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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第17章 三秒くれてやる
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誠忠煌王会

 高速道路は嫌いだ。


 窓の外を流れる景色は作りのあらいフィルムのようで、そこへ思いを馳せる余裕が少しも生まれないからだ。気心の知れた人間との旅は楽しいが、どうせならば仕事ではなく共にプライベートを満喫したかった。


 気が張った状態ではカーラジオから聞こえてくるパーソナリティーの声さえも鬱陶しく思えてしまう。


『さあ、いかがでしたでしょうか。2007年1月30日のミュージック・ワンタイム。来週もまた火曜日のこの時間にお会いいたしましょう……』


 平日の昼間のラジオは往々にしてつまらない。FMは総じて似たつくりの番組が多い。こぼれ出るため息が普段より色濃く感じられるのは、きっと隣に落ち着かぬ面持ちの男が座っているせいだ。


 元煌王会若頭補佐、片桐かたぎり禎省さだみ。此度、俺に与えられたミッションは、この人物を大将に戴く新団体を浜松で旗揚げし、西日本を牛耳る煌王会へ戦いを挑むこと――片桐は煌王会の現体制が始まると同時に関西を追放された人物。現状に不満を持つ煌王会内の反主流派を惹きつける旗印として用いるには、十分すぎる存在だろう。


 しかし、まあ、片桐は色々な面で拙い男だ。カネを稼ぐことにこそ長けているが、その本質は粗野で思慮に欠け、おまけに極度の目立ちたがりで、常に自分が輪の中心に居なければ気が済まない性分。裏社会の人間としての能力はお世辞にも高いとは云えない。


「おお、御殿場かあ。懐かしいなあ。駆け出しの頃、初めて付き合った女を口説いたのは御殿場の富士山が見える高台だったなあ」


 車が高速道路の各インターチェンジを通り過ぎるたび、ずっとこんな具合で昔話を振ってくるから俺としてもリアクションに苦慮する。


「ああ、そうだな」


 ひとまず適当にあしらうが、それでも片桐は距離を詰めてくる。


「麻木次長。あんたは? どうやって女を口説いた?」


「お前さんに教える義理があるのか」


「そんなこと言わねぇでよぉ。教えてくれよぉ」


「……はあ。『いつもの喫茶店』とでも言やあ満足かい」


「いつもの喫茶店! 若いねぇ! ふひひひっ! ひひひっ!」


 文句の意味も込めて「けっ」と盛大な舌打ちを鳴らしてやった俺だが、片桐は少しも怯まずに次なる雑談を差し込んでくる。


「あんたくらいの年齢としの頃には、俺もよく遊んだもんだぜぇ」


 きっと煌王会六代目の長島勝久に対しても、こんな調子で接していたことだろう。片桐禎省という人物は、良くも悪くも他者の懐中へ飛び込む会話の術に長けている。長島が桜琳一家二代目だった頃から彼に仕え、御仁の煌王会会長就任と同時に桜琳の三代目を継承し本家若頭補佐にまで出世した才覚は見事と云わざるを得ない。


 されど、全ては過去の話。旧主の長島がどうだったかはさておき、少なくとも俺は彼のような軽薄な男を気に入るほど易い男ではない。総帥の意向が無ければ、彼を頭から手刀で一閃してやりたいところ――そんな煩わしさを抱えながら車に揺られる時間は不快の度が極まっていた。


「……っ」


 大体にして、今回の作戦は葉室はむろ旺二郎おうじろうを理事の座に戻すきっかけづくりの側面もある。まったくもって気が乗らない。あんな男のために体を張るのは恒元の意向と云えども腹が立つ。


 嘆息と共に車に揺られること3時間。道中、目の周りに痣を浮かべた原田の「せっかく静岡に行くのだから美味い郷土料理が食いたい」という提案によるサービスエリアでの休息で時間を浪費ロスしながらも、俺たちは目的地に到着した。


 浜松市東区。中心部を少し外れた郊外のエリアだ。


「やっと着いたかぁ……ったく、遠すぎましたね」


 昼休憩が無ければもっと早く着いていたものを。無論、俺は本音を喉の奥へと仕舞い込んで笑顔をつくってみせる。


「運転ご苦労。せっかくの機会だ。お前らは暫し街をぶらついてきな」


「へーい」


 酒井と原田が休憩に出かけた後、俺は片桐と共に歩き出す。ふと隣を見ると彼が強張った顔をしているので、ため息がてら言ってやる。


「安心しろ。かつて桜琳の代紋を担いで稼業を張ってた連中は、全員がもう一度お前さんに仕えることを了承している。今は浜松だけで300人ってとこだが、これからもっと集まるだろうぜ」


 片桐の顔から笑みがあふれる。


「お、おう。そうか……そりゃあ安心だぜ」


 どうにも頼りない。さりとて昔は二千騎を誇った桜琳一家という巨大な組織を引っ張る身であった男だ。そう易々と煌王会を前に腰が抜けたりはしないだろう。


 それから俺たちは浜松市内の秘密拠点へと向かった。白鳥町にある巨大な倉庫、というか工場跡である。既に大勢の荒くれ者たちがつどっている。全員が、俺のこれまでの勧誘工作に乗った連中だ。


 皆、1998年の『坊門の乱』による組の取り潰し以降は橘体制下で鬱屈とした生活をおくっていた。ゆえに『橘を倒せるぞ』という俺の甘言に、あれよあれよと食い付いた。


 彼らは片桐の姿を見るなり、歓喜した。


「おおっ、総長!」


「お久しぶりでごぜぇます!」


 やはり俺の見る目は確かだったようだ。片桐を慕う旧桜琳一家残党の義侠心は、未だに燃え尽きていないらしい。


「お、おめぇら……すまなかったな。俺が不甲斐なかったばっかりに、皆に苦労をかけちまってよ」


「何を仰いますか! 総長のためなら火の中水の中、どこへでも参上いたしますぜ!」


 皆一様に片桐へ熱視線を向けている。当の片桐は目頭からじんわりと涙を流している。まったく、どいつもこいつも間抜けな奴らだ。無謀なクーデターに突き進んだ挙句、組全体に惨めな思いをさせた片桐も片桐だが、凡愚な主君に未だ忠を尽くす彼らも彼らである。


 その浜松市東区白鳥町の秘密拠点は、倉庫を改装して住居スペースを設けている。新団体旗揚げの日までは、彼らにはここで暮らして貰うことになっている。贅を凝らした生活設備を整えるには、予想以上にカネがかかった。恒元の歓心を少しでも買おうと、敢えて自腹を切る道を選んだ己が馬鹿らしい――などと思いながら、俺は片桐に言った。


「ご承知と思うが、迂闊に出歩かんでくれよ。糧食メシは勿論、酒や煙草から女から何まで、必要なものは俺の部下に届けさせる。この浜松は今やあんたらのシマじゃねぇってことを忘れるな」


「ああ。池尾いけおの野郎の注意深さは俺も知っている。敢えて勘付かれるような下手は打たねぇよ」


「煌王に勘付かれねぇよう手は尽くしたつもりだが……この世界に完全はぇ。こっちの動きを既に掴まれている可能性がある以上、常在戦場って単語を胸に刻んで行動するんだ」


 真顔で釘を刺した俺の言葉に、片桐は「へいへい」と軽い調子で頷いた。元は、この男は親分だったのである。新団体旗揚げの日までは旧臣たちが迂闊な真似をしないよう、気を張って貰いたいものである。今回の作戦では、片桐を盟主とする新団体を浜松で結成し、そこへの合流を誘い込むという形で大量の離反者を発生させ、煌王会を内部崩壊に至らしめることになっている。成功のためには順序の通りに進めなくてはならない。現在の浜松を旧桜琳一家に代わって支配する煌王会貸元『池尾いけおぐみ』と戦端を開くのは新団体を立ち上げてからだ。それまでは無闇に攻撃するのは避けて欲しいところである。旧桜琳一家残党の終結を池尾サイドに悟られるのもまずい。


 まあ、その辺は傭兵時代の経験値に基づく俺の作戦が効果覿面だったと信じる他あるまい。この倉庫に元構成員を集結させるにあたっては、近くを流れる天竜川を船で遡上するルートを採用した。新幹線や飛行機といった公共交通機関を一切使わず、カネで雇った漁師たちに協力させて、各地の港から水路で移動するという離れ技を成功させたのだ。


 当然ながら、池尾組がそんな経路に注意を払っている訳がない。よもや煌王会七代目の慈悲で助命されたはずの旧桜琳一家構成員の多くが再び一旗揚げようと目論み、浜松へ再結集しているなど、想像の埒外であるだろう。


「良いか。絶対に池尾と揉めてくれるなよ。連中には既に大枚の用心棒代を払ってんだ。お前らが余計なことをしない限り、池尾いけお智樹ともきは『白鳥町にコマツ食品の新しい倉庫が出来た』と信じ続けるはずだからよ。くれぐれも恒元公のご尽力を無駄に……」


「分かってるって。大人しくしてりゃ良いんだろ」


 俺の話は程々に、片桐たちは久々に顔を合わせた元子分たちと騒ぎ始めた。


「んじゃ、再会を祝して飲むか!」


「賛成ーッ!」


 まったく。人の話は最後まで聞きなさいと小学生の時分に教わらなかったのか。自ずと嘆息がこぼれた。しかし、考え様によっては彼らが能天気なくらいがむしろ操りやすいとも云える。あくまでも片桐たちは煌王会内の動揺を煽るための駒に過ぎない。早いうちから戦意を沸々と溜め込まれるよりかは、飲んだくれていて貰っていた方が煌王会の目を掻い潜るという意味では丁度良い。


「……まあ、せいぜい使いやすい人形であってくれよ。アホどもが」


 フランスで嗜んだワインよりも日本酒の方が進むらしく、次第に片桐は顔を真っ赤にして踊り出す。そんな彼らを俺は冷ややかな目で見つめていた。


 やがて全員が各々に談笑したり、壁に立てかけられたダーツボードに当たったり、酒をかっくらったりしてくつろぐ中で、俺は一人外に出て、倉庫横にある資材置き場に置いてあったパイプ椅子に座って一息吐いた。すると、そこに原田がやってきた。


「お疲れさんでございます。兄貴」


「ああ」


「しかし、大丈夫ですかね? あいつら……本当に中川会のために動いてくれるんでしょうか」


「ここへ着くまでの途中でも散々に言い聞かせてやったんだ。片桐も日本の地を踏んで早々に駿河湾へ沈むのは嫌だろうよ」


 原田は「だと良いんですが……」と呟くと、懐から煙草を取り出した俺にライターを差し出した。俺はコクンと頷くと、奴に火を灯して貰う。


「片桐は単なる着火剤だ。煌王会に漂う、不満という名のガスを爆発させるためのな。そいつを為すまでの間は好きにさせてやるが、その後で奴に少しでも怪しい動きがあれば、即刻始末する」


 俺が「どうせはなから捨て駒だ」と言い切ると、原田は感心した様子で「流石は兄貴」と言った。


「……やっぱり兄貴のそばが落ち着きますわ。何つうか、心の底からホッとするっていうか」


 不意に部下からこぼれた安堵の吐息。俺が「どうしたんだよ、藪から棒に」と笑うが原田の目に冗談の色は無かった。彼は真剣な表情で言う。


おれぁここ半年で、自分が如何に出来ねぇ人間なのかを痛いほど感じました。行動に軸ってもんが無いから、暴れることしか能の無いクズ野郎に成り下がっちまった。でも、兄貴にお仕えしてると……真人間に戻れるような気がするんでさぁ」


 彼の言葉に俺の心臓はドクンと高鳴った。可愛い弟分たちの西日本での暴れっぷりは恒元から聞かされており、他にも皆の関東に戻ってきて以降、サクリファイスを吸っている時を除き、ずっと疲労にまみれたような顔をしている彼らを見るたびに胸が痛む思いがしていたのだ。


 昨年の四国の抗争以来、原田を含める助勤たちは全員が理性を失った。人の血をすすることを好み、興奮した際には『ギャハハッ』と高笑いする畜生に成り果てたと云えよう。


 彼らを人ならざる存在へ至らしめたのは恒元の洗脳だが――導いたのは他でもない、俺だ。


 如何なる残虐行為も気高い理想のために必要な犠牲と割り切った俺の言葉こそが、原田たちを狂わせた。

 俺は歯噛みした。


 されど、強く歯噛みしただけ。己の行いを深く悔やみこそしたが、詫びることも無ければ前言の撤回や訂正に及ぶことも無い。


 何故なら、ここで己を曲げては俺が壊れるような気がするからだ。今までの自分を否定したくはないし、何より、そんなことをしては愛する女が泣くだろう。


 華鈴は、俺のために何処までもついて行くと言ってくれたのだ。俺の歩む道は彼女の歩む道。ぶれることなどあってはならない。


 だからこそ弱気なことは抜かせない。わざとらしくも「おうよ」と顔に笑みを貼るのみ。


「じゃあ、その勢いでこれからも俺についてきてくれや」


 直後、俺は彼に背を向けて目を閉じた。


 憎たらしい汗が額ににじむ。呼吸が乱れそうになるが、深呼吸を繰り返して調子を整える。そうすることで俺は己を落ち着かせるのだ。おかげで会話はよどみなく流れ、数十秒後には原田の明るい声色が背中越しに届いた。


「ええ! どこまでもお供いたしますよ!」


 俺は返答の代わりに深々と頷くことでこたえた。部下の寂しげな声色から内に秘めた心情が理解できただけに、辛かった。


 だとしても。


「……さあ、気合いを入れ直すぞ。今回の作戦で必ずや煌王会を叩こうじゃねぇか」


「ええ、九州には残党を結集して新たに旗揚げされた玄道会も控えてます。煌王と玄道が手を組む気なら、まとめて潰しちまいましょう」


「そのためにも浜松の組織を拡大し、やがては西日本全体さえも飲み込むほどの巨大な渦にしなきゃならん。力を貸してくれ」


「もちろんです。やってやりましょうぜ」


 それから倉庫に現れたのは見慣れた顔。原田と同じく、次長助勤の鮎原あゆはら颯太郎そうたろうである。彼には片桐たちと共に秘密拠点で暮らし、彼らの世話と監視を任せることになっていた。


「中川会執事局次長助勤、鮎原颯太郎ッ! ただいま到着いたしましたッ!」


「おいおい。そう緊張せんでくれや」


 18歳と助勤たちの中では最も年若い鮎原は、いつになく強張った面持ちをしていた。無理もない。普段は先輩たちと一緒に宮殿での雑務や恒元の護衛をこなす彼だが、今回、初めて大きな作戦の実働部隊メンバーに選ばれたのであるから。尤も、推薦したのは俺である。


「大丈夫だ。奴らの動きが妙に怪しいと思ったら連絡する、それだけで良いんだ。以降の始末は俺が付けてやるから、お前はお前の仕事をしっかりやるだけだ。暗号通信の打ち方は覚えてるか?」


「は、はい……」


「しっかし、お前も随分とたくましくなったじゃねぇか。なあ?」


「え、ええ」


「去年のケガを乗り越えて成長したお前なら、きっと成し遂げられるはずだ。期待してるぜ」


 そう言って俺は、鮎原の背中を軽く小突いた。俺の言葉を受けた鮎原は目を見開きつつも、俺の目を真っすぐに見て力強く「はいッ」と答えた。彼の声からは僅かばかりに震えが抜けたように思えた。良い兆候だ。緊張を和らげるためにも少しばかり雑談を繰り広げてみよう。


「高3の今の時期と云やあ、進路を決める頃か。高校を出たら大学には行くのか?」


「はい。紅鶴こうかく大学だいがくの医学部に」


「おおっ、名門中の名門じゃねぇか!」


「勉強、頑張ったんです。深草ふかくさぐみの跡取りみたいに、僕も医師免許を持つヤクザになりたくて」


 私立紅鶴大学の医学部は最先端の医療技術を学べることで名が知れており、かなりの難関大学として世間一般には認知されている。まさかそんな名門に合格を果たせるとは――将来が楽しみな後輩である。


「えへへっ。お褒めにあずかり光栄でございます」


「おうおう、謙遜する必要はぇぜ。お前さんはきっと立派な医者になれるよ」


「ありがとうございます!」


 そう言って鮎原はニコッと笑った。俺も負けじと笑い返す。斯様にして誰かの将来を語れるようになったことが嬉しくてたまらない。俺には昔から未来ではなく現在いまばかりを見てしまう傾向きらいがあった。今が楽しければ構わない――そんな刹那的な生き方を是としていた時期があった。


 かつて傭兵として戦場を駆け回っていた時、同じ戦友として肩を並べてきた仲間が死んでゆく様子さまを何度も見てきた。彼らの中には故郷に妻子を残してきた者もいたし、老いた両親を扶養するためにも日々の糧を求めている青年もいた。いずれも、俺にとっては大切な友人たちだ。


 だが、彼らは殆どが帰らぬ人となった。敵の銃弾に倒れた者もいれば、爆発物の破片に切り裂かれた者もいる。悲惨な最期を迎えた彼らを見て、俺は思った。如何に気高い理想を掲げようとも、命を落としてしまったらそこで終わりなのであると。同時に、仲間たちのように生きるのは俺には無理であると。


 だからこそ、俺は傭兵として戦い続けた。その日のかてにありつくために。そして危険と引き換えに得られる一夜限りの贅沢を味わうために。


 しかし、そんな俺を変えてくれたのが華鈴だった。あの温もりと優しさに触れて、俺は初めて前を向いて生きようと思えた。だからこそ、俺は誓った。彼女のためにも勝ち続けてやると。強大な力を思うままに振るえるようになってやると――華鈴の夢を叶えるために。それが今の俺にとって唯一無二の指針であり、生きる理由だ。


「んじゃ、ここは任せたぜ」


「はいっ! お任せくださいっ!」


 鮎原の背中をポンと叩き、俺は白鳥町の倉庫を後にした。向かった先は、中区鴨江の一戸建て住宅。浜松での作戦が長期戦になることを想定し、前もって用意していたのである。


 少しでも敵の目を引き付けるために。


「しかし、まあ……」


 不動産業者から貰った鍵を開けながら、原田が呟いた。


「……俺は不安でしたよ。陽動のためだからって兄貴はわざわざ浜松ここへ出向いて物件探しから購入契約までを全てお一人でこなされた。池尾組に『どうぞ襲ってくれ』と言っているようなものじゃないですか」


「だが、おかげで良い隠れ家が見つかった。大体にして池尾ごときに俺の首を獲る腕なんざありゃしない。却って戦々恐々としていることだろうよ」


 滞在場所にビジネスホテルを選ばなかったのは、街の中枢を掌握する池尾組の奇襲に備えた戦術的側面もあるが、最大の理由は挑発だ。中川会の大幹部たる俺が浜松市内で派手な動きをすれば、池尾の用心は俺個人に引き付けられ、10キロ離れた白鳥町の倉庫に向くことはない――そんな目算だ。池尾組の防衛網に引っ掛かることは必定だが、それを逆手に取る。


「アフリカで教わったもんだ。人は目の前に美味しい獲物が姿を見せた時、別の方向から接近するもう一匹の獲物には気付かねぇと。また、その傾向は狩人の腹が減っている場合にますます強まるってことをよ」


「狩人の腹が減っている……まあ、確かに池尾組は煌王の松下組縁戚の中でも目立った手柄を挙げられてねぇと聞きますけど。だからって流石に無謀すぎじゃねぇですかい」


「現れたら現れたらで返り討ちにするだけだ。尤も、池尾も自分の実力じゃ撃退されることが分りきってるから、何も出来ずにいるんだろうな」


 この街で下準備に明け暮れた今月11日から15日に至るまでの間、池尾組が俺を狙った奇襲攻撃を仕掛けてくることは無かった。現に、購入契約が済んだ前線基地が俺の居ぬ間に爆破されることも無かったわけである。池尾組が、俺という存在に恐れを抱いていることは明白だ。


「池尾は今後も俺だけに狙いを絞りつつも、具体的な行動は何一つ出来ねぇまま指を咥え続けるだろう。巨大な怪物を前に足が竦んで、引き金を引けねぇ未熟な狩人だ。無論、こちとら膠着状態が続いているうちに片桐たちの戦力を強化してやるがな」


「その狩人が仲間を呼んだら?」


ぇだろ。領内に出現した強敵を前に何も手を打てちゃいないと煌王の本家に知られたら、取り潰しとまでは行かなくても代貸あたりに格下げされるのは確実だ。池尾はただでさえ、向こうの会長に睨まれてんだ。情けねぇ姿は見せられんさ」


「た、確かに」


 原田は息を呑んでいた。俺の傭兵時代に究めた心理学に外れは無い。誰が相手であろうと掌の上で転がしてやる。


 やがてドアが開いた。原田に続いて敷居を跨いだ俺は、颯爽と鼻を鳴らす。玄関から節々に至るまでこだわりにこだわった、自慢の空間だ。


「どうだい? 浜松の家具ショップも意外と洒落たもんだろ?」


「ええ、本当に。兄貴のセンスには驚かされますよ」


 原田の感想に「そうだろ?」と笑ってみせる。室内に広がる高級感あふれる光景は、まさに圧巻の一言につきる。壁紙は全て薄桃色の大理石調で統一し、照明器具はどれも暖色系の色合いである。ソファもテーブルも革張りであり、その座り心地は最高だ。キッチンはIH方式を採用しており、ダイニングチェアはビターチョコレート色。


「このお風呂なんて素敵でさぁ。浴槽に浸かりながらジャズが聴けるなんて贅沢すぎますよ」


 原田はリビングに置かれたソファを眺めつつ「流石ですね……」と感嘆の声を漏らした。


「だろう? この家の内装は全部、俺が自分で決めたんだ」


 そう言うと俺は彼の肩をポンッと叩いて「んじゃ、始めるか」と告げた。原田が「何を?」と尋ねるので、俺は「爆弾検知に決まってんだろ」と返事をする。


「ああ、そうでしたね」


 それから俺は持ち込んでいた専用の特殊センサーをバッグから取り出し、まずは玄関から順番に部屋を一周してゆく。その後、原田も手伝って全ての部屋に爆弾が仕掛けられていないことを確認できた。


「よし。これで安心して暮らせるな」


 先ほどドアを見た際にピッキングの痕跡が無いことから「よもや」と思っていたが、池尾組は本当に何も仕掛ける気が無いようだ。この竦み様じゃ滞在中の俺を狙って奇襲に打って出ることも無ければ、ロケットランチャーで砲撃してくることも無さそうだな。


 さて、そうと決まれば早速次なる作戦の準備――と思った直後。俺の端末が鳴った。総帥府からの暗号メールだ。


「はあ?」


 画面へ視線を落とした瞬間に自然と声が漏れた。きょとんと首を傾げる原田に、俺は語った。まったくもって意味が分からない申し付けであると、驚かれることを承知の上で。


「総帥からだ。『今すぐ赤坂へ戻って参れ』とのご命令だ」


「何ですとっ!?」


 案の定、原田は素っ頓狂な声を上げた。俺は苦笑しながらも彼に語って聞かせた。総帥府から送られてきたメールの中身を。


 曰く、今日の午前中に開催された理事会にて『緊急決定』が為されたそうだ。敵対勢力による傍受に備えて文面で詳細は明かしていないものの、既に抗争の前線に出ていた俺を呼び戻すくらいだからよっぽどのアクシデントが発生したと考えるべきだろう。何のことだかは分からないが、総帥のリクエストとあってはこたえざるを得ない。


「そ、そりゃ一体、どういうことです? 緊急決定? 敢えて兄貴を宮殿に戻すほどのことなんか無いと思いますぜ?」


「まったくもって同感だが、そういう命令なんだ。仕方あるめぇ」


 俺は肩を竦めてみせる。この作戦の要は俺を囮に使って煌王会を混乱させること。それなのに敵対組織の勢力圏から離脱するとなれば、本来の目的から逸脱してしまう。しかし、総帥府側の連絡の仕方からして張り詰めた雰囲気を感じる。少なくとも数週間前から準備していた作戦を一時中断させるに値するだけの、緊急事態が発生したと捉えてしかるべきであろう。


「もしかして、侵攻中止……ってことですかね」


「さあな。とにかく、一度総帥のお話を伺ってみないことには判断がつかん」


 俺は端末を仕舞いながら言った。原田は訝しげな顔をしたが、俺が「んじゃ、行ってくるわ」と靴を履き始めてからは諦めた様子で「はい」と頷いた。


「原田。お前は酒井とここに残れ。あちらの用事が片付き次第すぐに戻るが……いつまでかかるかは分からん」


「大丈夫ですぜ。兄貴。こっちはきっちり守りますんで」


「頼む」


 そうして、俺は車を飛ばした。組織の車とは別に予備の足を調達していて正解だった。とはいえ、こちらは浜松市内の中古のショップから現金で一括購入した大型オートバイだが――ともあれ出発だ。隠れ家の車庫に停まっていた機械馬――白煙はくえんの如き青い塗装が施されたスポーツタイプの大型バイクは、俺が一目惚れしたものだ。エンジン音は轟音だが、この方が周囲の喧騒に紛れやすい。


「さあて、と……」


 ヘルメットを装着した俺はハンドルを握ってアクセルを吹かした。直後、タイヤが甲高い悲鳴を上げながら走り出す。バイクのエンジンが唸り、俺の身体が前へと押し出されてゆく。


 向かう先は赤坂の総帥府本館。10代の頃を思い出しながら疾走し始めたバイクは、夜の闇を切り裂く矢のごとく風を切りながら、一路帝都を目指した。


 夜闇やあんの中をひた走ること3時間あまり。


 20時過ぎには目的地である宮殿に辿り着き、駐車場にバイクを停めてから謁見の間へ駆け込んだ俺だったが、そこで待っていたのは拍子抜けするほどに柔らかい表情の恒元であった。


「明日、パーティーを行うことになった。彼奴あやつにとっては初めての宴だ。少しでも腕の立つ者を護衛として付けてやりたくてな」


「パーティー……でございますか」


「左様。恒勝つねかつもようやく政治家として一歩を踏み出したということだ」


 文字通り、開いた口が塞がらなかった。恒元が俺を呼び戻した理由は、大甥にあたる一年生議員の中川なかがわ恒勝つねかつが初めて主催する政治資金パーティーの護衛を俺に任せるためだった。


 恒元は俺に一枚のビラを渡した。そこには髪を七三分けに整えた青年政治家の写真の右脇に、太文字で『中川恒勝第1回国政報告会』という題が記されていた。


「明日の19時から高輪で行われる。我が中川下総守家の栄光を祝う晴れ舞台だ。くれぐれも粗相そそうの無いように頼むぞ」


「はっ。承知いたしました」


 俺は恭しく頭を垂れる。正直、こんなことに時間をついやしている暇は無い。一刻も早く浜松に戻らねばならないが……しかし、恒元は「良いな?」と念を押すように問うてくる。


「パーティーの護衛だけではないぞ。明日は会わせたい者が大勢居る。お前もそろそろ永田町の空気に触れてみるべきだ」


「……ありがたき幸せに存じます」


「浜松の件は心配せんで良い。葉室も西へつかわせておる。自ずと兵は集まるであろうよ」


 俺は再度、深く頭を下げる。総帥の言葉は絶対だ。どんな些細ささいなことであっても反論は許されない。


「うむ。遠路はるばるご苦労であったな。下がって良いぞ」


 恒元は満足気に頷いた。俺も「勿体なきお言葉でございます」と感謝の意を示す。しかし、内心は穏やかでは無かった。煌王会との抗争を勝利へ導くために奔走してきたというのに、蓋を開けてみたら若手の国会議員のお守りをしろとは――それも、明日開かれる初の政治資金パーティーの護衛だと?


 無論、俺は必死で堪えた。うっかり口を開いて「お言葉ですが」などと抜かしてしまわないように。ゆえにそそくさと執務室を辞去する。


「……」


 顔をしかめつつ、俺は廊下を歩く。


 どうにも分からない。今回の抗争は組織の命運を左右する重要なものではなかったのか。無論、彼に申し付けられたとあっては逆らう選択肢など無い。しかし、だとしても優先順位がおかしい気がする。政治家のパーティーなど二の次で良いではないか。


「……俺みてぇなチンピラには分からん都合があるってのか」


 誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。総帥を悪く言うつもりは毛頭ないが、どうしても納得できないものはできない。しかし、俺はあくまでも恒元の側近だ。総帥も俺の腕を高く買ってくれている。ならば、我儘わがままを抜かしてはいけないのかもしれない。


「ったく、しゃあねぇな」


 毒づきながら廊下を歩いていると、前から見覚えのある顔が歩いてくる。今年の元旦に都心の公園で遭遇した人物だ。


「ん? あんたは?」


「ほぼほぼ1ヶ月ぶりでございますな。麻木の叔父貴」


 中川会直参『葉室はむろぐみ』若頭、葉室はむろ朋己ともみである。組長である父の旺二郎とは違い、顔立ちは爽やかなイケメンである。すらりとした細身の身体は黒のスーツとよく似合い、切れ長の瞳と整った眉が印象的な美男子だ。年齢は20歳。


 改めて「ごきげんよう」と挨拶をする俺に、朋己は「ご機嫌麗しゅう」と応じて話を振ってくる。


「父がお世話になっております。おかげさまで何もかもが上手く運んでおりますよ」


 どうやら葉室組の西日本における作戦が順調に進んでいることへの礼を言いたいらしい。今回、葉室は関西地域で煌王会の非主流派を調略するミッションを与えられている。連中に『自分も中川会を裏切るから一緒にどうだ』と吹き込んで唆し、俺が擁立した片桐を擁する新団体に合流させるのである。


 中川会の裏切り者を演じつつ、なおかつ関東博徒を蛇蝎の如く嫌う関西極道を手懐けるという複雑な仕事。されども口が達者な葉室は難なくこなしているという。


「父が申しておりました。自分には麻木次長が味方に付いてくれているから安心して動けると。私自身、貴方様の武勇を聞き及んでおりましてな。是非、お会いしたいと思っていました」


 朋己は興奮気味に語った。俺としては「どうも」としか言いようが無いが、朋己はさらに言葉を続ける。父親である旺二郎のことを話してくれた。


「父は最近、仕事が楽しいようです。やっぱり椅子でふんぞり返るよりも、インテリジェンスの最前線にいた方が落ち着くのでしょうね。まあ、腕っぷしに関しては私にも劣りますから心もとないところはありますが」


 俺は思わず感心した。あの男も粋なことを言うものだ。朋己は期待に満ちた顔で続けてくる。


「此度の作戦が成就した暁には、父を理事の椅子に戻すというお話でしたな。その節は総帥にお口添えくださり、感謝申し上げます」


「別に俺は何もしちゃいない。恒元公が御自らお決めになられたことだ」


「しかし、あの時総帥は随分と躊躇われていた。それを『葉室が役に立つ』と説得してくださったのは叔父貴ではございませんか」


 朋己は嬉しそうに笑う。まあ、実際には違うのであるが――照れ臭くなった俺は適当な相槌あいづちを打って誤魔化す。そんな俺に恭しく頭を下げ、朋己は言った。


「今後とも父の旺二郎をお支え頂きますよう、よろしくお願いいたします。私もお力になれそうなことがあればお手伝いさせていただきます」


 そうして彼は颯爽と歩き去って行った。俺はその後ろ姿を暫し眺めると、踵を返す。父親想いな息子を持って、葉室旺二郎も幸せ者だな――そんな思いを胸に抱きつつ、俺は宮殿を後にする。本来なら浜松の陣所へ蜻蛉帰りしたいところだが、スケジュール的に難しいので仕方なく赤坂3丁目の家に帰る。


「ただいま」


 黒のコートを宵闇に同化させ、苦笑いに満ちた表情で帰ってきた夫を華鈴は目を丸くして出迎える。少なくとも1ヶ月は家を空けると伝えておいただけに、驚かれるのは当然だ。


「涼平!?」


 しかし、妻は何時いつだって俺のことを分かってくれる。困惑しつつも喜びに満ち溢れた表情で玄関に出てきた彼女は、コートを脱いで荷物を置いた俺に「おかえりなさい」と微笑んだ。


「ご飯、余りものしかないけど食べる?」


 その日は偶然にも店が休みであった。


「ああ。今はお前のつくった飯が食いてぇ」


「ふふっ……分かったわ。ちょっと待ってて」


 そう言って華鈴は台所へ向かう。そして冷蔵庫から鍋を取り出してコンロに乗せると火を付けた。彼女の料理をしている後ろ姿を見ながら、俺は改めて思うのだ。彼女と結婚して良かったと――数十分後。


「はい、お待たせ。今日はシチューをつくってみたの」


「美味そうだ」


「嬉しい……さ、あったかいうちにめしあがれ」


 そうしてテーブルについた俺たちは、食事を始める。ホワイトシチューの他にも、魚のフリッターやサラダ、コンソメスープなど様々なメニューが並んでいる。


「ところでさ……」


「ああ」


「……作戦の途中で帰ってきたってことは、もしかして恒元公に何かあったの?」


 華鈴は心配そうな顔をしながら訊ねてきた。俺は「決してマイナスなことじゃねぇんだが」と話し始める。そして、先ほど宮殿で恒元と交わした会話の内容を話して聞かせる。


「政治資金パーティーの護衛?」


「ああ。そいつに出席しろって言われたんだ」


「へぇ、大役じゃん」


 俺は「まあな」と答える。しかし、すぐに嘆息した。正直、興が乗らない――部下を戦地に残したまま宴に興じなければならないとはな。


「はあ……可愛い弟分たちが汗水垂らして戦ってるのに、兄貴たる俺が御伽おとぎばなしのキャラクターみてぇな格好で遊び呆けるなんざおわらぐさだ」


「遊び呆けるわけじゃないよ。護衛として行くわけだし」


「いや。総帥には『くれぐれも粗相そそうの無いように』と言われた。正装で行かなきゃならんことは自明の理だろう」


「ふーん」


 華鈴は首を傾げる。「でも」と言いながら俺に視線を向けた。


「考え様によってはチャンスなんじゃない?」


「どうしてそう思うんだよ」


「その、恒元公の大甥の人って現職の国会議員なんだよね? だったら、何か良いコネがつくれるかもよ?」


「そいつはそうだが、今この時につくらなくたって……」


「あたしたちの目的は力を付けることだったはずだよ。恒元公だって、そのために涼平を政治家に引き合わせるんでしょ」


 華鈴の指摘に俺は「……そりゃあ確かに」と肯定する。先ほどの恒元の顔は、俺に対して大いなる期待を抱いている雰囲気があった。将来のことを如何に考えているのかはさておき、彼が俺を腹心として高く買っているのは事実だ。


「まあ、仕方ねぇ。行くだけ行ってみるか」


 ため息をつきつつ俺は頷く。華鈴は「その意気だよ」と答えつつシチューを一口食べた。


「今夜は家でゆっくりできるんだよね?」


「ああ。今晩はここで寝泊まりする」


「良かった……」


 華鈴は安心したように微笑む。俺も引き込まれるように笑顔を浮かべた。


「今日はまだ時間があるよね? なら、一緒にお風呂入ろ?」


「そうだな……」


 正直、今宵はシャワーだけ浴びて早く布団に入りたい。しかし、華鈴と一緒に風呂に入るというのは魅力的な提案だった。夕飯を食べ終えたところで俺は「よし」と言って立ち上がる。


「風呂入れるぞ」


「うんっ!」


 華鈴は嬉しそうに返事をする。その屈託の無い笑顔に胸の鼓動が激しく高鳴るのを感じながら、俺は浴室へ向かう。湯船にお湯を張り、タオルなどを準備して彼女と入浴する。


「ねえ、涼平?」


「何だ」


「あたしのどこが好きなの?」


 華鈴は唐突に聞いてきた。俺は「お前の全てだ」と即答する。すると、彼女は「えへへ」と照れ臭そうに笑った。


「涼平の馬鹿……恥ずかしいこと言わないでよ……」


「事実なんだから仕方ねぇだろ」


「もうっ……」


 華鈴は顔を真っ赤に染め上げながら怒ったふりをする。しかし、本気で怒っていないことは分かった。むしろ、喜んでいるように思える――尤も、本人が口に出さないので断定はできないが。


「……ねぇ、明日のパーティーはあたしも行って良いかな」


「ああ。その方が総帥も喜ぶはずだ」


「やった!」


 華鈴は無邪気に喜ぶ。その笑顔を見ているだけで胸が熱くなる。本当に愛おしいひとだと再認識せざるを得なかった。


 湯船に浸かりながら俺と華鈴は愛の言葉を語り合う。互いの肌に触れ合ったりして、楽しい時間を過ごす。そうして夜がふけていった――翌日、夕方16時半過ぎ。


 華鈴がクリーニングに出してくれた礼服に袖を通した俺は、歯を磨いて身支度を済ませた。華鈴も普段通りに振る舞っている。しかし、やはりどこか落ち着かない様子だった。それもそのはずである。今日は恒元の大甥による初めての国政報告会なのだ。もし、そんな場で粗相をしでかせば、今後の組織における俺の立ち位置が大きく変わってしまうかもしれない。そんなプレッシャーもあり、彼女としては気が気ではないのだろう。


 一方の俺はというと……。


「涼平。準備は良い?」


「ああ。万全だ」


「じゃ、行きましょう」


 そうして二人で家を出て、迎えにきた井上秋成が運転する組織の車で会場へと向かう。いつも通りではない妻の心の中を悟ったか、秋成は車内ではラジオをかけてくれた。彼のおかげで雑談が弾む。その最中に俺は考え事をする。


 昨日に開催された理事会に俺は出席できなかった。ゆえに、昨日の決定に至る流れを俺は知らない。どうして、政治家のパーティーの開催が中川会理事会の議題に上るのであろうか……?


 まあ、ひとまず今は宴で品良く振舞うことに注力しよう。失敗は許されない――そう思った途端に緊張してきた。華鈴は気を遣ってなのか「緊張しないで」と言ってくれるが、とてもじゃないがそうはいかない。


「大丈夫だよ。きっと上手くいくから」


「だと良いんだがな……」


「それにさ、涼平のことはあたしが守るから」


「それは心強いな」


 華鈴は「でしょ?」と言って笑った。その笑顔に安堵するものの、不安は拭えない。会場へ到着してからはスタッフたちに挨拶をして回る。彼らは皆、笑顔で迎えてくれた。どうやら、総帥から事前に連絡があったらしい。おそらくは『大変偉い方だから丁重にお迎えするように』と。


「それにしても、凄い人だかりだね」


 華鈴の言う通り、ホールの中は人であふれかえっていた。これほど多くの人々が一人の政治家に注目しているという事実に、俺は少なからず驚いた。


「麻木涼平様と華鈴様でございますね?」


 若い女の声で名を呼ばれて振り返ると、そこには一人の女性が居た。歳は20代くらいだろうか。身なりは綺麗で背丈も高く、誠実そうな印象を受ける。


「ええっと……あなたは?」


 華鈴が問うと女は自己紹介をした。


「僕は中川恒勝の妻でと申します。本日はどうぞよろしくお願いします」


「こちらこそよろしくお願いします」


 俺と華鈴が頭を下げると紗由子は満面の笑みを浮かべた。


「早速なんですが、主人は今、来客対応に追われておりまして。なので、少しお待ちいただけますでしょうか」


 紗由子に促されて近くの椅子に腰かける。暫く待っていると、彼女が戻ってきて「ご案内いたします」と言った。


「こちらです」


 案内された先はホール奥にある控室だった。広い部屋の中央には立派な机があり、その周りを囲むように椅子が置かれている。机の近くに佇む男に、俺は見覚えがあった。


「……恒勝様」


 会うのは初めてだが、メディアでは何度か見たことがある。中川なかがわ恒勝つねかつ。衆議院関東比例区選出の衆議院議員にして、中川恒元の甥である恒貞つねさだの息子――つまりは恒元の大甥にあたる人物だ。


 俺と一緒に華鈴も恭しく礼をする。気付かぬうちに妻も貴婦人たる風格が身についてきた。頼もしいことだ。


「やあ、こんばんは。麻木涼平さんでしたっけ」


「はっ」


「大叔父上から話は聞いていますよ。なかなかの凄腕だそうですね。私もあなたの勇名は耳にしたことがありました」


「恐縮でございます」


「今日は楽しんでいってくださいね。美人の奥様もご一緒に」


 俺と華鈴は「ありがとうございます」と頭を下げる。恒勝は柔和な笑みを浮かべながら「いやいや。こちらこそよろしく頼みますよ」と言ってきた。その態度は非常に穏やかで、親しみやすそうな雰囲気をまとっている。


 俺はそんな恒勝に対して少なからず好感を抱いた。この男、悪人ではない気がする。華鈴も同じ気持ちだったようで、ほっと安堵したように息をいていた。


「……あ、ごめんなさい。あたしったら緊張しちゃって」


「いや、気にしないでくれ」


「でも……」


「そんなことより、早く席につこうじゃねぇか。もうすぐ開演時間だ」


 俺は華鈴の手を引いて座席に座る。すると、ホールが暗くなり、ステージ上にスポットライトが当たった。同時に司会者が現れる。


『皆さま。本日はお越しくださりありがとうございます。只今より衆議院議員中川恒勝の国政報告会を開催いたします』


 その言葉と共に恒勝が登壇する。彼はマイクを手に取って「ご来場の皆様。本日は誠にありがとうございます」と言った。観客席から拍手が沸き起こる。それを受けて、恒勝は挨拶を続けた。


「ご紹介に預かりました、衆議院議員の中川恒勝でございます。本日は私の国政報告会にご参加いただき誠に光栄でございます。皆様のおかげでこのような素晴らしい会を開くことができました。心より御礼申し上げます」


 恒勝は深々とお辞儀をする。その後、彼は自身の政治活動の実績を語り始めた。演説の内容は実に面白く、聞き入ってしまうほどであった。特に印象的だったのが、彼の政策に対する情熱だ。それは決して一年生議員特有の青臭いものには感じられなかった。


 流石は名家の坊ちゃんだ。理想だけで政治が回らないことをよく知っている。


 中川下総守家から国会議員が出るのは、子爵として貴族院議員を代々輩出していた戦前以来のことらしい。恒元が如何なる思惑で大甥を国政の場に送り出したのかは存ぜぬが、そうした背景を忘れさせてしまうほどの魅力に満ちた青年政治家だった。


「以上が私の政治活動の内容となります。これからも皆様と共に歩んでまいりたいと思っておりますので、引き続きのご支援をよろしくお願いいたします」


 恒勝がスピーチを終えると大きな拍手が巻き起こった。彼は深々と頭を下げてから壇上を降りる。代わりにスタッフたちが出てきて、会場内の照明をともした。


「けっこう好感が持てるよね、あの人」


 隣に座っていた華鈴が感嘆の声を漏らす。


「そうだな。少なくとも家柄だけの男ではないらしい。遠からず補佐官なり副大臣なりで入閣するだろうぜ」


 俺も素直な感想を述べる。すると、華鈴は「うんっ」と笑顔で頷いた。その顔はどこか誇らしげで、嬉しそうに見える。彼女は続け様に言った。


「あたしたちも頑張ろうね」


「もちろんだ」


「えへへ、約束だよ?」


 そうして俺たちは互いの手を握り合いながら笑い合う。それが何よりも幸せであった――恒勝のスピーチが終わると、そのまま懇親会に突入した。最初のうちは来賓たちの挨拶が続くのだが、それが終われば次はいよいよ歓談タイムとなる。


「今日はおいでくださり、誠にありがとうございます。麻木様が会場に居てくださったおかげで、主人も安心してスピーチできたと思います」


 彼女は丁寧に頭を下げる。俺は慌てて「いえいえ。そんな滅相もないですよ」と答えたが、それでも彼女はしきりに礼を言うばかりだった。華鈴が「こちらこそありがとうございました」と返事をすると、紗由子はようやく落ち着いた様子で「お飲み物をお持ちいたしましょうか」と訊いてきたので、俺たちは快く承諾した。すると、彼女は近くを歩いていたウェイターに声をかけて飲み物を持ってくるよう指示してくれる。


 程なくして、ワイングラスを持ったウェイターが現れる。俺たちは礼を言ってグラスを受け取る。紗由子は微笑みながら「乾杯しましょう」と提案してきたので、それに従うことにした。


「それでは皆さま。本日はお集まりいただき誠にありがとうございます。本日は主人のためにご来場くださり、誠に感謝いたします。どうぞ楽しいひと時をお過ごしくださいませ」


 紗由子がそう宣言すると、他の来場者たちも歓声を上げた。俺たちも一緒に拍手をする。そして、グラスに口をつける。ワインは美味かった――そうしている内に会場内がざわつき始めた。どうやら、此度の主賓が現れたようである。



『では、ここで応援の挨拶を賜りたいと存じます。中川叡智財団代表、中川恒元様であります』


 俺と華鈴は静かに立ち上がり、背筋を伸ばして深々とお辞儀をする。そんな俺たちに向かって、助勤たちに護られながら姿を見せた恒元は優しく微笑んだ。そしてゆっくりと歩いてステージへ上がる。司会者の誘導により、彼はマイクの前に立った。俺は自然と息を飲む。これから総帥が何を語るのか想像もつかなかったからだ。


 しかし、結果は意外なものだった。


「この度は、わたくしの大甥の壮挙を祝う宴にご列席いただき、衷心より御礼申し上げる次第であります」

 恒元は朗々とスピーチを続ける。恒元が『我輩』以外の一人称を使う場面を初めて見た――些末事はさておいて。その内容は極めてシンプルでありながら、力強いものだった。


「わたくしは、政治にはうとく、ただただ医療界の片隅にて微力ながら国家の発展のために尽くさせていただいておりますが、このたび我が血族より、わたくしの祖父であります子爵、中川なかがわ恒治つねはる以来、およそ88年振りに国政の世界に打って出る者が現れました。誠によろこばしい限りでございます」


 恒元はそこで一度言葉を切り、来場者たちを見渡す。


「わたくし共は、医療を志し、多くの患者と向き合って参りました。時には苦悩し、挫折することもありました。また、その道には様々な困難が待ち受けておりました。ですが、それらを乗り越えることができたのも、ひとえに皆様方のおかげでございます。この場を借りまして、心より御礼申し上げます」


 そう言って一礼する恒元。それからすぐに顔を上げて話を再開させる。


「本日、ご臨席のみなさまに、わたくしからひとつお願いがございます。どうか我が大甥、衆議院議員中川恒勝をどうか、駆け出しの政治家として温かい目で見守り、支えていただければ幸いであります」


 恒元のスピーチが終わると、割れんばかりの拍手が起こる。俺も華鈴も思わず手を叩いてしまったほどだ。恒元のスピーチは短く、それでいて非常に心に響くものだった。


 恒元が演台から離れると、恒勝は立ち上がって一礼する。その表情はどこか晴れやかで、喜びに満ちていた。そんな彼に、来場者たちが次々と握手を求めに行く。恒勝は一人ひとりと握手を交わしてゆく。その姿からは、確かな自信と気概を感じさせられた――恒元が一礼して退場すると、会場内が再びざわつき始める。すると、恒勝が再び登壇した。


『皆さま。本日は本当にありがとうございました。私は今後も政治活動に邁進し、皆さまの負託に応えるべく尽力してまいります!』


 そう述べて深く頭を下げる恒勝。その言葉に、再び大きな拍手が巻き起こる。そして、彼が壇上を降りると同時に、盛大なフィナーレを迎えることとなった。最後まで会場に残った俺たちは、スタッフたちに促される形で会場を後にする。その際、紗由子に声をかけられた。彼女は笑顔で「本日は誠にありがとうございました。お楽しみいただけましたか?」と訊いてきたので、俺は「ええ。とても楽しかったです」と答えた。紗由子は「それは良かったです」と安堵の表情を見せる。そして「それでは失礼いたします」と言って去って行った。


 俺と華鈴は目線を合わせ、互いに頷く。宴も終わったことだし、そろそろ帰ろうかという流れに至った。無論、その前に恒元への挨拶を済まさねばならない。


 すると。


「ああ、涼平。華鈴」


 不意に声が聞こえたので振り向くと、恒元が近寄ってきていた。慌てて礼をする俺たちに帝王は「構わん」と言う。


「お前たちのおかげで恒勝も晴れ晴れとしておったよ。礼を言うぞ」


「いえ、そんな……」


 恐縮する俺に、恒元は「謙遜することはない」と微笑む。


「今日の宴は有意義なものだっただろう」


 そう言って、恒元は意味ありげな視線を向ける。


「涼平。お前は、いずれこの国の中枢を担う人間になる。そのことを肝に銘じておくが良いぞ」


 恒元の言葉に俺は息を飲む。思わず華鈴と顔を見合わせる。妻の顔は紅潮し、興奮していることが窺えた――俺も同様であろう。華鈴は「あのっ! 本当にありがとうございますっ!」と礼を述べる。


「いやいや。お前の日頃の働きに比べれば大したことではない。常に夫を立て、心身を尽くして支え続けるお前の姿は、まさしく日本の女子の鏡である。これからも励みなさい」


「はいっ! 精進いたしますっ!」


「奥様倶楽部でのお前の活躍も聞き及んでおる。見事なものだ」


「はっ! ありがとうございますっ!」


 いつになく深々と頭を下げた華鈴の肩をポンと叩くと、恒元は笑顔を浮かべて歩き去って行った。俺たちは彼の後ろ姿を眺めていた。暫くしてから華鈴が「……何だか、凄く報われた気分」と呟いたので、俺は苦笑した。


「大袈裟だな」


「だってぇー!」


 華鈴は甘えたような声を出して拗ねる。その仕草が可愛くてつい抱き締めてしまった。華鈴は一瞬驚いたようだったが、すぐに受け入れてくれて、俺の胸に顔を埋めた。


「涼平……嬉しいよぉ……あたしたち、ちゃんと認めてもらえたんだね……」


 うるっと涙ぐむ彼女の頭を撫でてやりながら、俺は「そ、そうだな」とこたえる。一体、何にそこまでの喜びを抱いているのかは分からなかったが。まあ、この際どうでも良い。愛する妻と抱擁できることに理由など要らない。


「とりあえずは大成功だ。お前が隣に居てくれたから、俺も緊張せずに振舞えた」


「うん……」


 暫く抱き合っていたが、やがて離れる。互いに見つめ合う形になる。


「帰るか」


「うん……」


 俺たちは会場を後にした――外に出ると、肌寒い風が吹いていた。思わず身震いすると、隣を歩く華鈴がくすりと笑う。その表情は何だか大人っぽく見えた。俺は改めて思う。華鈴は女として成長していると。それを実感させられて、胸の奥底でほのかな喜びと寂しさを感じた。


「ねぇ、涼平?」


 不意に声をかけられたので返事をする。


「何だい」


「あたし、涼平の役に立ってるかな?」


「そりゃあ、もちろん。お前のおかげで生きていけてるようなもんだよ」


「本当? やったぁ! それなら良かったよー!」


 彼女は無邪気な笑みを浮かべる。その笑顔が眩しくて、つい目を逸らしてしまう――俺たちは待機していた秋成の運転する車で家に帰った。赤坂3丁目の我が家に到着後、華鈴はそそくさと玄関から入って行った。外はマイナス2℃の寒風が吹き荒れている。ノースリーブの宴会装束では肌が凍えてしまう。


「ああ、寒い」


 そう呟きながら俺も車を降りようとすると、秋成が笑顔で話しかけてきた。


「いやあ、おめでとうございます」


「ん?」


「谷山さんの理事昇任。これで麻木派がいよいよ本格始動ですね」


「えっ……」


 思わず訊き返した。


「ちょ、ちょっと待て! 谷山が理事に!?」


「はい。昨日の理事会で決まったじゃないですか」


「ええっ!?」


「あれ、まだご存じなかったんですか」


 曰く、谷山大輔の理事昇任が昨日の理事会で電撃決定したらしい。東南アジアの富豪を相手にサクリファイスの大口取引を成就させた功績を称えられての昇任だという。俺は昨日に浜松に居たため、まったく知らなかった。てっきり、昨日の議題は中川恒勝の政治資金パーティー開催のことだと思っていたが……。


 首を傾げるこちらの反応をよそに、井上秋成は興奮気味に続けてくる。


「谷山さんは次長が媒酌人を務めた御方ですから、理事会での発言権がひとつ増えたといっても過言ではありません! これからいよいよ次長の時代ですよ!」


「あ、ああ……」


 俺は曖昧な返事をしながら考える。何故、俺の知らないところでそんな重要な人事が決まってしまったのか。何故、恒元は教えてくれなかったのか。


「いやあ、次長! おめでとうございます!」


「……ああ、ありがとうな。今日は帰って良いぞ。お前も疲れてるだろ。休め」


「はいっ!」


 秋成は一礼して、俺が降りるや否や車を発進させる。去って行く車を見送ってから俺は玄関の扉を開ける。


「ただいま」


「おかえりなさーい」


 居間に入ると華鈴がいた。ルームウェアに着替えてソファに座ってくつろいでいる。


「なあ、華鈴」


「ん? 何?」


 谷山大輔の理事昇任が決まったらしいぞ――そう切り出そうと思った俺だが、声を発したのは別のことだった。


「風呂、今日も一緒に入ろうぜ」


 その提案に華鈴は目を輝かせる。


「うん!」


 満面の笑みを浮かべて立ち上がると、いそいそと風呂場へ向かって行く。可愛い妻だ。俺には勿体ないくらいの出来た妻だ。


 きっと奥様倶楽部でも、夫の立場に配慮して上手く振舞ってくれているに違いない。あの谷山大輔の奥方は旦那の出世を煽る気難しい面があり、さしずめ華鈴にも口添えを頼み込んでいたことだろう。そんな御仁を相手に華鈴は自分や夫の考えを上手く主張していたことだろう。


 だから、恒元は今回の件を俺に事前に打ち明けなかったのだ。組織の長としては功績を立てた者を出世させないわけにはいかず、昇任に見合うだけの働きをした谷山を新たな理事の座に就けるのは当然のことだった。されど、その決断は谷山の昇進に慎重な立場だった俺にそぐわないものとなった。まあ、恒元としても心苦しく言いづらかったことだろう。主君の心遣いが痛み入る。


 無論、俺は心の中で妻にも感謝した。同時に、ますます彼女のことが好きになってゆく自分を感じていた。


「華鈴」


「なあに?」


「ありがとうな」


「うん! あたしこそ!」


 入浴後、いつものように二人で寝室へと向かう。ベッドに横になり、向かい合って抱き合う。その状態で暫く過ごしていると、徐々に睡魔が襲ってきた。それに抗うことなく、俺は目を閉じ、翌朝を迎えた。


 朝、俺は宮殿へ向かった。浜松へ戻って良いか、恒元に許しを得るためである。出勤は華鈴も一緒だった。今日は奥様倶楽部のイベントがあるという。


「2月って色んなイベントが沢山あるんだよねぇ」


「奥様倶楽部ってどんなことするんだ?」


 俺は少し興味があったので尋ねてみたところ、華鈴は楽しそうに話し出す。まず最初に行われるのは清掃活動だという。宮殿の庭の掃除を行うそうだ。他にはバレンタインデーに向けて、女性陣によるチョコづくりコンテストが行われるらしい。


「チョコレート作りの腕を競い合うってことか?」


「うん、そうなの。毎年恒例の行事だから今年も大変盛り上がると思うよー」


 華鈴は笑顔で答える。


「へぇー」


「だからね? あたしも頑張って美味しくつくってあげたいんだ」


 そう言って両手を胸の前で握る姿が妙に可愛らしかったので、思わず彼女の頭を撫でてしまう。


「あっ……」


 すると恥ずかしそうな表情をするので余計に可愛く見えてしまい、更に強く撫で回してあげたくなる衝動に駆られるが堪えた。


「えへへ……」


 照れ臭そうな顔を浮かべる彼女の姿を見て、ますます愛おしくなってくる自分がいた。そんなやり取りをしているうちに、いつの間にか宮殿の敷地内に入っていった。思えば、妻と一緒に出勤するのは初めてかもしれない。


 これから暫しの別れだ。俺は浜松へ戻り、華鈴と再会するのは東海の抗争が片付いた後になる。必ずや武功を立てて戻るとしよう――と思っていた時。


「ああ、涼平。華鈴」


 恒元が現れた。総帥執務室に居るかと思いきや、玄関前の大階段を降りてくるではないか。


「ごきげんよう。恒元公」


 俺と華鈴が声を揃えて挨拶すると、総帥は「うむ」と頷いて言った。


「ちょうど良かった。華鈴もるな」


「えっ? あ、はい!」


 きょとんとする妻に、恒元は続けた。


「唐突ですまぬが、涼平と共に浜松へ赴いてくれぬか」


「えっ!?」


「お前も知っての通り、此度の作戦は組織の今後を左右するもの。ゆえにいずれ全ての幹部を東海に送り込み、総力戦を展開することとなるであろう。そこで、お前には奥様倶楽部の幹事として下準備を行って貰いたい」


「下準備……ですか?」


「左様」


 戸惑う華鈴、そして唖然とする俺を尻目に、なおも恒元は語りを紡いでゆく。


「細君たちが浜松に滞在するにあたっての宿所の支度や費用計算などの調整を行う必要がある。また、各人の好みを把握しておく必要もある。それらは男どもには任せられぬ。婦人のみが分かるものだからな。ゆえにお前には幹事として先方に向かって貰いたいのだ」


「……えっと」


 華鈴は困惑した様子を見せる。無理もない。いきなりこんなことを言われれば誰だって困惑する。しかし、ここは毅然とした態度を見せなければならない。


「華鈴。これは名誉なことだ。引き受けてくれるな」


「え、でも……あたしなんかが……」


「安心しろ。お前なら大丈夫だ」


 俺は出来る限り優しく諭す。すると、華鈴は俯いていた顔を上げて目を輝かせる。


「分かりました! あたし、頑張ります!」


「うむ、頼もしいぞ」


 恒元は笑顔を見せ、次に俺の方を向いた。


「涼平。お前は華鈴のことを支えてやって欲しい」


「もちろんでございます」


「よろしい」


 俺と華鈴は深々と一礼した。その後、恒元は踵を返す。颯爽とした足取りで、その姿が邸内へ消えて行った。俺は華鈴に告げる。


「華鈴。これからよろしく頼むな」


「うん! よろしくね!」


 こうして俺たちは共に宮殿を後にした――バイクに乗って浜松へ戻る途中、俺はひどく後悔した。何故、引き受けるよう妻を諭してしまったのであろうか。本来なら『そんな危険なことはお引き受けいたしかねます』と断るべきところだったのに。タンデムベルトをぎゅっと握る妻の手が少しも震えていないことが、却って痛ましく感じられた。


「……大丈夫か?」


「うん。大丈夫だよ」


 彼女は笑顔で答えた。その笑顔はいつもと同じものだ。なのに今は酷く切なくて、胸が締めつけられる思いがする。


「……ありがとう」


 俺は心からの謝辞を述べた。しかし、華鈴は不思議そうな表情を浮かべているだけだった。


「え? どうしたの急に……」


「いや、なんでもない」


 それ以上何も言えなかった。何だか情けなくなってくる。


「とにかく、今日から浜松生活が始まるな。慌ただしくなるぞ」


「うん!」


 俺たちはバイクを走らせた。道中、他愛もない話を繰り返した。いつもと変わらぬ日常だ。だけど、それがとても尊いものに思えた。いつまでも続いて欲しいと願ってしまうほどに。愛妻が戦地に赴いてしまう――そんな事実を覆い隠すかのように。


 隠れ家に到着すると、無論のこと部下たちは腰を抜かした。当然だ。戦場には到底似つかわしくない人物が姿を現したのであるから。


ねぇさん!?」


「どうして!?」


 酒井も原田も唖然としている。そんな彼らに経緯を説明してやる俺だが、話しているうちに俺自身が分からなくなってくる。ここへ華鈴が随行している理由が――そもそもどうして将来的に幹部を妻子ごと出陣させようと恒元は考えているのか。昨年の四国遠征の時は現地で花見を催したために、止むを得ず理事たちの妻子を戦場へ同伴させたわけだが……。


 いや、待てよ。もしや恒元は今回の第二次西日本遠征を総力戦と考えており、四国の時と同様に自らも出陣し、煌王会が陥落するまで帝都へは戻らないつもりなのか。だとすれば、親分衆の妻子の生活環境を整えるよう華鈴に申し付けたことも納得できる。


 語りを終えると同時に俺は納得した。そんな己自身が怖くて仕方なかった。


「まあ、そういうことだ」


 俺の説明を聞いた二人は沈黙する。誰もが呆気に取られているようであった。特に酒井は意味不明といった様子で何度もまばたきをしている。原田はポカンと口を開けたまま固まっている。


 そんな中、華鈴が笑顔で言った。


「みんな、改めてよろしくね!」


 すると、ようやく我に返ったのか彼らは動き出した。


「は、はいッ!」


「こちらこそ、よろしくお願いします!」


 ひとまず納得した弟たちを前に、華鈴はにっこりと笑う。


「うふふ、ありがとう」


 和気藹々とした空気が流れる中、俺は心の中で嘆息をいた――さて、ここからは気合を入れ直す時だ。作戦を練り直さなければいけない。先程の説明で理解できたと思うが、妻を戦場へ連れて来てしまった以上、今までのようなスタイルでは通らなくなる可能性が高い。


「酒井」


「はい?」


「華鈴に、この拠点ヤサを案内してやってくれ」


「あっ、はい! 承知いたしました!」


「頼んだ」


 俺は再び玄関へ向かう。華鈴が「どこへ行くの?」とたずねてきたので、背中越しに答える。


「ちょいと買い出しに」


 そう言い残すと足早に隠れ家を出た。本当は理由など何でも良かった。外へ出て一人の時間をつくる口実が欲しかった。沸騰しつつある情緒と思考を冷却するために。


「……」


 浜松の鴨江地区は閑静な住宅街だ。人影はまばらだ。そのおかげで落ち着くことができた。俺は近くの公園まで歩くとベンチに腰掛けた。そこからぼんやりと辺りを眺める。夕方の光景は、夜とは違って落ち着く。


「……ふぅ」


 ため息が出る。それほどまでに、先程までは慌ただしかった。頭の中の何もかもが激しく動き回っては心を乱し、俺を普段通りの俺ではいられなくさせる。


 華鈴を戦地に伴ってしまった。


 おそらく恒元はこの遠征を総力戦にするつもりなのだ。いずれ幹部たちを妻子連れで戦場に送り込むため、華鈴に先駆けて下準備をさせる算段だということも理解できた。


 されど。


 正直なところ、不安で仕方がない。


 俺は華鈴の夫だ。彼女を守らなければならない。だが、今の俺は果たして彼女を護ることができるのだろうか。もしもの場合――いや、違う。


 そんな可能性を考えるべきではない。仮に万が一のことが起こってしまったら、俺は一生後悔するに違いない。それだけは何としても避けたいものだ。絶対に回避しなければならない。だからこそ、俺がしっかりしなければならないのだ。


「……よし」


 気合いを入れ直すと立ち上がる。そうして、鴨江小路沿いのスーパーマーケットに入る。夕食の食材をいくつか購入する。帰り際、菓子売り場に立ち寄ってチョコレートを幾つかカゴに放り込んだ。


 隠れ家に帰り着いた俺を部下たちは温かく迎えてくれた。「お疲れ様です」と言って出迎えてくれる酒井と原田の表情からは労りが滲んでいた。華鈴も「おかえりなさい」と笑顔で言ってくれた。


「ただいま」


 そう答えると、皆に食材を渡した。


「今日はこれを焼いて食べよう」


 俺が購入した肉や野菜を見せると、彼らは歓喜の声を上げた。そのまま華鈴が調理に取り掛かると、部屋中に芳醇な香りが広がった。食事の時間になると、全員でテーブルを囲んだ。


「美味しい!」


「やっぱり姐さんの料理は最高っすよ!」


 二人して嬉しそうに言ってくれるので、つい誇らしくなって顔が緩んでしまう。華鈴がつくったのは、豚肉をふんだんに使った鍋。豚肉に野菜という、ビタミンを補給するには最良の組み合わせだ。


「ほら、沢山あるからどんどん食べてね。お腹いっぱいにしてね」


 彼らは元気よく箸を伸ばす。


「へへっ、ありがとうございまっす!」


「いただきます!」


 そんな様子を微笑ましく見つめながら、俺も食べ始める。うん、うまい。この味がまた食欲をそそる。どんどん食べられる。ああ、幸せだ。この時間が永遠に続けば良いのにと思うほどだ。


 食事を終え、片付けを済ませると酒井と原田は絨毯の上に横たわった。一緒に飲んだ缶ビール数本が効いたらしい。彼らに「もう! そんなところで寝ると風邪ひくよ!」と頬を膨らませながらも毛布を掛けてやる妻は、さながら子を持つ母親に見えた。


 きっと華鈴は良き母になってくれるだろう。


 いずれ生まれてくる俺の嫡男あるいは息女にとって、無上の幸せをもたらす存在になってくれるはずだ。優しくて強い華鈴ならば、きっと。


 暫しの間、ぼんやりと眺めていた俺は当の本人から「どうしたの?」と訊ねられて我に返る。取り繕うように慌てて煙草に火をけ、苦笑と共に「何でもねぇぜ」と返す。


「これからのことを考えててな」


「あたしたちの未来?」


「まあ、そんなところだ」


 エアコンの設定温度を上げた華鈴はソファの俺の隣に腰掛け、俺の手を握ってにっこりと微笑む。


「きっと薔薇色の未来が待ってるよ。恒元公もあたしたちの頑張りを認めてくれてるわけだし」


「ああ。そうだな」


 心へ染み入る言葉に頷いて、俺は煙草を吸い込む。華鈴も夫と同じように手持ちの一本を取り出し、紫煙をくゆらせる。


 互いの吐き出した煙が交わり、天井に向かって流れていった。オレンジ色に明るい室内を眺めながら、俺たちは暫し無言のまま煙草を吸い続けた。先に口を開いたのは華鈴だった。


「ねぇ。今、幸せ?」


「ん?」


 俺は彼女の顔を見る。


「そりゃ当然だ」


「本当?」


「戦地で冗談は言わんのが俺の流儀だ」


 おどけたように返してやると、華鈴は「そっか」と嬉しそうに笑った。


「じゃあ、これからもっと幸せになろうね」


「ああ」


 俺は微笑みを返し、彼女の唇に接吻キスをした。甘い口づけを交わし終えると、華鈴は真剣な面持ちで呟く。


「……明日から頑張らなくちゃ。あたしが皆を支えてあげなくちゃいけないんだから」


「ああ」


 俺も同じ気持ちだった。今度こそ必ず勝利してみせると誓った。そして、彼女と共に幸せになる。それだけは絶対に譲れないものだと思っていた。


 翌日以降、俺たちは浜松での戦力増強に奔走した。総帥府から運ばせたサクリファイスを現地で売って抗争の資金を稼ぎつつ、同時に池尾組の照準を俺一人に引き付けるべく陽動も仕掛ける。目論見通り池尾は『麻木涼平が浜松奪取を狙って暗躍している』と思い込んだようで、組の看板商品のコカインを割安にすることで対抗手段を打ってきた。


 直接的に俺と戦う気概が無い小心者の作戦としては上出来だが、コカインとサクリファイスでは依存性の強さが桁違い。一度でも後者の爆発的な快楽をおぼえてしまった者は、もう二度と前者で満足できない。少しばかり値が張ろうが、消費者はこぞって後者を選ぶ。このままでは池尾組が潰れるのも時間の問題だろう――そう確信したのは浜松へ夫婦で赴いてから20日が経過した頃だ。


 酒井と原田、くわえて彼らの実家の組が寄越した専門業者たちには、浜松市内の様々な場所でサクリファイスを売らせている。駅前、オフィス街、郊外のバス停、公園、住宅街の裏路地。いずれも飛ぶように売れている。浜松市民たちの間ではみるみるうちに薬物依存が拡大し、老若男女を問わず、目の周囲に痣をつくった廃人たちが通りを堂々と行き交うようになっている。


 俺たちの背中にはフィクサーが付いている。ゆえに表社会の人間たちに何か言われることは無く、俺たちの行動が新聞記事に載ることも無い。


「……完璧だな」


 そう呟いた俺は、カレンダーを見やる。


 2007年2月20日。朝。時間の流れが速く感じられていたためか、驚きと共に呆気にとられる。


 先月末の時点で300人くらいだった桜琳一家は500人に増え、そこに集う誰しもが戦意を昂らせている。関西での葉室組の暗躍も手伝って、煌王会の現体制に不満を抱く親分たちが百人単位で続々と東海の街へとやってきている。


 何もかもが上手くいっている。全ては、俺の作戦能力の高さゆえのことと云えよう。自画自賛に頬を緩めながら、俺はソファに横たわる。


 すると向かい側に座った酒井が言った。


「次長のご手腕には恐れ入りましたよ。七代目体制下で閑古鳥を鳴かせていた船乗りたちを桜琳の下に寝返らせるなんざ」


「まあな」


 テーブルの中央に盛られた蜜柑みかんをひとつ掴んで皮を剝きながら、俺は頷いて続けた。


「向こうの親玉は海外ギャングへ輸出する麻薬クスリの増産にばかり金を注ぐ一方で、昔から駿河湾近海を仕切る密輸船の船長たちへの報酬はケチってやがった。そこへ『俺たちへ味方すれば今以上に儲けさせてやるぞ』と吹き込めば、寝返るのも道理だろうよ」


 俺の説明に、酒井、それから彼の隣に座る原田は納得顔で頷く。


 酒井が続けて言った。


「でも、まさかここまでうまくいくとは思いませんでした」


「まったくだ」


 原田も相槌を打つと、俺は思わず苦笑を漏らす。


「俺もだよ」


 現在、浜松鴨江の隠れ家に居るのは俺たち3人だけだ。俺の妻の華鈴は、買い物へと出かけている。現在の時刻は8時30分だというのに、気が利く妻だ。


「さて」


 俺は蜜柑の房を口に含む。


「そろそろ準備をしないとな」


「え?」


 酒井と原田が同時に息を呑んだので、俺は頷く。


「池尾組との全面戦争の準備だ」


 ふたりは緊張気味に応える。


「あ……ああ、そういうことでしたか」


「いよいよですね」


 そんな弟分たちに俺は言った。


「心配するな。今回は短期決戦だ。数日以内に戦闘は終結するだろう」


「……はい」


 コクンと肯首した原田の右脇で、酒井が不安げに漏らす。


「そういえば、葉室の野郎は上手くやってるんでしょうか」


 彼の言葉に、俺は「ああ」と頷いた。


「かなりの数の貸元を切り崩しているらしい。おそらく今月中には煌王会の半分くらいが中川会こっちに寝返るだろうぜ」


「マジですか!?」


 原田が腰を抜かした。俺は「驚いたもんだよな」と続ける。


「奴の口が達者なのもあるだろうが、跳ねっ返りは少しでも腕の良い奴と組みたがるからな。何より葉室組の戦力に惹かれるんだろうぜ」


「どういうことで?」


 酒井の疑問に俺は答える。


「葉室組は凄腕のアサシン集団を囲ってる。それこそ、CIAやMI6にも引けを取らねぇレベルのな」


 すっかりと感嘆した様子の酒井は「な、なるほど……そりゃ確かに恐ろしい」と呟く。原田もまた小刻みに頷いている。


 直参組織の継承者たる彼らは、組の正規構成員の他に戦力を用意することの難しさを十分に理解している。葉室とて少し前までは幹部の座に就いていた男、その立身が口八丁手八丁による出世でないことは奴の野心家ぶりを見れば一目瞭然だ。


「まあ、このドンパチは向こうの3分の2以上を切り崩した時点で俺たちの勝ちだ。組織の屋台骨が安定してねぇのはお互い様だが、今の橘のやり方を見れば中川会に分があると考えて良いだろう」


「あの、今さらなんですけど。わざわざ組織同士のドンパチで潰さなくたって、次長が関西へ殴り込んで連中を皆殺しにすりゃ手っ取り早く片が付くんじゃ……」


 酒井のクエスチョンはごもっともだ。海外ギャングから『the angelic assassin(天使の如き暗殺者)』との異名で恐れられるほどの腕を持つ俺が出陣すれば、今回に限らず裏社会の抗争という抗争が軒並み中川会の勝利で終わることだろう。


「まあ、その辺は恒元公のお考えがあるんだろう。よく分からんが、そういうことだ」


「そ、そうで……ございましたか」


 確か恒元は『一日や二日で趨勢を決してしまってはつまらぬ。やるからには楽しみたい』だの『奴らが苦しみ泣き叫ぶ姿を眺めながら、ゆっくりと嬲り殺しにしたい』だのと言っていたような。


 まったく。総帥も物好きだ。


 酒井が兄弟分と顔を見合わせるや複雑な表情でコクンと頷いた直後、ダイニングルームの扉が開いた。


「ただいまー。買ってきたよー」


 両手に買い物袋を下げた華鈴が入ってくる。俺は「すまねぇな」と声をかけ、部下2人はすぐさま立ち上がって礼をする。


「お邪魔しております!あねさん!」


 その挨拶に華鈴は苦笑しながら「もう、そんな大袈裟な」と応じる。尤も、俺は直参組長ではないから妻である彼女もまた『姐さん』ではないのだが――今さらながらの些末事はさておいて。


 華鈴は隣接するキッチンにて買ってきた袋を開封すると、流しで手を洗い、包丁で野菜を切り始めた。


 この街に根を張ってからの間、彼女は拠点内での家事全般を買って出てくれている。俺のみならず酒井と原田の分までだ。


 下手に外食をして煌王会に動きを勘付かれても危ういので、華鈴の料理の腕には本当に助けられている。


「姐さん、何かお手伝いすることはありませんかい」


「じゃあ……この野菜を一口サイズに切ってくれる? それから、お鍋の用意もお願い」


「承知しました!」


 原田は嬉々として包丁を手にし、華鈴の指示通りに野菜を刻んでゆく。酒井もまた彼女に手伝いを申し出て、人参の皮を剥き始める。


「姐さんは料理がお上手で羨ましいです。俺なんかは全然で……」


 酒井が呟くと、華鈴は「そんなことないよ」と優しく笑った。


「あたしなんかよりずっと祐二君の方が飲み込み早いよ。慣れたら誰でも簡単に作れるようにな」


「本当っすかぁ?」


「本当だよ。涼平なんかあたしが料理してる姿を何百回も見てるはずなのに、未だ目玉焼きひとつ作れないんだから」


 俺は「おいおい」と苦笑する。目玉焼きは傭兵時代に何度も作ったと思いつつ華鈴を見ると、彼女は揶揄うように笑っていた。


 可愛いものだ。俺はますます苦笑して肩をすくめてやる。


「さて、そろそろご飯を炊き始めた方が良いかな?」


 華鈴が大仰に独り言ちれば、包丁を動かす手も止めずに原田と酒井は「え? もう?」と答えた。原田に至っては「姐さんの料理、早く食いてぇなぁ」なんて呟く始末だ。


 すると、普段は俺個人に対してのみ気立ての良い妻がそばに歩み寄ってくるなりこう言った。


「今の涼平は何もしないで。邪魔になるだけだから」


「へっ、分かったぜ……」


 俺は華鈴の言に素直に従う。すると、彼女は「よろしい」と言ってからダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。


 それから原田と酒井が野菜を切り終えるや華鈴は鍋に水を入れて火にかけた。数分と待たずに湯が沸くと、彼女は手早く袋から取り出した麺を投入し、さらには野菜を投入する。


「亮助君、ちょっとお鍋見てて」


「へい、お任せあれ」


 原田が湯の入った鍋を任されるや、酒井が鶏肉を刻みながら笑顔を見せる。


「姐さんの料理は絶品ですから、楽しみですなぁ」


「そうだな。華鈴の作る飯は美味い」


 俺がそう返すと、原田が「俺も早いとこ結婚してぇや」と笑みを浮かべる。


「俺も所帯を持ったら一緒に台所に立って美味い飯を作ってみてぇなあ……兄貴ご夫婦は俺にとっての憧れですぜ」


「おいおい、結婚して一年も経ってねぇのに」


 そう言って笑った俺に原田は「姐さんのような美人なかみさんが欲しいってことですよ」と返す。そんな兄弟分に酒井も頷いていた。


 かくして出来上がったのは麺料理。原田が華鈴に「姐さん、この料理は何ていうんですか?」と尋ねると、妻は笑顔で答えた。


「これは『煮込みうどん』っていうの」


「へぇ……良い名前だ。じゃあ、いただきまーす!」


 原田が手を合わせるや、酒井も「いただきます!」と続く。妻は「めしあがれ」と返してやっていた。


「美味いっす」


「美味いなぁ」


 ふたりが絶賛する。遅れて俺も麺をすすると、生麺のつるつるとした食感が口いっぱいに広がってゆく。


「うん、美味い」


 俺が率直な感想を述べると、華鈴は「よかったぁ」と安堵の表情を浮かべた。


「姐さんは素敵すぎますよ。料理も美味いし器量良しで、こんな人なら俺も欲しいです」


 そんな酒井の言葉に、彼女は「やだぁ」と照れ笑いする。俺はそんな妻をチラリと見ながら、部下に尋ねる。


「酒井、お前は見合いをしたんじゃなかったか? 確か、下川しもかわぐみのお嬢さんと……」


 すると彼は首を大きく横に振る。


「喧嘩ばっかりですよ。一緒に住んだのは良いものの、ね」


「そうか……」


「お互いに思い合って結婚したわけじゃありませんから、当然と言えば当然なんですけどね」


 酒井組と下川組。どちらも中川会の直参で、本家譜代同士の結束を強めるために恒元の意向もあって、昨年秋に子女の婚姻が交わされた。銀座の眞行路夫妻にしても然りだが、やはり政略結婚は難しいものだな……と思っていると、華鈴が口を開いた。


「祐二君、夫婦は結婚してからがスタートだとあたしは思うなぁ。下川のお嬢様とは何度かお店で話したことあるけど、すごく良い子だよ。ちゃんと彼女のことを分かってあげようと努力すれば、絶対に上手くやれると思う」


 酒井は「そう……ですかね」と呟くと、少し間を置いてから「ありがとうございます」と華鈴に礼をした。


「うん。何かあったら、いつでも話してね。相談に乗るから」


 華鈴が笑顔で返答した。俺はそんな2人を見て微笑ましく思う一方で少しばかり野暮な連想を抱いた。

 面倒見の良い華鈴と、彼女のことを『姐さん』と呼んで慕う酒井と原田の姿を前にしていると、何だか俺が自分の組を率いているような感覚に陥るものだと――まあ、そうした妄想は抜きにしても幸せな時間であった。


 そんなこんなで俺たちの緩やかな日常と共に時は流れ、裏社会の情勢は恒元の意のままに動いていた。


 葉室旺二郎の暗躍で、煌王会内の現体制を快く思わない勢力が野心を燃やし始めた。連中との接触にあたり、葉室は中川会を裏切ったふりをしており、やがては中川会でもなければ煌王会でもない第三勢力を旗揚げせんとする流れに至った。


 そうして発足した新組織を煌王会にぶつけ、中川会による西日本の平定を成そうというのが恒元の目的である。


 8日後。2007年2月28日。


 この日、浜松市中区佐鳴台に建つ屋敷には煌王会の幹部12名を含む貸元31名、それから中川会直参組長が3名ほど集まった。


「ええ……皆さま、お集まり頂き誠にありがとうございます。 私、かつてこの浜松の地で桜琳一家の三代目を仰せつかっておりました片桐禎省と申します…… 此度は僭越ながら旗振りをやらせて頂きます」


 屋敷内の大広間に集まった構成員たちの前で、前に立った男が頭を下げる。


「旗振り?」


 参画した親分のひとりが訝しんだ。 すると片桐は「ええ、旗振りです」と答えた。


「この度、我々は各々が属していた古巣から独立し、新たな組織を立ち上げるのでございます。誰かが先頭に立って引っ張って行かねばまとまりませんでしょう」


 親分衆は互いに顔を見合わせる。 あくまでも煌王会七代目憎しの一点のみで片桐に手を貸すことを選んだ者たちであり、新組織の長に彼が座ることは彼らとしても納得がいかないのであろう。


 すると、片桐は集まった極道たちに向けて言った。


「どうかご安心を。俺の仕事は単なる旗振りで、正式に組織を発足させる段階になった暁には、徳のある御方に総大将をお任せしたいと考えておりますから」


 その言葉に一人が反応する。


「徳のある御方? 誰だ?」


「それについては今は未だ話すべき時じゃないかなと思っておりますので。どうか内緒ってことさせてくださいや」


 そう言って片桐は頭を深々と下げた。 すると、その親分は舌打ちをして「勿体ぶってねぇで教えろや」と吐き捨てる。


 されども数秒後には大人しく椅子へ腰を下ろした。 その男をはじめとする浜松へ集った親分衆は皆、煌王会に唾を吐きかけて参画している。


 遅からず古巣からは討伐の触れが出るであろうし、いずれ差し向けられる征討軍を返り討ちにせねばならないのである。 ゆえに多少の不満はあっても、出来るだけ早くに新組織の旗揚げを成して、同じく煌王会を抜けた者たちと団結したいのであろう。


 そんな彼らの状況を片桐は深く理解している。 本来なら1998年の謀叛劇の一味として裏社会の鼻つまみ者でしかない自分には、人が付いてくるべくもないというのに、この場に居る面々は渋々とはいえ従う構えを見せている。


 片桐としても喜びを隠せないようで、挨拶も程々に親分衆――新組織の構成員たちへと語りかける彼の口角は上がっていた。


「では、これより当面の組織のあり方について話し合おうと思います」


「当面の組織のあり方?」


 ひとりの親分衆が尋ねた。 片桐はその親分衆に向き直り「はい」と頷く。


「まずは煌王会の討滅および西日本裏社会の完全掌握。 そのためにまずは新組織の総本陣ともなる拠点を設けたいところでございますが……この浜松が相応しいかと存じますが、皆さまは如何お考えですか」


 親分衆は総じて首を傾げる。


「浜松が拠点に? どうしてだ?」


 片桐は「関西にも近いし、関東にも近い。これから日本の裏社会の覇権を握ろうとする我々にとってこれほど相応しい地は無いでしょう」と答えた。


 すると親分衆は「なるほど」と頷く。新組織の総本陣が浜松になった理由は至極単純だ。


「しかし、煌王会の動きははえぇだろうぜ」


「そうでしょうね。すぐにでも三河から兵隊を寄越してきやがるでしょうから」


「第一に静岡だって占領できてねぇよな。新組織の旗を揚げるにもずは桜琳の旧領を煌王から奪い返さねぇと始まらん」


 ざわめく親分衆を前に片桐はニヤリと笑う。


「落ち着いてくださいや、ご一同。我らが桜琳一家のシマは既に奪還が完了しております。ですよね、葉室組長?」


 片桐の視線は、上座にてふんぞり返っていた葉室旺二郎へと向けられる。彼は頷き「せや、既に煌王会系の拠点は葉室組うちの兵隊が軒並み陥落させとるで。浜松に限らず、この静岡県内全てのな」と答えた。


 葉室組が抱えるアサシン集団の練度の高さは、皆が舌を巻くところ。この新組織旗揚げに葉室が参画するからこそ、自らも腰を上げた親分も多いだろう。


「なあ、あんたは本当に良かったのか?」


「何がやねん」


「今回はあくまで煌王会の喧嘩だ。関東博徒のあんたにゃメリットが無い。わざわざ中川を抜けてまで……」


「いや、メリットならあるで。わしかておどれらと同じく組織のやり方に我慢ならなくなっとったんや。もうあの男にはついていけへん」


「そういや、あんたは去年の秋に幹部を降ろされてたよな」


「ああ、今まで身を粉にして組織に尽くしてきたっちゅうのに。中川恒元はわしを粗末にしよった。ほんま胸糞悪いやっちゃ」


 葉室の声色には怒気がこもっていた。彼の態度は云うまでもなく芝居であるが、妙な生々しさを感じた。ともあれ葉室は「まあ、そういうこっちゃ」と言うと、片桐に視線をずらした。


「片桐はん、葉室組わしらはあんたについてくで」


 片桐は「感謝いたします」と頭を垂れた。


 すると上座に座るもう一人の男――元煌王会総本部長の真壁仙太郎が口角を上げて片桐に尋ねた。


「なあ、片桐さんよ。静岡の勢力固めは整ったとして、いつ関西へ攻め込むんだ? 戦の基本は先手必勝、モタモタしてるとやられちまうぞ」


 すると片桐が「それはご心配には及びません」と答えた。


「後手であろうとも必ず我が桜琳一家は煌王会を倒し、皆さま方を裏社会の頂点へと導きますから」


 その自信にあふれた片桐の言動に真壁は「へぇ。9年前の功労者様が大した見栄だな」と皮肉たっぷりに笑うと、隣の親分衆の反応を見た。


 無論、誰の顔も驚きや困惑といった色を示していたが、その顔は覚悟と決意に満ちていた。組織を脱するだけあって、流石に生半可な野心だけを燃やして集まったわけではないようだ。


「では、その根拠とやらをお聞かせ願おうか」


「とっておきの切り札を用意しているのです……これより立ち上げる新組織には煌王会と中川会のどちらをも縮こまらせる御方を大将に仰ぐことになっております」


 片桐がそう答えるや、真壁は「ああ、分かったよ。あんたには期待してるぜ」と頷いた。昨年に煌王会を追放された真壁もまた、もはや後戻りは出来ないところまできている。聞いた噂によると煌王会七代目との仲をこじらせたとのことで、既に今日に至るまで煌王会からつかわされたヒットマンに追いかけ回されて疲労困憊――ゆえに何としても此度の抗争に勝ちたいのだろう。


「では、今日はこれにて解散といたします。皆さまは各々のご領地へ戻り、煌王会を迎え撃つ準備を進めてください」


 片桐の一言に皆が「おう」と答え、新組織の旗揚げに向けた第一回会合は閉幕した。


 そんな一部始終を会場に仕掛けた隠しカメラを通して眺めていた俺は、モニターを切るや呟く。


「……上手く動いてくれよ」


 片桐が用意した「切り札」とは、つまり中川恒元だ。跳ねっ返りたちが団結して新組織の旗揚げが成されたタイミングで姿を現し、彼らを中川会の傘下へ抱き込むのである。その頃には煌王会との戦いで連中も消耗しているであろうから、話が違うことに気付いたとて反発する度胸はあるまい。


 俺はソファの上に寝っ転がると、ひとり思案に耽る。


 今回、煌王会を離脱し新組織に参画した組は総勢31家門にのぼる。大阪府枚方市を仕切る二代目にだいめ岩岡いわおかぐみ、吹田市の大日だいにちかい、松原市の多伎口たきぐちぐみ、柏原市の五代目ごだいめ山沢やまざわ興業こうぎょう、富田林市の須田村すだむらぐみ、島本町の四代目よんだいめ内山うちやま一家いっか。京都府京都市を牛耳る四代目よんだいめ浅井あざいぐみ。奈良県大和郡山市の田崎たさきぐみ、和歌山県和歌山市の谷野たにのかい、三重県志摩市の木田きだぐみなど――畿内に領地を持つ組が新組織へと参画してくれたことはかなり大きかった。


 組織としての勢力圏は煌王会よりも大きいが、兵数で云えば極端に少ない。結成はしたものの兵庫県だけで五千騎を誇る敵方に圧倒されて瞬間的に瓦解する可能性も少なからずあるが……しかし、それでも煌王会は一時的に機能不全に陥るだろう。現に舞鶴市の日下部組が、昨年の人事で真壁に代わり総本部長に就任した川津かわづ雅樹まさきを襲撃し、討ち倒しているのだから。


 かつて日下部組は先代の頃に若頭を任されるなど六代目煌王会において中核的な立場にあったが、七代目体制が始まって以降は中枢を外れ、昨年の夏には組織の総本部移設に伴い従来の所領だった大阪から京都への領地替えを強いられるなど、あからさまな冷遇に遭っていた。


 当然、中央で権勢を奮い続ける松下組に恨みを募らせており、鬱憤を晴らす意味でも川津を討ったのであろう。川津も元は松下組の人間で、京都へ追いやられた日下部組を嘲弄するがごとく大阪市に所領を与えられていたのだから。日下部組も此度の新組織に参画しているが、かつては川津同様に松下組の幹部だった真壁と手を結ぶことは嫌ではないのか……。


 そんな時、リビングの扉が開いて華鈴が顔を覗かせた。


「ちょっと出かけてくるね」


「散歩か?」


「葉室さんの奥さんにお呼ばれしてるの。入野町のお屋敷で『アフタヌーンティーの会』を開くみたいだから」


 新組織旗揚げにあたって浜松へ入った葉室組は、俺たちの隠れ家から4キロほど離れた地区の豪邸に陣を張っている。彼らの布陣は5日前に遡るが、彼らは俺に対して特に挨拶は無かったな……まあ、良いか。


「おう、楽しんでな」


 俺の言葉に「うん」と笑みを見せると彼女はショルダーバッグを肩にげて出ていった。


 ふと、俺はテーブルの上に置いてあるデジタル時計を眺めた。時刻はちょうど14時を示していた。つい先ほど妻お手製の昼飯を腹に入れたばかりだし、華鈴が戻ってくるまでにはちょうど1時間30分ほどあるから眠ろうかな……と思った矢先に暗号通信が入った。


「もしもし」


 菊川との外交連絡用に設けた回線だった。彼は『やあ、麻木クン』と切り出すや普段の調子で『ちょっと会わないか?』と続けたので、俺は「すまんが暇じゃねぇんだ」と答えた。


 そして言う。


「そもそも都内にねぇからよ。また今度にしてくれや」


 ところが、聞こえてきたのは意外な言葉であった。


『ああ、浜松に来てるんだろ。僕も丁度高速を降りたところなんだよ』


「えっ?」


『ちょっとした野暮用でね。今から会いに来てくれないか……勿論、恒元公のお許しは貰ってるからさあ』


 端末越しの菊川の声はどこか焦っている風でもあり、今まで聞いたことがないような声色だった。俺は思わず胸騒ぎを催した。せっかく華鈴が帰ってくるまでの間は寝かせてもらうつもりでいたが。


 まあ、構わんか。


「今どこにいるんだ? 場所は?」


『浜松インターチェンジの付近。組の人間を連れてるから、来ればすぐに分かるだろうよ』


「分かった。今から向かう」


『ああ、待ってるよ』


 俺は通話を切るや立ち上がった。そうしてリビングを出て玄関へ向かうと、靴を履きながら華鈴に『俺も少し出かける』とメールを打つ。


 数十秒ほどで、すぐに返事が戻ってきた。


『はーい』


 俺は携帯をバッグへと仕舞うと、玄関を出てガレージから組織の黒塗りのセダンを引っ張り出す。酒井と原田には休みを与えているから、運転手が居ない。たまには俺自身がハンドルを握るのも良いだろう……などと思いながらエンジンをかけ、菊川が待機しているという浜松インターチェンジの方面に向かって車を走らせたのだった。


 程なくして目的地付近までやってきたが、それらしき車は見当たらない。俺は路肩に車を停めて周囲を見回した。


 すると、道を挟んだ向かい側に停まっている黒いワゴン車を見つけたので、俺はそちらへ歩み寄って手を振った。


「おーい! 来てやったぞ!」


 刹那、車からぞろぞろと背広姿の男たちが降りてくる。その群れの中に菊川もいた。彼は俺を見るや「悪いね」と苦笑して小声で言った。


「組から裏切り者が出た」


 何か物事を伝える時は往々にして遠回しな表現を好む彼にしては珍しい、非常に単刀直入な物言いだった。彼の云う裏切り者とやらが村雨組の幹部なのか、あるいは菊川組の下っ端なのかはともかく、これはよっぽどのことだと直感できた。俺はすかさず尋ねる。


「……もしや、その跳ねっ返りが浜松に逃げ込んだってか?」


 菊川は頷いた。


「ああ、その通りだ。情けない話だけどね」


「で、その裏切り者ってのは誰なんだ?」


政村まさむら平吾へいご。もっと云えば、横須賀の三代目水尾組全員だ」


「そいつは穏やかじゃねぇな」


 曰く、東北の極星連合との内通が発覚した政村が、横浜にて催される幹部会へ姿を現さなくなったという。そんなこんなで彼の行方を追った結果、この浜松へ赴いていることが分かったのだとか。


「ちょうど煌王に唾を吐きかけた連中が浜松で新たな組織を旗揚げしようとしているタイミングだからね……もし、政村がそっちに合流しちゃうと色々と面倒だ。というわけで、僕らとしては彼が新組織と結び付く前に始末したいんだ」


 菊川の言う通り、いずれ恒元の傘下へ吸収される予定の新組織に政村が参画しては中川会との同盟関係に影響が出る。あの村雨耀介が、組の創始以来ずっと貫いてきた「裏切り者は絶対に殺す」という基本指針を曲げるとは到底思えないからである。


「確かに、いずれ桜琳一家を含む31家門が中川会へ吸収される。そこに政村が入り込もうものなら、あんたらは野郎を殺すに殺せなくなる」


「ああ。だから……どうか頼む」


 菊川は俺に頭を下げてみせると、続けて「恒元公には了解を得ている。あの人が心変わりしないうちにっちゃいたいんだ」と言った。


 横須賀という土地柄ゆえに米軍とも独自のコネクションを持つ三代目水尾組は、よくよく考えれば恒元にとって大きな利潤をもたらし得る存在だ。ゆえに気分屋の恒元が「政村を生かす」と急な方針転換に動く前に、政村の粛清を成すことが肝要だろう。政村の持つ金脈は俯瞰的な視点で考えれば魅力的だが、まあその辺は後々で貰えば良い。


「分かったぜ」


 政村粛清の見返りに、村雨組に対して横須賀の割譲をせびることも上策だろう。恒元が了解しているなら断る理由は無いので、俺は首を縦に振った。


 菊川の顔がみるみるうちに綻ぶ。


「ああ、良かったよ……これで村雨組うちの顔も潰れない……」


 裏切り者に対する粛清は、組織が大きくなるにつれ必須の仕事となる。しかし、それは決して簡単なことではない。


「あんたらは浜松で政村の首を獲れれば良いってことだな」


「まあね。恒元公からは『正式な旗揚げは明日以降になる見込みだ』と云われてるから、その前にケリをつけたい」


「分かった」


 菊川には浜松市内で自由に動いて構わないと伝えた。俺としては片桐が政村と接触しないよう目を光らす程度で良いだろう。


 懐から煙草の箱を出した俺は、菊川に「吸うか?」と勧める。


「ああ、じゃあ1本貰おうかな」


 彼は俺の差し出した煙草を1本抜き取ると、それを唇に挟みながら火をける。ところが、深く吸い込むや彼は顔をしかめる。


「ん? この煙草、苦すぎやしないか?」


「そうか……俺にとってはちょうど良い味だが」


 味はともあれ、ニコチンの風味を嗜む菊川に俺は会話を振る。男にとって煙草の匂いと共に語らう時間は贅沢なものだ。


「しっかし、どうして政村は極星と内通を? 奴は村雨組長に頭が上がらなかったはずだぜ?」


 そう訊ねると菊川は「彼にとっては限界だったみたいでね」と苦笑してから答える。


「うちの組長を恐れるあまり精神的負荷が頂点に達した……と云うべきかな。『怒りを買って殺されたらどうしよう』と危ぶむ心がかえって逆心を招いたのさ」


 なるほど。政村にとって極星連合への内通は一種の亡命であったというわけか。


「でも、どうして浜松に? 逃げるつもりなら、さっさと東北へ逃げちまえば良いはずだぜ?」


「そりゃあ善意で迎え入れてやれるほどの懐が極星に無いからだよ。亡命する者に手土産が欠かせないのはスパイ映画に限った話じゃないよ」


「なら、政村は浜松の新組織を丸ごと東北へ寝返らせる腹積もりか」


「うん。そう僕は睨んでる」


「もし奴らが極星連合と合体すりゃ、煌王会どころか中川会にとっても一大事だ。道理で恒元公がお認めになられたわけだ」


「まあ、極星に西と東から挟み撃ちされる格好になるわけだからね」


「政村の野郎はそこまで見越していたか」


 あの狡猾な男の考えそうなことである。奴が村雨組の傘下に降った経緯もまた計算に計算を尽くしてのことだった。


 それから少し間を入れた後、菊川は呟くように言った。


「でも、まあ……」


「ん? どうした?」


「……今回の件で僕も朋友も学んだよ。不穏分子は早いうちから始末しておくに限る。他に手は無いよ」


 俺も、深く頷いた。中川会にも云えること――昨年に謀叛へと至った群馬の越坂部捷蔵は依然として行方を眩ませて不穏な気配を漂わせており、いつ煌王会と組んで恒元に牙を剥いてもおかしくはない。尤も煌王会が分裂状態に陥っている今の状況は奴にとって誤算だったであろうが、あの男は早いうちに暗殺しておくべきだったのである。


「キミも用心することだよ。迂闊に慈悲を施せば付け上がる一方で、気付いた時には足元を掬われているものさ」


「ああ、分かってるさ。マキャベリズムは性に合わんが……背に腹は代えられねぇな」


 コクンと頷いた俺の頭の中を見透かしたように「また会おう」と肩を叩き、菊川は部下と共に車に乗って去って行った。


「……」


 俺は暫し、車のシートにもたれながら政村の奸計について考えていた。


 奴は片桐が桜琳一家を再興させようとしている情報を掴み、この浜松に赴いた。ゆえに片桐の動きを何処かで把握していたことになる。


 此度の一件に関わる者すべてに箝口令を敷き、機密の守秘を徹底していたつもりだったが。どうやら外部へ漏れていたようだ。


 俺は己の注意不行き届きを嘆き、同時に、漏らした人間がいたとすれば誰かと考えた。


 政村と個人的なパイプがあり、なおかつ奴に利潤をもたらすことで旨味を得る人間。おそらくは関西の跳ねっ返りの親分のうちの誰かだろう。


「……舐めやがって」


 吐き捨てるように呟いた直後、携帯にメールが届いた。華鈴からだ。


『見て見て、美味しそうなお菓子! 今から涼平も来て一緒に食べない? 葉室さんの奥さんが良かったらどうぞって!』


 そうつづられた文面の下にはピンク色の西洋菓子の写真が添付されていた。おそらくは東海の名店が作ったストロベリータルトだろう。


 まあ、心遣いは嬉しいが今の俺は慌ただしい……と思った時。俺はタルトと一緒に写っていた人物に視線が行く。


 何やら着物を着た小綺麗な女性が笑顔で写っている。葉室夫人だ。


 しかし、俺が注目したのは葉室の妻が身に纏っている着物――どこかで見たことのある花柄だ。


「あっ!」


 刹那、俺は思い出した。先月に華鈴の頼みで彼女の後輩の悩みを解決してやった際、後日に無事に成人式を迎えたという当人の写真で見た着物と同じ雰囲気である。


 考えてみれば、二代目政村興業は高級な絹で仕立てた着物を女性に売りつけていたという話だった。その着物の生産地と云えば、岐阜県飛騨市……あの街は歴史的に養蚕が盛んで、江戸時代から日本でも指折りの繊維業の聖地だったのである。


 飛騨市は葉室組の領地。


 瞬間的に俺の体が動いた。


「も、もしやっ!?」


 すぐさま車のエンジンをかけてシフトレバーを引っ張り、俺は前方へ走らす。無論、向かう先は西区入野町だ。


 葉室が着物の販売を通じて政村と親しくなり、情報を流していた――そう考えた上で推論を醸成すると、浮かび上がる線はひとつだ。


「野郎、この計画を乗っ取って極星に寝返るつもりか!」


 思わず叫び声が飛び出した俺。その叫び声が車内で反響する間も無く、車を始動させて目的地へと近づいてゆく。


 此度の計画を進めるにあたって葉室が浜松に構えた屋敷。そこに奴が華鈴を招いた理由は自ずと分かる。


 彼女の身の安全と引き換えに、俺に組織からの裏切りを迫る腹積もりだろう。


 葉室も兄貴分の本庄に劣らぬ狡賢い男だ。俺という男を抱き込めば、凄まじい規模の戦力向上に繋がることくらいは分かるはず。


 させてたまるか。華鈴が奴の手に落ちる前に助け出す――そう思って車を走らせる俺の前に、一人の男が立ちはだかった。


「……極星連合の回し者だったか」


 車道の中央に仁王立ちする格好で俺の行く手を阻んだのは、真壁仙太郎。車から降りて銃を向けた俺を見て、奴はニヤリと笑った。


「その様子じゃ俺たちの魂胆に気付いたようだな。いつからだ?」


「テメェに教える筋合いは無い」


「ふっ、そんなことを言わず仲良くやろうじゃねぇか。お前がくみしてくれれば百人力どころか天下を獲ったも同然なのだから」


「道を開けろ……」


 俺が凄まじい形相で睨みつけ全身から闘気を放つと、なおも真壁は「ふははっ」と笑った。そして彼はこう続けた。


「俺たちと共に新たな道を進もうではないか。我らせいちゅう煌王会こうおうかいはお前を心から歓迎するぞ」


 誠忠煌王会――どうやら俺を抜きに秘密の会合を催し、新たな組織名まで策定していたらしい。さしずめ、片桐も端から極星連合に寝返る気だったか。彼らのような跳ねっ返りは後ろ盾が大きければ大きいほど心が昂るもの、真壁の顔色を見る限り新組織に参画した親分衆の全員が東北への寝返りに頷いたと考えるべきか。


 だが、俺はまったく動揺しなかった。冷徹に真壁を睨み、低い声を発するのみ。


「……道を開けろと言っている」


「我らが誠忠煌王会に与すると約束すれば、お前の可愛い妻も命だけは助けてやるぞ」


「道を開けろと言ったんだぁぁぁぁぁぁ!」


 刹那、俺は発砲した。


 ――ズガァァァン!


 轟音が空気を切り裂く中、右へ動いて躱した真壁に俺は跳びかかる。射撃と同時に地を蹴っていた。


「でやああああっ!」


 俺は右の貫手を突き出し、真壁の顔面を狙う……が、奴はさらりと後ろへ下がって拳は空振りに終わってしまい、空振りの勢いで俺の体は前のめりになる。


「読めているぞ!」


 真壁はすかさず右足で蹴りを繰り出す。


「くっ」


 俺は咄嗟に体を横へずらして蹴りを避けた。そしてすぐさま体勢を立て直すや、今度は奴の懐へと飛び込んでゆく。


「殺すッ!!」


「ば、馬鹿な……」


 俺の掌底が腹にめり込むと同時、真壁は吐血する。しかし、その顔は笑っていた。


「……ごはっ、予想外の動きだ。しかし、この先は読めた!」


 そう言うと俺の右腕を左手で掴み、もう片方の手で瞬間的に構える。


「疾風撃針!!」


 瞬間、奴の右手が俺の腹めがけて飛んでくる。


 ――グシャッ!


 俺の腹に真壁の指が刺さり、次いで猛烈な熱さが走り、俺は「ぐっ……!」と呻いた。


「ふはははっ!」


 真壁が勝ち誇ったように哄笑する中、俺は激痛に耐えつつ懸命に奴の掴む腕を振り払って後ろへと飛んだ。


 そして、奴と距離を取る。


「ううっ……」


 俺は腹部を手で押さえ、脂汗を垂らす。


「ふはは、俺の疾風撃針をまともに食らったな! この技は如何なる物質をも貫通する必殺の奥義よ!」


 真壁は得意満面に高笑いした。


「……っ」


 俺は歯を食いしばって痛みに耐え、奴を睨みつける。


「どうだ、痛いか? ここでひざまずいて、俺たちの味方になると約束すれば生かしてやるよ」


 ところが、その直後だった。


「涼平!」


 女の声が聞こえたかと思えば、華鈴が俺の方へ走って駆け寄ってきた。その顔は血にまみれ、全身に無数の傷がある。


「か、華鈴……」


 妻は全裸。足がアスファルトを蹴るたびに、彼女の豊満な乳房が激しく揺れていた――俺は全てを悟った。彼女が、葉室たちに何をされたのかを。


「……ああっ! 華鈴っ! どうしてっ!?」


 腹の傷の痛みよりも華鈴の悲惨な姿の方が、俺にとって耐え難い痛みだった。そして次の瞬間には全身の血が沸騰するような感覚に襲われるが、直後に妻の声で我に返る。


「話は後! 逃げる!」


 華鈴はうずくまる俺に肩を貸し、その場を去ろうとする。


「みすみす逃がすものか!」


 真壁は銃を抜いて迫ってきた。しかし。


 ――ズガァァァン! ズガァァァン!


 およそ2発分の銃声が轟く。直後に響いたのは頼れる部下たちの声だった。


「次長!」


「姐さん!」


 酒井と原田だ。彼らは真壁に向けて銃を乱れ撃ち、奴を牽制しながら、乗ってきた車に俺と華鈴を押し込む。


「すぐに病院へ行きましょう!」


「逃げますよ!」


 車は同時に走り出す。俺は両膝を抱えて上体を起こすや、痛む腹を手で押さえながら酒井たちに言った。


「俺は問題ない……それよりも華鈴を……」


「分かってます! とりあえず次長は止血に専念して、あまり喋らんでください!」


 そんな声が運転席から聞こえてくる中、俺の隣に座った華鈴は言った。


「……葉室さんのお屋敷に行ったら、いきなり組の人に銃を突きつけられてボコボコに殴られて、まったく太刀打ちできなくて、挙句の果てに『夫にメールを打て』って言われて」


 葉室め、やってくれたな。愛する妻が傷つけられたというだけで怒りにより頭が沸騰しそうだったが、先刻に真壁の疾風撃針をまともに浴びた痛みで喉が思うように機能しない。


 腹を押さえながら、何とか俺は掠れた声で言葉を紡ぎ出す。


「すまねぇな」


 直後、華鈴の瞳からしずくがこぼれた。彼女は嗚咽を上げながら叫ぶ。めていた感情を。抑え込んでいたものを。


「ううっ……ううっ……あああああああああっ!」


「怖かったな。怖かったよな」


「ううううっ! うあああああああっ!」


 華鈴の言葉は言葉にならず、ただ泣きじゃくるばかり。俺は腹の痛みに悶えながら、彼女の背中を優しくさすってやることしか出来なかった。


「ごめんな。俺のせいで。守ってやれなくて」


「……っ……っ!」


 なおも華鈴は泣き続ける。今まで我慢していたものが一気に溢れ出したのだろう。彼女の心身の痛みは想像するだけで身震いを催してしまう。


 やがて車は目的の病院に到着する。酒井が運転席を降りて入口から病院関係者を呼びつけ、それから十数秒もかからずに医師や看護婦たちが駆けつけてきた。


「こちらへ」


 医師たちは俺の腹部の傷の深さに驚いた様子で「早く処置をしなければ……」と顔を青くさせる。無論、俺としては妻の容態の方が気がかりだ。


「華鈴は!? どんな具合だ!?」


 しかし、直後に激しい痛みがこみ上げてきた意識が朦朧とする。揺れる視界の中で見えたのは、よろよろと車から降りた全裸の華鈴に看護婦が毛布を羽織らせてやる光景だった。


「かっ、華鈴っ! 華鈴っ……」


 出血量が多すぎたか。程なくして俺は自力で動くこともできなくなり、医師たちによって処置室へと運ばれていった。


 その後、俺は緊急手術を受けることとなり、腹部に穴を開けて異物を取り除き、縫合するといった処置を施されて何とか命を繋ぐことが出来た。


 医師たちは驚いていた。肋骨の全てが粉砕骨折していた上に、その一部が複数個所の内臓に突き刺さり、中には破裂している臓器もあった。死亡していてもおかしくはない……というか、医学の常識で考えれば即死してなければおかしいほどの深手だったという。


 全身麻酔が覚め、ゆっくりと目を開けると、偶然にも近くで待機していた女性医師が言った。


「いやあ、麻木さん。あなたは特異体質の持ち主と云う他ありませんね」


「特異……体質……?」


 捻り出すような声でたずねると、その女医は困惑気味に頷く。


「普通、内臓が二か所も破裂したら即死ですよ。生命活動が維持できませんから。ところが、あなたの臓器は正常に機能しています。破裂した痕跡こそ確認できましたが、特に何事もなく動いているんですよね」


 俺は思わず天を仰いだ。そして、腹の傷の痛みもあって眉間に皺を寄せる。どうやら俺の内臓は自己再生の速度が速かったらしい。


 ぽかんとしているうちに唇が動くようになってきた。唾を飲み込んだ後、俺は続けて訊ねた。


「……俺の体、どれくらいで治るんだ?」


 そんな俺に女医が苦笑しながら答えた。


「それが、もう治ってます」


 またしても口をあんぐりと開けてしまった。


「え?」


 再び頷きながら女医は言う。


「骨が繋がってるんですよ。砕けていた部分も元通りになっています」


「ちょ、ちょっと待ってくれ! さっきオペ室へ運び込まれた時に『生きてることが不思議なくらいの怪我だ』って言ってなかったか!?」


「私も20年ほど医者をやっていますが、あなたのような患者さんは初めてです。あなたの骨は確かに折れて砕け散っていたのに、出血の吸引を行っているうちに繋がっていました。信じられません。本当に」


 女医は心底驚いた様子で俺を見つめていた。その表情からして冗談を言っているわけではないらしい。


「おなかを触ってみてください」


 そう言うので、俺は恐る恐る手を当ててみた――刹那的に声が上がった。


「なっ!?」


 先ほどから痛みが完全に消えていたので不思議なことだと思っていたが、腹部の傷は完全に癒えていた。ガーゼも包帯も施されていない。女医曰く縫合痕の再生も早かったという。


「馬鹿な!」


「本当に驚きましたよ。医学の常識では考えられません」


「しかし、どうして……?」


「分かりません。ただひとつ言えることは、あなたが特異体質の持ち主だってことです。どちらかと云えば医学というより生物学の領域の話になりますが、他とは違った体組成を持って生まれてくる存在は確かにいます。ヒトに限らず、全ての生き物において、ですけど」


 俺は唖然としたまま彼女を見上げる。そんな俺を見て彼女は微笑を浮かべた。


「いずれにせよ、あなたの怪我は既に治っています。私たちが出来ることは特に無いので、明日にでも退院して頂いて問題ありませんよ」


 それだけ言い残すと、彼女は病室から出ていった。呆然としながら窓の外に目をやれば、夕陽が沈みかけている。もう夜が近いようだ。


 その時だった。病室の扉が開いたかと思えば、2人の男が入ってきた――酒井祐二と原田亮助だ。


「次長ぉ! 目ぇ覚まされたんですね!」


「いやあ、良かったですよぉー! 俺ぁ、兄貴が死んじまうんじゃないかと思って心配で心配で!」


 酒井と原田は安堵の表情を浮かべていた。彼らにとって俺の生存は吉報だったらしい。


「あ、ああ。まぁな」


 俺がそう言うと、彼らは揃って苦笑する。


「でも、すげぇっすよ! 兄貴! どうやったらそんな怪我を負ってまだ生きてられるんですか!?」


「ああ。それは俺も知りたいところなんだが」


 安心したのか、酒井は頬を綻ばせる。程なく彼は笑った。


「あっはははっ! 次長の生命力の強さを改めて思い知りましたよぉ」


「まあ、俺の生命力はゴキブリ並みってことだろうな」


 暫し部下と笑い合っていたが、俺の顔は自然と曇ってしまう。


「……華鈴は?」


 そう俺がたずねると、2人は気まずそうに俯いた。原田が静かに口を開く。


「今は眠っておられますよ……かなり疲労してるみたいでしたので……」


 酒井も続けて言った。


「次長、その、姐さんは」


「何があった?」


 話す途中で俯いた酒井に代わり、原田が答えた。


「葉室の若衆たちが姐さんのことを痛めつけてたって話です。姐さんは最初、抵抗していたそうですが……そのうち観念したのか大人しくなったそうです。それでそのまま代わる代わる……」


「あ、いや、それ以上は。言わんで良い」


 咄嗟に言葉を遮った俺――皆まで言われずとも分かる。華鈴は俺への報復として傷つけられたのである。葉室の理事再任を結果的に阻んだことへの仕返しとして。


「華鈴は今どこにいる?」


「今、葉室の野郎はどこにいる?」


 そう俺がたずねると、2人は顔を見合わせる。


「それが、総帥が『動けるようになり次第、すぐに戻って参れ』と仰せで」


「要するに、葉室には手を出しちゃならねぇとのことです」


 理解できない。俺は目を丸くしてこたえた。


「何故だ!?」


 酒井は苦しそうに答える。


「その辺の理由については俺たちも知らせれておりません。ただ、2時間前に暗号通信で報告した時の総帥は何やら嬉しそうなお声をされておられました」


 思わず歯噛みした。腸が煮えくり返るような思いだった。愛する妻を傷つけた男を許すことなど出来るわけがない。惚れた女に怪我を負わせられて黙って見ているほど俺は間抜けではない。


 しかし。ほんの数秒ほどの間を挟んで飛び出した台詞は、あまりにも自然な肯定の返事だった。


「……分かった」


 すんなりと頷いた己に驚かされる。どうしてだろう。こんなにも易く事を呑み込んでしまうとは思わなかった。情緒が激しく昂っているというのに。怒りで全身の血液が熱くなっているというのに。


 葉室旺二郎を殺してやりたい。


 真壁仙太郎に先ほどの借りを返したい。


 片桐禎省の首を惨たらしいやり方で刎ねてやりたい。

 爆発するがごとき欲動の数々が、たったひとつのワードで、みるみるうちに萎んでゆく――総帥の意向。さながら心を透明な鎖で縛り付けられたかのような気分だった。


 そんな混乱と驚愕の中でも、俺は冷静に次なる言葉を紡いでゆく。


「おそらく恒元公は葉室の裏切りを最初から見越しておられたんだ。飛騨の山から出た新鉱物のメタンライトを全て総帥府のものとするためには、葉室組の所領を奪う大義名分が無きゃならねぇ。奴が返り咲くはずだった理事の座に谷山を就けたのが、何よりの証左あかしだろう」


 主君の考えそうな計算に斯くも早く理解が追いつくことが、ひどく恐ろしく感じられた。まあ、きっとそれは己に元傭兵という過去があるからだと俺は心を撫で付けた。そうでもしなければ、何か悔しさの激流のようなものに呑み込まれてしまいそうだったから。


 己自身に言い聞かせるように、なおも俺は言葉を続けた。


「俺と真壁が相打ちになったのも、きっとあの御方にとっては計算の内だ。お申し付けの通り、帝都へ帰ろうじゃねぇか。そうして、次の作戦に備えるんだ」


 何時いつになく弱々しい兄貴分の声色に、何を思ったか。聞き終えるや、またも二人は顔を見合わせた。されど優しい弟たちは、すぐに了解の返事をしてくれた。


「へいっ!」


「承知いたしましたっ!」


 ほぼ同意に頭を下げた酒井と原田。彼らは俺に、華鈴が既にこの浜松の病院を後にしていることを教えてくれた。首都圏へ帰還し、港区高輪にある中川なかがわ叡智えいち病院びょういんへ転院したという。そこは中川会の隠れ蓑たる『中川叡智財団』が運営する組織御用達の病院で、構成員のみならず彼らの親族や関係者、贔屓にする政財界の要人たちも頻繁に利用する。かくいう俺も一昨年に蛇王との戦いで大怪我を負わされた時に入院させてもらった。そこならば安心だろう。


 ひとまず胸を撫で下ろす俺に酒井が言った。


「姐さんは全治1ヶ月だそうです」


「……そうか」


 いずれ必ず、葉室の首は俺の手で獲ってやる。心に復讐の決意を燃やし、俺は浜松市立病院を退院して帝都へ戻った。約3時間の旅を終えて港区の地を踏むや否や、駆け付けたのは高輪の病院である。一刻も早く華鈴のもとへ駆けつけ、彼女の傍に居てやりたかった。


 しかし。


「申し訳ありませんが、お会い頂けません」


 主治医と思しき壮年の女医師は首を横に振った。思わず声を荒げたくなった俺だが、彼女の名札に『精神科』の所属科名が記されていることを見てすぐに納得した。


「なるほど」


「ご理解頂けたようで何よりです。あんなことがあった後なのです。男性を見れば恐怖を感じてしまうでしょう。それは夫であるあなたとて同じことです」


 華鈴が受けた傷は肉体面だけでなく、心の面にも大きな爪痕を残してしまっているらしい。女医は華鈴の症状を淡々と述べた。


「搬送後、直ちに眠ってしまわれたのです。睡眠薬や催眠治療によるものではなく、恐らくは本人の意思によるものでしょう。現時点では、精神的なショックによるものと思われます」


「ショックで気を失ったってことか?」


 女医は頷いて続ける。


「簡単に申しますと、心の防壁が作動してしまった状況ですね。人は誰しも受け止められる苦しみや悲しみの量には限度があって、奥様の場合はそれがキャパオーバーに至ってしまったと云えばよろしいでしょうか」


 俺は唇を噛んだ。悔しさがこみ上げてくる。


「何とか治療できないものなのか?」


「もちろん、治療は可能です」


「具体的にはどのような治療を行うんだ?」


「カウンセリングですね。心の傷を癒やすことによって回復を促します」


 その行程に時間を要することは、告げられずとも理解できた。俺は腕組みをして、顔をしかめた。斯様なシチュエーションにおいて夫として傍に居てやれないのは歯痒くてならないが、ここはプロに任せる他ないだろう。


「分かった。頼んだぞ」


 経過については逐一連絡を寄越すという。嘆息をき、俺は渋々ながらに病院を後にした。とぼとぼと街を歩く俺は項垂れる――この日、片桐禎省、真壁仙太郎ら煌王会七代目体制を快く思わない親分衆は浜松の地で結束し、新組織『誠忠煌王会』を旗揚げした。これに同日付で中川会からの離脱を正式に表明した葉室旺二郎、さらには村雨組を追われた政村平吾までもが参画したことで『誠忠煌王会』は総勢で9000名を超す大勢力に膨れ上がった。


 ところが。


「ふははっ! よくやったな!」


 それから俺が宮殿へ足を運ぶと、側近の帰還に総帥は手を叩いて歓喜していた。酒を飲んで真っ赤にした頬を緩めた主君の姿を見て、やはり己の推考が間違っていなかったことを確信できた。


「葉室も面白いように動いてくれたな。蛇に追い回された蛙が逃げ込める場所は泥中でいちゅうを置いて他には無い。蛇が泥の中を自在に泳げるとも知らずに哀れなことよ」


 恒元は「ふははっ」と笑い、手にしていたグラスの中の赤ワインを飲み干した。蛇――ああ、そういえば中川下総守家の家紋は『いつざさからへび』だったな。5枚の笹の葉の上で2匹の蛇が絡み合っているという奇妙な絵柄だ。


 蛇に睨まれた蛙となった葉室旺二郎が逃げ込んだ泥中とは、云うまでもなく誠忠煌王会だ。彼は事実上乗っ取った新勢力の仲間と共に中川会に抗するつもりなのだろう。恒元はその愚かさを嘲るようにわらっていた。


「さて……葉室めはどう出るかな」


 不敵に呟いた主君のグラスに、妾の友花ともかが上半身裸でワインを注ぐ。総帥執務室の壁掛け時計が0時の鐘を鳴らすと同時、俺はたずねた。


「恒元公のご予想ではいかがなさるのでしょう」


 すると恒元は愉快そうに笑った。


「ふははっ。そうだなぁ。我輩が思うに、奴は資金の調達に動くだろう。ずは、飛騨の地下資源を手中に収めようと画策するのではないか」


「では、その前に我々が奪いましょう。誠忠煌王会に金蔓かねづるを与えてしまっては面倒が極まります」


 俺がそう言うと、恒元は更に声を上げて笑う。


「その通りだ。やはりお前は頭が切れるな。正解だぞ、涼平」


 総帥は右手のグラスの酒を呷る。そして、もう片方の左手で妾の乳房を揉みしだく。されるがままの友花の喘ぎ声が室内に響く中、恒元は言った。


「先に動いた方が勝ちだ。葉室という蛙に餌を与えたのは肥えさせるためであって、手に余る化け物へ変じさせるためではない。浜松の愚か者どもとの結び付きを強める前に、食ってしまおう」


「承知いたしました」


「しかし、まあ……此度はお前にも手間をかけたな。許せ」


「いえ。とんでもございません」


 恭しくこたえた俺に恒元は訊ねた。


「華鈴はどうなっておる?」


「高輪の病院の精神科にて暫し療養するそうです。ただ、現在は未だ起きられないようです」


「そうか」


 恒元の相槌あいづちには興味の無さが滲み出ている。どうでも良いと思っているのかもしれない。


「華鈴お姉ちゃん……私も心配です……」


 友花が呟いた。恒元の妾でありながら、彼女は時折こうして目下の者に同情的になる。それは愛撫と云う名目で総帥に虐げられる自分の立場に寄せているのか、あるいは、思惑次第で振り回される俺たちを純粋に憐れんでいるのか。何であれ、この場においては不要なものだ。俺は素早く話を戻すことにした。


「時に、総帥。葉室の利用の仕方にまつわる方針を変えられたのは何時いつでございますか?」


「昨晩だ。極星連合の神林が我輩に電話を寄越してきおってな。『おたくの葉室という直参が我々に寝返りたいと持ちかけてきているが、どうするか』と。あの田舎者は我輩と事を構えたくなかったらしい」


「極星の神林が密告してきたのですか」


「ああ。我らとの抗争で死人を出すよりもメタンライトの甘い汁を吸った方が得だと考えたらしい。賢明なことよ」


「して? 総帥は何とお答えに?」


「神林が『メタンライトの取り分は3割で良い』と申したゆえ、提案を呑むことと決めた。尤も、葉室の叛意は、奴を再び理事の椅子に座らせてやらなかったあたりから分かりきっておったがな」


 回りくどい言い方をしたが、要するに恒元は先月31日の時点で葉室に逆心が芽生えつつあることを悟っていたわけだ。無論、そのまま事を進めれば葉室に計画を乗っ取られて新組織が敵に回ることも分かっていたであろう。村雨を裏切ろうと目論んでいた政村と葉室が密かに内通していたことも、おそらく承知の上だったはず。


 一体、どうして俺に教えてくれなかったのか――ともあれ続けて訊ねた。


「しかし、よろしいのでございますか? 誠忠煌王会なる新組織が発足した今、我らは煌王会と並んで三つ巴の抗争を戦うことになりますよ? 葉室から飛騨を奪えるにせよ、こちらとしては痛手の方が大きいのではございませんか?」


「ああ、分かっておるよ。涼平。お前は優しい子だ。何時いつだって我輩のことを案じてくれる」


 恒元がグラスに口を付けるのと同時に、彼の膝上に乗せられた友花の裸体がびくんと跳ねた。総帥の左手が彼女の乳首を弄び始めたのである。


「あっ! あっ! あんっ!」


「ははっ。良い声で鳴きおって」


 恒元は愉快そうにわらいながら、愛玩動物の如く娼婦を弄ぶ。友花は快楽に身を委ね、艶やかな嬌声を上げるだけ。その妖艶な光景を目の当たりにしても尚、俺の胸中に去来するものは一切なかった。


 恒元が続ける。


「涼平よ。貴族とは何だと思う?」


 突拍子もないクエスチョン。この場で首を傾げるという選択肢は浮かばず、俺は即答した。かつて教えて貰った、恒元の哲学を。


「如何なる時も華やかで、なおかつ高貴である者のこと……でございますか」


「左様」


 満足そうに頷いた恒元は、さらに訊ねる。


「ならば『華やか』あるいは『高貴』とは何だと思う?」


 今度は簡単ではない課題をぶつけられた。下手な答えを掲げて怒りを買ってもいけないので、俺は暫し頭を捻ってから答えた。


「豪奢な衣を纏い、至高の料理を食べ、華美な屋敷に暮らすことは、あくまでも嗜みに過ぎません。私は、貴族たる者を構成する要素の根幹は精神だと存じます」


「ふむ。では、その精神とは如何なるものか?」


「凡愚な民衆とは一線を画す、誇り……それを如何なる時も胸に燃やし続けることでありましょう」


 俺の答えに恒元は笑みを浮かべる。数秒後、総帥は合否を告げてきた。


「よくぞ答えた」


 若干のにがさが混じった声と表情――どういう意味だ。俺が理解を追いつかせる間も無く、恒元は友花を愛撫する手を止めて椅子から腰を上げた。


 彼は窓辺へ近づき、夜景を眺めながら語り始める。


「誇り高さこそが貴族を貴族たらしめる。されど、人間とは弱い生き物だからな。あまつさえ心の弱さに打ち勝てぬ者も多く存在する。苦しい。本来なら葉室を討つことにも大義名分など要らぬのに」


 恒元が何を言いたいのか分からないまま、俺はただ黙って聞いていた。やがて振り返った主君の瞳には悲哀に満ちた輝きが宿っていた。まさしく天使に救いを乞うような視線だった。


「貴族とは孤独なものだ。如何なる時も誇りを捨ててはならぬ……常に凡愚な民衆とは一線を画し、左様な振る舞いをせねばならぬ……それは貴族の特権だが、ある意味では義務とも云える……」


 寂しそうに恒元は続けた。


「……己が他の者よりも優れておることは、振る舞いによってのみ、示さねばならぬ。まったくもって虚しいことだ」


 恒元は俺をぐに見据え、静かな視線を注ぎ込む。刻々と秒針を動かす壁掛け時計の音と空調設備の作動音だけが聞こえる総帥執務室が、まるで何処かの異空間のようにも感じられる。


 固唾を飲んで黙り込む友花の身体が震え出す中、恒元は宙を見上げて目を閉じて「なれど」と声を発する。その唇が瞬間的に笑みが浮かぶと同時、カッと瞼を開けて恒元は言った。


「それこそが貴族の嗜みである」


 次の刹那、恒元は目線を横へずらし、そこに佇んでいた友花を殴った。拳を握り固め、体重を乗せた打撃を浴びせ、何度も、何度も。柔肌がえぐれ、鮮血がほどばしり、骨が砕ける音が響く。痛々しい音と共に上がる絶叫が部屋中に響き渡る。だが、それすらも愉悦として受け入れ、恒元は哄笑する。


「ふははっ! これだぁっ! これこそが貴族たる証なのであるっ! 誇り高き者だけが享受できる特権であるぞっ!」


 狂喜に歪んだ表情で主君は続ける。最早、そこに理屈はない。あるのは衝動だけ。殴打の雨を浴びせられる度、友花は声を張り上げて苦痛に悶えた。


「あっ! 痛いっ! 急にどうしたんですかっ! 総帥っ!」


 そんな彼女を痛めつけながら、恒元は高笑いする。


「良いか、友花! お前は我輩のものである! その美しい顔も、艶めかしき肉体も、清らかな精神も、全てが我輩の所有物である!」


「嫌っ! 助けてくださいっ!」


「許さぬぅぅぅっ! 我輩から離れることは許さぬぞぉぉぉぉぉっ!」


 やがて恒元は友花の身体に絡みつき、左腕を本来の可動域とは真逆の方向へ捻り上げる。腕だけではない、上体を折り曲げて全身に負荷を掛けている――元傭兵の俺には見覚えがある。軍用格闘術における関節技だ。ああ、思い出したぞ。そういえば、恒元は青年の頃はフランス外人部隊の大尉として活躍していたという話だったか。


 いや、些末事はどうでも良い。止めなくては。バキッ、バキッと鈍い音が上がると同時に、友花も苦痛の声を発する。


「痛いっ! やめてぇっ!」


 そこへ俺は声を挟んだ。


「総帥! それ以上おやりになれば脊髄が折れて使い物にならなくなります!」


 何故、そんな言葉を口にしたのか。諫言するなら、もっと他の言葉もあったはずなのに――俺の言葉に恒元は「良いぞ」と応じ、友花を勢いよく投げ飛ばして絨毯の上に叩きつけることで関節技を解いた。先ほどまで可愛らしい笑みを湛えていた女の顔には痣がいくつもあり、涙で濡れていた。体には、他にも治りかけと思しき傷の痕が複数あった。


 そんな妾を見やり、恒元は吹き出すように笑う。


「ふははっ。素晴らしき眺めよ」


 そうして彼はズボンを下ろし、巨大な男根を露わにした。欲動を表現するかのごとく反り立った陰茎は、さながらトライデント・スピアのごとき迫力を備えていた。何をするかと思えば、彼は俺にリクエストを伝えるではないか。


「涼平よ。お前のその可愛い口で我輩を受け止めておくれ」


 ああ、あれか。仕方ない。


「はっ。承知いたしました」


 俺は恒元の前で膝を折って体をかがめると、屹立する肉棒を咥えて舌を這わせた。恒元のモノは大きすぎて、到底俺の口では咥えきれそうもない。それでも懸命に仕事をすれば、やがて彼は射精を迎える。


「んぁ……」


 熱い白濁液が口内で飛び散る。俺はそれを全て吸い取って喉の奥へ流し込む。途端に主君は笑う。


「はははっ! 相変わらず見事な手練手管てれんてくだよ!」


「恐悦至極に存じます」


 すっかり満足したようで、恒元は下着を穿いてズボンを戻した。ベルトを締め直しながら、彼は俺に向けて口を開く。


「よく覚えておくが良いぞ。涼平よ。これが貴族たる者の嗜みである。己が凡愚な民衆とは一線を画しておるとの誇りは、その者らを力でねじ伏せることによってのみ形を得る」


 ああ、そういえば先程も斯様なことを仰られていたか。主君の哲学に納得をした俺は、大きく頷いた。


「はっ。覚えておきます」


 恒元は「よろしい」と呟き、俺に向かって「給仕女メイドを呼んでまいれ」と命じた。どうやら、友花の介抱をさせるらしい。


「承知いたしました」


 俺は立ち上がり、背筋を伸ばして総帥執務室を一旦辞した。そうして扉を開けて廊下に出て、そこで待機していた数名の給仕女に声をかけ、彼女らと共に再び部屋に戻る。


「見ての通りだ。友花を医者にせよ」


 恒元の申し付けに給仕女たちは数秒を置いて「はい」と頷いた。この宮殿では日常茶飯事にせよ、やはり慣れないものは慣れないのであろう……と思った直後。


 ――パァァァン!


 銃声が轟いた。恒元の手には金色のオートマチック・ピストルが握られており、その銃口からは煙が噴出している。


 刹那、給仕女の一人が断末魔を上げることもなく倒れた。胸の辺りを真っ赤に染めている。急所を破壊されたことは一目瞭然。即死だ。


 他の女たちが青ざめる中、恒元は俺に言った。


「これも貴族たる男の嗜みだ。凡愚な民衆など所詮は戯れの道具に過ぎぬ。慈悲をくれてやる価値は無い」


 そうか……そういうものなのか――ただただ俺は黙って主君の言葉を聞き入れてゆく。


「革命の時代に愚かな学者気取りが『人は皆生まれながらにして平等』などと抜かしたが、左様なことは一切無い。誰しも生まれながらに支配する者とされる者とに分かれておる。これこそが世の唯一絶対のことわりにして秩序の根幹である」


「はい」


「にもかかわらず、本来は支配されるべき卑しき者が民主主義なる屁理屈で身を立てて成り上がり、世を動かすようになった。奴らの知性など、たかが知れておる。如何に励んで勉学を修めたところで、生まれもった醜き遺伝子は変えられぬ。奴らには愚かなまつりごとしか出来ぬのよ。思考の軸たる遺伝子が愚かであるゆえな」


「はい」


「だが、反対に、我らのごとく誇り高き生まれの者は美しき遺伝子を持っておる。ゆえに賢き政を施して国を素晴らしき方向へ導ける。これこそが貴族たる者の本懐である。我らは生まれながらにして民をべるためにる。ゆえに民衆の上に立ち、彼らを導き、支配せねばならぬ。それが我らの使命なのである」


「はい」


「お前も知っての通り、この国の政は乱れに乱れておる。全ては先の大戦で負けた折に民主主義なんぞを取り入れた所為だ。いやはや嘆かわしいことよ。生まれながらにして卑しき者どもに世の舵取りを任せたところで、国は衰えるばかりだというのに」


「はい」


 恒元は総帥専用の椅子に座ると、上着のポケットからライターを取り出して葉巻に火をけた。そうして先刻から呆然としているままの給仕女たちに「何をしておる! はよう友花を病院へ運ばぬか!」と声を荒げ、俺に視線を戻して言葉を続ける。


「卑しき者どもを慈悲で掬い上げたとて、国が豊かになることはない。卑しき者は卑しき者なりに、黙って我らの支配下にくだっておれば良い。それこそが奴らの価値である。如何に励んだところで、下僕以上の価値が奴らに生まれることはあり得ぬゆえ」


「人の価値たる能力は限界は、生まれもっての遺伝子で定められているからでございますね」


「左様。元は高貴な家に生まれた者が何かの手違いで没落したのなら未だしも、生まれついて卑しかった者を富ませて何とするか。今、流行りの民主社会主義なんぞは悉く間違っておる」


「仰る通りでございます。総帥」


「民衆など、つまるところは救う価値など微塵も無い、愚かな者どもだ。ノブレス・オブリージュとは言語道断。奴らのために尽くせば尽くすほど、国家は腐敗の一途を辿ってゆくばかりである。ゆえに、我らは誇り高き貴族として、民衆……いや、民草たみくさを管理し、指導し、支配してゆかねばならぬのよ」


 恒元は饒舌で言い放つ。彼の考え方はあまりに極端で、普通に聞けば馬鹿馬鹿しいにも程がある。だが、それは同時に絶対的な真実であり真理でもあった。人は生まれながらにして差別されるように創られている。自然の摂理として、それは何人にも覆せないことなのである――俺はそんな考えに至った。だから、敢えて何も言わずにいた。この男に逆らっても無駄だし、それに、総帥の話を聞いていると何だか心が躍る。


「卑しき者を傷つけ、殺すことは何ら悪ではないぞ。涼平よ。むしろ貴族の嗜みとしては欠かせぬことである。それゆえに、奴らの存在を軽んじることも当然のことだ。奴らを虫ケラのように扱い、その命をにじる行為にこそ、貴族の真価はある。我らは常に示さねばならぬ。力を。誇りを。我らが我らである喜びを」


 恒元は「それが我らの義務である」と一旦区切ると、葉巻の灰を落とした。そうして灰皿に置き、再び口を開く。


「涼平よ。今一度言うが、お前には我輩と共に歩む資格がある。支配する側に立ち、華やかに生きるだけに相応しき器があると我輩は思うておる」


「はっ。ありがたき幸せにございます」


「ゆえに惜しゅうてならぬわ……お前のかわけきれておらぬことが」


 皮が剥けきれておらぬ――恒元の言葉が俺の心に突き刺さる。何かが激しく揺れている。俺という存在が嵐の中を進む一隻の船のように思えてくる。


 声を震わせ、俺はたずねた。


「総帥。それは、私が、まだ、心を縛り付けているから、で、ございましょうか?」


 恒元は煙を吐き出し、笑いながらこたえた。


「左様。涼平よ。お前の心には躊躇を感じる。せっかくの欲動を利用しておらぬ」


「っ!?」


「そんな体たらくでは何も守れぬぞ。負け続けるぞ。何もかもを奪われるであろうぞ」


 刹那、頭に浮かんだのは浜松での華鈴の姿。葉室組の組員たちに痛めつけられて全裸で逃げてきた彼女の前で、俺は悔しさに歯噛みしていた。


「……わ、私はっ」


「お前は強い。誰よりもな」


 恒元は断言した。


「されど、未だ己を抑え込んでおる。お前自身がそれに気づいておらぬ。己の心を押し込め、抑圧し、縛り、束ね、雁字搦めにしておる。だから、力が十分に出せぬのだ」


「……はい」


「解放せよ。己の中に潜む、破壊の天使の如き本能を。欲動という名の無限のエネルギーを。お前なら出来るぞ」


 恒元は「さっそく課題だ」と続けた。


「先ほど教えた、貴族の嗜みをお前なりに考えて述べてみよ」


 貴族の嗜み――すなわち民衆を傷つけ、殺すこと。喉の奥から苦いものが湧き上がってくるが、俺は目を閉じ、俯き、抑え込む。力の限り、飲み干す。今まで築き上げたものを焼き払うように。


 恒元には勝てない。恒元には逆らえない。恒元には従う他ない。そうしなければ、華鈴を守れない。またしても、華鈴を傷つけてしまう。いずれ、華鈴が俺の傍から離れて行ってしまう。


 あいつは俺のものだ……!


 俺は拳を握りしめる。すると、どうしたものか。気分が瞬く間に晴れてきた。爽快感に情緒が躍る。まったくもって清々しい心地である。


 数回の深呼吸の後、顔を上げ、俺は言った。


「卑しき身分の子供だけに感染する致死率の高いウィルスを造って、ばら撒きます。そうすれば彼らは種族として滅び、自ずと誇り高き者だけが残ります。我々にとっても良い娯楽になることでしょう。子を流行り病で失った親が嘆き悲しむ様子さまを見ることが出来るのですから」


 自分で言っておいて、何とも素晴らしいアイディアだと思う。


「いかがでございますか」


 笑いながら訊く俺の眼前で、恒元は目を丸くした。やがて大口を開けて、愉快そうに笑い出す。


「ふははっ! 涼平よっ! 我輩が見込んだ通りの男だっ!」


 総帥のその声を聞いて、俺は高揚してゆく心の動きを感じる。まるで、ずっと昔から欲していたものがようやく手に入ったような気分だ。そうか。これなんだな。これが、欲動というものなのか。もっと、もっと欲しいぞ。これを満たしたい。満たされてみたい。もっと、もっと、もっと。この欲動に浸っていたい……!


 恒元は満面の笑みを浮かべて立ち上がった。そして、俺の肩に手を置いて、こう言った。


「お前は最高だっ!」


 恒元は大層嬉しそうに拍手している。そうだ。こうでなくては。


 俺は改めて恒元にひざまずき、頭を垂れた。この男は素晴らしい。彼に仕えられて本当によかったと思う――そんな俺の行動を見届けた後で、恒元は俺の手を取って立たせると近くにあった机の上に寝かせた。


「愛しの涼平よ」


 その言葉と共に接吻が押し当てられる。その瞬間に、俺は全身を電撃が走ったかのような感覚を覚えた。脳髄が痺れる。頭蓋骨が割れるほどの快感が全身を駆けめぐる。


 嗚呼、堪らない――心の中で呟きながら、俺は総帥の背中に腕を回して抱きつく。その様子さまを見て恒元は笑い、さらに強く口づけを交わしてきた。俺も必死でそれに応える。


 唇が離れると、互いの息が掛かる距離で彼は囁いた。


「我輩の全てを捧げるぞ」


「ありがたき幸せに存じます」


 そう言って恒元は俺のベルトを外し、ズボンを脱がせて下着姿にさせた。そして自身の服を脱いで床に投げ捨て、下半身に身に着けていた布も全て脱ぎ去り全裸となった。


 目の前に現れたのは、雄々しい剛直であった。その迫力に圧倒される。


 恒元のそれは宙に轟くかの如く反り返り、血管が浮き出ていた。まるで別の生き物のように蠢き脈動している。今すぐにでも襲いかかってきそうな勢いだ。凄まじいまでの姿を誇る男根に対して、俺は何の抵抗も出来ないままだ。


「さあ、まいろうぞ」


 そう言うなり彼は俺の右足を持ち上げて股の間に割り込ませると、そのままゆっくりと挿入してきた。その行為に痛みは無く、むしろ気持ち良くて仕方がないくらいだった。


 恒元のものが挿入される。心地良い。総帥も同じように感じてくれているらしく、額には汗が滲んでいるのが見える。やがて全てを受け入れることが出来た時、ふたりして大きな溜息をいてしまったほどだ。


「はあっ……!」


「あぁっ……!」


 しばしその状態のまま余韻に浸っていると、恒元は俺の腰を掴み、抽送を始めた。最初はゆっくりだった動きも次第に激しくなり、室内には肌同士がぶつかり合う音と荒くなったお互いの呼吸音だけが響き渡るようになる。


 彼の動きに合わせて俺も喘いでしまう。恥ずかしさはあるものの、それ以上に快楽の方が大きいせいか、自然と声が出てしまうのだった。それがまた興奮材料となるのだ。


「うあっ! 総帥っ! 私はっ! 俺はぁぁぁっ!」


「良い顔だ、涼平よぉ! はぁ、はぁ……お前はいつも我慢する癖があるぞぉっ!」


「はいぃぃぃっ! 私は未熟者ですぅぅぅぅっ!」


「ふははっ! 何を言うかぁ! 涼平には、もっと凄い才能が隠れておるっ! それが、何であっても我輩は肯定してやるぞぉぉっ!」


「ありがとうございますっ!」


 俺が感謝の意を告げると、恒元は腰の動きを早めた。パンッ、パァンッと乾いた音が鳴り響く。同時に結合部分から粘液が飛び散り、互いの腹を濡らしてゆく。


 彼は俺の両足を抱え上げると、より深く挿入してきた。今まで以上の圧迫感に襲われて苦しいはずなのだが、何故か心地良いとさえ思えてしまう。


 そんな感情に支配されていたせいで油断していたのか、急に強く突き上げられてしまい、俺は絶叫を上げてしまった。


「あひぃっ!?」


「ふははっ! もっと聞かせるが良いぞぉぉっ!」


 恒元は楽しそうに笑いながら、ますます責め立ててくる。前立腺を刺激されるたびに意識が飛びそうになった。あまりにも強すぎる快楽に恐怖すら覚え始めた頃になってようやく解放されたが、それは終わりではなく始まりに過ぎなかったのだと思い知らされることになるのであった。


「んふぅ……総帥……」


 恒元の腕の中で、俺は吐息を漏らした。心臓が破裂しそうだ。全身が痙攣を起こしている。呼吸もままならない有様である。


「ふふっ。最高に良かったぞ」


「私もでございます」


「ならば良かった。今日はこれまでにしよう。明日もあるゆえな」


 彼の言葉を聞いた瞬間に安堵感が込み上げてきて涙が出そうになったが、ぐっと堪えることに成功した。それでこそ貴族だ――恒元は助勤と給仕女に室内で転がる死骸を片付けるよう申し付けると、素っ裸のまま部屋を出て行った。


 残された俺は着衣を戻し、そそくさと総帥執務室を出る。時計の針は2時。そろそろ帰らねば。


「……」


 されど、家に人は居ない。直後、またしても恒元が俺の脳裏に浮かんできた。彼が言ったことが、脳内で響き渡る。


『そんな体たらくでは何も守れぬぞ。負け続けるぞ。何もかもを奪われるであろうぞ』


 ああ、そうか。


 俺は誇り高くあらねばならない。恒元の言う通りだ。そのためにまずは自分の心に向き合わなくてはいけない。今の俺には、それが出来ていない。だから華鈴を傷つけてしまう。その結果、失うことになりかねない。


 されど、家に人は居ない。直後、またしても恒元が俺の脳裏に浮かんできた。彼が言ったことが、脳内で響き渡る。


『そんな体たらくでは何も守れぬぞ。負け続けるぞ。何もかもを奪われるであろうぞ』


 ああ、そうか。


 俺は誇り高くあらねばならない。恒元の言う通りだ。そのためにまずは自分の心に向き合わなくてはいけない。今の俺には、それが出来ていない。だから華鈴を傷つけてしまう。その結果、失うことになりかねない。


「……華鈴」


 愛しい女の名を呟いた後、俺は家を出た。誰も居ない家。誰も居ない寝室。このまま虚しい空間に佇んでいては、気が狂ってしまいそうだったから。


 されども今の俺は街で遊ぶという気分ではない。乾ききった心では酒を飲もうが、娼婦を抱こうが、何にも癒やされまい。


 ならば、何処へ向かうか――と思っていた直後。


「よう! 涼平!」


 不意に声が聞こえた。振り向くと、そこには見慣れた顔が立っていた。


「……何の用だ」


「おどれに言っとかな、気が済まんことがあってのぅ!」


 中川会理事、直参『本庄ほんじょうぐみ』組長の本庄ほんじょう利政としまさ。背後に5人の若衆が控えている。今のような精神状態では最も会いたくない男だ。俺は露骨に毒づいた。


「けっ。暇人が」


 俺の言葉に組員たちが闘気を露わにする中、彼らを宥めて本庄は言った。


「はあ。ええ気味やのぅ。東海の調略にしくじった上に、かみさんはあない酷い目に遭わされた。ほんま、みじめや。これで少しは思い知ったんとちゃうか。身の丈に合わんことをやっとると、痛い思いをすると」


「言いたいことはそれだけか」


「こちとらアドバイスしとんのやで。ボケが」


 鼻を鳴らす俺だったが、本庄の言っていることは的を得ていた。今回、葉室が裏切ったのは俺が盃を呑ませた谷山が理事の座に就いたせいだ。彼の出世は俺自身の推薦によるものではないが、葉室が恨みを抱いていたのは確かであろう。


 まったく、俺は何とまあ無様な男なのであろうか。華鈴を傷つけただけでなく、こうして本庄の嘲弄を買う羽目になろうとは。


 しかし。


「おい、コラ。誰に向かって喋ってんだ」


 綻んだ表情を元に戻し、俺は本庄を睨みつけた。


「何やと?」


「この麻木涼平に向かってどういう口の利き方してんだと言ったんだッ!」


 己自身も驚くほどの大音声が放たれた。本庄の背後の組員たちは狼狽し、中には膝から崩れ落ちる者も居た。彼らの前に立つ親分だけが、全く動じず俺に睨み返す。


「えらい威勢がええのぅ。総帥のお気に入りやなかったら破門されてもおかしないことをしでかしたのに」


「だから何だ。この野郎」


「この期に及んでいきがっとる場合かい。崖っぷちに立たされて、よう言うわ」


「ああ? 俺が崖っぷちに立たされてる? どこがだ! 適当なこと抜かしてるとブチ殺すぞ!」


「ほな、本題を言わせて貰うが。今日の目的は宣戦布告や。これからおどれを徹底的に追い込んだるっちゅうな」


 眉間にしわを寄せ、本庄は続けた。


「気付いてへんようやけど、今のおどれは四面楚歌や。もはや今の組織でおどれの味方をする者は誰一人としておらへん。おどれが総帥に頼み込んで理事に上げてもろうた谷山かて同じや。いずれおどれは全てを奪い取られることになる。これまで踏み台にしてきた者らの恨みは、おどれが考えてるより遥かに大きいで」


「だったら何だ。それがどうした。どういう奸計を弄そうが勝手だが、華鈴に手を出せばその時はあんた一人を殺すだけじゃ済まなくなるぜ」


 俺の脳裏には華鈴の悲しむ顔が浮かんでいた。あの顔が二度と見られなくなるのかと思うと、胸の内に怒りが沸々と沸き起こってくる。


 だが、俺は冷静さを保たねばなるまい。ここで乱闘に発展させれば華鈴を危険に晒す可能性もあるからだ。


 だから、俺は努めて穏やかな口調で凄んだ。


「華鈴に何かしたら真っ先にお前の首を刎ねる」


 すると本庄も負けじと返してくる。


「今のおどれは孤立無援……せいぜい、精一杯足掻くんやな。その方が面白いわ。ボケが」


「その言葉、そっくりそのまま返してやる。いずれ、俺はあんたを殺す。じわじわと時間をかけて死の恐怖に怯えさせた方が面白いってもんだ。ウジ虫野郎」


 そう言い放った俺は、きびすを返して立ち去る。華鈴との日常をまもるために、どんな手段でも使おうじゃないか。誰にも邪魔させるものか。邪魔をする者は誰であろうと殺すだけだ――心の中で誓うと、自然と口角が上がった。


 翌日。


 恒元は葉室旺二郎に降伏の使者を派遣した。眞行路しんぎょうじ秀虎ひでとらが率いる『眞行路しんぎょうじ一家いっか』に組員を出させ、飛騨に布陣する葉室の元へ向かわせ、すぐに元の鞘に戻れば全てを水に流してやると持ちかけた。無論、これは後の武力侵攻に大義名分を得るためのパフォーマンスだ。


 そんな総帥の真意を知ってか知らずか。葉室はけんもほろろに突っぱねたという。


『わしが今まで恒元のせいで、どんだけ惨めな思いをしとったか分からへんのか! 今まで組織を大きくすることに散々貢献してきたんやで! そのわしが冷や飯を食わされて、あの麻木涼平とかいう成り上がりの若造が喧嘩しか能があらへんくせに出世街道を突っ走っとる……こない屈辱が他にあるかい!』


 そう言い放ったという葉室は、説得へ赴いた3名の使者のうち1名を射殺。これにより中川会は葉室旺二郎および葉室組を討滅の対象とし、例の『誠忠煌王会』は旗揚げ早々に煌王会のみならず中川会とも交戦状態に至った。


 一方、俺は組織における地盤構築の必要性を感じていた。どうやら理事たちの間では、総帥の贔屓でやりたい放題に振舞う俺を排除する動きが進んでいるようだ。そんな状況を打開し得る手と云えば、やはり派閥づくりを置いて他には無い。谷山は俺が組織加入時の媒酌人を務めた男だ。しかし、いずれ反麻木グループは狡猾だ。彼らに調略されれば、いつ谷山が裏切るかは分かったものではない。ゆえに恐怖が必要だった。俺という男の恐ろしさを感じて貰おうと思った。


 そんなわけで、俺は次の朝には九州へ赴いた。2007年3月2日。大分県別府市。腕試しも兼ねて、見せしめの亡骸をつくるために。殺すのである。玄道会と密かに通じている――そう話して恒元に許しを貰った、別府の『杵山きねやまぐみ』組長の杵山きねやま基次郎もとじろうを。


「あっ、麻木次長……」


「すまねぇな。蜂の巣になってくれ」


 事務所で顔を合わせるや、銃を取り出した俺に怯え竦む杵山に、俺は間髪入れずに引き金を引いた。


 ――ズガァァァン! ズガァァァン!


 眉間と心臓を撃ち抜いた後、その場に居た杵山組の組員達も一緒に殺してやった。俺は執事局次長。組織の裏切り者、あるいは裏切りの可能性のある人物を殺すことが仕事だ。恒元に言えば殆どの場合は承諾を貰える。


 ああ、これで谷山も俺を恐れるようになるだろう。不穏な動きを見せた者には、自らが盃を呑ませた人間とて遠慮なく殺す。組織を私物化せんとする幹部候補に対して、恐怖を与えることで牽制する。それが出来るのは恒元の腹心たる俺しかいないということを痛感するはずだ。


 俺に躊躇などあってはならない。


 華鈴のためにも。


 彼女の幸せを壊そうとする連中を生かしておけるか。


「はははっ」


 抑制の利かない自身の感情を笑いながら、俺は愛銃に新たな弾を込めるのであった。

誠忠煌王会は中川会からも叛逆。煌王会との三つ巴へ突入してゆく……! 次回、狂気が爆発する。

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