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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第1章 旅立ち
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横浜

 夜の電車に揺られて、たどり着いた新天地。


 そこは横浜。


 京浜東北線に乗り込んで20分ほど経った頃、どういうわけか「ここで降りよう!」と思うに至った。東京でも良かったのに、と思う人もいるだろう。単に俺は、車窓から見えた夜景に心を奪われてしまったのだ。


 駅を出た途端、目に飛び込んで来たのは大都会の風景。


「す、すげえな……」


 夜空に彩を添えるネオンサインの壮観さに圧倒されたせいか、思わず声が出てしまう。生まれ育った川崎とは全く違う、色気を孕んだ港町の匂いも感じた。


 自分はこの街で、今日から1人で生きていく――。


 出発前に抱いた決意を再確認して、俺は歩き出した。駅前の通りを人の波をかき分けるようにして進み、左にはめた腕時計を見やる。


 午後8時2分。


 家を出る前に母が作った惣菜をたくさん食べてきたので、しばらくの間、空腹はしのげるだろう。


 だが、問題があった。それは、宿やど。生きていくためには、寝る場所を確保しなくてはならない。さもなければ雨と風に打たれて、たちまち野垂れ死んでしまう。


「うう。寒い」


 3月になったとはいえ、まだまだ冷える。その時の服装は黒の地味なパーカーにジーパン、下にはTシャツを1枚着ているだけという至って軽いもの。家からコート類を持って来れば良かったと後悔した。


(とりあえず、どこかに泊まるか)


 どこかの宿を取ろうと思い、俺は駅の数十メートル先にあった観光案内所に声をかける。係員はたしか、40代後半くらいのおばちゃんだったか。全体的に痩せっぽちな体躯で、頭髪には白髪が目立っていた気がする。


「あのさ。この近くにホテルって無い? できれば安い所が良いな」


「もちろん。あるわよ」


「1泊するのにいくらかかる?」


「あいよ。ちょっと待ってね」


 女性は、手元にあった冊子をパラパラとめくった。


「だいたい、素泊まりで3000円くらいかしら。朝食付きならもう少し、高くなるけど」


「3000円か……」


 俺の財布の中に入っていた所持金は、全部で1万7230円。2、3日泊まるなら決して払えない金額ではないが、長期滞在を視野に入れているなら話は別。


(5日くらいで無くなっちまうなぁ)


 おまけに、別で食事も取らねばならない。それらを考慮すると、1泊3000円という金額はかなり痛い。


「あの、それより安いホテルって」


「無いよ!!」


 食い気味に否定された。クリアガラスの窓口越しに俺をジッと睨んだおばちゃんは、少し語気を強めてまくし立てる。


「あんたがどこから来たのかは知らないけど、この街は物価が安くないの。何をするにも、値段は張るのよ。それくらい分かるでしょう?」


 きっと俺の事を田舎からやって来た、世間知らずな“おのぼりさん”とでも思ったのだろう。彼女の瞳からは軽蔑の念が受け取れる。


「それが嫌なら、さっさと帰ることね!」


 腹立たしい言葉であったが、俺は言い返すことができなかった。その女を殴りたい衝動にも駆られかけたが、新天地に来てさっそく警察沙汰を起こすのも気が引ける。


「わかったよ……」


 怒りをグッとこらえ、俺は静かに案内所を出た。だが少し歩いてみると、一気に虚しい気持ちに苛まれる。


(俺ってずいぶん、世間知らずなガキなんだな……)


 恥を忍んで書くが、アパートを借りるのには月々の家賃の他に敷金や礼金が必要になる事でさえ、当時は知らなかった。決して大袈裟な話ではなく、本当だ。


(でも……このままずっと、ウジウジしてもいられねぇしな)


 肌に突き刺さるような横浜の寒い風に吹かれ、俺は気持ちを切り替えた。とりあえず、案内所にて教えてもらった「市内で最も安価な宿」を目指して歩き始める。しかし、歩いている途中で頭の中をよぎるのは、やはり金銭的な心配事ばかり。


 今日は泊まれるとして、明日からの生活費はどうするのか――。


 途中で便意を催してコンビニに立ち寄ったが、ついでに見た売り場の値札は、川崎よりもすべて割高。消費税率は5%で、今よりも決して物価は高くないはずのこの時代でさえ、横浜は違った。当時の俺のように「何も持たぬ者」は、おにぎり1つも気軽に買えないのだ。


 案内所のおばちゃんが言っていた事は、本当だった。


「ったく。何をするにもカネかよ……クソがっ!!」


 苛立ちに任せて思わず吐き捨てたその時、前から何かが近づいてくるのが見えた。たしか場所は国道1号線付近の、小さな路地だったか。


「ん?」


 近くには街灯が2本しかなく、視界はきわめて不明瞭。暗闇の中をかき分けるように、それはこちらへやって来る。


「あれは……?」


 人だった。


 やがて街灯の光が辺り、その人物の正体が中年男性と分かった。3ピースのスーツを着ており、体格はデブとも言うべき肥満体。千鳥足でフラフラと俺の方に向かってくるではないか。


 酔っぱらっているのか――。


 時計の針は、午後8時44分。酔い潰れるには早い時間帯である。だが、その人物は普通では無い。次第に距離が縮まってくると、何やら意味不明な雄叫びを上げている。


「バカヤロっ! ◎$♪×△¥●&?#$! ぬわああああーっ!」


 その姿を視覚と聴覚でとらえた俺は、彼が完全に酒気を帯びているのだと分析した。同時に、俺の中にある考えが浮かぶ。


 あの酔っ払いを襲って、カネを奪ってしまおう――。


 俺は喧嘩じゃ負け知らず。おまけに相手は酔ってフラフラしている。殴り合いの勝負では99%、こちらに分があるだろう。さらに言えば、男が着ていたスーツは高級感が漂っている。おまけに背広の正面には、何やらバッジのようなものまで付いているではないか。


 検察官や弁護士、はたまた政治家か。


 バッジの紋様までは視認できなかったが、俺は相手がそれなりに高貴な身分の者であるという確信を得た。きっと財布には、たんまりと金が入っているはずだ。


(……行くしかない)


 そう思った時には既に、俺の体は動いてしまっていた。


 バキッ!


 すれ違いざま、男の後頭部を狙って裏拳を食らわせる。すると、男はあっけなくその場に崩れ落ちた。


「うう~ん」


 “瞬殺“という表現を用いれば適切だろうか。情けない声とともに、意識を失った背広男。


「……」


 俺はパーカーのフードを深めに被ると、倒れた男のジャケットの内側をまさぐった。そして革製の財布らしき入れ物を取り出す。


(おおっ! 分厚いじゃねぇか……)


 チャックを開けて出てきたのは、福沢諭吉が描かれた紙幣の束。


 俺は全てをごそっと抜き取ると、財布を閉じ、元あった場所に戻した。財布ごと持ち去ってしまうと、どこか危ないような気がしたのだ。


(これで良しっと)


 俺は静かに尚且つ足早にその場を離れると、国道の明るい通りまで出てきた。そして、手に取った万札の枚数を確認する。


(6、7、8、9……10……)


 10枚をあっさり、数え終えてしまった。他にもまだ紙幣は残っている。だが俺は、途中で数えるのを止めてしまった。全体の枚数を数えなくても、現時点で1万円札が10枚。すなわち10万円は確認できたのだ。これさえあれば、当面の生活は何とかなるだろう。


(まあ、いいや。あとで数えよう)


 あまり深く考えず、ホテルへと歩を進めた。ちなみに行き先は「横浜で最も安価な宿」ではなく、普通のビジネスホテルに変更。大金を手に入れて、どこか浮かれていたのかもしれない。たまたま近くに通行人がいなかったのが幸いしたのか、道中では何事もなく、チェックインと入室も難なく済ませることが出来た。


 ちなみに当時の俺は、初見では成人にしか見えない外見である。ゆえにチェックインの際に年齢を確認されなかったのは勿論、ルームサービスの酒を頼んでも何も言われなかった。


「フフッ……何だよ……楽勝じゃねぇか……」


 ビールを3杯ほど飲んだ俺は、横浜にたどり着いてからの出来事を回想して、上機嫌のままベッドに入った。


 翌日。


 朝の光が差し込む部屋の中で、俺は目が覚める。時刻は午前6時53分。


(チェックアウトまで、まだ時間はあるな)


 俺はシャワーを浴び、服を着替えると、1階に降りて朝食を取った。ホテルというだけあって食事は美味しく、久々に味わう贅沢に心が躍る。


(そういえば……)


 ふと、昨日の札束の事が気になった。


(ちゃんと数えていなかったな)


 路上では暗くて見えず、ホテルに入った直後に酒を飲んだ事もあって、全体の枚数を把握していなかったのだ。


 宿賃は1泊で6900円で、酒代を入れてもせいぜい9000円くらいなので、そこは問題なく払える。だが、いつまでも不透明ままでは気持ちが悪い。部屋に戻った俺はすぐ、バッグの中に入れた札束を取り出した。そして、再び数え始める。数勘定があまり得意ではないので、1枚ずつ声に出して数えてゆく。


「1、2、3……」


 例によって、なかなか数え終わらない。


「33、34、35……」


 やがて50を超えたあたりから、少しずつ胸がドキドキしてくる。妙な予感が胸を包み込む。


「53、54、54……」


 まだ、残っている。


「77、78、79……」


 1分後。俺は全てを数え終わった。


「99……100。ひゃ、100!?」


 予感は的中した。俺が数えていた紙幣の総額は何と、100万円もあったのだ。予想をはるかに超えた数字の大きさに、俺は暫くの間、言葉を失う。


「……」


 落ち着きを取り戻した俺には疑問が残った。


(あのオヤジ、ずいぶんとカネを持ってたんだな……でも、さすがに多い)


 いくら金を持っていそうな身なりであったとはいえ、数えきれないほどの1万円紙幣を財布に入れて持ち歩くだろうか。頭の中に並んだ疑問符の多さで混乱しそうになったその時、部屋の内線が鳴った。俺はハッと我に返り、慌てて受話器を取る。


『麻木様、恐れ入ります。チェックアウトの10分前になりましたので、ご退室のご準備をお願いいたします』


 考えるのは一時中断。


「わかった。いま、出るよ」


 受話器を置いた俺は身支度を整えると、部屋を出てロビーへと降りて行った。きわめて楽観的な思考だったと思う。


(何はともあれ、カネは手に入れたんだし。暮らしの方はどうにかなるか)


 だが、この時の俺は知る由も無かった。


 新天地で奇跡的に手に入れてしまった大金が後日、自分にとんでもない災厄をもたらすことを――。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 丁寧で読みやすく、テンポの良い文章。 一人称視点で書かれているので、感情移入して読めました。 フラフラ歩いてた背広のおじさん……正体が怖いですね。財布は持ち去らなかったという箇所は何かの伏…
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