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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第2章 ふたりの異端者
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歩み寄り

 1998年6月5日。


 村雨が帰ってきたのは、当初の予定よりも早い夕方だった。玄関の前に留守居役の全組員がズラリと縦に並んで、車から降りた組長に一斉に頭を下げる。


「ご苦労様です!!」


 その間を歩いて行く村雨。


「……」


 特に言葉を発するも無く、憮然とした表情を崩さないまま玄関へと入っていった。それにしても、とんでもない威圧感である。一方で俺はと言うと、秋元の指示で彼女と共に2階の部屋で待機していた。


 これは俺が未だ盃を貰っておらず、正式な組員としては認められていないため。それでも俺がいた部屋からはちょうど玄関が見通せるようになっており、村雨が放つ殺気を窓越しに感じることができた。


(やっぱり、すげぇな。あの人は)


 ちなみに、極道社会における目上の者への挨拶は「ご苦労様です」が基本。よく映画やドラマで「お疲れ様です」などと言われるが、あれは誤りである。また、挨拶の際は俗にいう「気をつけ」の姿勢で立礼をする。


 膝を曲げた中腰の姿勢で挨拶をするのも、映画やドラマの世界だけ。あれは、時代劇における侠客の台詞「お控えなすって」が由来の演出に過ぎない。これらはすべて、前日の夜に秋元が教えてくれたことである。組長が玄関に入るのを視認するや否や、彼女俺の肩をポンと叩く。


「さあ! 私達も降りましょう。くれぐれも、失礼が無いように!」


 促されて階段を駆け下りると、村雨は既に玄関で靴を脱ぎ終えていた。


「組長、お帰りなさいませ」


「ああ。私が留守の間、変わったことは無かったか?」


「いえ、何もありませんよ」


 そう、うやうやしげに答えた秋元は村雨の鞄を受け取った。俺が代わりに持とうと申し出たのだが、却下されてしまった。


「何もせずとも良い。そんな事より、役目は順調であったか?」


「役目……」


「お前の役目は、絢華の世話係であろう? それに滞りは無かったかと聞いているのだ。どうなのだ?」


 自分から尋ねてくるあたり、相当気になっているのだろう。俺は率直に答えた。


「無いよ。あいつも元気に過ごしてたし。だけど、ちょっと寂しい感じではあったかな」


 その瞬間、村雨の足が止まる。


「寂しい? 寂しいとは、いかなる意味だ?」


 まるで睨みつけるように、村雨がギロリとこちらを見たので一瞬、俺は硬直してしまった。


(こ、怖い……)


 だが、ここで臆して沈黙してしまっては、空気がさらに気まずくなるだけ。思い切って、1週間を通して感じていた事をそのまま報告してみる。


「俺が言うのもアレなんだけどさ。やっぱ1回くらいは、互いに腹を割ってさ。親子水入らずで話してみるのも、良いんじゃねえかなって」


 村雨の視線が飛んでくる。


「ほう……」


 恐ろしかったが、俺は目を逸らさなかった。こちらも彼の目をまっすぐに、見返した。本音を言えば、すぐにでも背けたかったが。その場を少しの静寂が包み込んだ後、村雨はコクンと頷いた。


「……お前の言いたいことは、よく分かった」


 そう呟くと、彼は秋元と共に2階へ上がっていってしまう。残された俺は、そこにいた幹部らしき男から「玄関の靴を磨いておけ」と命じられた。


(どうして俺が……)


 不服な気持ちもあったが、いずれは自分の“上司”になる者と、関係を悪くするわけにもいかない。俺は素直に聴き入れると、黙々と役目をこなした。


「おい、スミの塗り方が違う。やり直せ!」


「はいはい……」


「だから、違うって!! もっと丁寧に塗るんだよ」


 かなり苦戦した。生まれてこの方、靴を磨いた事など無かったのだから当然といえば当然なのだが、慣れない作業は辛かった。指示された動作を指示通りにこなせないと、幹部の怒声が飛んでくる。


「ったく。テメェは靴すらもマトモに扱えねぇのかよ!!」


 そんな様子を見かねたのか。通りかかった芹沢が、俺と幹部の間に割って入った。


「おい、その辺にしておけ」


「あっ!」


「さっきから、お前の声がうるさくて仕方ねぇんだよ。だいたい、どうして靴なんか磨かせてるんだ? そんなもん、お前が自分で磨けば良いだろう?」


 芹沢に詰め寄られた幹部は、眉間にしわを寄せて反論した。


「芹沢の舎弟頭オジキ。こいつぁ、まっとうな教育ですぜ。靴は極道の商売道具ですから」


「知るか。そんなに靴が大事なら1人で勝手に磨いとけ。お前のくだらん美学なんざ、教育でも何でもねぇんだよ」


 そう言って幹部をあしらった芹沢は、俺に言った。


「涼平。お前は、すぐに食堂へ行け」


「あ、ああ」


 芹沢が来てくれて、助かった。実際、あのまま靴を磨かされていたのでは、身と心が持たなかったと思う。去り際に、幹部がチッと舌打ちする音が聞こえたのは、流石に引っかかったが。


(まあ、いいや……)


 気を取り直して食堂に向かうと、入室するなり声が飛んできた。


「おう! 遅いぞ!」


 そこにいたのは、着物姿の村雨。どうやら、この日も俺と夕食を共にするつもりらしい。洗濯室の水道で手を洗い、できるだけ足早に向かったつもりだったが、彼はどうも、待ちくたびれていたようだった。いちばん端の席に着いた俺は、遅れた理由を説明する。


「悪い。靴を磨かされてた」


「靴だと?」


 村雨には、一連の出来事をすべて話した。


「なるほど。奴が考えそうな事だな」


「奴って……あんた、そいつのこと知ってんのか?」


「知らずして何とする。嘉瀬は我が組の若頭補佐だ」


 嘉瀬かせひろし。それが、つい数分前の俺に靴磨きを強要した男の名前らしい。若頭補佐という肩書きは組の中で、村雨、芹沢、服役中の若頭に次いでナンバー4にあたるそうだ。


「とにかく、せっかちで気が短い男でな。あらゆる物事において粘り強さや、堪え性というものを知らん。おまけにこだわりも強いときている。すべて、自分が描いた絵図の通りに進まないと気が済まん奴だ」


「そうなのか?」


「面倒な子分を抱えたものだ。まったく」


 ちなみに、若頭補佐は嘉瀬の他にもあと2人いるらしい。この日はたまたま別件で出かけていたこともあり、彼らがどのような人物なのかは語られなかった。


「では、そろそろ食事を始めるか」


 村雨に促され、コックは食事の配膳を始める。この日の献立は、ビーフカレーとコンソメスープにレタスとトマトのサラダ。見ているだけでよだれがあふれる、豪華な夕食のメニューだった。コックの手によって、ゆっくりと皿がテーブルの上に並んでいく。


 そんな時。


「ん?」


 突然、村雨の向かい側の席に食膳が置かれたのである。食堂にいるのは、俺と彼の2人だけ。明らかに1人分、余計に用意されている。


「おい、それはどうした?」


 すると、食堂のドアがゆっくりと開いた。そして入ってきた者の姿を見た瞬間、村雨が驚愕の声を上げる。


「なっ!?」


 絢華だった。入ってきた彼女の姿を視界にとらえた瞬間、村雨は目を見開く。それもそのはず、今まで己を一方的に遠ざけ、顔を合わせるのも拒んでいた娘が突如として顔を出したのである。驚いたのは、俺も同じだった。


(絢華……どうして……!?)


 声にこそ出さなかったものの、ひどくマヌケな顔をしていたと思う。


「お、おかえり、なさい」


 たどたどしい口調ではあるが、絢華は挨拶をする。その姿を見て村雨は言葉を失う。あくまでもポジティブな、謂わば「感無量」といった意味で。


「か、勘違いしないでよね! 今日はたまたま、ここでご飯を食べたいと思っただけだから! 別に、お父様のためなんかじゃないから!!」


 思わず、目を細めた。絢華の口から「お父様」という言葉が飛び出したのだ。普通と違うということは分かっていたが、年頃の女の子にしては随分と珍しい呼び方ではないか。今どき実父を「お父様」と呼ぶ娘が存在していたとは。


「絢華、お前は……」


「な、なによ」


「いや、その……身体は、大丈夫なのか?」


 テーブルの前に着いた絢華に話しかける村雨の口調は、若干しどろもどろだった。ついさっきまで居並ぶ子分たちを気迫のみで威圧していた男とは思えない、少しばかりの気恥ずかしさ混ざった声だった。


「大丈夫。お父様は?」


「あ、ああ。問題ない」


 父と娘が直接会話をするのは、半年ぶりのことらしい。


 同じ家に住み、同じ飯を食らい、同じ時を過ごしているにも関わらず、透明な“壁”をつくっていた2人。その“壁”が打ち破られ、親子の仲が少しずつ、あるべき姿に戻っていくように見えた。


「なあ、そろそろ食わないか? カレーが冷めちまうぞ」


 水をさすつもりは毛頭なかったが、空腹が限界に達しつつあった俺は父子に提案した。


「いただきます」


 絢華のひと声で、食事が始まる。しばらくの間、彼女と村雨だけが会話をする時が続いた。


「……」


 その間、秋元は口を閉じていた。完全に「外野」であるからだ。このような場面で空気を読むことができる彼女の思慮深さには素直に感服した。やがて早めに食べ終わって、俺たちは外へ。食堂を出る前に2人を見ると、どちらもジッと俺を見ている。


「まあ、あとは仲良くやってくれや」


 軽く言い残して、俺は出て行った。その後、しばらくの間トランシーバーが鳴らなかったこともあって、やり残した雑用仕事を淡々とこなしていた俺だったが、不意に声をかけられた。秋元からだ。


「麻木君、お疲れ様でした」


「ああ。こちらこそ。凄かったよな。まさか、絢華が自分から歩み寄るとは思わなかったぜ。親父さんに」


「ええ。本当に驚きました」


 まるで自分の事のように、喜びの余韻に浸っている秋元。そんな彼女は俺に、組長の部屋へ行くよう指示した。


「曰く『涼平に礼が言いたい』と。後は私が代わりますから。さあ、早く」


 俺は言われた通りに、母屋の2階にある部屋へと向かった。


 組長の寝室兼執務室といった使われ方をしており、洋館である村雨邸の中で唯一の、畳を敷き詰めた和室である。そこにいた村雨の表情は、普段とは比べ物にならないほどに朗らかだった。


「あの子と話したのは……久方ぶりであったな。実に楽しかった」


 中央に置かれたローテーブルを挟んで、彼は向かい側に座るよう促す。俺は軽くなずくと、敷かれた座布団の上に腰を下ろした。


「これからは私も毎日、絢華と話すとしよう」


「おう。そうしてやってくれ」


「改めて、礼を言うぞ。ありがとう」


 村雨は姿勢を正すと、俺に深々と頭を下げた。


「おいおい、よしてくれよ。照れるじゃねぇか」


 普段は居丈高な親分の座礼。珍しい光景であると同時に、美しかった。頭を下げる時間が長かったせいか、彼の背後にあった掛け軸に自然と目が行ってしまう。何やら、難しい2つの熟語が並んでいる。


『厭離穢土 欣求浄土』


 俺には、さっぱり分からなかった。


(はなれ……つち……もとめ……じょう……つち……何て読むんだ?)


 読み方と意味はともかく、寝室の壁に掛かっているくらいだから、それなりに深い意味がある言葉だという事は理解できる。


(まあ、いいや。後で聞いてみよう)


 しばらくして頭を上げた村雨の目は、やはり嬉しそうであった。


「さっき、絢華が私に『手術を受けたい』と言ってきた」


「えっ、マジか」


「聞いたぞ。お前、あの子の背中を押してくれたそうだな」


 どうやら、昨夜の出来事を話したらしい。俺にしてみれば、背中を押したつもりなどは一切無かった。ただ思った事を思ったまま、率直に伝えたまで。そこに特別な意図や打算の類は全く、介在していない。


 だが、終わり良ければすべて良し。結果オーライというものだ。


「……おう。役に立てたようで、良かったよ」


 大きく頷きながら、村雨は言った。


「他に絢華が語った話は殆ど、お前にまつわるものだった。『これからも涼平をずっと、自分の側に置いて欲しい』と。何でも『一緒にいると元気が出る。心が強くなれる』そうだ」


「あいつが、そんなことを?」


「私も驚いたよ。もともと人見知り気味で、滅多に他者を寄せつけなかった娘が、あのような笑顔を見せるとは」


 また、村雨には1つ、分かったことがあるらしい。


「絢華にとって、お前は……初めて、対等に向き合って話ができた相手なのかもしれんな。それまで、あの子の周りにいた人間は皆、対等ではなかった。父親の私がこのような仕事をしているために、恐れるか媚びるかのどちらかだった。だが、お前は違った。絢華と正面から向き合い、常に対等な立場で接してくれたからな」


 麻木涼平を見出した己の目に、狂いは無かった――。


 満足そうに語る村雨の口ぶりからは、そのような感想がひしひしと伝わってきた。やはり、どこか照れくさいが、誰かに感謝されて悪い気はしない。俺は、にこやかに応じてやることにした。


「こっちこそ、礼を言わせてもらうよ。あんたに拾われて、あのお嬢さんと出会ったことで、俺は、生まれて初めて誰かに必要とされたんだ。正直、すげぇ嬉しかったよ。こんな俺でも、まだ誰かの役に立てるんだって」


「ああ。本当に、よくやってくれた。これからもよろしく頼むぞ」


 そう言って差し出された右手を取り、俺と村雨はがっちりと握手を交わす。彼の手を握るのは2回目であるが、以前よりも少しだけ、力が込められているような気がした。

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