絢華と過ごした時間。それは、初めての感触。
村雨が部屋を出て行ってから、しばらく経った頃。突如、絢華の顔つきが変わった。徐々に眉をひそめていき、口元と頬が引き締まる。
(ん!?)
彼女から笑みが消えていく。気になった俺は、思い切って尋ねてみた。
「どうした?」
「いや、別に」
「気分でも悪いのか?」
「そういうのじゃない。ただ……」
腰かけていた車椅子から自力で立ち上がると、すぐそばにあったベッドに絢華は倒れ込んだ。そして、ぼんやりと天井を見上げる。
「私、大丈夫かな? これから外国へ行って、大掛かりな手術を受けて、現地でリハビリして、戻ってくるんだけど……うまくいくのかしら」
「大丈夫だろ。向こうの医者は、こっちより腕が良いんだから」
「私、ちゃんと戻って来られるかな?」
「大丈夫だって」
つい数分前とは打って変わって、ナーバスに陥っていた絢華。もしかすると、先ほどまでも不安な気持ちは抱えていたのかもしれないが、渡航の膳立てをしてくれた父の手前、口には出せなかったのだろう。
堰を切ったように、彼女の口から思いがあふれてくる。
「ほんとうに大丈夫かしら? 昨日、私の体を調べた医者は『危険な手術になる』って言ってたわ。内臓の大半を入れ替えるのよ? もし、成功したとしても……完全には、元に戻らないかもしれないって……」
「賭けになるってわけか。イチかバチかの」
俺の返事に、大きく頷いた絢華。
「うん。イチかバチか。それよりもっと、確率としては低いかもね。手術自体も、まだ日本では認可されてない術式で行うらしいし」
「そんなにヤバい方法なのか!?」
「だから、わざわざ外国でやるのよ。日本だと、できる病院が1つも無いからね。アメリカから、帰って来られるかどうかも……分からないけど」
心が不安で、大きく揺れているのが分かった。少し前、彼女は己の人生を前に進めるために「手術を受ける」という決断を下した。その時よりも、だいぶ緊張の度合いは高まっている。おそらく、渡航前のメディカルチェックで主治医からリスクを告げられたことで、不安や恐怖が倍増してしまったのかもしれない。
どうにかして、気持ちを前向きにしてやらねば――。
俺の返答は早かった。
「……帰って来られるさ。お前なら、絶対に大丈夫だ」
断言できる根拠は、これと言って特には挙げられない。
「どうして、そう思うの?」
「それは……」
明確に答えることは、できなかった。
昔、根拠を述べることが出来ない主張は「事実」とは呼べず、全て「虚構」に過ぎぬと、どこかの偉い学者が語っているのをテレビで観た事がある。その学者の論理で言えば、絢華に対する俺の鼓舞は噓八百で、何の確証も無いデタラメという事になってしまう。
しかし、誰かを勇気付けるという行為において、必ずしも「事実」を述べる必要は無い。たとえ、放つ麗句が根拠の伴わない「虚構」であろうと、目の前の人間の感情に寄り添い、不安を優しく取り除けさえすれば、それで良いはずだ。
難しい事は考えず、俺は思ったままの言葉を絢華に届けた。
「よく、分かんねぇけどさ。絢華なら、きっと大丈夫な気がするんだよな。手術だって、きっと上手くいくだろうし。体も良くなると思うぜ?」
「だから、そう思う理由は?」
「うーん。絢華だから、かな」
その瞬間、絢華は大きなため息をついた。
「はあ。何よ、私だからって……」
あまりにも頓珍漢な俺の答えに、彼女はすっかり、呆れてしまったようだ。
「悪いな。上手いこと、言えなくて」
「涼平って、本当に学が無いのね。少しは勉強しなさいよ……まったく」
一方、その声色には明るさが戻りつつあった。寝転がっている体勢だったので表情こそ、はっきりとは認識できなかったが、頬も少し緩んでいたように思える。照れ隠しに頭を搔きつつも、俺は続けた。
「マジでごめんな。でも、俺は絢華なら大丈夫だと思うんだよ。だってお前、強いじゃん。親父さんとも仲直りできたし、自分から『手術を受けたい』って言えたんだから。その勇気があるなら、絶対に乗り越えられるさ。どんなことだって」
「どんなことでも?」
「ああ。それに、こないだも言ったが、お前は決して独りぼっちじゃない。お前の側にはいつだって親父さんがいるし、秋元さんだっているし、俺もいる。ちょっとくらい、離れることはあるかもしれねぇけど……それでも、心は繋がってる。いつだってな」
相変わらず、頭の中で言葉がまとまらない俺。
要は、絢華がアメリカでもちゃんと生活できるであろうという事、そして手術も成功するという事を伝えたかったのだが、どうにも上手く言えない。いま改めて振り返ってみても、国語的におかしい言い方だったと思う。
高坂みたいに、少しは洒落た言い回しが出来たら――。
ところが、そんな心配はまったくの杞憂であった。室内の空調の音に被せるように、絢華の声が聞こえてくる。
「……そっか。ありがとう」
「ん?」
「私、もしかしたら大丈夫かもね。あなたが『大丈夫!』って言うなら」
「そうだとも。お前は絶対に大丈夫だよ」
すると、絢華はゆっくりと上体を起こした。
「よいしょ、っと」
棒のように細い彼女の腕では、ベッドの上で体重移動をして姿勢を変えるだけでも、大変そうに見えてしまう。慌ててサポートに入る俺だったが、絢華はそれを片手で制止する。
「心配いらない。私だって、ひとりでも……」
懸命に、腕に力を込める絢華。どうやら彼女は、ベッドから車椅子へ自力で移動しようとしているらしい。しかし、その動きは見ていて非常に危なっかしい。
「はあ……はあ……あと、もう少し……」
2年もの間、ほぼ寝たきり状態で運動という運動を全く、やってこなかったのだ。そのように貧弱な腕力では、己の身体を支えるだけでも精一杯。呼吸が、どんどん荒くなり始めていた。
「おいおい、無理すんなって」
「平気よ!」
しかし、ベッドに腰かけた体勢から立ち上がろうとした、その時。絢華は、バランスを崩し、正面に倒れ込んでしまった。
「きゃっ」
「危ない!」
――ギュッ。
ほんの一瞬の出来事だったが、俺は何とか、絢華の身体を受け止めることができた。我ながら、俺の反射神経は凄まじいと思う。あと少しでも遅かったら、失敗していたであろう。
「……え?」
だが、問題はそこからだった。彼女を抱きしめる格好で、そのまま背後に、ゆっくりと倒れ込んでゆく。これまた反射的に、俺は目を瞑る。
――ドシーン!
物凄い音が室内に響いた。
「ううっ……い、痛ぇ……」
倒れる瞬間、あごを引いたので、幸いにも後頭部への衝撃は免れた。しかし、背中を床に思いっきり打ち付ける形になってしまった。ジーンとした鈍痛が、下半身にかけても広がってゆく。
「あ、絢華……大丈夫か……?」
「ええ、なんとか。ありがとうね」
「良かったぜ……ったく。だから、言わんこっちゃねぇだろ…‥‥って、え!?」
息を切らしながら微笑みをよこす絢華とは対照的に、目を開けた俺は言葉を失ってしまった。自分の上に、彼女が押し倒すかの様に倒れていたのだ。さらに言えは、ほんの少しでも動けば触れ合ってしまうほどに顔が近づいている。
まさに、急接近。
生まれて初めての経験である。バランスを崩した女の子を抱きとめる事はもちろん、女性と距離が詰まるシチュエーション自体、それまでの人生では全く遭遇してこなかった。緊張が背筋をつたい、全身を硬直させてゆく。
(おいおい……マジかよ……)
絢華もまた、突然の出来事に固まってしまったようである。
「……」
そのままの姿勢で、動けなくなった俺達。
聞こえてくるのは、壁掛け時計の秒針が周回する音。相変わらず作動を続けるエアコンの音。そして、窓の外を行き交う小鳥たちの鳴き声。まるで、この空間だけ時間が止まったかのようだった。何か、香水をつけているのだろうか。絢華の首筋からは芳香が漂う。日頃から嗅ぎなれた男臭とは異なり、本能を直接的にかき立てられるような匂いであった。
「わ、悪い! いま、退くよ」
一瞬、頭の中で巻き起こった劣情を即座に抑え込み、俺は絢華の体から離れようとした。ところが、腕に力が入らない。
「えっ?」
いつもなら自由に動くはずの両腕が、まるで動かないのだ。そればかりか、絢華の両肩をガッチリと掴んで、離さない。俺はパニックに陥った。
(は? どういうことだよ!?)
すぐにでも離れようとする俺の意思とは真逆に、両手が絢華から離れない。わかりやすく、説明するならば「思考と行動が、一致しない」といった状態だろうか。これまた初体験。激しさを増す緊張に混乱が加わり、俺の心はかつてないほどに熱を帯びていた。今にも、沸騰しそうだった。
(どうして!?)
感情の嵐に目が眩みかけながらも、俺はふと、腕の中の絢華を見る。
「……」
彼女は、ひどく潤んだ瞳でこちらに視線を向けていた。その上目づかいの眼差しからは、ただならぬ感情が伝わってくる。
「涼平……ずっと、私といてくれる?」
「も、もちろん」
「ほんとに?」
ここで、首を横に振る理由など無い。1度結んだリボンをさらに強く、結び直すように、俺は絢華の目をジッと見つめて言葉を放つ。
「ああ。本当だとも。俺はお前の元から離れねぇし、ずっとお前のそばにいるよ。たとえ一瞬、離れたとしても……必ず、お前の元に戻ってくる。絶対にだ。俺は……」
言い終わる前に、俺の口は塞がれてしまった。
「むぐっ!?」
塞いだのは、絢華の唇。一瞬、自分の身に何が起こったのか、よく分からなかったが、わりと早く事実が認識できた。本能に導かれるまま、こちらも自然と相手の唇を吸ってみる。
「んっ……んんっ……」
言うまでもなく、初めての経験であった。出会ったこともない感触に戸惑いもしたが、それが“キス”というものなのだと分かると、俺はただ己の腕の中に居る女を求め、その甘美な味わいと多幸感にを委ねてゆく。
自分はいま、絢華とキスをしている――。
やがて思考が追い付いてきて、己の衝動的な行動に「ダメだ」と釘を刺したりもしたが、もはや引き返すことはできない。俺は絢華をギュッと抱きしめ、また彼女にも渾身の力で抱きしめられ、ただひたすらに互いの唇を求め続けた。
「……」
しばらく経った後、絢華の頬を涙がつたう。
「涼平が初めてだった。冷え切っていた私の心を暖めて『そばにいる』と、言ってくれたのは。だから、絶対に離れたくないし、失いたくない……これから先、何があっても、私の元に居て?」
「おう。約束するよ。これからも、お前と一緒だから」
泣き崩れる絢華を俺は、ずっと抱きしめていた。
「ありがとう……」
それからは、時が経つのがあっという間だった。
眠りに落ちた絢華を寝かせると、俺は秋元と共に、彼女の荷物の準備に取り掛かる。メディカルチェックのせいもあってか、前日まで全く荷造りが捗っていなかったのだが、テキパキと動く秋元の指示のおかげで、昼過ぎにはひと通りまとめることが出来た。
「お嬢様は、夕方まで寝かせてさしあげましょうか」
「そうだな。アメリカに着くまで、ずっと飛行機に乗ってる事だし」
ちなみに秋元は作業の合間、俺と絢華が何をして過ごしていたかについては、まったく問うてこなかった。部屋のドアは閉まっていたので、一部始終を覗かれていた可能性はゼロに近いが、どこかそわそわとしてしまう自分がいる。すべての作業が終わった瞬間、安堵感からか、自然と独り言が漏れてしまった。
「ふう……誰にも……言えねぇなぁ……」
俺と絢華は本来、令嬢と世話係の主従関係にある。
いくら、組長から対等に接することを許されているとはいえ、度を越えて親しくなってはいけないはず。今の絢華との関係を他の組員が知れば「出世のために、お嬢を篭絡した」と、俺に敵愾心を抱く者が必ず、現れるはずだ。
無論、組長本人に知られる事も禁物だ。
村雨とて、娘とキスを交わすような仲になる未来を想定して、俺に世話係の役を与えたわけではないのである。彼の耳に入れば当然、激怒するだろう。そうなった場合、俺は確実に殺される。
己が置かれた状況を考えると、自然に可笑しさがあふれてきた。
「……フフッ。まさに、禁断の関係ってわけか」
「ん? いま、何か言いました?」
独り言のつもりだったが、秋元に聞かれてしまっていた。
「ああ、先週に読んだ漫画の話だよ」
笑って誤魔化した俺に首を傾げながらも、秋元はそれ以上、追及してはこなかった。もちろん、彼女にも知られてはいけない。万が一、耳に入った日には「殺しますよ!」と凄まれるだろう。
(気を付けねぇと……)
そうしているうちに、時計の針は午後5時20分。村雨邸の前に、1台の黒いセダンが停まった。絢華が空港へと向かう時間である。
「お嬢。どうか、お気をつけて」
「ありがとう。芹沢」
深々と頭を下げた芹沢に続き、居並んだ組員たちが一斉に立礼をする。
「行ってらっしゃいませ!!」
シノギや服役で不在の組員を除き、53人がそこに集まっていた。彼らが一斉に大音声を放ったのだから、とんでもない迫力である。俺は一瞬、体中がぞわっと逆立つような心地がした。
(いつ見ても、凄い光景だな……)
一方、絢華は慣れているのだろうか。気にする素振りを全く見せず、淡々と車に乗り込んでいった。その後から秋元が出てきて、スーツケースとバッグをトランクに詰め込む。
「では、秋元。後を頼んだぞ」
「はい! お任せくださいませ!」
軽く、ペコリと頭を下げた秋元は後部座席のドアを開け、絢華の隣に乗り込んだ。運転席に座っているのは組員の廣田。どうやら、彼が空港までの運転を担うようである。
「どうか、息災でな」
「ええ。お父様も」
そんな父子の会話を最後に、車は夕焼けをバックに走り出していった。俺はただ、想い人を乗せて去っていく黒塗りのセンチュリーを静かに、見送るのみ。
(絢華……)
1998年6月9日。彼女は、異国の地へと旅立っていった。
「ファーストキス」でしたね。
高校には行かず、
中学では喧嘩三昧だった
涼平クンにとって、
かげがえのない青春の
1ページとなったはず(/▽\)♪
バイオレンス小説ですが、
たまには、こんな展開があっても
いいじゃない……って気持ちで
書かせていただきましたm(__)m
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