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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第17章 三秒くれてやる
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行かないでくれ、愛しい女よ

 俺は耳を疑った。


「今、何と仰いました?」


 すると恒元は頬を緩めながら続けた。


「華鈴と別れてくれと言った」


「な、な、何故でございますかッ!」


 俺が素っ頓狂な声を上げると、彼は目を丸くした。だが、すぐに穏やかな笑みに戻った。そして言ったのだった。


ひとえに組織の力を強化するためだ。今のままでは煌王会に対抗できぬ。それゆえ新たな戦力を迎えようと思ってな」


 一体、何の話をしているのか。彼の云いたいことが、まったくもって分からない。俺は声を震わせつつも噛みついた。


「それが、どうして……組織を強化することと、華鈴と別れることに、何の関係があるというのですか!?」


 何が面白かったのか。恒元は笑い出した。


「ああ、そう云えば、お前には奴にもう一人娘がいたことを教えていなかったな。なあに。単純なことよ」


 そうして彼は俺の耳元で囁いた。


「お前は華鈴と別れ、その代わりとして村雨耀介の次女の唯愛ゆあを嫁に迎えるのである」


 俺は愕然とした。


「い……一体、何を仰られているのか……さっぱり分かりません……」


「ふむ。つまりだ。華鈴と離婚して、その上で村雨耀介の次女である唯愛と婚姻する。さすれば村雨は我輩の盃を呑むと申しておるゆえな」


「お、お待ちてくださいッ! そんな無茶な縁談がありますか!? 第一、村雨組が中川会に入るなんて聞いておりませんよ!?」


「あははっ。すまぬな。何せ昨日の今日で決まったことゆえ。お前にも伝えずに我輩と村雨だけで進めておったことだが、かねてより考えておったのは確かだ。いずれ村雨を組織に招こうとな。あの男の武力があれば、煌王会に背後を奪われたとて巻き返せようぞ」


「なッ……」


「奴は斯様に申しておった。『中川会の傘下にくだる代わりに、麻木涼平を娘婿に寄越せ』と」


「そ、そんな馬鹿な!」


「そう。確かに馬鹿げた話だ。しかし、お前も今の組織の状況は分かっておろう」


 確かに、俺は分かっていた。八王子、武蔵野と、多摩地域に立て続けに煌王会の領地が誕生したことで、関東をお膝元とする中川会は奴らに喉元へ刃を突きつけられたも同然の状況なのであると。


 おまけにサングラントファミールの日本支部が復活し、連中に呼応するかのごとく複数の欧州系マフィアが関東へ入り込んでいる。煌王会がフランス人を味方に付ければ、中川会は四面楚歌だ。


「ゆえに我輩は考えた。村雨耀介を組織に迎えれば、中川会の武力は増強されよう。たとえ煌王と正面から戦うことになろうとも劣りはせぬであろうと」


「しかし、だからといって……!」


「ああ。安心するが良い。『娘婿』というのはあくまで村雨から見たお前の立場であって、方式で云えば奴の息女が嫁いでくる形だ。よって組織は辞めず、今後とも力を尽くしてくれ。我輩の心強い側近としてな」


 そう言うや恒元は布団の中へ潜り込み、俺の男根をくわえて愛撫し始めた。湧き上がる快感をこらえながら、俺は必至で頭をまわそうとする。


 一体、総帥は何を言っている――組織が窮地に陥っていることは百も承知。されど今度ばかりは呑めない。


「わ、私に、華鈴と離婚する理由など……」


「だからこそだ。村雨を納得させられる」


「なッ!?」


「お前と華鈴の結婚披露宴には奴も顔を見せていたはず。ゆえに、その仲を裂いてまで奴の申した条件を呑むことで、あの男の胸襟も開かれるというもの」


「そ、そんな……!」


「お前の気持ちは分かるが、折れてくれ。越坂部がラオス人どもを率いて帰国したという情報も入っておるゆえな。ここで組織の戦力を固めておきたい」


「くっ……」


 俺は唇を噛んだ。組織の幹部として今の状況が分かっていないわけではないが、だからといって愛する妻を捨てるなど出来るはずがない。


 そんな俺の耳元で総帥は囁いた。


「ああ、そういえば華鈴との間には子が出来ておるという話だったか。生まれた暁には我輩が母親と共に面倒を見てやるゆえ、心配せんで良い」


 思わず息を呑んだ。そして同時に悟った。我が主君は本気だと――冗談ならば敢えてこのような言い方などはするまい。


「……ッ」


 さて、どうする。


 この話を呑んで出世の糧とするか。あるいは総帥に盾突いて身を滅ぼすか。選択どころか考える余地も無い。あまりにも単純な分岐点ではないか。


 すぐさま、俺は返事をした。


「承知いたしました」


 直後、恒元の表情に花が咲いた。


「おお! 折れてくれるか!」


「は、はい」


 すると彼は満面の笑みで俺を抱きしめた。そうして耳元で、こう言った。


「ありがとう、涼平! お前ならば呑んでくれると思っておった! ああ、この我輩の目に狂いは無かった! さあ、そうと決まれば早い方が良い。今からすぐに村雨に連絡を取ろうではないか!」


「はい……」


 コクンと頷く仕草とは裏腹に、俺は心を決めていた。


 一旦は承諾するふりをして、何とか時間を稼ごうと。そして、そのふざけた縁談を諦めてくれるだけの武功を立てて、恒元に翻意してもらうのである。


「村雨組には今日の内に連絡しておく。例の唯愛なる娘を我輩は知らぬが、お前ならば必ずや上手くやれることだろう。むははっ、華鈴と比べてどちらが美しいだろうかな」


 恒元とて苦しいのであろう。長年に渡り寵愛していた櫨山重忠に裏切られ、盤石に治めていたはずの帝都の西側に敵の前線基地が出現したのである。


 そうだ。お支えせずして何とするか。


 俺は中川恒元の腹心だ。


 全ては愛する華鈴のために。そして、華鈴との間に出来た子の未来のため。


 幸せに生きるためには、この国は帝王が輝かせる貴族の世でなくてはならない。彼の敷くまつりごとを支えるためにこそ、俺はここまで己を強くすることに熱を注いできた。権力を獲得することにこだわってきた。


 華鈴を守る。何があっても。


「総帥。華鈴には私から話をつけます。私とて男でございますゆえ、己の恋路の後始末くらいは己の手で付けます」


「うむ。その心意気や良し。だが、面倒になったらすぐに申せよ」


「痛み入ります。それでは」


 恒元の言葉に旺盛な返事で応じた後、俺は寝室を出た。時刻は朝の8時。その足で玄関広場に向かうと、そこには先客がいた。


 ダブルのスーツをノーネクタイで着こなす色男だ。


「あっ、麻木次長!」


 韮建にらだてまさる。直参『韮建にらだてぐみ』の組長で、宮城県内にある中川会の小さな飛び地、名取市を仕切る男。


 この日は直参組長に招集がかけられてもいないのであるが、宮殿で見かけるとはどういうわけか。


「ん? あんたは……」


 きょとんとする俺だが、次の刹那に度肝を抜かれた。なんと韮建が突如として床に平伏したのである。


「次長っ! どうか俺を見捨てないでくれっ!」


「おいおい、いきなり何だよ」


「この通りだっ! 俺ぁこれからずーっと、あんたについて行く! あんたのためだったら何でもする! だから、どうか! 俺を殺さないでくれ! 頼む!」


「落ち着けや」


 咄嗟にそう言いかけたが、奴の必死さは本物だ。俺はとりあえず話を聞くことにした。


「一体、何があったんだ」


「な、何があったも何も……総帥が三沼たちを村雨に引き渡したって話じゃねぇか! ヘッドハンティングされた人間が古巣に出戻ったらどうなるか、稼業の世界じゃ答えはひとつしかぇってのに!」


 俺は絶句した。まるで聞かされていない、謂わば寝耳に水の話だったからだ。


 聞けば恒元が村雨組による三浦半島の支配を認めたといい、直参『三沼組』と『崎川一家』と『谷山組』の3つの組の領地を返させた上で、村雨に与えたというのである。


 三沼も、崎川も、谷山も、全て俺が媒酌人として組織に迎え入れた親分たち。如何なることだ。理解が追い付かなかった。


「なっ……!?」


「俺たちゃ、あんたに拾って貰った身だ! だから、その、総帥以外じゃ、あんたしか頼れる男が他に居ねぇんだよぉ!」


「あっ…… いや、その……」


 俺は返答に詰まった。韮建曰く、昨晩、三浦半島には恒元の了承を得た村雨組の軍勢が侵攻。いずれの組も壊滅し、親分たちは村雨の手で惨殺されたという。


 聞いていない――だが、何かしら反応しなくては。瞬間的に頭を捻り、俺は言った。


「大丈夫だ」


 しかし、その後に言葉が続かない。何時いつになく心が動揺を催している所為だ。そんな俺の両肩を韮建は掴んできた。


「なあ次長! あんたは俺の命の恩人だ! いや……あんたこそが中川会の救世主だ! これからはあんたの手となり足となる! この韮建勝を好きに使ってくれ! あんたの願いは何だって叶えてやる!」


「は、はぁ?」


 あまりにも度が過ぎる反応に俺は戸惑いを隠せない。だが、韮建の熱は引きはしなかった。


「何でも言ってくれ! あんたのためなら何でもする!」


 きっと俺に取り入ることで恒元に捨て駒として使われる流れを止めたいのであろう。懸命に俺の機嫌をとろうとするのだが、その必死さは先程の比では無い。明らかに奴は精神を病んでいる。


「分かったから落ち着け」


「いいや、落ち着いてなんかいられるか……そうだ! 今日から俺があんたの弟分になる! 何でも言うことを聞く! いや、聞きます! だから、俺をあなたの右腕にしてくだせぇ! ね? 良いでしょう!? 兄貴!?」


 いや、何が「ね?」だよ。えらく気前の良いことだが、つい先ほど可愛い弟分を粛清したばかりというのに「兄貴」などと呼ばれるのは不愉快だ……だが、待てよ。


 刹那、俺は笑った。


「んふっ。そうかい」


 この男は上手く使えば優秀な駒として動いてくれるのではないか。そんな考えが頭をよぎったのである。無論のこと言い方は工夫しておく。


「まあ、俺を兄貴とあおぎてぇなら好きにすれば良い。だいぶ前から一目置かせてもらってたからよ。今後とも総帥のために一緒に力を尽くして働こうぜ」


「はっ、はい!」


「俺の下に居りゃ大丈夫だ。お前さんに手柄を立てさせてやれる」


「はい、兄貴っ!」


 さて。これくらいで良いだろう。傭兵時代に心理戦の技術を学んでいる俺は、不安に駆られて精神が不安定になった人間の思考を操作する術を理解していた。


 これから恒元のために手柄を立てねばならないのである。使いやすい手駒が揃っていた方が都合が良い。


「それじゃ俺は、これからちょっと用事があるんでよ。お前さんは家に帰って、ゆっくり休みな」


 俺が韮建を追い払うような動作をすると、彼は深々と頭を下げて帰って行った。


 韮建も殊勝な奴だ。されど良いことだ。歳が18も上の中年男を「弟」と呼ぶなどおかしな話だが、手駒が増えるに越したことは無い。第一に、彼が中川会の直参盃を飲んだ際の媒酌人は俺である――ただ、そう考えると、ますます恒元が谷山たちを始末した理由が分からない。彼らの存在は俺にとって組織内での権力地盤、つまりは派閥にも近いものであった。よって、彼らが消えることは『麻木派』が事実上消滅したことを意味する。


 理事会において俺が半ば孤立状態にあることは、恒元とて存じていように。あの谷山が今まで特に何かをしてくれたわけではなかったが、彼が同じ空間に居るというだけで俺には精神的な余裕が生まれていたというのに。それをどうして……。


 いや、恒元が俺を苦しめるようなことをするはずが無い――であれば、これは何かの理由があってのことか。谷山たちが何かしらの下手を打ったのが真相か。きっとそうだ。それ以外に考えられない。


 そう頭の中で結論を付けて、俺は思考を切り替えた。


 さて、この後はどうするか。


 恒元は関東における戦力強化のために村雨組を取り込もうとしている。ならば、村雨組の力を借りずとも帝都を防衛できる旨を証明すれば良い。


 とりあえずは櫨山重忠を殺し、大国屋一家を壊滅させよう。俺一人の力で為せるかは未知数だが、やって出来ないことは無いはずだ。


「……それはそうと、腹が減ったな」


 思えば朝食を摂っていなかったので、俺は宮殿を出て紀尾井町通りのコンビニへ。ホットサンドと缶コーヒーを購入し、近くの清水谷公園のベンチに腰掛け、開封してかじった。宮殿からは歩いて15分も要した。時刻は8時30分を回っている。


 ふと空を見上げると青空が広がっており、遠くに小さく見える都心の高層ビル群のシルエットは雲ひとつ無かった。


 ああ、良い天気だ。


「……」


 ホットサンドの咀嚼音を噛みしめながら、俺は懐古に耽った。この紀尾井町の近くには名門私立大学のキャンパスがあり、かつては華鈴もそこに通っていた。俺と出会った頃、彼女は学生だった。あの時は酒井祐二と原田亮助も生きていて、毎日が楽しかった。あの面々と過ごしていると、自分が家族を持ったような心地を味わうことができた。当時、宮殿のオフィスワークで忙しい俺のために、酒井と原田が度々買ってきてくれたが、まさに今食べているホットサンドと缶コーヒーの組み合わせだった。


 しかし、あの頃のような味がしない。


 所詮、いかに低価格であるかという点のみに注力して作られた料理とも呼べぬ代物。美味しくないことは分かっていた。


 されども何故だろう。不味まずい。


 心が乱れている所為か、あるいはいつも恒元と一緒に舌鼓を打つ仏国料理のフルコースに舌が慣れている所為か。


 気付けば涙があふれていた。


「俺が……あいつらを……殺したのか……」


 そう。二人とも俺と出会いさえしなければ命を落とすことなど無かった。執事局助勤という立場が彼らを追い込んだ。


 他でもない。俺が彼らの未来を奪ったのである。酒井祐二も、原田亮助も、中川恒元の洗脳から脱しようと、懸命に生きていたというのに。サクリファイスの禁断症状に苦しみながらも、必死に麻薬中毒から脱却しようと足掻あがいていたというのに。


「酒井……原田……すまねぇ……」


 俺は声を殺して泣いた。その涙にはきっと、自分という人間への怒りも含まれていただろう。


 不意に頭に浮かんだのは華鈴が泣き崩れる姿。全ては俺という男が不甲斐ないがゆえのことだ。もっと力を付けて華鈴のことだけは守ってやらねば。


「華鈴……必ずお前と添い遂げる。必ずだ」


 涙をぬぐい、俺は決意を新たにする。


 全ては櫨山重忠を殺せば済む話だ。これより八王子の大国屋一家総本部に奇襲を仕掛け、奴を含めた過半数の構成員を討ち取る。さすれば帝都には安寧が戻る。


 俺は裏社会最強の暗殺者だ。何人も俺の敵ではない。


「血まみれの天使に勝てる奴などいるものか……くくっ……」


 思わず笑みが漏れてしまったが、自然なことだ。あらゆる敵を素手のみで倒せる圧倒的な力を手に入れたともなれば、頬を緩めたくもなるだろう。


 きっと俺には輝かしい未来が待っている。


 中川恒元は関東博徒の王どころか国家のフィクサーである。表社会における三権の長が土下座をして媚びを売るほどの男だ。


 奴が持つ絶対的な権力を前にすれば、誰もが無力感を覚えるだろう。「もはや如何なる手を使っても勝てないのではないか」という諦念にも似た感情に、誰もが平伏すはずだ。


 その力を俺が受け継ぐ。中川恒元の後継者として。次代の新たなるフィクサーとして。そうして俺と華鈴、もうすぐ生まれてくるであろう我が子と三人で、この国を支配するのである。


「いやあ、楽しみだなあ」


 今度は笑みに続いて独り言が漏れたところで、己に「まあ、今は仕事に集中しなくちゃな」と突っ込みを入れたところで、直後に懐中の端末が振動した。


 端末を開くや息を呑んだ。華鈴からのメールだった。


【今から会える? 話したいことがあるの】


 俺は即座に返信する。


【これから総帥府に戻って車で行く。30分くらい待っててくれ】


 すると、すぐに返ってきた。


【ここへ来て】


 今度は位置情報が記されている。高輪の病院ではないのか――いや、思い返せば、妻の主治医はPTSDについては経過良好だからという理由で退院の判断を下していたような記憶がある。それにしても症状が悪化して再び入院することになったわけだから、もう少しくらいは病棟で様子を見た方が良いような気もするが……まあ、良い。


【分かった。すぐに行く】


 これから大仕事を為す前に妻と会い、気合を入れるとしよう。俺はベンチから立ち上がり、公園を出た。先ほどのコンビニの屋外のゴミ箱にホットサンドの包装紙と珈琲の空き缶を捨てた後、宮殿へ足早に戻る。


 ところが、近くまで差し掛かった時。


 周囲に闘気を感じ、身構える。次の瞬間、銃弾が飛んでくる。


 ――バンッ。バンッ。


 俺は右方向へ跳んでかわした。すると手を打ち鳴らしながら一人の男が現れた。


「はっはっはっ。流石、中川会最強のアサシンは反応速度が違うな。射撃に関しちゃ大陸トップクラスの凄腕を連れてきたってのに避けられちまうとは」


 聞き覚えのある声に、俺は眉根を寄せる。


「……生きていやがったか」


 その言葉に奴は鼻を鳴らした。


「当然だ。テメェを殺すまで死なんさ」


 現れたのは越坂部おさかべ捷蔵しょうぞう。元中川会理事長補佐で『椋鳥むくどり一家いっか』総長。昨年の大粛清が始まる前に身を隠し、誠忠煌王会にも参画せずにいたが、事ここに至って姿を見せたということは――考えられる可能性は一つだ。


「さぞ、気分が良いこったな。組を潰されたってのにタイ人どもにかつがれて再び親分みたく振る舞えるってのは」


 そう皮肉をぶつけると、奴は黄色い歯を見せて笑いながら首を縦に振った。


「こいつらは俺の子分だ。もう椋鳥むくどりの名なんざ関係ねぇさ」


「ほう……?」


「せっかくだから見せてやる」


 そう言うと越坂部はジャケットの袖を捲って左腕を見せつけた。そこには鮮やかな紋様の刺青が彫られている。

 俺には見覚えがあった。インドシナ半島全域に勢力を張る巨大組織『シナドゥラ・メンタヴァ』の一員であることを示す刺青だ。


「なるほど。大枚はたいて向こうの幹部の椅子に座ったってわけか。彫り物まで入れやがって。見苦しいこった」


「へへっ。どうとでも言ってくれて構わねぇぜ。減らず口も今日までだ。何せ、テメェはここで蜂の巣になるんだからな」


 鼻を鳴らすや越坂部は近くに居た男にラオス語で「ຖ່າຍ ຮູບ(撃て)」と指示を下した。すると全員が一斉に銃を構える。


 反射的に俺は真上に跳躍してかわす……という気分ではなかったので、懐に入れていた煙幕弾を転がして走って逃げた。


「ウギャァァァ!」


 一年前とまったく同じ術中に嵌まるとは。学習しない奴らだ。


「くそっ! 覚えてやがれよぉぉ! 麻木ッ! 必ずテメェを蜂の巣にしてやるからな!」


 越坂部の怒声を背にして俺は駆けた。


「背広を返り血だらけにしたら華鈴が嫌がるからなあ」


 独り言を呟いた後、俺は端末を開き恒元に連絡を入れた。


『何だと? シナドゥラ・メンタヴァが?』


「ええ。総帥も十分ご注意ください」


『分かった』


 端末を懐に仕舞うや俺は歯噛みした。よもや欧州のサングラント・ファミールに続いて東南アジアのシナドゥラ・メンタヴァまでもが攻め込んでくるとは――いやいや、こんな事をしている場合ではない。


 駐車場に停めていたセダンの鍵を解錠し、運転席へ乗り込んでエンジンをかけて、車を発進させた。交通量は少ない。昨日のゲルベリューセ敗血症騒動の影響が尾を引いているらしい。あれから一日、政府の緊急事態宣言は『新規発症者が12時間連続で現れなかったから』とのことで解除されたが、民衆の間には依然として恐怖感が拡がっていると見た。


 つくづく馬鹿な奴らだ。あれは中川叡智財団がワクチンと応急根治薬を各都道府県の公立病院に売り込むために行ったパフォーマンスだと云うのに。


 俺は嘲笑わらう。


 お前らは生きてる価値が無いんだよ。俺たち貴族の道具でしかない。ただ黙って俺たちの命令を聞いとけば良い。それなのに無駄に騒ぎやがって――そんなことを考えながら車を走らせていると、目的地まであっという間についた。住所が示す通りの場所に車を停め、エンジンを切る。そこは周囲をホテルに囲まれた閑静な公園だった。病院にも程近い。


 俺は端末を取り出し、妻に連絡した。


『着いた。どこにいる?』


『すぐそこ。待ってて』


 彼女は一体どこにいるのか。周囲をキョロキョロと見回すと、向こうから歩いてくる女の姿が見えた。遠くからでも分かる。間違いない。華鈴だ。


 通話を終了し、俺は彼女に手を振ってみせた。すると、向こうも手を振り返してくる。片手にスーツケースを抱えた彼女は彼女は俺の車の助手席のドアを開けるが、乗ろうとしない。


「えっ?」


 きょとんとする俺に、華鈴は言った。何時いつになく、強張った面持ちで。


「降りて」


「いや、話をするんじゃ……」


「良いから。降りて」


 普段の彼女からは想像も付かない、真面目な口調。その表情と声色から妙なものを感じ取った俺は、言われるががままに車から降りる。すると、華鈴は運転席側へ回り込むと俺の手を掴んで歩き出す。


「おいおい! どうしたんだよ!」


「黙ってあたしについてきて。後で話すから」


 俺は戸惑いながらも大人しく従った。暫く歩いた後、華鈴は立ち止まった。気付けば俺たちは品川駅の構内を通り抜け、その南口に面した芝生の広場の木陰に居た。彼女は俺の方へ振り返ったかと思うと、突然抱きついてきた。


「うおっ」


 何だ!?


 一体、何が起こった!?


 混乱している俺の頭を胸にうずめるかのごとく、ぎゅうっと抱きしめた後、耳元でささやいてきた。


「ごめんなさい。驚かせちゃったよね」


 そう言って彼女は俺から離れると、にっこり微笑む。


「でも、急いでたから」


「あ、ああ……」


 彼女の柔らかい肌の感触を身体に残しながら、ぽかんとした俺。一体、何を聞かされるのか予想も付かない。すると華鈴は真剣な眼差しで問いかけてきた。


「ねぇ。お願いがあるの」


「何だ?」


「組織を辞めて。カタギに戻って」


 一瞬、彼女が紡いだ言葉の意味が分からなかった。だが、すぐに頭の中が真っ白になった。


「……は?」


 呆然としてしまった。


「だから、組織を辞めて欲しいの」


 聞き間違いではなかった。いや、正確には聞き間違いであって欲しかったというのが正直なところだ。しかし、現実は変わらない。華鈴は真剣な面持ちで俺の目を見据えていた。


「ええっと……それって、つまり?」


 俺は思わず問い返した。だが、彼女は怯まなかった。


「そのままの意味だけど」


 その言葉を聞いて、俺は混乱した。


「ど、どうして急に」


 俺は狼狽うろたえた。何故ならば彼女のその要求には一切の脈絡が無かったからだ。しかし、華鈴はきっぱりと言い切った。


「組織を辞めてカタギに戻って。このままだと涼平は本物のモンスターになっちゃう」


 その言葉に俺は絶句した。頭の中が真っ白になり、ただ黙って立ち尽くすことしかできなかった。


 どうしてそんなことを言うんだ。いや、どうしてそんなことを考えるようになったんだ。


 俺が本物のモンスターに? そもそも人間であることを既に捨てている俺が?


 あんぐりと口を開けていると、華鈴は続けて言う。


「秀虎君から聞いた。涼平が街で沢山の人を殺したって。その殆どはマフィアの世界とは関係の無い一般人だったって……本当!?」


 妻の鋭い眼光を前に俺は若干ばかり気圧されたが、すぐに元の表情を取り戻して返答する。


「本当だ」


 その瞬間、華鈴は肩を落とした。それから少しの沈黙が訪れ、その後で彼女は言う。


「どうして、そんなことを」


 その口調に俺は反論したくなった。だが、ぐっとこらえて言い返す。


「恒元公のご命令だ。俺にとってあの御方の言葉は絶対なんだよ」


 しかし、それでもなお華鈴は言う。


「それは分かるけど……でも……でも……」


 その瞳からは涙が溢れていた。


「お願い……もう二度としないで……」


 そう言って彼女は俺に抱きついてきた。その身体は小刻みに震えていた。まるで、怖がっているかのように。俺は困惑した。どうして泣いているのか、その理由が分からなかったからだ。そこで訊く。


「一体、どうした?」


 すると華鈴は、嗚咽おえつを漏らしながら答えた。


「もう嫌なの……涼平が人を殺すところを見るのが……」


 その言葉を聞いた途端、俺は愕然がくぜんとした。彼女の泣きじゃくる顔を見て俺は悲しみに苛まれた。だが、同時に苛立ちも感じた。何故、彼女はいているのか。俺が一体何をしたと言うのか。そんな疑問が浮かんできて、次第に胸の内に怒りが募ってゆく。


 すると、華鈴は泣きじゃくりながら語る。


「涼平は中川恒元に操られているのよ……!」


 その言葉は、俺の心に突き刺さった。


「あたしは見た。あなたの頭の中に住んでる恒元を……あいつはあなたの心の弱さに付け込んで、あなたを操ってるんだ!」


 俺は愕然とした。そして同時に怒りが込み上げてきた。何故なら、彼女は恒元のことを「あいつ」呼ばわりしただけでなく、呼び捨てにした。おまけに俺の頭の中で語りかけてくる主君の幻影を見たと言い出した。一体何を根拠にそんな戯言を抜かすのか。俺には全く理解できなかった。


 すると華鈴は、さらに語る。


「あいつは涼平の中に元々あった狂気を解き放って、操ってる! 今、あなたはあの男に洗脳されてる! 自分じゃ、気付きもしないでしょうけどね!」


 その言葉が俺の心に突き刺さる。だが同時に怒りも湧き上がってくる。


 俺の中に狂気がある? 俺が総帥に洗脳されている?

 ふざけたことを言うな。今まで誰のために手を汚してきたと思っているのか。自然と眉間にしわが寄ってゆく。


「華鈴」


 だが、ひとまず冷静になろうと俺が一呼吸分の間を置いたところで、妻は勢い任せに言葉を続けてきた。


「もう限界! 果てしなく続く殺し合いの世界に大切な人が身を置いてるなんて、耐えられない! 今すぐ組織を抜けて、マフィアからカタギに戻って! そしてあたしと何処どこか遠くの国に移り住むの! 誰も知らない、あたしたちだけの場所へ! そこで生まれてくる赤ちゃんと一緒に、三人で暮らすの! 誰もあたしたちを知らない世界で、何もかも……」


「ちょ、ちょっと待て」


 声を裏返しながらも、俺は彼女の言葉を遮った。


「そんなこと、急に言われたって困る」


「どうしてよ!」


 鈴は俺の胸ぐらを掴んで引き寄せた。至近距離で視線がぶつかる。怒っている。今までに見たことがないほどに険しい面持ちだ。


「もう嫌なんだよっ! 涼平が人を殺すのも、これから誰かに殺されるかもしれないってのも!」


「何を今さら。そういうことは散々場数を踏んできたじゃねぇかよ」


「うるさいっ! 嫌なものは嫌なのっ!」


「どうしちまったんだよ、華鈴」


「お願いだからマフィアの世界から足を洗って! もうあなたに人を殺してほしくないの!」


 俺には理解できなかった。藪から棒に何を言い出すのか。


 男の稼業について、彼女は分かってくれているものと思っていた。全てを承知の上で、俺と一緒になってくれたものと思っていた。


 女性が妊娠して精神不安定に陥る例は聞いたことがあるが、とても錯乱しているようには見えない。


 どうしたのか?


 一体、何が彼女を不安にさせているのか?


 考えれば考えるほどに分からない。されども安心させてやる他あるまい。華鈴は俺の大切な妻なのであるから。


「俺はな。お前のために……」


「あたしのためを思うなら、辞めてよ!」


 華鈴の目からは大粒の涙がこぼれていた。


「聞いてくれ」


 俺は、そう返すしかなかった。そうするより他に無かった。


「もうすぐ俺は恒元公の後継者となれる。次の総帥の座が手に入るんだ。そうなりゃ全てが思いのままだ。カネも、権力も、全てを手に入れられるんだ。気に食わない奴は誰だって殺せる。俺とお前で二人だけの世界をつくれるんだ」


「なっ!? 何を言ってるの!?」


「いきなりこんなことを言われても混乱するよな。すまねぇ。まあ、何が言いたいかっていうと、俺はいずれ世の万物を統べる帝王になる男だってことだ」


「りょ、涼平!?」


「心配するな。あの御方は俺を愛してくださっている。次代の帝王は間違いなく俺だ。この麻木涼平の時代がもうすぐ到来するんだ」


「いい加減にしてよ!」


 耳をつんざくような妻の声に俺は頭を抱えた。どうしてだ。どうして分かってくれない。


「涼平、おかしいよ……自分が何を言ってるかわかる!? この国を支配するだなんて……そんなのあたしは嫌だよ! あたしはただ、涼平と一緒に静かに暮らせればそれで良いの! なのに……なのに……どうして分かってくれないのよ!」


 華鈴は泣き崩れた。俺は腰を下ろすと、震える彼女の肩に手を伸ばし、優しく抱きしめた。


 ようやく気付いた。華鈴が入院先で俺と離婚するよう誰かに促され、逃げ出してきたと。だが、大丈夫だ。ここで勇気づけてやらなくて何とする。


 俺は華鈴のたったひとりの夫なのであるから。愛する女一人幸せにできずして何が世界の支配だ。


「分かってるよ。俺の方こそ、お前以上にそいつを分かってるつもりだぜ。だがな、それだけじゃあ駄目なんだ」


「ど、どうして」


 涙ぐみながら華鈴は俺を見る。その目を真っすぐ見て俺は言う。


「俺がこの世界で生きているのは、全てお前を守るためなんだ。お前を幸せにするためなんだよ」


「だからって……人を殺したりするなんて……あたしは涼平に快楽で人を殺す化け物になってほしいとは思わない……それに……あたしだって間違ってたんだよ……おかしくなってた……自分には力があると勘違いして……」


 華鈴は俯いた。俺の服の裾を握っている手に力が入っている。俺は彼女の頭を撫でた。


「なぁ。華鈴。俺はお前がいなけりゃ生きられん。そばにお前がいてくれてるだけで、俺は何でも出来るし、どんな敵だって打ち払える」


「りょう……へい……」


 華鈴は顔を上げると、俺の目を見つめた。その瞳からは涙があふれている。


「だから分かってくれよ。俺がこうしてるのも全て、お前と一緒に幸せになるためなんだ」


 俺は彼女の涙をぬぐうと、そっと接吻キスをした。すると華鈴は俺に抱きつき、耳元でささやくように言った。


「涼平……好き……好きだよ……大好き……」


「ああ、俺もだ」


 華鈴は涙に濡れる目を大きく見開いた。ああ、やっと分かって貰えたか――されども刹那の安堵感とは裏腹に聞こえてきたのは哀しい言葉だった。


「……だから、お願い。マフィアなんか辞めて」


 俺は驚き、思わず素っ頓狂な声を出す。


「どうしてだよ!」


「だから、もうあたしは嫌なの……誰かが殺される場面を見るのが! 誰かの血や屍の上で生きるのが! 終わりにしたいのよ!」


「だ、だったら! 今回を最後の戦いにするッ! 八王子の重忠だけじゃなく、煌王も、誠忠も、玄道も、極星も、一人残らず俺の手でぶっ殺して、ドンパチを全て終わらせるッ!」


「何で……何でそうなのよ……涼平は……何でいつもそうやって血にまみれた選択を……ううっ……」


 華鈴は再び俺の胸へと顔を埋めた。俺はその背中を強く抱きしめた。


「華鈴」


「……お願い。人に戻って」


 その言葉に俺は何も返せなかった。華鈴を愛せば人に戻れる――そう己の心に言い聞かせて今まで裏社会で剣を振るい続けてきたからだ。


「あたし、辛いの。辛くて辛くて仕方ないの。涼平が、血まみれの天使なんて呼ばれてることが。大好きな涼平が、いつの間にか人じゃなくなっていたみたいで」


「華鈴」


「この子の父親には人でいてほしいんだよ」


 腹に俺の手を触れさせ、なおも華鈴は言った。


「お願い。もう人を殺さないで。戦うことから縁を切って」


 自分と一緒に逃げてほしいと華鈴は言う。この地球上には恒元の影響力が及ばない場所が、まだ必ずあるはずだと。なればこそ恒元に分かってもらうために最後の戦いに勝つ必要があると俺は彼女を宥めたかったが、寸前になって台詞が喉の奥へと引っ込んだ。気付いたからだ。その暗黒の帝王をつくり上げたのは、他ならぬ俺自身であると。


 弱者を救いたい。


 全ての寄る辺なき人々に手を差し伸べたい。


 そんな理想を華鈴と抱いた俺は、やがて地道な慈善活動だけでは限界があると悟り、権力で世を変えるために中川恒元の傍で仕えることを選んだ。言われるがままに人を殺し、冷酷非道に振る舞い、多くの命を奪ってきた。何もかも慈愛に満ちた理想郷をつくるための戦いだと思ってきたが、気付かぬうちに権力のみを欲するモンスターへと成り果てていた。


 俺は息を呑まされた。華鈴は今まで口に出さなかっただけで、心の内ではずっと思い悩んでいたのである。


 ああ、そうだよな……。


 大きく息を吸い込み、俺は言った。


「分かったよ」


「えっ?」


「俺が間違っていたな」


 彼女の両肩を優しく掴み、俺は目と目を合わせる。


「俺はな、お前と出会ってから今までずっと弱者を救うことを夢見て生きてきた。今もそうだ」


「涼平?」


「俺が中川恒元の右腕となり、その力を存分に発揮すれば、この腐った世界を変えられるかもしれない。そう信じてきた。けど、そのやり方はおかしかったんだよな。俺が今まで奪った命の中には……ああ、そうだ。弱者を救うのに、弱者を殺しちゃ意味が無いよな。お前の言う通りだ。華鈴。こんなことは、もう終わりにすべきだよな。ごめんな」


「涼平っ!」


「俺は殺し屋を辞める。そうしてお前と一緒に、どこか遠い場所へ逃げる。もう誰とも戦わずに、ずっと優しい気持ちで暮らせる場所へ」


「ありがとうっ! ありがとうっ!」


 涙に濡れる目を拭いながら、華鈴は俺の胸に飛び込んだ。俺はその肩を抱くと、彼女の唇を己の愛を触れ合わせた。


「んっ……」


「んむ……っ」


 互いの舌を絡ませ合い、唾液を交換する。やがて唇を離すや、俺は彼女を強く抱き寄せた。


「なあ、華鈴」


「うん……?」


「愛してる」


「……あたしも、愛してる」


「ははっ、今さらだったよな」


 俺たちはひとしきり笑い合うと、顔を離して再び唇を合わせた。ついばむように何度もキスをした後、俺たちは近くにあったベンチの背もたれに身を預けて空を見上げた。


「どこへ行こうか」


「とりあえず、ここじゃない遠くへ」


「そうだな」


 華鈴の温もりを味わいながら俺は目を閉じた。理由など必要ない。愛しい女の傍に居られるだけで幸せに浸っていられる。


 もはや道は一つに定まった。


 そう思って、さらなる接吻くちづけを妻に与えようとした、まさにその瞬間だった。


「ここに居たか」


 不意に体が気配を感じた。その正体は闘気。ハッと我に返って声の聞こえてきた方向を睨むと、そこに居たのは越坂部とラオス人の部下たちだった。


「後をつけられてねぇとでも思ったか。馬鹿め」


 思わず、俺の鼻が鳴った。


「お前さんもしぶといな。よっぽど俺の首が欲しいらしい」


 まあ、先ほどは敢えて戦わなかったのである――標的である俺に注意を引き付け、彼らを宮殿から遠ざけるために。俺は華鈴を守るように立ち上がり、ニヤリと笑った。越坂部は下劣な表情を浮かべる。


「お前もつくづく運がぇよなぁ。最愛の妻の前で無様に敗れ死ぬなんてよぉ」


「何を寝言をほざいてやがる。無様に死ぬのはテメェの方だ」


「大口を叩けるのも今のうちだ。今度こそ終わらせてやるぞ、麻木涼平。これまでやられた恨みをたっぷりと刻み込んでやる。その体になッ!」


 俺は構えをとる。越坂部は鼻で笑うと指をパチンと鳴

 らした。


「ເປີດ ເຄື່ອງ ຈັກ ນັ້ນ!(例の機械のスイッチを入れろ!)」


 すると、ラオス人の集団の中から大型の装置を背負った男が姿を現す。そいつは背中の機器のツマミを回すと、ケーブルで接続されたアンテナらしきものを伸ばし始めた。俺は眉根を寄せた。超音波発生装置だ。越坂部め。俺の鞍馬菊水流が衝撃波を操る武術だということを知っていたのか――いや、知っていようと問題はない。相手がどんな兵器を持ってこようと、俺の力があれば一蹴できるはずだ。


「ຟັງ. ເປົ້າໃສ່ຊາຍຫນຸ່ມທີ່ຢູ່ທາງນັ້ນ.ຂ້ອຍ ຈະ ລັກ ເອົາ ຜູ້ຍິງ ຄົນ ນັ້ນ ແລະ ພາ ນາງ ກັບ ບ້ານ.(いいか。あそこに居る若い男を狙え。女は拉致して連れて帰るぞ)」


「ຮູ້ແລ້ວ!(了解です!)」


 男は操縦桿レバーを操作し始めた。やがて、装置から奇怪な音が響き渡る。周囲に居た鳥たちが一斉に飛び去る。超音波は人間の耳では感知できないもの。俺はその場から動くことなく、目を細めた。同時、背後の華鈴に言った。


「隠れていろ」


 すると、妻は俺の後ろから離れ、物陰に身を潜めた。俺は目の前の男たちに集中する。


 さて、どうするか。衝撃波は超音波に掻き消されるため、鞍馬の奥義は使えない。なおかつ先ほどの戦いで煙幕は切らしている……まあ、為すべきことはひとつだな。


 俺は短刀ドスを抜き、構える。そして地を蹴り駆けた。


 白昼堂々、公園での乱戦が始まった。


「ໂອ້!(うおおおおッ!)」


「ຂ້ອຍ ຈະ ເອົາ ຫົວ ຂອງ ເຈົ້າ! (その首を貰うぞ!)」


 シナドゥラ・メンタヴァ』の構成員たちが鉄パイプやナイフを手に襲いかかってくる。


「オラァッ!」


 俺は先頭の男の懐に飛び込むと、鳩尾に膝蹴りを喰らわせ、その勢いのままに体を一回転させて二人目を回し蹴りで吹っ飛ばす。そして三人目の顔面に頭突きを喰らわせると、後ろ跳びして距離を取りつつその胸倉を摑んで引き倒した。


「ໂຫດ ຮ້າຍ, ເຈົ້າ ກໍາລັງ ເຮັດ ຫຍັງ ຢູ່!(くっ、何をしやがる!)」


「黙れ」


 そう返しながら、俺は短刀を敵の腹部に突き立てた。男は暴れて抵抗するが、この体勢での刺突ははずれようがない。俺はさらに深く短刀を押し込んだ。そして男から短刀を引き抜くと、そいつは傷口から大量の血を噴き出して倒れ込む。


 鼻腔を刺激する血の匂い――懸命にこらえるも、俺は歓声を上げてしまった。華鈴と添い遂げるために戦わねばならないからこそ、闘争本能が抑えきれないのである。


「ははっ! ははっ!」


 笑い声を上げるや、俺は目の前の男の頭部を蹴り飛ばした。男は後ろ向きに吹っ飛び、地面に転がる。起き上がってこない。続いて俺は迫りくる敵の顔を蹴り飛ばした。グシャっという破裂音が響き、そいつの首から上が粉々に吹き飛んだ。その様子を見ていた越坂部が戦慄と共に叫ぶ。


「馬鹿なっ!? 衝撃波は超音波で減衰するんじゃなかったのか!?」


 次なる敵を短刀の一閃で斬り殺しながら、俺は言った。


「馬鹿はテメェだ。鞍馬の奥義は、何も衝撃波だけじゃねぇ。長徳の世より伝わりし呼吸術で全身の筋肉を活性化させ、身体能力を爆発的に向上させられるってわけだ」


 俺は間髪を入れずに右の裏拳で横から接近してきた敵の頭部を砕いた。しかし、別の敵が怯むことなく襲いくる。


 背後から鉄パイプが振り下ろされたので、俺は咄嗟に左脚で後方を薙ぐ。いつものように衝撃波が発生しないために破壊力は弱まっているが、それでも常人よりも激しい蹴り技だ。


 鈍い音と共に蹴りを受けた男が絶命し、文字通り地面へ倒れ込んだ。すると俺の前に立っていた敵が振り返り、鉄パイプを構える。だが、その目の前には既に俺がいた。


 慌てて男は鉄パイプを俺の顔面目掛けて振り下ろすも、俺はそいつの手首を摑んで引き寄せた。体勢を崩したところで胸倉を摑み、もう片方の手でこめかみに掌打を入れ地面に叩き伏せる。その傍らで先ほどの男が鉄パイプを構えて向かってきたので俺は身を引いて攻撃を避けつつ、左手で敵の右腕を掴んで手首を極める。そしてすかさず敵の顎に右掌打を見舞った。


 今度はうつ伏せに倒れた敵の背中に乗りかかると、俺は左手でそいつの首を極めてへし折る。ゴキンッと骨が折れる音が響いた瞬間、その男は息絶えた。


「あー。弱いねぇー」


 そう吐き捨てながら、俺は敵兵の体から離れる。地面に落ちていた愛用の短刀を拾い上げると、目の前で怯え竦むラオス人たちに言い放つ。


「次は誰だ? 雑魚どもが!」


 誰もが全身を震わせ、その場から動けない様子。越坂部にラオス語で檄を飛ばされるも、血まみれの天使という圧倒的な強敵への恐怖の方が勝って動けない様子。俺は笑いを堪えきれなかった。


「はははははっ! 良いねぇ! その顔! その表情!」


 気持ち良い。気持ち良くて堪らない。俺は股間が勃起していることに気付いた。今という状況の素晴らしさに情緒という情緒が浸っている。無論、これだけで満足できる己ではない。


 俺は短刀を左手に移すと、右手で懐から拳銃を抜いた。そうして立ち尽くす敵に銃口を向けた。


「はははははっ! うはははははっ! うははははははっ! うははははははっ!」


 このまま銃口を引けば、彼らは何の抵抗もできずに――ああ、考えただけで射精してしまいそうだ! 何故、斯様にも楽しいのであろうか! 出来ることなら、連中をもっと苦しめてやりたいところだ!


 さすれば、もっと気持ちよくなれる……。


 舌なめずりをする俺を見て、全てを悟ったか。喉を震わせながら、越坂部は叫んだ。空から舞い降りた破壊の天使を前にしているかのような、全身全霊の声で。


「こ、このイカレ野郎がーッ!」


 俺は、にこやかに云い返した。


「素晴らしい褒め言葉だ。感謝するぜ。その例として、お前にはこれよりにえとなって貰う。いずれ華やかなる真の貴族に、かしずく者として、生まれ変わるために」


 饒舌に返した後、俺は言ってやった。


「誇りに思うが良い。この麻木涼平が華やかな貴族の世を創るための礎となれることを」


 ああ、気持ち良い――その刹那だった。悲鳴が聞こえた

 。


「やめてェェェッ!」


 俺は視線を背後に向けた。そこではベンチに座った華鈴が吐いていた。その嘔吐物の中には血も混じっていて、明らかに体調が悪そうな様子。


「ああっ」


 俺は咄嗟に駆け寄った。華鈴は胃の中のものをすべて吐き出してしまったらしく、荒い息を繰り返している。


「大丈夫か?」


 そう言いながら、背中をさすってやる。すると、華鈴は嗚咽おえつしながら、虚ろな瞳で言葉を発した。


「つね……もと……なかがわ……つねもと……」


 俺が「えっ?」と応じるや否や、華鈴の体から力が抜けた。その場にドサッと倒れたのである。


「だ……め……」


「おっ、おい! 華鈴! 華鈴ッ!」


 その瞬間、越坂部は逃げ出した。ラオス人たちも彼に追随して行く。俺は「待ちやがれ!」と銃を構えるが、その引き金を引くことは無かった。


 何故なら。


 ――ズガァァァン!


 発砲音が響き、下っ端の一人が頭から血を流して倒れたのである。


「何だ……?」


 息を呑んでいると、さらに銃声が続く。次々に敵が崩れ落ちる中で姿を見せたのは意外な集団だった。


「恒元公のご領地を荒らすアホどもや! 加減は要らんで!」


「うっす!」


 本庄組だ。何処かしらか情報を聞き、たまたま総帥府を訪れていた本庄利政が手勢を率いて駆け付けたらしい。


 彼らは突然の乱入に動揺するシナドゥラ・メンタヴァへ襲いかかり、次々とその腕をへし折り、足を撃ち抜き、倒してゆく。ハッと我に返った俺は俺はすぐに彼女の肩を抱いて起こし、呼吸を確認する――意識はないものの、辛うじて息はある。だが、ひたいに浮かんだ汗が尋常ではない。恐らく相当無理をして出てきたのであろう。


 ここは病院に連れて行くべきだな。そう思った時、本庄が叫ぶ。


「涼平! 本庄組わしらの車に乗れや! 何があったかは知らへんけど、とりあえず病院まで連れてったる!」


 本庄が叫んだのである。俺は「恩に着る!」と返すと、彼女を背負い、公園の出口付近で待機していた黒いセダンへ飛び乗る。


「くそッ! 麻木ィィィィ! 覚えてろよォォォォ!」


「おっとぉ! おどれの相手はこのわしや! 今日こそ首ぃ獲ったるで! 越坂部!」


 短刀を抜いて切り合う二人の親分の啖呵を背中で聞いて、俺は勢いよく後部座席の扉を閉める。そうして車は猛スピードで高輪の病院へと走り出した。その振動に揺られつつ、俺は妻を気遣う。


「大丈夫か?」


 やはり、返事がない。どうやら気を失ってしまったらしい。


 華鈴、お前は強い女だ。俺なんかよりよっぽど強い女だ。何故ならば、こうして自ら危険をものともせず俺の元へ駆けてきたのであるから。だが、無理をしすぎた。


 華鈴、すまねぇ……。


 己の心に言い聞かせながら、俺は車に揺られた。


 高輪の中川叡智病院へ再び運び込まれた華鈴だったが、怪我ひとつ負ってはいなかった。また妊娠中の体で激しく動いたゆえに心配していたが、母体共に異常は無いようで俺は安堵した。


 ただ、大事を取って華鈴は暫く入院することになった。ベッドに横たわる華鈴を眺め、俺は嘆息をいた。


「……」


 結局、俺は甘かった。


 どれだけ強大な力を得たとしても、人間で居続けることができるはずも無かったのである。


 俺が人で居続けられるのは華鈴のそばに居る時だけだ。それ以外の時、俺は常に獣だ。


 それを認めたからといって、今さらどうなるわけでも無い。俺は既に沢山の人を殺してきた。


 ならば、俺は俺の道を行くのみ。たとえそれが人として生きる道を捨てることになったとしても――そんなことを考えながら、俺はベッドに寝ている妻の髪を撫でた。すると、その感触に気が付いたか、彼女はまぶたを開く。


「涼平……」


「起きたか」


 俺は椅子に腰掛けながら、彼女に問うた。


「気分はどうだ?」


「……うん。平気」


 そう答える華鈴だったが、その声に力は無かった。


「……ねぇ、涼平」


「何だ?」


「いや、何でもない」


 ぼんやりと天井を見つめ、華鈴は言う。


「……ごめん。ちょっと、ひとりになりたいかも」


 俺は「あ、ああ」と応じ、病室を出た。すると部屋の前でスーツ姿の中年男と遭遇する。ちょうど雅彦氏が到着したところだったのである。


「華鈴は? ど、どういう具合だい?」


「怪我は無い。ただ、ちょいと一人になりたいんだとよ」


 婿の簡潔な説明に、舅は「そうかあ」と胸を撫で下ろす。先ほど彼にはメールで一部始終を伝えてあった。されども、実際のところが気になって駆け付けたのであろう。


 ひとまず、俺は「茶でも飲みながら話すか」と言って、義父を1階のカフェテリアへと案内した。


 テーブルにつくや早速、雅彦氏は言う。


「幼い頃から喧嘩上手だった娘のことだから心配はしていなかったが、今は身重の上に心にも傷を負っている。これまで通りというわけにはいかなかったか」


「ああ……流れ弾が当たらんように俺も気を張ったが、精神的なものは防ぎようが無かった。もう暫くはなまぐせぇ場面からは遠ざけた方が良さそうだな」


 そう言ってから、俺は頭を下げた。


「すまなかった。またあいつを傷つけちまって」


 すると雅彦氏は首を横に振る。


「気にすることはない。君が華鈴の夫で良かったと思ってるよ。でなきゃ、今頃彼女は……」


 そう言いかけた時、病院の職員が給仕をしてくれた。注文した珈琲が置かれるや否や、彼は改まって話し始める。


「……何だか僕も気が緩んでしまってね。あんなにも華鈴が追い詰められていたことに気付かなかったなんて。父親失格だよ。まったく」


「そんなことは無い。華鈴にとってあんたは最高の父親さ」


「そう言ってくれると嬉しいよ」


 そこで雅彦氏は珈琲をすする。ひと口を飲み終えた後、彼は呟くように言った。


「僕としても意味が分からなかった。今朝の5時頃に病院から連絡が入って『娘さんを退院させますから迎えにいらしてください』と。てっきり、ぶり返したものと思っていたからね。また1ヶ月くらいは入院して治療するものと考えていたんだが……どうしたことか」


 雅彦氏の話から推し量るに、華鈴は父親が迎えに来る前に自力で帰宅しようとしたものと思われる。まあ、無事で何よりだ。先日の件に続いて病院の判断には首を傾げてしまうが……まあ、その辺は考えたところで無駄であろう。


 しかし、推考を打ち切る俺をよそに、雅彦氏はなおも続けた。


「奇妙な点は他にもある。先々週の退院の時は、病院の事務の人が連絡を寄越してきたんだ。でも、今朝は先生が直接」


「先生って、あの婆さんか?」


「うん。その時は酒に酔ってたから気にもしなかったんだけど……こういうことって有り得るものなのかな?」


「まあ、患者の治療における全ての決定権は主治医にあるから不自然ではない。いちいち事務員に伝える手間を億劫に感じたのかもしれない」


「そっかあ。そういう考え方もできるかあ」


 少し温度が下がった珈琲をぐいっと飲み、雅彦氏は俺に訊ねてきた。


「ところで、君はこれからどうするつもりだい? 中川親分に言われたんだって?」


 思わず心臓がドキッとうずいた。血の匂いにかまけて忘れていたが、俺は恒元から華鈴と離婚するよう迫られていたのであった。


「そりゃあ……」


 口ごもる俺を見て、雅彦氏は言った。


「正直に言ってくれ。どうせ彼女のためを思って、決断してくれたんだろう? 華鈴を守るために、今回も身体を張ってくれるんでしょ?」


 目の前に銃口を突き付けられたような気分に陥る。傭兵時代に味わって以来の緊張が俺の背筋を漂う。ひどく心が揺れている。そんな中で俺はコクンと頷いて答える。


「……まあな。俺にとっちゃ、あいつが全てなんだ。あいつのためなら何だってやるさ」


「ふっ。やっぱり、君に託して良かったよ」


「え?」


「華鈴には内緒だが、君たちの婚姻届を提出する時には胸が弾んでいたんだよ。『これを出せば娘は一生安泰だ』ってね。実際問題、ここまで腹と覚悟が据わった青年が今の日本にいるだろうか」


 買いかぶりすぎだ。思わず苦笑が漏れたが、一応は胸を張っておく。ひとまず、この場においては。


「当然だぜ。俺を一体誰だと思ってやがる。麻木涼平が惚れた女を捨てるわけがねぇだろ」


 そう応じると、雅彦氏は珈琲をすする。暫く沈黙が続き、再び口を開いた時、彼はこんなことを言った。


「ねぇ、涼平君。お願いがあるんだ」


「何だい?」


「もし可能なら、これからも君に華鈴の傍に居てやってほしい。娘を支えてあげてほしいんだ。齢48にして肝臓がボロボロの親父じゃあ、いつまでも傍にってわけにはいかないからね」


 予想外の申し出に俺は言葉に詰まるが、すぐに口を開いた。


「だから、俺はあいつと添い遂げるっての。地球上の全人類を敵に回してもな」


 冗談めかした返事をすると、雅彦氏は言った。


「うん。君ならそう言ってくれると思っていたよ。ありがとう」


「ああ」


「涼平君」


 そこで彼は居住まいを正して切り出す。


「娘と結婚して良かったかい?」


「良かったに決まってんだろ」


「僕としてはね。本当に幸せな日々だと思ったよ。涼平君が華鈴と家庭を築いてくれたことは、僕にとってかけがえのない喜びだった」


「おいおい、何だよ。そんな改まって……」


「でもね。最近になって思うようになったんだ」


 そこで彼は言葉を区切った。そして一呼吸ほど挟み込んでから話を続ける。


「父親として恥も外聞もあったもんじゃないが、娘には色々と問題がありすぎる。僕の遺伝子を受け継いじゃってる所為で、常に周囲でいざこざが絶えない。君の将来を思えば、むしろあの子は邪魔でしかないんじゃないかな」


「お、おい。何を言ってるんだ」


「あの子の頼みで君には伝えていなかったが、既に奥様倶楽部で華鈴は孤立状態にある。夢を叶えるために手段を選ばない僕譲りの性分の所為で、かなりの数の敵をつくってしまっているんだ」


「はあっ?」


「その件でこたえてた2月末に、追い打ちをかけるようにああいうことが起きた。こういう言い方をするのは親として良くないのかもしれないけど、華鈴にはだいぶ効いたみたいでね。あれ以来、華鈴は臆病になってたんだ」


「いや、そんな言い方をしたら華鈴が可哀想だ!」


「分かってる。曲がりなりにも実の父親が言うべきことじゃないってのはね。でも、どうしても考えてしまうんだ。弱者を救うっていう夢に命を懸けている涼平君にとって、今の華鈴は鎖になっているんじゃないかってね」


「そんなわけねぇだろ! あいつがいないと、俺は……」


 俺は叫ぶも、雅彦氏は「可能性の話さ」と言って笑って遮った。


「でもね。それでも、僕はね。涼平君には、華鈴の傍に居てほしいんだよ。僕にとって、あの子は大切な家族だから」


「俺だって同じだ。あいつは俺の人生の全てなんだ」


「ああ、だから、頼む」


 次の瞬間、雅彦氏は椅子を下りて床に膝を着いた。そうして、額を地面に擦り付けて懇願したのである。


「麻木涼平君。お願いだ。これからも華鈴と一緒にいてやってくれ。あの娘と添い遂げて、幸せにしてやってくれ。この酒乱親父の一生の願いだ」


 あまりの展開に俺は頭が混乱した。それでも必死に言葉を探してこたえる。


「ちょ、ちょっと待て! 俺はあいつと別れる気なんて毛頭無い。ただ、あいつが俺から離れて行くようなことがあれば、それは仕方のないことだと思ってるだけだ。何せ、俺にはあいつが一番大切なんだから……」


「分かってる。でも、涼平君。それでも君にしか頼めないんだよ。頼む。あの子の傍に居てやってくれ。あの子を幸せにしてやってくれ。あの子が君を嫌いになったとしても、娘から離れないでくれ」


「親父さん」


「あの不肖の娘を愛してくれるのは、この地球上で君しかいないんだ。頼むよ。涼平君」


 雅彦氏はそう言うと頭を下げて固まってしまう。どうして良いか分からない。困惑が頭を占めるばかりであった。そして、沈黙が10秒ほど続いた頃、俺は頷いた。


「ああ、分かったよ。約束する」


 すると、雅彦氏は頭を上げて微笑んだ。


「ありがとう。涼平君」


 その表情に、俺も思わず笑みがこぼれる。されども、すぐに真顔に戻って、俺は告げた。


「なあ、親父さん。俺からもお願いがあるんだが」


「何だい?」


「そろそろ頭を上げてくれねぇかい。あんたは気付いてねぇかも分からんが、さっきから注目の的になってる」


 気付けば、カフェに居た客は勿論、ガラス張りの壁を隔てた病院ロビーに居る全員が、好奇の視線をこちらに向けている。


「はっはっは! そうだろうねぇ!」


 俺がそう返すと、雅彦氏は立ち上がった。


「じゃあ、そろそろ僕は娘の病室に行くよ。君はどうする?」


「ちょいと出てくる。華鈴と添い遂げるために、考えなきゃいけねぇことが山ほどあるもんでな」


「そっか。また会おうね」


 雅彦氏は俺に右手を差し出してきた。それを握り返すと、彼は俺の耳元でこんなことを囁いてきた。


「君が中川親分に歯向かうというなら僕は全力で味方をする。こんな死にかけの親父でも人脈だけは豊富に持ってるから、皆で外国に逃げるくらいの伝手つてはある」


 思わず大きな声が出そうになった俺は、慌てて抑え込んで舅に応じた。


「そうならねぇように善処する。とりあえずはあいつの傍に居てやってくれ」


「分かった。君は本当に頼もしいな」


 微笑みつつ、雅彦氏は手を離した。そうして俺が頷くのを見た後できびすを返して歩き去って行った。とりあえず、俺は宮殿に戻るとするか。


 俺は中川叡智病院の正面玄関を出た。すると、そこで本庄組長と出くわした。


「越坂部は?」


「逃がしてもうた。椋鳥が潰れたと思うたら、まさかシナドゥラ・メンタヴァの幹部になっとるとはのぅ……そんなことより気にすることがあるんと違うか」


「ああ、さっきはありがとうな。本庄さん」


ちゃう。何であないことになったんのか説明せい」


「ああ、そっちか。すまねぇな」


 本庄が周囲の気配を窺いながら言うのに俺は応じた。やや声のトーンを抑えながら説明する。


「かみさんと公園で話してたら、いきなり囲まれてよ。俺も足を怪我してて本調子じゃねぇから苦戦してたんだ。あんたが来なけりゃ終わってたぜ。恩に着る」


「はあ? おどれのかみさんは入院してたんと違うか?」


「それが今朝、退院になったんだ。俺にもよく分からんが、病院の判断だ。尤も、退院してすぐにまた戻ってくるとは誰も思わなかったろうが」


 ゆえに、ちょっとした散歩へ連れ出したら中川会と敵対するシナドゥラ・メンタヴァに出くわしたと俺は言った。


「今日の一件で反省したぜ。散歩のつもりが区を跨いじまってたからなあ」


 首を傾げつつも、やがて本庄は頷いた。


「ほーん」


 無駄な詮索を為されなかったのは本当に助かった。他者の弱みには目ざとい本庄のこと、恒元に讒言されたらどうなるか分かったものではない。


「まあ、ええわ……これ以上は聞かへん。せやけどな、涼平。これだけは覚えときぃ」


「は?」


「女を幸せにしてやるのは男の仕事やけど、そいつが出来るのが必ずしも自分とは限らん。相手のためを思えばこそ、敢えて身を引いた方がええ時もあるっちゅうことや」


「な、何を言ってるか分からねぇぜ」


 俺は思わず声を上ずらせた。そんなこちらの様子に嘆息をこぼし、本庄は手を振った。


「ほなの」


 本庄は去って行った。


「……」


 村雨組の中川会傘下入りの情報を既に掴んでいるとは、つくづく本庄は恐ろしい男だと改めて感じる。


 だが、そのおかげで助かった。


「さて、これからどうするかな……」


 そう呟くと、俺は病院を出て暫し歩道を歩いた。やがて、近くの公園の駐車場へ入り、その隅に停められている公用車の脇で立ち止まる。


「はぁーっ……」


 思わずため息が漏れた。頭を掻きながら考える。


 どうすれば良い?


 いや、そんなことは決まりきっている。恒元を説得し、華鈴との婚姻を維持するだけだ。あの老爺を納得させる手段を見出さねばならない。


 だが、今の俺が何と言おうと狂気の帝王には通じないだろう。いくら「華鈴と別れるつもりはない」と言ったところで聞き入れてもらえるわけもない。しかも、今度ばかりは組織を取り巻く外交的な情勢も絡んでいる。もし、俺が華鈴と添い遂げようとするのであれば、それはつまり恒元に楯突くことになるのである。


 そして、あの老人は俺がそうすることで何が起こるのかを理解しているはずだ。


「……分からんな」


 ボソッと呟いた俺は車に乗り、ひとまず宮殿へと戻った。運転中に頭がめぐったが、やはり今のところは答えが出ない。ただ、本庄からの忠告のおかげで冷静になれた。


 華鈴が退院した理由は定かではないが、恐らく恒元の指示であろう。総帥は華鈴を俺から引き剥がしたいと思っているようだった。


 さあ、俺はこの老爺に対してどう出るべきなのか――考えてはみたが答えは見出せなかった。それは麻布から南青山を経由して宮殿に到着し、駐車場に車を停めて屋内へ入った後も変わらなかった。


「……」


 思考が硬直している。恒元を説得するすべが思いつかない。ただ、時間は待ってはくれない。既に正午の鐘が鳴っている。少なくとも今晩のうちに何らかの方策を見つけなければならないのである。


 俺は頭を捻った。


「……何とかしねぇと」


 その呟きが口から漏れる。そんな時だった。


「おいっ! 何だテメェはっ!」


「どこへ行く気だ! 止まれ!」


 にわかに騒がしくなった。何事かと思って周囲を見渡していると、吹き抜けとなったロビーに複数の人影が見えた。


「あれは……?」


 給仕女の一人が助勤たちに囲まれ、ジタバタと暴れている。その女は制服こそ身に纏っていたが、この宮殿で働く者ではないと一目で分かった。その顔に、俺は見覚えがあったのである。


 俺は階段で1階へ降りると、そそくさと近寄って声をかける。


「何の騒ぎだ?」


 すると、助勤の一人が俺に恭しく言った。


「この女がメイドに紛れて屋敷に忍び込んでおりました」


 俺が視線を向けると、彼女は俺の存在に気付き、泣き腫らした顔で叫んだ。


「お前の所為だっ! 麻木ーっ!」


 谷山たにやま理沙りさ。三浦半島に所領を持っていた谷山たにやま大輔だいすけの妻で、46歳の元キャバ嬢。俺は苦笑する他なかった――何故なら、彼女の夫の大輔は昨晩に粛清されたばかりなのであるから。


 如何にして宮殿に忍び込んだのかは存ぜぬが、おそらくは俺あるいは恒元に夫の復讐をせんと狙ったのであろう。


 俺は目の前の理沙をじっくりと眺めた。小太りで面長な風貌。確かに美人だが、46歳と聞くと老けているなという印象が先に立つ。そんな理沙はギリッと奥歯を嚙み締め、俺を睨みつける。


「お前さえいなければ! お前がうちの人を理事に推薦したりしていなければ!」


 続けて、彼女は俺に向かって吼えた。


「あんたさえいなければ、大輔は死なずに済んだんだ!」


「ほう」


「全部、お前の所為よ! お前の!」


「何を訳の分からんことを」


 俺は眉をひそめ、理沙を見つめた。なおも彼女は声を張り上げる。


「とぼけるな! あんたのクソ妻に勧められていなければ、私だって夫が理事になるのは反対だった! うちの夫を敢えて分不相応な理事の座に就けて悪目立ちさせて、体よく始末しようって魂胆だったんだろっ! 最初から!」


「……」


「何とか言え! 成り上がり者の若造が!」


 理沙を取り押さえる助勤たちが「誰に向かって口を聞いてやがる!」と激昂するが、彼らを「まあまあ」と制し、俺は哀れな未亡人を冷ややかな目で見つめた。


「組織の人事は恒元公のお考えによってのみ決まる。それ以上でもそれ以下でもない」


「自分が盃を呑ませた男を捨て駒みたいに……あんた、人の心が無いの!?」


「あの時点で盃を呑ませてやっただけでも温情だ。お前の夫は、本来ならば何処にも居場所が無い人間だったんだからな」


 理沙は唇を噛む。俺は冷ややかな態度で応じる。


「さて、谷山理沙。お前は浅ましくも恒元公の宮殿に土足で踏み入った。それが何を意味するかは分かるよな?」


「……殺せ! 早いとこあの人のところへ送ってちょうだいっ!」


「言われなくてもそうする」


 鼻を鳴らすと、俺は近くに立っていた秋成に申し付けた。


「この女を始末しろ。徹底的に痛めつけた後でな」


 すると秋成は「はいっ!」と笑顔で返事をして、他の助勤たちと共に理沙の髪を掴んで奥へ引きずって行った。そして暫くすると、廊下の方から女の悲鳴が聞こえてきた。


「ひゃあああぁぁぁああぁぁぁーっ!」


 まあ、良い。


 俺は何も考えずにオフィスへと向かい、自分専用の机についた。


 そして暫くデスクワークをこなしていたが、どうにも集中できない。頭の中に華鈴のことが浮かんでしまう。彼女は俺の知らないところで俺のために尽くしてくれていた。その過程で権力という名の魔物に憑依されたが、あいつは自分の力で振り切った。かつての己を忘れ、今もなお激流に溺れたままの俺とは違う。思えば、俺はだいぶ変わってしまった。寄る辺なき者を救うだ何だと抜かしていた男が、今やすっかり殺人鬼の側面を色濃く曝け出しているのである。


 ため息を吐くと、俺は背もたれに寄りかかる。窓の外を見やりながら考えてみるも、やはり答えは見つからない。そんな折に珈琲を持ってくる者がいた。鮎原である。


「どうぞ」


「ありがとうよ」


 執事局次長助勤の中では最年少の鮎原。彼が淹れてくれた一杯を飲む。美味しい。


「慣れてきたんじゃねぇか。豆の味が引き立っている」

 そう褒めると、鮎原は頷いた。


「華鈴姐さんのご指導の賜物です」


「えっ……ああ、そうだったな」


 浜松に布陣していた頃から、鮎原は何度か華鈴と話す機会があったらしい。そこで珈琲の淹れ方も教わったようだ。


「姐さん、本当に優しくて。僕が何度も同じところをミスっても、嫌な顔ひとつせずに『こうやれば良いと思うよ』ってアドバイスをくれて」


「まあ、面倒見が良い女だからな。あいつは」


「ええ……何だか、僕のお母さんみたいです……」


 その言葉に俺は目を丸くすると、鮎原は慌てて「変な意味じゃないですよ!」と取り繕う。苦笑しつつも「分かってるさ」と応じる俺に、彼は頭を下げた。


「すみません。変な意味じゃないにせよ、変なたとえをしてしまって。母を思い出してしまったもので、つい」


「ほう? お前のお袋が華鈴に似ているのか?」


「ええ。優しかったです。僕が小さい頃に、父の暴力に耐えかねて家を飛び出して行ったきり会えてませんけど」


「そうか」


 華鈴から滲み出る母性については、確かに俺も感じていた。同じ時間を過ごしているだけで、自然と心が安らいでゆくような感覚をおぼえる。男が女に対して欲するのは、もしかするとそういう部分なのかもしれない――という俺の持論はさておいて。


 鮎原が再び口を開く。


「それに、姐さんは誰かが困っているのを見かけると、すぐに声をかけてくれて。それで助けてもらった人もいっぱいいて」


「まあな。俺と出会った頃から、そういう奴だったからな」


「はい。姐さんを見習って、僕も人助けができる人になりたいと思ってるんです。それで今後は姐さんの旦那さんである涼平さんに師事させていただいて……」


 そこで一度言葉を切ると、鮎原は意を決して訊いてきた。


「……姐さんは、大丈夫なんでしょうか?」


 俺は鮎原の目を見ながら「ああ」と静かに答える。


「あいつは大丈夫だ。心配いらない」


 すると、鮎原は顔を綻ばせた。


「良かった。安心しました」


 そうして彼は「失礼します」と頭を下げた。そのまま退室してゆく姿を見送ると、俺はひとちた。


「……ああ、本当にあいつは大丈夫だ。俺が守る」


 鮎原が淹れてくれた珈琲を飲みながら作業を再開すると、今度は心が落ち着いて集中できた。些末な事を考える暇も無く、午前中からかさばっていた報告書の山を一気に片付けることに成功した。だが、それは華鈴との関係を続ける具体的手段について何も案を出せぬまま夜を迎えたことを意味していた。



 昼間の本庄の態度から考えるに、村雨耀介が次女の婚礼を傘下入りの条件として提示したことは既に他の組も把握しているだろう。迂闊な振る舞いをすれば、すぐに恒元の耳に入ると考えるべき。ここはあまり時間をかけず、一刻も早く動いた方が良さそうだ。


 しかし、動くと云っても何を――櫨山重忠は恒元が寵愛していた男。勝手に殺せば、いくら俺とて怒りを買う流れは避けられないであろう。


 現状の打破による婚儀撤回が不可能となると、次に思い浮かんだのは華鈴と共に海外へ逃げてしまうこと。恒元が合衆国政府と通じて権力を得ている以上、米軍基地を置いている国は安全と云えない。よって逃げ込むならばアメリカの非友好国、冷戦時代に敵対していた所謂『東側』の国々が良いであろう。特に東欧は現在もアメリカと国交を結んでいない国が多いため、身を隠すならば絶好の立地である。


 いや、待てよ……?


 かつて東欧で傭兵稼業をしていた俺を恒元は見つけ出し、迎えまで寄越している。たとえアメリカの敵国と云えども気は抜けない。


「いやあ、どうすれば良いんだか」


 思わず言葉が漏れてしまった、直後。不意に声が聞こえた。


「次長」


 鮎原である。時計の針は17時39分を示している。我に返って「何だ?」と応じた俺に、年若き助勤は戸惑いがちな面持ちで語った。


「眞行路一家の理事長補佐が『お会いしたい』と……」


「眞行路の理事長補佐?」


 きょとんとしつつも、俺は「通してくれ」と答えた。珍妙もこともある。一体、何を改まって用事があると言うのか。暫く待っていると、スーツ姿の青年が姿を見せる。


「麻木次長。お前と話がしたくなった。ちょっと良いか」


 古田ふるた真琥郎しんくろう。年は俺と同じくらい。銀座の五代目体制を武力で支える闘将だ。


「そりゃあ、まあ構わねぇが」


 前々回は露骨な敵意を向けてきたというのに、今日は何だか普段と雰囲気が違う。俺が首を傾げるのに、彼は「単刀直入に云うと人生相談だ」と答えた。


「人生相談? 悪いが、俺はテメェの愚痴だの何だのを聞いてやれるほど暇じゃ……」


「お前にしか出来ないことだ。俺と同じくきょう八流はちりゅうのひとつを究めたお前にしかな」


 京八流――その単語を部下の前で使われ、俺は眉間に皴を寄せた。俺は「場所を変えるぞ」とオフィスから出るよう促す。そうして宮殿の裏庭の林へ赴き、そこに設けられた東屋で向き合った時、古田は改まった態度で口を開いた。


「俺と戦ってくれないか。体がうずいて仕方ないんだ」


 俺は真顔で「はあ?」と訊ね返す。すると、古田は即答した。


「強い奴と戦いたい。戦いたくて仕方ないんだ」


「ちょっと待て。いきなり何を……」


「麻木涼平! 俺と戦え!」


 古田は真剣な眼差しで言うのである。俺は呆気に取られて言葉に詰まるが、すぐに頭を切り替えて質問する。


「……仮に、ここで俺とやり合ったとして。テメェにとっては何のメリットもぇぞ。そいつを分かって言ってんのか?」


 古田真琥郎は京八流のひとつ、大江おおえ金剛こんごうりゅうの使い手だ。この大江金剛流とは平安時代後期に創始された合気柔術の流派である。合気道や柔道といった一般的なスポーツ化された武術ではなく、あくまでも実戦に特化した技のみを伝承する純戦闘技術。相手の関節を徹底的に破壊する関節技や、如何なる角度から攻め込まれても易々となす投げ技の妙で名高い。


 しかし、鞍馬菊水流には及ぶべくもない――そう俺は思っていた。されども古田にとっては違うようだ。


「メリットは大いにある。お前を殺すことが出来る。同時に俺は鬱陶しさから解放される。『自分より強い人間が存在するかもしれない』という鬱陶しさからな」


 古田の答えに、俺は呆れた態度を隠さず嘆息した。


「その過剰な自信はともかく。ここで俺に手を出せば、あんたのあるじは総帥のお怒りを買うんじゃねぇのか?」


 ところが、その質問にも即答が返ってきた。


「大丈夫だ。今、ここでお前を殺し、その後で総帥を殺す。そうすれば眞行路秀虎の天下が到来する。何も問題は無い」


 刹那、息を呑まされた。古田の瞳の輝きと、唇の震え。決して生半可なことを言っている人間の顔ではない。衝動に突き動かされた、狂気の佇まいだ。


「……麻薬ヤクを吸ってるようではなさそうだな」


 古田は「当然だ」と返す。そうして、瞬間的に構えを取って言い放つ。


「さあ、来いっ! ここでお前を殺してやる!」


「ふっ。馬鹿な男だ」


 俺は一歩、踏み出した。すぐさま古田は襲いかかってきた。


「はあっ!」


 俊敏な動きで接近し、蹴りを放ってくる。鋭い一撃であったが、その程度の速さで俺を捉えられるわけもない。俺は古田の足を掴んだ。そうして軽く引っ張ると、彼はバランスを崩して地面に尻餅をつく。


「ぐっ……」


 古田は痛みを堪えるように顔を歪ませた。しかし、その挙動は奴の罠だった。何故ならば、次の瞬間には俺の右腕が古田に握られていたのであるから。


「ぐおっ……!」


 腕を折られまいと踏ん張る。すると、奴は「ふん!」と俺の懐に入り込んできた。そこから流れるような動きで拳を放ってくる。素早いジャブに、俺は防御を間に合わせられない。ボディーブローを受けた俺は息を吐き出した。そのまま畳み掛けるように殴打を加えられる。そして最後の一発はアッパー。あごが弾けてのうしんとうを起こした俺に、奴は「終わりだ!」と叫んで蹴りを放った。その威力に俺は仰向けに倒れる。


「うぐあぁっ……!」


 あごと首へのダメージで俺は動けなくなった。仰向けの俺に向かって、古田は襲い掛かる。その勢いのままマウントポジションを取ると、俺の喉に両手を伸ばしてきた。絞め殺すつもりだ。


「うぐっ……!」


 その力に呼吸を封じられ、俺はもがく。そんな俺を見て、古田は勝利を確信したような笑みを浮かべるが――甘い。俺は一瞬の隙を突いて、古田の顎を下から掌底で突き上げた。すると、古田は大きく仰け反った。その隙に立ち上がると、俺は奴の左脚を蹴飛ばした。それにより奴は体勢を崩し、仰向けに倒れる。


「ぬぅっ……」


 うなり声を漏らす古田。歯が何本か折れているが、見事なものである。鞍馬菊水流の真髄である衝撃波を食らわぬよう、俺の攻撃に先んじて回避行動に出ている。超音速の身のこなしは鞍馬菊水流独自のものではない。分かっていたことだが、改めて相対してみると面倒なことだ。


 されど、面白い。俺は興奮を催してきた。気付いた時には奇声を上げていた。


「ふははははははっ! 良いぜぇーっ!」


 俺は地面に倒れた古田に馬乗りになり、躊躇なくパンチを繰り出した。


「はああぁっ!」


 俺の拳が、古田の顔面にめり込む。肉が潰れる感触と共に、骨が砕ける音が聞こえる。古田の鼻が折れ、血が噴き出す。俺はそのまま腕を振り上げ、奴の顔をさらに殴った。2発、3発、4発、5発――その度に古田の顔が歪み、歯が飛び散り、血が流れた。


 凄惨な光景。だが、俺は手を休めない。


「殺す! 殺す! 殺す! 殺す! 殺す!」


 何度も殴り続ける。一方の古田は声も出さない。そこで俺は一旦動きを止めた。血だらけになった古田の顔を覗き込み、俺はたずねる。


「どうだ? まだやるか?」


 すると、古田はゆっくりと頷いた。


「……ありがとう。ってくれ」


 俺は思わず笑みをこぼした。同時に、自分のうちひそんでいた獣が解き放たれた事実を感じた。俺は、ゆっくりと立ち上がる。そうして、倒れている古田に背を向けた。


「ふはっ」


 思わず、笑い声が漏れた。同時に、俺の全身から力が湧いてきた。体の中で何かが弾けるような感覚があった。それは、紛れもなく殺意と呼ぶべき衝動。その衝動に突き動かされ、俺は古田に向かって再び殴りかかろうとした。その時だった――不意に、古田が血を吐いた。


「ぶぐぅぅぅぅぅ!? げぼぇぇぇぇぇぇぇっ!?」


 寝そべったまま、噴水のごとく血飛沫と吐瀉物としゃぶつを噴射する古田。俺は思わず「うおっ」と身を引いた。そんな俺に構わず、古田は仰向けのまま嘔吐し続ける。


「ぶぼぉぉぉぉっ! げはッ! ぶぅおぇぇぇぇーッ!」


 俺は「何だ?」と呟くも、すぐにその理由に気付いた。俺のパンチを受けた際に胃袋も一緒に破裂したらしい。やがて古田は沈黙した。


「……」


 息絶えている。その顔は圧倒的な満足の色を纏っていた。少しの苦しさも感じない。むしろ全てから解き放たれたかのような心地良さが、そこにはあった。


 瞬間的に俺は悟った。古田は武人としての宿命からの解放を切に願っていたと。古田真琥郎は俺と同じく戦いの世界に生きる人間。京八流のひとつ大江金剛流の使い手であるこの男は、己の最強を実現しなくてはならない。だが、そんな精神的負荷に耐え切れなくなって、奴は命を絶つことを願ったのであろう。その最期があっさりしすぎているのも、本人の理想通りというわけだ。


「……ふっ」


 俺は小さく笑い声をこぼす。そうして詰め所へ戻ると、部下たちに死体の処理を頼んだ。


 たぶん、眞行路秀虎の差し金ではないだろう。あれは間違いなく古田本人の意志だ。


 とはいえ、下手をすれば総帥の怒りを買うところであった。だが、その懸念は俺が持つべきものではない。秀虎が下知を出して俺と古田を衝突させたわけではないのであれば、何も問題はない。


 その後、俺は報告のため恒元の部屋に入った。恒元は上機嫌な表情を浮かべていた。


「ご苦労であったな」


「お褒めいただき光栄に存じます」


 俺は頷いた。すると、恒元はニヤリと笑った。そして言った。


「これからも頼むぞ……げふっ」


 そこで俺は深く頭を下げてから退室する。そうして宮殿を出ると、またまた詰め所へ戻る。


 ああ、こんなことをしている場合ではなかった。華鈴との婚姻を維持するための手立てを考えなくてはならないというのに。恒元が昼酒に酔っ払っていたおかげで助かったが、そろそろ華鈴に別れを切り出したのか云々と訊かれる頃合いだ。


 何とかしなくちゃな……。


 まあ、その辺は後から考えるとして。


 とりあえずは日本を脱出する手段を模索するとしよう。俺は自然な流れで端末を取り出し、とある人物へ連絡を繋いだ。


「よう」


『どうしたんだい?』


「ちょいと相談してぇことがあってよ。今から会えねぇか」


『構わないよ。そういえば今月は飲みに行ってなかったね』


「そうだったな。じゃあ、錦糸町のいつもの店で良いか」


『勿論。21時には着けそうだ』


「分かった」


 誘いに応じてくれたことにほくそ笑み、端末を閉じてから1時間後。俺は錦糸町のバー『STRAY』の扉を開いた。


「いらっしゃい。お見えでございますよ」


 バーテンダーにカウンター席を指定され、俺はそこに座るなりいつもの銘柄を頼む。暫くしてダブルのウィスキーが運ばれてきた。肴はフィッシュフライが山のように盛られた皿が一つのみ。この店における定番だ。


「それで、相談とは何かな」


 俺の隣に座る男――菊川塔一郎は俺に訊ねた。その表情は例によって含みのあるものだった。


 こんな時は前置きを挟まずに直球で本題をぶつける方が話が進みやすい。軽く息をついてから俺は本題を投げた。


「この世界から足を洗いたい。あんたの知恵を貸してくれ」


「藪から棒にどうしたのかな」


 グラスに口をつけながら、菊川は失笑を吹いた。


「これ以上、うちの総帥のご命令には従えないと感じた。あんたなら何か良い案を持っているんじゃないかと思ってな」


「ボクに組織を抜ける手伝いをしてくれというのか……ひとまず相談には乗ってやるが。一体、何があったんだい?」


 村雨組の若頭である彼は状況を全て把握しているだろうに。わざとらしい言い方に眉根を寄せながらも俺は口を付けぬままグラスを傾けて言った。


「あんたも知っての通り。おたくの組長の娘さんを嫁に貰えって言われててな。だが、俺は華鈴のことを心から愛している。いくら総帥のご命令だろうと捨てられねぇよ」


「まあ、そうだろうね。うちの朋友はキミを婿として取ることにこだわってるんだ。あの三浦半島の親分たちをにくにするだけじゃ飽き足らないよ」


「だから、逃げてぇんだ。もう限界なんだよ」


「限界?」


「俺は今まで、あの御方のお命じになるままに沢山の人を殺してきたが、全ては単に『愛する女と共に抱いた夢を叶える』って目標があったからだ。そいつがあったからどんな所業も嬉々としてやってのけたが……今回ばかりは従えねぇ。あの人が俺の大切な人を奪おうとするなら、俺は全力で抗うだけだ」


「確かに、悩ましい話だよねぇ」


 すると菊川はグラスを回して氷をカラカラと揺らしながら言った。


「そうだなあ……ボクにも責任が無いわけじゃないよ。キミという優秀な人材をみすみす中川恒元に譲ってしまったんだから。しかし、それはそうすることで朋友を救おうとしたキミが選んだ道だろう?」


「まあ、そうだ」


「そして、もっと云えば中川恒元の側近として冷酷無情の殺し屋になることを選んだのもキミ自身だし、この世界で『血まみれの天使』と呼ばれることを選んだのもまたキミだ。違うかい?」


「ああ……」


「なら、弱音なんか吐かないでさ。最後まで己の道を貫かなきゃ」


 菊川の正論に、俺は歯噛みした。華鈴と共に抱いた理想を叶えるという目標こそあれど、今の道を選んだのは確かに俺だ。逃げ出すならもっと早くに足を洗っているべきだったし、振り返ってみれば、組織を辞める好機は今までに何度となく訪れていた。


 それこそ『血まみれの天使』の異名が付けられるより前に幾度もあった。にもかかわらず、俺はその都度組織に身を捧げることを選んできた。裏社会を生きる中で己の信念が揺らぎ始めたと率直に打ち明ければ、かつての華鈴とて反対はしなかったであろうに。


 されど、俺は弱音を吐いているわけではない。知恵を乞うている――その旨を「別に弱音なんかじゃねぇよ」と反論すると、返ってきたのは思いもよらぬ言葉であった。


「いや、キミは弱音を吐いているだけだ。ボクに話すことで気をまぎらわすために」


「違うと言っているだろ。時間がぇんだから、真面目に答えてくれや」


「違わないね。何故ならキミは、そもそも今回の件をどうにかしようと思っていないからさ」


「はあ!? 何を……」


 その瞬間、懐中の端末が震えた。菊川に「ちょっとすまん」と声をかけてから開いてみると、1件のメッセージが入っている。雅彦氏からだ。


【華鈴が退院することになった。入院の必要はありませんって言われた。主治医の先生が急に辞めちゃったそうで、新しい先生に代わっていた。どうにも妙なものを感じる。僕の取り越し苦労だったら良いけど、万が一ってこともあるから、明日の早朝に華鈴を外国に逃がそうと思う。仕事が片付き次第、涼平君はカフェに来てくれ。具体的なルートについて直接話すから。なるべく早く頼んだよ】


 俺は嘆息を吐くと、素早く返信を打つ。


【分かった】


 その後、端末を閉じると菊川に向き直った。彼は俺の動作を不敵な眼差しで眺めていた。例によって、こちらより先に会話を再開した。


「本当は理解しきっているはずだよ。『どう抗っても中川恒元には勝てない』って。さらに云えば、今回の件はキミとしてはむしろ乗り気なんだろ。村雨耀介の娘を娶ることで、裏社会における自らの地位を盤石なものに出来る」


 菊川の言っている意味が分からず、俺は困惑と混乱に包まれる。そんな若き暗殺者に、若頭は下品な笑みと共に続けた。


「そうなければ、この状況でボクに会ったりはしないはずだ。よりにもよって、村雨耀介の右腕なんかに。組織を抜けるための知恵を借りたいなら、自前の戦力を持つ藤城琴音やマリア―ヌ・ヴァロアあたりに相談するのが良いだろうにね」


「あんた、何を……」


「藤城琴音はともかく、マリア―ヌ・ヴァロアは恒元公と敵対しているからね。自分の命と引き換えにでも助力を乞えば、少なくとも華鈴ちゃんを大陸へ逃がす手伝いくらいはしてくれるはずだ。だが、そうしないのはキミに端から組織を抜ける気が無いからさ」


「……違う」


「そして、キミはこうも考えている。『菊川塔一郎と会えば過去に村雨組を裏切った記憶が脳裏をよぎり、妻を捨てる自分への嫌悪感が薄れる』と」


めてくれ」


「第一、華鈴ちゃんの夢が叶うわけもない絵空事だってことにも気付いているんだよね? 現に、キミは彼女の活動にさほど協力的ではなかったわけだし?」


 俺は首を大きく横に振った。


「頼むから、めてくれ」


 されども菊川は続けた。


「そもそも弱者を救う云々は中川恒元の非道を正当化する大義名分に過ぎない。人を殺すことで生じる自己嫌悪を綺麗な夢物語で覆い隠しているんだよ」


「……」


「叶うはずもない夢を追い続けるのは、他ならぬキミ自身が今の状況に酔っているからさ。本当は人を殺せることが楽しくて仕方ないんだろう」


「……」


「だから、キミは今の状況から抜け出す気が無い。これからも中川恒元の影に隠れて、殺戮を心から楽しむために」


「……」


 俺は無言で俯いた。すると菊川は笑う。


「どうやら狂っているのは、この世界でもなければ中川恒元でもなく、キミ自身のようだね」


 そうして彼は続けるのであった。


「中川恒元はアメリカ合衆国政府と親密な関係を築いている。たとえ中川会を討ち滅ぼしたところで、奴を庇護するアメリカが無尽蔵に送り込むCIAの暗殺者を相手に何処まで立ち回れるか……勝算が無いことは、キミ自身もよく分かっているはずだよ」


 だが、なおも俺は菊川にすがった。苦しさと虚無感に、情緒を突き刺されながら。


「頼む……助けてくれ」


 しかし、菊川は「その図太さは誰に似たんだか。尊敬するよ」と笑うだけだった。そうしてさらに続けてくる。


「キミが素面しらふだったら、少しは朋友にかけ合うなり、恒元公への誤魔化し方なりをレクチャーしてあげても良かったんだけどさあ。その酒の進み方を見るに、随分と乗り気のようだから」


 もはや返す言葉など無い。今宵は一滴も飲まないと決めていたのに、気付かぬ間にグラスの中のバーボンが空になっていた。あまりにも空虚な沈黙に身を委ねて俯く俺の肩を優しく叩き、菊川は言った。先ほどと寸分も変わらない色を纏った笑みを浮かべて。


「まあ、今夜は飲もうよ。村雨組が中川会の傘下に入る記念の宴なわけだし」


「……」


「横浜で減らず口を叩く連中は黙らせておくから安心してよ。『村雨組を裏切っただけに飽き足らず自分の妻まで裏切った男』なんて風聞は広まらないようにするからさ」


 菊川は指を一本立てた。ただ、俺は鬱屈とした気分を酒で流し込むとため息をつく。


「あんたは人が悪いぜ。昔から、ずっと」


 すると菊川は満足げに鼻で笑った。


「褒め言葉として受け取っておくよ」


 こんな精神状態で酒を味わったところで何も面白くはない。だが、それでも飲まずにはいられなかった。俺はグラスになみなみと注いだバーボンを飲み干してゆく。


 やがて、その味は苦くなっていった。


「お代わりを」


 マスターにそう言ってから、菊川へ向き直った。


「それで? 例のお嬢ちゃんはどういう女なんだ?」


 すると彼は「興味津々のようだね」と口角を上げる。そしてこう続けたのだった。


唯愛ゆあちゃんはね、とても可愛らしい子さ。まるで小動物のようだよ」


「小動物?」


「ああ。小動物と云うと語弊を招くかもしれないね。彼女は、そう……非常に大人しい」


「ほう」


 俺は頷いた。物静かな性格をしているというのであれば、小動物なる表現は的を射ている。


「しっかし……不思議なもんだな」


「何が?」


「今までに会ったことも無い女と、いきなり結婚するってのは」


「まあ、政略結婚と云ったらそんな感じでしょ」


 菊川塔一郎は肩を竦めてから続けた。


「ボクだって唯愛ちゃんとは数えるくらいしか会ったことが無い。でも、彼女はどこかかれるものがあるというか……何というか。人に言うのは憚られるが、不思議な人だよ」


「さぞ美人なんだろうな。古今東西の物語に登場する姫君のように」


「うん、そうねぇ……まあ、そうだね。年齢相応の可愛さがあるのは間違いない」


「ふふっ。笑っちまうな。よもやこの俺が女の見た目なんぞを気にするようになろうとはなあ」


 俺は苦笑交じりに呟きを漏らす。そうして酒をあおった。


 そこへ菊川が「早く彼女を手に入れて、華鈴とかいういやしい女なんか振っちゃいなよ」と言ってきたので、俺はさらに苦笑に耽った。


「別に卑しくはねぇよ……」


「だが、大して高貴でもない家柄の娘なんだろ?」


「じゃあ、その俺が嫁に貰う嬢ちゃんはどういう家柄なんだよ」


「聞いたところによると江戸時代の堂上公家に連なる家柄らしい。世が世なら左右の大臣を輩出するくらいの名門だったとか」


 想像の斜め上の答えが返ってきたので、俺は思わず口をあんぐりと開けた。


「はあ!?」


 江戸時代に大臣を世襲していた家柄と云えば高級中の高級だ。もしかすると和泉前官房長官の実家と同等かもしれない。そんなところの息女が何故に極道の親分と関係を持つに至ったのか。


 気になって訊ねずにはいられなかった俺だが、そこへ返ってきた答えもまた想像の斜め上を行くものだった。


「まあ、その家柄のお嬢様がどうして朋友なんかと関わりを持ったのかはボクにもよく分からない」


「あんたも知らねぇのかよ!」


 思わず突っ込んでしまった俺だが、菊川はさして気にする様子も無く続けた。


「ただ、まあ、これは僕の想像だけど。きっと親に愛されなかったんじゃないかな」


「複雑な経緯が?」


「いやね、唯愛ちゃんのお母上の生い立ちをちょっと調べさせてもらったんだけど……どうも彼女は幼少期から『天才児』として名を馳せていたらしいんだよね。若くして様々な知識や技術を習得する一方、周囲とは諍いが絶えなかったって」


「ほう?」


「協調性の欠如ってやつだねぇ。そういう女の子ってのは古風な家じゃ嫌われることが多いからさ。家族と上手くいかなくなって家出した挙げ句に娼館へ身を落とし、そこで働くうちに村雨耀介と出会って彼の子を儲けたって話だ」


 その説明に俺は一瞬ばかり眉をひそめたが、やがて菊川の云わんとすることを理解した。


「なるほどな。つまり、その嬢ちゃんには母親の高貴で優秀な遺伝子と血が備わってるってわけだ」


「うん。そう考えると、今回の件は魅力的な話だとは思わないかい?」


「確かに……」


 俺がコクンと頷くと彼は笑い、一度カウンターに置かれたグラスを手に取った。琥珀色の液体を喉へ流しつつ彼は言う。


「ただ、女というのは概ね馬鹿だと思う」


「……はあ」


「いや、別にボクが女を見下しているというわけじゃないんだよ? ただ、女は感情的だし、時として理屈が通用しなくなる。そして、それは時に男よりも面倒なものだ」


「……まあ、な」


「だから、無理に仲良くなろうとは思わない方が良い。キミは唯愛ちゃんとはこれまで話したことも無いし、そもそも彼女はキミという人間を知らない。そんな男と突然結婚しろと言われて『はい』と頷く人間がどれだけいると思う? 少なくとも、ボクはそうは思わないね」


「……」


「ボクとしては愛人を持つことを強くお勧めするよ。妻とは別に気を許せる女性をね。その辺りは朋友も理解しているから」


 まだ二度目の結婚をしてもいないというのに、もう妾の話か。少しばかり気が滅入りそうにもなったが、俺は菊川の話に耳を傾けていた。


「どうしても女が欲しいなら、誰か一人を選ぶんじゃなくて、遊び相手には誰を選ぶかっていう発想にした方が良い」


「そういうもんか……」


「そうそう。趣味が合えば気が合う、息が合うっていうのと同じさ」


「まあ、確かにな」


 こうして酒宴は続き、俺は菊川の言った通り極上の泥酔状態に陥ったのであった。


 一体、如何ほどの酒を飲んだことか。少なくとも記憶は曖昧で、どうやって店を出たのかすら定かでない。


 意識を取り戻した時、俺は路上をふらふらと歩いていたので、理性を欠きながらも感情を済ませて菊川と別れたのだろうと勝手に思い込んだ。


 酔った勢いで8キロも歩いていたとはな……。


 ふと携帯を開くと時刻は3時38分。夜とも朝とも云い難い不思議な時間帯。夜空は少し白みかけている。


 電柱やビルの壁によりかかって寝息を立てる酔客を避け、無言でアスファルトの上を歩く俺。そんな中で不意に頭の中で過去の記憶が再生される。


 それは俺がまだ日本に戻ったばかりの頃のこと。夕飯のために訪れた赤坂三丁目の『Café Noble』で出会ったのが華鈴だった。その時の俺は、まさかその女が後々に自分の妻になるとは思いもしなかった。しかし、そんな出会いから3年が経過し、今では互いに心を許し合える仲となったのである。


 俺が稼業の男と分かった時、華鈴は激しく俺を罵り、店から叩き出した。あの時は本当に肩が落ちた。もうこの娘とは仲を深められぬものと思っていた。それが赤坂地区で蠢く陰謀の打破に奔走した折に共闘したことがきっかけで、戦友とも云うべき存在になり、やがて恋人に関係が進み、最終的に結婚した。まったくもって人の世は分からない。


 それからの日々は、本当に幸せだった。二人で住居を共にし、同じ時間を共有し、同じベッドで眠り、同じ食事を取り、同じ笑顔を交わし、同じ夢を見て――その果てに、俺は自分の人生で久方ぶりに愛というものを感じた。あいつに出会わなければ、俺は一生、愛の意味も理解できぬままだったろう。


 沢山の人を殺したおかげで、血まみれの天使として裏社会に名を馳せながらも、華鈴と共に過ごす時間だけは、かけ替えのないものだった。


 だが、それも今日で終わりだ。俺は新たな道へ進もうとしているのであるから。


「……」


 そう考えた時だ。ふと、俺は足を止めた。


 本当にこれで良いのか? 愛する女と別れて本当に良いのか?


 ここで華鈴と離別したら、これから先は誰が俺の心を温めてくれる?


 如何に抗ったとて中川恒元には逆らえないにせよ、最愛の妻を捨てて村雨むらさめ唯愛ゆあなどという会ったことも無い女に心を奪われる理由がどこにある?

 自問自答を何度も繰り返すうちに、俺の中に迷いが生じ始めた。その迷いはやがて、大きな後悔へと変わる。


「俺は……どうすれば……」


 思わず呟いた時、凄まじい確信へとたどり着いた。


 まだ間に合う――その瞬間、俺は己の過ちに恐怖した。狂った男の囁きにまんまと乗ってしまったことを恥じ、後悔した。あんな人間の戯言など聞いておくべきではなかった。


 まだ、俺は華鈴と共に歩める。ここで華鈴と別れてしまえば、永遠に暗黒の帝王に従うことになるし、それは同時に俺の夢が破れることに等しい。


 そんなことは断じて出来ない。


「華鈴」


 俺は呟いた。


「……俺は、まだ諦めねぇぞ」


 そう、これは俺の人生だ。俺が歩むべき道だ。その道を他人に委ねるなど、言語道断である。


「華鈴!」


 今度は叫んだ。そして、再び歩き始めると、俺は端末を開いた。連絡を試みた相手は無論、最愛の妻だ。


 だが、回線が接続されない。


 華鈴。今すぐお前と話したい。頼む! 今どこにいるんだ!?


 俺は幾度も華鈴へ通信を試みた。しかしながら一向に接続される様子は無い。そうこうしている間に別の通信が入った。


 今宵、宮殿を守衛している助勤だ。


『もしもし、次長?』


「……どうした」


 妙な予感が胸をよぎる。唾を呑み込みながら用件を尋ねると、部下は平然と続けた。


『今さっき三丁目の喫茶店で酔った男が暴れてるって連絡が入ったんですけど、そこって次長が行きつけのカフェですよね?』


 思わず胸が竦んだ。


「ど、どういうことだよ。男が暴れてるって」


『分かりません。今、本家に人を寄越してくれって連絡が入ったばかりで……次長、どこにいらっしゃいます?』


「大手町の辺りだ。すぐに向かう」


 俺は端末を閉じるなり、舌打ちをした。


 胸が音を立てて鳴っている。俺は端末をポケットに突っ込むと走り出した。


「華鈴、無事でいてくれ……」


 その願いと共に、俺はひたすらに夜の街を駆けた。

「華鈴と離婚せよ」と絶対に受け入れられない命令を下され、涼平の中で何かが弾けたように思えた。やはり華鈴とは離れたくはない……そんな思いを胸に、迷っていた自分を封じ込めるように、涼平は駆ける。次回、二人の愛の着地点。

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