表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第19章 ゲノム華族主義

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

284/285

座りしままに餅を食う

 センセーショナルな出来事ほど、凡愚な人間を惑わし、突き動かすものはない。


 村雨耀介の中川会入りは、関東の情勢を一変させるのに十分だった。何せ、泣く子も黙る残虐魔王である。翌6月30日、それまで組織が歯牙にもかけていなかった一本独鈷の多数の弱小所帯が「今後は皆様に恭順いたします」と続々と降ってきた点を鑑みても、その地政学的インパクトが如何に凄まじいものかがよく分かるだろう。


 無論、衝撃に揺れたのは煌王会も然りである。特に多摩地域の櫨山重忠率いる大国屋一家の動揺ぶりはおびただしいの一言に尽きた。その日の午後、吉祥寺周辺を根城にする稼業人たちがひっきりなしに赤坂へ挨拶に現れた。


 劣勢に立たされた大国屋に見切りをつけ、中川会へ寝返るために。


 早い話が、中川会による多摩総攻撃が始まる前に自らの立場を安泰にしておきたいわけだ。中には大国屋一家内で組を任されている枝の親分もおり、そういった者は大国屋の行く末を切実に憂慮し、組ごと中川会に寝返ろうと考えていた。


 これを恒元は決して無下に追い払わなかった。何故ならば彼らは貴重な兵力であるからだ。やはり組織の構成員数は多いに越したことは無い。ましてや以前は中川会系列の連中だったのだから「元の鞘に戻った」と考えれば丁度良いというもの。


 なれど、彼らの行動は所謂出戻りだ。傍から見れば、唾を吐いて出て行った古巣を頼るも同じ。昔気質の男どもからすれば、不快感が湧き起こらぬはずが無い話である。


「ったく! 奴らに誇りってもんはぇのか!」


「昨日の西洋にかぶれた儀式にしても然りだが、総帥は極道の何たるかをお忘れになったらしい」


「沢津の兄弟が秋田で苦戦してるってのに援軍も出さねぇしよぉ……俺たちは仕えるべきあるじを間違えたな」


 井上、田山、稲本ら理事たちが不満を叩く横を歩きながら、思考を回す――組織内で恒元に対する不満が蓄積しつつある現状は、俺にとってはむしろ好都合だ。帝都で反乱のひとつでも発生してくれれば、恒元の歯噛みする顔を肴に酒が飲める。


 そのまま廊下を進んで次長専用室へ辿り着いた俺は、机に向かうと革の椅子へ腰を下ろす。そこへ傍らに立つ深草がノートパソコンを開きながら声を発する。


「猊下。今月の用心棒代が振り込まれましてございます。磐城いわき重工じゅうこうより3千万円、ネオインペリアルマイクロデバイスより2千万円、ミサワマテリアルより1千5百万円、豊洲オートメーションより3千万円、イトウ食品工業より5千万円でございます」


「合計1億4千5百万円……なかなか良い稼ぎだ。今月は暇だったのによ。商人のくせに『元を取る』という概念がぇらしい」


「お相手が猊下でございますゆえ、遠慮しているのでございましょう」


「だろうな」


 各社の経営状況に合わせて毎月請求している用心棒代であるが、それ以上の額を吹っ掛けることはしない。毎月5千万円と決めたら5千万円で何回でも暗殺を請け負ってやる。俺なりのビジネス・テクニックだ。一見すると利が少ないように思えるが、顧客とは長期に渡って信頼関係を築くのが俺のやり方である。


「しっかし、政村のビビり様は半端じゃなかったな。強気な言葉を使ってはいたが、内心じゃ怯えきってるのが見え透いていた」


「ええ。まったくもって滑稽なことにございます」


「ああ。良い収穫だった」


 午前中から正午を跨いで行われた三代目水尾組の政村平吾組長との極秘昼食会から、戻ってきたばかりの俺。つい先ほどまで密かに会っていた人物の姿を思い返しながら、ほくそ笑む。


「よもや枢政大臣が……あのネタを俺なんぞに渡すのは政村も本意じゃなかったはずだ。奴も命が惜しくなったってわけか」


「ですが、猊下。如何にお使いになられるおつもりで?」


「折を見てナシを付けに行く。総帥の興味がアメリカに向き始めたタイミングでな」


「承知いたしました」


 俺は懐中から煙草の箱を取り出し、ライターで火を点ける。すると深草は恭しく灰皿を机上に置いてくれた。


「例の教団の動きでございますが、代表者曰く『会談は団員たちの前で行いたい』と申しております」


「なるほど。さすがはカルト。こちらの真意を見抜いてやがるな。まんまと支配下に置かれる気はぇってか」


如何いかがなさいますか?」


「連中が洗脳済みの信者を使って歯向かおうとするなら、こっちは純粋な武力で応えるだけだ。奴らの信じる奇跡とやらを上回ってやるんだよ……くくっ」


 独特の風味を吸い込んだ俺は、次いで上機嫌に紫煙を吐く。何もかもが上手く運んでいる。秋田の十三代目鴒鳴会からは感謝を伝える手紙が届き、横須賀の三代目水尾組は俺を利権に噛ませることに同意した。


 鴒鳴会はドラッグ。


 水尾組はセックス。


 どちらも政治家たちを抱き込むには必須の要素。欲動こそが人間を支配する操り糸となり得ると、俺は確信している。


「政村の野郎もひでぇことをするよな。主婦から女子大生までありとあらゆる女を誑し込んで、娼婦として働かせてんだ。薬物ヤクけにして、辞めるに辞められねぇよう手を打った上でな」


「女どもの支配に関しては鴒鳴会の方が力を注いでおりますよ。奴らは湯沢茶屋街で働く女を借金まみれにして閉じ込めていると聞きます。狭い部屋で家畜同然の扱いをしているとか」


「そこまでくるとセックスというよりゃ奴隷ビジネスだな」


 笑いながら、俺は煙草を灰皿に押し当てて消した。


 手駒は順調に揃いつつある。現時点で水尾組は中川会直参ではないが、本来は総帥府専売のサクリファイスを自由にあきなう例外的特権を恒元から与えられている。よって2日前の出来事は、恒元への恩を仇で返す最大級の叛逆行為を政村が働いたことに他ならない。されども俺は恒元に掛け合い、政村を救った。見返りとして、水尾組が密かに掴んでいた政界絡みのネタを譲ってもらうことで。――それに関しては後々でゆっくりと使うとしよう。


 今は一先ひとまず資金拡充。サクリファイスは恒元の許しを得たシノギでしか使えない。そこで鴒鳴会特産の鳳雪薬の出番である。俺は深草に、鴒鳴会から新たに二百万円で購入した鳳雪薬を売り捌くよう指示した。深草は「承知いたしました」と頷く。


「まずは政治家どもの手に渡るようにいたしますか?鳳雪薬は依存性の度合いがサクリファイスに比べて低うございますゆえ、いきなり国会議員に売り付けたとて総帥は文句を申しますまい」


「その前に、俺の個人的経済圏を拡大したい。総帥は俺に街を持たせたがらねぇが、やっぱり街の一つや二つ持ってねぇと格好が付かん」


「素晴らしきお考えにございます。では、どちらの街に狙いを定めましょうか?」


船橋ふなばしだ」


 千葉ちばけん船橋ふなばし。人口70万人の都市で、多くの企業が進出し、強い経済基盤を持つことで全国的に名高い。政令指定都市への移行が枢政省内で真面目に議論されるほどに成長率は高く、市民総生産は都心部の区と比較しても見劣りしない。


「ふむ。船橋でございますか。確かに、かの街ならば猊下の拠点に相応しゅうございますな。されど、船橋で商いをされるとならば阿熊一家が黙ってはおりませんぞ」


「例の教団を手に入れたら船橋へ移転させ、俺の私兵として阿熊と戦ってもらう。鳳雪薬を売った金で武器弾薬を買い集めれば良い」


「なるほど……!」


「門谷はサクリファイスを総帥が専売している現状に不満が無い。あれが総帥府直轄領以外で売られねぇってことは、それすなわち汚ぇ薬物ヤクが自分んとこのシマに入ってこねぇってことだからな」


「……門谷の方針のおかげで船橋市は強烈なドラッグに不慣れゆえ、一気に蔓延させられる好環境が整っているというわけでございますな?」


「そういうこった」


 中川会理事長の門谷次郎が総長を務める五代目阿熊一家は、千葉県全土を支配する名門組織。船橋市を含む千葉県北部は、その中枢である。


「門谷の爺さんは昔気質のおとこだ。薬物ヤクでのシノギは程々にしようと思ってる。だが、それが奴の弱点でもある。売人が大量のドラッグを持ち込むだけで街の機能は停止するだろう。そうなりゃ奴も何も言えなくなっちまう。鳳雪薬をばら撒きゃ、門谷は俺に船橋を譲るしかねぇだろうよ。いやぁ、楽しみだ」


「猊下の御名が、またもや轟くこととなりましょう。総帥への報告は如何いたしますか?」


「暫くは言わないでおく。事後報告でも問題ねぇだろ。阿熊は眞行路と並んで、長年に渡って中川下総守家を牽制してきた組だ。そこに俺がちょっかいかけるとなりゃ、総帥はむしろ喜ぶはずだ」


「承知いたしました」


 笑いながら、俺は立ち上がった。


「んじゃ、行くか」


 それから深草を連れて向かったのは恵比寿。独自のドラッグビジネスを始めるにあたって、薬物が蔓延した街を見ながら売り方を思案したかったのである。総帥府から車を走らせること15分。駅近くの駐車場に車を停めて少し歩くと、面白い光景が車窓から飛び込んできた。恵比寿南1丁目の小路。サクリファイスの販売であった。


「いくら持ってきたんだ?」


 派手なジャージを着込んだ売人に、小柄な女が紙幣を差し出している。薄いピンク色のワンピースと黒いストッキング。髪型はショートボブ。全身から溢れる垢抜け感とは対照的に、痩せた顔。唇は赤く、甘ったるい香水の匂いを漂わせる。どこからどう見ても売春婦だ。その女は売人に微笑みかけると「3万円」と応じた。


「ちょうだい。早く」


 売人は万札を3枚受け取ると、携行していたショルダーバッグから小袋を3つ取り出して女に差し出す。


「ほらよ。楽しみな」


「あ、ありがとう」


 そそくさと逃げるように売人から離れて行った女だが、途中で我慢できなくなったのか。立ち止まると、買ったばかりの袋をひとつ破って中身を吸い込んだ。橙色の粉が鼻腔へ吸い込まれた瞬間、女は恍惚の絶叫を上げる。周囲の通行人がギョッとして足を止める中、女は歓喜の歌を高らかに響かせた。


「あははははっ! きもちいぃー! きもちいぃーっ!」


 俺は呟いた。


「無様だな」


 隣の深草が頷く。


「まったくでございます」


 蔑みの視線を浴びせる俺たちをよそに、なおも女は踊り狂っていた。


「すっごいっ! すっごいのっ! やっぱりこっちの方がいいっ! 最高なのぉっ!」


 どうやらサクリファイスと別のドラッグを併用しているらしい。しかも、前者を後者の代わりとして常用しているようだ。やがて女は足元をふらつかせ始めると、動きを止める。


 そして、次の刹那。アスファルトへ向かって激しく嘔吐した。


「うぼぉえぇぇぇぇぇぇぇっ」


 吐瀉物が道に広がる。ゲロの海。その傍らに四つん這いになった女は、虚ろな瞳を上空へ向けていた。だが、やがて全身から力が抜けてゆくとともに意識がぶっ飛んだのであろう。道路の上で眠り始めてしまった。これには通行人も引いたようで、足早に去ってゆく。


「すっげぇな、あの女……」


 呆れた俺は、目を細めて足を進める。


「あんなのを吸ってまで気持ち良くなりてぇもんなのか?」


「そうでございましょうよ。人間とは愚かな生き物でございますゆえ」


「かもな」


 俺は車に戻ってから、腹心に頼んで恵比寿の街中を走って回った。途中、何度もドラッグ使用者を見かけたが、誰しもが一様に汚い表情で崩れていた。サクリファイス。サクリファイス。サクリファイス。俺は思った――これならば、鳳雪薬でも簡単に売れるだろうと。むしろ、サクリファイスより効能が低い分、長くカネを稼げるであろうと。


 どうせならたっぷりと儲けてやる。そう心に決め、俺たちは宮殿へ戻った。その日、俺と深草が夜まで新たなビジネスについて語らったことは言うまでもない。


 されども。


 翌日。宮殿では恒元の眉間の皴を寄らせる事象が発生していた。日韓の貿易をめぐる問題である。


せぬ……どうして韓国は今になって排日にかじを切ったのか……我輩には分からぬ……」


 2007年7月1日。総帥執務室の窓を睨むように眺め、恒元は葉巻を吹かしていた。


 時計の針は朝の9時。彼には午後からゴルフへ行く予定が入っているが、じりじりと照り付ける外の日差しを見ていると、屋敷を出るのが億劫になっているようにも見える。部屋全体を冷やすクーラーの作動音を愛しく思いながら、俺は総帥の言葉に耳を傾けた。


「……チェ・ハジュンはもう少しばかり賢い男だと思ったが、その本質は笑止千万しょうしせんばんのポピュリストだった」


 総帥は葉巻を灰皿で揉み消す。先ほど女中が淹れたアイスティーを手に取り、一気に呷った。


「あの国における排日のデモンストレーションは今や全土へ広がり、日に日に過激さを増しておる。時田ときた康治こうじだけに飽き足らず、賀茂欣滔の名が書かれたゴム人形までを焼く者も出始めておるほどにな。お前の努力も無駄になった。つくづく馬鹿馬鹿しいことだ!」


 そう呟く総帥の声には怒りが滲んでいた。俺はただ黙って聞いていた。


「しかも、奴らはその上で貿易協定の見直しまで要求してきた! 日本が韓国に一方的に不利な条件を押し付けたと主張してな!」


 恒元はコーヒーカップを乱暴にデスクへ叩きつけた。ガチャンという音が響く。窓の外から聞こえるせみの鳴き声がやけに五月蠅うるさい。


 俺は総帥へ向かって「ええ。まったく、ふざけた話でございます」と頷いた。


 トキタ自動車代表取締役社長CEOの時田ときた康治こうじは、騒動が発生した先月末の時点で声明を発表。一連のいざこざの直接的原因となった自社製セダンの爆発炎上について『韓国へ出荷した製品については全て日本国内の基準で品質チェックが行われている。その時点で不具合は一切見つからなかった』と述べ、問題のセダンについて自社に一切の非は無いと強気に否定した。


 無論、それでは韓国人が納得するどころか火に油を注ぐようなもの。彼らの怒りの矛先はトキタ自動車から日本人あるいは日本国全体へと変わり、ソウルでは連日のごとく光化門広場で排日デモが繰り広げられるようになった。当然ながらトキタ自動車への憎しみもヒートアップし、暴徒化した群衆が韓国各地の販売店を襲撃する騒ぎも発生している。


 そうした中で大統領チェ・ハジュンが踏み切ったのが、日韓FTAの破棄および1998年日韓共同宣言の暫定的見直しだった。度重なる経済政策の失敗などで既に政権崩壊寸前にまで支持率が低迷している中、今冬の次期大統領選で自らの愛弟子を後継者として勝たせるための布石――そう考えたとしても愚策としか言い様が無かった。


 何せ、韓国は2001年に締結した日本とのFTAで、これまでに年間国家予算の3分の1に匹敵する儲けを得ていたのであるから。


 まあ、俺は内心でほくそ笑むばかりである。してやったりだ。俺のリクエストに応えた磐城重工やイトウ食品ら企業群が、韓国の政権与党に影響力を持つ財閥と上手く交渉して、チェ大統領に圧力を掛けてくれていた。後援者からの助言にチェ・ハジュンがすぐに耳を貸さなかった件は想定外だったが、日本車の爆発騒動が立て続けに発生したことが決め手になったようだ。


 上手く事を運んでくれた、アヤカ・ブランシェアら英国情報機関の妙を心の中で称賛しながら、俺は総帥に向かって言葉を続けた。


「あちら側の言い分では『日本企業が不当に韓国市場を占拠していた。だから、これを是正するためにも日韓FTAの破棄を断行する』と……馬鹿馬鹿しいことです。たかが日本製の車が爆発して犠牲者が出たくらいで、国家の舵取りを誤るとは」


「まあ、冬の大統領選で首席補佐官ゴ・ボングォンを当選させることができなければチェ・ハジュンに先は無い。大韓民国議会も排日をうたう保守系野党が過半数を占めてしまっている今、彼らの支持層を取り込むのが上策と考えたのであろうな」


 恒元は忌々しげに唸った。続けて「つくづく迷惑な話だ」とも言う。俺は彼の顔色をうかがい、次のように畳みかけた。何故ならば、今が好機だと判断したからだ。


せいだいの云うトキタ・エピウス3000の不具合とやらは単なる言いがかりに過ぎぬものとして、1週間の間に爆発炎上が38件も発生したのは何と考えましても不自然にございます。私が思いますに、どうにも此度の件は何者かが裏で糸を引いている可能性がございます」


「我輩も左様に睨んでおったが……ここは理由を訊いてみようか」


「もし私が韓国の対日印象を悪化させようと企んでいるなら、必ずや同じような手段を用いるでしょう。爆弾を積んでおいて、爆発事故が起こると同時に『トキタの車が爆発した!』と叫ぶ。これほど愉快なことはございますまい」


 俺の言葉に恒元は「なるほど」と頷いた。


「涼平は日韓関係を引き裂かんと企む第三者の仕業と考えておるのか」


「はい。私見ではありますがね」


 俺が真面目腐ったつらで頷いてみせると、恒元を深く吸い込む。


「だとすると……此度の黒幕はアメリカだな。ホワイトハウスは韓国に対する影響力を保持しておきたいがために、日韓の友好状態にくさびを打ち込みたいのであろう。アファロンソンとしても『米国産自動車を除け者にはさせない』というスタンスを見せれば、国内で依然高い支持を集める保守層からの反感を煽ることができる」


 葉巻を口から離した後、総帥は再びアイスティーを口に運ぶ。そして、静かに呟くのである。


「結局のところ、FTAが破棄されたところで日本は痛くも痒くもない。馬鹿を見るのは海外戦略の大半を対韓輸出に依存していたトキタだけだ」


「ええ……されど賀茂総理としては大きな痛手となりましょう。現内閣のアジア外交の基本指針は日韓の友好にございましたゆえ」


「その辺りは我輩が何とかしよう。問題ない」


 そう俺にこたえると、総帥は葉巻を灰皿で擦り消し、アイスティーをひと口飲んだ。


 俺は総帥の答えに心の中でほくそ笑んだ。恒元がどんな反応をするかを事前に全て予測していたからだ。わざわざ迂遠うえんな演出をする必要は無かったが、蛇蝎の如く嫌う「想定外」に接した折に総帥が見せる、屈辱に歪んだ面持ちを見たいという気持ちもあっての行動だった。


「はあ。せっかく村雨を引き入れて関東の情勢が落ち着いたというのに。どうして世は我輩に一時も息を吐く暇を与えてくれぬのか」


 ため息を吐いた総帥に、俺は頭を下げながら言った。


「野党どもの調略工作に関しましては私にお任せください。彼らが一定以上の票を獲得しないよう、糸を引いてご覧に入れます」


 韓国政府によるFTAの電撃的破棄は日本国民にも大きな動揺を与えている。このままでは今月に控える参院選への影響は避けられない。それゆえ与党の手綱を握ることで政界を操っている恒元にとっては由々しき事態のはずだ。よって、俺としては野党に圧力を掛けるふりをして連中を勢いづかせれば良い――ところが、恒元の動きは俺の予想とは違った。


「いや、そちら方面については何もせんで良い。暫くは様子見だ」


「よろしいのでございますか?」


「ああ」


 恒元はゆっくりと首肯した。その表情には余裕の笑みが浮かんでいる。ぬるい……俺は首を傾げた。


「投開票の一週間前にでも野党の醜聞を書かせれば良い。ネタは握っておるゆえ案ずるな」


「なるほど」


「ネタが無ければ、作れば良い! いずれにしろ我輩の手にかかれば何とでもなる! ふはははっ!」


 恒元は笑い声をあげた。そして、言葉を続ける。


「それに……我が帝国の臣民は阿呆ではない。今や自憲党内で賀茂欣滔より有能な政治家など存在せんということを分かっておる」


 今やすっかり国家元首気取りか。俺は軽く唇を舐めて湿らせてからたずねた。


「して、賀茂総理には如何なるご指導を?」


「前々からの立場を貫けと申した。日本政府の公式見解として『日本企業は一切の不具合に関知していない。韓国政府の一方的な行動であり到底容認できない』と翻意を求め続けよとな」


「あくまでも日韓友好を目指す姿勢を維持するということでございますな。されど、韓国世論があの具合では……」


「分かっておる。ゆえにこそ賀茂には交渉のテーブルから離れさせるわけにはいかぬ。表面的にでも真摯な立場を守り続ければ、いずれ諸外国の同情も集まるであろう。『日本は対話の窓口を開き続けているのに韓国が意固地になっている』と。おそらくは11月のWTO総会の辺りで破棄の撤回に至るやもしれぬぞ」


 総帥は不敵に笑い、こちらへ歩み寄るなり俺の肩をポンと叩いた。そうして言うのであった。まるで何かを確信しているかのような口調で。


「韓国がどんな動きをしようと、我が帝国が揺らぐことは無い。この中川恒元が頂点に立ち続ける限り、な」


 恒元は俺の目を見つめ、ニヤリと笑う。俺も同じように笑い返した。まるで示し合わせたかのように。


「さて……ゴルフの準備を始めるか」


 恒元が立ち上がる。俺も彼に続いて部屋を後にした。廊下を歩く総帥の後ろ姿を追いかけつつ、心中で独白を紡ぐ。


 馬鹿が……この謀略の黒幕が英国であることを見抜けず、それどころか楽観論に徹しようとはな。


 英国は現在、経済において日米の後塵を拝している。属州に埋蔵する豊富な地下資源で各国の重工業の原材料供給源となっているとはいえ、それを加味しても日本の自動車業界とは天と地ほどの差がある。これ以上、対韓輸出で右肩上がりの売り上げを記録している日本の自動車メーカーを放置しておくわけにはいかなかったのである。


 現在、トキタ自動車の株価はバブル崩壊時並みに急落している。仮にチェ・ハジュンがFTAの破棄撤回に及んだとしても、持ち直せるかどうかは未知数だ。その間に英国は韓国を含めた発展途上国にすり寄り、資源と技術力を無条件で供与し、やがては日米を締め出す形での巨大な経済圏を構築してゆくだろう。


 今、日本に牙を剥いているのはアメリカではなくイギリスだ。そんなことも計算できないとは、万物を統べるフィクサーが聞いて呆れる。せいぜい王様ごっこにうつつを抜かしていろ――嘲弄を喉の奥へ抑え込み、俺は女中と共に着替えの部屋へ入って行く恒元の背を見送った。そして、小さく笑う。


 俺の復讐計画に協力してくれた、アヤカの笑顔を思い出しながら。


 ふと端末を手に取ると、彼女から暗号メッセージが届いている。英国式ゆえに少しばかり解読に手間取ったが、すぐに元恋人の誘いを理解した。


【Let's meet at a bar in Higashi-Azabu. I expect at least a little bit of thanks from you.(東麻布のバーで会いましょう。少しくらいはお礼を期待しているわ)】


 俺は自然と独り言を呟く。


「とんだお嬢様だ……」


 無論、その行動は背後からの気配を感じ取った上でのものである。直後にしわれ気味の声が鼓膜を揺らす。


「何や? 嫁はんと上手くいっとらんのかい?」


 本庄ほんじょう利政としまさ。本日は日曜だというのに総帥府に顔を見せているとは生真面目なことだ。振り向きながら俺は答えた。


「俺くらいの立場になりゃ、外国の女と連絡を取り合うこともある。体の関係にゃ進んじゃいねぇ。浮気でも何でもねぇよ」


「ふぅん。別に何を咎める気も無いが……さぞかし楽しい話なんやろうなぁ? 顔が緩むようになっとったさかい、気になって声をかけたんやけどな」


 本庄は俺の横へやって来て、ひじで俺の脇腹を小突いた。俺は苦笑しつつ「面白いか面白くないかで言やあ多少は面白れぇよ」と返す。


「何せ、この1週間だけでトキタの株価が4分の1になっちまった」


「はっはっは。ええ気味や。おどれ程度の頭脳アタマで商売なんざ始めるからや」


「割を食ったのは俺自身だと誰が言った? 個人的に面倒を見ている外資のおっさんに乞われただけだ。『I'll introduce you to my daughter, so in return, could you buy some corporate bonds?』ってな」


「せやけどトキタの一件が、おどれのシノギに影響を及ぼしとる。こない痛快なことが他にあるかい」


 にこやかな笑みで痛烈な皮肉を言い放つ本庄に、俺は冷ややかな笑みで応じる。相変わらず、嫌な男だ。敵か味方かの立ち位置をその都度変えてくる点もまた、然り。


 ただ、心を許せる相手ではない――彼の心の奥底にあるのは俺への敵愾心。年に不相応な出世を遂げた俺を快く思わず、密かに動いて潰そうとしている人物である。本庄が俺が入る前の最年少抜擢幹部であった点を考えれば、なおさらだ。若い奴らは羨みを抱いた眼差しを向けてくるが、俺を認めていない老人も多い。特に本庄のように個人的な因縁がある男は。


 まあ、少なくとも先ほどの暗号メッセージの中身を覗き見られてはいまい。開封してから数秒ほどで自動で消去される機能が付いていて、本当に良かった。


 話題を変えるように、俺は訊ねた。


「日曜日なのに、どうして総帥府へ?」


「単なる暇潰しや。家に居ってもすることが無い」


 さしずめ何かしら儲け話を嗅ぎつけているのであろう。あるいは、総帥に俺を見張るよう申し付けられているか。そんな憶測に思考を回していると、本庄は誘ってきた。


「ちょいと歩くかい。おどれも暇やろ」


「これから総帥のゴルフに随行する。着替えの手間もあるから暇とは言えねぇんだがな」


「構わへんやろ。ほんの少しくらい」


「ったく……」


 やれやれと呆れながら、俺は本庄と共に廊下を歩き出した。特に目的も無く、宮殿内をブラブラ歩く。


「おどれのへんちくりんな背広姿にも見慣れたなぁ。最初はどこぞの御伽おとぎばなしを真似しとんのかとお笑いぐさやったけど、時間が経てば自然としっくりくるもんよのぅ」


「こちとら、あんたの評価なんざ気にしちゃいない。初めからな」


「そうやって周りの目を気にせぇへんのがおどれの悪い癖や」


「気にしたところで何になる。俺を潰すだの何だのと息巻いてたくせに、今の今まで指を咥えて見てるだけのカスどものことなんざ」


「安い挑発や。乗らんで」


 本庄は鼻を鳴らす。俺は彼の横顔を見つつ、独り言のように呟いた。


「もし、俺が政界に食い込めたら、あんたは泣いて悔しがるんだろうなぁ」


「冗談はしときぃ」


 本庄は軽く笑った後で真顔になった。そして、低い声音で告げる。


「そないなことになったら……本気でおどれを殺さなあかんのぅ」


 その顔は笑っていなかった。目つきから察するに本気の発言なのだろう。だから、俺も真剣な表情で返すことにした。


「心配しなくても、そんなことはあり得ねぇさ。何故なら、そうなる前に俺があんたを粛清してやるんだからな」


 微妙な沈黙が流れた。それは俺の本心に由来する台詞であったことを彼が瞬時に悟ったからだろう。本庄は薄ら笑いを浮かべ、肩を竦めて見せた。


「あんまり怖い顔するなや。わしかて親心っちゅうもんがあるんやでぇ、おどれには。腐っても昔の兄弟分のせがれやさかいのぅ。恩ある男の息子が調子に乗った勢いで身を滅ぼす姿は、見とうない」


「てっきり、俺はあんたに嫌われてると思っていたが?」


「ほんまに嫌っとったら結婚式でスピーチなんざするかいな。ボケが」


 ならば俺を見つめる蔑みの視線は何だ――そう返すのは面倒なのでめておいた。仕事着を新調し、ネクタイの代わりにジャボを首に巻き付けるようになって少し経つが、俺に注がれる眼差しが変わりつつあることは理解している。要因が恐怖という点は同じ。されどもかつては純粋なる恐れおののきと表現するに相応しかったが、今やその中に怪奇と云う不純物が混ざるようになった。皆、化け物を見るかのごとく俺を見ている。そういう視線だ。


 俺としては一向に構わないが、どうにも鬱陶しいものだ。この手の眼差しは嫌いだ。だが、これを気にするほど俺は単純ではない。何せ、この姿こそが今の俺には似合っていると考えているのであるから。


 こちらが鼻を「ふっ」と鳴らして会話を打ち切ると、本庄は「そもそも」と反応を寄越し始めた。


「華族趣味にかぶれとんのはおどれだけやない。今や中川会全体が染まりつつある。びっしりと金刺繍が入っとって、両側には肩章が付いた服を『正装』と呼んどる点も然り、直参の親分衆に乗馬だの狩猟だのを奨励しつつあるのも然り。おかしいやろ。原始、極道っちゅうんは反体制側や。華族なんざ体制の象徴みたいなもんやろがい」


 無論、俺は即答した。ここで少しでも頷くようでは、総帥の忠臣という仮面がもろくなりかねない。


「だから何だ。何であろうと総帥のお考えに従うことが俺たちの存在意義だろうよ」


 彼は「分からんのかい」と、先を続ける。


「昔の恒元公は、華族そのものをひどく嫌っておられたんやで。あんなもんは憎き旧体制の象徴や何や仰っとってな。あの御方がお好きなのは、あくまでも大日本帝国やのうてブルボンの頃のフランスやったはずや。せやのに……」


 そこで本庄は俯き気味に言葉を区切る。俺は奴の顔を見ずに、淡々と応じた。


「あんたこそ、自分が何を言ってるのか分かってんのかい?」


「分かっとるわ。殺したきゃ殺せ」


「総帥のお考えに何か異を唱えたいことでも?」


「昔を懐かしんどるだけや。占領下のハノイで生まれた日仏混血っちゅう出自ルーツを悩みに悩んで、大日本帝国を嫌っとった頃の恒元公のことを」


「……」


 恒元は父のつねずみが妾のフランス人女性との間に儲けた庶子で、当初は家督を継ぐ立場にはなかった――そんな昔話を本庄にも聞かせていたか。自分以外にもライバルが増えたような気がして、俺は思わず顔をしかめた。そんな若造に本庄はなおも続ける。


「あの御方の腹心を気取るんやったら、時にはお諫めすることも大切や。嫁をダンス教室に通わせないかん直参どもの身にもなってみぃ。何の為にあないな格好させるのか。そもそも何を目指しておられたのか。わしが涼平の立場やったら問い質してみたいもんや」


「……生憎、俺はあんたと違って柔軟に時勢を見極めているつもりだ」


「そう思っとるのはおどれだけや」


「俺からすりゃ、あんたの方が頭の固いジジイだと思うがな。古い男よ」


「黙りや。立場に器が追い付いとらんボンクラが。今のおどれは何者にもなれへん中途半端な存在に過ぎん。恒元公のご機嫌取りをすることで、ちっぽけな自尊心を満たしとるだけの哀れなチンピラや」


「あんたが何と言おうと、俺は恒元公について行くと決めた。あの方を支えることが俺の使命だからな」


「せやったらさっさと拳銃ハジキを抜かんかい。目の前にるのは恐れ多くも総帥に異を唱えた逆賊やで」


 本庄は吐き捨てるように言った。そして「わしゃもう行くで」と俺に背を向けた。


「おい。あんたはこれからどうするつもりだ?」


「おどれには関係無い。覚悟の決まらん半端者にはな」


 彼は足早に廊下を歩いて行った。その後姿を俺は黙って見つめるだけだった。まるで突き刺すかのような哀れみの眼差しが痛かったから。


 本庄利政。五反田の蠍の異名に違わず、狡猾に天下を狙っていたか。俺を味方に付けようと画策している腹の内は読めたが、とっくに枯れ果てた旧恩で乗ってやるほど愚かではない。


 しかし、相変わらず鋭いな――暫く廊下に佇んで気を落ち着けた後で、俺は2階の突き当たりにある専用室へと向かった。そこでは深草が待機してくれている。彼へ「待たせたみてぇだな」と謝りながら、俺はジャケットを脱いでソファに腰かける。


「少しお疲れのご様子ですので温かい日本茶をお出しいたしますね。珈琲コーヒーよりも癒しになりますよ」


「すまねぇ。助かる」


 俺は素直に礼を言い、ジャボを緩めた。深草はすぐにティーカップに注がれた熱い緑茶を出してくる。俺は「ありがとう」と言って受け取り、口を付けた。


 この緑茶は静岡から取り寄せた銘柄らしい。緑茶を静養茶碗に注ぐとは些か可笑しな気もするが、俺を労わろうとする気持ちが嬉しかった。


 それに、今はまだ独りになりたくない。本庄とのやり取りで荒んでいた心を慰めたいのかもしれない。


 俺はカップをテーブルに置き、両手を組んで考え込んだ。俺を見守ってくれている深草へ目線を向けながら、俺は彼に話しかけた。


「本庄は、華族趣味に染まる組織の現状に強い不満を持っているようだ……隙あらば何らかの行動に出るくらいの野心が燻ってるらしい」


「あの男が? 手駒になりましょうか?」


「五分五分といったところだろうな」


 目を丸くする深草をよそに、俺は窓の外に視線をった。駐車場では、ちょうど本庄組長が帰路に着くところだった。随行の子分たちに囲まれ、組所有の防弾車に乗り込む男の姿は妙に不気味に見えた。


「胤秀。お前はどう思う? あのサソリ野郎は如何ほどに使えると思う?」


「あくまでも私の意見で構いませんか」


「お前の考えが訊きたい」


「でしたら申し上げますが……かの御仁は何の役にも立たぬものと存じます」


 深草は率直に答えた。


「第一に、そもそもとして兵の頭数が揃わねば決起に踏み切れぬ小さい器では事を成せませぬ。自らが頂点に立つという気概に欠けておりましょう」


「ほう……」


「第二に、華族のごとく振る舞うのは国を統べる者として当然のこと。その程度のことも理解出来ぬようでは天下など獲れますまい」


「なるほど」


 俺は頷いた。


「最後に、貴方様は決して中途半端な人間ではございません。常に全力で生きていらっしゃいます。それはもう誰よりも。だからこそ、あのような愚か者が媚びを売りにくるのでございましょう」


 深草は力強く言った。彼の目に宿る熱意を見て、俺の心は温かくなった。


 この男は正真正銘、俺の忠臣なのだ。俺のために命を捨てることが出来るという、最高の配下。この男となら、俺はどこまでも行ける気がする。


「ありがとう。お前がいてくれて、とても救われた気がする」


 俺は素直に感謝を口にした。深草は微笑みを浮かべた。


「恐縮でございます」


 時計の針は9時48分。あまりゆっくりしていては総帥との合流時間に遅れてしまう。そそくさと立ち上がった俺は、壁際のクローゼットへ近寄って着替えを始めた。既にハンガーに掛けられたゴルフウェア一式が、手に取るのを待ちわびるように飾られている。


 黒のシャツに紫のベストを着込み、リネン生地のベージュのズボンを穿いて足は白のシューズで固める。これら一式は菫美子がコーディネートしたブランド物で、全部でざっくり50万円近くの買い物だったらしい。さしずめ、彼女自身で買ったのではなく中川恒元に買わせたものであろうが。


 国を統べる者として人前に立つに相応しい服装。その観点で言えば完璧だろうが、如何せん金を積めば手に入る代物でしかない。本当の意味での威厳は、着ている者の格によって決まる。そう考えると、この着飾った恰好が虚しいものに思えてならない。


 しかしながら、外見を整えることそのものに抵抗は無い。むしろ、俺には必要だと思っているくらいだ。ジャボに代わって首元を蝶ネクタイで締めなければならない事実は鬱陶しいが、華やかに生きるためには仕方ない。


 大体にして、これから訪れる場所は魑魅魍魎が跋扈ばっこする修羅の草原だ。そんな世界で己らしく振る舞うためには、貴人の風格を常に醸し出していなければならない。


 そんな風に考えつつ、俺は着替えを終えた。そのタイミングで深草が声を掛けてくる。


「猊下。こちらを」


「ああ」


 腹心が差し出してきたのは茶色のハンチング帽。これも菫美子の趣味だろう。帽子を受け取り、俺は頭に乗せた。


「んじゃ、行くとするか」


「はっ」


 深草は立礼をしてから、俺の数歩後ろに控えて廊下へ出る。そこから数分ほど歩いて大階段広場へ向かうと、まだ総帥の姿は無かった。随行の護衛連中が俺の到着にいち早く気が付き、丁寧な挨拶をしてくれる。


「おはようございます。次長」


「ああ。ごきげんよう」


 そう返した俺に、男たちは嬉しそうに目尻を下げる。どうやら俺は、未だに部下から慕われているらしい。いずれ敵対する間柄になるやもしれぬとはいえ、俺としては悪い気分ではない。


 それにしても、やはりこの空間は落ち着く――俺はぼんやりと思う。広々としたロビーには豪奢ごうしゃな装飾が施されている。天井は高く、ステンドグラスから差し込む陽射しが室内を明るく照らしている。絨毯じゅうたんは赤黒く染め上げられ、そこに靴の跡がくっきり残っている。調度品一つとっても一流品ばかりで、美術館さながらに飾られている西洋美術作品の数々は本物らしい。


 まるで御伽噺の中に迷い込んだようだと錯覚してしまう。実際、ここは権力者の住処だ。富と名誉と殺戮の世界。それが、俺のいるべき場所。ゆくゆくは全てを己のものとしてやる。そのためには、もっと力を得る必要がある。


 やがて、廊下の奥から総帥が近づいてくる。随行の女中たちに囲まれ、歩を一つ進めるごとに優雅な雰囲気を漂わせている。グレーを基調とするゴルフウェアに装いを変えた姿は、まるで別人のように見える。彼は俺を見るなりニコッと微笑んだ。思えば共にゴルフに繰り出すのは久々か。少しばかり見慣れぬ雰囲気が漂っているのは、きっとその所為だ。


「お待ちしておりました! 恒元公!」


 俺はすぐに頭を下げる。他の者もそれに習って一斉に立礼をする。恒元は手を挙げて制した。


「良い良い。堅苦しいことは抜きにしよう」


 そして、俺たちに向かって右手を差し出した。


「さあ。共に行こうじゃないか。我らが栄光の日々の始まりだ」


 総帥の後ろに続いて歩く俺の足取りは軽い。心臓の鼓動が速くなっているのが分かる。同じ階段を降りているだけだというのに不思議なことである。


 その後、駐車場へ出た俺に続いてリムジンに乗り込む。護衛の組員を3人ほど乗せ、車は横浜へと走り出す。その背後を深草が俺の専用車で付いて行く。


 外堀通りから都道405号線へ出たタイミングで、ふっと呟くように恒元が口を開いた。まるで何かを思い出すように。


「時に涼平。次の総理は誰が良いと思う?」


 どうしてそんなことを訊くのか。戸惑ったが、即答を返す。下手に長引かせては、舐められる。


「椿原先生あたりが適任かと存じます」


「理由は?」


「総裁の座に就くまでに必要となる調整能力を備えていらっしゃいますし、何より政策立案のセンスがある御方です。野党も納得する柔軟なプランを考えられる御方こそが、今後を見据えた上では最も相応しいと考えております」


「ふむ……」


 恒元は顎に手を当てて考え込んだ。何か思うところがあるらしい。ややあって、「確かにな」と頷く。


「……確かに椿原あたりが妥当なところだろうな」


「はっ」


「いやあ、今の首相は使えない男だからな。この機会に辞めさせるのも面白いと思ってな」


 俺は思わず息を呑んだ。まさかそこまでのことを考えていたとは。


「恐れながら、現時点で賀茂氏を辞めさせるのでございますか? 参院選を前に総理総裁が政権を投げ出したとなれば、与党は大衆に見限られますぞ?」


「だが、賀茂は大衆に嫌われておる。総理を続けたところで支持率は下がる一方だ」


 恒元は愉快そうに笑った。だが、その瞳には深い憂いが浮かんでいた。あるいは憤怒とも取れる感情が揺らいでいるように見えた。


「日韓関係の正常化は目下最重要課題。賀茂にそれを解決する度量は無い。トキタの株価が落ちるのは構わんが、これ以上自憲党を責められては堪らぬゆえな」


「しかし……」


「構わん。所詮、総理の椅子など似合わん男であったということだ。韓国との話を付けられぬ以上、奴には引退してもらおう」


 俺は口を閉ざした。これ以上反論しても無意味だと悟ったからだ。恒元の決定は絶対だ。覆ることはない。


「それで、涼平。椿原を総理にするために、何をする?」


「官房長官の霧山氏には個人的なパイプがございます。彼を辞めさせて閣内不一致に持ち込みます」


「良いぞ。霧山は中川叡智財団の議員懇談会に顔を出してくれておる」


「ええ。霧山氏は『次期内閣では引き続き官房長官に椅子に座らせてやる』と説き伏せ、彼の所属する高沢派を椿原先生の味方に付けます。国家財政に対する価値観が違うと云えども、ポストが貰えるとあらば高沢元総理も妥協せざるを得ないでございましょうから」


「よし。任せよう」


 恒元は満足げに微笑む。任せようとは――賀茂内閣の倒閣工作を始めろということか。参院選はどうする気だ。腑に落ちないものの、恒元は俺に政界での暗躍を許した。ゆえにこそ、ここで下手な真似をするべきではない。


 俺は窓の外に視線を向けた。六本木から南青山を経て渋谷に至った乗った車は、やがて首都高速へと乗り入れて行く。天候は快晴。午後も青空が続くらしいが、俺の心の中では雷鳴が轟いていた。


 しかし、この感情は何だ? まるで喜びの色が感じられない。俺はいつからこんな臆病になった。


 そう思いつつも、俺は車内で携帯電話を取り出し霧山長官の秘書へメールを打った。内容はシンプルに【参院選後を見据えた人事について議論したい。今夜お時間をいただけるか?】と打ち込む。どうせ相手は乗ってくる。賀茂内閣は終わりだと分かっているだろうし、自分にとって最も得になる決断を下すはずだ。その結果が己の破滅だとしても。


 だが、もし仮にここで【霧山はあなたに会いたくないそうです】と回答が来た場合は――思考を回していると、恒元が話しかけてくる。先程までの不機嫌そうな態度とは打って変わって上機嫌だ。まるで子供のような無邪気な笑顔を浮かべている。


「お前としては、賀茂は続けるべきと思うか?」


「此度、上手く韓国を宥めることが出来れば少しは見込みがございますが。そうでなくば器に非ずと申しますところでしょうか」


 俺は曖昧に答えた。そうしているうちに返信が届いた。恒元が「構わぬぞ」と言ったので俺は端末を開く。


【午後6時より恵比寿の料亭でお話を伺いたいです。そこには霧山も同席いたします。よろしくお願いします】


 霧山長官も顔を出すというわけか。都合が良い。俺は即座に【分かった】と返した。その様子を見ていた恒元は微笑む。


「お前には苦労をかけておる。結婚してから、未だ1ヶ月も経たぬというのに。妻を寂しくさせてしまって、忍びないな」


「いえいえ。新婚旅行の休暇も頂きましたゆえ、あいつも分かっております」


「どうだ? 唯愛嬢とは良くやっておるか?」


「おかげさまで。幸せの境地を噛みしめる心地でございます」


「ははっ。ならば我輩としても誇らしいというものよ」


 恒元は楽しげに笑うと、俺に訊ねた。俺は正直に答えた。嘘偽りのない本心だった。


「……唯愛嬢に不満は無いのか?」


「ええ。勿論でございます」


 俺は即答した。唯愛は俺の妻だ。それ以外に答えはない。けれど恒元は満足していないようだった。どこか不安げな表情をしている。まるで、何かを恐れているかのような目つき。そんな目を向けられるのは初めてのことだったので、理解に困るあまり俺は内心で焦った。だが、すぐに平静を取り戻した。この程度で動じていては、将来的な権力簒奪など為せるわけがない。


「まあ、夫婦の営みにおいて悩みがあれば何時いつでも申せ。我輩も少しは女心の機微が分かるゆえ、助言をしてやれぬことも無い」


「はっ、御意のままに」


 俺は恭しく頭を下げた。それから30分ほどくだらない雑談を交わしていると、リムジンは目的地に到着した。神奈川県横浜市旭区。戦前から続く由緒正しきゴルフ場だ。都心からのアクセスは良好で、敷地内にはホテルや老舗のレストランも併設されている。


 そして、ここは総帥の所有する土地でもある。このゴルフ場の事実上の経営者は中川恒元だ。ゆえに彼は会員権を持っていなくとも自由に入場できるし、練習場も借り放題なのである――つい先日から。


 本来ならば恒元の行きつけは奥多摩だったが、同地を支配する大国屋一家が中川会を脱して敵に回ったことにより、安全上の観点から別の場所を利用することとなったのである。


 リムジンから降りた俺たちを待っていたのは、いつものごとく組織と付き合いのある企業家や財団系列の病院経営者たち。彼らが一様に頭を下げる中で、俺は恒元の後に続いてクラブハウスへと向かう。巨大で豪華な建物だ。外観はヨーロッパ風建築で、内部は完全にフランス式。経営権が外資に渡っていないだけあって、非常に落ち着いた佇まいだ。俺はその場所に好感を持った。訪れるのは初めてだが、機会があれば俺も会員権を購入して足しげく通うとしよう。


 深草が次長専用車から降ろしたゴルフバッグを受け取り、ロビーに入ると、そこに待っていた顔の意外さに俺は驚いた。


「ようこそおいでくださいました。恒元公」


 中川会の新たな直参にして『村雨むらさめぐみ』の組長、そして俺の舅の村雨むらさめ耀介ようすけである。確かにここは村雨組の領地だが、よもや組長本人がおでましとはな。おまけに義父はゴルフウェア姿だ。茶色のシャツに紺のパンツ。背中まで伸びた長髪は結い上げられているのか、濃茶色のハンチング帽の中に上手く仕舞われている。あまりにも不似合いなファッションに俺は笑いを堪えるのが大変だった。


「うむ。すまなんだな。村雨よ。何かと慌ただしいであろうに」


「何の何の。恒元公が我が領地にお運びするとあらば、この村雨耀介、喜んで駆けつけまする。さあ、こちらでございます。既に支度は整っておりますぞ」


 村雨は親切丁寧に恒元を案内する。その背中はいつもより大きく見えた。俺も慌てて後に続いた。普段はコースマネージャーとして働いているらしい村雨組若衆の案内でラウンジへ入り、ソファに腰を下ろす。すると、さっそく酒と肴が運ばれてきた。ワインを勧められ、恒元は笑みを浮かべてグラスに口をつける。


「ふむ……良き香りだ。お前も飲め」


「はっ。頂戴いたします」


 俺は頭を下げ、一気にあおる。芳醇な葡萄の香りが鼻腔をくすぐり、口の中で果実の旨味が広がる。


美味うまい」


 思わず漏らすと、隣にいた村雨が得意げに胸を張った。


「そうであろう。このゴルフ場のオーナーたる男はなかなか良いものを揃えておってな。たまにこうして一杯やるのが楽しみとなっておる」


 なるほど。そういうことだったのか。俺は納得し、村雨に酌をした。


「あんたも飲んでくれや。義父とうさん」


「ははっ。その呼び方はせと申しておろうに」


 村雨は照れたように笑うと、今度は俺に注いだ。俺たちは互いのグラスに注ぎ合いながら談笑を楽しんだ。やがて会話も落ち着いてくると、村雨はグラスを傾けながら俺に訊ねてきた。


「涼平。唯愛はどうしておる? 毎晩たっぷり可愛がってやっておるか? ははっ」


「そりゃあ、朝も夜も良い女だぜ。あんたの娘は。あんなに良い女は他にどこを探したって見つからんさ」


「左様か。それは結構なことだ」


「流石、あんたのゲノムが存分に入ってるだけのことはある……」


 ゲノム――自らの口から出た言葉に若干ばかりの興奮を覚えたが、すぐさま抑え込み、俺は「……まあ、今日は楽しもうぜ」と舅に微笑む。そうして総帥に向き直って言った。


「本日は義父ちちも私も、かねてよりの鍛錬の成果を披露出来ましょう。総帥にご覧頂きたく存じております」


「うむ。期待しておる」


 恒元は満足気に微笑むと、立ち上がって助勤からドライバーを受け取り、スイングの素振りを始めた。その姿はまるで、戦場におもむく武将の如き勇壮さを湛えていた。俺もそれにならい、腰の辺りでグリップを持つ握り方を試してみる。何度も練習した動き。今後は政財界のお偉方とゴルフに赴く機会も増えるだろうから


 俺たちがウォーミングアップをしている間にも、周囲ではクラブが空気を切る音が聞こえ始める。どの者も相応の腕を持つようだ。総帥のお供として何度かプレイしているうちに、俺も要領が掴めてきた。負けられない。


 そうこうしているうちにスタートの時間が迫ってきたので、俺たちはコースへと出た。今日はティーオフから4番ホールまでが前半で、その後は一旦休憩に入る予定になっている。


 まずは初っぱなから飛距離を稼ぎたいところだが、ホールによってはバンカーが多い難易度の高い場所もある。慎重に行かなければ――俺は集中力を高めながらボールをセットし、グリーンに向かって打つ。軽快な打音と共に、ボールは空高く舞い上がった。


「良いぞ! やるではないか!」


 バックティーから打った俺の一撃に歓声を上げる村雨。俺は微笑みながら彼に応じる。そこから6番ホールまでは順調に進んだ。7番ホールからはパー5が続き、そこではいかにしてピンを狙うかが勝負の分かれ目となる。恒元は初っぱなからパー5の難関コースに挑んだ。


 全員がそれぞれ打ち終わった後、村雨が俺に向かって言う。


「お前には驚いたぞ。まさか、これほどまでに腕が立つとは。一体誰に習った?」


「教えてもらったわけじゃねぇ。自己流だ」


「ほう。やはりそうか。それでこのレベルというのは大したものだな」


「元傭兵の学習能力を舐めて貰っちゃ困る」


 思えば英語も、フランス語も、スペイン語も、中国語も、韓国語も、全て独学だった。その言語で記された書籍なり新聞なりを読み漁り、その言語で話す人々の声を聞き続けることで発音を磨き、何から何まで独りで習得してきたのである。語学とは最終的には実践こそが物を言う世界だ。俺は自らの手で語彙力と知識を磨き上げてきた。それでも、総帥に比べたらまだまだ足りない部分が多く存在する――そう思いながら恒元のスイングを見つめていると、不意に彼はこちらを振り返った。


「どうした? 何かあったか?」


「いえ。何でもございませぬ」


 俺は咄嗟に首を横に振った。総帥は頷くと「そうか」とだけ言ってまた正面を向く。それから暫くの間、黙々とプレーが続いた。やがて全員がカップインして、村雨が言った。


「どうやら、あの者の勝ちのようにございますな」


「ああ。そのようだ。全く、恐るべき小娘よのぅ」


 村雨は呆れたように肩を竦める。彼らが目を遣った先に居たのは、体格の良い若い女性。黄緑色のポロシャツに白のミニスカートという出で立ちの美女は、今まさにパットを決めて笑顔でガッツポーズを決めている。彼女もまたゴルフウェアに身を包んでいるが、その姿はあまりにも場違いである。長身かつグラマラスな体型の上に、短く切った黒髪に大きな瞳。雪のように白い肌に細い眉毛、口紅を塗っていない唇。見た目だけで言えばどこかのモデルにも見える美しさだ。


 その女は中川叡智財団と取引のある超大手製薬会社代表の娘で、今日は前夜にぎっくり腰で寝込んだ父に代わって参画したらしいが。彼女の優勝を想像する者が誰一人としていなかったことは言うまでもない。そんな中で、村雨は俺に囁きかけた。


「ふふっ。涼平よ。ああいう女はどうだ? 興味は無いか?」


「ねぇな。俺は唯愛みてぇな雰囲気が好みなんでよ。それに、いくら美人だろうとあんな馬鹿っぽい女は好きになれねぇよ」


「ははっ。それもそうだな」


 俺の返答に苦笑すると、村雨は婿の背中をポンと叩いてクラブハウスへ戻って行く。ところが、その直後。


「何ということだ!」


 突如として声が響いた。ふと目をると、やや小柄な中年男性が例の女子ゴルファーに歩み寄っていた。


「お前は『場の空気を読む』ということを知らんのか!? どうしてずば抜けてスコアを伸ばそうと考えた!?」


「知りませんよ、そんなの。ただ自分がやりたいようにやっただけですから」


 その中年男は同じく財団とも取引のある医療機器開発会社の会長らしいが、女性は涼しい顔で言い返す。


「私がコースに出れば必ず75を切ります。それだけですよ」


「馬鹿が! 恒元公もいらっしゃるんだぞ! こういう場では、少しくらいは加減をするのが常識ってもんだろ! そんなことも分からんのか! この小娘!」


 ああ、言ってはならないことを言ってしまった――俺と舅が思わず顔を見合わせる中、恒元は既に動き出していた。傍に控えていた助勤からアイアンクラブを受け取ると、なおも女性に食ってかかる男に背後から近づき、アイアンを振り上げる。恒元の表情が冷たい。


「へっ?」


 男が間抜けな声と共に振り向いた直後、アイアンが振り下ろされ、脳天が割られる。頭蓋骨が砕け散る鈍い音と共に中年の企業家は地面に崩れ落ちた。


「……っ」


 その男は程なくして息絶えるも、恒元は返り血に濡れたアイアンをさらに頭部めがけて叩きつける。血飛沫ちしぶきが飛び散り、総帥のゴルフウェアが赤く染まってゆく。


 ――グシャッ。グシャッ。グシャッ。


 鈍い音が繰り返される拍子に、その場に居た賓客たちは顔を真っ青にして立ち竦む。


「……」


 女性は絶句している。無理もない。いくら何でも急すぎる展開だ。


「我輩が下手へただと申すか。侮った口を叩きおって」


 やがて恒元は飽きたように吐き捨てると、アイアンを地面に落とし、助勤に申し付けた。


「後始末をしておけ。芝生に血の匂いが残らんようにな」


「はっ。承知いたしました」


 それから恒元は、ガクガクと怯えて震え上がっている面々を睨んで言った。


「我輩への口の聞き方を誤れば、誰でもこうなる。覚えておくが良い」


 先ほどの女子ゴルファーも含め、その場に居た全てのカタギが一斉に土下座をする。彼らの反応は正常だ。目の前で佇む老人は国家の万物を統べるフィクサーなのであるから。


 そして、それきり興が醒めた恒元は自らゲームを続行しようとせず、俺たちを伴ってクラブハウスへと引き上げてゆく。


「涼平よ。これからも精進することだ」


「はっ。御意のままに」


 俺は深く頭を垂れ、シャワー室へと向かう恒元の背中を深々と礼をして見送った。姿勢を戻すと、ため息と共に舅が呟いた。


「お前も苦労しておるようだな。お仕えする御方があのように短気では、機嫌をお取りするのも難儀であろう」


「さっきの悶着は、どう考えたって、あのオッサンがいけねぇだろ。わざと負ける云々を口に出しちゃ接待の意味が無い」


 即座に返した俺に、村雨組長は笑った。


「今さらながら、大きくなったな。涼平。世の理の何たるかを己なりに学んだか」


 満足気に俺を見つめてくる村雨を前に、俺は複雑な思いに駆られた。息を潜めて権力簒奪を狙っているとはいえ、今の俺は奴の奴隷にも等しい。そんな姿が俺には似合っているというのか―――いや、これ以上考えるな。力を得るためには村雨組と良好な関係を築くことは欠かせない。余計な感情に左右されては何も為せない。


「幹部の椅子に座って1年も経つんだ。磨かれねぇわけがねぇよ」


 そう微笑みながら返した俺は、冗談交じりに言葉を続ける。


義父とうさんだって、面白おもしれぇくらいに馴染んでるじゃねぇか。日常風景のあらゆる場面で和装が悉く排除され、あろうことか盃の儀式さえをも洋装で行うようになった今の中川会によ。媒酌の口上はおろか、最初の『東西とざい東西とうざい』までフランス語に変えられた異様な状況に、あんたが文句ひとつ言わんとはな」


 俺の指摘を受けて村雨は「ふん」と笑った。


「お前と同じだ」


「俺と同じ? 何が?」


「己に言い聞かせておるのよ……今は雌伏の時であるとな」


 この男も天下を狙っていたか。周囲に聞き耳を立てる者がいないことを確認しつつ、俺は小声で応じた。


「本庄利政もあんたと同じようなことを言っていた。尤も、あのクソ関西人は味方が集まらん限りは兵を動かさねぇつもりらしいがな」


「そうであろうな。あの程度の男では何も出来まい。そもそも、恒元公には敵わん。分かっておるわ」


 そう語る村雨は俺の顔を見ない。VIP専用のカフェテリアの大きな窓から見ゆる芝生を熱心に見つめている。


「このゴルフ場の経営権を恒元公に献上したのも、ひとえに御仁の機嫌を取るためだ。恒元公は確実に衰え始めた。近いうちに我らは大仕事を任されよう。そこで結果を出せば、我らは自然と中枢に躍り出る。あの老いぼれが引退するか、あるいは命を落とすかすれば、そこですぐにでもこの手で掴み取ってやる」


 俺は息を呑んだ。まるで恒元の時代の終焉を予期したような言い方だ


「あんた、何言ってんだ?」


 思わず声を裏返らせる俺に対し、村雨は「戯言にあらぬぞ」と首を振る。


「現実を見よ。お前ももう気付いておろうが」


「何のことだよ」


「良いか。まず初めに、恒元公は最近になってやたらと血の気が多くなられた。以前よりも短気になり、怒りやすくもなった。何かにつけては人を殺めるようになった。前まではそこまで酷くなかったと申すに」


 だが、俺は敢えて首を傾げて「老いが回ったって言いてぇのか。前からああいう調子だったろ」と返す。されども舅は譲らなかった。


「涼平よ。この村雨耀介が他者の軍門に下り続けると思うてか」


 つまり中川会への吸収合併を受け入れたのは、純粋に恒元の衰退の程を見込んでの選択であり、将来の乗っ取りを見越した降伏だったというわけだ。


「あの御方も今年でよわい66を迎える。若い頃よりは動きも鈍くなり、頭も衰えてきておる。今はまだ都合の良い兵隊で構わぬ……が、いずれはあの男を蹴落とし、真の頂点となり、この国の万物を操ってくれようぞ」


 村雨耀介の声は冷徹だった。しかし、同時に熱を帯びているようにも感じられた。それは、勝利を確信している者の語り口だった。


「……お前も、そのうち気付くであろう。我はそう遠くない未来に恒元公を倒し、彼の地位に取って代わってやるとな。その暁には、お前を後継者にしてやろう。お前も我が覇道の礎となり、そして私のもとで私の全てを学べ」


 俺は黙って義父の顔を眺めていた。暫くして、彼は笑った。


「ふん。まあ、お前は私の言うことを聞いておれば良い」


 俺は「へいへい」と応じるだけだった。まだ未熟だというのか――ひどい屈辱に心が焼かれる感覚を味わいながらも、言い返すことはしなかった。


「……」


 それからシャワーを終えて戻ってきた恒元は、バスタオルで頭を拭きながら村雨に言った。


「村雨よ。今日の催しは見事であったぞ。その褒美として、お前を中川会の理事および理事長補佐に任じよう」


「ありがたき幸せにござりまする!」


「これからも我輩のために励むが良い。涼平と、義理の父子二人で力を合わせてな」


 深々と頭を下げた舅の肩を優しく叩いた後、恒元は俺に言った。


「帰ろう」


「……はっ。承知いたしました」


 まるで全て最初から決まっていたような人事だ。総帥は村雨耀介を使って俺を牽制するつもりらしい。直参入りした者が1ヶ月も経たずに理事に昇任し、さらには組織のナンバー3とも云える理事長補佐の座に就くなど本来ならあり得ない話だが、その辺りの些末事を気にする恒元ではないということであろう。


 それから俺は贅を尽くしたリムジンの後部座席に揺られて、赤坂へ戻った。隣に座った恒元の雑談に付き合いながら。そんなこんなで赤坂まで戻ってきた時には、空は夕焼けに染まっている。総帥府の大駐車場に車が滑り込むと、俺は総帥に続いて外へ出た。玄関ホールの広いフロアに入ると、助勤たちが丁寧な挨拶をしてくる。


「おかえりなさいませ」


 皆、身に纏っているスーツにはしわ一つ無い。顔つきも精悍そのもの。総帥の護衛部隊としての風格が体全体から滲み出ているとたとえるべき姿勢を保っており、彼らの整然とした模様は不気味にも思えた。天下を狙う折には無論のこと彼らも倒さねばならない。


「涼平。我輩はこれより晩餐だが、お前はどうする?」


 恒元は階段を登りながら訊ねてくる。俺は即答した。


「霧山官房長官より誘いを受けております」


「そうか」


 総帥は微笑みながら先を急ぐ。俺は「ええ」とだけ言って後に続いた。2階に到達すると、恒元は俺に言った。

「お前も大変だな。唯愛嬢の婿としての務めもあろうに、政治家の相手もせねばならん」


「いえ。これは当然のことでございます」


 俺は素直に答えると、小さく息を吐いた。


「それに、私も少しは政界の機微を学ばねばならぬと存じておりますゆえ」


「ふむ……」


 恒元は俺を見つめてくる。その眼差しには僅かながら嬉しそう色合いが含まれているように見えた。


「……すまぬな。若人には若人の間にしか出来ぬことをさせるべきと申すに。恒貞がもう少しばかり出来の良い甥であったならと悔やまれてならん」


 如何なる意味だろう。俺が「は、はあ」と一先ひとまずの返事を繰り出すと同時に恒元は踵を返し、去って行った。


「では、またな」


 副総帥の地位あるいは組織に馴染もうと、中川なかがわ恒貞つねさだが色々と試行錯誤に耽っていることは俺も把握している。自らの後継者の非力ぶりを嘆きたくなる気持ちは理解できるが、俺が霧山歳郎と飲みに行く話と何の関係がある。


 恒元め。俺が政治家と個人的な関係を築いていることに対して釘を刺すつもりか――どうやら急がねばなるまいな。何としても参院選にて与党を過半数割れに追い込み、恒元にとって甚だしい想定外をつくり上げてやる。


 意気に燃え、俺は専用室へと戻った。備え付けのシャワールームにてゴルフウェアを脱ぎ棄て、温水を浴びる。これから、夜の闇に紛れる時間帯だ。心を研ぎ澄ませて、獲物に狙いを定めよう。


 髪から水滴を弾きながらシャワー室を出て、すぐに着替えに戻る。部屋の隅にあるクローゼットの中から選んだのは、午前中と同じ様式のスーツだ。濃い灰色のジャケットとパンツに、白のブラウスとジャボ。菫美子が恒元に仕立てさせた防弾仕様の背広。あの姑は俺のために30着のスペアを用意させた。大したこだわりである。そんなものが沢山あったところで、ミュータントの俺は銃弾に当たったとて死ぬことは無いのであるが。


 些末な物思いはさておき、近くで控えていた深草と共に俺は部屋を出る。そうして駐車場に出て、専用セダンに乗り込む。向かう先は恵比寿。霧山が通い詰めているという料亭である。政界の小ネタに詳しい深草が言うには、そこは隠れ家的な店として名高くで、議員から芸能人まで幅広い層から支持を得ているのだとか。車内にて端末を取り出して暗号メッセージを打ち、約束の時刻に遅れないよう調整をしつつ、俺は窓の外の沈みゆく夕陽を見やる。


「……」


 港区から渋谷区へと移り変わる街の景色を眺めながら、俺は思考を回転させる――さて、次の総理には誰を据えるべきか。霧山と同じ派閥の真島まじま秀雄ひでおあたりを擁してみるか。無論、真島が俺の操り人形となることを受け入れた場合の話だが。


 やがて辿り着いた店舗の前に車が停まる。後部ドアを開けると、待ち構えていたのは50代くらいの中肉中背の男。霧山だ。俺が車を降りるなり、彼に握手を乞われた。


「やあやあ、どうも!」


 俺は朗らかな笑顔でそれに応じ、官房長官と共に店内へと足を踏み入れた。そこは如何にも老舗らしいおもむきの玄関構えである。白壁造りの土蔵造りに、瓦屋根が載っている。玄関には暖簾のれんが掛けられている他、軒先には提灯が吊られ、橙色の光を放っている。俺たちはそのまま通路を進み、奥まった個室に通される。すると、そこには既に何人かの人間が卓を囲んでいるのが見えた。


「やあやあ。ようこそ」


 笑顔で出迎えてきたのは壮年の恰幅の良い男たち。永田町特有の香水の匂いを漂わせた中年ども。中にはテレビや新聞で知った顔もいる。おそらく彼らは全員が国会議員であろう。


 俺としては霧山と一対一サシで夕餉を楽しむつもりであったが。霧山が余計な心遣いをしてくれたようだ。


「ふっ……思ったよりも騒がしい宴になりそうだ」


 鼻を鳴らした俺は霧山に促され、開いていた最奥の座布団に腰を下ろす。その隣に深草が座ると、手前に居た男が日本酒の瓶を手に取った。


「初めまして。私、衆議院議員の八木やぎ美浩よしひろと申します。


 八木美浩。俺が覚えている限りでは、憲政党の副幹事長であったか。霧山とは超党派の保守系議連で親交がある人物だ。他にも、この場には自憲党のみならず憲政党所属の議員たちが何人も集まっている。


「ごきげんよう。麻木涼平だ」


 俺は八木に杯を差し出し、注がれてゆく透明な液体を眺める。政界とマフィアの宴。互いの立場を超えて交流を重ねる異端の集いだ。このような奇妙な宴席が開かれるのは、ひとえに皆が翌に従順だからだ。表向きは統治機構改革だの旧態打破だのを掲げる野党議員たちも、裏ではこうして古き悪しき倣いを何の遠慮もなくたのしんでいる――当然だ。世を動かすには鉄と血が必要だ。きっとその原則は未来永劫変わることは無いであろう。


「さあさあ、飲んでください」


 八木に勧められた俺は、グラスの中の酒をあおった。強いアルコールが喉を焼き、鼻腔を抜ける。この男、一見すると色黒の肌に筋肉質という生真面目な雰囲気を漂わせているが、その口元は歪みきっている。俺のような人間と付き合うことは吝かでないどころか、積極的に関係を持っていきたいと考えているのかもしれない。


「どこで造られたかは知らんが、美味いな。バーボン以外じゃ酔えねぇ体質なのが残念に思えてくるぜ」


「いやあ、お目が高いですな。このお酒は私の選挙区の名産なんですよ」


 感心したように頷く八木は、続けて深草の方を見やった。深草は寸分も変わらぬ無表情のまま佇んでいる。


「胤秀君だったか。お父さんには毎度のこと世話になっている。こうして会うのは久しぶりか」


 八木が言う。深草は真顔のまま頭を下げた。


「こちらこそ」


「今日はたっぷりと飲んで楽しんでちょうだいね」


「いえ。車がありますゆえ。第一に私は酒が飲めぬ体質でして」


「ああ、そうだったか」


「父を儲けさせてくださっているようで。ありがとうございます」


「いやいや。儲けさせてもらってるのは私の方だよ。それにしても大きくなったね。今年で24歳だっけ」


「はい。おかげさまで大学を卒業いたしました」


「顔もすっかりハンサムになって……ぷぷっ」


 八木の言葉には下劣な他意が込められていた。俺は瞬間的に舌打ちを鳴らす。


「あんた。何を笑ってやがる」


 俺に凄まれた八木が震えながら姿勢を崩した。深草が「猊下」と首を横に振り、さらにはその場に居た全員が顔を真っ青にする中、霧山が慌てて「まあまあ。落ち着いてよ」となだめに掛かる。


「ええと、その、何でしょう? ああ! そうそう! 料理を食べようじゃないか! 店員さーん! 持ってきてちょーだいっ!」


 卓を隔てた向こう側に座っているのは、フィクサーに仕える裏社会最強のアサシン。怒らせれば命は無い――それが霧山の脳裏にひらめいた本能的行動だったらしい。狼狽しきった政治家の声を受けて、ふすまの向こうから料理人が配膳をしてくる。テーブルの上には魚料理、肉料理、煮物に、刺身まで並ぶ豪勢な内容となっている。どうやら霧山は政界の慣例通りに金にものを言わせたようだ。


「さあ、食べようじゃないか。うん」


 震えた手で箸を握り、霧山は刺身の盛り合わせを口に投げ込み始めた。俺としては八木に文句の一言でもぶつければ気が済まなかったが、深草自身がに不快そうな様子は無いことだし、ここは適当に話を終わらせておくことにする。


「この鯛、脂が乗っていて美味しいよ。食べてごらんよ」


 何としても空気を変えんと、俺に刺身を勧めてくる霧山。俺は深草に目配せをすると、彼に合わせて箸を取った。確かに美味い。淡白な身でありながら、噛めば噛むほど旨味が広がる。


「なるほど。確かにこれは良い品だ」


 俺はそう評し、口内の塩辛さを吟醸で洗い流す。


「いやぁ、良かった良かった! 麻木さんの口に合って何よりだ」


 安堵の息を吐きながら霧山が言った。だが、それも束の間。


「んじゃ、そろそろメインディッシュと行こうか。野党の議員さん方は、今月の選挙をどう考えている?」


 俺は箸を止め、本題に入った。視線をぶつけた先は、無論のこと八木を含めた憲政党の議員たち。先ほどの一件で恐怖のあまり気絶寸前の副幹事長を除き、全員が顔を見合わせた。


「……」


「おっと。もう少しばかり分かりやすい訊き方をするべきだったか。要するに俺の奴隷として働く気はあるのかって話だ。参議院改選の過半数をくれてやる対価として、な」


 奴隷というストレートな比喩表現に一同が戦慄する中、俺は言葉を続けた。


「この麻木涼平の手にかかれば、自憲党は歴史的惨敗を喫することになる。そうしてほしいから俺にすり寄るんだろ?」


 八木は全身を震わせながらも「そ、そんな。我々は、その、中川総帥とはこれまで以上にお付き合いをさせていただく所存ですし……」と口走るも、俺は即座に「はっきり言えや!」と遮った。


「俺に魂を売って権力を得るか否かを訊いてんだ!」


 それを聞いた八木は顔面蒼白となり「……いやぁ、それはちょっと」と言い淀む。俺は深草に目配せをした。すると、深草はジャケットの内側から拳銃を取り出し、八木の額に突き付けた。安全装置の外れる硬い音が響く。全員の身体が強張る。


「まあまあ。待ってよ。落ち着いてくれ」


 霧山が慌てて割って入るも、俺は構わず八木に問い続けた。


「賀茂内閣の支持率が今年に入ってからの迷走続きで半分を割り込む中、あんたらは政党支持率で40%にも達しちゃいねぇじゃねぇか。参院選は負けて良いってのか?」


「ええっと。それはですね……」


 しどろもどろとなって口籠もる八木。深草が銃口を押し当てている。その冷たい感触を感じて、八木は顔を引き攣らせている。


「答えろや。あんたらだけでどこまで戦える? このままじゃ政権交代なんざ夢のまた夢だぜ?」


 俺はさらに畳みかける。憲政党副幹事長は唇を噛み締めながら、静かに俯いてしまった。すると、俺の対角線に座る若い男が八木の肩に手を置いた。


「代わりに答えます」


 この青年議員の名は井島いしま祐樹ゆうき。一昨年の総選挙で初当選した、憲政党所属の一年生議員だ。端正なルックスも相まって、主婦層からは広く人気を獲得している人物だ。


「八木さん。ここはお任せ頂けますか」


 そう言いながら、井島は俺に視線を向けてきた。俺が目を合わせてやると、井島はゆっくりと頷いた。


「麻木理事。あなたの仰る通り、今の我々は自憲党に勝つほどの支持を得られておりません。このまま選挙戦に突入しても、過半数は得られないでしょう。日韓FTAの電撃破棄も、さほど賀茂内閣にとっての痛手になっておりません」


 その言葉に「確かにね」と肯首する霧山をよそに、井島は続ける。


「当選1回の僕が言うのもおこがましい話ですが、政権交代は憲政党の結党時からの目標です。この悲願を達成するため、我々は全力を尽くします。然しながら、これは簡単に達成できることではありません。自憲党の牙城を打ち破るためには、相当の実績が必要となります」


「へえ」


 俺はニヤリとわらった。つまりこの男はこう言いたいわけだ――政権交代には俺の協力が不可欠なのであると。


「つまり、俺にどうしてほしい?」


「あなたのお力添えがあれば、僕たちは何とか戦い抜けるでしょう。しかし、問題はその先です」


 井島の回答に、俺は「その先?」と眉を寄せた。


「参院選で過半数を奪った後は、こちらにいらっしゃる霧山長官の派閥と連携して賀茂内閣を退陣に追い込みます。次の臨時国会で我々は内閣不信任案を提出します。その採決で長官の派閥が造反してくだされば、どうにか可決できますから。しかし……」


 そこで一拍の間を置くと、井島は緊張した面持ちで切り出してきた。


「……その後の総選挙で勝てるとは限りません。ご存じの通り、我々はこの期に及んでも政党支持率で自憲党に競り負けるポンコツ集団ですから」


 かなり遠回しな言い方だが、井島の欲するものは分かりきっている。要は俺の力で世論を誘導してくれということであろう。それは当然だ。このままでは何も変わらない。自憲党と賀茂内閣の支配体制は続く。それは百も承知だ。


 俺は井島に向き直り「ははっ」と笑うと、再びテーブル上の料理に箸を伸ばす。今宵の宴は俺にとっても、実績とやらを得るためのきっかけづくりだ。井島たちが俺の思惑をどこまで知っているかはさておき、ここから先は多少の戯言に付き合ってやるのも一興というもの。


「内閣不信任案の可決に伴う総選挙での勝利……ね。賀茂内閣の弱腰外交とアメリカへの屈服が世間の耳目を集めている今こそ、あんたらの出番ってわけだ」


 俺は井島に「憲政党内で議員団を編成して韓国に派遣しろ」と提案した。さすれば、手をこまねくばかりの賀茂内閣との違いを大衆にアピール出来るだろうと――俺としては日韓FTAはこのまま破棄するのが好ましいと考えていた。韓国の農産物が安値で入ってこなくなることで食料品の価格は上がるだろうが、日本国内の農業者からの支持は得られる。


「あんたらはマニフェストに『物価上昇率実質マイナス1%』を掲げていたよな。一次産業に補助金をばら撒く代わりに、市場流通価格の統制を行うんだっけか。そいつをやれば良い。そうなりゃ大衆は今まで通りの価格で安心安全な国産食品を買えるってわけだ。完全に自憲党政権を見限りつつある農業者の票田と、少しでもモノを安く買いたい一般消費者の票田。この二つを合わせりゃ総選挙は勝てる」


 また「FTA破棄で割を食う自動車業界にはアフリカという代替市場を用意してやれば良い」と続けると、井島はコクンコクンと頷いた。不安げな顔をする議員仲間や霧山をよそに、ただ一人だけ感心するように。少しの間隔を挟み込んだ後、彼は言った。


「どうやらあなたは噂以上の切れ者のようだ……多少のリスクは伴いますが、やってみましょう。早速、議員団編成の件を持ち帰って話し合います」


「ああ。その人選については左向きの連中を充てるこった」


「え?」


「あんたらにとって、訪韓団の派遣は絶好の機会になることだろう。党内部の邪魔者を排除するためのな」


 憲政党は保守と革新の両方が混在する政党。現在は保守派が政策の主導権を握っているが、社会主義や共産主義を信奉する強硬左派も多く所属している。そんな連中を井島や八木たち党保守派が苦々しく思っていることを俺は見抜いていた、というより考えずとも分かった。


「あんたらが支持率で自憲党を上回れねぇ原因は、まさにそいつらだ。大衆は左翼的な考え方なんざ持ってねぇ」


 俺の言葉に沈黙が流れるが、すぐに井島は「心得ております」と応じた。彼は、さらに訊ねてきた。


「その、どうなさるのですか? うちのリベラルな人たちを韓国に派遣して、その……」


「あんたが知る必要は無い。韓国全土で相次ぐ排日暴動のニュースを黙って追いかけてりゃ良い」


 俺はマフィアの幹部にして、裏社会最強の暗殺者。その言葉には相応の響きがあったらしく、井島は両肩を震わせながら頭を下げた。


「よ、よろしくお願いいたしますっ!」


 井島に続き、八木や他の議員たちも座礼をする。つくづく単純な男たちだ。俺は鼻を鳴らしながら「ああ」と応じると、霧山の方を向いた。


「長官。賀茂はどんな調子だ?」


「完全にテンパってるね。閣議じゃ『皆さんにお任せします』しか言わないから、議員のみならず内閣府の事務方からも不満の声が上がっている」


「ふっ……」


 俺は笑った。チェ・ハジュン韓国大統領によるFTA電撃破棄騒動の勃発以降、日韓の外交は断絶状態に至ったにも等しい。向こうの在韓大使が青瓦台に足を運んでも悉く追い返され、逆に日本外務省が駐日韓国大使を呼び付けて文句を言おうにも突っ跳ねられる始末。賀茂自身は今までに『困惑している』の一言以外にメッセージを発さず、総理として事態打開に向けた具体的行動を取ることは無い。歩み寄る努力をすることも無ければ、韓国を非難することも無い。政界随一の親韓派として知られた賀茂欣滔ならば前者を選ぶと俺は思っていたが、よもや何もしないとは――されど好都合だ。この状況で憲政党の支持率を上げれば、確実に参議院の与党過半数を崩せる。


「……霧山さんよ」


 ほくそ笑みながら、俺は言った。


「あんたは今後も極力目立たんように動いてくれ。参院選では必ず与党を惨敗させてやる。高沢グループの議員を殆ど落選させるくらいの勢いでな。そうして選挙後は政界再編だ。左翼色が消えた憲政党に自憲党を脱したあんたらが合流し、強力な保守政権を誕生させる。邪魔者は俺が一掃してやるよ」


 霧山は「僕たちにとってはありがたいお話だけど、君にとって何のメリットがあるのかな?」と訊き返してくる。俺は「メリットか。勿論あるさ」と答えてやる。


「異国に媚びない保守政権の誕生は恒元公の宿願だ。そいつを成し遂げた光景を見ることは俺の願いでもある」


 そのように俺が応じると、霧山は「なるほどね」と頷き、腕を組み直した。彼は深呼吸すると、静かな声で語り始めた。


「中川総帥の理念を実現するための強力な右派政権をつくる。それが僕たちの悲願だ。賀茂首相は日和見主義者さ。アメリカや韓国に媚びへつらうことしか頭にない」


 どうやら霧山は俺と手を携えてくれるらしい。後々を見据えた上で方向性の違いはあれど、現時点では上手くやれそうだ。彼の野心に満ちた表情が、全てを物語っていた。


 それから小一時間ほど飲み食いと世間話に付き合った後、俺は料亭を後にした。車に乗り込むと、深草はスムーズに車を発進させる。そんな腹心に俺は話しかけた。


「……さっきは嫌な思いをさせたな。すまなかった」


 俺の言葉に、深草は「いえ」と首を横に振る。


「嬉しゅうございました。あのように、私のために声を上げてくださる御方と、今までに出会でおうたことがございませんゆえ」


 深草の声には熱がこもっていた。俺は「ああ」と応じ、宵闇にネオンの化粧が映える窓の外の夜景を眺めながら、次なる目的地に到着するまでの時を潰した。


 続いてはアヤカ・ブランシェアだ。再婚を果たしたばかりの身で元恋人と会うのは気が引けるが、事を成すためには仕方ない。車が東麻布の1丁目にある豪奢ビルの地下駐車場に入ったところで、俺は後部座席から降りる。深草を引き連れ、エレベーターに乗り込み、最上階を目指す。


「胤秀。外の守りはお前に任せる。頼むぞ」


「はっ」


 目的のフロアに到着すると、俺は廊下で胤秀を待機させて店の中へ入る。扉を開けると、そこは洒落たバーだった。ダークオーク製のカウンター席が5席とテーブル席が3席ある。客は数人居るが、皆、カウンター越しにバーテンダーと喋っていたり、各々の飲み物を楽しみながら談笑していた。全員が外国人だ。


 そんな様子を一瞥いちべつしてから、俺は店内奥のテーブル席へと歩いて行く。目的の人物がそこに居るのは分かっている。俺が近づくと、その貴婦人は読んでいた書物を閉じた。彼女は髪をポニーテールに結び上げており、襟付きの白いワイシャツに緋色のリボンを締め、黒いショートパンツを穿いている。足元には黒革靴。細身な体型ゆえ、覗いた太ももが眩しいほど白い。


「Too late.(遅かったわね)」


 そう言うなり、女は脚を組み替えた。ヒールが床板を叩く音が小気味良く響く。俺は彼女の対面の椅子に座り、カウンターの向こう側でグラスを拭くマスターに「バーボンをロックで頼む」と言った。


「I got here five minutes early, you know.(これでも5分前に着いたんだぜ)」


「When meeting a beautiful woman, the rule is to arrive 30 minutes early.(美女と待ち合わせる時には30分前に到着するのが原則よ)」


 女は少し拗ねたような声音で言う。そして、鞄からパソコンを取り出して弄り始めた。


「Anyway, it's good that you're on time.(まぁ、遅刻しなかったことを褒めてあげるわ)」


「It's not like we're in love or anything.(俺とお前は恋仲でもあるめぇに)」


 俺は呆れて肩を竦める。女――アヤカ・ブランシェア上級大尉は端末の画面に目を向けたまま、こう返してきた。


「Oh, you're still thinking of me as just a business partner?(あら、まだ私はビジネスパートナーとしてしか見られてないの?)」


「I told you many times before, right? You're definitely the first girl I ever loved.(何度も言わせるな。お前は間違いなく俺の初恋の相手だ)」


 俺の答えに、女は「I see.(そう)」と呟き、再び視線を上げた。俺は正面から目を合わせ、言う。


「Let's start our work, shall we?(さっさと始めようぜ)」


「All right.(そうね)」


 彼女はノートパソコンを広げると、いくつかキーボードを叩いて画面に映像を映し出した。その瞬間、俺たち以外の客たちは一斉に会話を止める。彼らの顔は無表情で、どこか作り物めいている――全員がイギリス系の顔立ちだった。


 なるほど。そういうことか。ふうっと俺は鼻を鳴らした。


「Are they all your comrades? Just as expected of a senior captain.(全員がお前のお仲間か。流石は上級大尉)」


「店のマスターも含めて全員が仲間じゃなくて部下よ……それはさておき。ここからはお互い日本語で行きましょう。元カレと話すのに堅苦しい英語は嫌だから」


 俺は嘆息をくと、背広の内ポケットから煙草の箱を手に取って一本口に咥える。火を付けようとライターを擦っている間に、目の前に灰皿が差し出された。アヤカだ。


「吸って良いわよ」


「ありがとうな。助かるぜ」


「どういたしまして」


 俺は紫煙を燻らせながら、彼女の持つノートPCを見つめる。画面に映っていたのは一枚の写真と、その下部に英語の説明文。内容は大韓民国における最新の政治情勢について解説したものであり、さらに言えば今後半年以内に予想される展開について詳細に記述されていた。


「……なるほど。よく出来ているじゃねぇか」


「ありがとう。けど、ここまでは大使館で得られる内容をまとめてみただけだから大した情報は無いわ。これからが本番」


 そう言って彼女はエンターキーを押す。すると新たな画面に切り替わり、地図が表示された。それは韓国内における排日暴動の発生状況だった。


「ほう。未来の日付もあるみてぇだな」


 俺が感心したように頷くと、アヤカは自慢げに言った。


「ええ。あなたのリクエスト通り、韓国全土で暴動を煽ってあげたわ。今や日本人は外を歩くだけで刃物で切り刻まれる。斯くも情勢が緊迫しているのに、邦人向けの安全情報も出さない賀茂欣滔は馬鹿以外の何物でもないわね」


「まあ、韓国との友好は総理のアジア外交の要点だからな。『韓国との間には何も無い』ってことにしてぇんだろうよ」


 そう笑った俺は、煙草を深く吸い込んだ後で言葉を続けた。


「近々、憲政党所属の国会議員がチェ・ハジュン大統領に会うために訪韓する。彼らを暴動に巻き込まれた形で始末しちゃ貰えねぇか」


 するとアヤカは「報酬は?」と返してくる。俺は「ほらよ」と懐からマイクロチップを取り出して手渡す。彼女は受け取り、ケースから取り出してPCに差し込んでデータを読み取る。そこに保存されているのは、事前にイトウ食品が寄越してきた日本国内企業の内部情報だった。


「ササキフードがエディンバラの老舗を乗っ取ろうとしているって噂がある。このデータはササキフードにTOBを断念させる交渉材料になるだろう」


 アヤカは目を輝かせた。


「……うふふっ。皇帝陛下もお喜びになるわ」


「で、引き受けてくれるか?」


 俺は訊ねると、彼女はにっこりと微笑んだ。


「勿論。在韓大使館に伝えておくわ」


 俺はニヤリと笑いながら応じた。契約成立だ。


「でも、意外ね。あなたならもっと別の形でお礼をしてくれるものと思っていたけど。ちょっと拍子抜けだわ」


「別の形?」


「たとえば……キスとか」


 悪戯っぽく微笑んだアヤカの表情が、一瞬だけ絢華あやかに戻っているように見えた。いや、目の前に佇むのは英国陸軍情報将校アヤカ・ブランシェア上級大尉だ。己に言い聞かせるように、俺は首を横に振った。


「よせやい。いくら俺でも義理の姉とベッドに入る趣味はぇよ」


「うふふっ。そう云えばそうだわね……今のあなたは義理の弟だもんね」


 スパイとして男を誘惑して篭絡する行為など朝飯前。俺の言葉にも動じることなく、彼女は楽しそうに微笑んでいる。俺は「ふうっ」と溜め息を吐きながら、短くなった煙草の火を揉み消すと、灰皿に捨てた。そして、口を開いた。


「結婚式に来てくれて、嬉しかった」


 その言葉にアヤカは頬を緩める。


「唯愛ちゃんとは上手くやってるの?」


「まあな」


「なら良かった。いつまでも私を引きずってないようで何よりだわ」


 おいおい、こちとらお前と別れた後で一度別の女とも結婚をしているんだぞ――そんな無粋な台詞が飛び出しかけたが、どうにか堪えた。何だかんだ言っても元恋人は特別だ。初恋の相手なら、なおさらに。


 俺が少しばかりの感傷に浸っていると、アヤカはパソコンを鞄に仕舞い込んで帰り支度を始めた。


「んじゃ、またね」


「もう帰るのか?」


「駐在武官は暇じゃないの。本国の時間に合わせて働かなきゃならないのよ」


 それからアヤカはマイクロチップをケースに入れ直し、部下と共にバーを出て行った。少し時間を挟んだ後、俺もバーを出る。すると、店の入り口前には深草が待っていた。


「猊下」


 彼は恭しく頭を垂れる。元恋人との気恥ずかしいやり取りを部下に聞かれたことを恥じるわけでは無いが、俺は照れ臭くなって目線を逸らした。


「車を回してくれ。早いとこ帰ろう。飲み直してぇ気分だ」


「はっ」


 深草は静かに応じ、駐車場に向かって歩き始めた。俺も彼の後に続く。そして、俺たちはセダンに乗り込んだ。


「……」


 深草の運転する車が夜道を走る。時計の針は21時。夜の街が美しさを増す時間帯である。毎回のごとく思うが、深草の運転は非常に丁寧かつ安全で、それでいて早い。信号待ちで停止している間にバックミラー越しに俺を見つめてきたかと思うと、彼は不意に口を開いた。


「猊下はブランシェア上級大尉とどのようなお話を?」


 俺は簡潔に答える。


「韓国で排日暴動を起こさせた。んでもって、憲政党の訪韓団を現地の暴徒に始末させる予定だ」


「流石にございます。私には想像もつかぬことを」


 深草が感嘆の声を漏らす。俺はフッと笑いながら、言葉を繋いだ。


「どうせ狙うなら一石二鳥だ」


 そう言った俺はシートに体を預け、暫し眠ろうとする――しかし。懐中の端末が震えた。誰かと思って画面を見やると、菫美子の携帯からだった。


「俺だ」


 俺が応答すると、上機嫌な声が聞こえてきた。


『うふふっ。涼平君』


「何だよ、義母かあさん。酔ってるのか」


『だってぇーん、久々に唯愛ちゃんとお出かけしたんですものぉー、お酒も進んじゃうわよぉーん、ひっく!』


 むせる声が聞こえてきたので思わず端末を耳から離す俺。姑は昂った調子で本題を切り出した。


『ねぇねぇ、迎えに来てくれないかしらぁん? 私みたいに高貴な家柄の女が電車で帰っちゃったら駄目だと思うのぉ!』


「仕方ねぇな。どこに居るんだ?」


『浜松町よぉん! 1丁目の28番地だって!』


 どうやら銀座のデパートで買い物をした後に、浜松町に移動して飲んでいたらしい。それを可能とする持ち合わせがあるなら、自分でタクシーを拾って我が家に帰れば良いのに。つくづく酔狂な姑だ。俺は嘆息混じりに答える。


「分かったよ。すぐに行く」


『ありがとぉん。助かるわぁん』


 そう言って電話を切ると、俺は深草に「浜松町に向かってくれ」と告げた。彼は「はっ」とだけ返事をするとアクセルを踏み込み、同地へと向かって行く。


 東麻布から浜松町までは、芝公園を突っ切れば10分も要さない。窓を覗いた先に輝く街の灯を眺めながら、俺は先ほどの光景を思い浮かべる。


「はあ」


 どうして嘆きの表情に陥るのか。我ながらに理解に苦しむが、推論ならば導き出せる。きっと己自身を哀れんだのかもしれない。元恋人と再会して、想い出の日々に浸ってしまったことを――まったく情けない話だ。いい加減、忘れなければならないものを。


「猊下」


 ぼんやりと外の景色を眺めていた俺に対し、深草が声を掛けてきた。俺はハッとして我に帰る。


「ああ、すまんな。ぼーっとしてた」


「いえ。到着いたしました」


 そこは指定された住所の近くで、浜松町の繁華街である。車から降りて歩いていると、すぐに妻の姿を見かけた。


「涼平様!」


 俺は妻に駆け寄ると、その華奢な肩を抱いた。彼女は俺を見上げて嬉しそうに微笑んでいる。俺も笑顔で応えた。


「唯愛」


「涼平様っ」


 おやつをねだる子猫のような瞳で、夫を見つめてくる我が妻。酔っているな。俺は彼女の頭を優しく撫でた。


「楽しかったか?」


「はいっ! 母とお買い物してぇ、美味しいものをいっぱい食べましたぁ!」


 頬全体が赤く染まっている。相当量のアルコールが回っていると見た。


 結婚して1ヶ月。日頃の俺の晩酌に付き合う折には左程飲まないから、酒にはあまり強くないものと思っていたが――さては母親に付き合う形で半ば無理やり飲まされたか。


 俺は訊ねた。


義母かあさんはどこに?」


 すると、彼女は「あちらですぅ」と指差す。その先には和風な情緒が漂う屋台があり、暖簾には『浜松庵』と書かれている――立ち尽くす俺の手を唯愛が引いた。


「涼平様。早く参りましょう」


「お、おう」


 半ば引きられるような形で近づくと、そこは蕎麦そばの屋台であった。薄い橙色の暖簾が風に揺れている。店構えはそれほど大きくないが、立派な瓦屋根と提灯が設置されている。中を覗くと、テーブルに突っ伏す菫美子の姿が見えた。俺は苦笑しつつ歩み寄った。


「唯愛ちゃんたらあらあら、まあまあ、うふふふふ……」


 どうやら完全に出来上がっている様子の義母は、グラスに口をつけながら上機嫌そうに頬を緩ませている。俺は菫美子の隣の席に座ると、唯愛は母親の隣に腰を下ろした。俺は彼女を受け止めると、そのまま抱き寄せる。


「涼平君……唯愛ちゃんを……お嫁さんにしてくれて……本当に感謝しているわ。唯愛ちゃんが……幸せそうで嬉しい……げふっげふっ」


 そう言って嬉し泣きしそうな勢いで目を潤ませている義母は、酒の所為か、あるいは涙の所為か。とにかく目尻が濡れている。そんなに嬉しいか。


「ああっ……涼平君っ……うぷっ!」


「よう。楽しんだようで何よりだぜ。義母かあさんよ」


「えへへっ……だって、この店……唯愛ちゃんの……」


 言い終えるよりも早く、菫美子は再び眠ってしまった。今度は大きないびきをかいている。


「おいおい。帰ろうぜ。義母かあさん」


 店の気遣いなのか、彼女の丸まった背中には毛布が掛けられている。されどあまり長居しては迷惑だろう。俺は菫美子の肩を掴み、揺さぶる。


「おい! 義母かあさん!」


 しかし、まったく目覚める気配が無い。思わず嘆息をこぼした俺に、唯愛が言った。


「ごめんなさい。涼平様。午後からずっとこの調子なんです」


 曰く、この店の暖簾をくぐるまでに5軒のパブやらバーやらを渡り歩いたという。自棄ヤケざけか――俺が「何か嫌な事でもあったのか?」と訊ねると、唯愛から意外なエピソードが語られた。


「実は、父と悶着がございまして」


 あの村雨組長と夫婦喧嘩をしたというのか。思わず笑ってしまいそうになった俺だったが、何とかこらえ、続きを促した。


「喧嘩?」


「喧嘩……というか、母がねているだけですわ。一緒に買い物へ出かけたところ、父が1時間と経たずに帰ってしまいましたから」


 唯愛によると、事のあらましは何とも滑稽なもの。今日の夕方、菫美子は夫の村雨耀介を誘って銀座のデパートで彼のネクタイを買おうと思いついた。とんだ急な誘いだったにもかかわらず村雨は快諾し、18時に白金台の麻木邸まで妻子を迎えに出向き、そこから3人で銀座へ赴いたそう。ところが、時計の針が19時を回る前に『急用が入った』などと言い、そのまま妻を娘を残し横浜へ帰ってしまったという。


「母ったら、せっかくデートを企画したのにと嘆いて……本来ならゴルフで疲れているはずの父が誘いに応えてくれただけ、ありがたい話であると申しますに」


 なるほど。女の気紛きまぐれには付き合わされるのは色男の宿命というが、残虐魔王も例外ではなかったようだ。俺が苦笑いを浮かべると、唯愛も困ったように微笑んだ。まあ、仲睦まじいご夫婦ではないか。


 されども分からない。高貴な血を引いていることを誇り、日常生活の至る所を華族趣味で覆い尽くす姑は、和食を悉く嫌っていたはず。そんな彼女がどうして蕎麦の、それも小屋同然の古びた店舗の暖簾を潜ることを選んだのか。ふと俺は訊ねた。 


「しっかし、どうしてこの店に?」


 すると唯愛は微笑みながら答えた。


「ここは私のお友達の店なのでございます」


「ほう? 大学の?」


「ええ。ちょうど今は買い出しに行っておりますけど

 」

 よく考えてみれば、先ほどからカウンターの向こうに店主の姿が無い。火が消えたコンロの上で鍋だけが沸々と湯気を立ち昇らせている。唯愛曰く横浜公立大学理学部生命科学科の同級生だという。


「あの子のお蕎麦は絶品なんです。涼平様も是非とも召し上がってくださいまし……ああ、噂をしていましたら!」


 唯愛は嬉しそうに、遠くから近づいてきた調理用白衣姿の若い女性を見て言う。


「ほら。涼平様。あの子が店主のヒマリちゃんでございます!」


 その瞬間だった。己の目に飛び込んできた男を見て、俺の喉から声が漏れた。


「なっ」


 俺は驚愕に目を見開いた。後ろでまとめられた黒髪と、女性ながらに大柄の背丈、そして彫りの深い目元。その顔立ちに、俺は見覚えがあった。背丈は伸びているが、記憶の片隅に引っかかっている印象と似通っている。


 刹那、俺は息を呑んだ。


 間違いない。目を凝らして何度も確認したとて視線の先に立つ人物の正体の答えは一つ。あれは俺の妹の灯鞠ひまりだ――気付けば声が漏れ出ていた。


「お前……マリ……」


 ヒマリ。この読み方をする名前と風貌から考えられる人物は、一人しかいない。俺の妹。身長の変化に驚いたのは暫く会っていなかったためであり、体が成長していても何ら不思議ではない……というより、成長していなければおかしいほどの年月が経過していた。


 遡ること9年前。荒みに荒みきった素行を理由に母から勘当を突きつけられた俺は『まあ、仕方ないよな』という想いを抱きながら家を出た。その際、非力で気弱な妹を故郷に残してゆくことに未練がましい情念を感じていた。極端なまでに心優しく、他人と争い合うことを蛇蝎のごとく嫌っていた妹が、俺無しでやっていけるとは思えなかったのである。


 思えば、俺の妹は小学校の学級会すらまともに参画できなかったような気がする。自分で自分の意思を誰かに伝えるという行為が、非常に苦手だったのである。ゆえに、いつも俺の肩を借りていた。


 俺が傍らに居なくては、傍らで支えてやらなければ、あの可愛い妹は何も出来なかった。


 何をするにも。何処へ行くにも。


 いつも、そうだったはずだ。例外は、無かったと思う。例を挙げるとするならば、宿題ですら一人でこなしたことは一度も無かった。『お兄ちゃん。宿題を手伝ってよぉ』と泣きそうな顔でせがまれたことは数知れない。そんな甘え上手の妹が、今はどうだ。兄の手助け無しで、立派に独り立ちして、しかも店まで構えているではないか。


 信じられない。信じられないぞ。何という驚きであろうか。俺の妹はこんなにも逞しく成長していた――されど、その現実を受け入れることが難しい自分がいた。どうしたって、頭では理解しているのにも関わらず、心は拒絶してしまう。


 ああ、そうか。分かったぞ。何故、俺がここまで認められないのか。簡単な話だ。俺は怖いのである。妹が自分と対等の存在になってしまった事実を認めるのが恐ろしくて堪らないのである――兄としての矜恃きょうじを保っていたかったのかもしれない。


「……」


 その一方で、納得もできる。俺が家を飛び出して以来、母と妹に何があったかは前に少しばかり耳に挟んでいた。世で身を立てるために勉強を死ぬほど頑張ったのもまた真実であろう。それにしても、よくぞ生き延びてくれたものだ。心底そう思う。


 一方、近寄ってきた女は唯愛に声をかけた。


「ごめん、唯愛! この時間でねぎを売ってる店になかなかありつけなくて!」


「ううん、大丈夫よ。灯鞠ちゃん」


 そんな灯鞠はカウンターの中へ戻ろうと歩みを進めるが、不意に足を止めた。どうやら学友の隣に座る男の正体に気付いたらしい。


「えっ」


 買ってきたばかりと思しき葱が入った袋を落とし、彼女は呆然と佇む。こちらから挨拶をするべきかと俺が頭を悩ませていると、あちらの方が先に声を発した。


「お、お兄ちゃん……!?」


 半ば咄嗟に、俺は応じた。


「久しぶりだな。マリ」


 刹那、向き合った女の顔がった。瞳の奥の、言わんとしていることは分かる。『どうしてここに居るの』という衝撃に彩られたクエスチョン、その他に言葉は無いはずだ。


「お兄ちゃん!?」


「ああ。俺だ。涼平だ」


 当人の理解が予想より速かったことに俺は驚いたが、すぐに納得できた。この灯鞠ひまりのことを『マリ』と呼ぶのは、三千世界広しと云えども兄である俺くらいのものであろうから。


「……お、お兄ちゃんなの!?」


「ああ」


「本当に!?」


「本当だ」


 目の前の現実に思考が追い付かないようで、灯鞠は口をあんぐりと開けたまま棒立ちになっている。まるで街中にで芸能人と遭遇したかのごとく、全身を痙攣させてしまっている。


「ああ、あの……えっとぉ……」


「どうしてここに居るのかって話だよな。ざっくりと言やあ、この唯愛ゆあが俺のかみさんだからってわけだ」


 俺の説明に灯鞠は目をパチクリとさせるばかりで、なかなか納得しない様子だ。やはり衝撃が大きいようである。


「えっ、唯愛とお兄ちゃんが結婚!?」


「そうなんだよ」


 灯鞠は信じられないとでも云いたげな表情で唯愛を見つめた後、改めて俺の方へ向き直った。そして、言う。


「ゆ、唯愛が結婚したって話は聞いてたけど……まさか、その相手がお兄ちゃんだったのね……」


「まあな」


 俺が肩を竦めていると、唯愛は俺の顔色を窺いながら話しかけてきた。


「あ、あのぅ、涼平様。灯鞠ちゃんとは、その、どういったご関係なんですか? 『お兄ちゃん』と仰られましたのは、どういう意味でございますか?」


 俺は「読んで字の如くだよ」と即答する。


「兄妹だ。こいつは俺の血の繋がった妹だ」


 刹那、唯愛が上擦うわずった声を発する。おそらく驚いたのであろう。俺は敢えて冷静な口調で告げた。


「たぶん、灯鞠の名字は『麻木あさぎ』じゃねぇんだろ。気付かなくても、無理はない。俺を勘当した後で、きっとお袋は名字を結婚前のものに戻したはずだからな」


 すると妹がゆっくりと頷く。


「うん……その通り……」


 やはりそうだったか。苦笑に顔をしかめる俺だったが、飛び出たのはさらに斜め上を行く言葉だった。


「……お母さんは麻木家から自分の籍を抜いたの。私を捨てて、自分一人だけで」


「えっ? 何だって?」


「だから、今の私の名字は『蓬田よもだ』なの」


 聞き慣れない名字に俺は首を傾げた。


「待て。お袋の前の名字は確か違ったはずだぞ」


「うん。お母さんの前の名字は『桃野ももの』だよ」


「じゃあ、蓬田っていうのは……」


「引き取られたの。お母さんが医者だった頃の後輩だった人に」


 俺は唖然とした。その事実にではない。驚くべきことに、灯鞠は俺が家を出た半年後、母に捨てられたという。俺は当然のように考えていた――妹は母の寵愛を受けたまま、順当に人生を歩んでいると。しかしながら、現実は全く違っていたらしい。


「つまり、お前はその蓬田って人の養子になったんだな」


「そうなるね」


「……」


 妹は俯きながら答えた。


「お兄ちゃん。お母さんは酷いことをしたけど、憎んじゃダメだよ」


「……別に憎んじゃいない。ただ、驚いてるだけだ」


 どういうわけだ。母が嫌っていたのは俺だけではなかったのか。何故に妹まで。聖女という言葉を地で征くと喩えても過言ではないほどに大人しくて利口だった灯鞠まで。何故だ。


「お前は、その、どうなんだ? 蓬田さんとやらに引き取られてから、普通に暮らせているのか?」


 俺は恐る恐るたずねた。もし万が一、新しい親との生活の中で辛い思いをしていたとしたら――そんなことを考えると、胸が締め付けられた。


「うん。楽しくやってるよ」


 ところが、意外にも灯鞠は笑顔で答えた。


「蓬田のおばさんは優しくしてくれてる。体が弱かった私のために薬を調合してくれて、そのおかげで私は元気になった」


「そ、そうか。それなら良かった」


 話す際の声色や瞳の動きを見る限り、引き取られた先で灯鞠が大切にされていたことは分かった。母の蒸発後に灯鞠は蓬田氏に引き取られて北海道へ移り住んだが、大学進学に伴い首都圏へ再び戻ってきて、現在は横浜市内のマンションで一人暮らしを営んでいるという。俺は安心したが、同時に少し寂しい気もした。兄として守るべき妹が、もはや一人でもやっていけるほど逞しく育ってしまったと痛感せざるを得なかった。


 尤も、寂しさに胸を痛める資格など俺には無いだろう。何せ、家を飛び出してからというもの、今の今まで妹の存在を気にしてはいなかったのであるから。


 華鈴と一度目の結婚した時も、唯愛と二度目の結婚をした時も、己の出自の真実を確かめるべく母の過去を辿った時も、灯鞠の存在は一瞬たりとも頭に浮かばなかった。疎遠になった実家の妹というくらいの認識。居場所を探し出してまで再会しようなどとは思わなかったし、思い付きもしなかった。『俺の存在は迷惑だろう』という遠慮を理由にして、むしろ俺の方から母と妹を遠ざけていた感覚すら滲んでいる。


 数秒ほどの沈黙の後、俺は言葉を紡いだ。


「すまなかったな。マリ。そばにいてやれなくて」


 同時に俺はゆっくりと頭を下げた。灯鞠は困惑したようだが、すぐに柔らかい声で「良いんだよ」と言った。


「うちのお父さんは稼業の人だったじゃん? そんなわけだから、私……物心ついた時から思ってたんだ。『うちの家族はいつかバラバラになるな』って。だから、お父さんがあんなことになっちゃった時も、お兄ちゃんがお母さんに家を追い出された時も、まったく驚かなかった。たぶん、遅かれ早かれ、いずれはそうなる運命だったんだよ。きっと」


 ああ、なるほど。そういうことか。だから、灯鞠はこんなにも平然としているのか。心の準備ができていた。そう言いたいのであろう。


「ねぇ、お兄ちゃん」


 ふと、妹が呼びかけてきた。俺は「灯鞠?」と答えながら頭を上げる。灯鞠は微笑みながら続けた。


「私、思ってたの。いつかお兄ちゃんに会えた時に『強くなったな』って言って貰えるような、そんな人間になろうって。だから、私がお兄ちゃんの誇りになるためにも頑張らなきゃいけないんだ。今みたいな、誰かに助けられることばっかりじゃない。自分の足で立って、自分の人生を切り拓いていけるような女になるんだって。それがお兄ちゃんへの恩返しになると思ってる」


 俺は返答にきゅうした。妹の言葉は理解できるが、あまりにも予想外であったからだ。そして、複雑な感情を抱く。俺は黙ったままだったが、灯鞠は話を続けた。


「ねぇ、お兄ちゃん。お願いがあるんだけど……」


 灯鞠が何やら頼みごとをしてくる。一体、何を言い出すつもりなのだろう。俺は耳を傾けた。


「……お蕎麦、食べて貰えるかな。今の私をお兄ちゃんに分かって貰うには、それが何より良いと思うから」


 俺は呆気に取られてしまった。まあ、唐突な申し出である。されど、無論のこと答えは決まっている。


「ああ。食わせてくれや」


 断る選択肢など、あるわけがない。俺は深草に暗号通信を打つと、相変わらず豪快ないびきをかく姑の隣に座り直した。同時にカウンターを隔てて真正面に立った妹に注文する。


「この店で一番高いものを頼む」


 すると妹は吹き出すように笑い、コクンと頷いて返事をした。


「かしこまりました」


 灯鞠は水道で手を洗い、棚を開けて麵を取り出し、調理を始めた。


 生麺を茹でて冷水で締めた後、刻みねぎと海苔を載せる。続けて、天麩羅を揚げ始める――その様子をじっと見つめる俺の隣に唯愛が座り、言った。


「灯鞠ちゃんの蕎麦は舌が飛び出るくらいに美味しいのでございますよ。涼平様。どうぞ、ご賞味ください」


「そうか。楽しみにしてるぜ」


「うふふっ。涼平様、本当に楽しそうですわ。灯鞠ちゃんとの再会が、それほど嬉しいのですか?」


「ああ。そうだな」


 俺の言葉に、唯愛はまたも「うふふっ」と微笑んだ。確かに、実に嬉しい再会だ。まさか妹の灯鞠ひまりとこういう形で会えるとは夢にも思わなかった。これまでの人生の中でも五本の指に入るハプニングだと感じるくらいだ。


 そんな感慨にふけっていた俺の腕に、ふと唯愛の手が触れる。彼女は続けて言った。


「涼平様。実は私と灯鞠ちゃんは入学当初からの友人なのです」


「そうだったのか?」


 俺の問いかけに唯愛は「ええ」と応じた。


「私たちがまだ1年生だった春のある日のこと。講義が終わってお昼を取ろうと食堂に入った際、隅っこの机に一人で座る灯鞠ちゃんを見つけたんです。その時は『もしかしたら初めての友達が出来るかも』なんて期待して声をかけたんですけど、これが大正解でした」


 その時の様子を思い出したのか、唯愛は「うふふっ」と微笑んだ。


「初めは緊張していた様子でしたが、話していくうちにどんどん打ち解けてきて、その日のうちにメールアドレスを交換しました。それからはしょっちゅう連絡を取り合うようになって、夏休みにも遊んだりして……でも、本当に驚きましたわ。まさか、灯鞠ちゃんのお兄様が涼平様だったなんて」


 唯愛はそこで言葉を切って「ああ、そうそう」と続ける。


「この店で使っている蕎麦粉は一般的な品種とは少し違いますのよ。うちの研究室で培養した特別仕様なのでございます」


 そう云えば、灯鞠は植物学を専攻する唯愛の同門だったか。俺は少し考えてから答えた。


「楽しみだな。今から食べる蕎麦は我が国の生物学研究の成果物ってわけか」


「うふふっ。そうでございます」


 誇らしに唯愛が言う。それから暫し談笑を交わしていると、料理の支度が整ったようだ。


「お待ちどうさまです。二八蕎麦と天ぷらのセット。これがうちのメニューのトップよ。お兄ちゃん」


「ありがとう」


 俺は「いただきます」と声を発して箸を手に取る。ずは香りを楽しむことにした。鼻腔をくすぐるのは芳醇な蕎麦の匂い。たった一口ほどすすっただけで喉越しの良さに思わず声が出る。


「美味い! 美味いぞ!」


 妹の努力が詰まった一杯だと思えば、なおさらに旨味が増す。続いて天ぷらをいただく――サクサクの衣と肉質の良い海老と茄子。たまらない味だ。腹だけでなく心も満たされる。


「灯鞠。お前、こんなにもすげぇもんを作れる職人になってたとはな……」


 声を掛ける俺に、妹は「えへへっ」と照れ臭そうに笑った。続けて唯愛が言う。


「ほら、申しましたでしょう? 灯鞠ちゃんのお蕎麦は絶品なんですって」


「ああ。俺は今まであちらこちらの美味いものを食べ歩いてきたが、こんなにも美味い蕎麦は他に食ったことが無い」


 俺が言うと、唯愛は「ふふっ」と笑った。俺も釣られて笑ってしまう。すると、ふと灯鞠が訊ねてきた。


「ねぇ、唯愛の夫ってことはさ……お兄ちゃんは極道なんだよね?」


 俺は即答した。


「見ての通り。親父と同じ道に進んじまった」


 その言葉に灯鞠は「いや、見ただけじゃ分かんない。昔のヨーロッパの貴族みたい」と手を叩いて爆笑する。白のブラウスに白のジャボ。よもや妹と9年ぶりに顔を合わせるとは思ってもいなかったが、一般人からすれば今の己の格好は確かに奇抜であろう。俺は「だろうな」と応じた。


「だが、この格好こそが俺に相応しいと思っている」


 我ながらに痛々しいことだ。相も変わらずテーブルで眠りこける姑が憎らしい。近頃は唯愛にまでこうしたファッションを勧めるのだから呆れてしまう。


「ところで、お兄ちゃん。唯愛との結婚だけどさ……」


 不意に、灯鞠が尋ねてきた。俺は箸を止め、耳を傾ける。すると、妹はとんでもない質問を投げかけた。


「お兄ちゃんが結婚したのって、組織の命令?」


「いや、俺自身の意思だ」


 俺は即答した。すると、妹は安堵あんどしたように息を吐く。


「ふぅ。良かったぁー! もしかしたら唯愛が親に逆らえなくて仕方なく嫁がされたんじゃないかって心配だったから」


 唯愛が慌てて割って入る。


「ちょっとぉ! 涼平様の前で何てこと言うのよ! 出会ったのは確かにお見合いだったけど、私も私の意思で一緒になることを決めたのよ! 誤解しないでね!」


「あっ。そうなんだ。良かったー」


「当たり前でしょ!」


 ぷくっと頬を膨らませた唯愛は、こちらに向き直る。


「涼平様、申し訳ありません。この子は心配性なんです」


 小刻みに頭を下げた唯愛に対して俺は「構わん。今に始まったことじゃない」と返した。


「マリ。俺が唯愛を無理やり娶ったと思っているのか?」


「あっ。えーっとぉ……そのぉ……」


 どうやら図星らしい。俺は笑いながら言った。


「安心しろ。俺と唯愛はお互いの自由意志で一緒になった夫婦だ。それに、結婚前にはちゃんと恋人としての時期もあったし、その間は体の関係を控えていた」


「……ああ、そうなんだ。良かったぁ」


 ほっと胸を撫で下ろす灯鞠。妹にとって唯愛は親友。俺の素性を知らなければ、親友が冷酷無比な殺し屋に嫁がされたと思い込むのも無理はない。


「心配するな。俺は唯愛を愛している。少なくとも、こんな男に嫁いで幸せに暮らせないとは言わせたくない」


 そう言いながら妹の肩を優しく叩くと、彼女は顔を真っ赤にして俯いた。しかし、唯愛の方を見ると「うふふっ。やっぱり嬉しいですわ」と微笑む。


「唯愛」


「はい」


「これからもよろしくな」


 俺の言葉に唯愛は「勿論でございす」と返す。すると、灯鞠が「あーん! ズルいー!」と言って俺の腕に抱き付いた。どうやら少し嫉妬したようである。そんな妹を制する形で俺は言った。


「おいおい。落ち着け」


 妹は渋々と離れると、照れくさそうに髪をき上げて言う。


「ほんっと、唯愛は強い女」


 そうして妹が作ってくれた最高の蕎麦を最後の一滴までしっかりと堪能たんのうし、なおも話に花が咲く。


「しっかし、マリはどうして蕎麦職人に?」


「職人じゃなくて植物学者の卵なの、今の私は。これは臨床試験を兼ねた資金集め。本業は人工培養のソバの普及について論文を書くことなんだから」


「おっと。こりゃあ驚いた。あんなにあどけなかったマリが今や学者先生とはな」


「いつまでも子供じゃないんだからね、私。中学に高校と空手に打ち込んだおかげで身長も伸びたし」


「武道か。道理で良い女になっていたわけだ」


「お兄ちゃんも習ってるの?」


「まあ、俺の場合は武道というより武術だがな」


「うん。素晴らしいよね。古い時代の呼吸術は全身の筋肉を活性化してくれる。おかげで私は風邪を引かない体になった」


 笑い合う兄妹。久方ぶりに出会ったとは云えど、話したいことなら山のようにある。されど、明日は平日。夜ふかしは慎まなければなるまい。俺は妹の顔を見て言った。


「また美味い蕎麦を食わせてくれ」


 妹も「うん」と頷く。俺が妻と姑の分も含めて会計を済ませると、妹は笑顔で手を振った。


「食べてくれてありがとう!」


 その笑顔に俺も手を振ってこたえ、会計を終えると姑を抱きかかえて唯愛と一緒に店を出た。そして、俺たち3人はセダンの停めてある所まで戻った。後部座席に唯愛と菫美子を座らせ、助手席に俺が座る形で車は走り出す。


「まったく、義母かあさんも豪快だな」


 セダンの後部座席に横たわる姑の寝顔を見ながら、俺は思わず嘆息する。既に時計は23時を回っている。白金台に着いたら日付が変わっているだろう。それでも姑は起きない。いや、起きられない。それだけ酔っ払っているということだ。


「うーん……耀介さん……もう少し……一緒にいたかった……」


 夢でも見ているのであろうか。義母は横浜の家に戻って行った夫の名を呼び、その体をよじっている。俺は「やれやれだぜ」と呟き、深草に指示を送る。目的地の変更を告げる内容である。


「深草。近くのコンビニに寄ってくれ。水を買いてぇ」


「承知いたしました」


 芝公園近くの店舗前でセダンを停めさせた俺は、一旦、車を降りると自動ドアをくぐって店内に入った。奥の飲料水コーナーの冷蔵庫に陳列されていたペットボトル入りの水を手に取り、レジで購入する。支払いは勿論のこと万札一枚だ。


「あの、お客さん、おつり……」


「やるよ」


 そう言って店を出て車へ戻り、大きな欠伸をする姑に手渡してやった。俺の気配りに彼女は「ありがとうねぇ……」と微笑む。そして、キャップを開けると中身を一気に飲み干した。


「うへぇ……冷たくて美味しいわぁー」


「気に入ってくれて何よりだぜ。義母かあさん」


「うん! おかげで気持ちがすっきりしたわぁ! やっぱりお酒の後の水は格別だわぁー!」


 普段は鬱陶しいはずの義母の姿が、不思議と愛しく感じられる。長らく顔を合わせていなかった妹と久々に会った所為か。憎らしい姑でも大切に思えてくる。家族とは、斯くも庇護欲をそそられるものなのか――ならば守りたい。


 そうほのかに決意した夜だった。


 翌日。2007年7月2日。


 朝、港区白金台の麻木邸のダイニングルームに菫美子の姿は無かった。昨晩の酒が残っており、朝食を摂れぬほどに吐き気が酷いらしい。3階の彼女の寝室に経口補水液を運んだ給仕女メイドによると「耀介さん……好きよ……」だの「あなた……私をもっと愛して……」だの、愉快な寝言を連発しているらしい。個人的には呆れ返るばかりだが、義両親の仲は良いに越したことは無い。


「仲直りできるのかねぇ。あのおふたりさんは」


 かじっていたカイザーゼンメルを喉の奥へ飲み込んだ俺は呟くように笑う。そんな夫に妻は笑いかけた。


「大丈夫ですわ。今までに何度か似たようなことがありましたけど、いずれも父が改めてデートに誘うことで落ち着きましたから。母は、単なる駄々っ子なのでございます」


「ほう。夫婦喧嘩は犬も食わないってやつか」


「そういうことですわ」


 夫婦揃って苦笑を交わす俺たち。何はともあれ、夫婦円満は一家円満に繋がる。願わくば、何事もなく元鞘に戻って欲しいものである。


「今日は大学か?」


「はい。1時限から6時限までびっしりと入っておりますわ。座学でございますの」


 唯愛は定期試験における優秀な成績を高く評され、学費が全額免除される特待生に叙されている。そればかりか、学長特例により2年次で既に研究室に配属されて大好きな植物学の研究に励んでいるらしい。我が妹の灯鞠も同じく特待生だが、流石に唯愛ほどの高位には至っていないという。


「へぇー。すげぇじゃないか」


「普通の授業と並行して研究活動か……俺は義務教育で終わったから大学ってところがどんなものかは分からんが、慌ただしいってことだけは何となく想像できる。ふたつの日課を両立させるのは至難の業だろう」


「そうなのでございます。日本には飛び級制度がございませんゆえ、4年生扱いでもカリキュラムは通常のものを修めなければなりませんの」


「だが、お前は常に好成績を叩き出している」


「やっかんでくる人たちに負けたくありませんから。特待生って、本当は貧しい人が利用する制度なんですって。講堂へ出向くたびに『あいつの家は母子家庭だけど親が水商売で稼いでいて裕福なのに』と陰口が聞こえてきますわ」


 嘆息を吐いた唯愛は「同級生では灯鞠ちゃんだけがただひとりの味方なのでございます」と、しみじみとした調子で言った。想像以上に敵の多い環境で妻は奮闘しているらしい。心が折れかける日もあるだろう。だが、そうした中でも負けたくないと言える強さは、父親から受け継いだゲノムによるものか――そんなことを考えながら、俺は妻に優しく頷いた。彼女も俺に向かって小さく微笑む。そして、珈琲を飲み干し、俺は口を開いた。


「唯愛。お前のためなら俺は何だってする。力が必要な時は遠慮なく言ってくれ」


「はいっ! 涼平様がこれからおつくりになる世の役に立てるよう、頑張りますわ!」


「お前は俺にとってかけがえのない宝物だ」


「うふふっ。嬉しいですわ」


 今、ここで唯愛に『俺の意思とは関係なく自由に学問を楽しんでくれ』と言えたら如何ほどに心地良いだろう。少なからぬ寂寥感に包まれながら、俺はナプキンで口を拭いて朝食を終えた。洗面所で歯を磨いた後、玄関で待機していた深草と共に靴を履く。本日の俺の装いはジャボを締めない白のブラウスに黒のスラックス。銃と短剣はアタッシュケースに入れて携行するスタイルだ。すぐに得物を取り出せないのは鬱陶しさが極まるが、日中の最高気温が35℃という猛暑の下でホルスターを身体に巻き付けたのでは鬱陶しさが倍増しとなるから仕方ない。


「では、涼平様。お気を付けて行ってらっしゃいませ」


「ああ。行ってくる」


 夫が身支度を整えている間に食事を終わらせ、玄関まで朝の儀式を行いに赴いた妻。そんな唯愛と為すことと云えば、単純。ただ、接吻キスを触れ合わせるだけ。


 互いの舌で口内を蹂躙し合うと、一時の別れを惜しむように唇を離す。濃密な唾液が糸を引く。


「じゃあ、また夜にな」


 妻と使用人たちに見送られて玄関ドアから外に出て、車庫までの石畳を歩く。燦燦と照り付ける太陽の日差しを浴びた俺は、ふと気になったことをたずねた。


「暑くねぇのか?」


 俺から鞄を受け取った腹心、深草胤秀のファッションである――猛暑日だというのに長袖の背広一式。前々から感じていたことだが、この男には先月から今に至るまで衣替えをする様子が無い。首を傾げる俺に、彼は自分で自分を嘲るように答えた。


「私は所謂『暑さ』や『寒さ』を感じない体質なのでございます。体内に特殊環境適応用の温度調節器官を埋め込まれた所為せいでしょうか」


 そう言いながら深草は黒塗りのセダンの後部ドアを開け、俺を車に乗せてくれる。彼の返答から考えるに、彼の肉体は事実上の機械化が為されているらしい。


「そいつは……苦しいよな」


「便利さと煩わしさが半々ずつと申しましょうか。この車の冷房もりませんが、定期的な整備が必要なのでございます」


「一長一短だな」


 俺の言葉に深草は「左様でございますな」と苦笑をこぼす。そして、俺の持参したアタッシュケースと自分の鞄を後部座席に乗せると運転席に座り、エンジンを始動させた。


「まずは例の場所へ向かってくれ。宮殿には遅れても構わんだろ。ゴルフの翌朝は総帥も毎度のこと寝坊するからな」


「承知いたしました」


 ハンドルを握った深草が車を走らせたのは、謂わば大都会の中に割り込んだ牧場とも云うべき場所――青山にある『青山グランド乗馬クラブ』だ。かつてこの地に旧軍の騎兵師団の練兵場があった流れを汲む、政財界の大御所や芸能人が通い詰める富裕層向けのクラブである。厩舎にはアラブ種やサラブレッドが並んでおり、中には億を超える値打ちの馬も少なくはないという。


「猊下。到着いたしました」


「おう。ご苦労だったな」


 セダンが停止すると、俺は颯爽と後部座席から降りた。続いて深草も運転席から出ると、そのまま二人で厩舎の中に入って行く。すぐに番頭が俺たちを迎えてくれた。


「お待ちしておりました。麻木様」


 深草は軽く頭を下げたのみで何も言わない。俺は「どうも」と返した後で尋ねた。


「どこに居るんだ? 俺の愛馬とやらは?」


 俺の愛馬――随分と他人行儀な言い方だが、これには理由わけがある。俺自身が欲しくて買ったものではなく、姑が村雨組長の金で購入したものであるからだ。昨晩、べろんべろんに酔っ払った菫美子を屋敷に運んだ際に発覚した。酔った勢いで『涼平君、可愛がってあげてね!』と俺に馬を買ったことを得意気に報告してきた。


 俺は昨晩のことを思い返しながら苦笑混じりに首を振った。


「ったく、義母かあさんもいきなプレゼントをくれたもんだぜ」


 俺に乗馬の趣味は無い。傭兵時代にアフリカの砂漠地帯を移動する際、車よりも都合が良かったから現地で馬に跨ったことがあるくらいだ。ところが姑は『華族たる者、乗馬の嗜みは必須よ』と言い、暇を見つけて稽古をするよう勧めてきた。俺としては鬱陶しい限りだが、乗馬が華族の嗜みというなら仕方あるまい……。


 そんなわけで、俺は渋々ながらも朝早くから乗馬クラブを訪ねて馬を受け取る羽目となったのである。俺と深草が厩舎に入ると、そこには真っ赤な体色をした牝馬ひんばが佇んでいた。見るからに、ただの馬ではない。昨晩の姑曰く、紅鶴大の醐龍教授に頼んでつくってもらった馬型の人口生命体らしい。先々月から培養が始まり、仔馬程度の大きさまで成長した段階で、大学の研究室から厩舎へ移されたらしい。謂うなれば、ミュータント馬とでも称したところか。


 俺は番頭に訊ねた。


「こいつは何か変わったことは無かったか?」


 すると番頭は笑いながら答える。


「変な笑い方をする白衣のお爺さんが現れた時は肝を冷やしましたが、馬自体に特に問題はありませんよ」


「そうか。ありがとな」


「どういたしまして」


 そう言い残して、番頭は厩舎から出て行く。俺は彼の背中を見送りながら、ふと思い出したように呟いた。


「そういやあ、こいつの名前は何にするか決めてねぇな」


 すると、馬が首を縦に振りながら反応した。まるで返事をするかのような仕草だ。俺は思わず苦笑する。


「お前、人間の言葉が分かるのか?」


 すると、またも馬が首を振る。まるで肯定するように。俺は笑いを吹き出しながら馬の鼻筋を撫でてやる。


「なら丁度良い。お前を何と呼ぶか考えていたところだ。どうだい? 何か案はあるか?」


 そう問いかける俺に、今度は否定するかのように首を横に振る。そんなわけで「ふむ」と呟いて顎に手を当てて思案していると、背後から声が聞こえてきた。


「猊下」


 振り返ると、厩舎の入り口に立つ深草の姿があった。彼は俺の愛馬を見つめながら言う。


「その馬はめすでございますか?」


「そうだな。牝馬だ」


 俺の返答に、深草は頷く。


「ならば、女性名がよろしいかと存じます」


「確かに」


 俺は再び腕を組み、思案顔をする。我が家は何もかもがドイツ流に染まっているから、独語圏の風習に則った命名が良いか――暫く考えた末、俺は閃いたように顔を上げる。


「よし、決めたぞ。今日からお前の名前は『イルザ』だ」


 そう告げると、馬は嬉しそうに鳴いた。まるで、自分が名付けられたことに喜んでいるかのように。俺は「よしよし」と笑って愛馬の顔を撫でた。


「これからよろしくな、イルザ」


 馬は俺の顔を見て首を傾げるようにした後、「ブルルッ」と鳴いた。俺は馬のたてがみにそっと手を伸ばし、優しく撫でてやる。すると、イルザは気持ち良さそうに目を細めた。まるで人間のように穏やかな表情を見せるエーファに、俺は「可愛い奴だな」と笑ってみせる。イルザは再び嬉しそうに鳴いた。


 人工的に生み出されたと一目で分かる、真っ赤な体毛。ざっと見た限りで2メートル近くありそうな、牝馬にしては異常な体躯。されどもイルザは何とも愛おしく佇んでいる。


「よしよし。良い子だ」


 俺がイルザの額を撫でていると、先ほどの番頭が戻ってきて再び話しかけてきた。


「麻木様。こちらを」


 彼が手渡してきたのは、西部劇でお馴染みのウィンチェスターM1876。後装式のレバーアクション・ライフル。一般的に猟銃と云えば散弾銃のイメージだが、俺にとってはあくまで趣味の領域。弾は一発ずつ撃つ程度で十分だ。


「装填しております。試し撃ちをなさいますか?」


「無論だ。さっそくイルザの背にも乗ってみてぇ」


 俺の言葉に番頭は「はい」と頷くと、柵を開けてイルザを外へ出してくれた。俺は、ひょいとイルザの背に飛び乗ってまたがる。イルザは首を縦に振ってみせ、それから前脚を宙に浮かせていなないた。俺はあぶみを蹴り飛ばす。


「さて、行くぜ!」


 俺が叫ぶと、イルザは足音を立てて歩き始めた。その歩様ほようは軽快そのものであり、それでいて力強く大地を踏みしめている。俺はイルザの胴を両の踵で挟みながら、片手でウィンチェスターのストックを握り締める。そうして、馬上で獲物を探す――ふと、左手から剛毛の獣が近づいてきている。さしずめ菫美子の手引きで用意された試し撃ち用の獲物か。狼とも熊とも云える姿をしていることから、すぐに人口生命体と分かる。


 俺は銃を持ち替えると、イルザの首を左方向に向けた。イルザも理解したのか、その巨体を進行方向をそちらへ転じてくれる。


「よしっ、頼む!」


 馬を走らせる俺。その獣が威嚇するように唸り声を上げているのを確認すると、俺は素早く照準を定めてトリガーを引いた。銃声と共に放たれた鉛玉が獣の頭部を貫く――その体躯が地面に崩れ落ちた。


「なかなかの動きだ」


 俺は感心しながらイルザの首筋を軽く撫でた。イルザは気持ち良さそうにいななく。一方、撃たれた獣は既に自己再生が終了して元の姿に戻っている。俺は「ほお、なるほど」と、にやりと笑った。


「再生能力付きの実験動物モルモットか。良いだろう。遊んでやる」


 俺がウィンチェスターを構えると、再び獣が襲いかかってきた。俺は今度は銃を構えずにイルザの首を右へ捻る。


「行けっ、イルザ!」


 イルザは獣に向かって疾走した。そして、そのまま馬が跳躍すると同時に俺は右の手刀を繰り出す。鋭い衝撃波が皮膚を貫き、鮮血が噴き出す――獣は断末魔の叫びを上げて地面に倒れ伏した。それを確認した俺は、イルザのたてがみを撫でてやる。


「よくやったな。良い働きだ」


 イルザは俺の方を振り返ると、「ブルルッ」と満足げな鳴き声を発した。


 その後、30回近く獣を撃ち抜いたりひづめで踏み潰したりしたところで、俺はイルザの背から降りた。すると、タイミング良く番頭が近づいてくる。


「麻木様。本日はありがとうございました」


「ああ、こちらこそ」


 俺は番頭に握手をすると、深草に指示して俺名義の小切手を渡させた。イルザの管理費と報酬。華族たる者、目下の者への金払いは良くなくてはならない。


「それと、こいつにも飯をやっておいてくれ。お疲れ様と褒めてやってくれよな」


「はい」


 俺はイルザのたてがみをひと撫でする。


「イルザ。またな」


 そうしてウィンチェスターライフルを手に取って厩舎の出口へと向かった。そんな俺の背中にイルザが「ヒヒーン」と鳴く。まるで、俺に向かって「さようなら」と言っているかのようだ。


「じゃあな」


 俺は振り返って手を振ると、再び歩き出す。厩舎の外に出ると、待機していた深草がセダンの後部ドアを開けてくれていた。俺は車に乗り込み、窓から顔を出してイルザに挨拶する。


「またな、イルザ!」


 イルザは俺を見て首を縦に振った。その瞳には確かに知性が宿っていたように思えた。


「猊下。それでは参りましょう」


「おう。宮殿まで頼むぜ」


 深草が運転するセダンに揺られて俺は総帥府へと向かう。この日の俺の仕事は単純明快。午前中いっぱいを恒元への朝挨拶に費やして、午後を副総帥の恒貞の手伝いに充てる。現在の地位に就任してから日が浅い恒貞を支えてやるよう、恒元に申し付けられていたのである。


「なあ、涼平。おめぇさんはどうして殺し屋なんぞになろうと思ったんだ? その頭の良さがあればマフィア以外の世界でも食えるだろうに」


「いえ、この世界に飛び込まねば今ほど生き生きと暮らせていないと確信しています。副総帥もご存知でしょう。私が昔は傭兵でしたこと」


「ああ。耳にしている。アフリカやら東欧やら、色々と放浪して回ったそうだな」


「はい。その機会を与えてくださったのが総帥でございました」


 他愛ない雑談を交わしながら、俺は恒貞が手掛けるシノギ――除虫剤販売ビジネスを手伝ってやった。恒貞は危険な蜂『ゲルベリューセ』を軒並み退治するためのガスの販路拡を狙っていたが、臨床試験において思ったような成果を挙げられていなかったので、俺がラボに行って一緒に頭を悩ませたところ、意外にも簡単な解決策があった。噴射口の改良である。傭兵時代に得た化学兵器の知識が役に立った。


「助かるぜぇ。涼平がいてくれるとこっちも気が楽だ。お前は頼りになる男だぜ」


「恐れ入ります」


 そんな具合に俺と恒貞は信頼関係を築いていったが、副総帥は俺が思ったよりも組織に馴染めずにいた。


 翌日。2007年7月3日。宮殿での定例理事会は午前中から紛糾していたが、時計の針が正午を過ぎると怒号さえも飛ぶようになった。


「だから、何度も申し上げております通り! 彼らはあくまでも櫨山の命令に従っただけで、一寸の非も無いのです! 組織には迎えぬとしても、敢えて命まで奪う理由はございますまい!」


いなッ! 裏切り者であることに変わりは無い! 左様な不埒者どもにかけてやる慈悲など存在せぬ!」


「子が親に従うのは渡世の掟!」


「その親が不忠を働いた暁には命をもって諫めるのが常道であろう!」


 クーラーが効いた真夏の会議室にて、長テーブルを挟んで怒鳴り合うのは田山たやま傑婁すぐる村雨むらさめ耀介ようすけ。いずれも2日前の人事で理事長補佐に就任した両名だが、その意見は真っ向から対立していた。降伏を申し出てきた敵兵の助命を田山が主張したのに対し、村雨は全員を斬首すべきと叫んだのである。


「まあ、おれァ村雨の言うことの方が正しいと思うぜ」


 両者の怒鳴り合いに割って入るように声を発したのは、組織の副総帥にしてナンバー2の恒貞だ。彼は「裏切り者に変わりは無い」と村雨の主張に全面的に賛同した。


 しかし、田山とて簡単に折れるような人間ではない。


「副総帥まで何を仰るのです!」


 田山の語気は強い。されど、恒貞も負けじと言い返す。


「関東博徒ってぇのは粋な男の哲学を体現したような生き物よ。己の命を賭してでも忠誠を貫くのが渡世の掟。じゃあ、その掟に従って裏切り者に付き従った奴らを生かして帰すは野暮じゃねぇか」


「それは横暴です!」


「稼業の男が横暴で何がいけねぇんだよ。櫨山を血祭りに上げる前に首を刎ねちまおうぜ」


 中年サラリーマンのような風貌だが、田山とて百戦錬磨の極道だ。フランスで狂犬として鳴らした恒貞を前にしたとて簡単に折れるような人間であるわけが無い。


「異国帰りの副総帥は今の組織が置かれている状況をご存じでないようだ! 関東甲信越で二万騎を数えると謳われたのは最早昔の話!今は半分ほどに減っているのですぞ! 浅い思慮を勇ましき威勢で隠すも結構! されど、まずは組織全体の維持と存続が最優先であることは自明でしょう!」


「異国帰り? 浅い思慮? 誰のことだゴラァ!!」


 恒貞が椅子を蹴り飛ばし立ち上がった直後、パンパンと手が打ち鳴らされる。


さんか、恒貞。これでは誰と誰が言い争っておったか分からぬではないか」


 激昂した甥をいさめた中央に座る老紳士――恒元は続ける。


「……して? 村雨? お前は何ゆえ左様なまでに多摩の若衆たちを討つべきと思うのだ?」


「他ならぬ恒元公の御為おんためゆえ。恐れ多くも一度は組織を裏切った者どもに敷居を跨がせたとあっては物笑いの種となることは必定と存じます」


 村雨の言葉に田山が「物笑いの種だと!? 恒元公に向かって無礼だろう!」と声を荒らげる。しかし、村雨は構うことなく続けるのだ。


「憚りながら申し上げますが、ここでぬるい真似をなさっては末代までの恥と相成りましょう。目先の欲得に逸り、絡み蛇の紋章を汚してはなりませぬ」


 そうした渡世の先輩たちが織り成すやり取りを恒貞の向かいにて無表情で聞いていた俺だったが、内心では舅が総帥の怒りを買うまいかと背筋を凍らせていた。されど、恒元としては概ね想定の範疇を逸してはいなかったようで、俺の懸念とは裏腹に当人の微笑みは崩れず。あろうことか上機嫌なままだ。


「我輩は生まれてこの方、代紋なんぞに縛られる男ではないのだがな。お前の気持ちは嬉しゅう思うぞ。村雨よ」


 その反応に眉根を寄せた田山を窘めるように、恒元は皆に言い放った。


「各々、我輩のやり方は分かっておるはずだ。この中川恒元は一度ひとたび裏切りの剣を抜いた者を断じて許さぬとな」


 ところが、その後に続いた言葉が意外だった。


「多摩より湧いて出た蛆虫どもは本日の内に追い払い、金輪際我が宮殿に近づけさせるな」


 組織には戻さぬまでも、殺すことはしないという。


 田山と村雨の両名の顔を立て、どちらか一方が過分に調子付くことを避けた折衷案。やはりこの男は器が違うと実感せざるを得ない。


 自らの言葉に「御意」と返事した皆を満足そうに眺めた恒元は、散会を告げて執務室へ戻った。これまで2時間近く堂々巡りの議論が続いたというのに、随分とあっさりした終わりだ……。


 色々と物思いに耽りながら佇んでいると、恒貞が声をかけてくる。


「次長よぉ」


 その間抜け面に俺は付き合ってやることにした。


「如何なさいました? 副総帥?」


「さっきの話だがよぉ……お前はどう見た。俺は叔父貴の気が知れねぇぜ。天下の中川会総帥にしてみりゃ随分と妥協するじゃねぇか」


 まるで試すような口ぶりだ。おおよそ答えにくい質問であるが、逡巡しつつも一応は返答しておこう。


「田山も村雨も理事長補佐にいたばかりでございます。どちらか一方の意見をって片方に不満を抱かせるべきではないとお考えなのでしょう」


「あの叔父貴が部下の顔色を窺ったってのかよ。信じられねぇ」


「人材活用術の妙において恒元公の右に出る御方はおりません。何かしらの素晴らしきお考えがあってのことでございましょう」


「はあー。お前って男は何処まで行っても持ち上げるんだねぇ……叔父貴を……」


 恒貞は鼻白んだ様子で会議室を出て行った。俺が肩を竦めていると声が聞こえてきた。


「涼平よ。暫し、良いか」


 少し前に会議室を出て行ったはずの村雨組長である。俺は「ああ」と返事した。


 どうやら話したいことがあるらしい――その後、俺は彼に連れられて村雨組所有の黒いセダンへ乗り込んだ。深草には『先に家で待っていてくれ』とメールを送っておく。


「どうだい? 義父とうさん? 中川会理事長補佐の椅子の座り心地は?」


「お前も余計なことをしてくれたものよ」


 俺としては昨日の馬の礼をしたいと思ったが、そうにもいかないらしい。


「はあ?」


「あの凡庸な甥に媚びを売りおって……おかげで私は肩身が狭くて敵わぬ」


「媚びを売ったつもりはねぇさ。全ては総帥のご意向……おっと。こっから先は車の中で話そうか」


 密談の場として車の中を選ぶことは裏社会の鉄則。まあ、恒元には才原党を通じて見られているだろうと笑いながら窓の外を見やる俺に、舅は切り出した。


「副総帥殿は何処まで私を買っておるのか?」


「だいぶ高く買ってるんじゃねぇのか。少なくとも頼りになる存在だと思っているようだ」


「左様か」


 村雨はフッと鼻で笑った。その反応に愉快なものを感じた俺は、思わず「もうやるのか?」と訊ねた。すると村雨は、俺の目を見据えながらこう答えたのである。


「時期尚早であろう」


 残虐魔王に油断は一抹も存在しない。見込んだ通り、物事には万全に万全を期したい性分らしい。俺は「ああ、そうだな」と頷き、ひとつ気になったことを述べた。


「先刻、野郎と話したんだが、どうも俺のことを値踏みするような目をしてやがった」


「ほう……」


 一瞬、俺は運転席でステアリングを握る村雨の部下の顔を窺った。そうして速やかに視線と戻し、言葉を続ける。


「叔父を倒して取って代わる意思が奴にあるかは分からんが、俺は『もうひと押し』ってところだと読んでる。今のままだと少しばかり気概が足りん」


 村雨は俺の言葉を受けて「……ふむ」と顎に手を当てた。


「もしや恒貞に叔父へ弓を引く気は無いのやもしれぬな」


「どうしてそう思う?」


 俺は首を傾げた。恒貞に叛意が無いというのは、一体どういう意味だ? そんな疑問を他所に舅は「いやな」と語り始める。


「恒貞はひとえに手勢が欲しいだけなのだ。顔を見れば一目瞭然よ。力をつけ始めた周囲の者どもに己が地位を奪われることを危んでおるのだろうな」


「力をつけ始めた周囲……あんたのことか?」


「他に誰がろう」


「……なるほど。先刻、あんたの意見を手放しで絶賛してたのは味方として取り込もうって腹か。将来、敵に回りそうな奴を前もって自陣に入れておくことで叔父からの権力継承を確実にすると」


 あれは恒貞なりに村雨へ恩を売ったつもりだったのか。俺は「馬鹿馬鹿しいこったな」と苦笑した。どうやら恒貞にとっては、叔父に廃嫡されることよりも現在の世襲制が崩壊することの方がよっぽど心配らしい。


 周囲の台頭に怯えているようでは叔父を打倒するなど夢物語である。


「あのオッサンも困ったもんだな。叔父への敵意を燃やしてくれりゃ、俺たちとしても事を為しやすいのに」


「わざわざ茨の道を歩まずとも、ゆくゆくは総帥の位を譲られるのだ。むしろ当然であろう」


「となると、叔父と甥の争いに付け入るっていうよりは二人を同時に排除する方策を考えなきゃならねぇか」


「うむ……尤も、我らの敵は中川下総守家だけではないがな」


「田山か」


「奴は単なる飾りではないか。私が睨んでおるのは本庄だ」


 舅は鼻を鳴らした。


「あの男のことだ。中川下総守家による地位の世襲を快く思うてはおらぬはず。時が来れば必ず動くであろう」


「本庄か……確かにな」


「我らも悠長なことは申しておれぬやもしれぬぞ」


 息巻く村雨組長に俺は言った。


「けど、総帥に隠し事は出来ねぇのが中川会のルールってやつだぜ。義父とうさん」


 すると彼は真顔で応じるのだった。


「案ずるな。今の話を聞かれておったとて恒元に我らを切ることは出来まいよ。多摩を制圧するまではな」


「ふっ。ちげぇねぇや」


 俺は肩を竦めた。


「自惚れる気はぇが、俺とあんたの腕を頼みにしてるもんな。何だかんだ言って総帥も焦ってるみてぇだ」


 さて……。


 一連の話が終わる頃に俺たちのセダンは停車した。


 多くのビルに囲まれた目黒通り。そのうち、都営地下鉄南北線白金台駅の出口付近で下ろして貰うことにした。ここからであれば三丁目の自邸にも近い。


「涼平よ。唯愛とは上手くやっておるか?」


 そう尋ねた村雨組長。俺は「当然だ」と返した。


「毎朝、あいつの顔を見ねぇと一日が始まらんくらいだ。何をするにも彼女の存在が欠かせなくなっている」


「その言葉を耳にして安堵したぞ」


「何だよ。喧嘩でもしてると思ったか」


「いや、そうは思っておらぬが……お前たちは面倒な女と共に暮らしておるであろう」


 面倒な女――村雨組長による菫美子の呼び名としては些か相応しくない気がする。曲がりなりにも自分の妾だというのに。まあ、あの女の鬱陶しさは村雨自身が他の誰より理解しているのかもしれないが。いずれにせよ、俺は返答に困った。


義母かあさんとも仲良くやってるぜ。多少、こだわりが強くて扱い難いってのは認めざるを得んがな」


「気を遣わずとも良いのだ。あれは昔からああだった。如何なる時も己が他の誰より優れておらねば落ち着かぬ傾向きらいがある」


「まあ、そうかもな」


「さしずめ娘のことも世を渡るための道具としか考えておらぬ……ゆえに、これより奴と唯愛でぶつかるようなことがあれば、お前は唯愛の肩をもってやれ。あの娘の為すことに如何なる誤りがあっても、だ」


「ああ」


 舅の表情から過去の出来事が何となく読み取れた。唯愛の出生において遺伝子編集が行われている旨も知らされているのだろう。惚れた女には慈悲をかける残虐魔王のこと、きっと当人から真実を打ち明けられた折には『よう話してくれたな』などと言いながら優しく抱きしめてやったに違いない。


 俺は頷きながら、村雨組長に訊ねた。


「ところで、あんたはどうなんだ?」


「何だ」


義母かあさんとだよ。仲良くやってんのかよ」


 すると舅は「ふっ……」と鼻で笑った。そして、こう答えたのだった。


「仲良うやっておるのなら共に暮らしておるであろうよ」


 俺の人を見る目も未熟だな――若干ばかり自嘲に頬を赤らめ、舅に別れを告げ車を降りた俺。街道に面した小路こみちを入り、数分ほど歩くと美しき我が家が見えてくる。


 港区白金台三丁目、麻木邸。


 二対の塔が天を衝くように建つ、白煉瓦造りの地上三階建ての豪邸。


 周辺を囲む垣根は手入れが行き届き、午後の陽に映える庭園には夏の花々が咲き誇っている。そこでは熱心なメイドが花の世話をする姿が見受けられる。


 門扉もんぴを潜り抜け、玄関に辿り着くと俺は「帰ったぞ」と声を放った。


 すると奥から「お帰りなさいませ」とメイドの声が返ってくる。


 俺は「ああ」と返事して靴を脱ぎ、玄関を上がった。廊下を進んでリビングへ赴くと、ティータイムを楽しむ義母の姿があった。


「あら、お帰りなさい。涼平君」


 菫美子だ。


 俺は「ただいま」と返し、彼女から2メートルほど離れたソファに腰を下ろした。すると、メイドが紅茶を淹れてくれる。「ありがとうよ」と礼を言った後、俺は姑に尋ねた。


「唯愛は?」


「大学よ。サークル活動」


「そうか」


 唯愛が参画しているのは茶道倶楽部だったか。あの同好会はメンバーが全員女子学生だから、妻に変な虫が付く心配は少ないか――と、らしくもないことを考えながら俺はグラスに手を伸ばした。そんな俺に義母は「ねぇ」と言う。


「浴衣は着るのかしら」


「浴衣?」


「今夜の花火大会よ。会食の予定も無いし、この屋敷のベランダから唯愛と一緒に観るって言ってたじゃない」


 昨晩の夕餉の席にて『明日の夜は暇だから花火を楽しもうか』と語らったのは確かだが、そこまで本格的な趣向は考えていなかった。


 俺は肩を竦め「いや」と答えた。


「出かけるならともかく、家の中で観るのに浴衣は変だろ」


「変じゃないわ。雰囲気が出て良いじゃないの」


「唯愛は着るのか?」


「ええ。横浜の和装店から上物を買ったわ。中川会次期総帥の妻が着るに相応しい高級品をね」


「笑えるぜ……どうやら俺に『着ない』という選択はぇようだな」


 すると義母は嬉しそうに微笑むのだった。


「とても楽しみね。涼平君が浴衣を着ている姿、きっと素敵だわ」


 刹那、脳裏に在りし日の光景が映し出された。前妻と共に赤坂地区の夏祭りを楽しんでいた、昨年および一昨年のシーンだ。


 俺は守ることが出来なかった。朝顔柄の袖を揺らす華鈴の笑顔を。


 退廃の夏は続いてゆく。


 されど、同じ轍を踏んでなるものか。


「ああ。そうと決まれば、俺も良い物を買わんとな。せっかく、世にも珍しい平日開催の花火大会を楽しむんだからよ」


「何かしら持ってるんじゃなくって?」


「新調するには良い機会だ。唯愛の隣に立つ男に見合う装いを仕立てて貰うさ」


 少しばかり颯爽と答えてのけた理由は他でもない、俺自身に言い聞かせるためだった。もう二度と誰かに運命の糸を握らせたりはしないと――その手段が、恒元に下賜された品ではない全く新しい浴衣を自腹で購入して着ることだとは何とも情けないが、過去の苦々しき風景の幻影を振り払うには丁度良い。


 そんな俺の表情から事情を読み取ったか否かはさておき、菫美子としてもご満悦といった様子だった、


「うふふっ。どんなものを選んでくるのかしらね」


 そう菫美子が告げたのと時を同じくして、深草が入ってきた。


「お戻りでしたか。猊下げいか


「ああ……と言っても、またすぐに出かけるところだがな


「では、お伴いたします」


 コクンと頷いた深草を見るや、右手に白い紙袋を提げている。何かと思って目を丸くしていると、彼は菫美子の方へ歩み寄ってく。


「大奥方様。買って参りました。お口に合えばよろしいのですが……」


「まあ。暑い中、ご苦労様ね」


 菫美子が紙袋を受け取った。


「どうぞ。涼平君も」


 菫美子が差し出してきたのは、中には『きどや』というロゴの入った黄色い紙箱。


「これは?」


 俺が尋ねると菫美子はこう答えたのだった。


みずもちよ。深草さんのお父様が御用達にしておられるお店のね」


 聞いたことが無い名前だが、それもそのはず。水餅なる銘柄は、深草曰く『きどや』でしか製造および販売が為されていない和菓子という。


「柔らかめの生地で小豆を包んだ大福を西瓜の果肉でコーティングしたものでございましてな。暑い夏に食べるにはピッタリでございます」


「ああ……旨そうだ」


 彼の父親の深草ふかくさ寿葉じゅようは甘味に目が無いらしく、領地である目黒区駒場にある『きどや』を贔屓にしているという。


「いやあ、ね。深草さんから話を聞いていたら、どうしても食べたくなっちゃって。せっかくの機会だし、買ってきて貰ったのよ」


「おいおい。義母かあさん。俺の秘書をパシリに使わないでくれよ」


「だって、食べたかったんだもん」


 まるで子供のように唇を尖らせる義母に、俺は苦笑を禁じ得なかった。ともあれ、美味そうな見た目の水餅を食べてみるとするか。


「おお……なかなか美味うまいな」


 ひと口齧かじった瞬間、爽やかな小豆の甘さが口の中いっぱいに広がる。食感は柔らかく、それでいてくどくない甘さでしつこくもない。和様を問わず甘すぎる菓子は苦手なのだが、これは俺でも美味しく食べられそうだ。


 俺は続けてもうひと口齧って、その味を楽しんだ。そして「ありがとうよ」と深草に礼を言った。すると彼は嬉しそうに「いえ」と頭を振った。


「この炎天下で駒場まで走った甲斐がありましたな」


 実家の近くの店なら深草組の若衆に買って来させるという手もあったはずだが、それを為さなかったのは駒場を仕切る父に会うことを避けたがゆえのことだろう。深草父子の過去をめぐる因縁を知っている俺としては、菫美子のわがままに付き合ってくれた腹心にただただ陳謝する他なかったのであった。


「すまねぇな……」


「頭をお上げください。猊下。私は幼い頃より慣れ親しんだ味を貴方様に召し上がって頂きたかっただけなのですから」


 相変わらず真面目な男だ。やるせない思いに駆られつつ、俺は水餅を食べ続けた。


 隣では、深草から水餅を受け取った菫美子が包装を解いている。果たして彼女が唯愛の分を残すであろうか――少しばかりの不安を残して俺は部下と共にリビングを出る。


 買い物に行かなくてはならないのである。強烈な日差しが照り付ける環境下での外出は気が引けるが、先ほどの深草の苦労を思えば文句は言えまい。


 こうして俺たちは専用セダンに乗って、六本木の和装店へと向かった。


 移動中の話題と云えば、必然的に堅苦しいものばかりになる。俺は義父や恒貞の動きについて彼に伝えた。すると、深草は「なるほど……」と頷いた。


「現時点で恒貞様に気概が無いとなると……どうにかして火を付けねばなりませんな」


「中川下総守家の家督争いみてぇな状況が理想だ。そうなりゃ、こっちとしても付け込みやすいってもんだ」


「確かに。タイ人やフランス人との戦争で煌王会が東へ目を向ける余裕が無い今こそ好機と云って良いでしょう。ですが、そのためには……」


 俺は「ああ」と頷いた。


「まずは恒貞を組織の中で孤立させる。進退窮まって叔父に弓を引かざるを得ねぇ状況へ追い込む。そうして野郎が暴れ出した瞬間をって総帥共々一気に討ち取る」


「ええ。ただ、今の恒貞様は総帥を恐れるあまり及び腰になっておられます。このままではむしろ総帥に擦り寄るやもしれません」


「そこは考えがある」


 俺はニヤリと笑ってみせた。


「不安に駆られた副総帥は取り巻きを増やすことに躍起になってやがる。だったら、その動きを利用しない手はぇだろ」


「……村雨耀介への接近でございますか」


 眉をひそめる深草。


 俺は「その通り」と答えた。


「総帥に思い込ませるんだよ。『馬鹿な甥が村雨を味方に引き入れてクーデターを目論んでいる』と。義父とうさんには副総帥を焚きつけて担ぐふりをしてくれと頼んでな」


 刹那、彼の顔色が一変した。驚きと衝撃に歪んでいく。


「それは……あまりにも大胆過ぎませんか。場合によっては火中の栗を拾いかねませんぞ」


「分かっているさ。場合によっちゃ村雨耀介に天下を獲らせることになりかねんってことくらい」


 俺は想定していた懸念を口にした。それを踏まえて深草の表情はいっそう険しくなる。


「かつて横浜で腕を磨かれた猊下はご存じでございましょう……村雨耀介は危うい男です。時と状況さえ整えば一気に動きますぞ」


「お前の言う通り、確かに義父とうさんは俺との約束なんぞより己の野心を優先するだろうよ。だが、だからこそうってつけなんだ」


「と、申しますと?」


「恒元を討ち倒すには、それくらいのことをやる必要があるってことだ。手駒がヤバい男だろうが何だろうが利用してやるまでだぜ」


 俺はエアコンで冷えた車内の空気をふうっと吸い込んだ。それから一拍おいて口を開く。


「事が済んだら村雨を始末して俺が天下を奪う。座りしままに餅を食うってやつだ」


 勢い任せに言ってのけた俺。深草はそんな俺にこう告げた。


「しかし……村雨耀介が本当に貴方様の思惑通りに動くでしょうか。あの者は頭が切れます。こちらの思惑に勘付けば何をしてくるか分かりませんぞ」


「悟られねぇよう上手くやるだけのことだ。田山も煽ってみるさ。同じ理事長補佐同士の主導権争いにかまけて頭に血が上った村雨が副総帥と結び付くようにな」


 その言葉に深草は「流石でございます……」と半ば圧倒された表情で褒め称えてくれたが、俺としては少しばかり不安だった。何せ、恒貞が叔父への敵意を然程抱いていない旨を読めなかったのだから。村雨と結託させる策は謂わば修正案で、副総帥が想定外の動きを見せたことで慌てて思いついたようなものであった。


 全てが計算通りに進むとは限らない。されども俺は己に言い聞かせた。やってやるさと。


「……」


 そんなこんなで街道を走ること数分。車は目的地へとやってきた。多くの人が行き交うビル街の一角に例の店はあった。


「ほう。今どきの呉服屋は洒落たもんだな。傍から見りゃ若者向けのトレンドショップみてぇな雰囲気だ」


 ガラス張りの外観を一瞥しただけでもそれが分かる。かつて琴音から聞いた噂以上に現代的な店構えをしていた。


「ええ。まったくです」


 運転席の深草がバックミラー越しに言ってくる。ただ、本音を言えば俺としては乗り気な買い物ではなかった。


「しかし、義母かあさんも困ったもんだ。ドイツ帝国だの何だのと言ってたくせに浴衣を着せようとするとはな」


「ええ。あの御方に道理という概念は存在しないのでございましょうな」


「周りを自分の思った通りに動かすことが気持ち良くて仕方ねぇんだろうよ。言いなりになってる俺も俺だ」


 吐き捨てつつも俺は笑う。以前にも増して深草が雑談に興じるようになってきた。実に良い変化である。部下が心を開いてくれるのは純粋に嬉しく思える。


 そんなこんなで店の駐車場に到着した俺たち。


「じゃあ行ってくるぜ」


「はっ。お気を付けて」


 降りた車から暫く歩いた先にある店先まで来た俺は、黒色のスーツに身を包んだ店主から応対を受けた。


「これはこれは。いらっしゃいませ」


「おう。浴衣を仕立てて貰いたいんだがな」


 すると彼はニコリと微笑んでみせた。


「出入り用ですか? それとも盃事か何か?」


 江戸時代から続く老舗の経営者だけあって、俺の稼業は一瞬で見抜かれた。俺が如何にも殺し屋という風貌を漂わせている所為もあろうが、素直に恐れ入った。


「ふっ、今どき和服で喧嘩をする男なんざやしねぇよ。今夜の花火大会に嫁と一緒に行きてぇから、上等な物が欲しいだけさ」


「ええ。冗談でございますよ」


 和装店の店主は、俺の言葉を受けて微笑した。彼の案内で店に入ると、現代的だった外観とは打って変わって時代劇でお馴染みの元禄文化を彷彿とさせる純和風な造りをしていた。


「で、どんな柄がお好みでしょう? お客様なら、やはり黒がよろしいのでは?」


「いや。俺は白が良い」


「左様でございますか。でしたら、奥様はどのような女性でございましょう?」


「一言で云えば小動物みてぇなもんだな。それでいて色気と品が漂っている。年齢としは20歳さ」


「それは……なかなかに個性的な女性ですな」


「ああ。一緒に歩くだけで街中の注目の的ときたもんだ」


「なるほど……でしたら、紫は如何でございましょう」


「面白い色合いじゃねぇか。見せてくれや」


 そう告げると、店主は「承知いたしました」と頷いて、店の奥から浴衣を2着持ってきた。


「こちらなど如何でございましょうか?」


 それは、白と紫の花柄の浴衣だった。


「この紫は夜顔ヨルガオの花をイメージしておりましてな。その茎は細く、白っぽく見えながらも黒く艶やかな花が咲き誇るそうです」


「へぇ。良い色合いじゃねぇか」


 好みに合った色を的確に勧めてくれるとは見事なもの。その接客の巧みさに俺は感心した風に頷いて見せた。


「牡丹や撫子なでしこといった派手めの浴衣もございますが……美しい奥様と連れ立って歩かれるのでしたら、こちらの方がよろしいかと存じます」


「ああ。良いな……」


 俺が顎に手を当てて考えていると、店主が「ご試着なさいますか?」と尋ねてくる。


「ああ。頼む」


 そう返すと、彼は「かしこまりました。では、こちらへ」と、店の奥へと俺を案内したのだった。そして数分後、俺は白と紫の花柄の浴衣に着替えた。


「いかがでしょうか?」


 その出来栄えは上々だった。生地の通気性も抜群で、肌触りも良い。なおかつしわが寄らず、型崩れもしない。この一着があれば姑にも『ダサいわね』と言われることは無いはずだ。


「気に入ったよ。二着とも買う。いくらかな?」


 そう尋ねると、店主は「ありがとうございます」と微笑んだ。


「一式セットになっておりましてな。白と紫の浴衣がセットになって300万円でございます」


「そうかい。じゃあ、小切手で頼む」


「承知いたしました」


 俺は財布の中から個人的な口座を持つ銀行名が書かれた薄い紙を取り出し、店主に渡した。それを受け取った彼は、空欄になっていたところへ『参百万円也』と万年筆を走らせて懐へ仕舞い込んだ。


「お買い上げありがとうございます」


「へへっ。また来るぜ」


 これで浴衣は手に入った。


 菫美子が唯愛に買い与えた代物が如何ほどの価格あるいは美しさなのかは存ぜぬが、決して見劣りしないだろう――などと考えながら上機嫌で店を出た俺だったが、不意に足が止まる。


 車道を挟んだ向かい側のビルの影に、銃を構えた人物の姿が目に付いたからだ。


 こんな真昼間から堂々と狙うとはな。何処の誰かは存ぜぬが肚が据わっていると言わざるを得ない。度胸だけは褒めてやろう。


「ふっ、笑えるぜ」


 刹那、街に銃声が轟いた。

混迷の組織情勢! 涼平の敵は多い……。次回、華やかな宴。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ