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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第17章 三秒くれてやる
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ふたりだけの場所へ

 下呂市の郊外にある廃工場に着いたのは夜中だった。


 俺は車を降り、辺りを見回す。己の気分を強引にでも刷新するかのように――そこは大国屋一家が設けた拠点で、今回の抗争における彼らの前線基地となっている場所だった。既に多くの組員が荷を解き、かりそめの居住区画が出来上がっていた。至る所に拷問の果てに落命した葉室組構成員と思しき死体も転がっており、既に抗争が熾烈を極めていることが窺える。


 俺は大国屋一家の組員たちに近づき、声をかける。


「ごきげんよう。調子はどうだい」


 大国屋一家の組員たちは「おお!」と歓声をあげた。俺は続けて言う。


「俺が来たからには負けはせん。安心して背中を任せると良い」


 すると、組員たちは「おおっ」と盛り上がる。


「よろしく頼みます! 麻木の叔父貴!」


 そんな声に俺は右手を上げて応じると、奥へ向かう。奥では大国屋の総長、櫨山重忠が待っていた。


「やあ。8時間ぶりか」


 俺は「ごきげんよう。気合いが入ってるみてぇだな」と笑みを見せる。重忠は笑った。


「それで早速だが、本題に入ろう。状況は把握しているか?」


 俺は「もちろんだ」と答え、続ける。


先刻さっき、おたくの若い衆から、こっちの端末に情報を送って貰った。葉室の野郎は温泉街近くの屋敷に籠城してるんだってな」


 俺の言葉に重忠は「ああ」と肯定の声を返す。


「よりにもよって、カタギの人らが多く行き交う場所を選んだ。つくづく悪辣な男だよ」


 俺は「まったくだ」と同調してやる。すると、重忠は笑ってこう言った。


「奴は僕の弱点をよく分かっている……決してカタギを傷つけられない。いざって時は、君に頼んでも良いかな」


 俺は「任せておけ」と返し、それから「で、どうする?」と問う。重忠は「そうだなぁ」と思案げな顔をした。


「うちの武闘派たちとも話し合ったんだけど、やはり隠密潜入による内部工作が一番だろう」


 確認のため俺は「奇襲はしないのか?」とたずねる。すると、重忠は「もちろんだとも」と頷いてみせた。どうやら抗争にカタギを巻き込まないのが彼の主義らしい。俺たちは万物を統べるフィクサーの軍団だというのに――ともあれ俺はそれ以上追及せずに「分かった」とだけ述べた。


「ところで、お前さんのとこの軍勢はどの程度いるんだ?」


 重忠は「300」と答える。まあ、流石に大国屋一家全勢力で出陣は出来まいか――俺は「なるほど」と納得する。しかし、その直後。


「あのさ、君にはまだ伝えてなかった……というか。君が到着する数分前に現れたから、伝える暇が無かったんだけど。ゲストがいるんだ」


「ゲスト?」


 重忠は「うん」と頷き、隣の部屋に向かって声をかける。


「おーい!」


 すると、そこから思いもよらぬ人物が顔を見せた。横分けの茶髪に、女々しいほどに端正な顔の輪郭。色白の肌はさながら雪で、黒一色に固めたスーツがよく似合っている。


「お久しぶりです。麻木次長」


 眞行路秀虎だ。彼の姿を見て驚く俺に重忠が言う。


「どうしても手柄を立てたいらしくてね。恒元公に無理を言って合流してきたってわけ」


 俺は呆気に取られるばかりだったが、すぐに平静を取り戻し、秀虎に話しかける。


「ここは戦場いくさばだぜ。死ぬ可能性もある。理解しているんだろうな?」


 秀虎は「当然ですよ」と笑って言った。そして続ける。


「僕にとっても、この戦いは重要な意味を持ちます。組織を裏切った男。葉室旺二郎……奴の命は必ずや僕が頂戴します」


 そうか――俺は内心で嘆息を吐く。秀虎は武功を焦っている。彼は抗争に不慣れだろうが、まあ良いだろう。俺は秀虎に向き直ると「分かった」とだけ告げた。


 すると、彼は表情を変えずに言った。


「ありがとうございます」


 そうして「話は変わりますが」と続ける。


「一昨日の夜と昨日の朝の出来事は僕も把握しております。一度ならず二度までも、うちの者が麻木次長に無礼を働いたようで」


「別に気にしなくて良い。俺の方こそ、あんたへの配慮が足りなかったかもしれねぇからよ」


 俺の言葉を受け取った秀虎は、なおも頬を緩めることは無い。思い返してみれば、彼と話すのは新年の宴で軽く揉めて以来だ。年明けから、彼との間に隙間風が吹いていることは理解していた。


 ゆえに俺は早々に会話を打ち切ろうとするが、そうする前に秀虎が先んじた。


「ええ。うちの人間が間違ったことをしたとは思っていません」


 その言葉は無論のこと意表を突くものだった。自然に「え?」と困惑の相槌が漏れた俺は、そこから続いて出た秀虎の言葉に予想を追い付かせることが出来なかった。


「うちの古田にあなたが仰ったことは正しい。確かに、僕は恒元公のご意向で土地の支配を代行しているに過ぎない。僕に限らず、中川会の直参組長全員に云えることです。しかし、土地をお貸しくださったのは恒元公であって、あなたではない。どうして、あなたが大きな顔をするのでしょう。あなたは僕たちの上位者ではないはずです」


 秀虎の声は冷ややかで、淡白そのものだった。まるで感情を宿していないかのような声音が続く。


「何が言いたいかって言うと、恒元公の御名前を振りかざして好き勝手に振る舞うのはおめいただきたいということです。あなたは、ただ単に恒元公の側近に過ぎず、あのお方と同等の権力を与えられたわけではないのですから」


 俺は何も返せずにいた。ただ、茫然として立ち尽くすことしか出来なかったのだ。すると、そこで彼は「冗談です」と言った。


「そういった話を蒸し返しても仕方がありませんよね」


 そう告げると秀虎は「しかし」と付け加える。


「いずれにせよ、僕はもうあなたのことが嫌いなんです。所詮、あなたは口だけの御方だ。人に勝手な夢物語を吹き込んで良い気にさせて、いざ夢を形にすべき時に至れば平然と投げ出す……がっかりさせられるのは、もう沢山です。華鈴先輩のことだって、あなたになら任せられると思ったのに」


 華鈴――その名を聞いた瞬間、これまで惨めな聞き手に徹し続けていた俺は反論をぶつけた。勢いのまま「黙れ」と秀虎の言葉を遮る。そうして続ける。


「あいつは俺に惚れて一緒になったんだ。あいつの夫になることをあんたから任されたおぼえはぇ。何様のつもりだ。自分で夢を叶えられねぇ半端者が」


 不思議だ。浴びせられた秀虎の言葉は、俺にとっては図星でしかなかったというのに。当然、こちらの反応に秀虎は激昂する。


「何だとッ!?」


 彼は俺の胸ぐらを掴んだ。俺も同時に、彼に凄んだ。


「やりたいことがあるなら自力でやれ。俺や華鈴を巻き込むな。こちとらガキのお遊びに付き合ってやれるほど暇じゃねぇんだよ」


 しかし、秀虎は負けなかった。少しも怯まずに言い返してくる。


「ガキのお遊びだと……僕に弱者をすくう夢を託したのはお前だろッ!」


 そうなってはこちらもムキになる。あくまで冷静にあしらおうとする思考に先行し、情念が沸々と昂ってゆく。


すくって何になる。ただの自己満足にしかならんだろうが」


「本気で言ってるのか!?」


「ああ。本気だ。良いか。貧乏人を救う価値なんざ1ミリもありゃしないんだよ。生かして何の役に立つってんだ。俺たち貴族の足を引っ張るゴミクズなんざ、飢え死にさせる以外に道はぇんだよ」


「き、貴族!? お前は何を言って……」


「貴族だ。中川恒元公より華やかに生きる道を示して頂いた、正真正銘の貴族だ。いやしき民衆は、俺たち貴族に命を捧げてこそ価値がある。それが世界の真理だ! 俺たちが楽園エデンに住めるよう、奴らは犠牲にならなきゃいけねぇんだよ」


「狂っているのか!?」


「正気も正気だ。馬鹿野郎」


「ならば、その悪徳こそがお前の本当の姿だ! 化けの皮が剝がれたな! 麻木涼平!」


 未だかつてないほどに俺は興奮を覚えていた。重忠の唖然とする表情も、ぽかんと硬直する大国屋一家組員たちの姿も、まるで気にならないほどに。次から次へと、言葉が出てくる。気持ち良くてたまらなかった。


「良いか、クソガキ。この俺は美徳を抱いて生きている。美徳とは欲動に自由になることなんだよ。つまり、自分の欲に忠実であることこそが、最大にして最高の善なんだよ。分かるか」


 秀虎が吠える。


「分かるものかーッ!」


 その顔は怒りに震えていた。俺は、それに反応することなく、語りを繋ぐ。


「俺は人を殺すのが好きだ。あらゆるやり方で人を苦しめるのが好きだ。だから殺し屋になった」


 しかし、ここで重忠が止めに入る。


「はいはい。ストップストップ」


 しかし、なおも秀虎は食ってかかる。怒り任せに睨みつけて「邪魔をしないでください!」という彼に、重忠は苦笑して言う。


「いやぁ、だって喧嘩は良くないよ。ほら、二人とも落ち着いて……涼平の演説は見事だったけど」


 そんなやり取りを見ながら、俺は全身が冷やされてゆく心地に浸っていた。俗っぽい云い方をするなら、クールダウンであろうか。我に返った俺は頭を搔き、呆けたような顔でため息を吐く。こんな恥ずかしいところを見せるとは――思わず顔を赤くする俺に、重忠が訊ねる。


「酒でも飲んできたのかい?」


「……作戦中は飲まねぇのが俺の流儀だ」


「冗談だ。今のは恒元公の教えだろう。君の真面目さは僕もよく分かっている。さて、どうしようか」


「……」


 俺は、それどころではなかった。己の醜態があまりに恥ずかしくて――そんな俺に重忠が言う。


「でも、僕はね。この場で最も秀虎君の味方に近い。それが格好悪い生き方だってのは、分かってるけどね」


「……格好悪いどころじゃねぇ。背教者だ」


「うん。でも、僕はそんな自分を変えるつもりは無い。たとえ命を落とそうとも」


「……」


「君が命を懸けて恒元公にお仕えしているのと同じようにね。その自分の生き方を変えられないのと同じようにね」


 重忠は柔らかい笑顔で続ける。


「あとさ、僕らは仲間だよ。仲間を蔑んじゃダメだよ。僕たちは皆、不完全なんだ。そのことを認めるべきだと思うね。僕らは不完全であることで初めて完成に近づける。恒元公だって、きっとそうお思いだ」


 俺は何も言えなかった。ただ、黙り込むことしか出来なかった。すると、彼は穏やかに微笑む。


「まあ、君は僕よりも格上だし、あまり強く言えないけど」


「……」


「とにかく、今は仲良くやってくれ。頼むよ。ね?」


 一方の秀虎も気を落ち着けたようだ。ふうっと息を吐いた後、重忠に言った。


「僕も同じです。愛したいんです。愚直なまでに理想に忠実な自分を」


 秀虎の言うことは正しい。だが、だからといって受け入れる気にはなれない。何故なら、ここで己の誤り、あるいはおかしさを認めてしまえば、何もかもが秀虎に奪われてしまうような気がした。ゆえに俺は「手を放せ。殺すぞ」としか言えなかった。


 秀虎は重忠に言われて渋々ながらに腕を放すと「まったく」とため息を吐くように言った。先ほどまでの剣幕は落ち着いているが、それでもどこか不満げだ。俺はそんな彼に対し、一歩踏み出して、言葉を紡ぐ。


「そうやって俺に食ってかかる暇があるなら、この戦争でどうやって手柄を立てるかを考えたらどうだ。ただでさえ、理事どころか直参の中で浮いてんだからよ」


 そう告げると、秀虎は押し黙る。そして暫し、何かを思案した後、再び口を開いた。


「浮いている……その言葉、そっくりそのままお返しいたしますよ。あなたは今の中川会におけるご自分のお立場を何ら分かっておられない。いずれそのことを痛感させてあげますよ」


「あんたが?」


「ええ。あなたより偉くなって、あなたを追い落とすことによってね。この抗争で大きな成果を挙げることが出来れば、それは可能だと自負しています」


 言い方としては遠回しだが、場面としてはあからさまな宣戦布告だ。俺は鼻で笑って「面白いことを言うじゃねぇか」と返してやる。


「だが、そういうのは、まず俺を出し抜いてから言え。お前と違って、俺は戦いにおいて幾多もの実績を持っている」


 すると、秀虎は「そうですか」と言って俯いた。まるで何かを諦めたかのような態度だ。俺は眉根を寄せる。


「降参か?」


 挑発的な問いに彼は顔を上げ、答える。


「いいえ」


 それだけ言うと彼は踵を返して立ち去る。俺はその後ろ姿を眺める。何だか呆気ない。あれではまるで、最初から勝負を投げ出すつもりだったかのようだ。


 俺は首を傾げる。あの態度からは不穏なものが感じられた。恐らく、またいつか何かをしてくることだろう。気を引き締めておかなければ――そんな風に考えていると、突然重忠が笑い始めた。


「ふふ」


 彼は愉快そうな声で笑う。何が可笑しいのか。疑問に思った俺は「どうした」と尋ねる。


 すると、彼は「いや、羨ましいなぁって」と言った。


「僕も、涼平や秀虎君のように生きてみたかったよ」


 俺は再び眉をひそめる。重忠は何を言っているのだろうか――そう思っていると彼はさらに続けた。


「この戦いが終わったらさ、きっと僕らは、またバラバラになるんだろうね」


「バラバラ?」


「だって、僕らはそれぞれ別の道を行くじゃないか」


 そう言って重忠は肩をすくめる。俺は「そうだな」とだけ返した。すると、彼は嬉しそうな表情になり「やっぱり涼平は分かりやすいね」と言い放った。何故、そう思うのか。その理由を問うことはせずに、俺は沈黙でこたえる。


 重忠もそれ以上の会話は欲せず、別の組員たちと話し始めた。その光景を見つめつつ、俺は思う。やはり、俺たちは別々に進むべきなのかもしれない、と。


 互いの意見が一致することはあっても、同一の方向性を持つことは決して無い。ゆえに俺たちは同じ道を歩むことは出来ないのである。この戦争が終結すれば、それこそ恒元の命令が無い限り、手を携えることなど無いに等しいはずだ。それが正しい。


 俺は静かに目を閉じる。まぶたの裏には、これまでの思い出が蘇ってきた――秀虎と共に戦い抜いた銀座継承戦争。華鈴と出会い、恋に落ち、その一挙手一投足にヤキモキしていた日々のこと。


 もう、戻らない……。


 虚しいレトリックを己に投げつけた直後。肩をポンと叩かれた。


「よっ」


 振り返ると、そこに居たのは三淵みつぶち史弥ふみや。眞行路一家理事長で、俺よりふたつ上の26歳。親しいのか親しくないのか分からない仲が続いているが、この男とも暫く話していなかった。ゆえに俺は戸惑った。


「お、おう」


「何だよ。宇宙人と遭遇したみたいな声を出して」


「いや……お前さんも来てたんだな、って思ってよ。秀虎の子守りか?」


「そういうことだな。で、そっちはどうだ?」


「別に」


「そうか」


 三淵はニヤリと笑う。いつも通りの調子で――俺は自然と笑う。こいつとは、絡む時にはよく絡んでいるからな。その分、相手の心理を読み取りやすい。俺は小さく笑みをこぼしながら訊く。


「俺から見るに、お前さんは秀虎の姿勢を快く思ってはいない風だったな。今回の戦いで奴を調子に乗らせるのはしゃくじゃねぇのか」


 すると、三淵は笑みを浮かべたまま答えた。


「五代目がそのおつもりなら、お支えする。理事長としてな。当然だろ。まあ、俺個人としては不愉快だがな」


 三淵の言葉に、今の己を重ね合わせる俺がいた。救いを乞う、とでも云えようか。彼と同じだと思い込むことで、自分を蝕む痛みを拭い去ろうとした――俺は彼と雑談を交わした。取るに足らない、些細な内容を。三淵は賢い男だ。俺とのやり取りに付き合ってくれたのは彼の優しさだったのかもしれない。


「……へぇ。古田の野郎も来ているのか」


「ああ。今は街へ索敵に出ているがな。昨日はすまなかった。俺は『五代目の言うことを真に受けるな』と止めたんだが、あいつときたらまるで聞く耳を持たなかった」


「別に構わん」


「ああいった手合いには慣れているといった顔をしているな」


「当然だ」


 すると三淵はニヤリと笑い、俺の背後を指さす。


「では、あの光景にも慣れているのか?」


 そこにあったのは、酒井と原田が各々の男根を取り出し、自慰行為に耽る姿だった。酒井の方は両膝をついて、両手で肉棒を弄びながら舌舐めずりをする。原田の方は寝そべって、腰を振りながら竿をいじっていた。


 俺は息を呑んだ。サクリファイスを吸った所為せいだ――あの鉱物由来の麻薬の成分は使用者を人格ごと変えてしまう。暴力や流血といった出来事に異常なまでの快楽を見出すようになってしまうのである。


 酒井と原田の近くには金属製の吸引具が転がっている。さしずめ先ほどの俺の演説を聞いて興奮を催し、麻薬を吸いたくなり、吸った結果、精神が高揚してしまったのであろう。


「……慣れている」


「ふふっ。なら、め方も分かっているんじゃないのか」


める必要は無い。あの薬は総帥が奴らにお与えになったもの」


「まあ、あんたが良いなら良いが。麻薬中毒ってのは放っておくと人間として使い物にならなくなるぞ」


「全ては恒元公のご意思。俺はそれに従うまでのこと」


 そもそも。


「何ら間違っちゃいねぇよ」


 宵闇が差し込む廃工場で、俺は言い放った。己に言い聞かせるように。信じ込ませるように。


「ふっ。大した覚悟だ」


 俺の言葉を聞いた三淵は笑いにむせんだ。いつものように、どこか達観したような表情で――俺はそんな彼を真っ直ぐ見据え、言葉を紡いだ。


「あんただって同じだろう。何だかんだ眞行路一家五代目の意向には服従している」


「俺の場合、どちらかと云えばあねさんの方が主君に近いな。秀虎様の言うことは聞けなくても、それが姐さんのご意向とあらば納得できることもある」


「言ってやるなよ。一応、そこにご本人がいるんだぜ」


「気にしたことは無い。命を賭して仕えるべき主君たり得ぬ男に、どうして敬意を払うことができる」


「まあ、あんたからすれば当然そうだろうが……」


 俺が何かを言いかけた時、三淵はニヤッと笑い、嬉々として返した。


「この三淵史弥の命は姐さんのためにある。生きるも死ぬも全てあの人次第。昔からそうやって生きてきたんだ」


 実に晴れ晴れとした顔である。俺は眉をひそめた。彼は「じゃあ、お互いの戦果を祈ろうじゃないか」と言い残すと立ち去っていった。俺はその姿を黙って見送った。


 誰もが信念という名の操り糸に縛られている。逃げ出したくても逃げ出せないほどに強力な糸だ。それによって生じるジレンマは、どうにもならないほど巨大なものになってしまう。それはどんなに優れた人間であっても回避することは不可能であろう。


 哀れな男だ。秀虎の母たる眞行路しんぎょうじ淑恵としえに愛を乞うたところで、決して振り向いてなど貰えないというのに。


 だが、それが分かっていてもなお、三淵史弥は彼女に尽くすことを止められないだろう。それが、あの男の信念だから。


「……」


 三淵だけではない。様々な人物に対する憐れみと嘲りの念が同時に押し寄せてきて、俺は感情のやり場に困った。苦し紛れに煙草に火をけ、廃工場の窓から空に輝く星を見上げながら時を潰した。


 そうしているうちに夜が明けた。


 2007年3月8日。


 飛騨攻め2日目である。恩賜の時計の針が午前5時を過ぎた頃、俺たちは動き出した。総勢180名による襲撃。相手がどれくらいの人数で構成されているか、事前に把握していただけに、圧倒的に有利な状況であった。


 俺も重忠の指揮の下、葉室組若頭補佐を暗殺した。その男の事務所へ単独潜入し、便所へ用を足しに行ったところを背後から忍び寄ったのである。


「ごきげんよう」


 俺が挨拶をすると、その男は驚愕の色を浮かべて振り返った。しかし、次の瞬間には既に遅かった。俺は短刀を取り出し、彼の喉を素早く切り裂いてやった。


 ――グシャッ。


 声を上げる間もなく崩れ落ちてゆく。人を殺すという行為は何故に斯くも気持ち良いのか。眉間あるいは心臓に弾丸を放つ時、喉笛ないしは頸動脈を刃で切り裂く時、人体を鞍馬の奥義で破壊して骨を折り肉を断つ時――いずれも快感の極致である。


 さて、俺の仕事の完了と同時に始まるのは総攻撃だ。敵方の組長を討ち、指揮系統を乱した瞬間を突く物量作戦。昨晩の酒が抜けきらぬ朝方という時間帯もあって、抵抗らしい抵抗はほとんど起こらず、敵を圧倒することが出来た。


 寿通りに面した事務所からは、銃声と悲鳴が交互に聞こえる。やがてそのハーモニーが鳴り止むと同時、俺は敵城を出る。少し離れたところに設置した指揮所へ戻るなり、重忠に肩をポンと叩かれた。


「終わったみたいだね」


「ああ」


「じゃあ、次へ行こう」


 その後も俺たちは順調に敵の戦力を削いでいった。午前中までに5つの葉室組傘下団体の事務所を潰し、それぞれの長たる幹部たちを始末していった。このまま行けば、残るは組長の葉室を始末するだけだ。


 俺と重忠は事前の取り決めに従って合流した。俺は彼に「ご苦労」とねぎらいの言葉を投げる。


「礼を言うのは僕の方だよ。君のおかげで上手くいっているわけだからね」


「構わん。俺は当然のことをしたまでだ」


 俺は彼に、これまでの経緯を報告した。重忠はそれを黙って聞き終えると、「ふぅん」と納得したように頷いた。


「とにかく、これで一段落ついたわけか」


「そうだな。あとは本拠地に乗り込むだけだ」


 秀虎が連れてきた眞行路一家の組員たちも奮戦している。特に古田は、自慢の殺人合気柔術の腕を存分に振るい、敵対者たちをことごとほふっていった。


 阿多野通り沿いの事務所を落とした時に俺も目撃したが、古田の腕はまさしく舞を舞っているかのようだ。襲い来る敵のチンピラを鮮やかにいなし、地面に叩き付け、そのまま踏み砕く。まさに魔獣の如き暴れっぷりだった。


 無論、その間も俺も働いた。葉室組の組長たる葉室を討つため、俺は単身で動いた。だが、彼の隠れ家はなかなか見つからない。結局、葉室の居所は掴めないまま夕刻を迎えた。


 総本陣の廃工場へ戻った後、俺は作戦会議の場で顔をしかめた。そこへ大国屋一家の組員たちが代わる代わる報告に訪れる。


「申し上げます! 河鹿通りの『島沢しまざわぐみ』事務所の制圧が完了いたしました! 組長の島沢しまざわ直俊なおとし以下、18名を討伐いたしました!」


「申し上げます!少ヶ野の『北森きたもり興業こうぎょう』が降伏を申し入れました! それゆえ手筈通りに武装解除を行いました!」


 部下たちに微笑みかけ、重忠は「ご苦労」と頷く――されども葉室旺二郎は見つからない。3時間、4時間と時が流れ、夜はますます深まってゆくばかりである。


 葉室を逃したら、恒元の不興を買う。焦燥が募る。俺は歯噛みした。


「まあまあ、焦るな。僕はともかく、君に関しては下呂の制圧さえ完了させれば大丈夫なんだから」


「そういうわけにはいかねぇな。恒元公には常に最良の戦果をお持ちせねばならない」


「若いな……」


 苦笑に吐息を漏らした重忠を前に、俺は眉根を寄せた。


「あんたこそ、少しくらいは焦ったらどうだ。葉室を討ち漏らしたら大国屋一家は形無しだぜ」


 俺の苦言を前にしても、重忠はコクンと頷いて顔を綻ばせるばかり。まるで危機感が無い。きっとこれは年齢およびキャリアに由来する重忠との経験値の差だろうな……と思いつつ、俺は横目で小馬鹿にするように笑っていた秀虎を睨んだ。葉室征討に失敗した場合、むしろ俺よりも恒元に無理を言って参陣した秀虎の方が、よっぽど恒元の怒りを浴びるであろうに。


 廃工場の一角、パーティション仕切りで設けられた仮設の指令室。火を焚いたドラム缶の中で薪がパチパチとはじける音が、微妙な静寂を切り裂く。


 そんな中、秀虎が口を開いた。


「麻木次長。昨日の夜はすみませんでした。つい、感情的になってしまった」


 何を言いだすかと思えば、昨晩の口論を詫びてきた。如何なる風の吹き回しだ。如何なる魂胆だ。予想だにしていなかった展開に混乱と困惑に襲われる中、俺は必死で頭を回す。


 そして反応を投げた。決して冷淡ではない口ぶりで、彼の歩み寄りを退しりぞけるような口ぶりで。


「いや、気にするな。こちらこそ、言い過ぎてしまった」


 すると、秀虎は「いやいや」と首をひねった。何か言いたいことがあるようだったが、俺は敢えて尋ねなかった。代わりに訊ねたのは、重忠である。


「秀虎君。昨日はあんなにムキになってたのに。一体どうしたんだ?」


 重忠の質問に秀虎は「一晩を経て頭が冷えたんです」としか答えなかった。続けて、再び頭を下げた。十数秒ほどで顔を上げると、彼は小さく笑った。


「僕の甘さは僕がいちばん分かっています。常日頃より、母から言われていることを今日一日で痛感させられたってところですかね」


 秀虎の言葉には含みがあった。重忠は首を傾げつつも、すぐに返事をする。


「まあ、ゆっくりやろうじゃないか。ひとまず下呂を制圧してしまえば問題ない」


 秀虎は「はい!」と元気よく笑った。俺は秀虎に目を合わせることなく、その場を後にした。近くにあった扉から外に出て、夜風に吹かれる。下呂市乗政地区。日本でも指折りの温泉地として知られる中心部とは違い、周囲には田畑が広がる。静かな夜だった。


「ふぅ……」


 思わず息が漏れる。何故、秀虎が突然歩み寄って来たか――それ以上に俺には気がかりなことがあった。酒井と原田の具合である。昨晩から、彼らは床に伏せっている。大国屋一家構成員が偶然にも持参していた体温計ではかったところ、熱があると分かった。季節の変わり目、風邪でも引いたか。己を納得させようと努めたが、何とも納得できない部分があった。


 薬物中毒者がうなされる禁断症状。


 かつて書物で学んだ知識が、今は恐ろしく鬱陶しい。俺は「けっ」と舌打ちしながら煙草に火を点ける。胸の内でモヤモヤが消えず、苛立ちが募る。俺は煙を吐き出した。


 そんな時。


「でやあっ! でやあっ!」


 不意に声が聞こえた。古武術を嗜んだ身としては、修練の際に発せられる掛け声とすぐに分かる。俺は煙草を咥えたまま、声が聞こえてきた方角へ歩みを進める。


 すると、そこには一匹の魔獣が居た。真っ白な袴に身を包んだ古田真琥郎が、星の光に照らされて体を動かしている。合気の稽古か。左右の腕を交互に突き出し、前後左右に移動しては、腕を伸ばしたり縮めたりしている。


 ――ブォン! ブォン!


 空気が切れる音が聞こえ、その場で衝撃波が発生していると確信できる。見事な挙動だ。俺は思わず笑みを浮かべる。そうした中、古田は「やあっ」という掛け声と共にこちらを向いた。彼の動きが止まる。そして、鋭い眼光をこちらに向けてきた。殺意がもっているわけではない。試しに殴りかかってもみろ、と言わんばかりの威嚇である。俺は思わず笑った。


「稽古の邪魔をする気はぇよ。すぐに立ち去る」


「麻木涼平。お前は何のために戦っている?」


 そう言うと、古田は肩を上下させて呼吸を整えつつ、こちらに向かってくる。俺の目の前に立った彼は、その巨躯を揺らし、こちらを覗き込むように上目遣いで見てきた。


「お前が拳を振るうのは何のためだ?」


 俺が答えるより先に、古田は訊ねてきた。答えるまでもないことだ。3年前の今の時期に日本に戻ってからというもの、ただひたすらに――すると古田が続けて口を開いた。


「俺は実の親の顔を知らない。物心ついた時には九州の歓楽街でゴミ捨て場を漁る暮らしをしていた。飢えるのが怖い、カネを稼いで良い暮らしをしたい……そのためにヤクザになった。合気も学んだ。誰よりも強くなって、成り上がるために……だが、成り上がってどうするんだ。カネが欲しい。良い暮らしがしたい。それだけだった。だが、その先は? 自分自身がどうなりたいのか。それが分からなくなってしまった」


 そこまで言うと古田は「ふぅ」と息をつき、腕を下ろした。そして、また口を開く。


「お前は違うんだろう。だから訊いている。何故に戦う?」


 俺は即答した。迷うことなく、偽りなく。


「恒元公の治世をお支えするためだ」


 その返答を古田はわらった。


「満たされない男なんだな。お前も」


 それだけ言って古田は背を向けた。俺も踵を返す。煙草を吸いながら歩き出す。重忠によって割り当てられた、自らの寝床へ――古田の問いが胸をえぐっている。


 何故に戦う?


 華鈴のため。そして恒元のため。それ以外にあるものか。


 ドクッと心臓が脈打つ音が耳に届いた。何故だろう。理由は分からない。ただ、何となく妙な予感がする。自分が自分ではない何かに変じてしまいそうな気がする。それでも、俺は振り返らなかった。


 翌朝。


 2007年3月9日。飛騨攻め3日目。早朝から行動を開始したものの、目的は果たせないままだった。戦況こそ俺たちの優位に運んでいたが、肝心の葉室の動向が掴めないのである。


 戦果こそ挙げているものの、それらはあくまで前哨戦である。敵の戦力を減衰させることが出来たとしても、それらを勝利とは呼べない。何せ、葉室という指揮官が存在する限り、俺たちの脅威は一向に変わらないのであるから。


 13時。萩原町の事務所を陥落させた後、俺は近くのセダンに座乗し指揮を執る重忠に訊ねた。


「ここは居なかった。他の奴らからの報告は?」


 重忠は難しい顔で唸りつつ、首を捻る。


「入っていない。葉室の部下を痛めつけて聞き出してはいるけど、口々に違うことを言うから意味が無いそうだ。組長を庇っているっていうより、本当に知らないんだろうね」


「くそっ!」


 思わず悪態が口からこぼれる。焦燥感が増してゆくのを感じる。


「皆、葉室の行き先を知らねぇってことか?」


「そうだろうね。あの男のことだから大いに有り得るよ。部下を見捨てて逃げ去った可能性は」


「……」


 平然とした表情とは裏腹に拳を握り締めて嘆息をく重忠を見やりながら、俺は歯噛みした。その後、小坂町方面の攻略に出ていた眞行路勢が戻ってきたが、彼らも葉室の首を獲れてはいなかった。秀虎の帰陣後、俺たちは改めて下呂市全体を探し回った。一般客に紛れて温泉街に潜伏している可能性も考慮して、各宿に問い合わせをして回るほどであった。しかし、かんばしい成果は得られなかった。


 結局、俺たちはその日の夜になってから諦めざるを得なかった。葉室がこの街を脱出したと考えるのが妥当だと判断した。そう告げる俺に、重忠は苦虫を噛み潰したような表情で頷いた。


「僕の手抜かりだ。すまないね。まあ、飛騨地方における勢力図の書き換えはもう終わっているから、下呂の治安を安定化させたら北へ向かおうか」


「北って、新潟か?」


「ああ。そうとしか考えられない」


 重忠の言葉に俺は肯首した。昨秋に17歳の若さで殺された京谷きょうや俊樹としき組長に代わり、今の新潟県北地域を仕切っているのは野山のやま繁美しげみという老齢の親分だが、どこか惚けた男でいまいち頼りない。彼は自然豊かな新潟県南地域を本拠地としているというのに、シノギがまったく振るっていない。彼の率いる野山のやまぐみに旧京谷興業領が編入されて以来、新潟県内には海外ギャングが跋扈し、野山組組員は彼らに対して手も足も出ない始末。新年の宴の折に「跡を継ぐ嫡子もいないから領地を返上し引退する」と口にしていたくらいなので、きっと今ごろ攻め上ってきた葉室組に討たれていることだろう――なんて冷淡な推測を繰り広げた己を心の中で笑った俺だったが、体温が平熱に戻った酒井と原田の姿を見て少し驚いた。何せ、彼らは俺以上に冷淡だったのであるから。


「ぎゃははっ! 野山の爺さんも儚いもんだねぇ!」


「まあ、良いじゃねぇか! これで新潟も恒元公のご領地になるのだから!」


 彼らの笑みは捻くれている。曲がりなりにも野山組長は本家譜代で、力量はともかく恒元への忠誠心に関しては確たるものがあったというのに。


 しかし、俺は彼らを咎めることは無かった。


「……ああ。そうだな」


 そうして、俺たちは撤収と北上の準備に取り掛かった。廃工場内の片付けを指示し、指揮所に必要な荷物をまとめる。そんな最中、俺はふと思い立ち、重忠に話をした。


「ちょいと出てくる」


「いいよ。行ってきな」


 重忠は二つ返事で了承してくれた。俺はその場を離れる。目的地は秀虎が居る眞行路一家の居住スペースである。少しばかり気になっていたことがあった。


 彼は現れた俺を睨んでいる。


「やっぱり俺のことが気に食わんか」


「ええ、まあ」


「じゃあ、昨日の態度は何だ」


「それは……」


 口ごもる秀虎を見て、俺はため息をく。すると、彼は少しの間だけ黙ってから話し始めた。


「……僕だって悩んでいるんですよ。何が正解なのか、何をすれば大切な人を幸せにできるのか」


 俺は「へぇ」と言いながら眉を上げた。秀虎は続ける。


「周りの連中は『自分の頭で考えて動け』と言う。でも、いざ僕が自分の頭で考えて動けば非難する。だから、分からなくなるんです。一体、何が正しいのかって」


 俺は苦笑した。彼の気持ちが理解できたからだ。きっと秀虎は、己の内面で葛藤しているのであろう。自分は何のために生きているのか。何をすれば夢を叶えられるのか。そもそも、夢とは何なのか――そうやって自問自答を繰り返し、答えの出ない迷路に迷い込んだ結果、何が正しいのか分からなくなった。


 きっと秀虎にとっての大切な人とは華鈴であり、彼女が俺の妻になってもなお、恋焦がれているのであろう。しかし、彼女を我が物とすることが出来ない現実がある。そこで思い悩む葛藤は、きっと三淵史弥や古田真琥郎に見抜かれている。


「なるほどなぁ。それで?」


 俺の問いに対し、秀虎は目を細めた。まるで猫が威嚇する時の表情のように見える。


「……あなたはどうなんですか。何のために生きているのですか?」


 俺は苦笑した。どうやら、俺も同じことを問われているらしい。


「俺は、華鈴の幸せを守りてぇだけだ。そのためなら、何だってやるさ」


「華鈴先輩の幸せ?」


「ああ」


 俺が肯定すると、秀虎は俯く。そうして暫く経ってから、再び俺を睨む。


「だったら、どうしてあんなこと言ったんですか? 貧しい人たちを救う価値は無いだとか……それ、華鈴先輩の前で言えるんですか?」


 ほんの一瞬ほど胸の辺りがゾクッと震えたが、すぐに痛みは治まった。同時に即答を紡ぐ。


「言えるとも。華鈴だって俺と同じ考えだろう」


 直後、大声が響く。


「そんなわけないだろうがッ!」


 周囲で撤収作業にあたっている組員が一斉に振り向くほどの大声。秀虎自身も己の声量に驚いたようで、暫く硬直していたが、やがて「失礼」の一言と共に平静を取り戻すと、再びこちらを睨んできた。しかし、先ほどのような刺々しさは無い。むしろ悲愴な面持ちで叫ぶように見つめてくる。まるで幼子のようだ。


「そんなことありませんよ。だって、あの人が……あんなに優しい華鈴先輩が、醜い考えに染まるはずがない。違いますか?」


 その問いに対し、俺は即答しなかった。彼の言っていることが分からないからではない。むしろ逆だ。俺の妻たる華鈴がどんな人柄をしているかなど、誰よりも知っている。だが、どうしても素直に認めたくなかった。俺が躊躇している間にも、秀虎は続けた。瞳は潤んでおり、今にも泣き出しそうだ。


「麻木さん。あなたは僕のことなど何も知らない。だけど、僕はあなたのことを知っている。あなたがどれだけ華鈴先輩を大切に思っているか……どれだけ彼女のために尽くしているか……だからこそ、戻ってほしいんです。出会った頃のあなたに! 美しかった頃のあなたに!」


 まるで悲鳴のような叫び。胸の奥底をえぐられるような鋭い言葉の数々に、思わず息を呑んでしまう。されども数秒後には返答をぶつけていた。


「無理だな」


 秀虎は「どうして!?」と叫ぶ。しかし、俺は続ける。表情を変えずに。己自身をわらいながら。


「人は変わるもんだ。あんたも、そろそろ現実を見たらどうだ」


 そう言って俺は踵を返す。秀虎は俺を追いかけて来ようとしたが、その前に「なりません」と三淵の声が聞こえる。彼が俺の代わりに秀虎をなだめているようだ。


「麻木次長の言葉は理に適っておりますゆえ」


「三淵……お前ッ!」


「何度も申し上げておりましょうに。世を変えたいならば、恒元公に忠を尽くすことで成し遂げられるべきと。麻木次長は、ただ己の信念を貫いているだけでございます。少しは貴方様も見習われませ」


「……」


 古田の説得が功を奏したようで、秀虎は悔しげに唇を噛み締めながらも黙り込む。俺は内心で感謝しながらも、足早にその場を去る。これ以上は耐えられないと思ったからだ。


 占領地経営のための大国屋一家構成員を少しばかり残し、下呂を発ったのはその日の夕刻のこと。国道41号線を辿って北に向かい、まず富山県に入った。


 そこから東へ進む。北陸自動車道に乗り、旧京谷興業本部のある新潟県村上市を目指す。到着したのは深夜、日付が変わる頃だった。


 村上市の名産品は鮭だ。前回にここを訪れたのは昨年の2月。とっておきの一尾を土産に帝都へ凱旋し、華鈴が鍋で美味しく調理してくれたよな――などと些末な回想に耽りながら、俺は街をぶらつく。田舎の深夜は閑散としており、人通りも車通りも皆無に等しい。その代わりと言ってはなんだが、星々が明るく輝いていた。まるで天の川銀河の中に佇んでいるかのような錯覚すら覚える。美しい景色だった。


「……」


 野山組村上支部は葉室の手に落とされてはいなかった。それどころか、上越市の野山組長に問い合わせたところ『襲撃は無い』とのこと。どうやら、俺たちは無駄足を踏んだかもしれない。焦燥が心を支配してゆく。どうにか落ち着こうと煙草に火をける――これからどうする。暫し村上市を拠点に葉室の行方を追うとしても、あまり長い時間はかけていられない。もし、奴が逃げた先が新潟ではなく南方の浜松だったら……。


 ため息をいた俺は、たまたま近くに会ったベンチへと腰かける。春の到来を待つ越後の国の夜空に向かって呟き、紫煙を吐き出す。ふと視界に飛び込むのは、花をつける支度を着々と整える枝を風に揺らす桜の木々たち。今年は遅咲きなど言われているが、この調子では抗争が集結する前に満開を迎えてしまうかもしれないな。


 華鈴と桜を見たかったな……。


 やがて近くにあったスタンド灰皿で煙草の火を消した俺は、無意識のままに端末を開く。すると何の偶然か、華鈴からのメールが入っていた。


【ちょっとこっちに顔を出せないかな。 お医者さんから、旦那さんから旦那さんもご一緒にって言われて】


 その瞬間、心臓が激しく脈を打った。


 医者からだと?


 一体、何だというのだ?


 いや、待て待て……そもそも華鈴からメールが届くこと自体が久方ぶりではないか?


 胸騒ぎを覚えた俺は流れるような動作で華鈴に電話をかける。妻には数コールほどですぐに繋がった。


「もしもし」


『あっ、涼平。ごめんね。忙しいでしょ?』


 精神科の病棟へ入院している彼女とは、話すこと自体が久々だ。その声に懐かしさをおぼえてしまうほどのブランクを感じたが、そのことは口に出さずに本題へ移る。


「いや。こっちこそ、すぐにメールを返せねぇですまなかった……それより。どうしたんだ? どっか悪いのか?」


『そういうわけじゃないんだけど』


 ひと呼吸ほどの間を置いた後、華鈴は語り始めた。


『浜松であんなことがあったわけだから、念のためにて貰ったの。産婦人科の先生に。そうしたら、あたしのお腹に赤ちゃんがいるってことが分かったの』


「え?」


『分からないのも無理ないよね。お医者さんに言われて、やっとあたしも気が付いたから』


 すぐに「なるほど」と納得しかけたが、そうもいかない。腹に赤ん坊がいるということは――すなわち懐妊というやつか。


 一体、どういうことだ!? 気づけば声が裏返っていた。


「ま、待ってくれ。その……それって、俺の子か? それとも」


『涼平の子だよ』


 妻は即答だった。


 俺は思わず「なっ!?」と返す――まあ、そりゃあそうだよな。性交渉から妊娠まで1週間前後で行き着くはずがない。されども喜びと衝撃が同時に押し寄せてきた所為で、他に言葉が見つからなかった。


「お、俺の子……なのか……!?」


『まだ3ヶ月しか経ってないから、そんなにお腹が目立ってないの。だから、あたしも気付くのに遅れたんだと思う』


「……そ、そうだったのか」


『でも、あまり無理をしない方が良いってお医者さんは言ってた。特に、今みたいに安定してない時は』


「あ、ああ」


 以前として震えた声を出し続ける夫に、華鈴は再び喋り出した。


『そりゃ、驚くよね。いきなりこんなことを言われたら……まあ、あたしはそろそろ出来てもおかしくはない頃だと思ってたけど』


「そ、そうだよな」


『でも、これは運命だから。あたしと涼平のね。だから……涼平の赤ちゃんを産みたい。良いかな?』


「構わんぞ」


 数秒遅れで理解が追い付いてきたが、程なくして自分でも驚くほどに覚悟が湧いてくる。これが守るべき女を持った男の中で自然に備わる気概ってやつか――正解はさておき、俺は続けた。


「ま、まあ、とにかく。生まれてくる子が男であれ、女であれ、俺の子だ。誰が何と言おうと、ふたりで育てよう」


『涼平って頭の回転が速いよね。もう少し戸惑うかと思ってた』


「これでも戸惑っている。尤も、頭の回転が速くなけりゃ稼業で飯は食えん」


『うふふっ。何だか涼平らしいや。安心したわ。久々に声を聞いて』


 そこへ華鈴は『でもね』と続けた。


『涼平が、組織の幹部で、総帥のお気に入りなのは分かってるけど……どうか無理はしないでね。あたし、いつも心配してるんだからね。この世界に居続けてると、いつか本当にどうにかなっちゃいそうで怖いの』


「俺に敗北はぇさ」


『でも!』


 そこで突然、電話越しにすすり泣く声が聞こえる。無論、華鈴だ。


「お、おい。どうしたんだよ。泣くなって」


『だって……だって、涼平がいなくなっちゃうなんて嫌だよ!』


 俺は思わず天を仰ぐ――真壁との戦いで敗れたことを言っているのか。あの怪我は既に回復しているわけだし、第一に華鈴にとっては関係ないだろう。


「ああ。そうだよな」


 穏やかな声色で返した後、俺は言葉を続けた。


「もう、俺の命は俺だけのものじゃねぇからな……分かっている」


『涼平?』


「安心してくれ。身重の妻を抱えて無謀な喧嘩をするほど馬鹿な俺じゃねぇさ」


『うん』


 華鈴の力ない返事に俺は苦しくなった。ここで『組織を辞める』とでも言えれば、格好が付くのであろうが、立場的にそんなことは出来ない。何より、華鈴を守るためには権力のそばに居続けねばならないのである。


『お願いだから無理をしないで。良い?』


「ああ。かったよ」


『生まれてきた子に父親がいないなんて、あたしは絶対に嫌だから』


「おう。肝に銘じておくぜ……無理しちゃいけねぇのはお前もだぜ、華鈴。これから俺が父親になるのと同じように、これからお前は生まれてくる子の母親になるんだから」


『うん。あたしも肝に銘じてる』


「お互い、これからは二人分の命を背負ってるつもりでいねぇとな」


『そうだね。ああ、産婦人科の先生が、次のメディカルチェックには旦那さんも付いてきてほしいって』


「分かった」


 話したいことは他にも沢山あった。何せ、20日ぶりに交わす言葉だ。それでも、これ以上の長話をするべきではないと思われた。何しろ、俺の妻は腹に赤ん坊を抱えているのであるから。身体の負担になりかねない。


「こっちの抗争を片付け次第、戻る」


『うん。また近いうちに会えるといいね』


「そうだな」


 華鈴からの電話を切った後、俺は俺はベンチの背にぐったりともたれかかった。やがて独りでに呟いた。先ほどの衝撃的な発表が頭の中でリフレインされている。


「俺の子か」


 父親になるということを実感することは出来なかったが、心は踊っていた。華鈴が俺の子を身ごもってくれた――その事実は喜ばしいものであった。


「俺、父親になるのか」


 俺は2本目の煙草を取り出すと、それを咥えて火を点ける。そして、深呼吸をひとつした後に、ゆっくりと吐き出す――その間、俺は何も考えなかった。ただ、己がこれから歩む人生についてだけを思った。


 夜空へ昇ってゆく煙を見上げながら、ふと思う。俺が父親になった時に、彼女はどんな母親になるのであろうか。きっと優しい母親になるに違いない。彼女はそういう女だ。


 そして、俺もまた優しい父親になれるような気がした。いや、なるしかない。彼女の為にも。生まれてくる子供の為にも。俺は必ず良い父親になってみせる。


「まずは、この仕事を終わらせねぇとな」


 俺は呟いた。まだ葉室の行方は分かっていないが、俺が帝都へ帰ることが出来るのも、華鈴と再会出来るのも、我が子と触れ合えるのも、その時だろうから。


「ふっ……はははっ!」


 思わず笑みがこぼれた。『生まれてくる子が男であれ女であれ』とは言ったものの、やはり自然と嫡男が生まれることを期待する。


 俺とて関東博徒の端くれなのである。総帥の側近たる中川会の幹部として、世継ぎを欲するのは当然と云えよう。


 難しいことは抜きにしても俺は幸せだった。今までに沢山の人間を殺してきた俺に斯様な幸福が訪れて良いのかと思えるほどに。


「まあ、良いか」


 酒を飲んでもいないというのに顔が緩む。そんな俺に声をかけてくる男がいた。


「何や、間抜けな顔しとるやないか。ええことでもあったんかい」


 本庄だ。陽気な関西人のおっちゃんは、軽やかな足取りで近づいてくるや、俺の隣に腰かける。


「本庄!?」


 何故だ。この男が居る理由が分からないが――ともあれ、返答を投げつけねば。動揺を悟られるのは癪だ。


「何でここに?」


 眉根を寄せた俺に本庄は鼻を鳴らす。


「おどれの助太刀をするよう総帥に言われたんや。ちょうど近くの旅館に陣を張ったんやけど、田舎はどこも落ち着かん。あかんわ」


「助太刀? あんたが?」


 俺が訝しむと、本庄は「せや」と頷いた。


「総帥のご意向や」


 こんな食えぬ男を援軍に寄越されても助力どころかかえって足手まといだ――されど無論のこと顔には出さない。恒元の意向であるなら逆らう手など俺には無いのである。無難なリアクションにとどめておく。


「驚いたな」


 すると彼は豪快に笑う。


「相手が相手やさかい。わし以外に相応しい人選はおらへんっちゅうことやろうな」


 この男が見せる振る舞いは俺にとって少しばかり意外だった。今回の討伐対象である葉室は兄弟分、ゆえに戦いづらい部分もあるだろうと思ったのであるが。


「あんたに限って『弟分は殺せない』などという軟弱やわな発想は無いと思うが。それでも情が湧く可能性は否定しきねぇぞ」


「せやからこそ、やな」


「総帥は敢えてあんたをお選びになったということか。あのお方にしては随分と大胆なお考えをされたもんだ」


「まあ、忠誠心を試したいんやろうな。組織と弟分のどっちを選ぶか……答えるまでも無い話やけどな、くくっ」


 そこで言葉を区切ると、本庄は懐から煙草を取り出して吸い始める。


 さらなる出世が狙える好機とでも思っているのであろう。そういった意味では彼のようなマキャベリストの方が信頼できる部分はあるかもしれない。


「そうかよ」


 ぶっきらぼうに呟いて宙を仰いだ俺に、本庄は別な話題を振ってきた。


「アメリカの大統領が大垣を訪れとるっちゅうのに、少し離れた下呂じゃ極道がドンパチやっとったとは。そこで何人殺されようがまともに報道もされへん……マフィアがここまで世の中枢に入り込んどる国は地球上でも日本くらいのもんやで」


 どこか嬉しそうな笑みで語った本庄のブラックジョークはさておき、俺は頷く。これ以上、俺にとって恥ずかしい話題が続いても困るので方向を切り替えるとしよう。


「俺には信じられんな。資源に乏しいはずの日本列島からメタンライトが出たなんざ」


 あと30年以内に枯渇すると云われる化石燃料の常識を根本からひっくり返す新種の鉱物資源、メタンライト――細かく砕いて液体化すれば石油とまったく同じ性質を持つ夢のような資源が大垣市から下呂市にかけての山岳地帯で発見されたのは今年の正月明けのことだ。


 世界最大にして最古の天然ガスの産地である中東や地中海地域で気候変動が騒がれている昨今、メタンライトの発見はまさに天啓とも云える。旧帝大系研究機関の探掘チームが調べたところによると、地下のかなり深いところまでの埋蔵が確認されたという。日本のみならず世界中の国々が21世紀の終わりまで、自動車を乗りまわせるほどの量が。


 無論、存在が明らかになった直後から各国の政府が将来的な販売契約を乞うてきた。これに際し日本政府は、軍事同盟を結んだ最大の貿易相手国であるアメリカ合衆国を第一の取引相手に選定した。


 無論、その背景には鉱物を採掘する為の最新鋭技術の供与といった交換条件が働いている。原油が枯渇しかかっている米国にとっては、未来の心配要素を打破する救いの手となり得る話だ。是が非でも買い付けたい産物ゆえに、今回の大統領の訪日に到ったわけである。


「まあ、日本としては願ったり叶ったりの好機っちゅうわけやな。日米同盟を盾にされたら言いなりになる他なかったアメリカに、これからは対等でモノを言えるようになるわけさやかいのぅ」


 得意気に言う本庄に俺は思わず怪訝けげんな顔が浮かんだ。


「……だが、アメリカとのパワーバランスが逆転することが必ずしも良いことずくめとは限らんぞ」


「どうしてや?」


「日本とアメリカとの間には軍事力の差ってもんがある。たとえ日本が世界一の資源埋蔵国になろうが追いつけねぇほどの差だ」


「せやったらメタンライトを盾に大人しくさせたらええやん。『鉱石を寄越してほしかったら日本の防衛を全て請け負え』ってな」


「そいつはあくまでメタンライトの産出が世界で日本だけに限定されている場合の話だ」


「はあ? どういうことやねん?」


「もし、アフリカや南米の途上国で埋蔵が確認されたらどうなる。無理難題を吹っかける日本よりもそっちから買おうってことになるだろ」


 ゆえに迂闊に大きく出て米国との関係を拗れさせるより、現状の関係を維持した方が得策だと俺は考えたのだ。そんな意見に本庄は深く頷いていた。


「なるほどな。確かに、おどれの言う通りや」


「まあ、メタンライトを切り札に日米同盟の文句を突っぱねるくらいにしといた方が無難だろう……大体にして、あれは海外に基地を増やしたいアメリカに押し付けられた条約だから、不平等の割を食ってるのはむしろ日本なんだ」


 他にも持論はあったが、敢えて俺は途中で話を打ち切った。


 日米同盟と云えば、どうしてもあの話題が頭に浮かぶ。中川恒元を国家のフィクサーたらしめる秘宝『以津真天の卵』だ――おそらくあれは敗戦後の占領時代に日本政府とGHQの間で交わされた密約の写しであると俺は考えている。だが、本庄に簒奪の野心を抱かれたら困る。


 恒元の権力の継承を狙っているのは、他ならぬ俺だ。いずれ生まれる我が子のためにも、あの男の力は今以上に高めておかねばならない。


「まあ、確かに不思議な感覚だな。ひとつ山を越えた先では超大国の元首が採掘場建設予定地を見に訪れてるなんざ」


「せやな。その採掘場の建設も始まってへんっちゅうのに……獲らぬ狸の皮算用で終わらんとええんやがのぅ」


「おいおい、今になって『やっぱり資源の埋蔵は間違いでした』なんてことはぇだろ」


「分からへんで。どうにも妙な予感がするんや」


「妙な予感?」


「極道の勘っちゅうやっちゃ」


 その瞬間、俺は若干にも満たぬ声色の変化から本庄の胸の内を悟った。奴が、この件について何かを掴んでいるということを。


 もしや、此度飛騨に赴いてきたのは何かしらの密命を帯びてのことか――心の中で勘繰りを始めた直後。俺たちに闘気が近づいてきた。


「部下も付けずに、おひとりとは不用心ですなあ。本庄組長」


 その正体は発音が綺麗な日本語を操る複数名の外国人だった。彼らは一瞬のうちに俺たちを囲んだ。


「誰や、おどれら。何の用や」


 すると連中の内の一人が目を丸くした。


「へぇ……誰かと思えば麻木涼平さんではありませんか。よもや日本の裏社会に名を轟かす『血まみれの天使』に会えるとは思ってもいなかった」


 まるで見覚えのない集団だが、何となく予想は付く。さしずめ新潟周辺に勢力を張る外国人組織といったところだろう。


 葉室め、新潟へ北上したと思ったら既に現地の外国人たちを味方につけていたか。自然と俺の舌打ちが鳴る。


「何処のモンだ?」


 すると群れの中を掻き分けるようにして小柄な女性が姿を現す。


「答えるまでも無いだろう。お前に殺されたフランス人の妹分さ」


 その女の顔を見た瞬間、俺の眉が少し震えた。尋常ならざる闘気を発する女だったからだ。


「……けっ。笑えるぜ」


 すると女は冷たい笑みで応じる。


「流石は血まみれの天使。頭の回転が速いな」


 その直後、隣の本庄が苛立ち交じりに声を荒げた。


「わしが不用心? 抜かせぇ! この本庄利政を見くびったらあかんぞゴラァ!」


 瞬間、公園花壇の影から無数の男たちが姿を現した。全員が銃を構えている。本庄組の組員達だ。


「教えて貰おうやないか、ネエちゃん。おどれらは何処のモンや」


 やはり『五反田ごたんださそり』と謳われる男だけあって如何なる時も用意周到である。これには俺も感心した。そんな己の正体を改めて尋ねた怪人物に、女は頬を緩めて答えた。


「マリア―ヌ・ヴァロア。サングラント・ファミールの日本支部を預かっている……貴様らが去年の夏に潰した、あの組織の後釜になったのさ」


 それを聞いた途端、五反田の蠍の眉間に深い皺が刻まれる。


「サングラント・ファミール。フランスのみならず21か国に縄張りを持っとるっちゅうヨーロッパ最大のマフィアかい」


「そういうことだ」


 マリア―ヌは俺に視線を移して言った。


「私が生きてこの場に姿を現したということは……分かっているな? 麻木涼平?」


 俺は苦笑する。


「要するにおたくらの日本支部が再建されたってことだろ。同時にテメェは本国から始末されなかった」


 するとマリア―ヌは大きく首を横に振り「違う」と吐き捨てる。


「貴様が敵に回したということだ……このマリア―ヌ・ヴァロアを。La princesse de la destruction《破壊の姫君》の異名で恐れられる、この私を」


 その瞬間、ナイフが飛んできた。


 ――シュッ。


 刹那の内に刃を抜いたマリア―ヌが投げつけたものだ。見覚えのある攻撃だが、以前にも増して速い。


「おっと」


「くそっ」


 俺と本庄は左右に飛んでかわし、ベンチの背もたれ部分にナイフが刺さった。その出来事が戦いの火蓋を切って落とした。


「おっ、親分!」


「わしは大事ない! はよう撃たんかい!」


 本庄の檄で組員がフランス人たちに向けて次々と発砲、短刀を抜いて斬りかかり、乱戦が始まった。


「うおおっー!」


ったるぞー!」


 ヤクザたちの気勢に対し、サングラントファミールの構成員たちもフランス語の罵声で応じる。銃声や刃と刃がぶつかる音が響く中、俺はマリア―ヌと対峙していた。


「麻木涼平。貴様は殺す。絶対にな」


 マリア―ヌが俺に強烈な殺意を剝き出す。俺は「はっ」と鼻で笑った。


「それはこっちの台詞だ、クソアマ」


「遺言はそれだけか」


 俺とマリア―ヌは互いに武器を構えて激突した。


 ――キィィィン!


 刃と刃が火花を散らし、公園に響き渡る金属音。


 ナイフを用いた近接戦を得意としているらしい彼女に合わせて短刀で応戦する。言うまでも無く互いに一撃一撃が全力だ。その剣戟は謂うなれば、ボクシングの試合で云うところのインファイター同士の打ち合いに等しいものであった。


「……どうした? 随分と息が上がっているが?」


「そちらさんほどじゃねぇぜ」


 俺は口元に笑みを浮かべて見せる。


「貴様、まだ何か奥の手を隠し持っているな」


「さあ、どうだろうな?」


「とぼけるな。この私の目はごまかせんぞ!」


 マリア―ヌはナイフの切っ先を突き出し、俺の心臓を狙ってきた。


 ――シュッ!


 だが、その一撃は空を切った。俺は上体を反らして回避し、そのまま後方へ飛び退く。


「ちっ!」


 マリア―ヌが舌打ちすると同時に俺は短刀を地面に突き立て、その反動で高く飛び上がった。


「でやあっ!」


「くっ!」


 俺の蹴りがマリア―ヌの頭部を直撃する。彼女は数メートル先まで吹き飛んだ。だが、すぐさま立ち上がる。


「噂通りの膂力だ。貴様のその身の腕っぷし、私の影武者を瞬殺しただけのことはある」


「お褒めにあずかり光栄だ。そういうあんたも頭から血を流してるってのに大した胆力だ」


「だが、まだだ……まだ私は戦える!」


 再び刃と刃が交錯する。


「殺してやる! 血まみれの天使!」


 今度はナイフでの連続突きの合間に蹴りが挟み込まれた。先ほど以上に速かった。


 ――ドゴッ!


「ぐあっ!」


 俺は蹴りの一発を食らって地面に叩き付けられた。その衝撃で肺の中の空気が一気に吐き出される。


「くっ……」


「どうした、もう終わりか? ならば、これでおしまいにしてやる!」


 マリアーヌがナイフの切っ先を俺の心臓に向けてきた。


 ――シュッ!


 だが、攻撃の速度に関して言えば俺も負けてはいない。


 ――ズガァァン! ズガァァァン!


 俺は瞬間的に銃を抜き、マリア―ヌの心臓めがけて引き金を引いた。


「うあっ……」


 彼女は後方へ吹っ飛ばされ、そのまま尻餅をつくと同時に仰向けに倒れた。急所を撃って勝負がついたか。


 しかし、違った。


「……見事な早撃ちだったぞ」


 口から血を吐き、よろめきながらも女は立ち上がってみせた。至近距離で胸に弾丸を浴びたというのに致命傷を避けるとは――おそらくサングラント・ファミールの正装らしきスーツの内側に、強固な鉄板を埋め込んだ防弾チョッキを着込んでいるのであろう。そうだとしても常人なら胸骨が砕けて気絶するところだが、マリア―ヌの胆力は桁違いだ。


「見事だよ、麻木涼平」


 またしてもマリア―ヌは笑った。あの冷たく不気味な表情を浮かべて。


「この私を相手に斯くも易々と善戦してみせるとは。やはり一筋縄では行かんようだ。今日のところは引き返すとしよう」


「……尻尾を巻いて逃げるってか?」


「旺盛な時を狙うより、弱りきったところを狙った方が楽しめる。組織に仇成す者の最期がむごければむごいほど、本国へのメッセージになるのでな」


 マリア―ヌは唇の端を吊り上げる。


 もはやその瞳には俺の姿しか映っていないようだった。彼女の目に宿った強い殺意に俺は思わず生唾を飲んだ。


「では、また会おう。血まみれの天使」


 部下たちに「帰るぞ」と言って、マリアーヌは俺に背を向けて去って行った。本庄の若衆と交戦していた構成員たちは各々が戦いを止め、ボスに続いて撤退してゆく。


「ったく。異国のネエちゃんは気性が荒くて敵わんわ」


 組員たちと共に奮戦していた本庄は、ため息と共にベンチに座り込んだ。現場に転がっている骸は皆無。双方とも痛み分けに終わったようである。


「おう、涼平。おどれ……」


「分かってる。あいつはまた俺を殺しに仕掛けてくるだろうな」


「なかなかの腕やで。流石のおどれでも勝てへんのと違うか」


「侮って貰っちゃ困る。あんな小娘、本気を出さなくたって殺せる」


 俺は立ち上がって背広に付着した土埃を手で払った。


「それはそうと、蠍の親分。あんたはメタンライトの採掘場について何か掴んでるんじゃねぇか? でなきゃ、あんたが自ら戦場いくさばへ出るわけがねぇよな?」


 すると本庄は「誰が蠍や」と鼻を鳴らした後に答えた。


「まあ、さっきは本庄組わしらだけやったら危なかったさかい。借りが出来たっちゅうことで教えてもええで」


「頼むわ」


「ついてきぃ」


 そう言って部下と共に歩き出した本庄。魂胆も無いのに、本庄が俺に優しく接するわけがない。大体にして、俺と本庄は敵対関係にあるんだ――とはいえ、一体、何処へ行くのだと戸惑いながら俺もついて行く。


「……さっきのフランス人どもは明らかにあんたを標的マトにしていた。俺への報復は二の次という姿勢だった」


「せやなあ」


 やがて到着したのは瀬波温泉にある旅館。先ほど本庄の口から出た村上市における一時拠点らしい。


「連れてきましたで」


「入りなさい」


 部屋の前に着くと奥の方から声がした。本庄と共に中へ入ると畳の上に椅子を置いて座り、葉巻を咥えた壮年の男が俺を出迎えた。


「やあ、涼平」


「総帥……!?」


 驚くと同時に慌てて頭を下げる俺。そんな部下に男――中川恒元は笑って応じた。


「疲れたろう。くつろいでくれ」


「ど、どうなさったのです!? 恒元公御自らのご出陣とは!?」


「少しばかり都合が変わった」


 どこか渋い顔で語る恒元。その言葉足らずな言い方に俺は違和感を覚える。


「い、如何なることでございましょうか!?」


「結論から申す。メタンライトなるものは存在しない」


「なっ!?」


 驚愕のあまり大声が出てしまう俺――どういうことか。あらゆる事実を帳消しにしてしまうほどの驚愕に襲われる中、その俺を制するように中川恒元は首を横に振る。


「まあ、落ち着け」


「し、新種の鉱物が発見されたというお話では……!?」


 恒元は呟くように言った。


「それがデマ・ゴーグであったということだ」


 いつになく主君の声が小さい。されど彼にとってショッキングな事態が発生したというわけではないらしい。どちらかと云えば嬉しそうだ。そして彼の隣では、本庄が口元を抑えつつ必死に笑いを堪えている。9年前にも見た、あの顔だ――何か企んでいる顔である。


「……総帥はご存じだったのでございますか?」


「つい先ほど知らされた。才原党が血を流して、ようやくアメリカの手の内を掴めた」


 聞けば、総帥は才原党の全勢力を来日中の米国大統領の探りを入れるために使っていたという。道理で葉室にまつわる諜報部隊からの報告が途絶えていたわけだ。恒元が微かに口元を綻ばせた。本庄は我慢できなかったとばかりに腹を抱えて笑い出した。


「おどれ、このわしがメタンライトなんかに踊らされるわけがあらへんやろ!」


 そんな彼を無視して、俺は恒元にたずねた。


「メタンライトの件がアメリカが流した偽情報だったとすると……奴らは何を隠しているのですか?」


 そう。エネルギー問題を解決するはずだった新種の鉱物、メタンライトは存在しなかった。全ての情報は日米両政府が世界の目を眩ますために流した偽りの風聞だった。


 では、何故にそのようなことを――恒元曰く、今回の件はアメリカに対しては何が何でも逆らえない日本の苦しい立場を露骨なまでに表す出来事という。


 日米同盟。


 アメリカ軍が日本国内に基地を置くことを認める代わりに、他国から攻め込まれた際の防衛行動を請け負って貰うというもの。


 恒元は口を開いた。緩みきった頬で、唇を動かして。


「あの条約は日本を守るためにあるわけではない。アメリカが日本を従えるための鎖だ」


「えっ?」


 戸惑う俺に恒元は続けた。


「アメリカが日本に基地を置くことにこだわったのは、日本が再び敵に回る事態を未然に防ぐためだ。日本列島に万単位の米軍を駐屯させておけば、たとえ大日本帝国が復活しようともパールハーバーの屈辱が繰り返される前に武力で叩ける。冷戦が終結した今でも同盟が破棄されないのは、そういうホワイトハウスの思惑があるからだ」


 一方、日本政府としても米軍が国内に待機していることの存在感は大きい。建前とはいえ防衛請負の条項があるため、とりあえず米軍に居て貰って敵国への抑止力にした方が利点が多いために同盟を破棄せずにいるのである。


 だが、日米同盟は条約としては不平等の度合いがきわまる。米兵が国内で乱暴狼藉を働いても日本政府は文句ひとつ言えず、基地の移転や拡大に関して米軍は必ずしも事前了解を得なくて良いとされる。


「ただ、完全無欠の合衆国軍の栄光も今や過去のものだ。中東での戦争が泥沼化してからというもの、派手に軍事行動を展開することについては国際的な非難を浴びるようになってきた……特に他国に軍の基地を置くことに関してな。特にイギリス辺りは『21世紀の帝国主義だ』と激しい言い様だ」


 2000年に象の党のアファロンソン政権が誕生して以来、米国は軍縮を求める国際世論を無視して世界中に兵を差し向けて戦争を行ってきた。ところが、対テロ戦争と位置付けた中東進駐の失敗で、これまでの積極派兵路線の継続が難しくなってきている。現地のムジャヒディン武装勢力を撃滅しきれずにいる所為で、自国民からも呆れられているからだ。


 ただ、その流れでアファロンソン大統領が軍縮に傾き、各国からの米軍基地一斉撤退を決めてしまうと、困るのが日本。米軍が去っては国を守れないから、今後も駐屯を続けて貰いたい――そんな思惑が此度の陰謀の発端だったと恒元は語る。


「さて、話を戻そう。全ては日本が今後もアメリカ軍を防衛のために利用するため。奴らに土地をねだられたのだ」


「その土地が今回の飛騨山脈だと?」


「ああ」


 にこやかな面持ちで頷き、恒元は語った。


「アファロンソンは国内向けには『世界中の米軍基地を3割削減する』と発表しておるが、あくまでも見せかけの話に過ぎぬ。正規の基地を削減する裏でブラック・ベースと呼ばれる極秘の基地を建設し、人員をそちらへ移すだけ。同盟国との共同資源開発地域を守るとの名目でな」


 そうして今回、アファロンソン米政権が欲したのが岐阜県東部にまたがる飛騨山脈一帯であったというわけだ。


「しかし、どうして飛騨なんです?」


「この辺は荒れ地が広がっている上に人口も少ない。大量破壊兵器の研究開発を行うのにこれほど適した地は他に無いだろう」


「大量破壊兵器……!?」


 俺は腰を抜かした。


 恒元曰く、飛騨山脈で米軍が極秘に進めているのは生物兵器の大規模研究施設建造だという。メタンライト採掘場に見せかけて地下に広大な空間を造り、国連の目をかいくぐって好きなだけ兵器開発を行える環境を作りたいのであるとか。


「えっ? 生物兵器……でございますか? 核兵器ではなく?」


「うむ。我輩もよく分からぬのよ。何せ先ほど聞かされたばかりゆえな」


 恒元は「アメリカは本気だ」と断言する。その瞳の奥には狂気の炎が燃えていた。


「此度、首相官邸は我輩に何の説明も寄越さなかった。『まつりごとを行うにあたっては伺いを立てよ』と言っておるのに、だ」


 恒元は国家のフィクサーである。これまで内閣の意思決定にたびたび介入しては思うがままに牛耳ってきた。にもかかわらず今回は完全に蚊帳の外に追いやられた――俺は、この状況から二つの可能性を読んだ。


 ひとつは、現在の中川恒元の影響力がアメリカ政府を前にすれば一気に窄まるという可能性。もうひとつは、彼が手にしている秘宝『以津真天の卵』が日米関係における大きな機密に関するものであるという可能性だ。


 きっと恒元は対米外交について、何かしら日本政府の弱みとなる情報を握っており、その守秘と引き換えに自らの意向を内閣に呑ませてきたのであろう。


 ところが、相手がアメリカ政府では恒元が手にしている国家機密の全てがむしろ彼の首を絞める材料となる。


 もしアメリカ側が日本政府に『以津真天の卵』の在り処を明かすように要求してきた場合、日本政府は『以津真天の卵』の所在を開示せざるを得なくなり、そうなったら恒元は忽ち権力を失う。


 つまり、世界一の大国であるアメリカの要求を撥ね退ける力など日本には無い。


「この中川恒元を差し置いて賀茂総理が合衆国と結託し勝手な真似をしていると教えてくれたのは本庄だ。もし、本庄組の顧客に不真面目な内閣府の職員がおらなんだら、我輩は気付く由も無かった」


 総帥の嘆息に、俺はコクンと頷く。本庄が何処から情報を仕入れたかはさておき、此度の件に俺を噛ませたのは純粋に先ほどの恩を返すためだろう。おそらく本庄は恒元と二人だけで事を進めるつもりであり、手柄を自分だけのものにする予定だったと思われる。


「涼平よ。お前には飛騨の平定に専念させるつもりであったが、やはりそうもいかぬようだ」


「と、申されますと?」


「この一件を片付けるためにはお前の腕こそ必要だ。後事は重忠に託すゆえ心配は要らぬ……すぐさま大垣へ赴き、賀茂に釘を刺して参れ。『中川恒元を差し置いて勝手な真似はさせぬ』とな」


「はっ、承知いたしました」


「我輩はこれより帝都に戻る。賀茂欣滔め。義輝より真面目な男かと思ったが、とんだ期待外れだった」


 作戦が完了次第、俺も帝都に戻って良いと恒元は言った。葉室が未だ見つかっていない件を伝えると、総帥は「飛騨を取り戻せたのなら構わんよ」と微笑んでくれた。


「ああ、愛しの涼平よ。お前だけだ。常に我輩の傍らにはべってくれるのはな」


 俺の手を握る恒元。彼の口からは感謝の言葉が次々と飛び出してくる。


「お前が無事で良かった。本当に良かった」


 恒元の目から涙がこぼれ落ちる。その姿を見ていた本庄がクックッと喉を鳴らして笑う。


「おどれは幸せもんやで」


 本庄に同意するのは癪だが、俺の手に触れる恒元の手が温かくて幸せを感じてしまったのも確かであった。


 総帥の命令に従い、俺は執事局の軍勢を旧葉室組事務所に待機させたまま、単身で村上市を離れ岐阜県大垣市へと向かう。


「しかし……」


 俺は呟いた。自分でも笑いそうになるほどの大それた独り言を。


 よもや賀茂を暗殺せよという申し付けではあるまい。そんなことをしてはフィクサーとしての恒元の立場が崩壊するからだ。


 熟慮した結果、日米首脳会談に先立って現地に入っている内閣府の外交専従職員を数人ほど殺すことに決めた。理由は単純明快――アメリカが日本政府に『以津真天の卵』を開示するように要求してきた場合、その情報を握っているのは連中だろうと推測したからだ。


 日本を支配するのは政府ではなく中川恒元。アファロンソン大統領への間接的なメッセージとしても効果覿面だろう。


 俺はバイクにまたがり高速を走って大垣市へと赴いた。大垣は美濃路と木曽路が交差する街。大型デパートが立ち並ぶ駅前で予約していたホテルにチェックインした後、フロントから入手した街の地図を頼りに地域の情報を確認するや、瞬発的に作戦を立て、人気のない路地まで移動する。


 そこは採掘場の視察を終えた賀茂欣滔首相とアファロンソン大統領による日米首脳会談が行われる特設会場から程近い店――怠慢という名の暇を持て余した政府職員が立ち寄らないとも限らない。仕事を為すにはうってつけだ。例の連中は読み通りに現れた。


「ふうー。疲れたなぁー」


「眠いな。マジで」


「楽じゃないねぇ。まったく」


 首からペンダントを付けた背広の三人組。あれは内閣府職員の証――おそらく内閣官房外交局の連中だ。運が良い。


 革手袋をつけた俺は、厨房の戸棚から漂白洗剤を取り出すと、近くにあったティーカップに注ぎ、さらには幾つかの洗剤を少しずつ注いで混ぜ合わせた。これで即席の毒ガスが完成した。


「……」


 そのまま外へ出て、壁に取り付けられていた空調設備へ毒ガスを流し込んだ。これで先ほどの男たちは卒倒するだろう。


「さてと」


 俺は店を後にする。そのまま近くのビルへ入り屋上へと出た。そして双眼鏡を用い、向かい側を見やる。


「……」


 すると案の定だ。店内では3人とも泡を吹いて倒れている。幸いにも他の客はおらず、厨房の店員たちは大慌てだ。


 彼らが座った席は換気扇のすぐ近くだった。ゆえにかなりの量の毒ガスを吸い込んだと思われる。作戦成功だ。


 ちょうど今頃は恒元が賀茂総理に話をつけているはず。さて、脱出しようか――と思った瞬間。


 俺は不意に背後から気配を感じた。


「久しぶりね。涼平」


 振り返ってみると、そこには一人の女が立っていた。


「誰だ」


「ひどいわね。私の顔を忘れたなんて」


 くっきりとした目鼻立ちに長い睫毛。その切れ長の瞳に宿るのは、俺に対する愛慕の念。


「……」


 俺は彼女の名を知っている。どうにも見覚えのない風貌だが、可能性としてひとつの名前が浮かび上がった。


「……もしや、絢華か?」


 すると女は微笑む。


「ええ。そうよ。今は『アヤカ・ブランシェア』と名乗っているけど」


 村雨むらさめ絢華あやか。かつて横浜で下積みをしていた時分に知り合った女にして、俺の初恋の相手である。


 彼女の近況は風の噂で把握していた。


「……ベルリンのイギリス大使館で働いていると聞いたが、どうしてここへ?」


「日本へ異動になったの。でも、考えれば分かるでしょ。大使館付武官なんて肩書きが世を忍ぶ仮のものであることくらい」


 そう言った彼女はメガネを外し、豊かな胸の下で腕を組みながら真っ直ぐに俺の瞳を見る。とても俺と同い年の女、もっと云えば9年前に車椅子で生活していた少女だったとは思えないような強い眼力だった。


「確か、イギリスのスパイだったよな」


「ふっ。『お前はスパイか』と訊かれて素直に答える馬鹿はいないけど特別に答えてあげるわ。『イエス』と」


「イギリスがどうして今回の日米首脳会談に?」


「質問したいのはこっちよ。ジャパニーズ・マフィアの幹部がどうして国際政治の裏で暗躍しているのか……と言いたいところだけど、生憎ながらあなたのことは全て把握済みなの。中川恒元は今や世界中の情報機関が注目しているからね」


「一言多いところ、昔と変わらねぇな」


「あなたこそ、分かりきったことを敢えてわざわざ訊ねる癖は相変わらずね。アメリカの基地拡大をイギリスが快く思っていないことくらい、簡単に想像が付くでしょうに」


 長らく会っていなかった所為か、やり取りの節々にノスタルジーが感じられて仕方ない。だが、俺の心は不思議と落ち着いていた。


「まさかアファロンソン大統領を殺しに来たってのか?」


 思い出話も程々に、俺は率直にぶつけた。すると絢華……いや、アヤカ・ブランシェア上級大尉は、にっこりと笑って答えた。


「いいえ。あなたと同じ、今回は伝言みたいなものよ。『国連決議を無視して海外に基地を拡大し、あまつさえ平和主義を国是とする日本に大量破壊兵器を運び込もうとするなど言語道断』という皇帝陛下のご意思をね」


 その直後、街の遠くがドッとざわめき立つ。喧騒は瞬く間に俺たちが佇んでいる区画まで波及してゆき、忽ちストリート全体が大パニックに陥った。あちらこちらからサイレンが鳴り響き、悲鳴や怒号が飛び交い始める。


「何をした?」


 するとアヤカはなおも笑った。


「さっきのあなたと同じことをやったのよ。大統領にね」


 その刹那だった。


 ――パンッ! パンッ!


 複数の闘気が現れたかと思えば、乾いた金属音が辺りに響いた。その正体が消音機を付けた状態での発砲音であることに気付くまで時間は要さず、俺は瞬間的に横へ飛んで躱す。アヤカも同様に避けた。


「ふっ、おでましのようね」


 頬を緩める上級大尉が見つめる先には、スーツ姿の屈強な黒人男性が数名。手には銃が携えられていた。彼らの標的は訊かずとも分かる。


「……尾行されていたのか」


「私が気付かないわけないでしょう」


「元恋人の俺に助けて貰おうとは。図々しいところも昔と変わってねぇな」


「あら。何のことかしら」


「けっ、困った女だぜ」


 俺が肩を竦めるや、目の前の男が英語でまくし立てる。


「You stay here, fucking girl. You killed the president. I'm going to kill you.(ここに居やがったか、クソ女。よくも大統領を殺してくれたな。ただじゃおかねぇぞ)」


 その言葉を聞くや、俺は息を呑んでアヤカに尋ねる。


「おいおい、大統領は殺さねぇんじゃなかったのか?」


「殺してないわよ。泡を吹いたから死んだように見えただけでしょう。まあ、すぐに病院で応急処置を施さないと助からないけど」


 なるほど、さしずめ先ほどの喧騒は遅効性の毒薬を飲まされていたアファロンソン大統領が卒倒したことによるものだったか。そしてアヤカは現場から立ち去る姿を護衛部隊に目撃されていたものと考えられる。


 何はともあれ、この男どもを倒さねば。状況から考えるにおそらく米国本土から随行してきたシークレット・サービスだ。


「……はあ。アヤカ。隠れてろ」


「私を誰だと思っているの?」


「だったら一緒に戦ってくれ」


「ふふ。イギリスはアメリカよりも強いって証を見せてやるわ」


 次の瞬間、絢華は懐から何かを取り出したかと思うと力強く地面に叩き付けた。たちまち辺りに煙が立ち込める。


「今よ、涼平!」


 俺は煙の中に飛び込んで、手当たり次第に男たちの急所を殴っていった。そして最後の一人が白目を剝いたところでその鳩尾に拳を打ち込む。


 ――パンッ! パンッ!


 ほんの数秒の間に全員の眉間から鮮血が噴き上がったので驚いて振り向くと、アヤカは抜いていた拳銃を懐に仕舞うところだった。やはりあの軍人らしからぬ豊かな乳房の谷間には、きわめて危険な武器を仕込んでいたようだ。早撃ちの技術も素晴らしい。


「なあ、アヤカ」


「何?」


「お前、今何歳だ」


「あなたと同じ、24歳よ。それがどうかした?」


「いや……もう立派な大人だなと思ってよ」


 俺は彼女の胸元から目を逸らしながら答えた。すると彼女はクククッと笑う。


「あら、嬉しいわ。良い女に成長したと褒めてくれるのね」


「車椅子から降りられなかった姿が目に焼き付いてるんだ。嫌でも褒めざるを得ん」


「懐かしいわね。あの頃の私はまさにかごとりだった。何処へ行くにも車椅子が手放せなくて、体の自由も利かない。そんな私に生きるきっかけを与えてくれたのがあなたよ」


「よせやい。身の回りの世話を任されていただけだ」


 言葉とは裏腹に、俺の頭の中では懐かしい光景が白黒映画のごとく浮かび上がる。かつてアヤカは養父である村雨耀介の敵対勢力に銃撃され、全身の臓器を損傷。立って歩けぬほどに衰弱していた。俺と出会ったのは、そうした境遇に未来を悲観した彼女が自ら命を絶とうとしていた時期だった。


「嬉しかったわ。あなた、私に言ってくれたじゃない。『お前のために生きてやる。だからお前も俺のために生きろ』って。だから私は生きることにしたの」


「……よくもそんな台詞を吐けたもんだ」


 あまり覚えてはいないし、何だか別のことを言ったような気がしたが――ひとまず自嘲気味に笑った。当時のアヤカは15歳。まだ年端も行かぬ少女だ。


「あの手紙も嬉しかったわよ」


「すまねぇな。本当は全てを片付けたら村雨組に入るつもりだったが……色々とイレギュラーなことが連続しちまって、このザマだ」


「何を言ってるのよ。世襲したわけでもないのに20代で組織の幹部じゃない。お父様の組に入るより、むしろ幸せな人生を歩んでいると思うわ」


 現状への迷い、そして過去にまつわる後悔は既に全て捨てている。ゆえに俺は「まあな」と答えた。されども一抹のばつの悪さが胸に漂っていた。


「アヤカ。俺はお前を……」


 だが、その言葉は塞がれた。俺の唇を覆った、彼女の唇によって。艶やかで、色っぽい感触が動き始める。


「言わないで。私は、あなたが幸せならそれで良いの」


 彼女が舌を突き出すと、俺の口の中へと入り込む。蛇の如き蠢きが俺の舌へ触れた途端、痺れるような甘い感覚が脳天から足先までを駆けめぐった。


「んっ……ふっ……」


 吐息を漏らすアヤカの声を聞きながら、俺は自らの舌が麻痺していることを悟った。極限状態下に発生する特有の現象だ。口付けを交わしただけで全身を支配されかけている現実に少なからず驚いたが、すぐに冷静さを取り戻す。


「……ここを離れようか。ムクロが転がってる傍で昔の女とイチャつく趣味は無い」


「そうね」


 俺の言葉で彼女も我に返ったようで、すぐにスパイの顔に戻った。今の俺はマフィアの暗殺者で、アヤカは英国情報機関の工作員。交わる理由など何処にも無い。


 されども気にはなる。英国が今回の件に如何ほど首を突っ込んでいるのか。俺は中川会の理事であると同時にフィクサーの専属アサシンでもある。状況次第によっては恒元の利点に繋げられよう――俺はアヤカを誘った。


「この近くに部屋を取っている。お前さえ良ければ」


 情報交換を行うなら路地裏でも良かったであろうが、俺は本能のままベッドの上を提示した。まったく、自分で自分が嫌になる。まあ、このさがは今に始まったことではないのであるが。


「良いじゃない。研修中に習ったわ。『女を武器にするテクニック』を……まさか元彼相手に実践することになろうとは思わなかったけど」


 アヤカは乗り気だった。そんなこんなで俺たちは、気付けば大垣駅前のホテルのスウィートルームに居た。シャワーを浴びた後、アヤカはバスローブを身に纏い、湿った髪を搔き上げながら俺に勧める。


「ワイン飲まない?」


「ああ……貰おう」


 この状況下で飲酒するのは不用心が過ぎる気がしなくもないが、物事には何事もムードというものがある。俺はグラスに注がれた深紅の液体を喉へと流し込んだ。赤ワイン特有の風味と香りが鼻を抜ける。そしてひと呼吸おいてから俺は口を開いた。


「何で英国は今回の日米首脳会談に首を突っ込んできたんだ?」


「皇帝陛下のご意向よ。あの御方は何が何でもアメリカの邪魔をしようと躍起になってるの。イラクじゃ出し抜かれて煮え湯を飲まされたからね」


「だが、メタンライトの購入を乞うてきた国の中にはイギリスも含まれている。例の件の真相に気付いているなら国連安保理で堂々とバラしちまった方が合衆国に痛い目を見せられるだろうに」


 俺の疑問に、アヤカは「ノーノー」と指を振りながら答えた。


「全てを掴んだ上で一枚噛みたいからよ。陛下はホワイツ内閣に日本との防衛面での将来的な協力関係構築をお命じになった」


「……ほう?」


「こうも仰せのようね。『I hope to reconcile with Japan.(余は願わくば日本とよりを戻したい)』と」


「日英同盟を復活させるってか?」


「少なくとも日英でFTA《自由貿易協定》を締結できるくらいの関係を築きたいみたい」


 俺はグラスを傾けながら、彼女の言葉に耳を傾ける。


「なるほど……しかし、得策とは思えん。百年前ならともかく、今はあちらにとってメリットが無い。世界第二位の経済大国の座も中国に奪われようとしてるってのに、イギリスは落ちぶれる日本の何処に目を付けて関係を深めようとしてるんだ?」


「技術力よ。勿論、今回の件も含めてね」


「いやいや。お前も知ってる通り、あれは大量破壊兵器開発を誤魔化すために日米の諜報機関が結託して流した偽の……」


 そんな俺にアヤカが語ったのは驚くべき事実だった。


「今回、飛騨山脈に造られることが決まったのは米軍の生物兵器研究施設じゃないわ。日本の生物兵器研究施設よ」


「なっ!?」


「アメリカからの資源提供の下で日本の研究者が主導する。そしてゆくゆくは最強の生物兵器をつくり上げるの」


 事もなげに言い放つ彼女の言葉を反芻はんすうし、俺は驚嘆する。


「最強の生物兵器……だと!?」


 アヤカは頷いた。


「ええ。私たちの機関が掴んだ情報では、凄まじい身体能力を備えた人類の突然変異体ミュータントを人工的に作り出す施設らしいわ」


 俺の頭では信じられない御伽話のごとく認識されたが、アヤカ曰く人造人間を生み出す理論は20世紀の時点で既に確立されていたという。冷戦時代に幾つもの衛星国を動員して圧倒的な兵力数を誇ったソ連に兵士の質で対抗すべく、西側諸国では競い合うように超人を作る技術の研究が行われたという。


「その技術を世界で初めて論文に書いたのが日本の研究者だった。学会発表の翌年にマルタ会談が行われて冷戦が終わったから、計画は始動しないまま今も休眠状態らしいけど。その博士は学会発表で『西ドイツ国内での臨床テストに成功している』とか何とか言ったみたいだし、やろうと思えばすぐに出来るんじゃないかしら」


「……驚いた。しかし、ホワイトハウスの考えそうなことではある」


 そもそもこの『ミュータント製造計画』に関する情報の一切が中川恒元に伏せられていた時点で、賀茂欣滔首相は彼に叛逆する意思を抱いているということだ。欲に目が眩んだと思しき内閣府職員による本庄組へのリークが無ければ、恒元の権威は大きく低下していたはず。しかし、その裏にアメリカの圧力があったことも俺は容易に理解した。


「ホワイトハウスはツネモト・ナカガワを日本の王として扱う気は無い。少なくとも私たちの機関はそう睨んでいる」


 ワイングラスを傾けながら何やら怪しげな笑みを浮かべるアヤカに、俺は言った。元恋人の間柄でなくとも、事ここに至って英国の思惑を悟れぬようでなければ稼業の男は名乗れない。


「……うちの総帥はイギリスと手を組むべきだと?」


 アヤカはにっこりと笑う。


「ええ」


 ミュータント開発技術の供与――つまるところ、英国の狙いは日本の技術力を吸収することなのであろう。「私たちの機関に任せてくれればCIAに気付かれないよう事を運ぶわ」とアヤカは言ったが、簡単に首を縦に触れる話ではない。ましてや、俺の一存で答えを出せる問題ではないのである。


 ため息をつくと、俺はアヤカを抱きしめた。


 そしてそのままキスを落とし、バスローブからこぼれた豊満なバストを揉む。


「あんっ……」


 甘い声を上げつつアヤカは俺の首に手を回し、舌を絡めてきた。その勢いのまま俺たちはベッドに倒れ込む。


「ふふ……やっぱり、私の事が好きなんじゃない」


「昔の話だ」


 俺は彼女のバスローブを剥ぎ取り、全裸になった彼女を再び抱きしめる。そしてそのまま唇を奪い、今度は俺が彼女の口内に舌を入れてやる。


「んっ……んっ……」


 彼女は俺の舌を受け入れながら、自らの舌を俺の舌に絡め、お互いの唾液を交換する。彼女はそのままベッドに仰向けに倒れると、足を大きく開いて誘惑する。今や女スパイとして国際政治の裏舞台で暗躍するアヤカの筋肉質な体には無数の傷が刻まれており、そこには8年前の手術の痕もくっきりと――されど俺は構わず彼女の胸に手を伸ばした。


「あっ……ん……」


 アヤカの口から艶めかしい声が漏れる。俺は彼女の胸のピンク色の突起を摘まむ。するとアヤカの体がビクンと跳ねた。


「あんっ! だ……めよ……そこは」


「何が駄目なんだ?」


「あっ……ん……」


 アヤカの乳房を舌で舐め、その先端を口に含む。そして俺はちゅうちゅうと音を立てて吸いながら、もう片方の胸を揉んだり、乳首を指で弾いたりする。その度に彼女の口から甘い吐息が漏れた。


「あんっ……あ……ん」


「相変わらず敏感だよな。お前」


「あ……あなたが……んっ……上手なだけよ……」


 俺はアヤカの股間に手を突っ込み、彼女の秘所に触れる。


「あっ……あああああっ!」


 悲鳴のような声を上げながら、彼女は果てた。それから数時間にも及ぶ濃密な再会を楽しんだ後、俺はアヤカに答えた。


「アヤカ。すまんが俺の一存では決められん。総帥に伺わなくては」


「……分かっているわ。皇帝陛下も『すぐに返事を寄越せ』とは仰っていない。次のG8までは待つとのお言葉よ」


「ずるいな。おたくの国の皇帝は。総帥の足元を見ている」


「さあ、何のことか分からないわ」


 来年開催予定の国際会議で日本がイニシアティブを執れなければ、恒元のフィクサーの名に傷がつく。アメリカの言いなりになることがおおよそ分かりきっている中で英国が助け舟を出す代わりに、要求を呑めとは――まったくもって態度が大きい。尤もアヤカに不満をぶちまけても仕方ないので、この話はここまでにしておこう。


 元恋人の秘所を指で弄りながら俺は尋ねた。


「しかし、どうしてお前が軍人に?」


「……っ……い、今、それを聞かないで」


 アヤカが喘ぎながら答える。俺が指を動かす度に彼女の口から甘い吐息が漏れる。


「んっ……あ……はあっ……あ……」


「答えてくれ」


「んあっ! だ、駄目……そんなとこ弄りながら聞かないで!」


 俺は構わずに続けた。


「そもそもアメリカの高校に進学したはずだったよな。それがどうしてイギリスに」


「はあっ……私はアメリカが嫌いなの。何かにつけて唱えられるプロテスタントの教義が肌に合わなかった。だから、高校を卒業した後で、ロンドンで暮らしている叔母様を頼って、海を渡って、あっちの大学に進学したの」


「だからって軍人になることは無かったろ」


「機関がスカウトしてきたのよ。成績が優秀だったからね。『我々の所に来れば国籍と永住権を与えてやるぞ』って言われて」


 アヤカの双丘が俺の胸板に押し当てられる。そのまま彼女は俺の首筋に舌を這わせた。そして耳元で囁く。


「それに……私は血に飢えていたの。あんな男の傍で育ったんですもの。当然でしょう」


 俺は苦笑する他なかった。


「まあ、そうだろうな」


 村雨組長がアヤカを遠い異国の地に送り出したのは、血生臭い裏社会から遠ざけるねらいもあったはず。そんな養女が今やイギリス国防省傘下の情報機関でエージェントとして活動しているのだから、養父としてはさぞ胃の痛い思いをしていることだろう。ただ、話を聞くに然程反対はされなかった模様。


「意外だな」


「何だかんだ、お父様は私のわがままは聞いてくれるから。その辺は昔も今も変わらないわ」


 まあ、組長としても親想いのアヤカを通して国際政治の情報を入手できるから利点はあるのだろうが。それはともかく、久々に再会した元恋人から聞かされたのはさらに意外な事実だった。


「そもそも、あの人にとって子供は私だけじゃないから」


「まあ、組の若衆は全員が息子みてぇなもんだろうな」


「違うわ。実子がいるってことよ」


「えっ? 実子?」


「ええ。私が成人するまでは伏せてくれていたらしいけど。若い頃、結婚していない複数の女性との間に一男二女を儲けたって」


「……天下の残虐魔王も隅に置けねぇな」


「まったくね」


 それから俺たちは、ベッドの中で昔話に花を咲かせた。俺が村雨組の門を叩いた日のこと、月夜の空の下で愛の接吻を交わした時のこと――狂おしくも楽しかった1998年は、云うまでも無く青春の時間だった。


「……過去って不思議ね」


 仰向けになったまま、アヤカは呟いた。


「まさか、その8年後に私たちは裏社会のクライアント同士として再会するなんてね。下手をすれば、あなたと私は殺し合うかもしれないのに」


「そうだな」


 俺は頷いて言った。


「だが、俺はもう迷わん。俺は理想に命を懸けて生きているからな」


「……ええ。私もよ」


 俺たちは再び唇を重ねる。それから俺たちは再び愛し合った。時を忘れて、全ての過去を洗い流すように。


 如何ほどの間、元恋人の肌に身を委ねていたかは覚えていない。されど、目覚めた時にアヤカの姿は既に無かった。代わりに、ベッド脇のテーブルには紙切れが一枚。


『Thank youありがとう


 その隣にはアヤカ・ブランシェア上級大尉の連絡先が書いてあった。ああ、また秘密のアドレスが増えてしまった。華鈴に悪いな……。


 元恋人との再会はさておき、俺が内閣府の外交専従職員数名を暗殺したことは、賀茂内閣に向けた大きすぎるほどの意思表示メッセージになった。賀茂欣滔総理はまるで人が変わったように態度を軟化させ、翌朝、赤坂へ戻った恒元に説明の使者を遣わしてきた。


「全ては、日本の、国益を思えばこそ。アメリカ、との、関係を密接にすることが、何よりの……」


「もう良い。下がれ」


「ははーっ!」


 マフィアの巣窟へ遣わされたことが恐ろしくでたまらなかったのか。現れた外務省職員は終始額に冷たい脂汗をかいていた。恒元としては『ミュータント開発計画』に異論があるわけではない。


 ただ、自分を差し置いて勝手に話が進んだことが不愉快なだけらしい――俺が持ち帰ったひとつの取引材料を除けば。


「涼平。お前はどう思うか」


「恐れながら、得策ではないと存じます。迂闊にイギリスと手を組めば、それこそアメリカとの関係悪化を招きます」


「当然だ。日米同盟にもヒビが入るだろう」


「ですが、それはあくまでもアメリカが完全なる優位に立っている場合の話です」


「……今回は例外だと?」


「ええ。海外に少しでも基地を増やしたいアファロンソン大統領は多少の摩擦で同盟破棄を言い出したりはしないでしょう」


「確かにそうだろうがな」


「例の極秘研究にイギリスを参画させるのです。勿論、アメリカの了解を得た上で」


「……っ!」


 恒元の表情が僅かに硬直した瞬間を俺は見逃さなかった。


「生憎、我輩は大英帝国が嫌いでな」


 そう言いながら恒元は苦笑してみせた。それから俺に言うのであった。


「すまんが此度ばかりは聞かなかったことにさせてくれ。例の計画は政府の決定通りアメリカとの二国研究で進める」


「承知いたしました」


「ただ、カードを増やしておくに越したことはない。その村雨の養女とやらとは今後も情報交換を続けてくれ」


「心得ました」


 そう言いながら俺は頭を下げ、総帥の執務室を辞去した。廊下を歩きながら、改めて得られた確信に自然と頬が緩む。中川恒元が持つ『以津真天の卵』の効力は日本がアメリカの言いなりである状況を前提にしたものであると――ならば政府の対米従属姿勢が未来永劫続くよう、裏から操らねば。


 午後、俺は華鈴の入院する高輪の中川叡智病院へ出向いた。彼女が妊婦として受けるメディカルチェックに立ち会うためだ。主治医の老婆は「順調です」と報告しながら微笑んでいたが、やはり安堵はできない。出産当日までは気が抜けない……。


 なお、華鈴が患っているPTSDについては少しずつ回復しているとのことで、こちらはひと安心といったところだ。尤も、完全治癒までにはまだ時間がかかるようだが。


 主治医から意外なことを言われた。


「旦那様も戻られたことですし、本日をもって退院して頂いて大丈夫です」


 診察室で二人して顔を見合わせる。俺が傭兵時代に呼んだ医学書ではPTSDの治療には1年以上かかると記述されていたはずだ。


「ああ、お気になさらず。華鈴さんは本来の治癒能力を取り戻しております」


 主治医の説明によると、PTSDを治療するために一番大切なのは周囲の人間の支えだという。


「ずっと病室に閉じこもっているよりも、家に帰って温かいご家庭に浸った方が精神的な傷は癒されます。また、華鈴さんの場合、お腹の中にお子さんがいらっしゃるのでストレスを溜め込むのは良くありません。ご主人として、何があっても奥様をお支えください。産後のケアにも繋がりますから」


 俺としては華鈴には大事を取って貰うつもりでいたが、それで良いのか。何とも首を傾げるばかりだが、医師がそう言うならそうなのかもしれない。一方、当の華鈴は戸惑っていた。


「あっ……あっ……」


「華鈴さん? 大丈夫ですか?」


「え、ええ」


 頬を染める華鈴。きっとこの老婆は、そういう意味で言ったわけではないだろうが、突っ込まないでおこう。


 俺たちは互い何とも言えない雰囲気に包まれたまま病室へと戻り、荷物をまとめた。中川叡智財団直営の病院だけあって広さと内装はさながらホテルのスウィートルームだが、これでも一般病棟だというから驚かされる。


 ベッドには派手な装飾が付いており、クローゼットには数着のナイトウェアがかけられている。


「……」


 つい数時間前まで自分が寝ていたベッドを無言で見つめる華鈴。その瞳の色には喜びに織り混ぜられる形で、憂いや不安の色が見え隠れしている。ふと立ち止まった俺は妻を見やると、優しく声をかけた。


「華鈴」


「……えっ」


「大丈夫だ。大丈夫だから」


 すると華鈴はハッと我に返った様子で俺を見つめてきた。そしてゆっくりと唇を動かす。


「……りょ、涼平。あの、あたし」


「何も心配することはない」


 俺は華鈴を抱きしめ、その大きな胸に顔を埋めた。そして耳元で囁く。


「華鈴。大丈夫だ。大丈夫だからな」


「……うん」


 華鈴は頬を朱に染めながら頷く。彼女は未だ心の何処かで恐れている。夫と共に過ごす日常を取り戻すこと、そして我が子をこの世に迎えることを。


 そんな愛妻の耳元で俺は言った。


「華鈴。お前は強い女だ。これからも俺と共に歩いて欲しい」


「っ! うん!」


 華鈴の瞳に活力が宿る様子を見て、俺も小さく微笑む。そして改めて思った。この女を守るために、この子を守るために、何があろうとも戦わなければならない――それから俺たちは荷物を持って部屋を出たが、入り口の敷居を跨いだところで声をかけられる。


「あのぅ」


 先ほどの女医だ。


「ちょっと、よろしいでしょうか」


「えっ?」


「退院されるにあたって、ちょっと気を付けて頂きたいことがありまして」


 精神病患者の日常生活における注意喚起か。されども女医は意外なことを言ってくる。


「旦那様と二人きりでお話できませんでしょうか」


 またしても夫婦そろって顔を見合わせる。患者本人に言えないことか――ともあれ、仕方あるまい。


「華鈴。ちょっと待っててくれ」


「うん」


 俺は看護師に華鈴をロビーへ誘導してもらうよう頼むと、主治医を連れ出して二人きりの空間でたずねた。


「何か不安があるって顔をしているな。あんた自身、退院させるのは時期尚早だと考えてるんじゃねぇのか?」


 そう率直にぶつけると、主治医は頷いた。


「ええ、まあ」


 俺は嘆息をこぼす。


「だったらどうして……」


 しかし、壮年の女医はそこへ割り込むように口を開いた。どこか焦燥と恐怖の念を感じさせる表情で。


「よからぬものを感じるからです」


「はあ?」


「ここのところ、奥様の病室があるフロアに、その、中川総帥のお付きの方が頻繁に顔を出しています。私、この病院で長いこと働いていますから、分かるんですよ。その、何て言えば良いのか、中川総帥が、特定の患者を始末する時の前触れみたいなものが」


 刹那、俺は笑い飛ばした。


「はっはっはっ! そらぁ勘違いってやつだ!」


 続けて言う。


「俺は組織の幹部で総帥の側近だ。目をかける部下の妻に万が一のことがぇよう、護衛を付けるのは当然だろ。事実、その件については総帥から俺も聞かされてる」


 そうして「それがあんたには殺し屋か何かに見えただけのことだ」と付け加えた。しかし、女医は憂慮に満ちた表情を崩さない。


 この婆、何が言いたいのか。


「中川総帥がお持ちになっている力については旦那様もご存知ですよね?」


「ああ、もちろん。素晴らしきまつりごとを施しておられる」


「……あの御方は政府どころか報道機関全体を掌握し、テレビ、ラジオ、新聞の紙面から雑誌における記事までをコントロールされています。最近ではインターネットの掲示板でのトレンドをも操り、人々の思想を誘導しておられるそうではありませんか」


「そうだな。そいつがどうした?」


「あの御方に歯向かえば、それこそ存在を抹消される」


「だから、何だってんだ?」


 俺は苛立ちを抑えながら訊いた。すると女医は意を決したように俺を見据えながら告げた。


「くれぐれもお気を付けください。私から言えるのは、それだけです」


 深々と頭を下げると、女医は立ち去って行った。そんな老婆の姿を俺は怪訝な表情で見送ると同時に、呟く。


「何を勘違いしてんだか」


 退院で彼女の手から離れるのは、むしろ良いことかもしれない。あのように思い込みの激しい人物の傍に居たら、妻は却って不安を感じてしまう。


 舌打ちを鳴らしながら、俺はエレベーターに乗って1階へ降りる。そこで夫を待っていた華鈴と合流し、向かったのはロビーに隣接するカフェテリア。


 会計は恒元が持ってくれる。俺としてはすぐにでも妻との時間を楽しみたかった。暫く会えなかった分を埋めるように。彼女の存在を確かめるように。


 そこで注文したアイスコーヒーをすすりながら「大丈夫かな?」と不安げに俺を見つめる華鈴に、俺は今一度微笑みかける。


「心配いらねぇよ。医者の先生も順調だって言っていただろ」


「でも……」


「お前のお腹の子は強い子だ。必ず無事に生まれてくるさ」


「……うん」


 華鈴は小さく頷くと、まだ膨らみ始めたばかりの腹部にそっと掌を当てた。柔らかそうな指先が慈しむように撫でる仕草に、愛おしさが胸いっぱいに広がってゆく。


「涼平。あたしさ、お腹にいる赤ちゃんに話しかけるようになったの」


 華鈴が俺の腕に自らの細い腕を絡ませながら言った。その声は明るく弾んでおり、表情にも憂いは無い。本当に元気になってきたな、と思うと同時に安堵の気持ちが胸に広がってゆく様子を感じた。だが、油断はできない。華鈴の傷はまだ塞がり切ったわけではない。妊娠によって体調はさらに不安定になるだろうし、PTSDが再発しないとも限らない――それでも彼女は笑っていた。だからこそ、俺は彼女を守らなければならないと思ったのである。


「そうだな。いつか、生まれてきた我が子に『父さん』と呼ばれる日が来ると思うと、感慨深いものがある」


「ふふっ……もう呼んであげているんだけど」


「えっ?」


「だって、涼平はあたしのお腹の中で暮らしている小さな生命いのちにとって父親でしょ」


「……そうか」


 俺は華鈴のお腹を撫でる。すると華鈴はくすぐったそうに目を細めて笑った。


「ねぇ、涼平。あたし、思うんだよ。きっとあの子は……あたし達に素敵な未来をくれるって」


「ああ、きっとそうだな」


「最近、ちょっと寂しかったんだよね。何か、自分が涼平から離れて行ってるような気がして」


「そ、そんなことは無い!」


「だったら、お願い。これからはずっと傍に居て。あたしから離れないで。組織の幹部としてやらなきゃいけないことが多いのは分かってるけど……どうか妻のわがままを聞いてほしい」


 俺は力強く頷いた。華鈴は嬉しそうに微笑む。そして、俺たちは暫くの間互いの顔を見つめ合うのであった。


 久々に会う妻は少しだけ痩せていた。それでも艶やかな金髪の間から覗く白いうなじは美しく、健康的な色香を漂わせている。俺は思わず見惚れてしまう。


「どうしたの、涼平?」


 不思議そうに小首を傾げる妻に、俺は慌てて首を振る。


「な、何でもねぇよ。何でも……」


 すると華鈴はクスッと笑ってから、コーヒーグラスを両手で包むように握りしめながら言った。


「そっか。じゃあ、いいや」


「うん……」


 それから華鈴は窓の外を見つめながら静かに微笑んだ。そんな横顔を見ていると、何だか急に寂しさが込み上げてきた。俺は妻に手を伸ばし、指先を絡ませる。彼女は一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐにぎゅっと握り返してくれた。


「涼平。仕事で忙しいのに……逢いに来てくれてありがとね」


 華鈴は恥ずかしそうに頬を染めながら呟いた。俺は妻の肩を抱き寄せながら言う。


「当たり前だろ。お前は俺の妻なんだから」


「うん……」


「これからずっと、ふたりで一緒にいよう。ふたりだけの世界で」


「……うんっ」


 華鈴は幸せそうに微笑むと、俺の肩に頭を預けてきた。俺はそんな妻の髪を撫でながら、ふと考える。もし仮に、このまま二人で逃げ出してしまったら……?


 その時は、きっと追っ手が来るだろう。それでも、俺は後悔しないと思う。だって、この腕の中にある温もり以上に大切なものなんて存在しないのであるから……。


 夕方、病院を後にする俺は最後に妻を抱きしめて、耳元で囁いた。


「華鈴。大好きだ」


 ばつの悪さに駆られ少しばかり目を伏せるという、夫としては実に情けない姿。そんな男に、華鈴は優しく笑うのであった。


「あたしも」


 そうして帰路に着く道中、俺は煙草に火を付ける。今までの時間が、つくづく馬鹿馬鹿しく思える。妊娠という未曽有の出来事を前に苦しむ妻を前に、俺は一体何をやっていたのか……!


 華鈴の腹部は少しずつ膨張を始めている。胸も以前にも増して肥大化している。あどけない女の体から、子を産む母の体へと少しずつ変わっているのである。無論のこと、心の持ちようも。


 変わっていないのは俺だけだ。己という人間をひどく間抜けに感じながら、妻の手をぎゅっと握りしめ、ゆっくりと赤坂三丁目への帰路に就いた。


 帰宅後、俺たちを出迎えたのは舅の雅彦氏。娘の快気祝いと称し、彼お手製の鍋料理をご馳走になった。


「やっぱりさあ、お祝い事といったら、すき焼きだよなっ!」


「何これ、牛肉じゃなくて鶏肉だし。白菜が丸焦げじゃん」


「へへっ。あんまり上手くはいかなかったみたいだなあ」


「もう! お父さん! 慣れないことはしないでよっ! 自炊なんて普段から殆どしないじゃんっ!」


 父を睨み、ぷっくりと頬を膨らませる娘――微笑ましい光景に目を細めると同時、俺は大いなる達成感を味わえた。雅彦氏の元へ、無事に華鈴を返すことが出来たから。婿としての最低限の義務は果たしたと云えよう。


「はははっ。まあ、そう怒るな。美味いかどうかはともかく、華鈴の妊娠を祝う気持ちは込めたはずだから」


「だと良いんだけど。それよりさ……」


 そう言いながら華鈴が俺の肩を叩く。そして上目遣いに言った。


「涼平の分はちゃんとあたしが作るから」


 その言葉を聞いた雅彦氏は一瞬だけ眉間に皺を寄せたが、すぐに気を取り直したように笑い出した。そして言う。


「ふっ。涼平君は幸せ者だな。こんなに綺麗で可愛い嫁さんに料理を作ってもらえるなんてさあ」


「そうよ。あたしがいる限り、涼平は美味しいものを食べられるんだからね!」


 俺は照れ臭くなって頭を搔いた。すると雅彦氏は、そんな俺に言う。


「君に娘をやって良かった。こんなにも幸せそうな娘の顔が見られるとは思わなかった」


「ありがとうよ。親父さん」


 頭を下げた俺に、雅彦氏は「ああ」と手を振った。その仕草はどこか照れ臭そうで、何故だか嬉しくなってくる。そんなことを考えているうちに夕食は終わり、雅彦氏はそのままダイニングテーブルに突っ伏していびきをかき始めた。


「ぐががががががぁっ! ぐがががががががぁっ!」


 御年48歳。年齢的にはまだまだ若いはずなのに、暴れん坊という喩え文句を地で征く破天荒な人生を歩んできた所為か、義父の風貌には白髪や皴といった老いが目立つ。あと半年もすれば孫が生まれる御仁と説明すれば、きっと皆が納得するであろうルックスだ。


 せめて雅彦氏には俺の子が成人を迎えるまでは、いや、そいつが結婚して子を儲けるまでは長生きして貰わねば。俺にとっては孫であり、雅彦氏にとっては曾孫だ――待てよ? それって俺の息子あるいは娘が結婚するということだよな? 前者だったら喜べるだろうが、後者だったら祝福できるのか?


 娘が彼氏を連れてくる日の情景を想像し、俺は胸の辺りが苦しくなった。我ながら気が早いことだ。現時点では生まれてもいないどころか性別も分かっていないというのに。


 きっとこれは世の父親が総じて味わっている苦悩だ。雅彦氏の場合は娘の気の強さを憂慮し、婚期を逃して行き遅れる前にどうぞと喜んで俺に差し出してくれたわけだが、世間一般における親の気持ちというのは斯様なものであると思い知らされる。娘が嫁に行ってしまった父親の悲哀を想い描くと、不覚にも涙が出てきそうになった。


 雅彦氏を抱え上げて寝室のベッドへ寝かせた後、俺と華鈴は食器の後片付けをした。途中、互いの手が触れ合うたびにどきりとする。華鈴の方はと言えば、恥ずかしがりながらも嬉しそうであったが、俺の方はと言うと緊張が止まなかった。


「なあ、華鈴」


「うん?」


「俺とお前の子が産まれてきたら、どんな未来が待ってるのかな」


 華鈴は驚いたような顔をして、それからクスクス笑う。


「涼平ったら。もうそんなことを考えちゃってるの?」


「当たり前だろ。どんな子供が生まれて来るのか、楽しみで仕方ねぇんだ」


「そうだね。あたしも早く顔が見てみたい」


 華鈴の言葉に、俺は大きく頷く。


「ああ。どんな名前が良いかとか、将来どんな道を歩んでゆくんだろうとか。色々と想像してる。華鈴が母親になった姿もな」


 そう言った俺に、華鈴は照れくさそうに笑った。


「そっか。涼平は想像力豊かなタイプなんだね」


「かもな。男だったら俺の跡取りにして、女だったら未来のファーストレディーにするのも良いな。いずれ俺は恒元公の下でさらなる飛躍を遂げる。もしかしたらあの御方の後を継いで、国政を牛耳る存在になるかもしれねぇからよ。えへへっ」


 その時、華鈴の顔に若干の苦々しさが浮かんだ。おっと、いけない。つい調子に乗って、獲らぬ狸の皮算用が過ぎたか――されども妻は程なく表情を戻して言った。


「あたしも、涼平の子供を産めるのなら、それがいちばん嬉しいな。だって、子供って親を選べないもの。だから、その子がどれだけ幸せに生きられるかどうかは、親次第だと思うから」


 俺は安堵の息を共に「ああ」と応じる。


「そうだな。だからこそ、俺たち親は必死になって子供の未来のために尽くさなきゃならねぇんだよな」


 俺が言うと、華鈴は大きく頷く。


「うん。涼平、これからよろしくね。あたしたち、一緒に頑張って行こうね」


 華鈴の言葉に、俺の胸は熱くなった。ああ、本当にこの女は最高だ。一生かけて大切にすると誓おう――そんなことを考えていたら、不意に華鈴が顔を近づけてきて唇を触れ合わせてきた。驚いている俺に構わず、彼女はそのまま舌を絡めてくる。 


「んっ……んむっ……ちゅぷっ……」


 長い時間を掛けて、ゆっくりと互いの唾液を交換した後、ようやく顔を離すと、華鈴は蕩けた瞳で俺を見つめてきた。その視線にドキッとしていると、彼女は言う。


「……ずっと、こうしたかった」


「ああ、俺もだ。華鈴」


 髪を撫で、頬を優しくさすり、再び接吻キスをする。そのまま彼女の手を握って寝室へ向かい、ベッドに腰かけさせると彼女の服を脱がせていった。そして露になった白い肌に舌を這わせたところで、華鈴は甘い声でく。


「あっ……んぅっ……はぁっ……ああっ」


 そのまま彼女は俺の背中に腕を回してくる。そしてぎゅっと抱きしめてくるのであった。そんな華鈴の頭を撫でながら、俺は言う。


「華鈴」


「涼平」


 互いの名を呼び合い、今一度手を握り合う。そうして愛の言葉を紡ぐ。心からの想いを。


「愛してる。誰よりもお前を。俺だけの華鈴を」


 すると華鈴は俺をじっと見つめて、言った。


「あたしもだよ。大好きな涼平……このまま逃げちゃおっか。あたしと涼平の、ふたりだけの場所へ」


 ほんの刹那、妻の顔がひどく疲労と苦痛に満ちているように見えた。すぐにいつもの笑みに戻ったが、俺は妻に応えた。


「なら、つくれば良い。誰も邪魔できねぇ、俺と華鈴だけの新しい世を」


 すると妻は笑って頷いた。


「うん。そうだよね」


 そんな妻に俺は「そう遠くない未来にプレゼントしてやれる」と微笑んで頷いた。そして彼女の頭を優しく撫でる。すると彼女は「あたし、幸せだよ」と言った。その言葉に、俺の胸が熱くなる。


 今、目の前に愛する女性がいてくれる幸せを噛みしめながら、俺は再び妻に接吻キスを施す。斯くして時は過ぎていった。安らかな瞬間が無限に続くことを願う華鈴の気持ちを乗せて。


 されど裏社会の情勢は真逆の方向へと進んでいった。俺が帝都へ帰還した後、櫨山重忠率いる大国屋一家は新潟県村上市から南下し、3月13日には静岡県浜松市の誠忠煌王会への総本部への総攻撃を敢行した。才原党の諜報活動により、所領を放棄した葉室が同地へ逃げ込んでいることが分かったためだ。


 しかし、重忠はこのチャンスを生かせなかった。浜松の敵城を陥落させるも、葉室および誠忠煌王会指導者の片桐かたぎり禎省さだみを取り逃がしてしまったのである。片桐らは重忠が浜松へ攻め入る時点で既に行方を眩ませていたというが、問題はそれだけではない。


 なんと、重忠は占領した浜松市を己の一存で煌王会へ返還してしまったのである。無論、大国屋一家総長の櫨山重忠は翌々の3月15日に開催された理事会の席上で皆から不手際をなじられた。


「なあ、シゲ! おめぇさんは手を抜いてたんじゃねぇのかい? 敵のシマのど真ん中にあっても過不足ない進撃、謂わばの戦闘態勢を敷いてからの攻撃が大国屋のお家芸だったはずなのによ、今回はやけにお粗末だ!」


「まさか端っから煌王会に手柄を譲る気だったんじゃねぇだろうなぁ!? ガキの頃の馴染みの駈堂にたぶらかされて!」


「もしかしてお前、既に煌王と内通してるんじゃねぇのか?」


 会議室で追い詰められる重忠は、ただただ頭を下げるばかり。


「滅相もございません。全ては私の力不足によるところでございます」


 一応、幹部の中で彼を庇う者が存在しないわけではなかった。眞行路秀虎である。


「まあまあ、そんなに皆で寄ってたかって非難しちゃ櫨山親分が可哀想ですよ。どんな戦上手とて失敗することはありましょう。『名人の手から水が漏る』とは……」


 しかし。


「極道の世界はスポーツとはちゃう! そない簡単なことも分からへんのかい! 」


 同じく幹部で義父の本庄利政に一喝され、秀虎は瞬く間に竦み上がった。眞行路一家は秀虎の代に替わってから今に至るまでの間に、政略結婚で同盟を結んだ本庄組のバックアップが無ければ組織としての体を維持できないほどに弱体化が進んでいる。秀虎が麻薬取引を止めたことと弱者救済のボランティア活動のために資金を使ってしまうことが原因らしい。


「す、すみません……お義父とうさん……」


 もう少し彼に貫録が備わっていれば、妻の父親にここまで幅を利かせられることも無かったであろうに。ちぢこまる秀虎をよそに、やがて他の幹部たちからの野次が重忠に浴びせられた。


「誠忠は片桐のアホが総大将として担いだ長島勝久が『実はヨボヨボの老体で指揮を執ることなんざ不可能』ってことが明るみに出て、空中分解寸前だ。なのにどうして潰せねぇんだ!」


「どれもこれも大国屋が手ぇ抜いてるからだろうが!」


「いっそのこと中川会うちを出て煌王に鞍替えしたらどうだ!? ああ!?」


「そうだ! さっさとシマを恒元公にお返ししろ!」


 井上組長、田山総長、原組長などから一斉に罵られる中、なおも頭を下げ続ける重忠。


「……面目ない」


 そんな子分に、理事会が始まってからというもの一言も発しなかった恒元が静かに口を開いた。


「皆の申す通りだぞ、重忠。此度の働きは関東博徒の名門を背負う者として、あまりに不甲斐ない」


 重忠は、ふっと顔を上げた。恒元は彼を鋭く睨んで言葉を続けた。


「今月中に葉室旺二郎の首を獲って参れ。さもなくば大国屋一家は中川会を破門とする」 


 その一言で、会議室は拍手喝采に包まれた。


「よくぞ仰られました! 恒元公!」


「さすがは我らが御大!」


 皆の高笑いが響き渡る中、俺は一人苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。


 葉室を討ち取れなかったのは重忠ではなく、俺の失態だ。何せ俺は賀茂首相への牽制を終えた後、引き続き北陸で兵を率いて戦っていたのだから。新潟攻めの折に奴を取り逃がしたのは俺だというのに――皆、恒元の逆鱗に触れることを恐れて俺を詰ることは一切無い。恒元が俺を責めない限り、俺が責められることは一切無い。その所為で浮いた皆のルサンチマンが全て重忠に向けられている。心苦しくならないわけがなかった。


「では、これにて理事会は閉幕とする。重忠よ。あと16日で朗報を聞かせて貰うぞ」


 恒元の一声にて、痛々しい空気を残したまま理事会は締められた。その直後、岡田は豪快な笑い声を上げた。


「まっ、あの優男にはできねえなあ!」


「ですよねぇ兄貴! 逆効果ですよ!」


「あいつも終わりだな!」


 喧噪の中、俺は輪の外で一人佇んでいた。そんな俺の肩をポンと叩いたのは、他でも無い重忠だった。


「さっきはありがとうね。あの状況で君にも罵られたら、僕は腹を切っちゃうところだったよ」


「……あんたを罵る理由が何処にある。全ては俺の不手際ゆえの事だ」


「いや、僕の不手際だ。まったく、嫌なものだよね。極道の世ってのは」


 苦笑い気味に呟いた後、重忠は俺の瞳を真っ直ぐに見据えて言うのであった。


「良いかい、涼平君。これから先、何があっても、どうか君だけは、自分を見失わずにまっすぐに進んでくれよ」


「えっ?」


 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする俺に「まあ、君なら大丈夫さ」と微笑むと、重忠は一足先に退室していった。


 重忠と煌王会の駈堂は、かつて川崎にて暴走族『ブラッディ・キング』として活動していた。ゆえに重忠は旧友と組織との狭間で苦しい思いをしているのである。


 同じ立場……いや、似た状況だったら、俺は……?


 その晩に渡って考えたが、俺は答えを出すことができなかった。


 妻と組織を天秤にかけるなど出来るわけもあるまい。俺はただ、この身が朽ちるその時まで、愛に身を捧げるだけだ。


 3日後。


 2007年3月18日。


 この日、俺は新橋駅前広場を訪れていた。地区のシンボルとも云える蒸気機関車の前で催されているのは募金活動だ。


「よろしくお願いいたしまーす! 恵まれない子供たちのためにー!」


「この国の寄る辺なき人たちを救うために! 是非とも皆さんのお力を貸してください!」


 通行人に向けて熱心に呼びかけるのは上叡大学ボランティア同好会のメンバーたち。その中には秀虎や華鈴といったOBないしはOGの姿も含まれている。


 真っ白な募金箱を首から提げて声を上げ続ける妻の姿を遠くから眺め、俺は感じ入る。こんなにも優しく慈悲深い女性と結婚できて、本当に嬉しかったと――されどもこんなことをする意味があるかとも思った。


 一昨日の夜に病院から戻った華鈴が『大学の後輩が主催する募金イベントに参画したい』と言い出したのである。俺は戸惑ったが、妻が行きたいというならば止めることは出来ない。若干ばかりの不満を抑え込みつつ、古巣へと足を運ぶ妻に付き合った。そうしたら、そこに秀虎も居たというわけだ。


「募金をお願いしまーす!」


「あなたの善意が人の命を救うんです! どうかひとつ!」


「せめてパンフレットだけでも!」


 曲がりなりにも極道である秀虎までもが募金箱をぶらげ、汗をかいている。そしてそのかたわらには、俺の部下の酒井と原田の姿まである。


「はあ……」


 しかし、そんなため息をつく俺の心持ちなど露知らず、華鈴たちは笑顔で通行人たちに募金を呼びかけパンフレットを手渡してゆく。


 マフィアの関係者という理由で自分が立ち上げたNPOへの参画を拒まれてしまった華鈴は、また新たに市民団体を設立した。古巣の上叡大学ボランティア同好会の学生たちが理解を示してくれたことで、何とか活動開始に漕ぎ着けた。今後は毎月第一土曜日に新橋駅前で募金活動を行うという。


 当然、俺も誘われたのであるが。思わず独り言が漏れた。


「……本当は俺もあちら側に居たかったな」


 されど俺は血まみれの天使。この国を統べるフィクサーに仕え、裏社会で命を狩る殺し屋である――ならば己は影の中で見守るのみ。


 そんな中で俺は声をかけられた。


「本当は、そんなことは思ってもいないくせに」


 聞き覚えのある声で紡がれた軽口に、俺は鼻を鳴らす。


「けっ、他人ひとさまの独り言にいちいち反応しやがって。こんな所に何の用だ。菊川さんよ」


 振り向くと、そこには菊川の姿が見えた。「たまたま通りかかったんだよ。野暮用でね」と答える彼に俺は吐き捨てる。


「ここは眞行路一家五代目の領地シマだ。村雨組若頭が遊び歩くには少しリスキーじゃねぇのかい」


「良いじゃないか。銃を撃つわけじゃないんだし……まあ、あそこで極道らしくないことをしている凡庸な五代目クンはそもそもボクに気付かないだろう」


「言ってやるなよ」


「事実じゃないか」


 そんなやり取りを交わした後、菊川は俺の耳元で囁く。


「場所を変えよう。ここだと人目に付きやすい」


 彼の言う通り、新橋駅前の広場には人通りが絶えない。俺は菊川に促されるままに、近くの喫茶店に場所を移すことにした。SL広場の向かい側、栄通りに面した店だ。


「何にする?」


「俺は珈琲で。あんたはどうする」


「ボクはねぇ……そうだなぁ……特製ブレンドのカフェモカとパンケーキにしよう。ほら、美味しそうじゃん。生クリームがいっぱい載ってて」


 メニューの冊子を俺に見せつけながら、子供のように顔を綻ばせる菊川。もう若くはないだろうに、そんなに糖分を摂って良いのか。苦笑しつつも「そうだな」と返し、俺は店員を呼んだ。


「レギュラーと特製カフェモカを1つずつ。それからパンケーキを1皿くれ」


「はい。少々お待ちください」


 バイトらしき若い女が去った後、菊川がニヤリと笑いながら口を開く。


「あの娘、器量が良いね。華鈴ちゃんの店でも、ああいう娘を雇っても良いんじゃないかな」


「華鈴の祖父じいさんの代から店主一人で切り盛りしてんだぜ。その伝統を今さら変えられんさ」


「しかし、当代の店主は身重だ。店を今まで通りに続けるためには、人手が無ければ流石に大変なんじゃないの?」


「開店休業で良いんだよ。あそこは」


 菊川への返答に嘆息を混ぜ込んだ俺は、昨年夏に端を発する『Café Noble』の変わり様について思いを馳せる。赤坂の街で働くカタギたちの憩いの場だった店が、今や客の大半が中川会関係者。これには先月から妻に代わって隔日でカウンターに立ってくれている舅も頭を悩ませていた。


「どうせ、開けたところで前みてぇに楽しくはやれねぇんだ」


「そりゃあ、そうさ。血まみれの天使の親族が経営する店で珈琲を飲みたいと思うカタギなんかいるわけがない」


「言ってくれるなよ」


「事実じゃないか」


 そんな菊川は運ばれて来たパンケーキを一口大に切り分け、フォークに刺して口へと運ぶ。そして満面の笑みで感想を述べる。


「うん、良いね。甘くておいしい」


「そいつは何よりだな」


 俺は皮肉を込めずに素直な心情を吐露しつつ、コーヒーを啜る。すると菊川が言うのである。


「そういや、あの店にフードメニューはあったっけ?」


「スパゲッティからオムライスまで、洋食は一通りあるぜ。尤も、俺の義理の父親は料理が不得手な人だから、今は飲み物しか出せてねぇが」


「その飲み物すら満足に提供できていないと風の噂で聞いたが?」


「らしいな」


「らしいなって……そんな他人事みたいに」


「店のことは親父さんに任せてある。店が傾こうが、任せると決めた以上は口出しはしない」


「へへっ。キミらしいな」


 菊川の言葉に、俺は沈黙するしかない。そんな俺に、彼は訊ねてきた。


「華鈴ちゃんとは上手くやってるのかい?」


 俺は「無論だ」と即答するが、先ほど虚しい独り言を菊川に聞かれてしまっている。当然、饒舌な彼は俺を揶揄うように言葉を返す。


「その割には距離を感じているようだけど?」


「別に距離なんざ感じちゃいない」


 菊川塔一郎の前では、如何なる言い回しも強がりにしかならない。毎回のことながら、今日はその事実が痛烈に心を潰した。


「……」


 年代物のテーブルを挟んで少しばかり俯いた俺に、菊川は言った。


「女って生き物は、子を孕むと随分と変わるからね。それまで以上に男の肌にすがりたくなるものさ」


「華鈴は強い女だ。何も変わらねぇよ」


「意外と打たれ弱くなってるかもよ。あんなことがあったわけだし、ましてやキミのような殺戮マシンを夫に持ってるわけだし」


 俺は怪訝な顔をして菊川を見る。彼はパンケーキを頬張りながら、何やら意味深な笑みを浮かべていた。


「そもそもキミの顔は、去年の夏に華鈴ちゃんと結婚した時と比べて大いに変わっているよ。押し込められていたものが滲み出てきているって云うべきかな」


「……そいつはどうも」


「羨ましいよ。本当。やっかみたくもなる。キミはボクと違って幸せ者だ」


「はっきり言ってくれる」


「だって、事実だから。ボクはキミが羨ましい」


 そう言って菊川はパンケーキをひと切れ口に入れてから、言葉を続けた。


「どんな境遇にあっても、結局のところ人は立場でしか生きられない。胸に刻まれた立場や肩書が鎖となって心を縛り、体の動きを邪魔するんだよ」


「……好きなように振る舞えてるってのか? 俺が?」


「ああ。今のキミが置かれたポジションは、キミ自身の理想と絶妙なまでに噛み合っているからね」


 俺の理想は、華鈴を幸せにすること。にもかかわらず妻を守り切きなかった挙げ句に心の傷まで負わせてしまった夫が、現状のメリットを活かせていると云えるはずがない。


「そりゃあどうも。それで、何の用だ? こんな所に呼び出して?」


 虚しくなってきたので、俺は菊川に話題を変えるよう頼む。すると、菊川はこう答えた。


「葉室の件だ」


「……奴の居所が分かったのか?」


「面白い情報を入手した。『獅子から逃れるには獅子の腹の中がいちばん良い』ってやつさ」


 俺は思わず息を呑んだ。菊川の言葉で、葉室が何処に身を隠しているかがおおよそ分かったからだ。


「葉室が関東に?」


 すると菊川は深く頷いた。


「ああ。それも、この辺に隠れてるって噂だ」


 そんなまさか。


「だとしたら好都合だが……おかしいな。うちの諜報部門が掴んだ情報じゃ、誠忠煌王会の残党は岡山に逃げ込んだって話だぜ。岡山の東部を仕切る水天すいてんかいと結託したと聞いていたが」


 俺が菊川を首を傾げると、彼はフッと吹き出して肩をすくめた。


「それは片桐たちに限った話さ。奴らはとっくに仲違いしていて、だいぶ前から葉室組とは別行動をとっている。おそらくはお抱えの精鋭集団がぶっ潰されたことで、片桐から見れば利用価値が消えたんだろうね」


 確かに有り得る展開だ。目的の一致だけで集まった烏合の衆の結束力などは、たかが知れている。


「だが、どうして葉室は関東に? 元CIAのアサシンを囲えるカネと人脈があるんだから、海外にでも逃げれば良いものを」


「まだ勝負はついてないと思ってるんじゃないかな。最終的に恒元公を討てれば良いわけだし」


 菊川曰く、彼の組の情報網が葉室と思しき人物の動きを感知したという。都内の荒くれ者たちに金をばら撒き、葉室組の戦力再建を目指しているのだとか。


「とんだ悪あがきだ。雑魚を何匹集めたところで俺たちには勝てねぇってのに」


「だが、彼も馬鹿ではないからね。声をかけてるのは並みの連中じゃない……この新橋って場所で過去に何があったか、キミも忘れたわけじゃないだろう?」


「おいおい、嘘だろ」


 思わず身を乗り出した俺に、菊川は不敵に頬を緩める。


「ああ。眞行路秀虎の子分たち……それも2年前は彼の兄に仕えていた連中さ」


 自然とため息がこぼれる。


 菊川の話が本当であるとすると、葉室の思惑は簡単に想像が付く。銀座継承戦争の終結時、秀虎は兄の輝虎に仕えていた敗残兵を無条件で自陣に吸収した。当人たちの中で燻ぶっているであろう不平不満の火に火を付ければ、いとも易く暴発することだろう。


 秀虎の立場になってみれば、それは単に子分達が組を割るということにあらず。自分の組から恒元への叛逆の徒を出したという事実に他ならない。これが如何に恐ろしいことか、彼は昨年の大粛清劇で痛いほどに理解しているはずだ。


「下手すりゃ銀座の御曹司までもが中川会を離反する可能性もあるってか。恒元公に睨まれて粛清されるくらいならいっそのことって、思い早まって」


「ああ。現に村雨組うちの政村がそんな理由で朋友を裏切った。恐怖が必ずしも人を完全に支配出来るとは限らない。時として暴発の引き金を引くこともあるんだ」


「困ったものだな」


「だが、恐怖なくしてはそもそも裏社会の男どもはまとまらない。うふふふふふっ」


 わざとらしく笑った菊川に「相変わらず気持ちわりぃ笑い方をしやがる」と返し、俺はコーヒーをぐいっと飲んで訊ねた。


「ところで葉室はどこへ? あんたが今日、新橋へ来たってことは、何かしらの手がかりを得てるんだろ?」


 そのクエスチョンに菊川は鼻を鳴らす。


「曲りなりにも極道の親分ともあろう男が、大学生に混じって募金活動をやっている。武器も持たず、護衛も付けずにね。接触するのにこれほどの好機は無いよ」


 刹那、俺の胸が激しく騒いだ。


「……何だと?」


 その直後だった。


 ――ダダダッ! ダダダッ! ダダダッ! ダダダッ!


 激しい金属音が店の外から連続して鳴り響いた。呆然とした俺は、同様にあんぐりと口を開けていた菊川と顔を見合わせ、暫しの空白に身を委ねる。しかし、すぐに我に返って理解が追い付く。


「よ、よもや!?」


「あいつ!」


 俺たちは席を立ち、驚愕と悲鳴に包まれる店の中を走って外へ出た。そんな中でもテーブルに万札を残していたのが何とも菊川らしい……なんて些末事はさておき、俺たちは目の前で広がる光景に思わず息を呑む。


「なっ」


 まるで時間が止まったかのように硬直し、ざわつく群衆たち。彼らの視線の先には無数の死体。


 糸で手繰り寄せられた凧のごとく恐ろしい可能性が頭に浮かぶ。気付けば俺は叫んでいた。


「華鈴ッ!」


 人混みを掻き分け、急いで愛する妻の元へ駆け寄る俺。どうか、無事でいてくれ。


「華鈴ッ! どこだ!?」


 やがて俺は当人を見つける。


 妻は生きていた。


 しかし。


「祐二君っ! ねぇ、祐二君っ!」


「も、もう、駄目です……頭を撃たれていますから……」


 血塗れで泣きじゃくる華鈴の傍らには、同じく血に染まった秀虎の姿。その近くには大学生と思しき死体の山。そして妻が抱き抱えていたのは――全身に銃創を開けた俺の腹心だった。


「酒井ッ!」


 思わず叫んだ俺だが、とっくに分かっていた。つい今しがた秀虎が言った通り、頭を複数の銃弾が貫通した彼は既に事切れていることを。


「ああ……どうして……」


 がっくりと肩を落とし、そのまま膝から崩れ落ちた俺は、隣に並んで涙を流し続ける華鈴を尻目に声を震わせて叫ぶ。


「どうしてッ!? どうしてだァッ!」


 だが、いくら叫んだところで状況が好転することは無かった。赤く染まった自分の手を呆然と見下ろす秀虎。目の前で繰り広げられた惨劇に混乱し発狂する群衆。そして華鈴の泣き声……そんな光景だけが俺の脳内に残る断片的な映像として脳に焼き付いていた。


 全ては葉室旺二郎の仕業だった。


 兵が思うように集まらず、さらには再起の頼みの綱とも云える眞行路一家の調略に失敗したことで、自暴自棄に陥った葉室が、秀虎が募金活動を行っている新橋駅前でアサルトライフルを乱射したのである。


 結果、カタギを含む十数人が落命する大惨事となった。居合わせた三淵の手で葉室は射殺され、この件は恒元の情報統制で「海外武装勢力による銃乱射テロ」と表向きの変更が為されたが、この国を背後から操るフィクサーの存在に人々が気付き始めるには十分なきっかけになったはずだ。無論、そんなことはどうでも良いのであるが。


 数時間後。


 俺は高輪の病院にいた。現場に居合わせ、腹に銃弾を浴びて重傷を負った原田を見舞うためである。


「……信じられねぇっすよ」


 ベッドの上の原田は憔悴しきっていた。この数年で親友とも云うべきほどに絆を育んだ兄弟分が突如として討たれたのであるから、無理もない。


 だが、彼は涙を流すことは無かった。


「兄貴。大丈夫ですかい」


 悲嘆の底に落ちた精神状態であろうにもかかわらず、俺のことを気遣ってくれた。ここは無理にでも気丈に振る舞わねばなるまい。


「大丈夫だ」


「それなら良かったっす。祐二に続いて兄貴までどうにかなっちまったら、俺はもう……」


「大丈夫だと言っているだろ。そんなことより、お前は自分の体を労われ」


 原田と話して、荒んだ心が少しだけ上を向いたような気がした。


「あ、兄貴……その、華鈴姐さんは大丈夫なんですか?」


「大丈夫だ。酒井が体を張ってくれたおかげで掠り傷ひとつ負っちゃいねぇよ」


「良かったあ」


 だが、酒井祐二はもう戻ってはこない――やり場のない感情に心を痛めながら、俺は原田に「まあ、ゆっくり体を治せ」と言って病室を出た。


「……」


 ぼんやりと廊下を歩きながら、俺は懐へ手を伸ばす。しかし、途中で止めた。ここは病院、構内全面禁煙なのである。


 ああ、こんな時に煙草ひとつ吸えんとはな。


 舌打ちを鳴らしながらエレベーターに乗ってロビーへ降りると、そこで意外な人物と遭遇した。


「やあ、涼平君」


「あんた……」


 酒井さかい義直よしなお。渋谷区一体を仕切る中川会直参『酒井さかいぐみ』の組長であり、討たれた酒井祐二の父親である。


 どうしてここに居るのかと思ったが、すぐに思い出す。この高輪の中川叡智病院は、酒井組長のかかりつけだ。彼は中川会幹部ゆえに休診日も診て貰える。


 居てもおかしくはない。


 いやいや、そんなことより。


「……すまなかった」


 深々と頭を下げる。そんな俺の耳に、優しい声が響いた。


してくれ。息子も稼業の男。ああなることは宿命だったんだ。他人様の奥方を守って命を散らしたんだ。親としては誇らしいよ。願わくば、私も布団の上じゃなくていくさで最期を迎えたいもんだ」


 そう言った酒井組長は俺の肩をポンと叩くと、少し寂しそうに呟いた。


「だが、もう良いんだ」


「えっ?」


「長男に続いて次男まで……古希を過ぎて倅を二人も失った私に、未来があるとは思えない。今まで散々悪逆非道なことをやってきた男が言えたことではないが、せめて余生を穏やかに過ごしたい。息子の葬式が終わったら、領地シマを恒元公にお返しし、渡世から身を引くよ」


 継承者と定めていた次男の祐二が討たれた現状、渋谷の酒井組は世継ぎの欠如により義直の一代で廃絶する運命にある。彼としても最早裏社会に未練は無いようで、今さら後妻を迎えて新たな子づくりを行う気も無いという。


「まあ、医者にも『長くはない』と言われている。残された時間は大好きな庭いじりにでも耽って過ごすよ」


「……」


「では、またね。これからの中川会をよろしく頼んだよ」


 去ってゆく義直の後ろ姿を俺は静かに見つめるだけ。相応しい言葉をかける気力など、俺にはあるわけがなかった。


 だが、ボーッとしていても時は流れる。誰しもが同じ時間に居続けることなど出来はしないのである。


 俯き、俺は今までの出来事を振り返る――この病院には華鈴も入院している。酒井祐二の死を前に発作が起きて呼吸困難に陥り、気絶してしまったのである。


 幸いにして大事には至らなかったが、俺は彼女の様子を見ることが出来ていない。というより、俺自身が怖くて見る勇気が湧かないのである。大切な部下が討たれ、子を宿した大切な妻までが何処へ行ってしまったらと思うと、俺は……。


 それにしても華鈴は一体どうしているのか。今はまだ安静にしていて欲しい気持ちもあるが、やはり気になってしまう。


 華鈴。


 俺はお前のことを愛している。だからこそ、お前を傷付けるような真似はしたくないんだ――そうして考え事をしながら廊下を歩いていると、ふと窓から外の景色が目に入った。


 その瞬間、思わず息を呑む。ああ。綺麗な夕焼けだなあ。


 病棟を囲むようにそびえ立つビル群の向こう、綺麗に染まる空には、無数の雲が流れている。まるで燃えているかのようなその景色を見て、不意に目頭が熱くなった。


「はあ……」


 華鈴がどこかへ行ってしまったら、俺はどうなってしまうのか――彼女の居ない世界など考えられない。彼女を奪われたら、きっと俺は耐えられない。きっと壊れてしまうだろう。だからこそ、俺は彼女を守らなければならない。そう心に誓い、俺は病院を後にした。


 2日後。


 宮殿では酒井祐二の葬送の儀が営まれた。恒元が信仰する宗派に則った儀式が行われている様子を俺は半ば呆然と見つめていた。


 涙は無い。ここへ至るまでに二夜連続で通い詰めた錦糸町のバーで、そして俺の心痛を悟って会ってくれた琴音の胸に抱かれたことで、枯れ果てた。


 ただ、静かな情緒に、波ひとつ立たない心境だけがある。そんな俺は腹心が眠る棺桶に祈りを捧げると共に、低い声で漏らした。「すまない」という、何の価値も持たぬ、ありふれた言葉を。


 詫びたとて、何が出来ると云うのか。


 過去は変えられないし、愛すべき部下が帰ってくるわけでもない。ただ、虚しさが心に広がるだけだ。


 酒井を殺した葉室は既にこの世の者ではないから、仇を討つという供養も出来ない――何故なら、あの日、銃を乱射し終えた直後に、奴は射殺されているのである。現場の近くに待機していた眞行路一家理事長の三淵史弥によって。


 まるで全てを予期していたかのような行動だが、当人曰く「俺も驚いた」の一点張りだった。前の晩に銀座へ文句を言いに行った折、三淵の頬には殴られたような痣が出来ていた。


 きっと秀虎にとっても寝耳に水だったはずだ。自分が華鈴と未だ懇意にあることを快く思わぬ三淵が、葉室の襲撃を事前に予知していながら敢えて泳がせ、あわよくば華鈴を始末しようとしていたことは。


 ただ、葬送の儀式が終わった後、秀虎からはこんな言葉をかけられた。


「やっぱり駄目ですね、麻木次長。あんたに華鈴先輩を任せてはおけませんよ。あの人は僕が守る……力を付けて……そしてゆくゆくはあんたから奪ってみせる!」


 どうやら此度の出来事が彼に火を付けてしまったらしい。以前にも増して顔が極道らしくなっている。そんな彼に、俺は力なく答えるだけだった。


「そうかよ」


 まったく、情けないことだ。眞行路秀虎という男の極道らしからぬ純粋無垢な人柄に期待を寄せて、眞行路一家の五代目に推したというのに。その変貌ぶりを嘆く気持ちも湧かないとは。


 さてさて。


 葉室の射殺により逆徒の粛清に成功した中川会であるが、この状況を誰もが喜べるわけではなかった。


 本来、彼を討つ大任を仰せつかっていた男――櫨山重忠は形無しだ。


 恒元が示した「3月中」というタイムリミットは越えずに済んだが、今回の抗争を名誉回復の機会と捉えていた重忠にとっては、さぞかし屈辱的だったことだろう。


 無論、酒井祐二の葬儀を終えた晩に開催された理事会では彼を嘲弄する声が数多く上がり、組織内隋一の冷静な人柄で知られる門谷次郎理事長までもが「お前は煌王会に魂を売っているのであろう?」と罵った。


 だが、そんな彼を庇う男が一人いた。


「お静かに願いたい!」


 酒井義直組長である。


「重忠君の今までの働きを思えば、煌王会と内通しているなどという風聞が嘘であることは一目瞭然。憶測だけでモノを言うことは許されませんぞ」


 そうして義直は重忠に優しく言ったのであった。


「重忠君。崩れたなら、また積んでゆけば良い。ゆっくりで大丈夫だからな」


 彼の言葉には当の本人たる重忠が涙ぐんでいただけでなく、玉座で黙って聞いていた恒元も頷いていた。長きに渡り自分に仕えてくれた子分の姿に、感じ入るものがあったのであろう。


 この日、酒井義直は中川会における理事の任を辞し、自らが率いる『酒井組』の解散と所領の返上を恒元に申し出た。そうして翌日21日、息子の後を追うように渋谷区代々木の自邸で息を引き取ったのであった。


 まさに遺言とも云える激励を貰った櫨山重忠だが、彼は中川会に戻らなかった。それどころか「私はもう中川会には戻らない」と言い残し、八王子の大国屋一家総本部にこもってしまったのである。酒井祐二の死から6日後の2007年3月24日のことであった。


 理由は単純。重忠は「中川会に自分の居場所は既に無い」と踏んだのである。


 彼が頼ったのは、やはり煌王会だった。駈堂は重忠を熱烈に歓迎し、あろうことか橘威吉会長に乞うて『八王子貸元』の地位まで与えた。


 これは重忠の率いる大国屋一家が中川会を出奔し、煌王会に寝返ったことを意味する。もっと云えば、中川会のお膝元である関東の一部が煌王会領になったことを意味する――ところが事態はさらなる複雑化を遂げた。


 重忠の裏切りの一報が届いた日の深夜、総帥執務室へ俺を呼び付けると、恒元は渋い顔で切り出した。


「先ほど入った情報だがな、和彦かずひこが関西で橘と会ったそうだ。『煌王会武蔵野貸元』などというふざけたふざけた称号を授けられたと」


 俺はため息で応じる。


「なんと……」


 恒元の云う和彦かずひことは、中川会直参『原田一家』総長の原田はらだ和彦かずひこのこと。彼の仕切る武蔵野は重忠が治める八王子に近いため、原田総長は大国屋一家と道を同じくして煌王会へ寝返ったことになる。


「あの男……どこまで性根が腐っているんだか……」


「元より和彦の我輩への忠義は揺らいでいる気配があったから、想定できたことだったが。それでもこたえるものよ。信を寄せていた部下の裏切りというものは」


「奴は必ず討ちます。櫨山重忠共々、必ず」


「だが、その前に為すべきことがあるではないか」


「……」


「分かっておるはずだ。何故、執事局の助勤が親分衆の息子たちばかりなのか」


「……」


「お前も思うところはあるだろうからな。3日ほど与えよう」


 俺は唇を噛んだ。ここで「お考え直しくださいますか」などと言えるわけがない。何故なら、執事局の編成を提案したのは俺なのである。


「……承知いたしました」


 頭を下げると、俺は退室した。廊下を歩きながらため息をつく。どうしてこんなことに――本音を云えば思いっきり叫びたかった。


 喉を枯らして「クソが!」と。過去の自分を全力で殴り飛ばしてやりたい気分だ。何故にあのような提案をしたのか。


 嫌だ。


 殺したくはない。


 逃げたい。


 されども、俺は廊下を進んだ。懐に入れたグロック17の残弾を確認し、ちょうどこの日の朝、怪我が癒えたという理由で原田亮助が高輪の病院を退院して宮殿に戻っていたことを頭に思い浮かべながら。


 やがて寮に辿り着いた俺は、目的の階へ昇ると、原田の部屋の扉が開いていることに気付く。


 どうか不在であってくれ。既に父親と共に武蔵野の邸宅に籠城を始めていてくれ――しかし、端から答えが分かりきった賭けが的中することは無い。


 中からは声が聞こえた。


「兄貴?」


 俺の可愛い腹心、原田亮助の声だ。


 歯噛みしながら、俺は中へと入った。すると原田は笑顔で俺を出迎えた。


「どうもです、兄貴。来てくれたんですね」


「……お、おう」


「うちのクソ親父から話は聞いてます。ほんっと、イカれた男ですよね。さあ、ひと思いにっちゃってください」


 にっこりと笑ったまま、着ていた背広の前を開き「見ての通り、道具は持ってません」と言った原田は、さらに続けた。


「この期に及んで逃げたり抗ったりなんざしませんぜ。大好きな兄貴に殺されるなら俺は喜んで死ねます」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で抑えていた何かが弾けた。気付いた時には、涙声でたずねていた。


「は、原田総長から、離反の話は聞いていたはずだ! どうして逃げなかった!?」


「決まってるでしょう。ずっと兄貴の傍に居たいんですよ」


「っ!」


「あのクソ親父に付いてって組織を抜けたら、いずれ兄貴と敵同士で殺し合うことになる。それだけは嫌だったんです。死んでもね」


「お、お前はッ! どうしてそこまでッ!」


「兄貴が大好きだからです。だから、兄貴に全てを捧げることにしたんです」


 そう答えると、原田は俺の前で正座した。


「ありがとうございます。俺のことを一人の人間として扱ってくれて。楽しかったです。兄貴と過ごした日々は」


「お、俺はッ……」


「泣かないでください。これから、ずっと兄貴のこと、見守ってますから。祐二と一緒に」


 俺は思わず原田に抱き着いた。この弟分が可愛くて堪らない。そして己に降りかかった運命が憎くて仕方なかった。


「兄貴なら大丈夫です。これから組織でどんどん出世して、ゆくゆくは次の総帥になったりなんかして。恒元公には男のお子さんがいらっしゃいませんから、可能性ありますよ」


「……俺に未来なんか無い」


「いや、あります。輝かしい未来が」


「無い! お前の居ない世界にどんな未来があるってんだ!」


「優しいなあ。兄貴は」


 そう原田が呟いた直後だった。


 ――カリッ。


 何かが噛み潰される音がした。その刹那、原田は苦しみ始めた。


「ごぼっ……ごぼぁぁぁぁぁっ!」


 激しくせ返ったかと思うと、胸を押さえて仰向けに倒れる。口からは無数の泡が噴きこぼれている。


「おっ、おい! 原田っ! どうした!?」


 慌てて肩を掴んで背中を擦る俺だが、元傭兵の頭脳では瞬時に悟っていた。原田が前もって奥歯に仕込んでおいた即効性の毒薬を噛み、自殺をはかったことを。


 そして、この泡の噴出量から考えると、如何に応急処置を施したとて彼はもう助からないということを。


「馬鹿野郎! 何てことしやがるんだ!」


「あ、兄貴ィィィ……」


「もう良い! もう喋るな!」


「お、俺は……兄貴の役に……立てた……かな……?」


「立ったに決まっているだろ! ああ、そうだな! お前は俺の大事な大事な弟分だった! 俺はそのことを忘れねぇ!」


「よ、良かった……それなら満足して旅立てる……」


「おい、駄目だ。言うなッ。言わないでくれッ!」


「兄貴……どうか俺の分まで……この世界を……楽しんでくださいや……」


 それが最後の言葉だった。原田は目を閉じたまま動かなくなり、俺は暫く彼の身体を揺らし続けていた。しかし、もう彼が生き返らないだろうことは、誰の目にも明らかだった。


 俺は手の甲で涙をぬぐって立ち上がった。亡骸に銃弾を撃ち込み、彼を粛清した「形」をつくるために。無論、それは不要なことだった。何故なら原田の身体は既に冷たくなっていたから。


 されど、俺は銃を抜いた。


 そして俺は原田亮助の心臓と眉間に、ありったけの銃弾を撃ち込んだ。感情のままに。発せられる爆音と噴き上がる煙、血飛沫で、全てを掻き消すように。


「すまねぇ……すまねぇ……」


 そう呟きながら、俺は彼の亡骸を部屋に残したまま寮を出た。そして、そのまま執務室へ向かうと総帥に言った。


「終わりました」


 すると恒元は笑った。そしてこう言ったのである。


「そうか。良くやった」


 一体、俺は何をやっている。華鈴を守るためにと己に言い聞かせて裏社会を駆けてきたが、それは斯様な悲しみを味わうためだったのか。心の底から湧き上がる虚しさに身震いし、全身が硬直する。力が抜け、今にも膝から崩れ落ちそうになる。懸命に堪えていると、恒元が言った。


「時に涼平。政治に興味は無いか」


 どうしてそんなことを訊ねるのであろうか。今、この時に。尤も、総帥を前に沈黙は許されないので、俺は口を開く。我ながら笑ってしまうほどの、無難な返答を紡ぎ出すために。


 頭の中に思い浮かべたいくつかの言葉の中から、最適な言葉を選び出し、発声する。口の中で舌が動く感覚がした。


「……ございませせん」


「ほう。理由を聞かせて貰おう」


「私のような殺し屋には不向きな世界だと考えております。恒元公のご意向とあらば話は別でございますが」


「ふはははっ! では、我輩が『表の世に打って出よ』と申せば左様に致すのか?」


「ええ」


「よろしい!」


 恒元は俺に歩み寄ると、優しく接吻キスを施した。それが終わると、滑らかに語りを放つ。


「お前には我輩の後継者となるべき器がある」


 俺は訊き返す。


「私が、でございますか?」


「左様」


 恒元は言った。


「いずれ、我輩はお前に中川下総守家の未来を任せたいと思うておる」


 俺は絶句した。突然何を言い出すのかと思えば、今度はこの老人は何を考えているのであろう。頭がおかしくなってしまったのではないだろうか。そんな疑念が頭を過るも、それと同じくらい興奮を覚えている己の存在にも気付く。俺が口をあんぐりと開けて佇む中、恒元は語る。


「この世は弱肉強食だ。強い者が生き残り、弱い者は淘汰される。この世は強者が支配するものよ……華やかな貴族が」


 恒元の瞳を見た。まるで全てを見通しているかのような眼差しでこちらを見据えている。彼の瞳には迷いなど微塵も感じられない。一切の邪気を感じさせない視線に、俺は気圧される。


「お前は我輩の後を継ぐべき男だ。我輩の剣となり盾となり、その力でこの国を導け。お前ならば出来るはずだ。きっと素晴らしい国をつくれよう。涼平、我輩と共に新たな未来を築こうではないか」


 それは、とても素敵な話であった。


 恒元の言う通りかもしれない。俺ならやれるかもしれない。なればこそ、俺は深々と頷いた――先ほどまでの悲痛が幻のように。


「はっ」


 すると恒元は嬉しそうに微笑んだ。そして優しく俺の身体を抱きしめる。


「良い返事だ。我輩はお前が大好きだ」


「恐縮です」


「では、早速だが……300人ほど殺して参れ。その者の素性は何でも良い」


「300人ほどでございますか」


 奇妙なリクエストだ。首を傾げ、俺は訊ねた。


「なかなかの数でございますな?」


 すると恒元は耳元で囁くように答えた。


「これはまだ誰にも伝えてはおらぬことだが……此度、我が財団がワクチンを開発することとなってな。アフリカで猛威を振るうておる疫病の感染を完全に防ぐワクチンだ」


「ええ。素晴らしゅうございますな」


「製品というものは、それを買う者がいて初めてあきないが成り立つ。しかし、困ったことにそのアフリカの疫病は日本では未だ流行ってはおらなんだ」


「ええ。そのようなニュースは聞きませんね」


「そこでだ。『アフリカから日本に未知の疫病が上陸して300人の死者が出た』という状況をつくり上げようと思う」


 総帥の語りを前に、俺は合点がいった。


「つまりは私が殺す300人を疫病による死者と装うことで、財団が製造するワクチンを世に出しやすくすると」


 俺の言葉に総帥は嬉々として肯首した。


「流石は涼平。物分かりが良いな」


 曰く、その感染症は名を『ゲルべリューセ敗血症』といい、アフリカ大陸に分布する蜂の毒が原因で起こる病気という。人から人への感染はせず、蜂から人への直接感染のみ。その蜂に刺されてから症状が出るまでの時間が1分未満と非常に短く、発症すれば数十秒で全身の筋肉に毒素が拡がって壊死、そのまま命を落とすとされる。


「ゲルべリューセは感染の際、体内に直接注入される必要があってな。感染者の血液を輸血したり、あるいは粘膜接触などといったことでは伝播うつらない……つまりは外来種の蜂さえ駆逐してしまえば撲滅できるというわけだ」


「であれば、情報統制もしやすうございますな」


「左様。『感染源となった鉢は軒並み駆除した』とでも云えば愚かな民衆は納得しよう」


「お申し付けとあらば、お受けいたしましょう」


 そう告げて退室する俺に対し、恒元は鼻歌交じりでこんなことを話してきた。


「お前も辛いであろう。酒井祐二に続いて原田亮助までが命を散らした。されど、これも必要な犠牲だった。分かるだろう? この国を守るためには仕方がないことだ。我輩はお前に感謝しておる」


 その瞬間だった。俺の背筋に電撃が走った。ああ、そうだ。酒井祐二と原田亮助は既にこの世に居ないのである――その事実を頭の中で改めて認識した途端、俺は泣き崩れた。嗚咽を漏らしながら、しゃがみ込み、床に額を打ち付ける。


 俺は最低な男だ。原田亮助を殺したのも、酒井祐二を死に追いやったのも、全部俺の責任なのに。俺さえ、もっとしっかりしていれば。こんなことにはならなかったかもしれないのに――そう考えれば考えるほど、自分に対する怒りと憎悪が増してゆく。この世に生きる資格など無い男だと痛感する。俺が死んでいた方が良かった。


 いや、違う。本当に悪いのは俺じゃない。


「おお、どうした」


 憐みの声音で俺を宥める恒元に、俺は訊ねた。


「……恒元公。どうして世界は私から大切な存在を奪うのです? どうして世界は私を苦しめるのです?」


「ふぅむ。我輩とて分かりきってはおらぬが、不条理こそが世の摂理ではないか。世は往々にして、弱き者からかけがえのないものを奪ってゆく」


 恒元の言葉に俺は押し黙るしかなかった。確かにその通りだ。俺は大切な存在を失ったけれども、それは俺に力が無いからだ。力が無いせいで大切なものを守れないだけだ――そう思うと自然と涙が溢れてくる。


 頭の中に浮かんでいたのは華鈴の顔。すがるように、俺は言った。


「ならば、私に力をお与えくださいッ! あらゆる不条理から愛する人を守る力をッ! 私は命に代えてでも華鈴を守りたいのでございますッ! 彼女がいなくては生きられませんッ!」


 そんな俺の背中を撫で、優しく抱きしめながら、恒元は言った。


「よろしい。では、此度の仕事を完遂した暁には、お前に我輩の世を統べる力の一部を分けてやると約束しようではないか」


「えっ?」


「この中川恒元の後継者になれば良い。さすれば何もかもが解決だ」


 恒元は微笑む。


「お前ならきっと出来る。我輩が申すことに間違いはない」


 俺は総帥の身体に腕を回すと、強く抱きしめた。心地よい温もりを感じ、涙が止まらなくなる。これで良い。これでこそ今まで裏社会で手を汚し続けた甲斐があったというものだ。これで如何なる脅威からも華鈴を守ってやれるだろう。そう思い、俺は執務室を出た。


 今日は2007年3月25日。時刻は5時。まだ朝だが、事に及ぶには良い頃合いだろう。俺はゲルべリューセ敗血症なる疾患を知らないが、蜂由来の感染症で死んだ人間の亡骸は頭に浮かぶ。あれは確か上半身から血が噴き出していたな。別の疫病だが、かつてアフリカで目にしたことがあった。


「ならば……」


 俺は宮殿を出て、組織所有のセダンを自らの手で運転して六本木へ向かった。そうして早朝を迎えたばかりの歓楽街へ着くと車を降り、ビルの群れの中へ歩みを進める。そうして、ちょうど前方から歩いてきた派手な装いの男に向かって手刀を切る。鞍馬菊水流の真髄たる、超高速の挙動から発せられる衝撃波。


 ――グシャッ。


 その男は体から血を噴き出して倒れた。俺が放った衝撃波に上半身を抉られ、肺と心臓を損傷したのである。


「ゲェッ……」


 声を出す間もなく絶命する。彼は、おそらくキャバクラの店長か何かだろう。店内で働く女子従業員の管理をしているのかもしれない。そのようなことを考えていると、周囲の人間が騒ぎ始めた。悲鳴を上げながら逃げ惑う者や、わなわなと立ち竦む者。様々な反応を見せる。


 絶対の大義が俺にはある。何せ国家のフィクサーたる中川恒元の命令で動いているのであるから――そう思った矢先。どこからともなく、女性の悲鳴が聞こえてきた。見ると、ひとりの女が腰を抜かしている。その女もまた、派手な服装をしていることが分かった。


 あれは、キャバ嬢だな。大方、客が帰った後の時間を潰しているのであろう。俺は彼女に向かって右手を突き出すと、再び衝撃波を放った。


 すると今度は彼女も例外ではなく、俺の攻撃を受けると同時に内臓破裂を起こして絶命した。


「ふふっ」


 薄ら笑いをこぼし、俺は朝の街を歩き続けた。その後も数人を衝撃波で仕留め、都合8人を屠った頃には6時を回っていた。そろそろ始発が動き出す時刻なので、俺は足を止めることなく歩き続けた。


 その間にも無数の人々が俺の周りを通過してゆく。その全てがカタギであった。


「まだまだ足りねぇなあ」


 俺は効率の良い手段を選ぶことにした。例えば、こんな具合に。


「はあああっー!」


 同時に振った左右の手から衝撃波が発生する。それは周囲に居た人々を次々と切り裂き、絶命させていった。俺は無我夢中に両腕を振り回し、血まみれになってゆく。


 そんな中、誰かが叫んだ。


「あっ、麻木次長!? 何を!?」


 その男は俺のことを知っていたようで、すぐさま逃げ出した。おそらく彼も裏社会の住人なのであろう。しかし、遅い。ほんのコンマ数秒で俺の放った衝撃波の餌食となった。彼はそのまま動かなくなった。


 さてさて。ここで、ようやく俺は重要なことに気付く。


 おいおい、ちょっと待て……。


 それは、俺が人を殺すときの姿である。何故か分からないが、今の俺は全身が血に染まっていた。まるで返り血でも浴びたかのように真っ赤になっている。いや、実際その通りだが、問題はそれだけでは無い。俺の顔である。


 おいおいおい……。


 俺の顔に笑みが浮かんでいるではないか。これは一体どういうことだ。どうして俺はこんなにも楽しそうなんだ。自分で自分を制御できない――その刹那。俺は思い出す。そういえば、昨晩、原田亮助の亡骸を見て以来、俺はずっとハイな気分だったのである。これは、いわゆる「イカれてる」というやつか。


「はははっ! はははっ!」


 楽しい。楽しすぎる。楽しくてたまらない。


 ああ、そうだった。すっかり忘れていたが、人を殺すという行為は本来のところ無上に美しく素晴らしいものであるはず。些末な悲しみに包まれ、忘れていた。今、思い出した。


「あはははは! こりゃあ、良いや!」


 気が付くと、俺は笑いながら駆け出し、手刀の斬撃を乱射していった。まるで子どものように無邪気に。その度に人が死んでゆく。


「おおおっ! 当たったぁ! 当たってるぅ! 当たってるぅぅ!」


 やがて俺は気が触れたかのように叫び出した。そして衝撃波を放ってまた人を切り裂き、殺してゆく。素晴らしき血の匂いが鼻を突いた瞬間、俺はさらに叫んだ。


「ああああああああああっ! これだぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 それから俺はひたすら街を徘徊し、片っ端から通行人を仕留め続けた。何故そうしたのかは分からない。ただ、そうしたいと思っただけだ。それだけの理由だ。


「はぁ……はぁ……」


 気付いたときには、辺り一面が血の海と化していた。


 俺は辺りを見回して、屍々累々の惨状に笑いがこみ上げていた。しかし、不思議と嫌な気は湧かない。それどころか妙に心が落ち着いている。まるで世の真理を知ったような気分である。


 どうしてだろう。笑いが止まらない。愉快で仕方がない。軽やかな心持ちだ。


「ふふっ」


 俺はまた笑う。笑って、笑って、笑い続けていた。程なくして、色鮮やかなスーツ姿の男たちが俺を取り囲んだ。この地を仕切るヤクザたちだ。


「何をやってんだーッ! 麻木次長ッ! 覚醒剤シャブでも吸ってんのかッ!」


 組長らしき男の怒声と共に、全員が銃を構える中、俺は吐き捨てた。


「あばよ」


 その刹那、全力の掌底を放つ。凄まじい衝撃波が発生したことで、眼前に立っていた組長以下総勢18名が一斉に血反吐を噴き出し、その場に倒れる。


 何だか、力が増しているような気がするな。まあ、良いけど。


 俺は、またもや街を歩き出した。俺の頭には人を殺すこと以外は何も残ってはいなかった。ただひたすらに殺し続けること。それのみに専念していた。


「ふははははっ!」


 笑い声を上げながら、俺は手当たり次第に人々を殺していった。その度に血飛沫が舞い、肉塊と化した遺体が地面に落ちる。


「はははっ!」


 その光景を見て、さらに愉快な気持ちになり、俺は笑った。笑い続けた。その笑い声は街に響き渡り、人々に恐怖を与える。彼ら彼女らは必死になって逃げ回った。


 だが、そんな努力もむなしく、結局は全員が殺された。


 そうして300人を殺し終えた俺は、六本木を離れると次の標的を求めて移動を開始する。無論、殺す理由など無い。殺したくて殺すのである。それが人間としての本能であると俺は知った。


 知ってしまったのだ。


「ふははっ! ふははははっ!」


 気が付くと、俺は笑いながら走っていた。何が可笑おかしいのか分からない。それでも、笑わずにはいられなかった。殺せば殺すほど、どんどん楽しくなってゆく。もっと殺したい。殺して殺して殺したい。そんな衝動に駆られていた。だから、俺はひたすらに走り続ける。そして、ついに六本木ヒルズへ到達した。


「はぁ……はぁ……」


 俺は笑いながら、その建物を見上げた。ここには多くの人がいるだろう。そう確信した俺は、躊躇うことなく内部へ足を踏み入れた。すると、中には案の定たくさんの人がいた。皆、何かに怯えるような表情をしている。


 その様子がまた可笑しくて、俺はまた笑う。


「どうしたんだよっ! そんなに俺が怖いのかっ?」


 俺は笑いながら、衝撃波を乱射した。無数の屍が生まれてゆく様子を見て、俺はまた笑う。笑いすぎて涙が出てきた。それでもなお笑いが止まらない。


「あはははははははは!」


 その笑い声を聞いた人々が、我先にと逃げてゆく。中には「手からビーム! こいつ、人間じゃない!」と、叫んでいる奴もいた。別に俺は超能力者でもなければ、SF映画の悪役でもないというのに。


 そもそも俺が放っているのは透明なビームではなく衝撃波だ。物理学の原則を学校で習わなかったのか。馬鹿どもが。この世に科学法則を超えた現象など有り得ない。全ては物理現象の範疇に収まるのである――俺がそんなことを考えている間も人々は逃げ惑っていた。


 あはははっ。


 こりゃあ良いや。最高だ。面白すぎる。


 俺は笑いながら手を伸ばし、衝撃波を放ってゆく。その度に人々は死んでいった。血飛沫が飛び散り、辺り一面が赤く染まってゆく。その様子を見て、さらに愉快な気持ちになった。


 楽しい! 楽しくて仕方がない!


「お前らみたいなゴミクズが生きてたところで、俺たち貴族の足を引っ張るだけだ。死んで当然なんだよ」


 俺は高笑いした。


 俺の目に映るのは屍の山ばかり。こんな快感、他には何もあるまい。殺した奴の数が増える度に、心地良さが倍増してゆく。ああ、生きているって素晴らしい。


「ふははっ! あははっ!」


 そんな時。


「ちょ、ちょっとぉ。困りますよぉ」


 背後から声が聞こえて振り返ると、そこには防護服に身を包んだ集団が立っていた。彼らの姿を見て、俺は一発で見抜いた。


「保健衛生省の連中か」


 俺の殺戮劇をゲルべリューセ敗血症のアウトブレイクが起きたというていにみせかけるための集団だろう。俺の推考通り、保衛省の制服を着た男のひとりが答えた。


「はい。保衛省医療局感染症対策部の者です……と、それはさておいて。あなた、やるんだったら場所を教えといてくださいよぉ。死体を処理するこっちの身にもなってくださいよぉ。まったくぅ」


 どうやら恒元は政府に場所を伝えていなかった模様。俺自身、六本木へは気の向くまま足を運んだようなもの。苦笑と共にこたえた。


「ああ。すまんすまん」


「まったくもぉ。後はこっちでやっときますから、あなたはさっさと帰ってくださいねぇ。とっくに300を超えてるんですよぉ」


「あれ? そうだったっけ?」


「やだなぁ! これだからマフィアは嫌いなんですよぉ!」


 彼らとの会話で我に返った俺は、コクンコクンと小刻みに頭を下げながら現場を後にした。そうして数分ほど歩いて車に戻り、返り血で真っ赤に染まった指でエンジンをかける。それと同時に、カーラジオのスイッチを入れる。


『お伝えしています通り、今朝5時頃、港区六本木で発見された男性の遺体から西アフリカで蔓延しているゲルべリューセ敗血症の病原体が検出されました。このため保健衛生省は現在緊急の調査を進めている状況です』


 俺が車を走らせ始めると、ちょうどそんなニュースが流れてきた。ああ、そういう風に報じるわけだ。納得しながらラジオに耳を傾ける。すると、ニュースは続いた。


『ゲルべリューセ敗血症はコレラやペストと同じ、ハザードレベル1に相当する感染症です。それに伴い内閣府はこのあと9時より、霧山官房長官による緊急記者会見を開催し、国民に不要不急の外出自粛を……』


 俺はフッと笑った。


「ははっ。間抜けな放送をしてんなあ」


 車を運転しながら鼻歌交じりにアクセルを踏み込むと、車は加速していった。まるで俺の気持ちを表現するかのように。それにしても、今回の仕事は楽しかった。人を殺すという行為の楽しさを改めて教えてもらった気分だ。それもこれも全て恒元のおかげだ。感謝しないとな。


 そんなこんなで宮殿へ戻ると、歓喜した恒元に風呂場と寝室で数えること8時間に渡って抱かれ続けた。総帥は俺の陰茎を舐めると、肛門に遠慮なく己の男根を挿入してくる。その衝撃と痛みに俺が声を上げると、ますます微笑む始末。


「ああっ! 美しいっ! 美しいぞっ! 涼平っ! 我輩は美しいものが好きだっ! どうかこれからも、我輩の傍にいてくれ! 永遠とわにっ!」


 恒元の激しい昂りを前に、俺はただ喘ぎ続けるしかなかった。されど、恒元の腕の中は心地よく、俺は自ら腰を振っていた。その動きに合わせるように、総帥も激しく腰を振り続ける。


「ああっ!」


「我輩は幸せだっ! 我輩は幸せだっ!」


 そうして俺たち二人は果てた後、ベッドで抱き合ったまま眠った。


 ところが、夕方。


 夕陽の差し込むベッドの上で、俺を抱きしめながら総帥は言ったのであった。


「涼平。頼みがある」


「……何でございましょう」


「華鈴と別れてくれ。他でもない、我輩のために」


 まるで意味が分からなかった。

冷酷無情の帝王に忠節を尽くし続けた結果、狂気を爆発させ、ついには快楽殺人鬼になり果てた涼平。全ては、愛する華鈴のためだったが……? 次回、涼平が大きな決断を下す!

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