錠をかけられ、両脇を警官にがっしりと抱えられて連行されていた。その際、彼は血走った眼で報道のカメラを睨みつけると、狂ったように叫んだ。
「違うっ!! 悪いのは私じゃない! ぜんぶ本庄が仕組んだ事だ! あいつに騙されたんだ! 最初から私を利用する腹積もりだったんだ! ちくしょうっ! 絶対に許さんぞーっ! 本庄ぉぉぉーっ!」
小國の声はアナウンサーによって、すぐにかき消される。
『……取り調べに対し、小國容疑者は意味不明な供述を繰り返しているという事です。警察は小國容疑者が一連の食中毒事故を故意に引き起こした可能性も含めて、調べを進めています。さて、続いては気になる週末のお天気です』
そこでニュースは終わってしまったが、組員たちは顔を見合わせた。
「なあ、いま親分の名前が出たよな?」
「たしかに。叫んでたな」
「でも、どういう意味かな? 『騙された』って……?」
「わからん」
しばらくの間、推察を交えて話し込んでいた3人の組員。だが、会話は次第に本筋から逸れていき、やがてはその日の夜はどこで酒を飲むかというテーマへ変わってしまった。
「まあ、どうでも良い話だよな。何にしたって俺たちは、ただ黙って親分についていくだけなんだし!」
「だな。あの人についてる限り、俺たちはガッポリ稼げるわけだしよ」
「違いねぇや! あはは!」
傍で黙って聞いていた俺は、あまりにもマヌケな連中であると感じた。そもそも組としては、自治会長の小國を通して大井町を牛耳る方針だったはず。その張本人が逮捕されるという“誤算”が生じたにも関わらず、彼らの表情に憂慮の要素は1ミリも感じられない。
(もしかして、こいつらは組長から真の狙いを聞かされてないのか? ずいぶんと呑気なもんだな)
ちなみに、この日は本庄が朝から不在だった。食中毒の件で死亡した魚屋の店主の葬儀に、顔を出していたためである。他にも犠牲者全員の告別式に参列するつもりだと、彼は週の冒頭に語っていた。
「わしが食事会を呼びかけたりせな、こんな事にはならへんかってん。まさか、小國はんが毒を盛るとは思わんかった。せやけどな、あの男の企みを見抜かれへんかったわしにも責任がある。葬式に出るのは、せめてもの礼儀っちゅうやつや」
また、香典とは別に葬式代の一部を補助し、全ての遺族へ見舞金を支払う意向のようだった。そこまでせずとも良いのにと山崎は諫めていたが、そうしなくては気が収まらないらしい。
本庄は火曜日から事務所へは姿を見せず、ずっと自宅と斎場を行き来する生活を続けていた。ゆえに先ほどは組員たちの気が緩み、うっかり「どうでも良い」などと口走ったものと俺は考えた。
だが、そんな部下たちの発言を聞いた山崎は窘めるどころか、みるみるうちに目を細める。まさに、上機嫌。やがては頬も緩ませ、ニヤニヤと薄ら笑いまで浮かべ始めたではないか。
(いったい、何を考えてるんだ……?)
気になった俺は直接、尋ねようとした。しかし、ちょうどその時。
「おう、涼平! ちょっと手伝ってくれ!」
それまでは廊下で黙々と作業をしていた前波から、急に呼び出されてしまった。慌てて彼の元へ向かうと、部屋の前に置いてあった空っぽの段ボール箱の山を処分するよう指示される。
処分すると言っても、単にゴミの集積場にぶちまければ良いというわけではなく、分解して紐で縛った後で、区営のリサイクルセンターまで持って行かなくてはならない。
環境保護やエコロジーといった概念が、現代に比べて大衆に浸透していなかった1998年当時、品川区は全国の自治体に先駆ける形で、ゴミと資源の分別に力を入れていたのだ。
難しい話は理解できないが、事務所から目的地までは徒歩で1km前後もある。実に、面倒な話だった。
「ったく……区が決めたルールなんか、無視すりゃ良いだろ。いちいち気にしてどうすんだよ……カタギじゃあるまいし」
「そういうわけにはいかんな。役所とは、持ちつ持たれつの関係で仲良くやってくのが本庄組の方針だからよ。つべこべ言わずに行って来い」
「チッ。分かったよ」
「おう、頼むぞ。6時には親分がお戻りになるから、それまでにな」
ふと前波の時計に視線をやると、時刻は午後5時15分。
(まあ、いいか。小國の件は、帰ったら聞いてみるか)
面倒臭さで重くなった体に鞭を打ち、俺は事務所を出て歩き出した。この日の五反田は、焼けるような日差しが照り付ける真夏日だったが、夕方になると暑さがだいぶ和らいでおり、ツクツクボウシの声と共に風がそよいだ。
「……フッ。なかなか、良いな。こうやって歩くのも」
不意に独り言が漏れてしまうほどに心地よい、夏の日の夕暮れ。出来る事ならベンチに腰かけ、のんびり風に当たっていたいが、生憎そのような時間的余裕は無い。俺は速やかに歩みを進めると、前波から教えられた順序通りに用事を済ませた。
その帰り道。
たしか、サニー通りを左に曲がった路地を直進し、事務所まであと10メートルくらいのところだったか。電柱の陰に、1人の男が隠れていた。
「ん?」
夏だというのに黒いジャンパーを羽織り、下は同じく黒のレザーパンツ。ジャンパーのフードを深めに被っていた上、両手には手袋をはめており、季節外れもいいところだ。見るからに暑苦しい格好をしている。
(変な奴もいるもんだな……)
わかりやすい言葉を当てはめるならば「不審者」の3文字が、適切だろうか。男は電柱の陰で微動だにせず、じっと身を潜めていた。どこからどう見ても、怪しい雰囲気である。
(こいつ、何者だ……?)
無視して通り過ぎても良かったのだが、彼が見つめる先には、本庄組の事務所。妙な気配と嫌な予感を同時に感じた俺は、背後から静かに近寄って、少し強めに声をかけてみた。
「おい!」
不意に声を浴びせられ、男の背中がビクッと震える。ほんの僅かな間の仕草であったが、その反応から俺は相手がひどく戦慄し、なおかつ動揺しているのを悟った。
すかさず、尋問のごとく次なる言葉をぶつけてみる。
「お前、ここで何やってんだ?」
「……」
「どうして事務所をジロジロ見てた?」
「……」
しかし、男は何ら言葉を発さない。こちらを振り向くこともせず、ただ背中を丸めて沈黙を貫くだけ。
「本庄組に、何か用でもあるのか?」
「……」
背を向けたまま、ダンマリを決め込む男。こみ上げるイライラが頂点に達した俺は、つい怒鳴ってしまった。
「何とか言えよ!!」
すると、男が俺の方を振り返る。その瞬間、俺に戦慄が走った。
「なっ!? お、お前は……」
振り向いた男の顔。それは、人間ではなかった。キツネの顔だった。正確に言えば、ゴムで作られたキツネのマスクを着けた人間。その上からフードを被っていたために、後ろ姿では気が付かなかった。
そう。
そこにいたのは、つい先日まで大井町を襲っていた動物マスクの男だったのだ。衝撃やら恐怖やら、困惑やらで頭がグチャグチャになりながらも、俺は尋ねた。
「お、お前……ここで何やってんだよ!!」
可能な限り大きな声を浴びせたつもりだったが、男は答えない。それどころか、あの例の不気味な笑い声を上げて踵を返し、走り去ってゆく。
『ウヒャヒャヒャヒャヒャ!』
俺とて、立ちすくんでいるわけにはいかない。
「おい、待て!」
即座に走り出し、全力で後を追った。
商店街で相対した時、山崎からは「深追いは無用」と言われ、追跡することは叶わなかった。あの気持ち悪い覆面に隠された正体を見てみたかったが、若頭の命令ゆえに果たせないままでいたのである。だが、ここに山崎は居ない。追跡を制止する者など、もはや誰も居ない。
ならば、追いかけて捕まえてやろう――。
その境地に達した俺は、力の限りに足を動かした。男の逃げ足はそれなりに早かったが、かねてより俺も走力には自信があったので、次第に距離が詰まってゆく。
「待てやぁーっ! このクソ野郎!!」
やがて、相手との距離が、1メートル弱に縮まった瞬間。俺は意を決して、背中に飛び掛かった。背後からのタックルをまともに食らう格好となった男は、そのまま前方に勢いよく倒れ込む。
――ドッシーン!
乱れた呼吸を整える間も無く、俺は倒れている男の身体をうつ伏せから仰向けに起こすと、マスクの縁に手をかけた。
「ふう。やっと、捕まえたぜ……」
そして両腕を左右の足で踏みつけ、抵抗できない状態にする。これは相手を痛めつける意外にも、一瞬の隙を突かれて反撃され、逃げられる事態を防ぐためだ。
「ウギャッ!!」
二の腕を踏まれた事による男の悲鳴は意に介さず、俺は勝ち誇るように言った。
「顔、拝ませてもらおうじゃねぇか……」
そして、両手にありったけの力を込めて、一気にマスクを引きはがす。
「オラッ!」
ずっと前から気になっていた、男の正体。覆面を奪って素顔を確かめた暁には、今までは手出しできなかった鬱憤や、その他現状への不満といったマイナス感情を全て拳に込めて、3発ほど殴りつけてやろうと思っていた。
だが、マスクをはがし終えた俺の手は、事前の予想に反して止まってしまった。
「お、お前は……!?」
不気味なキツネ面の下から現れた顔。
それは俺にとって、あまりにも意外なものであった。




