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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第3章 盃のゆくえ
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逃げられる?

「私、不安なの。手術がうまくいくかはもちろんだけど、向こうで生きられるかどうか。お父様から聞いたと思うけど、リハビリも含めて3か月は帰ってこられない。だから、その間、私のそばにいてほしいのよ」


 何とも唐突で、大胆なリクエストである。瞳に涙を溜めた絢華を前に、俺は返事に困ってしまった。


「俺が……アメリカに?」


「うん。お願い」


「でも、親父さんに命じられた仕事が……」


「そっちの方は大丈夫。私からお父様に話しておくから」


 しかしながら、よく考えてみると悪い話では無い。


 組長令嬢の付き添いという形で、海外へ一時退避することができるのだ。もちろん、申し出てきたのは絢華の方であり、「お嬢様に頼まれました」との大義名分いいわけも成り立つ。村雨に命じられた犯人捜索を途中で投げ出す、格好の口実が生まれるのだ。


 ひとまずアメリカへ逃げ、3か月の間に何か打開策を講じる――。


 里中襲撃が己の仕業である以上、“犯人確保”は現実的ではない。かと言って、自分がやったと正直に名乗り出るわけにもいかない。そうなったら確実に殺されるし、仮にこのまま何もせずに過ごしたら、それはそれで罰を受けるだろう。


 もはや、俺には断るという選択肢は生まれなかった。


「……わかった。お前が望むなら、そうするよ。俺もアメリカに行く」


 絢華は、みるみるうちに笑顔になった。


「ありがとう。あなたなら、そう言ってくれると信じてた」


 絢華は心の底から、喜んでいるようだった。


 それ以上に、安堵していたのかもしれない。慣れない異国での生活には、誰だって不安が伴うだろう。初めて足を踏み入れる未開の地で、心を許せる人間を側に置いておきたい気持ちは、俺にも理解できる。


 ただ、問題もあった。


「でも、外国に行くには……その、パスポートってやつが必要なんだろ?」


 当時の俺は、法律や社会制度などについてはからっきしの無知だったが、出入国にパスポートが必要であることは、以前に観たドラマや映画などの影響で何となく、知っていた。だが、あいにく俺はそれを持っていない。


「心配しないで。うちの組はパスポートも作ってるから。お父様に頼めば、すぐにでも手に入ると思う」


「つ、作ってるだと!?」


「ええ。ちょうど2年くらい前からね」


 ちなみに当時、村雨組は偽造パスポートの作成をシノギにしていたようだ。密航者を相手に手広くやっていた、と何かの記事で見かけたことがあった。


「そっか。それなら、安心だな」


「うん!」


 こちらの反応に大きく頷いた絢華は、手元にあったトランシーバーのスイッチを押した。


『どうかなさいましたか』


 秋元の声だった。


「ねぇ。お父様はいま、どちらにいるのかしら?」


『事務所の方にいらっしゃるかと思われますが……』


「そう。では、電話をかけてくれるかしら。涼平もアメリカへ行くことになった、って。パスポート、もうワンセット必要だから」


『えっ!?』


 要望を受けた秋元は当初、困惑しているようだった。おそらくは、絢華から事前に伝えられていなかったのだろう。トランシーバー越しに聞こえてくる声には、明らかな迷いの色が含まれている。


『麻木君も……行くのですか……?』


 しかし、数秒の間を置いてから返ってきた返事は、意外にも肯定的なものだった。


『……分かりました。では、組長にお伝えいたします』


 てっきり、秋元が決定の唐突さを理由に難色を示すものと予想していた俺は、思わず拍子抜けしてしまった。何事においても順序、筋道を気にする秋元にしては珍しいとさえ感じたが、彼女の主人は村雨組長ではなく、絢華。いきなりだろうと何だろうと、秋元にとってその命令は絶対なのだろう。


(ある意味、あの人らしいな)


 ささやかな微笑ましさに、俺は目を細めた。心の中が、自然と穏やかになってくる。だが、その直後に聞こえてきた声によって、その感情は瞬時に打ち消されてしまう。


「その必要は無い」


 声の主は、まさかの村雨組長。俺たちが全く気付かぬうちに、部屋の中に入って来ていた。


「!?」


 想定もしていなかった人物の登場に、言葉を失う俺。一方、絢華は目を丸くしながらも、至って冷静な口調で父に尋ねる。


何時いつから居たの?」


「10分ほど前からだ。扉が開いておったゆえ。お前たちの話は、すべて聞かせてもらったぞ」


 入室時、ドアを閉め忘れていたことにようやく気付いた俺。どうやら、世話係をもう1人アメリカに連れて行きたいという絢華の申し出と、それを快諾したこちらの返答も、すべてが村雨に筒抜けであったようだ。


(マジかよ……)


 衝撃と恐ろしさで身動きが取れなくなる俺を尻目に、絢華は率直な思いを村雨にぶつけた。


「だったら話は早いわ。ねぇ、お父様。良いでしょう? 涼平をアメリカへ連れて行っても。私、彼と一緒がいい!」


「……構わんぞ」


「本当?」


「ああ。お前がそうしたいのならな」


 一瞬だけ躊躇うような表情を見せた村雨だったが、こちらが思ったよりもすんなりと了承してしまった。


(おいおい!? いいのか?)


 泣く子も黙る村雨組長も、やはり娘には弱いという事か。父親として、娘のリクエストには出来る限り応えてやりたいのだろうか。以前、秋元が口にしていた「組長はお嬢様には逆らえない」という話も、決して大袈裟ではないように思えてきた。


「ただし。偽の旅券をこしらえるにしても、ときを要する。少なく見積もっても、3日はかかるだろうな。ゆえに涼平は後からお前に合流させる形になるが、それでも良いか?」


「うん。いいわ。私の手術に、間に合うならね」


「私としては秋元だけを同行させて、涼平には別の役目を任せるつもりであったが……お前の頼みとあっては聞き入れぬわけにもいくまい」


 俺を差し置いて、どんどん展開される話。あまりの早さに呆気にとられたが、困惑と同時に、心の中を安心感が満たしていく。


 里中襲撃の件から、解放される――。


 それまで自分をがんがらじめに縛り付けていた鎖が、一気に断ち切られたような感覚であった。思わず俺は、崩れるようにその場へ座り込む。


「ふう……」


 大きな安堵を得てホッと息をついた途端、脱力してしまったようだ。


「ん、どうした?」


「いや、大丈夫だ。何つーか、すっげえ、嬉しくてさ……俺も一緒に行って良いんだって」


 直接的な理由こそ違うが、決して誤魔化したわけではない。数日遅れとはいえ、絢華を追ってアメリカへ行く機会を得た事も、自分にとっては非常に嬉しい話だったのだ。


「……異国を訪ねたことはあるか?」


「いや。無い」


「そうか。初めての異国で浮かれる気持ちも分かるが、決して勘違いするなよ? 旅行に行かせるわけではないのだ。これまでと同じく、お前は絢華を最も側で守り、すべての事に気を配り、責任を持て。現地には私の馴染みもいるが、横浜とは勝手が違う。軽はずみな行動はくれぐれも慎め。わかったな?」


「あ、ああ。分かってるよ」


 いつもより、キツめの口調で釘を刺してきた村雨。彼とは何度となく接しているが、どうも慣れない。その鋭い目で真正面から睨まれると、心臓をギュッと掴まれるような感覚をおぼえてしまう。


 一方で彼は、絢華には非常に穏やかな口調で言った。


「夕方、迎えに来る。それまでに、支度をしておくように。3か月は帰って来られないのだ。やり残すことが、無いようにな」


「うん! ありがとう。お父様」


「フフッ。お安い御用だ」


 絢華の頭を撫でた村雨は、そそくさと部屋を出て行く。


(完全に親バカじゃねぇか。あの組長も)


 だが、そのおかげで俺は助かった。


 里中襲撃の犯人を見つけ出す責務から解放され、さらには今後も絢華の側にいる権利さえ手に入ったのである。これを想像以上の収穫と呼ばずして、何と呼ぶのだろうか。


「いい親父さんだよな……」


「え? 何よ、いきなり」


「だって、ほら。俺らの希望を叶えてくれたじゃん」


 歓喜のあまり、思った事が口に出てしまった俺。俺の唐突な感想に苦笑いする絢華だったが、やがて、しみじみとした様子で語り始めた。


「たしかに、お父様は私を一番に考えてくれていると思う。私のためなら、きっと誰かを殺すこともいとわないはず。だけど、あまり無理はしてほしくないなぁ……」


 村雨組長と絢華の距離は、以前よりも確実に縮まっているようだった。いま少し複雑な感情があるようだが、父の身を案じる、絢華の素直な気持ちが伝わってくる。


「まあ、あの親父さんなら大丈夫さ」


 そう明るい声で返した俺の表情は、いつになく晴れ晴れとしていたように思う。心のつかえが解消されて、入れ違いに新たな居場所を見つけ出せた喜び。全身をかけめぐった充足感と解放感は、未だに覚えている。


 だが、この時は未だ知る由も無かった。


 いったんは保留になったかに見えた里中襲撃の件が、後にとんでもない事態へと発展することを。

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