本庄利政という男
翌朝。
俺は山崎と共に、本庄組の事務所へと向かった。若頭の食生活は1日2食が基本で、朝には何も食べない主義らしい。一方で俺は少し腹が減っていたので、前日の夕食の残りを貰った。と言っても、キャラメル味のポップコーンだが。
「はあ。朝から、これかよ」
1日の始まりに、朝食は欠かせない。俺は歩きながらコーンを口に入れ、腹に詰め込む。しかし、それは朝の時間帯にはひどく不釣り合いな風味である。ため息とともに、不満がこぼれてしまった。
「山崎さん。あんた、よくこんな食生活ができるよな。俺だったら、絶対に耐えられねぇわ。いくら食いたい気分だったからって、お菓子をメシにするのは流石に……」
「なら、今夜はメニューを変えてみるか?」
「……ああ。頼むぜ。マジで」
それでも、安心はできなかった。もしかしたらスナック菓子の変わりに、大量の和菓子が出てくるかもしれない。彼が「今日は饅頭が食いたい気分だ」と言えば、居候の俺はそれに付き合うしかないのである。
(ああ……横浜に戻りてぇ……)
村雨邸にいた頃は朝、昼、夕の3食を組長お抱えのコックが作っていた。献立は魚が中心で全体的に素朴だったが、菓子を食事とするよりは断然良い。考えれば考えほどに、あの味が恋しくなってしまう。
(これも、芹沢のオッサンが来るまでの我慢か。ちくしょう!!)
湧きあがった苛立ちをグッと抑え込み、俺は風変わりな朝食を食べながら事務所への道を進んでゆく。しばらくは黙々と口に放り込み続けていたが、やがて持っていた袋が空になると突然、こんな会話になった。
「麻木。お前、家族は元気か?」
何の脈絡も無しに投げかけられた問いに困惑しながらも、俺は一言で答える。
「わかんねぇ」
「そうか。でも、極道になるからには……家族とは、縁を切った方が良いな」
川崎の実家にいる母親と妹の顔が、脳裏に浮かぶ。大切にしようにも俺は事実上、勘当された身である。家を飛び出して3か月間、帰りたいと思ったことは1度も無い。むしろ、帰ったら彼女たちの迷惑になるだけだろう。
(縁なんか、とっくに切れてるようなもんだよ)
そう苦笑まじりに答えようと思った瞬間、山崎がボソッと呟く。
「俺にも家族がいたんだがな……みんな、死んじまったよ」
「えっ!?」
「殺されたんだ。去年の秋に、とある組との抗争に巻き込まれてな」
山崎は続けた。
「その時は自分を責めたよ。カミさんと娘、それからお袋が死んだのは自分が極道をやってたせいだってな。けど、俺にはこういう生き方しかできないって自覚もある。平たく言やあ、俺に覚悟が足りなかったのさ。稼業を続けてる以上は、いつ家族と永遠の別れをしてもおかしくはないってのに。いざ別れてみると、なかなか辛いもんだったよ。何せ死ぬのが自分じゃなくて、家族の方だったんだからな」
「そんな……」
「かけがえのない存在を持てば持つほど、俺たちの世界では苦しいんだよ。覚えておけ」
死と隣り合わせの世界を生きているからこその“覚悟”が、山崎にはある。それは自らの家族を失ったことで、つい最近に得たものであろう。己の家族が殺されるに至った事件を詳しくは語らない山崎だったが、「自分のせい」と自嘲気味に語っているあたり、おそらくは組同士の抗争沙汰によるものだと推察できた。
自分のせいで――。
頭では理解していたつもりでも、このような話を聞くと心に波風が立つ。きっと、当時の俺の中に未だ迷いがあったのかもしれない。山崎のような“覚悟”は、ぜんぜんできていないように思えてくる。
(もしも、俺のせいで……絢華が死んだら……)
異国にいる想い人の顔が浮かび、まともに言葉を返せなくなってしまった俺。
「……」
そんなこちらの様子にはお構いなしに、山崎は何事も無かったかのように歩みを進めてゆく。そのスピードは先ほどまでと全く変わらず、むしろ若干、速くなったかのようにも見えた。
「おい、どうした! 何を立ち止まっている? モタモタしてると置いてくぞー」
大きな声で促され、俺は慌てて再び歩き始める。すっかり沈んでしまった気分の中では、都道317号を横断して目的地へ着くまでの10分間が、とんでもなく長く感じた。
「ん? お前、大丈夫か? 腹でも壊したか?」
「いや、別に」
「そっか。うーん……やっぱり、朝からキャラメル味は刺激が強かったかぁ。なら、明日はコンソメにしてみようか。あははは!」
本気なのか、冗談なのか。俺を元気づけるかのように、軽い口調で笑い飛ばした山崎。勿論、それで気が晴れることはない。それは本庄組の事務所に入ってからも、変わらなかった。
「カシラ、おはようございます!」
「おはよう。親分は本家か?」
「はい。会合が終わり次第、午後には事務所へ来られるそうです」
「わかった」
入って早々、山崎は机に座った電話番らしき組員から報告を受ける。一方の俺は、特にすることも無い。暇を持て余しつつ、入り口付近の黒いソファーにどっかり腰を下ろす。道中の会話のせいだろうか。やけに、気分が憂鬱である。
(ああ……何か、乗らねぇなあ)
また、この事務所においては親しい人間がほとんどいない。某球技に例えて言うならば、完全にアウェーの状態。組員たちの視線も気になってしまう。普通に過ごすだけでも、息がつまった。
ちなみに、俺は本庄組に長居するつもりはさらさら無かった。事務所に置くよう計らってくれた組長には申し訳ない、芹沢と合流さえできれば、一刻も早く立ち去るつもりでいたのだ。
(早く迎えが来れば良いな……)
そんなことを考えながら宙を見上げていると、不意に声をかけられた。
「おい、新入り。ボケッとしてねぇで、手伝いやがれ!」
「あ?」
声がした方を向くと、そこには痩せ型の組員が立っている。彼は、俺の怪訝な目つきとぶっきらぼうな返事が気に入らなかったようで、ストレートに非難を浴びせてきた。
「何だ、その態度は。『あ?』じゃねぇだろ。『分かりました。手伝います』だろうが。いくらお前が親分のお気に入りだからって、特別扱いされると思ったら大間違いだぞ。分をわきまえろよ。新入り」
「俺は新入りじゃねぇよ……ここの盃を貰うわけじゃねぇんだし」
「知るか。とにかく、この事務所にいる以上は働いてもらうぞ。ほら、さっさと立て!」
その男の体格からして、殴れば1発で倒せそうだった。あまり強そうには見えない。しかし、ここで騒ぎを起こすのもどうかと思ったので俺は渋々、ヒョロヒョロの組員の指示に従うことにした。
「わかったよ……で、何をすれば良い?」
「荷物を運べ」
「荷物だと?」
「ああ。いつも親分がお飲みになる水が、さっき1階に届いた」
言われた通りに降りて行ってみると、ビルの入り口付近には大きな段ボール箱が置いてあった。組員の指示では、それをオフィスに併設された給湯室に運び込めとのことだった。
「ったく……めんどくせぇなあ……」
気乗りはしなかったが、本庄組で匿ってもらう以上は致し方ない。軽く舌打ちをしながらも、俺は箱に両手をかけて持ち上げる。外面には「軽井沢の名水」のロゴが、森林らしきイラストとともに大きく描かれていた。
「よし。ごくろうさん」
給湯室で待っていた組員は、俺が運んできた段ボール箱からペットボトルを3本ほど取り出し、冷蔵庫に仕舞い込む。その後で取り出した1本は蓋を開け、電気ケトルに注いだ。彼曰く、本庄組長は普段から水道水を飲まないらしい。
「親分はミネラルウォーターしか、お飲みにならない。だから親分にお出しするお茶も、全部それだ。前に『水道水には色んな薬品が入っとって、体に悪いねん』と、仰っていたのを聞いたことがある」
「こだわりが強いんだな……」
「それに、親分は料理にもミネラルウォーターをお使いになる。あの人は3食、ご自分の手で作っておられるからな。米を研ぐのにも使うから、消費量も半端ではない。だから事務所には、こうやって毎日のように届くのさ」
「自炊してんのか? あんたのところの組長は」
ふと周囲を見渡してみると、俺はハッと驚かされた。そこは給湯室というより、キッチンに近かったのだ。冷蔵庫が大きいのは勿論のこと、ガスコンロも一般家庭で見かける普遍的なものではなく、かなりの火力を有しているであろう形状をしているではないか。
俺の問いに、組員は深々と頷く。
「そうだ。親分は基本、特別な理由が無い限りは外食をしない。出前を取ったり、店屋物を買って召し上がられたりすることも一切無い。『店の人間が敵に買収されて、料理に毒を盛るかもわからへんから』だそうだ。あと、親分は絶対に1人では飲みに行かれない。何でか、分かるか?」
「さあ……」
「曰く『酔っ払うてる時に襲われたら、やられてまうやろ?』だとよ。親分は酒を飲みに出かける時には必ず、護衛の人間を1人は連れて行く。もちろん、そいつには飲ませないで素面にさせておく。うちの親分なりの、リスク管理というやつだろうな」
本庄利政という男の用心深さが伝わってくる、とても興味深いエピソードだった。いくら何でも杞憂が過ぎるのではとも思えたが、ヤクザの組長という立場柄、常に命を狙われる危険性を想定しているのかもしれない。
(思った以上に、凄い人なのかもな)
それから俺は、いくつかの作業を手伝わされた。どれも「廊下の掃除をしろ」だの「窓を拭け」だの、内容としては至って単純かつ簡単なものであったが、痩せ型の組員が矢継ぎ早に指示を飛ばしてきたために、すべてを終えた時にはドッと疲れが押し寄せてきてしまった。自然と、大きなため息もこぼれる。
「ったく……人使いが荒いなぁ……お前は」
すると、痩せ型の組員が不機嫌そうに言った。
「おい。さっきから、気になってたんだけど。その『お前』って呼び方、止めてくれねぇかな? こっち方が年上なわけだし。俺の名前は前波清春。そうだな。これからは『前波の兄貴』とでも呼んでくれ。これから、極道のイロハをみっちり教えてや……」
「んじゃ、よろしくな。前波」
「なっ!?」
極道のイロハなど、とっくに村雨組で学習済みである。先輩だろうと年上だろうと、今さら教えを乞おうとは思わない。それに、まだ本庄組の盃を貰っていない段階で「兄貴」と呼ぶのも気が引ける。
「お前、俺のことを舐めてるだろ……」
呼び捨てで呼ばれたことに不快感を表しながらも、前波と名乗るヒョロヒョロ男は去っていった。入れ違いに、今度はマグカップを持った山崎が給湯室へやって来る。
「麻木、どうだ? うまくやっていけそうか?」
「さあな」
ぶっきらぼうに答えた俺に、山崎は言った。
「仲良くやってくれよ。ああ見えて、前波は面倒見の良い奴だからな。喧嘩も好きで、なかなか腕の立つ男だぞ」
さっきの会話を聞いていたのだろうか。組全体を統括する若頭としては、前日に来たばかりの居候が組員を呼び捨てにする様子を快く思うはずがない。やんわりと注意されたことに気づいた俺は、素直に返事をした。
「……わかったよ」
「おう」
こちらの反応に満足気な笑みを浮かべた山崎は、そのまま冷蔵庫から氷を取り出し、手持ちのカップに放り込む。そして戸棚にあったコーヒーの粉を無造作に入れると、水道の蛇口を捻って冷水を注ぎ込んでゆく。
「麻木。コーヒーが飲みたくなったら、いつでも言ってくれ。作ってやるから」
「あ、ああ」
そのように答えはしたものの、俺にコーヒーを飲む習慣は無い。喉が渇いた時の定番と言えば、コーラかサイダーといった炭酸飲料。厚意は有り難かったが、自分には必要ないなと感じた。一方、山崎は出来上がったコーヒーをマドラーでかき混ぜながら、得意気に語り出す。
「見ての通り俺は、超がつくほどのコーヒー党でな。1日に4~5杯は飲んでいるよ。でも、親分は違う。あの人は筋金入りの、紅茶派だ。考えてみれば、趣味も性格も正反対だなあ……だが、俺は親分に忠を尽くしている。いくら渡世ではすこぶる評判の悪いお方だろうと、あの人の元を離れるつもりはない。この先、本庄組が修羅の道を歩むことになろうとも……ずっと、ついていくさ」
「えっ。そんなに悪いのか?」
思わず聞き返した俺に、山崎は苦笑いを浮かべた。
「良くはないな。『五反田の蠍』って呼ばれてるくらいだし」
「サソリ!?」
「お前もそのうち、気づくだろう。どうして、あの人がそう呼ばれるようになったのかを。まあ、こちらの味方でいる以上は危害も何も無いと思うから。気にはしなくていいよ。それじゃあな」
そう言うと、山崎は完成したてのアイスコーヒーが入ったカップを片手に、給湯室を出て行ってしまった。ひとり残された俺の中で、彼の口から放たれた単語がリピート再生される。
五反田の蠍――。
たしかに、ひと目見た瞬間に本庄組長は「ただ者ではない」と察することが出来た。しかし、まさかクモガタ綱の猛毒生物の名を冠した異名を持つとは、あの友好的で人当たりの良い雰囲気からして全く想像ができない。
(もしかして、隠された一面が……!?)
俺は必死で、思考の糸を張りめぐらせていった。