水を得た魚
高坂と別れた後、俺はモール内のコンビニに入った。
飲み物を買うついでに、雑誌を立ち読みしようと考えたのだ。店内に入ってすぐ、俺が手に取ったのは「週刊新星」。ちょうど10年前に創刊したもので、各界の著名人やら政治家やらのゴシップが書かれた、お世辞にも上品とは言えない雑誌だった。そんな新星を俺が読もうとした理由は、ただ1つ。
暴力団関連の記事を読むためだ。当時はインターネットのニュースサイトもあまり普及していなかったために、ヤクザの情報を得るには新星のような二流ゴシップ誌を漁るしか、方法が無かった。
「ええっと、村雨組は……何か載ってるかな?」
目次の部分にあった「速報! 極道最前線」なる特集記事に目を落としていくと、意外と早く知りたい情報に出会うことができた。
『治安の悪化が著しい横浜で、新たな動きがあった。急速に勢力を拡大させつつある煌王会系3次団体・村雨組が、ここ数か月の間、親組織にあたる煌王会直系・斯波一家に対して、一切の上納金を払っていないというのだ。(中略) 村雨組は上昇志向が強く、以前から直系昇格を目指して動いてきた。年功序列による絶対的な上下関係が根本にある極道社会において、またもや“下剋上”が実現するのだろうか!?』
絶対的に文体が軽く、また読者を煽るために局所で脚色も施されているようだ。しかし、当時の村雨組が煌王会の直系団体への昇格を目指していたのは紛れも無い事実である。
秋元から、雑談のついでに聞かされていたのだ。もともと、直系斯波一家の構成員だった村雨耀介が同組織の系列団体として立ち上げたのが村雨組。3次団体である以上、何をするにしても斯波一家総長の顔色を窺わねばならない。
しかし、直系昇格を成し遂げて「2次団体」となれば、斯波一家などは気にせず、好きなように振る舞うことが出来るはずだ。また、当時の村雨は、自らが支配する横浜港湾地帯の利権を斯波一家に半分、供出せざるを得ない状況にあった。
「なるほどな」
すべてを理解した俺は雑誌を閉じる。そして元の場所に戻すと、缶コーヒーとタバコを買って店を出た。
村雨組長は、1日でも早い直系昇格を果たさんと望んでいる。ならば、その野望を手助けすることが俺自身の出世の糸口となるはずだ――。
そんな事を考えながら、買ったタバコに火を付けようとした。だが、近くの看板には「禁煙」の文字。
(ったく。めんどくせぇなあ……)
気分が滅入るが、ここで下手に騒動を起こすわけにもいかない。俺は怒りをこらえつつ、しばらく歩いてようやく見つけた喫煙ボックスに入った。
「ふう……」
一服しながら、周囲を見渡す。行き交うのはスタイリッシュな男女。誰も彼もが自分らしく服を着こなし、都会の空気に浸りながら歩いている。
(俺も、ああいうのを着てみようかな)
わずかに、ほのかな憧れが生まれた。しかし同時に、己に似合うだろうかという不安も伴われた。高坂なら未だしも、それまで服装を意識したことすら無い自分に、ああいうオシャレな出で立ちが様になるとは思えないのも、また事実であったが。
(まあ、いいか……)
そうこうしているうちに、トランシーバーが鳴った。呼び出された店の向かい側の通路にあるベンチに座って、ガラス張りの店の中をジッっと眺めた。
「……」
絢華たちは数分後に出てきたのだが、その時の支払いの光景に、俺は度肝を抜かれた。
(おいおい、マジかよ!!)
何と、秋元は店のスタッフに札束ごと渡していたのである。もちろん、釣り銭の類は受け取らない。にこやかに礼をすると、絢華の車椅子を押して、ゆっくりと店を出てくる。
「ありがとうございました! またのご利用をお待ちしております!!」
その際、スタッフ全員が一列に並んで見送った。中には他の客に施術中の者もいたが、店の“上客”にして“太客”である絢華の方が、彼らにとっては大切なのだろう。
(それにしても、すげぇ光景だなぁ……)
他の店では恐らく、こうはならない。目の前で繰り広げられた一連の場面に圧倒されながらも、俺は出てきた2人に歩み寄った。
「お待たせしましたね。さあ、お次は買い物ですよ」
やはり、俺は荷物持ちのようだ。
「はいはい……」
ほんの少しのため息と共に、俺は絢華の方を見た。すると、彼女の雰囲気が変わっているではないか。
(おおっ!?)
前髪はあくまで自然に、それでいて毛先にゆるくパーマをあてたセミロングヘア。カラーも変えたようで、ほんの少し赤みがかっている、先ほどよりも小顔に見えるのはきっとボリュームのある毛束のせいなのだろう。
かわいい――。
キリッとした美人顔との相乗効果もあり、かなり美しく見える。クラスで一番人気が出るのは、こういう女なのではないか。何となくそう思う。
「何をジロジロ見ているの? 気持ち悪い」
口の悪さは変わっていないが、あまり気にはならなかった。
「いや、その……ほら、ずいぶんと可愛くなったんじゃねぇのって」
「そう。ありがとう」
いつになく元気そうな絢華。表情にも艶が出ている。内臓の大半が機能していない病人には、とても見えなかった。
(こいつ、地味に美人なんだよな……)
それから、途中に昼食を挟みつつモール内の店を見て回る。久々の遠出で気分が舞い上がったのか、絢華は終始楽しそうにしていた。
いろいろと見てまわった結果、買ったのは薄手のブラウス数着と、ショートパンツにスカート。全てブランド品だったので、会計は総額で100万円以上。だが、絢華も秋元も値段を気にする素振りをまったく見せていなかった。
幼少期に父親が死んで以来、苦しい家計事情の中で必死にやりくりせざるを得ない母の姿を間近で見てきた俺にとっては実に羨ましい姿である。
一方、絢華は新しいネックレスが特に気に入ったようで、手に持ってじっくりと眺めている。その様子は、まさに新しいおもちゃを与えられた子供のよう。見ていて、少しだけ微笑ましい気持ちになった。普段は信じられないほどに口が悪いのだが。
「さて、帰りましょうか。荷物、トランクまでお願いね」
そうして俺は、店から駐車場までの間の数十メートルを歩かされたのだった。もちろん、両手には大きな荷物。服の他にも、あれこれ日用品を買ったのだ。絢華の外出の機会自体が非常に少ないため、出来ることは出来る時に済ませておきたいと秋元は話していた。
「疲れた。例の曲、お願い」
「承知しました」
車が発進して間もなく、秋元は絢華のためにカーステレオを起動させる。スロットにガチャリと挿入したのは、数年前に流行った楽曲のテープ。やはり、絢華の音楽の趣味は独特らしい。
とある関西系の漫才コンビのツッコミ役が、当時栄華の絶頂にあった音楽プロデューサーとコラボした作品。しがないサラリーマンの生活における悲哀を歌った詞で、発売年にはミリオンを達成している名曲だ。
ふと絢華の方を見ると、既に寝息を立てていた。自分で動き出す挑戦を後押しするポジティブなフレーズに耳を傾けるわけでもなく、ぐっすりと眠ってしまっている。
「……お嬢様は、こういう感じの曲が大好きなんですよ。テンポが良くて、サウンドも心に染みるらしくて」
「へえ。そいつは意外だな」
絢華が眠ったのを確認すると、秋元はステレオのボリュームをゆっくりと下げていった。
「どうです? 少しでも気分転換になりましたか?」
「なったと言ったら……嘘になるかな。正直な所、今日は部屋の布団でゴロゴロしていたい気分だったぜ。でも、いつまでもヘタってたら、駄目だもんな。前を向くわ」
初めて人を殺してしまった件については、強烈なトラウマとして、しっかりと心に刻まれた。決して拭いきれるものではないし、取り返しがつかない。だが、自分はこれからヤクザになるのだ。
村雨組長も言っていたが、ヤクザである以上、必ず人を殺さなくてはならない場面に、いつかは必ず直面するであろう。それがたまたま、組長の“テスト”によって早まっただけのこと。そう考えて自分を納得させることにしたのである。
「はい。その意気ですよ」
俺の言葉を聞いて、秋元は安堵したようだった。ちなみに俺が心を立ち直らせたのは、決して自分ひとりの力によるものではない。
『頑張ろうよ! お互い、それぞれの道でさ!』
高坂の言葉だった。彼は彼の夢、すなわち役人になって国のために働くという目標に向かって、歩み始めている。官僚になるのがどれほど難しいものなのか、はっきりとは分からない。ただ、決してハードルが低くないことは何となく、分かる。今後、高坂は努力の日々を過ごすことになるはずだろう。
ならば、俺も――。
たとえ、これから歩むのが茨の道であっても、向かう先が地獄であっても、せいぜい頑張ってみようと心に決めたのである。そんな俺の心境の変化を悟っていたのか、秋元は何も言わず、ただ満足そうに頷いていた。
「……」
復路も2時間ほどで、そのまま村雨邸まで戻ってきた。道中で首都高の渋滞に遭遇しなかったのは本当に有難かった。余計な気を張らなくて済む。
「お嬢様、着きましたよ」
絢華の身体を抱え、車から降ろしてあげる秋元。両者の間に身分の差はあれど、2人はまるで母と娘のごとき関係性だ。絢華は秋元に全幅の信頼を寄せているし、秋元もまた、絢華の事をいちばんに考えている。
その夜、絢華は食堂へやってきた。
今宵のメニューは、鴨肉のローストとコンソメスープに、グリーンサラダとカットフルーツの盛り合わせ。中でも、鴨肉は絢華のいちばんの大好物であるらしい。父親のいない食堂でのびのびと舌鼓を打つ彼女の姿は、どこか水を得た魚のようにも見えた。
(こんな日々が、ずっと続けば良いな……)
それから、時が悠々と流れていった。朝から夜まで、絢華の側に寄り添い、彼女の世話を淡々とこなす生活。半ばルーティーンと化した日課に少しの退屈感もおぼえたが、修羅場を経験してしまうよりはマシというもの。
しかし、そんな日々が続いた6日目の晩。俺たちに事件が起こった。