嫌悪と憤怒、そして強襲。
絢華が去ってから、俺はひたすら、パスポートの完成を待ち続けていた。
村雨によれば、いま少し時間がかかるようだ。傘下の道具屋に作らせているとの事なのだが、即座にでも絢華の元へ行きたい俺にとっては、その時間が非常に長く感じた。
(あいつ……何やってるかな……)
頭に浮かんでくるのは、絢華のことだけ。
日本からアメリカまでの詳細な飛行時間こそ分からなかったが、おそらくは到に着いているはずだ。村雨の兄弟分が現地・サンフランシスコに勢力を張っているらしく、手術に伴う入院を除いた滞在期間中、絢華はその人物が所有する別荘に居住すると聞かされていた。
衣食住には困らないだろうが、初めての海外では、何かと心労も大きいだろう。俺は、少しでも早く彼女に合流して、支えになってやりたかった。
(パスポートはいつ、完成するんだ……?)
今日の夜か。それとも、明日の朝か。
俺は特に何かをするわけでもなく、ただ自室でぼんやりと物思いに耽ったり、ブラブラと屋敷のまわりを散歩したりしながら、時間を潰していた。
(まだかな……?)
待ち続けて3日が経った、とある昼下がり。俺の部屋に、嘉瀬がやってきた。
「おう、新入り。ちょっと付き合えや」
組織の若頭補佐である彼が、直接訪ねてくるのは珍しい。というか、初めてだった。例の靴磨きの一件以来、微妙なわだかまりを感じていた俺は、眉間にしわを寄せる。
「は?」
嫌悪感と戸惑いが、ごちゃ混ぜになったような表情だったと思う。
「いいから来い。組長の使いだ」
「組長の使い? 何だよ、それ」
「出てから話す。オラ、さっさと支度しやがれ」
どうやら俺は、外出する嘉瀬の供をさせられるようだ。
何故に、このようなタイミングで指示が下るのか。まったくもって理解に苦しんだが、村雨からの命令とあっては断るわけにもいかない。渋々ではあったが、俺はクローゼットからジャンパーを取り出して羽織ると、バッグに財布を詰めた。
「早くしろよ」
「うるせぇな! いま、やってんだろうが!」
こちらとしては出来るだけ、素早く準備をしているつもりなのだが、嘉瀬は苛立ち混じりに急かしてくる。俺は舌打ちをしながら、以前に村雨が語っていた話を思い出した。
『嘉瀬はとにかく、せっかちで気が短い男でな。あらゆる物事において、粘り強さや堪え性というものをまるで、知らん』
ずばり、的を得ている評価ではないか。俺が準備している間、やけに落ち着かない様子で檄を飛ばし続けた嘉瀬は、やがてジャケットの内ポケットからタバコを取り出すと、荒っぽく火をつけた。
「ふう……ずいぶんと待たせてくれるじゃねぇか。おかげで貴重な洋モクが1本、無駄になっちまったよ。どうしてくれるんだ? ああ!?」
「知るかよ。テメェが勝手に吸ったんだろ」
その瞬間、嘉瀬の右手の拳が飛んでくる。
(うわっ!)
とっさに上体を反らしたので間一髪、避けることができたが、突然の攻撃には身がすくむ感覚がした。俺は怒りにまかせて、嘉瀬の胸倉につかみかかろうとも思ったが、このような場面では、先に熱くなった方が負けだ。
湧き起こった衝動を抑えつつ、嘉瀬を見据えて言った。
「……ずいぶん、ショボいパンチじゃねぇか。止まって見えたわ」
「何だと?」
「マヌケにも程があるなぁ。こんなんで、俺を倒そうと思ってたなんてよ」
俺が、このように挑発的な物言いをしたのには理由があった。嘉瀬の冷静さを失わせるためだ。先に彼の方から襲い掛かってきたとあれば、組長に対して「身を守るためにやむを得ず、暴力を使った」との言い訳が可能になる。
殴り合いに持ち込んで、ボコボコにしてやろう――。
以前に靴磨きを強要された日から、俺は嘉瀬の居丈高な振る舞いが気に入らなかったのだ。いつか、あの不細工な顔面をグシャグシャにしてやりたいと考えていた。まさに、繊細一隅の機会ではないか。そんな思惑を抱きながら、俺は嘉瀬をさらに煽る。
「まったく、呆れるぜ。テメェみたいなゴミに幹部をやらせてるなんざ……天下の村雨組も大したことねぇなあ」
すると、相手の目つきが変わった。
「……もう1度、言ってみろ」
「は?」
「もう1度、言えってんだよ!」
ゴミという単語が、よほど屈辱的だったのか。先ほどにも増して、語気を強めた嘉瀬。その獣の咆哮のごとき怒鳴り声は耳障りだったが、感情的にさせるという点では、こちらの作戦通りだ。俺は敢えて、薄ら笑いを浮かべながら言い放つ。
「大したことないって言ったんだ。テメェみたいな、どうしようもねぇゴミを幹部にしてる村雨組は!!」
部屋の中に響いた嘲笑の声。音量は自分でも少し、驚くほどに大きかった。喧嘩を目前にして、だいぶ気持ちが昂っていたと思う。言ってしまえば臨戦態勢。全身に力がみなぎり、興奮が止まらなかった。
「黙ってないで、何とか言ったらどうだ? ああ? このチンピラ!」
そのような精神状態で発する言葉には、必要以上に棘が付いて攻撃的なものになってしまう。当然、相手は逆上する。この時も、決して例外ではなかった。
「舐めやがって……どうなっても知らねぇぞ!!」
怒りで血走った目を大きく開いて、嘉瀬は襲いかかってきた。