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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第3章 盃のゆくえ
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東京

 研究所を出てから、俺は必死に走った。


 閑静な住宅街から、多くの車が行き交うメインストリートへ出る。そこでちょうど目の前を通りかかったタクシーを捕まえ、運転手に言い放つ。


「駅まで頼む! 早く!」


 一刻も早く、街を出たかった。突然に飛び込んで来た客の荒々しさに、当初は困惑気味の運転手だったが、俺の目を見て「これはただ事ではない」と判断したのか。すぐさま、車を発進させた。


「横浜駅までですね。承知しました」


「早くしろ!」


 タクシーに乗ってからも、後方は相変わらず気になる。村雨組の追手が来ていないか、もしくは後をつけられていないか、不安で仕方がなかった。車窓越しに飛び込んでくる人や車、すべてが追跡者のように思えてしまうのだ。1度でも疑いを持ち始めてしまえば、キリがない。


(あいつ、村雨組の人間か……?)


 歩道を足早に進むスーツ姿の男が視界に入り、俺はサッと身を隠した。平日の昼間なのだから、そういう服装をした者が出歩いていてもおかしくはない。もしかしたら、外回り中の営業マンだったかもしれない。だが、気持ちが昂っているせいか、どうにもヤクザにしか見えなかった。


「おい! 何をチンタラ走ってやがる。もっと飛ばせ!」


 不安と恐怖で頭がいっぱいになって、苛立ち混じりに檄を飛ばしてしまう。


「そう言われましてもねぇ……法定速度というものがありまして」


「いいから! 黙ってアクセルを踏みやがれ!」


「申し訳ありませんが、ここは高速じゃないんですよ? ま、そうカリカリせずに。飴でも舐めててくださいよ。お客さん」


 運転席の背面には、大量の飴が入ったカゴが、ご自由にどうぞ言わんとばかりにぶら下がっている。本来なら有り難くいただくところであるが、その時の俺に甘味を楽しむ精神的余裕は無い。


「うるせぇ。余計なお世話だよ、バカ野郎!」


「……そうですか」


 横浜駅にたどり着くまでの25分間が、やけに長く感じてしまった。


「お会計。3450円になります」


「ほらよ!」


 俺は1000円札を4枚渡すと、釣り銭は受け取らずに車を降りる。細かい金を財布に戻す手間さえ、もったいないように感じたのだ。降りた後は、人の波をかき分けるように券売機へと向かい、東海道本線の切符を買う。


『研究所を出たら、そのまま突っ走って街を出るんだ。どこでもいい。可能な限り遠くへ離れて、息をひそめて身を隠せ』


 この芹沢の言葉を実践するには、とりあえず東京へ出るのが望ましいと考えたのである。地元に戻る事も選択肢にはあったが、俺は勘当の身。おまけに村雨組から追われているとあっては、帰ったところで母や妹に更なる迷惑をかけるだけ。一時的に湧き起こった故郷への思いをグッとこらえ、俺は電車に飛び乗った。


 しばらくの間、電車に揺られる。地元の川崎を少し、過ぎた頃だったろうか。シートに深く腰掛けてぼんやりと微睡んでいると、不意に声をかけられた。


「ちょっと、お兄さん」


 ハッと我に返り、声のした方を見つめる俺。そこには、初老の男性の姿があった。年齢は、おおよそ60歳前後。頭髪には、白いものが混じっている。一瞬、追いかけてきた村雨組のヤクザかと思って警戒したが、違うようfだ。


「何だよ」


「どいてくれないかね? そこ、私らみたいな老人に譲るべき席なんだけど」


 後ろを振り返ってみると、窓には“優先席”の3文字が。いくら学の無い俺とはいえ、意味くらいは知っている。そこは本来、高齢者や妊婦、乳幼児連れなどが優先的に座る権利のある場所であった。


 だが、おいそれと譲ってやる筋合いなどは無い。俺は、敢えて聞こえないフリをしながら、無視を続けた。


「……」


 こちらの態度に憤りをおぼえたのか。初老の男は、少し強めに声でなおも迫ってくる。


「おい、聞いているのか?」


「……」


「席を譲りなさいと言ってるんだよ!」


「……」


 当時の俺は、年寄りという生き物が嫌いだった。大して役にも立たないくせに、旧態依然とした価値観、思想などを自慢げに語ってくる。そうして事あるごとに「最近の若い奴は……」などと、時代についていけない自分の非力さを棚に上げた説教を繰り返す。思い出話と現役世代への不平不満しか喋れない、醜くて劣った連中であるという認識だった。同時に、そんな連中に対しては何をしても許されると考えていた。


じいさんよ。さっきから、うるせぇんだよ。マジで。適当なことばっかり言いやがって。何様のつもりだ? ああ?」


「何様って……ずいぶんと礼儀知らずな言い方だな。目上の人に向かって、そんな口の利き方をするもんじゃないよ。こっちは、君に常識というものを教えてやってるんだから」


「いらねぇよ。『教えてください』なんて、誰が頼んだ? テメェ、ボケてるんじゃねぇのか?」


「黙りなさい! 生意気な口を利くな!」


 男の顔が、次第に赤みを帯びてゆく。自分の言う事を素直に聞かない若者への怒りで、どんどん興奮状態に近づきつつあると悟った。こちらもこちらで、心と体が臨戦態勢に変化する。こうなると、もはや喧嘩は避けられない。ざわつき始める他の乗客たちを尻目に、俺は更なる挑発を浴びせてやった。


「フフッ。つくづく、マヌケなジジイだぜ。礼儀だとか、常識だとか……まっとうな言葉を並べちゃいるけどよ。要は、テメェが座りたいだけだろ」


「何だと!?」


「はっきり、言えば良いじゃねぇか。『ずっと立ってて足が疲れたから、座らせてください』って。俺に泣きながら土下座したら、譲ってやるよ。ほら、やってみろ!」


 自分でも、かなりひどい言い方だと思う。優先席に居座り続けた挙句、それを注意した人に対して逆上。あまつさえ、暴言を吐いて土下座まで強要する俺の威勢を前に、相手はすっかり絶句してしまった。


「……」


 まさに、開いた口が塞がらないと言わんばかりの表情だった。口論に競り負けたというよりは「もう、こいつには何を言っても無駄だ」と、諦めの念が混じった眼差し。かつて収容された少年鑑別所の係官にも、同じような顔をされた思い出があった。


『まもなく、品川。品川。お出口は、左側です。新幹線、山手線、京浜東北線、横須賀線と京急線は、お乗り換えです』


 次の停車駅を告げる車内アナウンスの声がするや否や、初老の男は静かに踵を返し、どこかへ行ってしまう。その背中を見た俺は、心の中で余計に苛立ちが強まってしまった。


(何だよ、あのジジイ。逃げるくらいなら、最初から引っ込んでろよ!)


 このまま口喧嘩を続け、殴り合いに発展したところで勝てないと踏んだのか。来る禍の炎を避けるように、相手は去った。賢明な判断であると思う一方、できることなら、あの男の顔面にパンチの1発でも浴びせてやりたいと願う自分もいた。


(くそったれが!!)


 他の客の視線が気になったので、逃げるように電車を降りた俺。昂った気持ちのままホームを進んでいくと、駅名を記した看板が目に飛び込んでくる。


 品川駅――。


 幾度かメディアで耳にした機会こそあったが、いまいちピンとこない地名だった。そこが神奈川ではなく、東京であるという事実だけは何となく理解できる。しかし、どこにどんな建物があるのか、物価はどれくらいなのか、詳細な情報はまるで分からない。完全に、未開の地だった。


(まあ……とりあえず、ここに隠れてみようかな)


 初老の男との喧嘩で熱くなった心身を冷やすように、俺は新たな街のことを考え始める。まったく縁もゆかりも無い品川の地だが、ずっと住み続けるわけでもない。芹沢の迎えが来るまで、身を潜めていれば良いのだ。


 時刻は、午後5時46分。


 一般的には下校や退勤の時間帯である。必然的に、駅を行き交う客も学生やサラリーマンが多くなっていた。逃亡者という立場上、どうしても彼らが組の追手に見えてしまう。


 自分でも考えすぎかと思えたが、逃亡者という立場上、用心するに越したことは無い。警戒心を研ぎ澄ませながら、俺は品川駅高輪口から柘榴坂の方に向かい、ゆっくりと歩き出した。移動中、頭に浮かぶのは今後の展望。


 いつ、自分は絢華の元に行けるのか。


 いつ、自分はアメリカへ逃げられるのか。


 いつ、自分は芹沢と合流できるのか。


 未来がまったく、見えなかった。そもそも合流するまでの間、どうやって暮らせば良いのかが分からない。東京には、頼れる人間が1人もいないのだ。衣食住を確保する事さえ、まるで見通しが立てられなかった。


(横浜に来た時のデジャヴかよ。笑えるぜ)


 考えてみれば、ほとんど変わらないではないか。村雨組で築き上げたものを一気に失い、ゼロに戻ってしまった。分かりやすくたとえるなら、ふりだしに戻ったような感覚だった。


 3か月前の自分も「これからどうするか」と、考えていたことを思い出す。最も、その時に生活の糧を得るために路上強盗タタキをはたらいていなければ、横浜から逃げ出さずに済んでいたのだが。


「マジで、これからどうやって食ってくよ……」


 思わず、口に出てしまう。それだけ絶望的な状況だった。日暮れの夕闇が差してゆく品川の街を茫然と歩きながら、先の見えない現実にため息が漏れる。桜田通りの道路を渡り終えたところで、ふと財布の中身を確認してみる。


(10万円と、4000円か)


 まっとうに生きる同世代の若者からすれば、さぞ大金に思えるであろう。しかし俺から見れば、実に少ない金額であった。これでは1週間ほどホテルで暮らせたとしても、あっという間に使い切ってしまう。そこに食費や服代が加われば、一文無しになるのはもっと早いだろう。


(チマチマ使っていかなきゃな……)


 不安と後悔をそれぞれ2分の1ずつ抱えながら、俺は歩き続けた。やがて空は日没を迎え、夜の暗さが周囲を覆う。それでも静かになるどころか、華やかさを増してゆくのが東京の特徴だと思う。


「とりあえず、泊まる所を見つけよう」


 独り言をボソッと吐き捨て、ネオンが輝く街の中を進んでゆく。そんな俺が何の気なしに通り過ぎた電柱のプレートには、“品川区東五反田1丁目”と記されていたのだった。

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