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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第1章 旅立ち
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そのとき、俺は暴力の絶対性を学んだ。

 1991年10月22日。


 火曜日恒例の全校朝会から戻ってきた直後、担任教師が皆の前で告げた。


「昨日、T岡君のシャープペンシルが無くなりました。筆箱に入れていたのに突然、無くなってしまったそうです……それがどういう事か、分かりますか?」


 全員が沈黙する中で、彼女は語気を強める。


「このクラスの誰かが盗んだ、という事です!」


 あまりにもヒステリックな物言いだった。担任によると、クラス内の者にしか犯行は不可能だという。しかし当時、学級委員を務めていたO村は首を傾げた。


「T岡君が自分で無くしたのでは」


 すると、担任がキリッとした目で睨みつける。


「何よ、あなた。被害に遭っている仲間を疑うっていうの?」


「いえ、そんなつもりは……」


「だったら何のつもりだったの? 軽い気持ちで意見を述べるのは控えてちょうだい!!」


 ドスの効いた声で一喝され、か弱いメガネっ娘の学級委員は黙ってしまった。少しの間を挟んで軽く咳払いすると、担任は教室中を見回して言い放つ。


「心当たりがある者がいたら、正直に名乗り出なさい」


 担任は横暴が極まっている。


 T岡が自らの過失で紛失したという可能性を全く考慮せず、第三者による盗難であると決めつけ、あろうことか自分のクラスの教え子を疑っているのである。時代が令和になった今の世であれば厳しく糾弾される行為だ。下手をすれば一発で懲戒の沙汰を受けるだろう。


 しかし、この平成初期の時代は違った。「教育的指導」の5文字を掲げれば、教師による傍若無人な振る舞いも、どことなく許容されてしまう空気があったと思う。担任はクラスの中での絶対権力者。彼女が「赤」と言えば、どんなに青いものでも忽ち赤く染まってしまう。この日も例外では無かった。


「犯人が名乗り出るまで、3年2組は授業をやりません。もちろん休み時間も、給食も、3の2だけナシです。それが嫌なら、やった者は素直に罪を認めて、T岡君に謝りなさい」


 その一言だけで動くほど物事は簡単ではないし、人の心理は単純ではない。


「……」


 手を挙げる者は誰もいなかった。皆、心当たりが無いのだから当然である。


「どうして黙ってるの!?」


 苛立った担任の声と共に、時間だけが悠々と流れていく。


「……」


 やがて1時間目が潰れた。本来であれば2時間目の始まりを告げるチャイムが鳴ったその時、教室のいちばん後ろの席に座っていた女子児童がぼそっと言った。


「麻木くんです」


 その子のフルネームこそ覚えていないが、それまで全く絡みの無かったことは確かである。普段はとても影の薄い子で俺自身、存在を忘れていた。彼女は消え入りそうな声で言葉を続ける。


「……私、見ました。昨日の放課後、麻木君がT岡君の机をいじってるところを……」


 次の瞬間、教室にいた全員がギョッとした目でこちらを見つめた。だが、俺はやっていない。前の日は帰りの会が終わると即座に学校を飛び出し、家路を走ったのだ。


「麻木君。それは本当なの?」


 担任の鋭い声が飛ぶ。俺は首を横に大きく振って否定した。


「いいえ。やってません。昨日はすぐ、家に帰りましたから!」


「前に出なさい」


 担任に促され、俺はやむなく教壇の前に立った。この時、俺は冷や汗をかいていたと記憶している。身に覚えの無い疑いをかけられたことによる「焦り」が、体に出てしまったのだ。しかし、周りの人間の目には、図星を突かれたことによる「焦り」だと映ったようだ。


「麻木君、嘘をついてはいけません。正直に自分がやったと言いなさい!」


 担任の追及は厳しさの色を増してゆく。しかし、やってもいないことを「やった」と認めるわけにはいかない。俺は頑として認めなかった。


「やってません。その時間、俺は家にいました。嘘だと思うなら、俺の家に電話して聞けば良いと思います」


「いや、あなたしか考えられないでしょ」


「逆にどうして、先生はそう思うんですか?」


 俺の反論を受けた担任は大きなため息の後で、こんな台詞を吐き捨てた。


「あなたのお父さん、ヤクザでしょ? もう亡くなられたみたいだけど」


 だから何だというのか。たったそれだけの理由で、やってもいない事件の犯人にされるなど冗談ではない。つい、俺は感情的になって反発した。


「ふざけんな! どうして俺が……」


 その時、俺の左頬に鋭い痛みが走った。


 パチン!


「いいかげんにしなさい。何ですか、その口の利き方は!」


 担任が俺を思いっきり、平手打ちしたのだった。彼女は早口でまくし立てる。


「T岡君に、さっさと謝ったらどうです! 自分が犯した罪を素直に認めて、謝れない人間なんて最低ですよ!!」


 俺は言葉を失った。この女教師には、何を言っても無駄だ。ヤクザの息子というだけで、ここまで屈辱的な扱いを受けるとは。そう悟ってしまうと、もはや次の行動が浮かばない。いっそのこと「俺がやりました。すみません」と言ってしまおうかとも思ったが、それはそれで屈辱的だ。


「……」


 堪えがたいほどのやるせなさに包まれ、何もできなくなってしまった俺。更なる仕打ちを与えるように担任の言葉が飛んでくる。


「まったく。親も親なら、子も子ですね」


 親も親なら、子も子。――


 8文字の言葉が、俺の頭の中で駆け巡った。それは俺に、強烈なショックとインパクトを与えた。


「……ふざけんな」


 怒りに身を震わせてそう呟いた時には既に、手が出てしまっていた。


 ――バキッ!!


 俺は担任の顔を拳で思い切り、殴ったのだ。


「!?」


 殴られた担任はよろけて、そのまま尻餅をついた。彼女の表情は驚きに満ちている。まさか殴られるなどとは、夢にも思っていなかったのだろう。


「ちょ、ちょっと麻木君!?」


 俺はそのまま担任に馬乗りになり、顔を拳でも殴り続けた。何度も、何度も。


「いやああああっ! 誰かっ、誰か助けてぇぇぇぇ!」


 担任はあっけなく、されるがままになった。普段はヒステリックで鬼のように厳しい女だったが、肉体的には大したことない。身長135㎝の9歳児に圧倒されるほどに非力。こうなってしまえば、こっちのものだ。俺は拳の連撃を止めない。


「ああああああああああっ!!」


 担任の悲鳴が廊下にまで聞こえたのか、しばらくすると他のクラスで授業を行っていた教師たちがぞろぞろと駆け付けてきた。


「おい! 何やってるんだ!」


「君! 離れなさい!」


 やって来た2人の男性教師によって、俺は取り押さえられた。一方で担任はと言うと鼻血を噴き出し、左目の周りは大きく腫れあがっている。俺が彼女の顔を集中的に殴り続けたせいだろう。相手は痛々しい姿になっていたものの、特に何も思わない。自分の行動がやり過ぎていたとか、可哀想な事をしたといった類の罪悪感は勿論皆無。


「自分が何をしたのか、お前は分かっているのか!?」


 ぐったりとしている担任から引き離した男性教師は、俺を強く怒鳴りつけた。だが、やはりお何も感じる事は無かった。むしろ、スッキリとした爽快感の方が強かった。それまで担任教師に対して抱え込んでいた鬱憤が、一気に吐き出されたような気分である。


 この日、俺は初めて人を殴った。そして学んだ。


 誰かを殴れば、心が晴れやかになるという事を。


「別に。イラっとしたんで、手が出ちゃいました」


 直後に連れ込まれた生徒指導室での説教にも、校長室での全職員からの詰問にも、俺はすべてそう答えた。


 この件で、母親は頭を下げ続けていた。学校に呼び出された時も、緊急搬送された担任の入院先においても、必死で頭を下げて謝っていた。きっと俺の知らないところでも謝っていたのだろう。頑なに「ごめんなさい」を言わない息子に変わって。


「うちの子がとんでもない事をしでかしてしまい、本当に申し訳ございません。親として、出来る限りの償いをさせていただきます。この子にも、キツく言って聞かせますので……」


 しかし俺は、母親からこの件で直接何か叱られたりだとか、諭されるようなことは一切なかった。いま思えば、この時点で母は「あきらめていた」のかもしれない。それから何がどう動き、どのように解決したのかは覚えていない。


 ただ、いくつか確かなことがある。


 1つ目は俺が殴った女性教師が事件のショックで精神を病んでしまい、退職に追い込まれたということ。2つ目はT岡のシャープペンシルを盗んだ真犯人が、俺を最初に犯人呼ばわりした女子児童だったということ。


 そして3つ目は、俺が暴力の価値を知ってしまったということだ。殴ったり蹴ったりして倒せば、相手はひれ伏す。 何でも言う事を聞くし、思い通りになる。何よりも自分自身、相手を痛めつける事がたまらなく気持ち良かった。


 人間、最後は力のある者が勝つ――。


 俺は、そんな真理ともいうべき法則を小学3年生の時点で学んだのであった。

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