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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第15章 血まみれの天使
253/261

破壊の天使の化身

 港町というだけあって、横浜は常に海風が吹いている。横浜駅の東口を出るや懐かしい香りに心が躍る。


 やはりこの空気は自然と落ち着くから奇妙なものである。16歳の時分の風景が次々と脳裏をよぎる中、俺はそそくさと目的地へと向かう。


 山手町にある村雨耀介の邸宅だ。


「あっ! テメェは麻木!?」


 ご丁寧に門の前を二人の組員が固めている様子もまた相変らず。この感覚は一昨年にも味わっているはずなのに、あの時と違って頬が緩むのは何故だろうか。自分が歓迎されていない状況も当時と同じで、ましてや横浜の下っ端連中には数倍増しで嫌われるようになったというのに。


「よう、組長に繋いでくれや。中川会の麻木涼平のおでましだってな」


「調子に乗ってんじゃねぇぞ……若造が……」


 かつて居候だった子供が敵対組織で破格の出世を遂げて戻ってきたのだ。良い顔をされないのは当然である。


 俺が笑っていると、屋敷の中から此度の顧客が姿を現した。


さぬか」


 村雨組長である。彼は守衛たちに「私に恥をかかせる気か」と凄むと、俺を見て満足げに微笑んだ。


「この間より良い顔をしておるではないか。迷いが悉く消えたとみえる」


「あんたも晴れやかだぜ」


「私はまようたことなど無い。生まれてよりこの方、一度たりともな」


 鼻を鳴らして「おうおう」と応じた後、俺は中川会が尾上町に巣食うフランス系マフィア『サングラント・ファミール』を掃討する任務を請け負ったことを話した。


「かたじけない。私が出陣すべきところであるのに」


「構わねぇさ。そういう協定だったからな」


「……おかげで私は畿内の抑えに注力できる。お前と恒元公には心より礼を申すぞ」


 そうして村雨は車で出かけて行った。村雨組は煌王会との戦いに向けた兵力増強のため海外でシノギを行っており、今回は謂わば一時帰国らしい。


 かくして村雨組への挨拶を果たした俺は、さっそく尾上の町をぶらついてみる。


「さて……まずは……」


 この尾上町はフランスやイタリア、スペインなどの文化が色濃く残る町である。そのためか異国情緒溢れる店が軒を連ねている。


 さて、狩りを始めるにあたって為すべきは獲物を誘き出すこと。荒野では餌をぶら下げるなり、楽器を鳴らすなりすれば良いのだろうが、人の住む街では勝手が違う。


 そんなわけで俺は一軒の料理店の暖簾をくぐった。屋号がフランス語で記されており「ひょっとすると」と思ったのだ。


 すると、入ってすぐにフランス人のウェイターが片言の日本語で話しかけてきた。どうやら読みが当たったようだ。


「イラッシャイマセ。オ好キナ席二ドウゾ」


「村雨組の使いで来た。みかじめを寄越せとよ」


「Quoi ?(何だと)」


 その瞬間、店員の顔つきが豹変してフランス語が出た。


「Es-tu un subordonné de Murasame ?(貴様は村雨の部下か)」


「Je ne suis pas son subordonné, mais il m'a demandé de le faire.(部下ではないが、彼に頼まれている)」


 しばしの沈黙の後、ウェイターが「Attends un peu(ちょっと待ってろ)」と言って店の奥へと引っ込んだかと思うとすぐに戻って来た。


「Il semble que le boss veuille te voir. Viens avec moi.(ボスがお前に会いたいそうだ。ついて来い)」


 予想的中。どうやらこの店はサングラント・ファミールが直に経営しているらしい。俺はウェイターに先導されて二階へ上がる。幾部屋か通り過ぎた先、豪勢な雰囲気の一室に通された。


「Crier(入れ)」


 中に入ると、果たして奥の椅子に腰かけていたのは思いのほか華奢な体格をした女性であった。


「Es-tu le chef de la Sanglant Famille ?(あんたがサングラント・ファミールのボスか)」


 すると女はにっこりと笑い、口を開く。


「ええ。日本語で構いませんよ」


 ネイティブと云っても過言ではない、かなり流麗な発音だったので驚いた。よもや連中の首領が女性だったとはな……。


 ともあれ、さっさと本題を切り出すとしよう。


「用件は分かってるはずだ。村雨さんのシマでビジネスをする以上は仁義を切って貰わんとな」


「まあまあ、そう焦らず。ひとまずお茶にしませんか」


 俺は「生憎そのつもりはぇ」と返したが、女は部下に紅茶を注がせていた。飲まないとしても気持ちだけは貰っておくとしよう。


「紅茶はお嫌いですか?」


「敵に振る舞われたものには口を付けねぇのが俺の流儀なんでな」


「敵だなんて……まだ中川会とは揉めていなかったつもりなのだけどね」


 どうやら俺の素性は読まれているらしい。まあ、そのくらいでなければこの界隈でボスなど張れないだろう。


「まあ、良いでしょう。せっかくお見えになられたことだし、自己紹介をいたしましょう。私はサングラント・ファミールを纏めるルサリエナ・デュプイです」


「ふっ。ボスが自ら名乗るとは殊勝な心がけだな。俺は麻木涼平。中川会で幹部をやってる」


 ルサリエナは微笑む。


「ムッシュ・ムラサメが中川会に頼んだのですか? 私たちから金を巻き上げろ……あるいは殺せと?」


 背後から凄まじい闘気を感じる中、俺は堂々と頷いてのける。


「ああ」


 相手が威嚇という道を選んだのなら、こちらは先方以上のプレッシャーをもって返せば良いだけの話だ。無表情で、なおかつ低い声色で言葉を続ける。


「だが、おたくらの出方次第によっては生かしてやっても良い」


 俺の言葉を耳にするや、ますます笑みを深めるルサリエナ。さしずめ中川恒元の目論見を悟ったのだろう。


「ムッシュ・ムラサメと違ってムッシュ・ナカガワは私たちを殺したいとは思っていない。横浜を離れ、彼の目の届く範囲内に移って従順に振る舞えば日本での活動を認めてくださる……違いますか?」


「その通りだな。村雨組と対等以上に渡り合うおたくらの武勇には、恒元公も惚れ惚れとされておられるということだ」


「ふむ。高く買ってくださっているのは嬉しいことですが。生憎、私たちにその気はありません」


 ルサリエナは紅茶を口に含んで首を横に振った。


「今や、フランス本国ですら私たちに遠慮するようになったというのに。どうして日本人ごときに従う必要があるのですか」


 彼女の表情から笑みが消えている。黒のロングスカートに純白のブラウスという質素な出で立ちだが、顔つきはまさしく長年に渡り裏社会を生き抜いてきた猛者――おそらくこのルサリエナ自身が相当な戦闘力を持っているのだろう。


 だが、俺は反射的に吐き捨てる。


「おいおい、自分たちがいっぱしの集団だと思い上がってるようだが、あんたら程度の連中なんて中川会……いや、俺の前ではカスだ。その気になればいつでも皆殺しにできる」


「どういう意味です?」


「そのままさ。俺が本気を出せば、あんた方の組織なんざ1時間も要さずに壊滅させられるってことだ」


 刹那、ルサリエナの目つきが変わった。


「言わせておけば随分と大口を叩きますね」


 背後の闘気の増幅を肌で感じた。次の瞬間、閃光のごとき刃が凄まじい速さで飛んでくる。


 ――シュッ。


 ルサリエナの部下が2本のナイフを投げつけてきたのだ。気配で悟った俺は、即座に振り向いて水平方向へ手刀を切り、衝撃波を発生させて短剣を叩き落とす。


「素手ダト!?」


「馬鹿ナッ!?」


 驚愕のあまり硬直する男たちに対し、俺は一瞬で距離を詰める。そうして彼らの喉元に貫手を刺し、次々と息の根を止めていった。


「グアアアッ!」


「ウグォォッ!」


 あっけなく惨殺されてゆく部下。そんな光景を前に、ルサリエナは手を打ち鳴らした。


「噂は本当でしたか。『中川会には麻木涼平という素手で人を殺す化け物がいる』と……まあ、楽しませて貰いましょう」


 このような場面を前にしてもまったく動じないルサリエナ。彼女が指を鳴らすや、さらに2人の男が現れて俺を睨む。


「サングラント・ファミールという組織名の由来をご存じですか。『血まみれの家族』という意味です」


 俺は笑って構えを取る。


「つまり、敵を血だるまにすることには慣れてるってわけか。良いぜ。かかってきな」


 乱戦劇の幕が開いた。男たちに交じって女までもが襲ってくる様子は、何ともヨーロッパのマフィアらしい光景だった。


 村雨組が手を焼いていただけあって、彼らもそれなりの力を持っていたことは認めざるを得ない。確かにタイや中国といった東南アジア系のマフィアよりは数段強いだろう……だが、所詮はあの村雨耀介や眞行路高虎といった豪傑の足元にも及ばないのだ。


 無論、俺の敵でもない。


 手刀を振り下ろし、貫手を刺すたび、鮮血が飛び散る。俺は1分と経たず、全員を返り討ちにした。


「意外と手ごたえがぇな」


 サングラント・ファミールが村雨組相手に善戦していたのは、きっと村雨耀介が自ら出陣しなかったからだ。このレベルの連中など、束になってかかってこようと俺相手にはものの数ではない。


「さて、お次はあんただ」


 俺はルサリエナに向き合うと、彼女は「なるほど、ムッシュ・ムラサメが一目置くのも頷けますね」と言って笑った。


「しかし、私は他国のマフィアのように優しくはありません。命が惜しければ金輪際こんりんざい私たちのシマには近付かないことです」


 そしてルサリエナは指をパチンッと鳴らす。直後、俺は廊下からおびただしい数の闘気を感じた。


「まだ兵隊が居たとはな」


「当然です。ここであなたをなぶごろしにし、首と胴体をそれぞれムッシュ・ナカガワとムッシュ・ムラサメの元へ贈ることこそが何よりの意思表明になるのですから。我々が日本人と手を携えることは無い。以上」


「そうかい。ならば俺としても丁度良い」


「何が?


「見せしめにはうってつけじゃねぇか。恒元公に逆らった奴がどんな目に遭うか、全身に刻み込んでやるよ」


 俺は気を昂らせた。血まみれの家族を血まみれの男が制す――最強伝説を打ち立てるための踏み台になって貰おう。


「行くぜぇぇぇーッ!」


 俺が叫んだ途端、部屋の扉が蹴破られる。金属バット、サーベル、銃といった得物で武装した男たちが乱入し、一斉に殺意を向けてきた。


「Ne sous-estime pas les Japonais !(侮るなよ、日本人)」


「Je vais le couper en rondelles!(輪切りにしてやる)」


「Tuez-les tout de suite !(すぐに叩き殺してしまえ)」


 興奮状態の男らがそう叫んだ直後、俺は手近に居た男の首を手刀で刎ねた。


idiotなッ……


 男が驚きの声を上げる間もなく、その隣にいた男の心臓を貫手でく。さらに背後から斬りかかってきた2人を振り向きざまの拳でそれぞれ殴り、頭蓋骨を粉砕した。


「Quelle force... mais ! (何という強さだ……しかし!)」


「Entourez-le ! C'est impossible seul !(か、囲め! 1人では無理だ!)」


「Oooooooh!(うおおおおっ!)」


 男たちが一斉に襲い掛かるが俺は構わず前進し、1人、また1人と敵の命を刈り獲ってゆく。


「Dieux ! Vous n'avez pas besoin d'un assassinat! Je tue quelques mecs qui ne le suivent pas……mais de quelque chose d'autre!(何てことだっ! こんな奴と戦うなんて無茶苦茶だ! 早くあの男を止めるんだ!)」


 全力で応戦するサングラント・ファミールの構成員たちだが、鞍馬菊水流の奥義を極めた俺の敵ではない。


 そもそも突進の速さが違うのだ。剣を握る敵を前にすれば、刃が振り下ろされるより先に間合いを詰めて急所を潰す。銃を携えた敵が近づけば、引き金にかけた指を引くより先に肉薄して首を斬り落とす。


 音速を超えた体の動きで衝撃波を発生させて武器同然に操る武術など、ヨーロッパ人どもは今までに見たことも無かっただろう。


「Ce monstre !(この、化け物め……)」


 超音速で繰り出される貫手や手刀の連撃を浴びた男たちは、断末魔を上げて恐怖で顔を歪ませながら倒れゆく。


 俺は次々と敵を屠り、やがて残るはルサリエナのみとなった。


「くっ……まさか、これほどとは……」


「どうした? さっきまでの余裕はどこへ消えた?」


「まだ終わりではありません!」


 すると、ルサリエナは懐からナイフを取り出して俺に斬りかかってきた。裏社会の頭目を名乗るに相応しい、素晴らしいナイフ術だ。斬撃の後で間髪入れずに刺突の雨霰あめあられが繰り出されたものだから、なかなかに面白い。


 しかし。


かわせる」


 全てを見切った俺は、彼女のナイフを弾き飛ばし、その隙に腹へ蹴りを喰らわせた。そうして壁まで吹っ飛んだルサリエナは鈍痛によろめきながら俺を睨み、言葉を発した。


「Fort... trop fort... c'est comme un ange...(強い……強すぎる……これではまるで天使……)」


 そう言い終えるやルサリエナは倒れ込み、口から大量の血を吐いて事切れた。『血まみれの家族』の頭目が血まみれで殺されるとはお笑い草だ。


 しかしながら、俺の強さを「ange(天使)」と評した彼女の言葉は興味深い。近頃は両手を真っ赤に染める己を自ら天使にたとえていたこともあってか、自然と脳裏に食い込んでくる。


 天使――万物の王を気取る中川恒元を天帝だとすれば、確かに俺は天帝の意のまま人を殺してまわる天使であろう。


 此度、俺は『血まみれの家族』ことサングラント・ファミール日本支部をたった一人で壊滅させた。


 ならば、その名を継いでも差し支えないはずだ。廊下の隅で物陰に隠れ、わなわなと全身を震わせながら俺を見ていた少女に聞こえるよう、わざとらしく笑いながら言った。


「血まみれの天使、麻木涼平……なかなか良い響きじゃねぇか! ぎゃははははっ!」


 すると少女は悲鳴を上げながら逃げて行った。見たところ日本人のような顔立ちをしていたから、おそらくはこの組織の構成員の混血の娘だろうな。俺としては追いかけて殺しても良かったが、むしろそいつが『血まみれの天使』のことを触れ回れば、麻木涼平という男の恐ろしさに誰もが震え上がると見込んで逃がしておく。


 さて、仕事を達成した暁に記念の品を持ち帰るとしよう。


 俺は惨殺体と化したルサリエナへ近づき、短刀で首を斬り落とした。ついでに近くにあったテーブルクロスを風呂敷代わりに生首をくるむ。そいつを持って行った先は云うまでも無く、村雨組だ。庭には組員たちが集まっていた。


「うおっ、こいつは……」


「尾上町のフレンチマフィアの女じゃねぇか……」


 獲ったばかりのルサリエナの生首を見せると、彼らは一様に驚愕していた。苦戦していた敵の頭目を一瞬で倒したのだから、当然の反応といえる。


「うげっ、うげぇぇぇぇぇぇっ!」


 中には戦慄のあまり嘔吐を催している者も居た。まったく、彼とて曲がりなりにも稼業の男だというのに。情けないことこの上ない。


「これくらいでビビってどうするんだよ」


 俺はルサリエナの首を手に取ると、サッカーボールのごとく頭上へ放り投げた。


 すると、生首は思ったよりも高く宙を跳んだ。その肉で出来たまりが落ちてくると、俺は爪先つまさきで蹴って赤煉瓦の外壁へと叩きつけた。グシャッという快音と共に跳ね返り、ゴロゴロと転がって俺の足元まで戻ってきた。


「うぐっ……」


 また何人かが吐いた。俺は思わず鼻で笑う。


「何だよ、今さら。ヤクザのくせに」


 そう言って生首をゴミ箱に投げ入れようかと思ったが――ふと手が停まった。よく見れば、ルサリエナはなかなか美しい顔立ちをしているではないか。


 俺はニヤリと笑うと、彼女の唇を舐めてみることにした。


「うっ! おえっ!」


 周りからは嗚咽の声が漏れた。だが俺は気にせず舌で弄ぶ。そうして唾液をまみれさせると、そいつを地面に放った。そして今度こそゴミ箱へと蹴り飛ばす。


「うげぇっ!? めっちゃ臭い!」


「うわっ! 何だこれ!」


「ありえねぇわ!」


 他の連中も同じような反応をしたので俺は少し面白くなった。さらに足で生首を弄ぶと、そいつを再び壁に投げつけた。何度も繰り返すうちに、段々と楽しくなってきた。


 まるで玩具おもちゃあそびに興じる子どものようだっだ。


「うわぁ……」


「マジかよ……」


 組員たちは唖然としているが構わない。俺は暫く遊んだ後、飽きてきたので庭の隅にあったゴミ箱へと蹴り入れた。


「まあ、これでサングラント・ファミール日本支部は壊滅だ。おたくらが尾上町へみかじめを獲りに行っても襲われることはぇだろうよ」


 凍らせた空気を温めるかのごとく颯爽と振り向き、穏やかな声色で言ってやった俺。すると、その場に居た全員が安堵の言葉を漏らした。


「た、助かった」


 猛将たる幹部どもが揃って関西へ出陣しているからといって、天下無敵の村雨組がお膝元さえまともに仕切れずに何とするのだ。つい先日に村雨耀介が組内の不穏分子を一掃したという情報は得ていたが、その件とは違った意味で先が思いやられる。


 尤も、組が傾いたらその時はその時で中川会へ引き入れる好機だ――無論のこと本音は口に出さず、俺は横浜の屋敷を後にした。


 なお、返り血によりスーツが汚れたので、俺は部下を呼び、替えの上下とシャツを運ばせた。彼らはこの後の九州遠征について「おともしますぜ」と息巻いていたが、なるだけ赤坂の戦力を多く残しておきたかったので皆には洗濯を申し付けた上で宮殿へ帰らせた。


 そもそも、油断ならない関係の相手の縄張りに部下を連れて踏み入ったのでは先方が身構える。ゆえに俺は横浜へ一人で訪れたのだ。


 さあ、九州へ赴く前に、腹ごしらえといこう。


 俺は適当に見つけた洋食屋に入るとカウンター席に座ってメニュー表を眺める。


「いらっしゃいませ」


 女将の淑やかな声が店内に響き渡った。オムライスやらビーフカレーやらスパゲティやらと多彩な料理が名を連ねているが、好みの品が無い。


 ポークパスタは何処いずこ……?


 まあ、考えてみれば当然だ。何せあれはそもそもイタリアンで、赤坂三丁目の『Café Noble』にてのみ提供されるオリジナルメニューなのだから。


「……チキンソテーを頼む」


「かしこまりました」


 しばし待った後、女将が注文の品を持ってきた。骨つきもも肉をソテーした一品だ。


「こいつはなかなか良いな」


 料理を口に運んだ俺は舌鼓を打つ。


 鶏肉は外がカリッと中が柔らかく、肉汁をたっぷり閉じ込めた皮と脂身の旨味がたまらない。さらに添えられた千切りキャベツやニンジン、玉ねぎと一緒に食べればその味わいはさらに引き立てられる。


 まさに絶品だ。


 よもや横浜にこんなに美味い店があるとは記憶の片隅にも無かった。思えばこの街に住んでいた頃は15、16くらいのよわいで、良い料理を嗜む趣味などは持ち合わせていなかった。


「ごちそうさま。美味かったぜ」


「はーい、ありがとうございます」


 俺も組織で幹部にのぼったわけだし、恒元のように美食家を称して料理の探究をしてみるのも楽しいかもしれない。勘定を済ませて外へ出た俺は、胸を躍らせて歩き始めた。


「さて、次は……」


 暫し、記憶を頼りに当時と変わった街を見物しながら散歩するとしよう。そう思っていた矢先だ。


「きゃっ」


 短い悲鳴と共に前方から歩いてきた女がぶつかってきた。見た目からして近くのオフィス街で働くOLだと思われるその女は腰を摩りながら俺に視線を向けると、直後「ひぃっ!」という叫びをあげた。


「……何だ?」


 俺は女を睨みつける。確かにさっきの洋食屋でチキンソテーを食べて血が燃えているのかもしれないが、情欲に暴走する獣のごとき風格は漂っていないはず。


 あからさまに怖がられる謂れは無いぞ。


 いや、よくよく考えてみれば通行人の女に嫌われるのは無理もなかった。何せ俺自身の顔つきと、黒をメインカラーとする背広には、云うまでもなく裏社会の人間の貫禄が滲み出ている。


 そしてこの街、横浜は村雨組が仕切る地域。


「すっ、すみませんでしたぁぁぁぁぁぁ!」


 俺を村雨組若衆の端くれとでも勘違いしたのか。女性は後ずさるように逃げて行った。


「……」


 ため息を吐いた後、煙草に火を付ける。しかし、まあ、こんなにも自分が恐ろしく見えるとは思わなかった。


 一体、どの頃から俺は通行人に恐れを抱かれる男に変わり果てたのだ。いや、今日ばかりは多少卑屈な思想も混ざっているが……気を取り直して横浜の夜を満喫しよう。


 横浜は全てが洒落た街だ。


 中でも、表と裏境界線であるセンターストリートに暮らす者は大概が成功者だ。出世を果たした銀行員やら外資系のビジネスマンやらの気取った人種は、この街を歩くだけでも映える。


「いらっしゃーい! 遊んで行きませんかー?」


「今ならお安いですよぉ!」


 キャッチの女たちは道行く背広の男に声をかけるが、彼らの反応は空しいものだった。


「いや、興味ありませんね」


 通行人の男が一言そう述べれば女どもは頰を紅潮させて怒りを露わにする。どうやら自身が誘われなかったことに憤慨しているわけではなく、彼女は「あなたは魅力が無い人間である」と暗に言われたと思い込んでいるようだ。


 哀れなことだ。相手にされないのは女だけに限った惨劇にあらずというのに。


 そして男たちは敬遠するようにして通り過ぎ、ある者は無視し、またある者は聞こえなかったふりをして街から去って行く。女にとっては由々しきことであろうが、お堅い職の男どもには彼らなりの処世術があるだろうから仕方が無い。


「すいませーん」


 女の1人が通行人に再び声をかける。今度もまた男は拒み、足早に去って行った。女は愕然とした表情で立ち尽くしている。


 そんな情景を視界に映しながら歩いていると、酔った男たちの会話が聞こえてきた。


「横浜の夜景ってのは綺麗だねぇ」


「ああ、世界に誇れる景色だと思う」


「それでさ、桜木町の駅前に新しいキャバクラが開店したんだって。これから皆で飲みに行かねぇか?」


「良いねぇ」


 どうやら彼らはこれから夜の街へ繰り出すらしい。俺はそんな彼らの会話に耳を傾けつつ横浜の繁華街を歩き続けた。


「今にして思えば10代の頃ってのは人生でいちばんまともな時期かもしれないな」


「どうしたんだよ、藪から棒に」


「いや、あんなに純情だった少年が今やキャバ嬢の尻を追っかけまわしてるんだからさあ……性格って変わってくるなあと思ってな」


「まあ、学生の頃はピュアでも社会に出たら変わるってことだ。あまり考えすぎても良いことは無いぞ」


 売れないバンドマンと思しき風貌の彼らは懐古に耽っていた。酒の勢いもあってか愚痴に花が咲いている模様。


「愛ってのは何なんだろうね」


「マジでどうした、お前」


「どうすれば人の心をグッと掴める詞が書けるようになるんだろうなあ」


「そういや、この前読んだ本がさ……」


「本?」


「ああ、コンビニで買った『エンジェルモード』っていうバンド専門誌なんだが。詞の表現について結構奥深く書かれててさぁ」


 通行人の群れの中に紛れた俺は、そんな彼らの会話に聞き耳を立てていた。


「エンジェル……天使か」


 俺はそう呟いた。


 サングラント・ファミールのボスだったルサリエナは、俺のことを『天使』と呼んだ。日本で一般的に広まっている可愛らしい印象とは異なり、西洋における『天使』は創造者への奉仕に身を捧げ、時に残虐な殺戮も厭わない存在として恐れられている。


 ふと頭に浮かんだのが東欧の教会で語られていたレムルギウスだ。怪鳥を彷彿とさせる真っ黒な翼を備えた破壊の天使で、数々の恐ろしい逸話を持つ。


 例えば、少女アリアナの伝説。優れた御業と輝く美貌を以て多くの民衆を堕落に導かんとした少女アリアナに嫉妬した創造者の意向で、地上へ遣わされたレムルギウスは、アリアナの恋人である青年を誘惑して堕落させた。


 そうしてアリアナを焼き殺し、さらには毒の雨を降らせ、彼女に心を奪われた幾千もの民を殺したという。


 泣き叫び、助けを乞う民衆たちにレムルギウスは「私は創造者の御心のままに行動したまで」と言ってのけたという。この話から分かるように、天使とは人智を超えた破壊の権化たる存在だ。そんな天使と同一視された俺だが、どういうわけか嫌な気はしない。


 万物の王に仕える殺し屋である以上、レムルギウスと同じ道を辿るのは必然の至り。むしろ傭兵時代に観た教会の絵に描かれていた美しい姿の天使に喩えられたことで、どこか誇らしさのような情念も生まれていた。


 おかしいな。今まで、俺は己の所業を誇らしく思ったことなど一度も無かったというのに。


 あれ、そういえば……!


 ふと思い至ってジャケットの内側をまさぐった俺は、息を呑んだ――そういえばそうだ。


 普段からジャケットの内側にはショルダー・ホルスターを着けている。両肩から背中にかけて革製のベルトが回されており、胸の位置に固定された左のホルダーにはグロック17が、右のホルダーには短刀がそれぞれ収められ、手榴弾や煙幕弾といった投擲武器、予備の弾倉なども嵌め込める形になっている。


 ところが俺は今回の戦闘で武器を使わなかった。今回に限らず、最近は無意識のうちに素手で事を為してしまっている。かつては鞍馬菊水流伝承者の最終到達点たる『天狗』に決してなるまいと、敢えて得物を手に戦っていたというのに。  


「血まみれの天使……か」


 刹那的な回想の中、そんな独り言が口から出ていた。


 どういうわけか俺の心は不思議なほど弾んでいた。それまで灰色の景色しか無かったはずの道が、色鮮やかに見えるのは気のせいだろうか。


 飲み屋と娼館が交互に建ち並ぶ艶めかしい街で、優越感じみた悦楽が俺の思考を支配する。


 酒の勢いに任せて柄にも無いことを大声で喚き散らす男ども、仕立て屋のショーウィンドウでをうっとりとした眼差しで覗き込む女どもを尻目に、俺は歩を進めた。やがて街はずれの雑居ビルのバーの扉を開ける。


「バーボンをロックで頼む」


 慣れた仕草でカウンターに腰かけるや、注文を口走る。常連客でもないというのに。


 だが、そんなことは気にもしていなかった。それどころか、こぼれ出た笑みで顔がひしゃげる。


「……ふふっ」


 マスターがグラスにバーボンを注ぐと、俺はそれを一気に飲み干した。


「良い飲みっぷりだねぇ。何か嬉しいことでもあったんです?」


「まあな」


 やがて俺は両手で腹を抱えて笑った。いつになく酒のまわりが早い――おかしいな、まだ一杯目だというのに。


 気付けば脳内に声が響き始めた。それは俺の声だったが、まるで他人が発しているかのようにはっきりとしていた。


『格好つけやがって……哀れな殺し屋め』


 謎の声の発生源は分からない。何かを嘲弄するかのような歪んだ笑みだけが俺の思考に刻み込まれてゆく。


 一体、何を言っているんだ? いや、今の俺に対するツッコミだろう。けれどそんな歪んだ感情をわざわざ頭の中で反芻させるなど断じてしないし、そもそも俺はそんな笑い方をした覚えはないぞ。


『お前は俺で、俺はお前だ。お前がいくら否定したって結局は血にまみれた破壊の天使……レムルギウスと同じなんだよ、お前は』


 その声が響いた途端、俺は爆笑する。


「ギャハハッ! まさにその通りだ! 良いじゃねぇか、血まみれの天使で……大人憎しの一心で苛立ち任せに暴れ回ってた奴が、今では世のため人のために暴れてるんだからな!」


 独り言を叫んだ。唖然とした周囲の視線が刺さることも気にせずに。


「あ、あんた……」


 ふと聞こえた声に、俺はぴたりと笑うのを止めた。マスターが口をあんぐりと開けている。


 何だか一気に酔いが醒めたような心地だ。恐ろしく気まずい。


「マスター、勘定だ。釣りは要らねぇ」


 色々な意味で、あまり長居しない方が良さそうだ。今まで楽しく飲んでいた連中を怖がらせるのは無粋というもの。


 とはいえ、あの声は何だ?


 どうしていきなり幻聴が響いたのだ?


 思えば視界も何だか変だった。空間が安定しない、右に左に揺らめく真っ赤な世界へ飛ばされたような心地だった。


 かつて何かの文献で読んだことがある。アルコールに薬が反応して精神が昂り、幻覚や幻聴を誘発すると。


 尤も、俺は麻薬クスリをやっていない。ましてや一杯ほど飲んだ程度で酔っ払うような体質でもない。


 きっと興奮が思考をオーバーヒートさせたのだ。破壊の天使にたとえられたことがそんなに嬉しかったかと自嘲がこみ上げてくる。


 ともあれ、夜風に当たろう。俺はカウンターに金を置いて席を立ち、店を出た。


「えっ、ああ……お、お気をつけて」


 マスターの声を背中に受けた俺は、夜の街へと繰り出した……。

涼平は己を破壊の天使『レムルギウス』に喩えた。その背中は血に染まっている……。 次回、涼平の狂気が爆発する!

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