散りゆけども
磯の鮑の片思いと云う故事成語は誰の頭にも刻まれているであろうが、これは人と人と情愛だけに限った逸話ではない。ましてや裏社会における親分と子分の間の絆は思いのほか脆く、崩れやすい場合の方が多い。
されども年若き女総長の率いる七代目鵜川一家は違った。血の気の多い松山の男たちが自分たちより歳が一回りも二回りも下の少女を親として慕うのは、単に血筋を尊びてのことだと俺は思っていたが――何とも違うようだ。
どうやら彼らは姫香に心の底から愛慕の念を注いでいる模様。
白昼堂々恒元の屋敷を包囲した伊予琥珀一家総勢208騎からは誰一人として躊躇の念が感じられない。命に代えても親分を守らんとする忠誠心と当人への際限なき愛が、ひしひしと伝わってくる。
鼻息を荒くして騒ぎ立てる男の物言いは単純明快であった。
「おいコラ! 手前らのお仲間、森田道也の首を獲りに来た!極道なら極道らしく出てきやがれっ!」
「我らが七代目鵜川藤十郎を仲間外れに四国を切り分けようったってそうはいかねぇぞ!」
「四国のこたぁ四国で決める! そいつが物の道理ってもんだろう!」
「うちの親分を蔑ろにするたぁ見過ごせねぇ! 余人の分際で出しゃばりすぎなんだよ、お前らはっ!」
要するに彼らはこう云いたいのであろう。今回の一条会討伐戦において最も武功を立てたのは伊予琥珀一家であるから、その功績に報いた褒美を寄越せ……と。
自分たちの親分が恒元に軽んじられている怒りもあるであろうが、彼らにとってはそれが全てではなく、むしろここへ来ての本陣の包囲は「そんなこともあろうかと」というプランB的な手段のようにも見えた。
「……」
俺は煙草に火を付けると、屋敷の窓から外を見た。
つくづく愚かな連中だ。そんなことをしたって恒元が首を縦に振るわけがなく、却って伊予琥珀一家を武力制圧する大義名分を与えてしまうというものを。
まあ、現時点での分は彼らにあるようだ。それは直に陽が落ちるというのに灯りが点いていない室内を見渡せば自ずと分かる。
「おいっ、食糧と水の備蓄はどうなっている!?」
「全員でたらふく飲み食いしても3日分はどうにかなりそうだが、それより問題は電気だな」
「ああ、発電機もあることにはあるが長くは使えんぞ。まったく手の込んだ真似をしてくれたもんだぜ」
照明が落ちた屋敷の中を慌ただしく駆け回る助勤たちを見て、俺はため息と同時に呟くのであった。
「……もう3時間か」
軍議が開催されていた中川会総本陣を包囲した大林たちは、屋敷へと繋がる送電ケーブルと水道管を破壊した。これにより、執事局次長助勤と才原党の忍びたち、それから理事たちが連れて来ていた護衛の組員を併せても百騎にも満たぬ恒元方は所謂『兵糧攻め』の状態に陥った。
おまけに敵方は屋敷の電話回線を切断し、周囲に通信をジャミングする電波を散布したことによって、俺たちの持つ無線の使用もほぼ不可能となった。
「くそっ! これじゃあ埒が明かねぇ!」
「奴らはバズーカ砲を持ってる挙句、体に爆弾まで巻きつけてんだ。これじゃあ迂闊に銃を構えることもままならん」
敵方が端から死ぬ気で来ていることが今回の状況をより一層複雑にしていた。
歯噛みする理事たちとは対照的に、我らが総帥――中川恒元は冷静そのものであった。
「攻城戦の基本も心得ているとは。ただの田舎ヤクザではないようだな」
流石は元フランス軍人、動揺している様子は微塵も感じられぬあたり過去の知識が活きているというわけか。
傍に歩み寄った俺は小さく頷いた。
「ええ。敵ながらにあっぱれとはまさにこのことですね」
「しかし、困ったものだな。これでは増援を呼ぶことも叶わん」
「局長んとこの忍びたちに行かせようにも、連中が周期的に鳴らしてる爆竹が邪魔で気配を消せませんからね……」
惜しいものだ。ここから1キロほど離れた地点には各組の陣があり、そこには大勢の兵が待機しているというのに。
ただ、恒元は別の視点から首を傾げていた。
「……それよりも気になることがある」
恒元は窓越しに大林たちを睨んだ。
「何故に奴らは爆雷戦術を存じているのだ?」
そう、それは俺も気になっていたことでもあった。爆竹を一定の間隔でパン、パンと鳴らして空気を振動させることで空気に溶け込む隠密行動を無効化する戦国時代発祥の忍術を田舎の中規模勢力に過ぎない大林たちが端から把握していたとは考えづらいのである。
「奴らが猪突猛進なだけのアホどもだったらまだしも……あのように忍びの秘伝書にしか記されていないような戦い方をするなど不自然ではないか」
「ええ、もしかすると敵勢にも忍びの者が味方しているのかもしれませんね」
「よもや奴が寝返ったか」
恒元の眉間に皺が寄る。慌てて「いえいえ、現代に伝承が続く忍びの流派は朽葉流才原式だけではありません」と言葉を差し込むと、ちょうど才原がやって来た。
「総帥」
偶然にも近くを通りかかったか、それとも忍術の稽古で鍛え上げられた耳の良さで会話を聞き及んだか。何にせよ俺は苦笑する他なかった。
「いかがされましたか」
「別に呼んだつもりはないぞ」
「左様でございましたか」
コクンと頭を下げると才原は大広間から去って行った。
その背中を見送った恒元が、決して小さくはない声で「まったく。宅配業者に扮しておったとはいえ奴らの接近に気付かぬとは忍びもアテにならんな」と呟く様子を俺は終始そわそわとした様子で聞いていたのであった。
「涼平」
「はい」
「才原たち忍びの稽古はどれほどのものかな」
「よく分かりませんが、山奥の隠れ里で一族ぐるみでやってるみたいです。男も女も生まれながらに忍びの術を教え込まれて育てられるそうで、中でも局長は戦国時代の猿飛佐助に引けを取らない秀才だとか」
「ふむ、そうか。まあ、旧幕時代に徳川の忍び狩りから守ってやった我が先祖の恩を忘れておらぬことを祈るばかりよ……」
鼻を鳴らした恒元は少しの間を入れた後、やがて俺に向かってこう申し付けた。
「……涼平。この状況にも飽きてきたことだし、そろそろケリをつけようと思う。奴らを追い払うのだ」
意外なリクエストに目を丸くしていると恒元は「分かっていると思うが」と補足する。
「我輩は賊の交渉に応じる気は無いぞ。あくまでも追い払ってやるだけだ」
「はっ、承知いたしました。それでは奴らには一銭の金も一握りの土地もくれてやるなということですね」
「無論だ」
この男にしては随分と珍しいことを言うものだと思っていたら、葉巻を掴む指に力が込められている様子が見えた。つまり、敵方の皆殺しという結論ありきの交渉をせよというわけだ。
「たとえ何人であろうと、我輩は手向かいする賊党を生かしてはおかぬ」
室町時代の御所巻きに倣い、大林は伊予琥珀一家が四国を支配する権利を中川会に承認させようという目論見だ。室町将軍家が守護大名の無理難題を呑んだことで権威が低下していったように、今回の示威行動に屈しては博徒の王たる中川恒元の名が一気に折れる。
それゆえ恒元は是が非でも連中の思い通りにはさせたくないのであろう。
しかし、状況が状況だ。迂闊に突っぱねて大爆発を引き起こすわけにもいかないので、俺は思案しながら現場へと向かった。
そして群がる敵勢にアサルトアイフルを構える部下たちを宥め、穏やかに笑みをたたえて声を発したのであった。
「よう、ここらで休息といかねぇか? あんたらも立ちっぱなしは疲れるだろ?」
視線を向けた先は大林――ギョッとして「次長!」と驚く酒井たちを「総帥のご意思だ」と今一度宥めると、俺は言葉を続ける。
「あんたらの狙いは分かってる! 四国の土地を寄越せってんだろ! 無理な相談じゃないぜ!」
そう言って「とりあえず爆竹を止めてくれや! うるさくて話も出来ねぇぜ!」と一時的な静粛を欲すると、大林は怪訝な眼差しで首を横に振った。
「わざわざ出迎えてくれたかと思えば今さら話に応じるなんざ……悪いがその手には乗らねぇぜ!」
「おいおい、交渉が目的なんじゃねぇのか?」
「交渉ってのは互いに対等な条件で成るもんだ! 俺たちに爆竹を止めさせて、その隙に忍びを使おうってんだろ!」
殊勝なことを言うではないか。道理で数の上で勝っているはずの大林たちが屋敷への強行突入を図らないわけだ。
「ふっ……確かに屋敷へ突入に成功したところで、返り討ちに遭うのがオチだからな」
アサシンとして最強の域に達し、冷酷無比な戦い方を平然とやってのける中川会本家執事局の名は既に四国中に広まっているらしいと見た。
「怒りでトチ狂ってると思いきや、賢い選択をするくらいの理性は残ってるみてぇだな」
尤も、相も変わらずパン、パンとけたたましく響く爆音の中では、独り言も同然のトーンで放った返答など易く掻き消されてしまう。
俺は大林に冷静な話し合いをするために場所を変えたいとジェスチャーで提案した。すると彼は程なくして了承の仕草をとった。
「あ、兄貴っ!?」
「問題ねぇよ」
心配そうな目をする原田の肩を優しく叩き、俺は門を飛び越えて大林へ近づく。彼は部下たちに道を開けさせると、自ら先に小径へと出た。
「ついて来な」
大林は顎で俺を招くと、門から砂浜までの道程を先導した。
「さて……ここならゆっくり話も出来るだろ」
大林が足を止める。そこは屋敷から少し離れており、鳴り続ける爆竹の轟音を波の音が中和してくれる絶好の場所であった。
「ああ、そうだな」
俺が相槌を打つと、彼は「じゃあ早速本題に入らせてもらおう」と切り出した。
「俺たちは文句を言いに来たんだ。おたくの親分はあまりにも伊予琥珀一家を馬鹿にしてるみてぇなんでな」
「ふっ……」
俺は敢えて薄ら笑いを貫いた。
「はっきりと言わせてもらうが、おたくらがあくまでも俺たちを除け者にするってんなら屋敷ごと吹き飛ばすまでだ。関東じゃどうだか分からんが、面子のためには命も惜しまねぇのが四国博徒のやり方なんでな」
「……ほう? 俺たちがあんたらを侮ってると?」
大林は鼻息を荒くする。
「侮ってるとしか言えねぇだろ。うちの七代目に四国攻めの仕切りを任せといて、結局は自前の兵隊に出張らせて美味いとこだけかっさらおうってんだからな」
「そいつは失礼したな。なら、森田の首を渡せば満足か」
「そうだ。俺たちは端から……って、え? 今、何て!?」
「森田道也の首をくれてやりゃ、あんたらの面子も立つってんだろ。さっき屋敷の前で啖呵を切ったあんたらが恒元公じゃなくて森田のガキの名を口にしたのが引っかかってたんだ」
大林が口をあんぐりと開ける。俺は懐から煙草を取り出し、火をつけた。
「七代目鵜川藤十郎の差し金とは思えんが、いずれにせよ愚かなやり方だ。たかが敵討ちのために全てを捨てるなんざ正気とは思えねぇな」
「……正気なら男の稼業で飯は食えんさ。七代目が破滅と引き換えの栄誉を欲するなら、俺たち子分はそいつに付き合うまで」
「馬鹿なことしやがって。『森田道也を討つため』だの何だのと大義名分を引っ提げても通じねぇことくらい分かるだろ」
「人様の親分を馬鹿呼ばわりとは聞き捨てならんな。まあ、本音をぶっちゃけりゃ俺も概ね同感だが」
すると、その直後。
「迷惑をかけたな。大林」
聞き覚えのある声が浜風の中で響いた。長い黒髪とスカートをたなびかせるその女こそ、七代目鵜川藤十郎こと鵜川姫香であった。
「姫香……」
息を呑み、低い声を発して視線を送る俺を尻目に彼女は大林に微笑みかけた。
「私の意地のために子分の命を無駄に散らすのは不徳の極み。詫びの言葉も無い」
「へっ、今さら止してください七代目。こちとら先代からあんたを託されたその日から腹は決まってんでさぁ」
「生まれながらに極道として育てられ、その精神世界を抜け出せぬ哀れな小娘をよくぞ今日まで支えてくれたものだ」
「まあ、俺たちも似たようなもんですからね」
ため息をついた後、俺は二人に尋ねた。
「……その様子じゃ端から散り花を咲かす気だったようだな。うちの総帥に軽んじられたのが、そうまで腹に据えかねたか?」
そんな俺に姫香と大林は、ほぼ同時に頷いて返答を寄越すのであった。
「ああ。『侮られたら刺し違えても相手を殺せ』というのが、先代の教えだったからな」
「俺たちも俺たちで、七代目を舐めきったおたくの親分の態度に我慢ならなかったんだ。ずっとな」
なおもため息がこぼれ出る俺。
姫香も大林も最早領土や金などは欲してはいない。極道として、ただ純粋に、自分たちを侮った男に一泡吹かせようと闘気を燃やしているのである。
姫香は『女だから』と嘲弄されたことへの怒りが。大林や他の連中はそんな親分を慕う忠誠心が。
両者共に強い意志となって、その身を突き動かしているのであろう。
そんな彼女たちには打算的な思惑など微塵も無い。『中川恒元に己の無理を武力で呑ませた』という爪痕を残すためだけに奮起していると俺は見た。
当然、尋ねずにはいられなかった。
「森田道也を討ったら、その後はどうするつもりだ?」
姫香はすぐに返してくる。
「お前に教える必要は無い」
その言葉を聞いた瞬間に悟った――彼女と伊予琥珀一家は最終的には恒元を道連れに自爆するつもりであると。
気概は十分に理解できる。
されども俺は中川会の幹部だ! ゆえにここでは為すべきを為さねばならない!
気付いた時には銃を構えていた。
「悪いが、行かせるわけにはいかねぇな」
だが、その一方で俺の表情には躊躇の色が浮かんでいた。理由は何となく分かる。
きっと心のどこかで、目の前の賊党のことを羨ましいと感じていたのであろう。稼業に生きる者として己の道を貫こうとする姫香とその子分たちの姿は、今まさに闇に染まりつつある自分の生き様とはあまりにも正反対だったから。
暗殺を仕事とする俺にとっては致命的な隙であると言わざるを得ない。当然、それを見抜かぬ姫香ではなかった。
「温い男だな」
次の瞬間、彼女は刀を抜いた。牽制のための発砲が遅れた俺は、辛うじて後方へ飛び退いて躱すことで精一杯だった。
刃が空を舞う音と射撃の音が同時に響く。自然に生じた間合いを挟みながら俺と姫香は睨み合った。
「……」
ところが、その瞬間。
――ドンッ!!
丘の上から爆発音が轟いた。すると程なくして男たちが激しく啖呵を切り合う声が聞こえてきた。
「この野郎、謀ったな!」
「恒元公に敵対する者あらば滅ぼすまで!」
「くそったれが!」
およそ1キロは離れているというのに明瞭に聞こえてくる音声。俺も姫香も自ずと走り出していた。
「ふっ、考えたな涼平……」
「何のことだ!?」
「だが、易々と倒される我らではないぞっ」
その瞬間、姫香は俺に刃を浴びせてきた。即座に短刀を抜いて応戦する。
――キィィン!!
火花が激しく舞い散る中、斬撃の応酬を繰り広げる俺たち。やがて屋敷の方まで戻ってくると、そこには思わぬ光景が広がっていた。
「この忍者野郎っ!」
「でやああっ!」
背広姿の男たちが、忍装束の集団たちと格闘を繰り広げている。
「な、何だこりゃ……」
俺は思わず声を発した。すると姫香は「ふっ」と笑ってから言った。
「お前が仕組んだことではなかったのか? 大林を遠くへ誘き出し、統制を欠いたところを忍びどもに襲わせると?」
「馬鹿言え! 俺はあくまでお前らと……」
すると、その刹那。大立ち回りを演じる人波の中から野太い男の声が聞こえた。
「すまなんだ麻木っ! 我らの忠義を示すにはこのやり方の他に手は無かったのだ! 許せっ!」
その男は執事局の局長にして才原党の棟梁、才原嘉門――俺は即座に理解が及んだ。
全ては彼の暴走によるものであると。恒元に謀反人と睨まれた才原が一族に逆心は無いと示すために先制攻撃を仕掛けたのであろうと。
局長の行動を恒元は前もって了承していたのかは分からない。されど、確かなのは、この展開は伊予琥珀一家の全滅を狙う恒元にとってあまりにも好都合であるということだ。
「……けっ、見た目によらず大胆な野郎だ」
舌打ちを鳴らし、俺は銃を懐へ戻して短刀を構え直した。
そして呼吸を整えてから全身で闘気を練ると、勢いに任せ突進をかけて近くに居た背広の男を斬り倒した。
――グシャッ。
血飛沫と同時に悲鳴が上がる。
「うぎゃっ!」
俺の行動に迷いはなかった。中川会の人間として為すべきを為したのである。本心に蓋をかけて。
結局のところ、俺はそんな男であった。
「田舎野郎ども、この麻木涼平が相手だ! 命が惜しいなら今すぐ全員消えやがれ!」
それから数分後。現場には無数の屍が転がっていた。流れ出た血はまさに美しき庭園を汚す狂乱の海。
手柄に焦る忍者たちを制するかのように短刀を振るい、俺が伊予琥珀一家組員の大半を斬殺したのである。
しかしながら、この女の勢いは衰えない。
「遅いっ!」
群がる執事局の助勤、才原党の忍びたちを相手に刀を振るい奮戦する姫香は、劣勢をものともしていなかった。
「うおっ!」
「何だとっ!?」
姫香の刃が助勤たちの頬を掠める。多勢に無勢という慣用句は彼女の辞書には記されていない。むしろ一対多数の状況でこそ鵜川姫香の剣術は真価を発揮するらしい。
忍びたちの顔にも焦りが浮かぶ。先ほど伊予琥珀の組員たちを数で圧殺した時とは違い、集団戦術が一切通用しないのだから。彼らの放つ苦無や手裏剣は易々と躱され、撒き菱は投げた傍から打ち返される始末。
ここまで忍術の技が通じない相手と、今までに相まみえたことが無いのだろう。次第に焦りは恐怖へと変わってゆく。
「ば、馬鹿なっ!?」
そんな下忍たちや助勤連中を才原局長は一喝した。
「怯むな! たかが一人を相手に数で潰せぬことはあるまい!」
彼の言葉は決して過信ではなく、姫香も姫香で傷を負っていた。肩や腹には無数の切創が走り、ジャケットは血に染まっている。
それでもなお、戦い続けているのは単に復讐心が胸の中で燃え盛っているからであろう。
「出て来い恒元っ! お前も極道なら極道らしく戦えっ!」
そんな姫香の無尽蔵な体力には、最早才原ですらも困惑を隠しきれない。
「……何という女よ!」
だが、俺は違和感を抱いた。何故か、姫香は敵に刃を当てない。勢いよく刃を振るうも、皮一枚で寸止めするばかり。
まるで敢えて手を抜いて戦っているような――やがて俺は悟った。彼女は俺の部下や同輩らを傷つけまいとしている。
ゆえに、わざと敵を斬っていないのだ。
「あくまでも目標は総帥一人ってか」
故郷を荒らした中川会への憎悪はあれど、恒元に言われるがまま動いた兵隊まで殺す気は無いらしい。
一体、この女はどこまで義侠を忘れぬつもりなのか。互いに対等な状況での交渉を行うために奇襲という効果的なやり方を捨てた先ほども然りだったが、事ここに至っても正々堂々とした戦い方にこだわるとは。一周まわって笑いすらこみ上げてくる。
無論、俺も棒立ちで状況を眺めているわけではない。組織の幹部として、刀を抜いて奮戦せねばならないのである。
「姫香っ!」
そして、俺は叫んだのであった。「覚悟ーッ!」と。すると彼女は俺の声に気付いたのか、一瞬こちらを見た後でニヤリと笑った。
「ふっ……」
さしずめ、この男に自分への殺意は無いとでも踏んだのであろう。だが、今度の俺は違った。
――グシャッ。
俺は姫香の体を縦一文字に斬ったのである。
「……そうか」
姫香の笑みが苦々しいものへと変じてゆく様子は、ひどく虚しく見えた。それは云うまでもないことであろう。
「うっ、ううっ!」
少女ながらに百戦錬磨の剣豪だけあって斬られる寸前に飛び退いて傷を出来る限り浅くした姫香。されども鞍馬菊水流伝承者による一撃は相当な破壊力であったらしく、刀を握る手をだらりと垂らしていた。
「て、敵の力を見誤るとは私も武人の風上にもおけぬことをしたものだ。し、しかし貴様のような卑怯者には負けん」
「ふっ……俺はクズだ。卑怯者呼ばわりされるのもやむなしだな」
俺は自嘲気味に笑った。そして、そのまま続けた。
「だが、あくまで武芸者として当然の礼儀を尽くしただけのこと。全力で向かってくる相手に手を抜く方が非礼だ」
その言葉に姫香は笑みを返す。
「では、お前の手心を期待した私の方が愚かだったというわけか。ううっ!」
肩の痛みで顔を歪めながらも彼女は俺を睨む。
「だ、だが、これで勝ったと思うなよ。勝負はここからだ」
感情のまま「もう止めておけ。その傷でどうやって勝てる」などとほざけたら、如何ほどに心地よかったであろうか。
所詮は中川恒元の駒でしかない武術家かぶれの男の返す言葉と云えば、ひとつしかなかった。
「……まだやる気か。ならば全力をもって迎え撃ち、殺してやるだけだ」
すると、その時。
「七代目ーっ!」
皺枯れた男の絶叫が響くと同時に、辺りを白煙が覆い隠す。
「お、大林っ!? 何を!?」
「ここは一旦逃げましょう! 命あっての物種でさぁ!」
そんな会話が聞こえた時には既に視界は真っ白。煙幕を張られたのである。
「……」
煙が晴れる頃には、姫香の姿はどこにも見当たらなかった。逃げられたようだ。
俺は舌打ちを鳴らした。数分前の大乱戦に大林は参じず、姫香が劣勢に立たされることを想定して撤退の下準備をしていたらしい。
「くそったれが! 尻尾を巻くとは田舎者らしいこった!」
「まだ遠くへは行ってねぇはずだ! 追いかけるぞ!」
皆、数秒遅れで我に返って悪態をつき始める。しかし、奥から現れた恒元は意外にも彼らに「待った」をかけた。
「放っておけ。見たところ肩の腱が切られたと思しき状態では暫く刀は振るえまい」
すぐさま局長が駆け寄る。
「よろしいのですか? あの小娘はいずれ総帥のお命を狙って仕掛けてきますぞ?」
「返り討ちにするまでのことだ。それより、先ほどは見事な働きであったぞ」
「は、ははっ」
「貴様の忠義を一瞬でも危ぶんだ我輩が愚かであったな。ふふっ……」
恭しく跪いた局長の肩をポンと叩いた恒元だが、それからすぐに笑みが消えた。
「……だが、あの小娘を逃がしたのは大きな失態だな。独断で動いたからには必ずや事を成すものと思っていたが」
その嫌味は局長のみならず、居並ぶ忍びたち全員に向けて放ったように思えた。
「はっ、面目次第もございません」
沈黙する忍びたちを代表して頭を下げる局長に対し、恒元は扇子を開いて「だが、そのおかげで新たな策を弄せそうだ。物事は全て一長一短よ」とだけ言い捨てる。
「我輩の暗殺を目論む小娘が暗躍しているとあっては本家が直に四国を治めなくてはなるまい。たかが一条会を相手にあれだけ苦戦した親分衆では頼りないのでな」
四国を本家直轄領とする格好の名目が生まれたというわけか。命がけで戦った子分に相応の恩賞を与えなかったのでは恒元とて流石に心苦しくなるだろうが、そこに「危険因子の炙り出しのため」という理由があれば平然と『御恩と奉公』の暗黙の了解を無視できる。新たに手に入れた土地の金脈を独占せんとする醜い欲の表れであった。
「ゆえに涼平は敢えて小娘にトドメを刺さなかったのだ。移り変わる状況ごとに思考を回転させ常に先を見通すとは、我ながらよく出来た側近を持ったな」
直後、恒元の視線が俺の方を向いたので瞬間的にコクンと頷いた。その反応に満足した総帥は平伏す局長に言うのであった。
「少しは涼平を見習え。貴様に同等の知略があれば今すぐにでも理事に就けてやるというものを」
「はっ、恐れ入りましてございます」
平伏したまま深く首を垂れる局長。この男に出世への憧憬は無いだろうが、一族の命運を背負う身とあっては少しでも恒元の覚えをめでたくした方が良いに決まっていよう。
「……では、総帥。あの小娘の始末はいかがなさいましょう?」
しばらくして顔を上げた局長が恒元に問う。しかし、その答えは意外なものであった。
「涼平」
彼が呼んだのは局長ではなく俺の名であった。
「はっ」
「直ちに一条会の残党どもを掃討せよ。速やかに始末するのだ」
その申し付けにどよめきが起こる。すかさず近くに居た理事長補佐の越坂部捷蔵が尋ねる。
「おっ、お待ちください! 一条の連中は既に降伏したんじゃねぇですか?」
「だから何だと言うのだ。降伏したとて我輩に刃を向けた賊党であることに変わりはない」
「しかし、降伏した人間を皆殺しにしたんじゃ……」
「我輩に賊党を生かす趣味は無い。こしゃくな真似をする奴らを放っておけるか。もう良い、下がれ」
越坂部を一蹴し、恒元は俺の方へと歩みを進めた。
「涼平。頼んだぞ」
その表情に俺は悪魔の幻影を見た。いや、悪魔などより遥かに悍ましい魔獣とでも云うべきか。
万物を統べる暗黒の帝王、中川恒元。彼に敵対勢力を生かしておく理由があるはずが無いのである。
相も変わらず醜悪な御仁だ。
けれども俺にとっては都合が良い。恒元の力を利用すれば、胸に秘める理想を間違いない形で具現化できるのだから。
暗黒の力を利用する過程において自分自身が暗黒に染まってはいけない――そう考えていたが、恒元のお気に入りでいるためには少しくらい北条早雲のやり方に学んだって良いだろう。
きっと華鈴も分かってくれるはずだ。そのように強かであらねば生き残れないのが今の中川会だ。
俺は颯爽と答えた。
「承知いたしました」
「うむ」
そして俺は居並ぶ助勤連中に声をかけた。
「お前ら、聞いての通り仕事だ。極道の癖して無様に命乞いしやがった連中を血祭りに上げるんだ。一人残らずな」
静かな檄に部下たちは歓声を上げた。
「よっ、待ってました!」
「皆殺しだーッ!」
「麻木の兄貴に続けやーッ!」
彼らの倫理観は既に崩壊している。暴走する恒元の下にあっても辛うじて維持していた義侠心が、先日の人肉食パーティーが引き金となって瞬く間に崩れたのであろう。
如何に善良な感性を備えた器ある人物とて、圧倒的な狂気に吞まれれば忽ちリミッターが外れる。紛争地帯に赴いた兵が時間の経過と共に残虐行為を躊躇しない人間殺戮兵器へと変貌してゆく原理と同じだ。
俺が思うに、助勤たちの変化は恒元の目論見通りであったことだろう。あの狂気の宴は彼らを冷酷な殺し屋へ脱皮させるための起爆剤だったと俺は見ている。
謂わば洗脳だ。恒元は、ただ己の申し付けるがまま如何なる非道も嬉々として働いてのける手駒を欲しているのであろうから。
「あははっ! 田舎モンの首を誰がいちばん獲れるか、皆で競争しようぜぇ!」
「良いねぇ! 殺した数だけ、麻木の兄貴みてぇに出世できるってわけだ!」
酒井も原田も魔獣のような形相をしている。あれだけ義侠心に溢れていた彼らが何故――まあ、おそらくは恒元の狂気に身と心を委ねることが正解だと考えるに至ったのだろう。
自分の心を守り、身を立ててゆくために。助勤たちのみならず『恒元公に歯向かえば殺される』という共通概念が醸成された今の中川会ではきっと誰もが同じ思考でいることだろう。
かくいう俺も然り。
「……」
そんな哀れな男たちの様子を黙って見つめるのは櫨山重忠。どうやら狂気に身を任せる若人の心中はお見通しのようだ。
「麻木君はそれで良いのか」
「世を平らかにするために犠牲はつきもの、そもそも良し悪しを考える必要は無い」
「……」
重忠はそれ以上何も言わなかったが、俺は彼もまた自分と同じ苦悩と葛藤を抱えている男だと感じている。ゆえに会話を傍で聞いていた恒元に物凄い形相で睨まれる重忠へ心の中で「せいぜいあんたも上手く立ち回るこったな」と声援を贈りつつ、俺は執事局の兵隊を率いて揚々と出陣するのであった。
「良いか、下手に情けをかければ後々で必ず刃を向けてくる。敵に命を救われた人間が恨みを忘れず、恩を仇で返すのは浅井長政の例を見りゃ一目瞭然だ。禍根の芽を摘んでおくためにも、一条の代紋の下に身を寄せた者は女子供に至るまで全て殺せ」
俺が「分かったな?」と念を押すと、部下たちは「うっす!」と喜んだ。恒元から授かった二叉槍を振り回し、彼らは邪悪な笑みを浮かべて敵の残党狩りへと向かう。
それから展開されたのは一方的な戦いだった。
降伏後、既に武装解除していた一条会の生き残りたちは、潤沢な火器で武装した総帥親衛隊の前に為す術も無く血を流しながら討たれていった。
「ひいいっ! 助けてくれぇ!」
「死にたくないっ! まだ死にたくないっ! うぎゃっ!」
「あがっ、あぎっ!」
ある者は銃弾に全身を蜂の巣にされ。
「助けてくれぇー!」
ある者は短刀で体中を切り刻まれ。
「嫌だぁぁあーっ!」
ある者は槍で滅多刺しにされた上に心臓を抉り出された。そうして一条会の残党たちは一人、また一人と斃れていった。
俺は全ての殺戮の現場に立ち会った。悪魔の粛清を部下だけに任せきって高みの見物をするほど野暮な男でもないからだ。
尤も、当の彼らは自分たちの戦いが虐殺だとは微塵も認識していなかったようだが。
「へへっ、これで中川会の恐ろしさは西日本全体に轟いたことでしょうぜ。行方を眩ませた依多田の野郎も直に見つけて殺します」
翌日の午後に仕事を終え、嬉しそうに語った原田に俺は頷く。
「ご苦労だったな」
「いやあ、麻木の兄貴の勇猛さには勝てませんぜ。兄貴は引き金を引く時に一切の躊躇が無いですもんね」
「そうか?」
「そうっすよ。こないだ茅ヶ崎で龍曜会の残党を粛清した時のお姿には痺れましたぜ。子供を殺す時にも眉一つ動かさずにバーンッて引き金を引くじゃないですか、兄貴は」
「……躊躇ってのは、すればするほど大きくなる。気が変わる前に殺しちまうことが確かな仕事をする唯一の秘訣だ」
「見習わなくちゃなぁ。俺なんか引き金を引く前に心の中で『恒元公がより良い世を作るためなんだ。すまねぇ』って詫びちまいますから」
原田は腕組みをしながらぼやく。どうやら微塵ばかりの良識が思考の中に残っているらしい。まあ、彼の仕事ぶりには言うこと無しだから構うまい。
きわめて個人的な本音を云えば嬉しかった。弟分が人を殺すこと自体に快楽を見出すレベルにまで堕ちていないようであったから。原田からは「酒井も似たようなことを呟いていた」と聞かされ、俺はますます喜ばしい思いに駆られる。
「何はともあれ、よくやったな。討った人数に応じて総帥から褒美を賜るだろうから期待して良いぞ」
「まあ、相当な数だったんでね。恒元公には犠牲になった連中に誇れるような世を作って貰いたいですよ」
「あの方ならきっと素晴らしい世にしてくださるはずだ。信じて待つとしようじゃねぇか」
「兄貴は?」
「えっ」
「もし恒元公が私欲に走った政治を行ったら? その時は兄貴が止めてくれるんですよね?」
「……総帥の為されることを傍でお支えするのが俺の仕事だ。滅多なことを言うもんじゃねぇぜ」
「へへっ、愚問でしたね。流石は天下の麻木涼平様、俺と兄弟が見込んだ男です」
そうして原田以下助勤一同と雑談を交わした後、俺は一条会が籠っていた四万十市内の屋敷跡へと足を向けた。
「……」
胸部に穴が開いた一条会の連中の亡骸があちこちに散乱している。その数は百を下らないだろう。
中川恒元に歯向かった人間は心臓を抉り出される――噂は瞬く間に広がったはず。今後の抑止力になれば良いのだが。
「そうすりゃ無駄な血が流れることもねぇ」
夕闇に包まれる廃墟で独りごちた直後、俺は気配の接近を感じた。何度かお目にかかったことのある人物だ。
その男は声をかけてきた。
「ここに居やがったか。自分が殺した人らの骸を前に感傷に浸ってるとは。良いご身分なこった」
煌王会若頭、駈堂怜辞。奴は「何しに来た?」と睨みつける俺の闘気にはお構いなしで、すたすたと距離を詰めてくる。
「戦意を捨てた人間の命を奪うに飽き足らず、あまつさえその身内はおろか無関係のカタギにまで手をかけるとはな。この四万十の街だけじゃねぇ。土佐、阿波、伊予、そして讃岐の各地域からカタギの亡骸がごっそり上がった。一体、どういうことだ? お前さんは曲がりなりにも成したい理想のために戦ってたんじゃねぇのか?」
「全ては中川恒元公のご意思によるものだ。俺はあのお方のお言葉に従って引き金を引いただけのこと」
「ほざきやがれっ!」
興奮して胸ぐらを掴んできた駈堂。彼の瞳には激情が燃えていた。
「あれは人のすることじゃねぇだろ……何を考えてやがるんだッ! あんなのがお前の理想だってのか!? ああ!?」
怒りだけではない。駈堂の声色からは何故か哀しみが感じられた。
俺は思わず呟く。
「あんた、泣いてんのか」
「分からねぇんだ……」
駈堂は吐き捨てるように言う。
「俺ァ、ガキの頃に川崎の獅子に出会ってからというもの、ああいう男になりてぇって、ずっと背中を追いかけてきたんだ……なのに、その倅のお前がどうしてこんなことをするんだ? なあ、麻木涼平! 教えてくれよッ!」
責めるというよりも縋るような眼差しを向けてきた駈堂に対し、俺は返す言葉に迷った。
「知ったことか。親父は親父、俺は俺だ」
苦悩と葛藤で冷え切った心では、それしか云えなかった。当然、駈堂は激昂した。
「何だよそれ、お前……お前の親父が一体どれほど多くの人を救ってきたと思ってるんだッ!」
「極道としての親父なんざ俺の知ったこっちゃねぇ。それより何だ、そんなくだらんことを話しに来たのか?」
わざと煽るように尋ねると駈堂は俺を殴りつけた。
「この若造が……言わせておけばッ!」
――バキッ。
その打撃を躱すことなく、敢えてノーガードで食らってやったのは俺自身が己の行動について少しばかり思うところがあったからだ。
されど俺も稼業の男。やれっ放しでは名が廃る。
「図星を突かれて逆上か。そろそろ良い歳だろ、少しは落ち着いたらどうだ」
――バキッ。
撫でるように殴り返してやった。
「てめぇ……ッ!?」
「殴り合いがしてぇなら付き合ってやる。平安時代から伝わる一撃必殺の古流武術を極めた俺が相手で良ければな」
俺としては少しばかり痛めつけてやっても良かったが、だいぶ力を抜いて殴ったつもりが歯が何本か折れている駈堂の姿を見て拳を下ろした。そんな俺の様子に、駈堂もまた気を鎮めたようである。
「……無茶苦茶な野郎だな。その目つきといい、物の考え方といい、全てが川崎の獅子に似ていやがる」
「だから俺も親父とまったく同じ道を歩めってか。そいつは願い下げだぜ、おっさん」
「お前は千年に一人の傑物とまで謳われた伝説の極道を尊敬しねぇのか」
怪訝な顔をする駈堂に俺は伝えた。
「一応、尊敬してはいるが親父の生き方をそっくりそのままなぞる気は無い。俺は俺だ」
「だったら聞かせろ。お前が目指してるものは何だ」
「は?」
「お前の理想だ。その夢は毎日を必死で生きてる善良なカタギを殺さなきゃ叶えられねぇものなのかよ」
「俺の……理想……」
俺は考えた。果たして俺は何を目指しているのだろう。
不良少年だった頃から周囲の状況に流されてばかりだった。それから導かれるように極道の世界へ飛び込み、今は中川会という巨大組織の頂点に君臨する男の下で働いている。
そんな中で抱いた夢――全ての寄る辺なき人々を救うことだ。運命的に出会った愛する女と誓い合った目標である。
ゆえにこそ、俺は中川恒元に言われるがまま人を殺して回っているのではないか。冷酷無比なヒットマンとして銃を握る理由など分かりきっている。
「……ああ、恒元公のお力が必要だからな」
そう答えた俺に対し、駈堂は「もっともらしいこと抜かしてんじゃねぇぞガキが」と言い放った。
「たとえそうだったとしても、お前は権力者の手先となって人を殺してるだけだ。かつてお前から言われた言葉をそっくりそのまま返してやる……悪に善の鎧を着せてまで正義の味方を演じるな。自分の悪行くらい自分の心で語れ……それが出来ねぇならお前は偽善者にもなれねぇカスだ」
「ふっ。どうとでも言え。天下万民に嫌われようが、強大な力をもって全ての寄る辺なき人々を救えりゃ俺はそれで良い」
「開き直りやがって。けどな、こんなやり方じゃあ誰も救えやしねぇぞ。その寄る辺なき人々ってのは今回お前が手にかけたカタギの人たちのことを言うんじゃねぇか」
「如何なる時代も政に犠牲はつきものだと恒元公はお考えだ」
「中川恒元の考えなんざどうでも良い! てめぇがどう思ってるかを訊いてんだ!」
「恒元公の考えこそが俺の考えであり俺の理想だ。だから、その理想を成すためなら誰であろうと殺す」
「この……分からず屋が!」
駈堂は怒り心頭といった様子で俺を睨みつけた。だが、俺は動じない。正確に云えば全力で動じていないふりをしていた。
本心を悟られたくはなかったから。悟られようものなら、今までの自分を自ら否定することになるような気がしたから。そんな心の内を見抜いたのか否か――やがて駈堂はため息と共に声をかけてきた。
「……涼平。人ってのは変われるぞ。自分を省みて、自分とは違った価値観を呑み込むことで成長できる生き物なんだ」
「それがどうした」
「昔、お前の父親が俺を変えてくれたように……お前も変わろうと思えば変われるってことを忘れるな。今のお前は力の振るい方を間違えている」
「だから、それがどうしたと言っている。殺されてぇのか」
「俺はお前の心の奥にまだ熱い炎が燃えていると信じたい。その炎はお前の父親から授かったもんだ。胸に手を当てて考えてみろ……その炎が消えて、クソみてぇな男の奴隷に本当の意味で成り下がっちまう前に……お前をお前自身が止めなきゃならねぇ」
俺は少し驚いた。駈堂の目に宿ったその決意のほどは、打算も思惑も無い、一人の男としての純粋なる意思であったからだ。
駈堂に醜き野心が無いことは今までの彼の行動を見れば明らかであった。組織の意に背いて敵対勢力と交渉を行うことが彼にとって何の利点があるというのだ。
されども俺は頑なな態度を崩せなかった。
理由は一つ。ここで首を縦に振ろうものなら、忽ち今までの自分を否定することになるから。それが堪らなく悔しく思えたし、何より怖かった。
そんな俺に駈堂は話を続けた。
「今から伝えることは一種の賭けだ。俺にとっての……いや、何よりお前にとってのな。世話になった恩ある男の倅を諦めたくねぇから話してると思ってくれ」
「何だ。言いたいことがあるならさっさと言え。殺すぞ」
すると次の瞬間、彼の口から飛び出したのは思いがけない台詞であった。
「俺は鵜川姫香を預かってる」
「何だと!?」
目の色を変えた俺に駈堂は淡々と言葉を続ける。
「今、松下組のシマの病院で療養させてる。この件はうちの会長にも伝えてねぇ」
「……どういう経緯だ? よもや昨日のカチコミの絵図を描いたのはあんたか?」
「あれは紛れもなく彼女自身で起こした事だ。余人の入れ知恵に頼る器量じゃねぇのはお前も分かってるだろ」
「だったらどうして姫香に救いの手を差し伸べた? 何を企んでいる?」
「別に企みなんかありゃしねぇよ。今の煌王会は四国に構ってるほど暇じゃねぇんだから」
「なら、理由を教えろ」
「理由なんざ『傷ついた少女を放っておけなかった』ってだけで十分じゃねぇか」
つまり、この男の個人的な義侠心で姫香を助けたということか。今のところ嘘をついている様子は無い。
さらに深く尋ねると駈堂にとっては想像以上のリスクを抱えての行動であることが分かった。
「もっと云えば、俺は絶賛破門の危機だ。おたくらとコソコソ裏で通じてたことが会長の耳に入っちまってよ。あの人にしてみれば俺が竹葉を中川に渡し、あまつさえ奴が率いていた精鋭揃いの組を潰したせいで四国制圧が頓挫したんだから……無理もねぇわな」
「当然だ。さしずめお前の親分は竹葉組の凄腕アサシン集団に恒元公の首を獲らせる腹積もりだったんだろ」
「勘が良いな。まあ、俺としてはあの人のゲスなシノギを諫めたい一心だったんだが、どうにも分かって貰えん」
「それで親分の怒りを買って破門の危機にあるってのに、また無駄に火中の栗を拾いに行ったとあっては救えねぇな」
「自らの身を犠牲にしてでも誰かのために尽くす……それが任侠道ってもんだ」
「で? 俺にどうしろと?」
「お前とあの嬢ちゃんがどんな関係なのかは本人から聞いた。だから、お前に姫香を託そうと思う」
「何故だ? 俺が中川会の幹部で恒元公の側近だってことを忘れたわけじゃねぇよな?」
ますます眉根を寄せる俺に駈堂は平然と答えてのけた。
「だから『賭けになる』と言ったんだ。お前が親分の意向を優先するか、それとも男の道に立ち返るか……見極めさせて貰う」
我ながらに露骨と分かるほどの勢い俺は舌打ちを鳴らす。相手が誰であろうと試金石にされることは好きではない。
ましてや駈堂に心を弄ばれたような気がしたので数倍増しで嫌悪感が湧く。されど彼の状況を鑑みれば怒りは鎮まる。
「あんたに時間が無ぇのは何となく分かるぜ。もうそっちの会長にバレてるんだろ?」
駈堂は深々と頷き、真剣な表情で言った。
「病院選びには細心の注意を払ったが、あの人は勘が鋭くてな。モタモタしてりゃ手が伸びるだろう」
「煌王の手が及ばん関東圏の病院へ転院させようって算段か。それを恒元公がお認めになると思うか」
「お前が上手く謀れば障りは無いはずだ」
「だから賭けか」
「そうだ。お前が川崎の獅子の魂を継ぐ男なのかを……な」
「俺が親父の魂を継ぐ? さっきも言ったが俺は俺だ」
「そうかもしれねぇが、お前ならやってくれるはずだ。あの男の気高い血が流れてるお前なら必ず」
「感情論で言いくるめたつもりかもしれんが、俺はそこまで流されやすくはないぞ。こう見えても元傭兵だからな」
駈堂は俺の言葉に対して「それがどうした」と答えた。その目は真剣そのもので一切の野心は感じられない。
「涼平、それでも俺はな……お前に賭けてみたいんだよ」
困惑が渦を巻くばかりである。どうして俺なのだ? どうして俺に預ける? そんな俺の心を見透かしたように駈堂は続けた。
「お前は……俺にとっては身内みてぇなもんなんだ。だから、お前がどんな道を選ぶのか見てみたい」
それに対しては何も言わず、ただ「期待しねぇことをお勧めするぜ」とだけ言い残して俺は宵闇に覆われた廃墟を後にした。
伊予市の総本陣へ戻ってからの行動は端から決まっていたようなものだった。夜更けに恒元の寝室へ招かれた際、俺は駈堂との会話をありのまま奏上した。
「ふっ、どこへ逃げたかと思えば……よもや関西へ落ち延びていたとはな」
俺の話を一通り聞き終えた恒元は笑みを浮かべる。
「駈堂怜辞……鉄砲玉の如く突発的に組織へ属し、何の躊躇も無く自身が仕える主人に牙を剝くような男だが、その心は存外義侠心に溢れているらしいな」
恒元は「して、お前の意見は?」と尋ねられ、俺はこう答えた。
「いずれにしろ粛清以外に道は無いでしょう。あの女は畏れ多くも総帥のお命を狙った賊党。生かしておく道理などはございますまい」
俺としては駈堂の勧めに従う気は更々ない。それも恒元の命を狙った人間に情けをかけるなどもっての外である。
何にしたって今の自分を否定したくはなかったから。そんな俺の冷徹な言葉を聞いて恒元は感心した様子で呟いた。
「うむ。それでこそ我輩の涼平だ。しかしな……よく考えてみれば敢えて殺す必要も無いのではなかろうかね」
「えっ? 殺す必要も無いとは? 如何なる意味でございますか?」
「素晴らしい用途を思いついたのだよ。あの小娘の肉体のな」
下品な笑みを浮かべる恒元に俺の心は凍り付いた。ひとまず詳細を尋ねてみるとしよう。
「どのようになさるおつもりで?」
「我輩の子を産ませるのだよ。身体能力は抜群で頭脳明晰、さぞかし良き遺伝子を持っていることだろうからな」
「……妾にするということですか。床の上で寝込みを襲われる恐れがありますよ」
「手足を捥げば良かろう。子宮さえ機能しておれば女としての仕事を全う出来ように」
俺は恒元の魂胆を理解した。つまりは姫香を妾にして慰み者にするつもりなのだ。つくづく反吐が出る思いであったが、平静を装って恒元との談義に応じる。
「ご嫡男を産ませるに相応しい優秀な女であることには同感です。しかし、跳ねっ返りの賊徒ですよ。現に総帥に殺意を向けている」
「確かに口の減らぬ犬よのぅ……されど、それが良い。調教のし甲斐があるというもの。かの武田信玄も討ち滅ぼした氏族の娘を側女として娶ったのだからな」
そして恒元は楽しみだと言わんばかりに語りを繋げた。
「男の悦楽というものはだな、涼平。敵を嬲り殺し、其奴が持っているものを全て奪い尽くし、其奴の妻や娘を力ずくで抱くことなのだよ。その愉しみに浸った回数で云えば我輩は信玄を超えることになるな」
この男は武田信玄とチンギス・ハンを混同してはいないか。尤も、信玄が滅亡に追いやった諏訪一族の娘に世継ぎを産ませた話は本当であるが。
「では、鵜川姫香の命までは奪わぬと?」
「ああ。妾にしてやる。当人にも左様に伝えてくれ」
「はっ、承知いたしました」
俺は恭しく一礼し、退室した。
舌打ちを鳴らしたい思いであったが、ひとまず姫香を粛清することは無いようなので一安心。ほっと胸を撫で下ろした。
ただ、条件が条件だ。誇り高き女親分が呑むとは到底思えないし、ましてや彼女の中では中川恒元への憎悪と殺意が消えてはいないのである。
そもそも両手両足を捥がれた肉の壺に堕とされてまで命乞いを成したくはないだろう――思案しながら廊下を歩いていると意外な顔と出くわした。
「よう、麻木次長」
五代目森田一家総長の森田道也であった。
「こんな時間にどうした?」
そう尋ねると道也は「あんたと少し話したくてな」と答え、俺を飲みに誘った。
「立ち話で十分だろ。生憎、飲みに出歩くほど暇じゃねぇんだ」
「流石は総帥の側近。組織で干されつつある俺と違って次から次へと仕事が舞い込んでくるってわけか」
「まあ、どこかの誰かのようにヘマをやらかしたことは無ぇからな。干される理由なんざあるわけもねぇ」
そんな俺の言葉に道也は歯を見せて笑った。
「嫌味のつもりか。耳が痛いぜ」
「酒なんぞにかまけてねぇでもっと励めって話だ。今のあんたを見たら親父さんが草葉の陰で泣くだろうぜ」
今さら奮励努力を尽くしたところで、道也はいずれ粛清される宿命なのだが。されど当人の顔に悲惨の色は皆無。
己の状況を自覚していないのか。いくら何でも呑気の度合いが過ぎるであろうと苦笑を催しかけた時、彼は言った。
「確かに俺は今回のドンパチでしくじった。けど、このくらいで折れる男じゃねぇぞ」
「へぇ。この期に及んで肝の据わった野郎だ」
「一打挽回の切り札を見つけたんだよ」
凡庸な御曹司の発言に俺の胸中はざわついた。道也が何を目論んでいるのかは分からないが、その発言には何か裏がありそうな気がした。
そんな俺の心中を嘲笑うかのように道也は続ける。
「俺は今年で20歳になったばかりの若輩だが、いっぱしの器量は備えているつもりだ。明治の世から続く名門組織の親分を張るだけの貫禄は勿論、あんたを超えて中川会史上最も若くして幹部の椅子に座るほどの風格もな」
「全ては親からの世襲で、あんた自身の力で手に入れたもんは何ひとつ無ぇと思うがな。ましてや未だ正式に理事昇任の御教は出てねぇし、もっと云えば今の理事会の中で最も若いのは眞行路の五代目だ」
「そうカリカリしなさんな。これでも俺はあんたに親近感を抱いてるんだぜ」
意味深な台詞だが、ひとつだけ確かに分かる。それはこの男が俺を巻き込んで何か良からぬことを画策しているということだ。
「傍迷惑な野郎だぜ……とりあえず、その切り札とやらについて聞かせてくれ」
俺のクエスチョンに対して道也は野心家ぶった笑みを湛えて答えた。
「勿論さ。あんたにも協力してほしい仕事があってよ」
道也の説明する内容を要約すればこうだ。四国制圧に苦戦したせいで森田一家は窮地に立たされているわけだが、その失態をとびきりの大手柄で帳消しにする腹積もりなのだ。それ即ち今の恒元が最も欲しているものをもたらすこと。
「例えば依多田の首だ。どこぞへ行方を眩ましたあの男を誰よりも先にぶっ殺せば総帥も俺をお認めになるだろうさ」
「出来ねぇ相談だな。野郎は俺たち執事局の獲物だからよ」
すると道也はちっちっちっ、と人差し指を立てて舌を鳴らした。
「それが既に手は打ってあるんだよな」
「は?」
「ついて来な」
俺は道也の案内で廊下を進み、玄関から外へ出た。
「……よもや既に奴を始末したとは言わねぇだろうな?」
「ふふっ。その『よもや』が本当だったらどうするよ」
道也は得意げに返してきた。彼の不遜な態度は何とも鼻につくが、ひとまず今は彼の話の真贋を確かめる他ない。
「よう、見せてやってくれ」
駐車場で待機していた森田一家の組員に道也が顎で指図すると、停まっていたセダンのトランクが開く。その中にあったのは紛うことなき標的の姿であった。
「んんーっ! んんーっ!」
全裸に剥かれ、両手両足を結束バンドで縛られ、口にガムテ―プを貼られた依多田は芋虫の如く蠢いてもがいているが、無駄骨と知ってかすぐに諦念めいた表情に変わる。
「まったく、無様なもんだよ。頼みにしていた煌王会に見捨てられ、自分んとこの兵隊はとっくに全滅してるから身の安全も危うい……そんでもってあちこちを彷徨い歩いてたようだ。つい数時間前、松山の公園に隠れてるところをうちの人間が見つけた」
依多田の頬を撫でながら道也は囁き、俺は眉を顰める。道也の態度は妙に得意気というか全身に余裕の色を浮かべている。
「すぐに殺さず、敢えて生かしたまま連れてきたのは俺たちの顔を立てるためか。トドメを刺したのが俺たちなら執事局の領分へ踏み入ったことにはならない」
「ご名答。まあ、二兎追う者は一兎をも得ずってことわざ通り『闇雲に突っ走れば必ず周囲と軋轢が生まれる』ってガキの頃に父さんから教わったんだ」
そこで自分の手柄と執事局の手柄を両立させる最も合理的な術を考えたというわけか。道也の言い草は癪に障るものがあったが、俺はひとまず怒りに蓋をする。
「こいつの首を刎ねて総帥に献上するのが、あんたの云う仕事だってのか?」
「それはそうだが、要点はここからだ」
すると道也は懐から一枚の紙きれを取り出した。
「この男が持っていたもんだ」
そう言って道也は開いて中身を見せてきた。何かの機密文書か。俺はゆっくりと視線を落としてゆく。
「ヒンディー語で書いてあるからよく分からんが……銀行の口座情報か? これが何だってんだ?」
「ふっ、俺は大学の第二外国語でヒンディー語を選択したから分かるぜ。こいつはインドのとある閣僚の取引記録だ」
俺が「汚職か?」と訊く前に道也は帳面のある項目を指差した。そこに印字されている数字は『¥$%&#』と羅列されている。
「カシミール地方にある企業から莫大な献金を貰ってるってよ」
「政治家が献金で懐を潤すのはありふれた話だろう」
「ところがどっこい、その企業を経営してるのはパキスタンの元軍人なのさ」
その答えを聞いた途端に俺はハッとさせられた。インドとパキスタンは武力衝突と休戦を隔年で繰り返す犬猿の仲。謂わば不倶戴天の敵国同士である――インド政府の幹部にとってそれが何を意味するかは一目瞭然。
「……単なる汚職どころの話じゃなく、閣僚が敵国と密かに癒着していたってことを示す。こんなもんが白日の下にさらされたら、あの国の国民は暴動を起こすだろうな。下手をすりゃ、今の政府がひっくり返るかもしれねぇ」
「そうだ。パキスタンが核武装に成功し差をつけていたはずの国力で同等にまで迫られたおかげでインドは国防力強化に躍起になってる。軍拡を賄うための増税ラッシュで窮乏に喘ぐ国民は間違いなく激昂するだろうぜ」
そういうことであったか。俺は依多田の狙いに納得した。
「つまり、この汚職をネタにインド政府を強請ろうって腹か。んで、カラコルム山の麓で採れたレアメタルの日本への輸出を認めさせようと」
「ああ、こいつを餌に中川会と煌王会との間で上手く立ち回ってたみたいだぜ。尤も、中川会との同盟交渉はどこぞの若手幹部に拒否されたおかげで破談になったようだが」
道也の言葉に俺は歯ぎしりを鳴らした。よもや依多田が提示していたカードにそれほどの価値があったとは。
「……」
「そう気を落とすなよ。『名人の手から水が漏る』って云うから、いくらあんたが外交の達人でも敵の手の内を読み切れねぇことだってあるぜ」
「別に落ち込んじゃいない。ただ、それくらい値打ちがある金脈を持ってるのにどうして煌王会に見捨てられたんだと思ってな」
「さっき痛めつけた時に吐いたんだが、どうやら煌王会が関心を示さなかったらしい」
「関心を示さなかった?」
「ああ。煌王も煌王でインドにはパイプを作ってて、レアメタルを日本へ持ち出す手筈を既に整えていたらしい」
「手回しが良いこったな」
「ただ、煌王会の方式は密輸出らしいがな。だとしても善は急げって状況にあることに変わりは無いが」
このまま煌王会がレアメタル採掘事業を独占してしまうから、連中のフロント企業が現地に食い込む前に恒元は印国政府と交渉を行うべきと言いたいわけか。そして、それをもたらした自分は褒美を賜って然るべきと――何とも賢い立ち回り方に苦笑している俺の表情を見てか、道也が「あんた、笑ってるのか?」と尋ねてきた。
「そりゃ笑うしかねぇだろうよ。想像以上に頭が切れる男を前にしちゃあな」
すると道也は真剣な表情になって俺に言った。
「こいつは俺なりの努力だ。あんたの云う『励む』ってやつだよ。父さんが殺されてから俺は森田の五代目を名乗るに相応しい男になるべく自己研鑽に耽った。極道らしい振る舞いを身に着け、下の連中を靡かせる帝王学を勉強し、少しでも父さんのような男になろうとな。兵隊の動かし方はまだまだだが、これでも本家の老人どもに引けをとらん……」
その時だった。
――ズガァァァン。
突如として銃声が響いたかと思うと、道也が膝から崩れ落ちる。俺は数秒ほど、口をあんぐりと開けていたと思う。
「……」
だが、すぐに我に返り道也を抱き起こす。されど彼の額には銃創が刻まれており、おびただしい量の血を流していた。
「……ど、どういうことだ」
するとそこへ一人の男が手を叩きながら現れる。
唖然としたままの森田の組員の群れを掻き分けるように姿を覗かせたその男は、ニヤリと笑いながら言うのであった。
「優秀じゃろ、うちのスナイパーは」
ゆっくりと近づいてきた葉室旺二郎は無惨な射殺体と化した森田道也の手から紙切れを抜き取る。どうやらこれを奪うべく奇襲を仕掛けたらしい。
「葉室、テメェは……!」
「よう、麻木次長。あんたにしちゃ随分と遅い仕事ぶりじゃねぇか。組織を裏切ったネズミを始末するのはおたくら執事局の専門領域のはずだぜ」
「は?」
「代わりに俺が始末してやったんだよ。ついでに、こいつもな」
そう言って葉室は短刀を抜き放ち、今度はトランクの中で寝転がされている依多田の胸へ刃を突き立てる。
――グシャッ。
ガムテープで塞がれた口をもごもごと動かし、声にならない断末魔を上げて依多田は息絶えた。
「ったく。あっけないのぅ。権力闘争を勝ち抜いて一条会のトップの座を掴みかけたってのに……頼るべき相手を間違えたのが運の尽きじゃい」
すると直後。現場に絶叫が響き渡る。
「貴様ぁぁぁーっ!」
「よくも総長をッ!」
「許さんぞ、葉室!」
動揺と衝撃のあまり硬直していた森田一家の組員たちが口々に怒声を発したのである。数秒遅れで我に返り、状況を理解したようだ。
けれども葉室は余裕ぶったまま。
「へっ、どう許さんってのかねぇ……」
そうして右手を振り上げた刹那。
――ズガァァァン! ズガァァァン!
銃声が連続で空を裂く。いきり立っていた男たちの額に鉛玉が着弾し、彼らは次々と倒れてゆく。
そうして瞬く間に全員が頭から血をぶちまけて地に転がった。
「……」
葉室組の狙撃手か。闘気を一切感じないということは、かなり離れた地点から発砲していると考えるべきか。
いや、問題はそこではない。俺は葉室の胸ぐらを掴んで凄んだ。
「おい! 何の真似だ!」
「何って、見りゃ分かるじゃろ。粛清じゃ、組織の裏切り者のな」
「粛清だと!?」
すると葉室はへらへらと頬を緩めながら言ったのである。
「この御曹司は執事局が標的にかけとった獲物を横取りし、あまつさえ金脈を掠め獲ろうと目論んだ。これを裏切りと呼ばずして何と呼ぶんじゃ? おお?」
「黙れッ! 掠め獲ったのはテメェじゃねぇか! こいつを殺して依多田から引き出した情報を自分の手柄として恒元公に献上する算段なんだろう!」
「作り話も大概にせぇや。わしは森田の背信が許せんから密かに行動を張っとっただけや、そしたらたまたま……」
その時だった。
「何ちゅうことをしでかしたんじゃ、おどれはッ!!」
またしても現場に怒声が響き渡った。例によって聞き覚えのある声。本庄利政だ。
「おう、兄貴」
「このドアホッ!」
本庄は葉室を思いきり殴った。葉室は後方へよろめき、地面へ仰向けに倒れてしまう。
「よもやそんな馬鹿な真似はせぇへんと思って見に来たら……おどれは自分のやったことが分かっとんのか!?」
真っ赤に腫らした頬を左手で撫でながら葉室は立ち上がって「ああ」と答える。
「組織の裏切り者を始末した。それだけじゃろ。何がいかんっちゅうんじゃ」
「何がそれだけじゃ! おどれは直参に手ぇかけたんやぞ!そいつが何を意味するか分からんわけと違うやろ!」
「分かっとるわい。けどな兄貴、わしは間違ったことはしてへんで。組織の不穏分子は早々に弾くに越したことはあらへんし、そこに立場云々は関係ないやろ」
「お、おどれ……」
「わしはあくまで総帥のためを思ってやったんじゃ。命に代えて親分に忠を尽くす。それがわしら極道やないんか」
言い合う二人を睨みながら、俺は困惑と憤慨に包まれていた。葉室は劣勢挽回のため依多田を利用しようとする森田の目論みを掴んでおり、奇襲を仕掛けて始末することでその成果物を簒奪したのである。森田が不穏分子だったという話は、自らの行為に大義名分を後付けせんとする葉室のいちゃもんに過ぎない。
きっと葉室は事を起こすにあたって、兄貴分たる本庄に『一枚噛まんか』とばかりに相談を持ち掛けていたのだろう。それに対して思慮深い本庄は猛反対するも、葉室は決行。結果、彼は私利私欲のため曲がりなりにも組織の直参である男を殺すに至った。
本庄の怒りはごもっともだ。迂闊な策だと諫めたにもかかわらず目先の欲で理性がぶっ飛んだ弟分は暴走したのだから。
「おどれ、森田一家と戦争になるで!?」
「ふっ、ならへんわ」
「何でそう言い切れるねん!」
「わしの行動を総帥が事後承認してくださるからに決まっとるやろ、まったく心配性やのぅ兄貴は」
楽観論にしても随分と都合が良い考え方である。理由の如何にかかわらず、親分の勅命を得ぬ直参の殺害は忽ち組織全体に弓を引いたとみなされてもおかしくはない行為であるというのに。欲で頭がおかしくなって極道の常識を忘れたのであろうか。
「……」
開いた口が塞がらずにいると、俺は背後から気配の接近を感じた。複数人の男が歩み寄ってくる。
その中央に居るのは他ならぬ中川恒元であった。
「先走ったな、葉室よ」
低い声が海風に乗って皆の耳を伝う。
俺たちは一様に頭を下げた。発砲音が聞こえたため、恒元は助勤たちに守られながら様子を見に来たようであった。
「森田を殺したのは貴様か、葉室」
「ははーっ! こいつには前々から煌王会と密通せんとする不穏な動きが見られましたゆえ、事をしでかす前に先手を打った次第にございます!」
「それは執事局の為すべき仕事だろうに。勝手なことを」
葉室の返答に恒元は眉を顰めるばかり。当然だろう、謀反にも等しい行為に事後承認も何もあったものではない――と心の中で踏んだ俺だったが、総帥の反応は意外なものであった。
「まあ、ちょうど我輩も森田は消さねばならぬと考えていたところだった。不穏な芽は育たぬうちに積んでおくに限る」
何ということだ。勝手に直参を殺害した独断専行を問題視するよりも、旧御七卿の排除という自らの政治的メリットを優先するとは、この男はどこまで欲深いのか。
「よくやったな。葉室。褒美として森田が仕切っておったシノギのひとつをお前に任せるとしよう」
「ははっ。勿体なきことにて。ついでに申し上げますと総帥にお渡ししたいカネの生る樹がございまして……」
「ほうほう、それは気になる。ならば褒美も弾まねばなるまいな」
結局、葉室の行為を恒元は非難することは無かった。それどころか、彼に恩賞まで授けるというではないか。
「というわけだ、涼平。見ての通り依多田は討たれた。ゆえに一条会残党の掃除は切り上げて良いぞ」
「……はっ。承知いたしました。皆にそのように伝えます」
「すまんな。後で執事局にも褒美をくれてやるから楽しみにしておくのだぞ」
上機嫌に微笑んだ恒元は「長く海風を浴びてしまった。風呂に入り直さなくてはな」と呟きながら屋敷へ戻って行った。その背中が遠くなるまで皆で頭を下げた後、姿勢を戻すや否や葉室が本庄に言った。
「残念じゃったのぅ、兄貴。素直に一枚噛んどったら本庄組にも旨味があったかも分からへんのに」
「じゃかあしい。おどれが上手くいったんは偶然で、単に恒元公の機嫌が良かっただけのことや」
そんな兄貴分の肩を皮肉たっぷりにポンと叩き、葉室は自陣へと引き揚げて行く。残された本庄はため息をついた後で俺を見て言葉を漏らした。
「あいつも困ったもんじゃ。出世のことになると後先考えなくなる。器量も人並み程度にしか備わってへんのに」
「ふっ。それは確かに困ったな。だが、あんたにとっては可愛い弟分なんだろう?」
そう言ってやると本庄はフンと鼻を鳴らした。次いで彼は首を左右に振った後でこう続ける。
「同じ神戸出身っちゅうことであいつが勝手にすり寄っとるだけや。ほんまに鬱陶しいもんやで」
珍しく愚痴をこぼした後、こうも言った。
「のぅ、涼平。ちぃと飲みに行かへんか」
「……酒を?」
「せや。たまにはわしと飲み明かしてもええやろ」
「別に構わんが、あんたが俺を飲みに誘ってくれるとはどういう風の吹き回しだ?」
「そういう気分なだけや。ほら、細かいこと言わんと早よ行こうや。田舎やさかいすぐに店が閉まるで」
本庄に急かされて向かったのは伊予市内のスナック。風俗店が軒を連ねる一帯の中ほどに建てられた店であった。
「随分洒落た店じゃないか」
「ここのママがええ女なんよ」
「そいつは楽しみだ」
胸を躍らせて店内へ足を踏み入れると、カウンター席の奥に店主と思しき熟年の女が座っている。その向かいに若い女が居た。二人は俺たちの姿を認めるやグラスを置きながら笑顔を浮かべる。
「おー! 来たか本庄クン!」
すると本庄は苦笑いで頭を掻いた。どうやら中川会による四国制圧で一条会が潰れたことを気にしているらしい。
「……すまんかったのぅ、ママ」
「気にせんて、むしろ馬鹿高い守り代を払う必要が無くなるから店にとっちゃ大助かりや」
どうやら俺たちが暖簾をくぐったのは、少し前まで一条会傘下組織にみかじめ料を納めていたスナックらしい。街の用心棒とそこで暮らす住人という関係上、色々な感情はあろうが口に出さないあたり夜の女としての矜持を感じられる。
「注文は?」
「わしはウーロン茶で、こいつは……」
本庄に視線を向けられたので俺は「バーボンをロックで頼む」と答えた。すると女性は申し訳なさそうに唇を噛む。
「あー、すんまへん。うち、バーボンは切らしとるんですよ」
「そうか。ならサイダーを」
「はい。すぐにお作りしますね」
そう言って女性は氷を入れたグラスに炭酸を注ぎ、マドラーで軽く混ぜた後でカウンターに出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
礼を言ってから俺はグラスを口に運び、サイダーを喉へ流し込む。その様を本庄は神妙な顔で眺めていた。
「バーボンやないと酔われへんのか」
「ああ、傭兵だった頃からな……おかげで酒場じゃ注文に困って大変だぜ」
「相変らず難儀な体質じゃのぅ」
「そういうあんたも滅多に外食をしないのは相変わらずだな」
「これでも昔に比べて少しはまともになったんやで。今じゃ酒は飲まんけど料理には箸をつける」
そんな俺たちの会話にママが割り込む。
「でも、昔からこの店だけは例外だったよねぇ。本庄クン。あたしが作る料理は何でも食べてくれた」
「そんなことはあらへん。試食を頼まれたさかい、それに応えとった。それだけや」
「うふふっ。本庄クンが『美味い』って褒めてくれた鯵ピラフ、今じゃうちの看板メニューなんやで」
「そ、そうか。わしの舌が店を盛り上げるのに貢献できとったなら何よりじゃ」
親し気な2人のやり取りを聞く限り、だいぶ長い付き合いのようだ。思い返してみれば以前に本庄は四国へ伝手があるとか何とか言っていたような。
「ここはあんたにとっては通い慣れた店のようだな」
そう本庄に向かって口を開くと、ママがにこやかに言った。
「何せ、あたしは本庄クンの元カノやさかいね」
「おっ、おい、朋美! いきなり何を言い出すんや!」
思わず「えっ!?」と俺は目を丸くした。元カノというワードに反応してのことであった。まさか本庄にそのような関係性の人物がいたとは夢にも思わなかったのである。
「けっ。どんだけ昔の話や思っとんねん、ボケが。このママ……朋美とは高校の頃に付きあっとっただけや」
「それはまた驚いたぜ」
「何で驚く必要があんねん」
「あんたみてぇな冷酷無比な親分もガキの頃はそれなりに人間らしかったのかと思ってな」
「おどれ、わしを化け物か何かやと思うとんのか」
すると朋美と呼ばれた女はにっこり笑って俺に語った。
「兄ちゃん、今でこそ本庄クンは『五反田の蠍』とも呼ばれとる狡猾な極道やけど昔はピュアやったんやで。今でこそこんな顔やけど、昔は女の子みたいに可愛らしい顔をしとったんや。せやのに『ヤクザになる』言うて高校を中退して地元を飛び出してもうた」
「そ、そうなのか」
「せや。でも、あたしはそんなん気にせぇへんかった。だって、あたしは本庄クンが大好きやったさかいな」
そんな女の言葉に本庄は「ふんっ!」と鼻を鳴らした。
「何が大好きじゃ。おどれはわしがヤクザになるって言うたら猛反対しよったやないか」
「それはしゃーないやん。ツッパリとは訳が違うんやさかい……せやけどあれはあたしのためでもあったんよね。あの時の感謝を忘れた日は一日たりともあらへんよ」
そう言ってクスクスと笑うと朋美はグラスにウーロン茶を入れ、水で割った後でソーダを追加してマドラーでかき混ぜる。
「はい、おまちどおさん」
「……おおきに」
給仕された飲み物をぐいっと呷る本庄の姿がいつになく寂しげに見えた。この朋美という女性は単に元カノだっただけではなく、本庄にとってかけがえのないパートナーだったのかもしれない。
ただ、稼業の先輩の過去を深く尋ねるような真似は野暮に思えたので俺はそこから話を展開させることはせず、互いに煙草に火を付けることで静寂に身を委ねた。
「……」
そんな沈黙を先に破ったのは本庄だった。
「……のぅ、涼平」
彼は煙を吐きながらおもむろに口を開く。
「おどれは今の自分の仕事をどない思うとる?」
「総帥が任せてくださったことを為すのに私情は必要無い」
「その割には何や迷っとる顔しとるで」
思わず怪訝な目をする俺に本庄は言った。
「おどれが総帥から何を申し付けられたかは訊かん。せやけど、おどれの体に染み付いた信念が揺らいでる様子は見とってよう分かる」
「そんなことはない。俺は恒元公のご期待に応え、確かな仕事をするだけのことだ」
すると本庄はグラスをカウンターに置いてから言った。
「涼平。おどれは『人を殺す』という行為に対してどんな感情を抱く?」
「仕事だ。そこに私情は挟まない」
「ほな、おどれは何で極道になった? 極道として何を成し遂げたいと思うとるん?」
「……前にも話した通りだ。力をつけ、この世の中で爪弾きにされた寄る辺なき人々に救いの手を差し伸べる」
「せやったらそれを胸に刻んで、もっと堂々とせんかい。おどれは元傭兵やさかい私情っちゅうんを嫌っとるようやけど、人間に活力を与えるんは結局のところ欲なんやで」
目を丸くした俺に、本庄はなおも続ける。
「わしからすりゃ青すぎて反吐が出るような話やけど、おどれには『世の中を変える』っちゅう綺麗な欲があるんや。人を殺すのも鬼畜を働くんも、全てはそいつを叶えるためやと胸を張ったらええんや」
「胸を張る……だと?」
「せや。おどれは一条会を壊滅させたことで一条に苦しめられとった人間を救った。その過程でカタギを殺したんも、必要なことや。このまま世を変えんことで失われる命の多さに比べりゃ、おどれが殺した数なんざ微々たるもんや」
俺は思わず息を呑んだ。確かに、俺はカタギに引き金を引くにあたって「本当に良いのか」という迷いを抱えていた。しかし、貧しい人が貧しいまま見過ごされる世の現状を放っておいては犠牲は増え続ける一方である。ならば、それを打ち破るために行動せねばなるまい。
「涼平。おどれはおどれが思っとるより数百倍も恵まれた立場におるんやで。組織の中で恒元公に心から可愛がられとるんは麻木涼平ただ一人や」
「本庄……」
「せやからその境遇を活かさなあかん。おどれがせなあかんことは恒元公の機嫌を気にして太鼓持ちに徹することやない。そないなつまらんことよりも、もっと先を狙ったらええ」
俺の頭上にふっと雲が過る。自分はそれほどまでに恵まれた存在だったというのか――ああ、確かにそうだ。忘れかけていたことを思い出して心が熱くなった。
「先……だと?」
「せや。わしはおどれが大嫌いやけど、その器は確かなもんや。世襲制っちゅう仕組みを抜きにして考えりゃ、おどれは組織の中で史上最も若くして理事に昇った生粋の武闘派なんやさかい」
「嫌味にしても買いかぶりすぎだぜ」
「買いかぶりなわけあるかいな。総帥かて、いくら気に入っとるからって器量に劣るボンクラを幹部の椅子に就けたりはせぇへんよ。きっと組織の跡目のことも視野に入れた人事やと思うで」
「ま、待て! 跡目?」
「ああ。総帥は今年で65歳になるが奥方様との間に男の子は生まれとらん。お嬢らが男の孫を産んどるようやけど、中川は代々男系男子の直系継承で続いてきた一族やさかい、その伝統を崩してまで世襲を維持する気は無いやろうな」
「……」
俺は思わず言葉を失った。本庄は真剣な眼差しで語りを繋げる。
「嫡男の誕生を諦めた総帥が誰に組織を継がせるか、そいつは至極単純明快。『器量と武勇に優れた男』や」
「……滅多なことを言うもんじゃねぇぞ」
「けけっ、そう遠からず正式な御教が出るやろうからその時に分かると思うで。尤も四代目の座を狙っとるのはわしも同じやけどな」
あまりにも突飛な話に返答の正解が見つからなかった。ひとまず「今のは聞かなかったことにしておくぜ」と茶を濁すと本庄は笑った。
「それはさておき、わしが言いたいのは目指すもんを見据えて行動せぇっちゅうこっちゃ。世の中を変えたいんなら、引き金を引くのは単にそのためだと割り切れ」
「……」
「もっと自信を持ったらええ。自分の為すことは全て正しい、そう胸を張ってええんや」
「……ああ、そうだな。あんたの言う通りだ」
俺はグラスを一気に飲み干して頷いた。
「そういうことなら、俺も心置きなく仕事に励める」
「けけっ。迷いが晴れたっちゅう顔やな」
「流石は五反田の蠍。今日ばかりはあんたに打ち込まれた毒に感謝しねぇとな」
「おどれはいちいち人を化け物扱いせんと気が済まんのかい」
本庄はそう鼻で笑ったが、満更でもない様子だった。そんな会話を見ていた朋美は俺のグラスにおかわりのサイダーを注ぐと、かつての恋人を揶揄うように口を開いた。
「そういう本庄クンだってあの頃は悩んでたよね。勢いでヤクザになったわけじゃないってこと、あたしは分ってたで」
「そ、それを言わんでええんや!」
「だって、そうやん。あの日『これでもうカタギに未練はない』なんて言いながらも本当は『またカタギとしてやり直せるかも』って期待してたくせに」
「うっさいわ! わしはもう極道として偉く出世したんやさかいええやろ!」
すると朋美は「あははっ!」と笑い、俺に言った。
「本庄クンがヤクザになったのは、その頃に恋人として付き合っとったあたしのためなんやで。あたしを守るために、本庄クンは自ら闇の世界へ飛び込んだ」
微笑ましい昔話に「へぇ」と反応すると隣の本庄も頷いた。
「せや。わしは朋美を守りたい一心でヤクザになったんや」
「でも、あたしは本庄クンがヤクザになったことを心のどこかで少し後悔してたんやろうな。だから、あたしは少しでも傍に居りたいとこうして暗黒街で夜の店を始めたのかも分からへん」
「朋美……」
そんな二人の会話に俺は思わず目を細めた。
「凄ぇな」
すると朋美は俺に言った。
「凄くなんかあらへんよ。人が人を想えば当然のことや」
「だとしても、そう簡単に為せることじゃないぜ。惚れた男を追いかけて自分も闇の世界へ飛び込むなんざ」
「まあ、勢いもあったわな。あの頃は若かったから……」
目を閉じて当時を懐かしむ朋美。やがて彼女は煙草に火を付けてから語り始める。
「……あたしのオトンは絵に描いたようなギャンブル狂でな。娘の給食費から祖母ちゃんの病院代まで、家にあるカネの全てを博打に溶かすようなどうしようもない男やった。当然、負けが込む内に自力じゃ賭け金を捻出しきれんくなって色んなとこから融資して貰うようになって気付いた時には借金が一千万単位まで膨らみよった」
そんな朋美の父親が金を借りた先こそ極道が営む闇金だった。当時の神戸は未だ煌王会の支配下にはなく、水天会という組織が幅を利かせていたそう。
「水天会はオトンにえげつない追い込みをかけよって、そのせいでオトンはあたしが中2の時に殺されてもうた。せやけどそれで借金が帳消しになるわけもなく、水天会の矛先は遺された家族のあたしらに向いたんや」
「……」
「そんな時やったな。同じクラスの本庄クンが助けてくれたんは。本庄クンはあたしの家の借金を帳消しにしてもらうために、市内にあった水天会の事務所に一人で殴り込んでくれたんや」
「……ええっ!?」
驚いて本庄の方を向くと、彼は苦笑いで「いやいや」と反応する。
「ちょっとばかし話をつけに行っただけや。偶然にも、わしの母方の伯父が中川会系の組員やったさかいな。交渉の余地があると思うて吹っかけてみたら存外あっさり通ったっちゅうだけのことや」
ちょっとした冒険談のごとく語っているが、知恵者の本庄のこと。相当な準備と打算を抱えて挑んだ大勝負だったに違いない。
狡猾で頭の回転が速い『五反田の蠍』の片鱗は少年期から現れていたか。すっかり感嘆してしまった俺である。
そんな若造を尻目に旧知の二人はニコチンの煙と共に笑い合う。
「悪いな。余計なお世話やったか」
「ううん、ちっとも。あの時はほんまに感謝しとったよ」
朋美は首を横に振ると、煙草の灰を灰皿へ落としてから再び語り始めた。
「せやけど水天会が黙って引き下がるわけあらへんかった。何とかあたしの借金を白紙に戻せたのも束の間、本庄クンは水天会の連中に命を狙われるようになってもうた」
「たかが中学生を標的にかけるとは……まあ、相手が誰であれ舐められちゃ商売あがったりなのは昔も今も変わらねぇか」
「だいぶ血眼やったよ、追い込みかけにきた極道たちは。それでも本庄クンは負けへんかった。襲いかかってくる本職の大人を相手に暴れて毎回のごとく返り討ちにしとったよ。その姿にあたしは惚れてまった」
頭が切れるだけでなく喧嘩自慢だったという本庄利政に朋美は恋心を抱き、高校に上がる頃に二人は付き合い始めた。本庄の方も朋美に対しては出会った頃から特別な想いがあったという。
「本庄クンも、あたしに一目惚れやったもんね」
そう微笑んだ朋美に五反田の蠍は鼻を鳴らした。
「わしとしてはもっと強く逞しくて色気のある娘の方が好みやったんやけどな……まあ、放っておけへんかったさかい付き合ってやったっちゅうだけや」
俺は思わず笑った。照れ隠しにしてもベタというか古風すぎる。何にせよ、彼女のためにヤクザの事務所へ殴り込みをかけるくらいだから当時の本庄は真剣に惚れていたのだろう。朋美は話を続ける。
「せやけど、あたしらに平和な青春は訪れへんかった。水天会との揉め事はどんどんエスカレートして最終的に本庄クンの伯父さんにも絡みよったんや」
「つまり……中川との抗争に発展したと?」
「せやなあ。水天会の連中がわざわざ関東まで出張って、本庄クンの伯父さんが居た中川会系の組を闇討ちしたんや。その原因を作ったってことで本庄クンは伯父さんの下で働くよう強いられたんや」
「……っ!」
「神戸でも名の通ったツッパリやったさかい、本庄クンは『上等やないか!』ってイキっとった。せやけど、あたしには彼が哀れに見えてしゃーなかった」
「……不良と本職じゃ流れる血の量が雲泥の差だ。高校生かそこらの年齢で銃を握らされたとなりゃ堪えるだろうよ」
小さく頷くと本庄から「そういうおどれは15歳で人を殺めたやないか」と突っ込みが入ったが、俺は同情の色を消せなかった。つまるところ、世襲であろうとなかろうと自らの意思で裏社会へ入る者など存在しない。
状況や境遇に名を借りた運命が、なし崩しのごとく当人を導いてゆくのである。
「それで本庄さんは組織に?」
「すぐに正式な組員になったわけやない……伯父貴には長いこと飼い殺しにされとったさかいのぅ」
やがて中川会と水天会の抗争は前者の圧勝で手打ちとなり、闇金の追い込みが朋美に及ぶことも無くなった。されど、全てにケリが付いた後も本庄は伯父の強要で組織の下働きをさせられる日々が続いたという。
「おどれのオトン、麻木光寿に出会ったのもそういう生活をしとった頃や。あいつも他に行き場の無い流れモンやったさかい、一緒に組の下働きで飯を食うとった」
程なくして関東圏で起こった抗争に駆り出された二人は武功を立て、共に正式な組入りを認められる栄光を獲得した。以降は川崎の獅子、五反田の蠍として裏社会でそれぞれ成り上がってゆくことになる。
「朋美と縁が切れたのは自然消滅やな、まさに。ヤクザになってからは関西へ足を運ぶ機会もほぼ無かったし」
「せやったな。まあ、あたしは本庄クンを想い続けとったんやけど」
朋美が目を瞬かせると本庄は「そうなんか?」と目を丸くする。哀愁漂う女性は煙草の箱に手を伸ばして続きを語り始めた。
「あたしが惚れた女は後にも先にも本庄利政一人だけや。何せ、命の恩人なんよ。彼なくして今のあたしはおらへん」
「……大袈裟やな。朋美が、他に働き口が考えられるっちゅうのに夜職を始めた時には呆れたで。何を考えとんねん」
「だってあんたの傍に居りたかったもん。稼業の男の人らが集まる夜の街で働いとればいつの日か会えると思うてな」
「せやかて、ナンボ何でも松山で働くことは無いやん。中川と一条が揉めるっちゅうことは分かりきっとったやろ」
「神戸では体の弱い妹が暮らしとるさかい、何時でも駆け付けられる距離でないとあかんかったんやわ。ましてや神戸は中川のライバルの煌王の勢力圏になってもうたし……」
「ま、まあ、その頃は中川が四国へ進出するなんざ夢にも思われへんかったもんなあ」
「でも、こうして戦争になって一条会が潰れて四国が中川会の色に染まったやん。これからは会いやすくなるで」
「けっ。アホが」
そんな二人の会話に俺は「お熱いねぇ」と口を挟んだ。朋美は苦笑いで答えた。
「昔も今も、ずっと本庄クンのことが好きなんよ」
「……」
「でも、もうええねん。昔みたいな恋はできんし、する必要もない。本庄クンには綺麗な奥さんがおるんやさかい」
「……わしは今でも朋美が大事やで」
そんな本庄の言葉に朋美は目を潤ませる。
「……ほんま?」
「当たり前やないけぇ。器量の足らんとこはあるけど、組の命令で無理やり結婚させられた女より何百倍も好きや」
「うふふっ。素直に『好き』って言うたらええのに」
見つめ合った二人はどちからからともなく接吻を交わした。五十代近いおっさんとおばさんのラブシーンだが、不思議と痛々しいとは思わなかった。
「へっ。お幸せにな」
それから濃密な時間を過ごした後、俺たちは笑顔の朋美に再びの来訪を約束して店を出た。酔っ払っているわけでもないのに、夜風に当たると不思議と軽口を叩きたくなる。
「さっきの光景を眞行路の女将が見たら何て思うだろうな」
「由奈のことか、あれは別に何の関係もあらへん」
「良い歳こいた親父が母以外の女性の唇を吸う様子を見るってのは、なかなかきついだろうぜ」
「せやから何やっちゅうねん。子が親の為すことに口を出す方がおかしいわ。うちの嫁かて同じや」
「少しは家族を大事にしてやれよ」
「嫁はともかく、由奈に関しては気にかけとるつもりやで。銀座には定期的に顔を出しとるし、秀虎のガキにも偉ぶった振る舞いはさせとらん」
「あんたが眞行路一家の人事に干渉したと風の噂で聞いた」
「婿が舅の顔を立てるのは当然やろ。あない出来の悪い小倅なら尚のこっちゃ」
「……程々にしといてやれよ」
駅前中通りのネオンは煌々と輝いている。その光に照らされる本庄の面持ちは活力に満ちており、いつにも増してエネルギッシュに見えた。
「まあ、由奈には一日も早く男の子を産んで貰わなあかんな。眞行路一家の六代目や」
「自分の血を引く人間を跡取りに据えて組を牛耳る腹か。あるいは眞行路一家を本庄組で吸収しようってか」
「さあ、どうやろうな……何にせよ中川会の跡目を狙うなら執事局よりも強い兵隊を抱える必要があるのぅ」
そう呟いた本庄は大きく背伸びをしてから「ところで」と俺に聞いた。
「才原んとこの忍びどもは如何にあの状況を切り抜けたん? 伊予琥珀のアホどもは体に爆弾を巻いとったやろ?」
「いや……何かしらの忍術を使ったんだろうが俺には分からん。もはやあの技は超能力の域に達してるよな」
冗談めかして答えたが俺だが、あの超常現象とも云うべき出来事の真相は分かっていた。爆栓封じ――朽葉流忍術に伝わる秘奥義で、あらゆる爆発物を無力化する離れ業だ。秘伝の配合による透明な消火剤を水蒸気として空気中に散布することで酸素と混ぜ合わせ、そもそも発火が起こらない環境をその場に構築するのである。
この術で用いられる水蒸気は人体にとって無害な上、原理は化学兵器の無力化にも応用できる。ゆえに一連の仕組みが迂闊に知れ渡れば、軍事の常識どころか世界のパワーバランスが根本から揺らぎかねない。よって局長の一族は戦国時代に編み出された爆栓封じの技術を数世紀にわたって秘匿し続けてきた。
俺が解明できたのは、鞍馬菊水流の修行で鍛え上げた動体視力で偶然にも水蒸気を詰めたガラス瓶を投げる下忍の動きが見えたが故のこと。こんな話を本庄にした日には忽ち金儲けの道具にされるので、言えるわけがない。
「確かになあ。忍術っちゅうんは常人には分からんように考え込まれとるから長きに渡り戦場で活躍できたんやろうな」
そう頷いて俺の一歩先を歩いていた本庄は、組の者に迎えに来させた駐車場まで足を進めると「ほな、またな」と別れの言葉を述べる。
「おう、ご馳走さん」
「ま、わしが言いたいのは単に主体性を持てっちゅうことや。それがあるのと無いのとじゃえらい違いやさかいな」
「……ああ、分かったよ」
俺の返事に頷き、上機嫌に車に乗って去ってゆく父の盟友。そうして夜の街に一人残される格好になったわけだが、頭の中でひしめいていたのは感謝の念だけではない。
本庄は危険な男だ――そんな純粋なる懸念と憂慮を改めて抱いたのである。
奴の言動に善意は無い。助言を与え、組織の跡目の話まで持ち出し、あまつさえ焚き付けるようなことを吹き込んだのは、俺を陥れるためであろう。
あの場で抽象的な返答をしていなかったら忽ち本庄は総帥に讒言していたはず。「麻木涼平は貴方様の後釜を狙わんとする野心を持っているから注意されたし」と。
所詮、五反田の蠍は汚い奸雄でしかないのである。恒元が血の繋がった男児の誕生を諦めていないことは一目瞭然であり、目ざとい本庄ならそのことを把握しているに決まっていようから。
「……はあ」
やれやれとため息を吐く俺。
悪しき魂胆はさておき「主体性を持て」という助言は心に響いた。その恩もあることだし、此度のことは水に流すとしよう。
不意に脳裏に響き渡ったのは、これまで裏社会で知り合ってきた人々の様々な言葉。多種多様でまさしく十人十色だが、共通しているのは誰しも如何なる立場にあろうと信念を常に胸に抱き動いているということ。
そんな幻聴を聴きながら、俺は地平へ消えゆくテールランプを静かに見送るのだった。
「……」
翌日。
俺は瀬戸内海を挟んで対岸にあたる兵庫県播磨町に居た。大企業の直営工場やサテライトオフィスが数多く立地し行政単位は『町』なれども市と呼ぶに相応しい経済規模を持つ地域だが、自然豊かな街でもある。
そんな播磨町に赴いた目的は、姫香の見舞い。彼女は北古田2丁目の古びた診療所で療養生活をおくっていた。
「……駈堂怜辞の伝手で来た。ここで寝ている患者に合わせてくれ。『焼きラーメンは焼かない』とよ」
「あっ、君が例の。聞いてた通り男前じゃないか。ふふっ」
見たところ七十代には到達していそうな老医師が合言葉を聞くや否や俺を歓迎してくれる。おそらくこの人物が院長であり、人情味に溢れた診療所は訪れる者の多くにとって心を癒される場所として機能していることだろう。
「姫香ちゃんなら奥の病室だよ」
「そうか」
「今は落ち着いているけど、まだ予断を許さなくてね……まあ、それは良いとして」
荷物を持った俺に医師は「ちょっとお茶でもどうかな?」と勧めてきたが俺は「茶なら病室に運んでくれ」と応じた。一刻も早く姫香の顔を見たかったからだ。
「ふふっ。姫香ちゃんも君の来訪を心待ちにしてたみたいだから、たっぷり歓迎してもらいなさい」
医師は言葉通り飲み物を持ってきてくれたものの俺と一緒に病室へ行くことはなく、そのまま退室してしまった。どうやら気を利かせてくれたらしい。
年季の入ったスライド式の扉を開いて病室の中へと入る。壁も床も白一色で整えられており、日光を効率的に取り入れるためか天井には大きな天窓が据え付けられている。寝台はシングルサイズのものでテーブルや椅子の類は置かれていない。
そして病室の奥、窓際に当の姫香が居た。ゆったりとしたデザインのベージュのガウンをまとい、行儀良く寝台の上で横になっている。
「……」
俺は無言で彼女へ歩み寄る。姫香は俺を見上げるなり「久しぶりだな」と頭を下げた。
「ああ」
「よくここが分かったな。駈堂から聞いたのか?」
「……まあな」
つい数日前までは兄と妹のような仲だったというのに、今では互いに心を許せぬ敵同士。つくづく裏社会とは虚しいものだ。
「その様子じゃ飯も食えてるみてぇだな」
「食欲については神戸の病院に居た時から衰えていない。ただ、傷口の化膿が思いのほか酷くてな」
「抗生剤は?」
「残念ながら足りていない。まあ、田舎の病院である以上は致し方のないことだ」
「そうか……」
姫香は肩から胸にかけて斜め一文字の刀傷を負っている。他でもない、俺がつけた傷である。
ゆえに心苦しかった。
されどここで「すまんな」と言うわけにはいかない。稼業の男として失格だし、何より本気で相まみえた彼女への痛烈な侮辱だ。
「……早く治ると良いな」
「ああ。そのうち退院する予定だから心配無用だよ。尤も、ここにはまともな薬が無いというだけなのだがな」
「それなんだが……関東の大学病院への転院が決まった。姫香」
「え?」
予期せぬ俺の発言に彼女は目を見開く。おそらく聞き間違えていると思ったに違いない。だが、俺の言い間違いではないことをすぐに悟ったらしい。
「……中川恒元の差し金か」
俺は小さく頷いた。
「ああ。総帥はお前を妾として迎えたいと仰せだ」
それだけを淡々と伝えた。無論、勘の鋭い姫香は簡潔な説明でも即座に真意を見抜いた。
「なるほど。敵の大将に慈悲をかけられるとは私も終わりだな」
姫香は自嘲して顔を歪める。
恒元は本気で彼女を手に入れたいと願っているのか――答えはイエスともノーとも断言し難い。姫香は所詮、敗軍の将であり、逆賊には一切の情けをかけないことを信条とする男にとっては生かしておくに値しない人間なのである。
下品に笑いながら『手足を揉げ』と惨たらしい注文を付けたのは、それを聞いた姫香のとる行動を予期してのこと。誇り高い女総長がそのように屈辱的な申し付けに甘んじて従うとは端から思っていないのであろう。
今の姫香に残された選択肢は二つに一つだった。言われるがまま恒元の子を産むためだけの妾になるか、あるいは誇りを胸に抱いたまま腹を切るか。
「……」
俺は何も言えなかった。誇り高き少女に「奴隷になったとしても生きてほしい」などと言えるわけが無い。
「……無理強いはしない」
「え?」
姫香は俺の発言に意外そうな反応を見せる。
「どんな道を選ぼうとも、俺はお前の意思を尊ぶ」
「……その顔では『条件を呑め』と言いたげだな」
俺は首を横に振った。
「お、俺は別に」
「声が裏返っているぞ。まったく、涼平は分かりやすいな」
姫香は笑った。憐れむような目を向けて。
その反応に俺は俺という人間の格好悪さを心から嘆いた。女を相手にすればいつもこうだ。
「ふっ、別に私は『はい。分かりました』と手足を捥がれてやる気は無いぞ」
「どうするんだ?」
「決まっているだろう……最後の最後まで我が信念を貫くんだ」
窓の外を眺めながら「ただ、この体でどこまで戦えるかは分からんがな」とこぼした姫香の様子で俺は全てを理解した。
鵜川姫香は恒元の提示した選択肢のいずれをも拒むつもりなのだ。中川会の温情による助命を自ら払いのけ、最期の最期まで一人の極道として振る舞う腹だ。
伊予琥珀一家七代目、鵜川藤十郎として。
俺の答えは決まっている。元より彼女の自由意志のまま選ばせてやろうと思っていたし、むしろ喜ばしい答えだと云えよう。
「分かった。応援は出来ねぇが理解はしよう」
「涼平……本当にありがとうな……」
姫香が潤んだ瞳で俺を見つめた時、ドアが開いて一人の男がボックスティッシュを持ってきた。
「七代目。これで」
「ああ」
目と鼻を拭う親分に黙って寄り添う男――七代目伊予琥珀一家若頭の大林雅也もまた姫香の選択を尊ぶ姿勢を見せている。
「俺はどこまでも七代目について行きますぜ。他の生き方が分からねぇもんで」
その時、大林が笑顔を浮かべた。
ああ、ようやく分かったぞ。彼は何かにつけて口角が上がる癖を持っているようだ。キャバクラで飲んだくれる竹葉を諫めに行った際、笑っているように見えたのはおそらくこの癖が原因であろう。
「ガキの頃から人を殺すことしか能が無ぇ男ですからね。恥ずかしながら」
俺と同じ系統の人間だった。自ずと彼がそれを感じ取ることができたが故に、所詮は余人である俺とも隔意なく接してくれていたに違いない。
「ああ、そうだ。美味い茶菓を仕入れたんだった。もってきますね」
診療所の老医師が席を立った。その途端、姫香は「あっ」と何かを思い出したように声を上げた。
「……そうだ、涼平。一つ頼みがある」
「何だ?」
「もし、お前が暇だったらで構わない。その……東京の街を案内してくれないか。遊んでみたかったんだ。大都会で」
意外な申し出に目が丸くなる。よもや姫香の口からそんなリクエストが飛び出すとは思わなかった。
とはいえ、構うまい。どんな道を選ぼうとも姫香が東京の街で観光あるいは見物に費やす時間くらいあるだろう。
「ああ、もちろん良いぜ」
「……本当か! ありがとう!」
姫香は目を輝かせた。
「でも、遊びに行くなら怪我を治してからだぞ」
「分かっているさ」
姫香は屈託のない笑みを見せる。
ああ、この笑顔をこれからもずっと愛でることができたら――などという儚い願いが頭の中で湧いた直後。
悲鳴が響いた。
「ぎゃああああーっ!!」
廊下の奥から聞こえてきた絶叫。それが先ほどまで病室に居た老医師のものであることはすぐに分かった。
「っ!?」
思わず顔を見合わせた俺たち。
「何事だ?」
姫香が眉間に皺を寄せたのと同時。部屋のドアを蹴破り、長身の男が入って来た。
「駈堂の若頭も愚かな道を選んだものだ。こんな小娘に入れ込んで組織を裏切るとは」
その色白で切れ長の目が印象的な顔には見覚えがあった。名前も記憶している。
煌王会貸元『真壁組』組長、真壁仙太郎。会長である橘威吉の腹心で、つい先日に組織の総本部長に昇進したという情報が流れていた。
「テメェは煌王会のッ!?」
姫香の前で仁王立ちする大林には目もくれず、真壁は俺に視線を向けて声を発した。
「中川会の麻木涼平理事か。こんな所で会うとは奇遇だな」
「白々しい台詞だ。まさに俺と出くわすことを想定してあったと顔に書いてあるぜ」
皮肉っぽく返してやると、真壁は無表情のまま「当然だ」と答えた。
「ここ最近の我らが若頭の行動は全て見張っていたのでな。貴様がここへ来ることは既定事項も同然だった」
俺は鼻で笑う。
「それで俺より先に姫香を始末しに来たってわけか」
その指摘に真壁はなおも無表情で固めた顔つきを一切崩さずに言い返してくる。
「だから『奇遇だな』と言ったのだ。俺の予測において貴様はあと20分ほど遅くに到着し、無惨なる血の海と化した病室で歯噛みするはずだったのだから」
「そいつは残念だったな。俺はテメェごときの予測で見切られるほど単純な男じゃねぇぜ」
「俺の予測が外れたのは久々だ……しかし、今度は外さん」
そう言うと今度はベッドの上の姫香に視線を移す。
「七代目鵜川一家総長、鵜川藤十郎。本名、鵜川姫香。悪いが貴様には消えてもらうぞ」
対する姫香は微塵も動じずに応じる。
「私の首を獲りに来たのか?」
「当然だろう。何せ貴様は我が煌王会にとっては裏切り者なのだから」
「裏切り者? あなた方に不義理を働いた覚えは無いぞ」
「抜かせ。貴様は橘親分が差し伸べた手を払いのけ、あまつさえ中川会と手を組んだ……これを裏切りと呼ばずして何と呼ぶのだ」
「仰っている意味が分からない。煌王の盃を呑んだ身ならともかく、私は何処の傘下にも属していないというのに」
「我が煌王会はいずれこの国の全てを支配する。よってこれに敬意を払わぬ者に生きる資格は無いのだ」
思わず失笑してしまうほどに無茶苦茶な道理だ。傍らで聞いていた大林が怒声を上げる。
「ふざけたことほざいてんじゃねぇ! 全身を切り刻んでやろうか!」
「貴様は?」
「七代目伊予琥珀一家若頭ッ! 大林雅也だ!」
「なかなかの闘気だな……しかし、三下に用は無い」
真壁はふんと鼻を鳴らした。
「舐めるなよ、小僧ォ!」
怒り心頭の大林が殴り掛かろうとした次の瞬間、彼は呟く。
「読めた」
そうして次の瞬間、ひらりと身を躱したのである。
「うぐおっ!?」
大林は勢いのまま床に転がった。
「大林!!」
姫香が驚愕の表情を浮かべる横で、俺もまた息を呑んでいた。真壁の動きは単なる回避行動とは一線を画していたのだから。
吐いた言葉のごとく、大林の攻撃を全て読んでいたかのような鮮やかな動作。芸術的とも云える滑らかな体の流れに俺は目を見張る他なかった。
「……ッ」
そんな俺を見た真壁は言う。
「どうだ、麻木涼平。貴様が学んだ鞍馬菊水流に似ているだろう。俺も同じく古武術を極めた男だからな」
おいおい。鞍馬の名をどこで――いや、そんなことよりも。今は冷静に敵の出方を分析せねば。
「……」
「驚きのあまり言葉が出ないか?」
無表情ながらも嘲弄の色が見える真壁の顔つきはさておき、俺は奴の目的に思考をめぐらせた。
この男の第一目標は姫香の暗殺。さしずめ橘威吉の命で、組織を愚弄した報復に訪れたのであろう。
駈堂の秘匿工作により限られた者しか把握していなかったはずの病院の位置情報を探し当てたのだ。既に煌王会内部における駈堂の権力は失墜したと見るべきだ。
粛清されたか、あるいは何処かへ逃げ去ったか。
いずれにせよ今後の煌王が中川会に融和的に接する可能性は皆無のようだ。恒元が助命すると決めた姫香を殺すのは将来的な真っ向勝負への第一歩というわけだ。
「……松下組はどうなった?」
「組織の内情を敵対勢力の幹部たる貴様に話すのはそもそもおかしいが、第一に語るまでも無かろう。我らに盾突いた人間は討たれる宿命なのだ。先ほどの老人のようにな」
俺は小さな嘆息と共に「そうかよ」と呟くだけであったが、一連の会話を聞いていた姫香は激昂した。
「貴様……よくも関係ない者の命をッ!!」
だが、そんな彼女を俺は制止する。
「止めとけ。その体じゃ無理だ」
激情を顔一杯に浮かべて「涼平!」と声を荒げる姫香に、俺は諭すように尋ねた。
「今は逃げるが勝ちだ。歩けるか?」
「……あ、ああ。走れるかどうかは分からんが、歩くくらいはできる」
俺は姫香の両肩を抱えて上半身を起こさせた。その様子を見ていた真壁が吐き捨てる。
「中川会の魂胆はお見通しだ。鵜川姫香を傀儡に四国を支配するつもりなのだろうが、そうはさせんぞ」
まあ、思いっきり外れているが。敵の勘違いを敢えて正してやるほど俺は優しくはない。
「へっ。だったらどうするよ?」
返ってきたのは嘲りの句であった。
「貴様を含めた全員の息の根をここで止めてやると言っているのだ。素手で人を殺せるのが自分だけだと思うなよ」
真壁は挑発じみた台詞を発しながら黒い外套を脱ぎ捨てた。それが開戦の狼煙であった。
刹那、目にもとまらぬ速さで長ドスを引き抜いた大林が斬り込む。すると、真壁はその場でスケート選手のごとく一回転し大林の斬撃を弾き返した。
――キィィィィン!
真壁の手に刃物らしき武器は握られていない。超音速で動いたことで衝撃波を出したか。
「くそっ、どうなってやがる!?」
「三下に用は無いと言ったはずだ」
そうして真壁は懐から拳銃を取り出して姫香へ向ける。恐るべき速さの動作であったが俺には見えていた。
「させるかっ」
即座に踏み込み、デザートイーグルの銃身に手をかけ発砲を封じる。そして勢いよくスライド部分を外して射撃不能に陥らせた。
そうして奴の喉めがけて貫手を繰り出す俺。ところが、真壁の口から飛び出したのは思いもよらぬ台詞であった。
「読めた」
次の刹那、真壁は超音速で手刀を切り上げる。
――ブォン!
それにより発生した空気の渦が、俺が貫手で生まれていた衝撃波と衝突し、俺たちは互いに後ずさりした。
「……くっ!」
「またも読めた」
俺はすぐさま立ち上がろうとしたものの、真壁はノーモーションで体を一回転させながら首への回し蹴りを繰り出していた。
「涼平!」
姫香が悲鳴に近い声を上げると同時に俺の体は窓を突き破り外へ出る。直後、粉塵舞う外の地面に着地した。
――ズササッ。
突如として2階から落ちてきた執事局次長に、駐車場で待機していた助勤たちは驚愕する。
「次長!」
「兄貴!」
寸でのところで体を引いたことで直撃は防いだが、奴の攻撃の恐ろしさを痛感した。衝撃波を伴うほどの速さだけでなく、先読みの正確さ。
どうやら数分前の言葉を撤回し、真壁仙太郎という男を褒め称えねばならないらしい。超人的な動体視力と計算力を併せ持った格闘戦の天才であると。
「へっ……久々に骨のある喧嘩が出来そうだぜ……」
自然とこぼれ出た笑みに周囲が唖然とする中、俺を追いかけて建物の窓から一人の男が飛び降りてきた。真壁である。
「生かしては帰さんと言ったはずだぞ」
自信の表れか、構えも取らずゆっくりと歩み寄って来た彼に俺は尋ねた。
「おいおい、俺なんぞに構ってて良いのかよ」
「馬鹿め、よもや一人で来たと思っているのか」
「まあ、そうだろうな」
次の瞬間、先ほどまで俺がいた建物内の部屋から銃声が聞こえた。窓ガラスが割れている所為か、かなりはっきりと聞こえてきた。
「俺の率いる真壁組には優秀な人間が揃っていてな。あの大林とかいう三下が如何に腕っぷし自慢であろうと数分で圧殺できる」
「部下を信頼して任せるのは大切なことだが過信は良くねぇな。ましてやテメェの読みは甘すぎる」
「あの男がたった一人で大勢相手に立ち回れるとでも?」
「それもあるが……俺たち中川会執事局も優秀揃いってことだ!」
直後、俺は指をパチンと鳴らして部下たちに檄を飛ばした。
「お前らっ!」
すると酒井と原田を含めた8人の助勤は「うっす!」と返事をして建物内へ突入してゆく。こんなこともあろうかと、彼らには前もって伝えておいたのである。 もしも俺が姫香を救出し損ねたら代わりに事を為せと。
「……貴様も、俺があの小娘を討ちに来ることを読んでいたのか」
「何の話か分からねぇな」
「ほざけーッ!!」
凄まじい大音声で絶叫するや真壁は地を蹴った。行動を読まれていたことでプライドを傷つけられたと感じたか。異国の紛争地帯仕込みの心理術を嗜んだ俺にとって、この手の男は分かりやすい。
されども易い相手ではなかった。
「早いな」
「麻木ッ!!」
あっという間に肉薄された。そして、その勢いのまま繰り出された手刀はやはり音速の域に達していた。
――ブォッ!
しかし、俺はその攻撃にカウンターを合わせていた。
――ドゴォ!!
先手を打って放った掌底がめり込む。
「ぐおっ!?」
真壁の体が吹き飛び、数メートル先の地面に背中から激突する。
「がはっ!」
彼は口から大量の血を吐くと、そのまま仰向けに倒れ込み動かなくなった。どうやら気絶してしまったらしい。
「……自分の読みの鋭さを過信したのが敗因だ。時には勘に頼って動くことも正解だぜ。エリートさんよ」
そんな軽口を叩いていると声が聞こえる。
「兄貴っ!」
助勤たちが建物から走り出てきた。皆、傷を負っているが命にかかわる深手ではないようだ。
ひと安心した俺は彼らが姫香の肩を担いでいる様子を見てさらに安心した。ついでに云えば、大林も。
「よし、撤退するぞ! 車に乗れッ!」
額にうっすらと汗を浮かべた姫香と、全身血まみれになって虫の息の大林。助勤たちが到着するまでの孤軍奮闘のせいか――と思った次の刹那。
「引っかかったなーッ! 奥義ッ、疾風撃針!」
倒れたはずの真壁が飛びかかってきた。馬鹿な。闘気も無かったし、何より気絶したはずではなかったのか。
いや、そんなことよりも奴は正確に姫香の一直線上にある。まずい。俺の位置からでは間に合わん。
「くそっ!」
俺が舌打ちを鳴らし、助勤たちが慌てて姫香を庇う陣形をとったその時。
彼らの前に立ちはだかる男がいた。大林だ。
――グシャッ。
大林は真壁の攻撃をまともに食らい、血反吐を吐いてその場に倒れた。
「おっ、おい!」
「おっさんっ!!」
助勤たちが叫ぶ。無論、姫香も。
「大林ーッ!!」
彼女の悲鳴を聞いた若頭は「す、すんません……これくらいしか貢献できねぇで……」と声を捻り出すと助勤たちの方を向いた。
「へっ……これで……借りは返したぜ……」
そう言い残し、がくっと首を折って大林は動かなくなった。
「大林! この馬鹿野郎がっ!」
俺は思わず叫び、車を降りた。しかし、その叫びは大林の耳に届いただろうか。いや届いていないだろう。
「……」
何故なら俺が駆け寄った時には、既に事切れていたのだから。
「嫌ぁぁぁぁぁ! 大林ぃぃぃぃぃぃ!」
姫香の絶叫が響き渡る。だが、俺は助勤たちに即座に命じた。
「ここは俺に任せてお前らは撤退しろ! 姫香を頼んだ!」
俺の声にハッと我に返り、酒井が「了解です!」と反応し、泣き叫ぶ姫香を無理やり車に乗せた。
「おい! 逃げるぞ!」
「嫌っ! 大林がぁ!」
「子分の思いを無駄にしねぇためにもあんたは生きなきゃならねぇんだ!」
やがて原田が運転席に回り、他の助勤たちも乗り込むとワンボックスカーが発進する。俺はそれを見届ける間もなく真壁に向き直った。
「……テメェ、やってくれたじゃねぇか」
「ふんっ、敵を前にして隙を見せた貴様が悪い」
そう言うと真壁は大林の体から血で真っ赤に染まった手を引き抜いた。貫手かと思いきや、刺さっていたのは右手の人差し指一本だけだった。
「超音速の動作により指一本で敵を殺すことさえ可能となる……それが俺の疾風撃針。鞍馬菊水流を超えた最強奥義だ」
鞍馬菊水流の存在と、その極意が衝撃波を操ることである旨をどこで覚えたのか。それはともかく、この真壁仙太郎なる男が強敵であることに間違いはない。
俺は冷静に脳をまわして状況を整理した。
真壁の口元は血に塗れている。先ほど見舞った掌底で内臓破裂を起こしたのであろう。
おそらく長くは戦えまい。もって数十分といったところか。
だが、殺意という点で見れば真壁の方が遙かに強い。先刻の技のキレは明らかにこの男が上回っていた。
おまけに先読みの鋭さ。深手を負っていない万全の状態であれば、俺とて圧勝できるか不安がこみ上げてくる。
なればこそ――生かして後々の脅威にするより、今この時をもって殺しておいた方が良かろう。
俺は大きく息を吸い込み、構えをとった。
「……ふう」
鞍馬菊水流、緋衣の型。両手を前方に突き出して交差させる、流派の中でも二番目に攻撃的な構え。
勝負を短期で決するならばこの構えを選ぶべきであろう。この頭脳派を相手に迂闊に戦いを長引かせれば追い込まれるのは分かり切っている。
「……やるのか」
真壁は俺の狙いを悟ったのか、ボソッと言った。
「売られた喧嘩は買うのが礼儀だろうが」
俺が言い返すと、男は口元をゆがませる。
「正気の沙汰とは思えんな。IQ200の俺を相手に」
「IQなら俺も180はある。おまけに傭兵だった頃に鍛えられた勝負勘もな……負けを見るのはテメェの方だぜ」
「愚かな男だ。IQは20も離れていればミジンコとアフリカゾウほどの差だというものを」
「その減らず口がいつまで続くか見ものだ」
「抜かしていろ、能無しが」
次の瞬間、真壁は駆け出した。放たれたのは先ほどと同じ技。
例によって奴は技名を叫ぶ。無論、俺はその衝撃波に即座に反応して射出された突きを手刀でいなした。
「ぐおっ」
またしても衝撃波同士のぶつかり合いで吹っ飛ぶ身体。しかし、そのおかげで間合いが開けた。
すぐさま起き上がった俺は真壁を睨む。奴も奴で既に体勢を立て直していた。
「ほう……この俺の疾風撃針を防ぐか」
「へっ、先読みの鋭さはテメェの方が上だがな。即興の計算力は俺に及ばんようだ」
「即興の計算力……勘違いもここまで甚だしいと清々しささえ覚える」
「それは残念だったな。どうせ二度と拝めねぇんだからよ」
俺はダッシュし間合いを詰めにかかる。その勢いに真壁は「む?」と声を発したが、すぐに技を繰り出した。
――ブォッ!
「っ!」
俺は咄嗟に体を屈めて衝撃波をかわす。そしてそのまま真壁に掌底を放った。
「でやああっ!」
ところが。その刹那、真壁は天に届くほどの勢いで右拳を振りかぶり――空気の渦が巻き起こった。
アッパーカットで衝撃波が放出されたのである。それは凄まじい速度で俺の顔面へ迫りくる。
「読めているんだよ」
おそらく俺よりも勝算を感じていたのだろう。真壁は勝利を確信したかのごとき表情であった。
しかし、俺はその攻撃にカウンターを合わせていた。ギリギリのタイミングで身を屈めて衝撃波を躱すと、真壁の腹部へ蹴りを見舞う。
――シュッ。
されども手応えが無い。つま先が奴の体に突き刺さった感覚が感じられない……防がれたようだ。
俺の蹴りを予測した真壁が同時に膝を振り上げることで衝撃波を発生させたのである。こんな技まで体得しているとは。
「……テメェ、鞍馬の奥義をどこまで」
「これから殺される男に教える必要は無いのだが、武士の情けで教えてやろう。全ては俺なりの研究の成果だ」
「何?」
「素手だけをもって、なおかつ直接触れずに敵を倒す男が関東で猛威を振るっていると聞いたのでな。噂を頼りに、学術的な見地からシミュレーションを繰り返して俺なりに発動方式を導き出したのだ」
「舐められたもんだぜ。聞きかじった程度で鞍馬の真髄を全て理解した気になっているとは」
「だが、現に俺は貴様と同程度の力を得ている。それも我流でな……要するに俺の方が貴様より強いということだ」
「馬鹿馬鹿しい理屈だ」
俺は失笑した。ここまでくると苛立ちを通り越して滑稽に思えてくる。
「テメェは何も理解しちゃいない。音速を超えた動作で衝撃波を出すことだけが鞍馬の奥義じゃねぇんだよ」
「ほざけ。負け惜しみにしても無様だぞ」
「では見せてやろう……平安の世から幾万もの武将を血祭りに上げてきた鞍馬菊水流の極意を!」
そうして俺が構えをとった瞬間。真壁が端末を取り出し、耳に当てて誰かと会話を始めた。
「……俺です……ええ、そうです……なっ!? 作戦中止!? そんな、どうして……くっ!」
どうやら引き揚げるよう通達が入ったらしい。真壁は「くそっ!」と悪態をついた後、端末を懐にしまった。
「……貴様を始末するのはまた今度だ。麻木涼平」
「そうかい。テメェも命拾いしたな」
「こっちの台詞だ」
舌打ちを鳴らし、踵を返した真壁に声をかける。
「子分らを放っておくつもりか?」
そうだ。病院の中には真壁組の組員が居り、先ほどの乱戦で俺の部下たちに敗北して手傷を負っているはずなのだが――奴が放ったのは冷徹な返答だった。
「鵜川姫香の拉致に失敗したということは貴様の子分らとの戦いに敗れたということ。そんな軟弱者どもにかける情けは無い」
随分と仕事にシビアな親分である。「じゃあな」と言い残し真壁は去って行った。
久々に血が燃えた喧嘩を終えて熱に浮かされた体に吹く涼風が心地よい。俺は煙草に火を付け、物思いに耽る。
「……負けた」
思わずボソリと呟いた。真壁は技だけでなく駆け引きも一枚上手であった。奴が万全な状態なら百パーセントこちらが負けていただろう。
あんな男が煌王会にいたとは驚いた。おまけに総本部長らしい。能力の高さを考慮すれば妥当な人事か。
奴とはいずれまた戦うことになるはず。計算高く天才的な頭脳を駆使して戦う真壁との戦闘は一か八かの根比べになりそうだ――勝算は不明だが、倒す他ない。
「……」
漂うニコチンの香りと共に微笑み、俺は意気を燃やしたのだった。
ともあれ、中川会の四国制圧作戦は大成功という結果をもって幕を閉じた。明治以来百年にわたって四国を支配してきた一条会は壊滅し、土佐、阿波、讃岐、そして伊予の全ての地域が中川恒元の直轄地になったのである。
この戦争の顛末に不満を覚えたのは故郷を蹂躙された四国極道たちのみならず、派兵を担った関東博徒たちも同様であった。
それもそのはず、武功を立てたにもかかわらず恒元は一切の恩賞を与えなかったのだから。
関東博徒社会は総じて江戸時代以前における武家文化の猿真似だ。目上の人に『公』を付けて呼ぶ風習もさることながら、子分の働きを相応の褒美で称える『御恩と奉公』もまた彼らにとっては大切な文化の一つであった。ゆえに連中の怒りは尋常ではなく、今度ばかりは流石に暴発が起こると思ったのだが――それは杞憂であった。
秘宝、以津真天の卵を手に入れ、強大な権力を振るうようになった恒元に歯向かう気力のある者は誰一人としていなかった。「皆の戦いぶりが情けなかったから褒美は無しだ」と、いけしゃあしゃあと言ってのけた総帥に恭しく頭を下げるだけ。万物の王に盾突けば、心臓を抉り出されるのは必至なのである。
「まったく。博徒だのと極道だのというのは恥ずべき肩書きでしかないな。つくづく下品で野蛮なものだ」
そんな恒元の冷笑で締めくくられた理事会の後、会議室を退出してゆく幹部たちの会話が聞こえてきた。
「恒元公がご自分の称号を『会長』から『総帥』に変更したのはそういう理由か」
「ついこないだまでは『博徒の王』を名乗ってたってのに、今じゃ『万物の王』だもんな」
「自分は醜き獣たちを天上から支配する存在だから別格ってわけか……」
「そもそも総帥なんて特撮に出てくる悪の秘密結社のボスみたいだってのにな」
「現に関西や東北じゃ物笑いの種になってるみたいだぜ」
「それに黙って従っちまってる俺たちも俺たちだよな」
話し込む幹部たちは部屋の隅に居た俺と目が合うや否や、一瞬で黙り込んだ。
「……」
迂闊に恒元の悪口を叩けば執事局に粛清されると慄いている模様。
四国で沢山の惨たらしい死体が見つかって以降、俺や助勤たちは組織の中で恐れられるようになった。恒元に言われるがまま組織内外の不穏分子を悍ましいやり口で殺して回るアサシン集団――中川会本家執事局は助勤たちのバンパイアじみた衣装も相まって、そんなイメージがすっかり定着してしまったのだ。ここまでくると笑う他ない。
尤も、そうなることが中川恒元の狙いであり、端から彼は俺や執事局を恐怖の象徴に仕立て上げることで組織の統制をはかる腹積もりだったのだが。
まあ、何にせよ今後も恒元に従い続けるだけだ。奴にとって忠誠心溢れる騎士であり続ければ、いずれその力を俺のために使ってもらえるかもしれないのだから。
目指すものは、たったひとつ。全ての寄る辺なき人々を救い、この国から貧困を一掃することだ。
「しっかし、二叉槍ってのは使い勝手が良いな」
「突くも良し、斬るも良しで防具としても性能が抜群」
「そして何より、その美しい形状が素晴らしい」
「昨日もそいつで殺してきたぜ、息子が恒元公の御車をバイクで追い越したっていう国会議員を家族ごとな」
「ギャハハッ!」
腹を抱えて爆笑する助勤たちの会話を小耳に挟み、俺は総本部の廊下を歩く。次長の姿を見た彼らは一斉に「次長! ご機嫌よう!」と頭を下げる。
「おう、ご機嫌よう」
つくづく稼業の男には似合わぬ挨拶だ。言うまでも無く恒元の申し付けによるものである。
思い返してみれば、この総本部にも名称を与えるとか何とか総帥は語っていたな。確か『宮殿』だったか。
とんだネーミングだ。まあ、元々は仏国のヴェルサイユ宮殿を真似して造られたというからコンセプト通りではある。
中川恒元は自分を極道という括りから脱却させようと躍起になっている。それでいて今後も関東博徒を私兵として使い続ける腹だから笑えてくる。
「お前らの日頃の奮励努力を恒元公はきちんと評価してくださっている……無論、俺もな。これからも励めよ」
「はい! 恒元公による誰もが幸せに生きられる国作りを微力ながらにお支えすべく、尽力する所存です!」
輝くような笑顔で放たれた彼らの言葉を聞き、俺は深々と頷く。感心と感謝、そして憐れみを三分の一ずつ混合させながら。
「ああ、そういや今宵の舞踏会の支度はどうなってる?」
「万事順調でございます」
この日の夜は総本部の大広間で全直参組長が集うダンスパーティが開かれることになっていた。煌びやかかつ豪華な装飾が施され中央には巨大なシャンデリアもぶら下がった空間で、贅の限りを尽くした宴に朝まで興じるのである。
極道が舞踏会など滑稽としか思えないが、フランスの宮廷文化に憧れる恒元の意向だから従う他ない。自らの権勢を誇示するねらいもあるのだろう。
参集する親分衆は皆、妻を同伴させるよう恒元が触れを出している。さながら自分が皇帝にでもなったかのような気分を味わいたいようだ。
当然ながら理事の俺も宴に出るように言われたのだが、生憎ながら妻は持っていない。ゆえにいずれ遠からず結婚するであろう女に誘いをかけている。
「……まあ、あいつと一緒なら」
暦を見れば2006年4月17日。前週に四国から戻ってすぐに注文した品が出来上がっている頃合いであろうと踏み、俺は屋敷を出ると夕方まで時間を潰し丸の内へ向かった。
「どうかな?」
試着を終えた女――華鈴が頬を赤らめ俺を見つめる。ここは丸の内の仕立て屋で、彼女は桃色のエンパイアドレスに身を包んでいる。
「良いじゃねぇか、似合ってるぜ」
「ふふ……ありがとう」
俺のお墨付きに華鈴は嬉し恥ずかしそうに微笑んだ。168センチと女ながらに長身でスタイル抜群というだけあって、このような装いも馴染みやすい。
「でも、ちょっときついかな」
そう言いながら胸の辺りの生地を上に引っ張る華鈴の頭を俺は撫でてやる。
「すまねぇな」
微笑むや俺は華鈴の肩にキスを落とした。艶やかな音が鳴り、華鈴は顔をますます赤く染める。
「ちょ、ちょっとぉ!」
「へへっ……お前があまりに綺麗なもんだから、つい」
「もう!」
頬を膨らませた華鈴を宥めるかのように俺は今度は唇へとキスを仕掛け、するりと手を胸元へ這わせて双丘を揉んだ。
「や、やあんっ!」
すぐに甘い声で啼く華鈴。俺はもっと見たくなった。
「ここでしようか?」
「……馬鹿っ」
恥辱で赤らんだ顔の華鈴は潤んだ瞳を誤魔化すかのように俺に抱きついてくる。そして小さな声で尋ねてきた。
「今日の舞踏会……だっけ? それってこないだの四国遠征の成功を祝う宴だよね?」
「ああ、そう言ってたぜ」
「そ、そっか」
少し悲し気な声を上げて俺の胸板に顔をうずめた華鈴。彼女の考えていることは分かっている――それでも俺は言う他なかった。
「……仕方ねぇさ。あいつ自身が選んだ道だ」
脳裏をよぎった心苦しい光景をかき消すように、俺もタキシードに着替える。
そして組織がまわした車に乗って赤坂へと戻った。
「さあ、皆の者! 今宵は存分に飲み、食い、そして歌い踊れ! 我が中川会が一条会との決戦に勝利し、四国を手に入れた慶びを祝うのだ!」
シャンデリアに照らされた大広間で20時に宴が始まった。恒元の挨拶に、集められた親分衆は大いに沸き立った。
「うおぉぉぉ!」
「恒元公万歳!」
「我らが総帥万歳!」
「このままの勢いで天下を獲ったりましょう!」
皆の歓声に包まれ、恒元は夫人の手を繋いでにこやかに頬を緩める。その隣では華やかな衣装に身を包んだ妙齢の女性が苦笑している。
「C’est rare d’avoir un bal de nos jours, Gabriel. En premier lieu, vos subordonnés ne savent probablement pas danser du tout.(今どき舞踏会なんて珍しいわね、ガブリエル。そもそもあなたの部下たちはダンスなんか踊れやしないでしょう?)」
「C’est très bien, Alicia. Il est important pour tout le monde de danser la danse qui ne peut pas être dansée en suivant mes paroles.(構わないよ、アリーシャ。皆が我輩の言葉に従い踊れぬダンスを踊ることこそに開催する意義があるのだから)」
「Vous êtes vraiment une mauvaise personne.(あなたってば本当に人が悪いわね)」
「Sinon, vous ne pouvez pas les contrôler.(そうでなければ奴らを支配できないよ)」
恒元の妻、中川アリーシャは生粋のパリジェンヌであり日本語を話せない。ゆえに恒元は彼女と話す際に流暢な仏語を用いている。
こういう時、傭兵時代に多様な語学を習得しておいて正解であったと思わされる。アリーシャ夫人は本当に感情の波が激しい婆さんなので彼女の言葉を一回で理解出来ねば機嫌を悪くしてしまうのである。
無論、身につけた教養は複数か国の言語だけに非ず。
「華鈴」
「ええ」
傍らにパートナーを伴い、宴会場を歩くための基本動作も心得ている。稼業の男なら美女をエスコートする術くらいは身につけておいて当然なのだ。
「総帥。こちらが華鈴でございます」
総帥夫妻の前に進み出た俺たちは深々と頭を下げる。
「久しぶりだな、華鈴」
「お久しぶりでございます……恒元公」
「その衣装、よく似合っておるぞ」
アリーシャ夫人が値踏みするような視線を向けてくるが、華鈴は物おじせずに笑顔を見せる。それでこそ俺の女だ。
「それにしても涼平、お前のタキシードも似合っておるな」
「光栄でございます」
「並みの女ならイチコロであろうな、ふはははっ」
宴が始まる前から酒を呷っていた所為か、愉快そうに高笑いする恒元。俺はこのようにフォーマルな装いに袖を通すのは格別なシチュエーションにおいてのみと決めているので、今回の姿は総帥にとっては珍しいらしい。
「さあ、お前らも楽しむが良いぞ」
恒元に頭を下げ、俺たちはテーブルへと向かった。そこには日頃より屋敷で働く料理人たちが腕によりをかけてこしらえたフレンチの絶品の数々が並ぶ。
牛肉のコンフィ、フォワグラ、トリュフのオムレツ、仔羊のロースト、フォアグラのポアレ……そしてデザートには苺のシャーベット。
まさに贅を尽くしたメニューが所狭しと並べられているのである。
「これはまた豪勢な……」
「ああ」
感嘆する俺や華鈴を尻目に親分衆たちが楽しげに語らっている。『吉浦一家』の吉浦総長、『園田興業』の園田代表、『出川組』の出川組長。
此度の四国遠征に参陣した親分たちだ。
「森田も潰れたことだし、これからますます我々の活躍の場が広がるだろうな」
「おう、若いもんには負けねぇぞ」
「いやあ、何歳になっても若々しい兄貴たちには頭が下がりますよ」
恩賞を貰えなかった彼らだが、旧森田一家の縄張りを自分の物にする気でいるらしい。彼らを見つめて、恒元が夫人にキスをした後で呟いた。
「Si je ne les contrôle pas, ce sont eux qui me contrôleront. La route a été longue pour en arriver là...... Oh, on dirait que le divertissement est sur le point de commencer.(奴らを支配しなければ、逆に私が支配されることになる。ここまで来るのに長い道のりだった……おう、余興が始まるようだ)」
「Qu’y a-t-il, Gabriel ?(何なの、ガブリエル)」
「Vous verrez quand vous regarderez.(見れば分かるさ)」
ああ、そういえば中川恒元の洗礼名はガブリエルと云うのであったな――些末事はさておき。俺は会場の中央へと視線を運ぶ。
「……始まったか」
現れたのは真っ赤な踊り子装束を纏った一人の女性。全てがフランス流に整えられた空間には似合わぬ格好で、その顔は真白く塗られている。
部屋の隅に待機している楽団員が助勤の合図で楽器を弾き始める。するとヴァイオリンやトランペットらが鳴り響き、これまた和装とは釣り合わぬ音が流れた。
会場の雰囲気が変わったことに気づき、妻を傍らに侍らせ酒と談笑を楽しんでいた親分衆は演奏の方に注目した。
踊り子装束の女が軽快に踊る。扇を片手に腰には剣を差し、その動きはダイナミックの一言に尽きる。
一糸乱れぬ振り付けのためか観客たちは皆固唾を飲んで見守っている。
「何だありゃ」
「気味悪いぜ」
「でもよ……なんか見ちまうよな」
「分かるぜ」
するとその時、女が腰に差していた短刀を抜き放ち絶叫した。
「中川恒元ッ! 覚悟ォォォーッ!」
この女の正体を俺は把握している――姫香だ。彼女は短刀を腰だめに構えると物凄い形相で恒元へ飛びかかった。
だが、その瞬間。
「うっ……うあああっ」
呻き声を上げ、姫香はその場に崩れ落ちた。まるで糸の切れたマリオネットのように。
「なっ、何だ!?」
「こいつ、どこから入りやがった?」
「よく考えりゃ見覚えがある顔だぞ!」
突如として起こった出来事に場が騒然とする中、恒元は手を叩きながら笑っていた。
「ふははっ。素晴らしい腕だな、忍びたちよ」
その視線の先には黒装束の男たちの姿があった。局長の率いる忍びの一党だ。
恒元めがけ飛びかかった姫香に彼らが透明な鉄針を打ち込んだのである。その針を首筋に食らった姫香は一瞬で事切れた。
「さて、ここからがメインディッシュだ」
唖然とする皆の様子にはお構いなしで、恒元はゆっくりと歩みを進める。その先には吉浦たちが居た。
「これはお前たちの仕業だな」
「はぇっ!?」
「我輩が恩賞を与えなんだことを不満に思い、反旗を翻した……浅ましいことよ」
「なっ、何を仰ります! そんな滅相も無いことです!」
腰を抜かしながらも必死で否定する吉浦、園田、出川の3人を冷徹に睨み、恒元は傍で控える親衛隊員に申し付けた。
「やりなさい」
すると彼はコクンと頷き、拳銃を引き抜く。その銃口は云うまでも無く吉浦たちに向いていた。
「てっ、てめぇら! 何の真似だ!」
「馬鹿なッ!」
「わっ、分かった! 言うことを聞くから撃つなッ!」
慌てて後ずさる吉浦たちを尻目に、男は拳銃の引金を引いた。乾いた銃声が会場中に響き渡り、3人の身体が大きく揺れる。
そして、彼らはその場に倒れた。
「……」
乾いた表情を浮かべる俺と、じっと俯く華鈴。そんな俺たちの様子には目もくれず、恒元は笑いながら皆に言うのであった。
「愚かにも我輩に反旗を翻した賊徒は総じてこうなるということだ! 皆もよく目に焼き付けておくのだよっ!」
全ては鵜川姫香の憎悪を利用した恒元が考え付いた粛清劇であった。組織にとって脅威となる姫香を始末し、同時に野心欲を隠そうともしない吉浦たちを排除するための。
提案したのは他でもない、俺だ。中川恒元への憎しみを捨てきれぬ旨を彼女から聞いて「ならば」と思い作戦を練った。
「……涼平」
「何も言うな」
愛しい女の肩を抱き、俺はそっと彼女の手を握る。華鈴もまた握り返し、手の震えを何とか制そうとしていた。
一方で恒元は助勤たちに目配せし、息絶えた姫香の体に刃を入れさせる。程なくして骸から切り分けられた真っ赤な物体が皿の上に乗せられ、宴会場の中央へ運ばれた。
「さあ、皆。今宵のメインディッシュだよ」
汚らわしい血の匂いを放つ赤い塊――それが人肉であることは誰の目から見ても明らかだった。
嬉々として恒元は言う。
「討ち果たした敵将の血を啜り、肉を食らうことこそが男として至上の悦び……そうは思わんかね?」
あまりにも無惨な肉塊に目を見開いたまま、晴れ着姿の女たちは怯えていた。稼業に生きる親分の妻と云えども、かくまで鮮烈な光景は見たことが無いのだろう。
それはアリーシャもまた同じ。
「C’est ridicule.(……馬鹿げているわ)」
ため息と共に目を閉じ、吐き捨てるように呟いた夫人に恒元は優しく微笑みかける。「Ce n’est pas grave, Alicia. Je vais le faire cuire maintenant.(大丈夫だよ、アリーシャ。今からこれを美味しくさせるのだから)」と言うが、彼女は首を横に振った。そして夫にこう勧めたのである。
「Ma bien-aimée...... Arrêtons cela maintenant.(あなた……もうこんなことはよしましょう)」
「Ne vous inquiétez pas. Il a une texture similaire à celle du poulet, mais vous vous y habituerez et il deviendra addictif.(安心したまえ。鶏肉みたいな食感だが慣れれば癖になるぞ)」
妻の諫言を笑い飛ばし、恒元は傍で控える屋敷の料理長を睨み「さあ、貴様の腕の見せどころだぞ」と言葉を発した。
「わ、分かりました……」
このコックも裏社会の人間で、長らく赤坂で働いているベテラン。中川会三代目からの誘いを断れないことは分かっているのだろう。畏れ慄きながらも「承知いたしました」と頷くと穴の開いた姫香や吉浦たちの体を運び出す助勤たちに続いて宴会場を駆け出して行った。
「しかしながら、人間という生き物の血は美しいね。我輩は美しいものが好きだ。この匂いを嗅いでいると何だか心が昂ってくるよ」
そう呟きながら恒元は嗜んでいたワインの入ったグラスを置き、ゆっくりと前へ進み出る。血痕が絨毯に染み付かぬよう慌ただしくスプレーを吹きかけて掃除をする助勤たちを尻目に、狂気の総帥は偶然近くに居た女の二の腕をぐいっと掴んだ。
「Voulez-vous danser avec moi ?」
「えっ。今、何と……」
「我輩と踊らぬかと誘ったのだ。さあ、付いて来たまえ」
戸惑う女――阿熊一家総長夫人の細い手首をがっしりと掴み、強引に中央へ連れ出すと恒元は彼女を振り回しながら踊りだした。
「きゃっ、な……何をなさいますのっ!」
「Stella《星》ッ! Stella《星》ッ!」
「……総帥! 離してくださいっ!」
「Beauté《美》ッ! Beauté《美》ッ!」
「ふざけるな! 誰があんたなんかと一緒に踊ってやるものかッ!」
悲鳴を上げて恒元の手を振りほどこうとした門谷の妻の顔を恒元は拳で殴った。
「痛いッ!」
その場にうずくまり、顔を手で覆う門谷夫人に吐き捨てる。
「口を慎みたまえっ! 我輩は君を選んだのだよ」
するとそんな夫の様子をアリーシャ夫人が静かに見つめた。夫人は夫の狼藉を咎めることなく、ただ黙って見つめているのである。
それは夫への信頼か、あるいは……。
「La mauvaise habitude de cette personne est sortie. Cette personne n’a pas changé du tout depuis l’ancien temps. Je me plaindrai plus tard.(また始まった。あの人は昔から変わらない。後でたっぷり仕返ししてやるんだから)」
無表情でワインを煽る夫人に俺は「Madame, s’il vous plaît, calmez-vous.(奥方様。どうかお気をお鎮め下さいませ)」とボトルを差し出す。それを受け取ると彼女はゆっくりと頷いた。その穏やかな瞳には夫に対する非難も無ければば嫌悪も無い。まるで全てに呆れているかの如く、ただじっと夫を見つめているのだ。
やがて、恒元は越坂部夫人の身に着けていた衣装を力任せに引き裂き、露になった乳房を揉んだ。夫の門谷総長の見ている前で。
「嫌ぁぁぁーっ! 助けてぇぇぇ! 誰かぁぁぁ!」
「むふふっ、悲鳴を上げよ。囀るほどに美しき女。もっと我輩を楽しませるのだ」
「ああああっ! あああああああっ!」
彼女の下着を破壊した恒元は自らもズボンを脱ぎ、そのいきり立ったものを取り出した。そして一気に膣へと差し込んだ。
「ひぐぅっ!」
悲鳴と共に目を見開き、必死に抵抗する越坂部夫人。だが、その抵抗も虚しく彼女はピストン運動に晒される。
「むふふ、良い締まり具合であるぞ」
「あうぅっ! あうっ! あああっ!」
俺の居るところからは女の顔しか見えないため、彼女がどのような表情を見せているかは窺い知ることはできない。されど男が突き入れる度に揺れる大きな乳房を見れば、否が応でも事の凄まじさを認識させられる。
「大丈夫だ。華鈴」
「……うん」
拳を握りしめて俯く想い人の肩を抱いた俺は、対角線上に立つ門谷総長へ視線をやる。
「……」
蹂躙される妻を前に、彼は何も云わない。ただ黙って親分である恒元の横暴を傍観しているだけだ。
彼の目は既に諦めていた。己の未来と妻が蹂躙される様を映す瞳は虚ろである。そんな門谷と目が合った瞬間、不意に肩の力が抜けた気がした。
しかし、彼の目に悲しみの色は無かった。まるで「うちの妻でよろしければ献上いたしましょう」とでも言いたげに平然としている。そんな門谷と目が合った瞬間、俺はこの男の思考の根底に眠る執念を悟った。
如何なる状況にあろうとも生き残りを為さんとする決意――きっと門谷は今後も恒元には無条件に平伏し続けて自らの命と立場を守ってゆくであろう。
「ああ、たまには年増の女を抱くのも良いものだな……おっと。アリーシャは別格だから気にしないでくれ。ははっ」
暫くして情事を終え、ぐったりとする門谷夫人を見下ろしながらズボンのチャックを締めながら満足そうに言った恒元。すると時を同じくして先ほどの料理長が数名の部下と共に品を運んできた。
「お待たせ致しました」
恭しく礼をして部下たちが用意した料理を置く。わざとらしくこんもりと盛られた料理たち。
各界の名だたる美食家からエキスパートと呼ばれるコックだけあって彩りが鮮やかで、思わず見入ってしまいそうな出来栄えだ。ただ唯一、人の肉で作られたという点を抜きにすれば。
「ふむ。ステーキか。悪くないな」
そう言って恒元は自らの席へ着くと豪華な飾りのついたナイフとフォークを使い、こんがりと焼けた肉を食した。
「うむ。美味い。この歯応えがたまらぬな」
視線を向けられたので、俺はコクンと頷く。
「左様でございますか」
「美しき女の肉だし、もっと柔らかいかと思っていたが……食感に欠けるのも物足りぬので良しとしよう。さあ、お前も食べるが良い」
「は、はい」
思わず声が震えた。何せこれは姫香の体から切り分けられた肉なのであるから。
「いただきます」
されどもここで拒む選択肢など無いので俺は恒元の隣へ腰かけてフォークを握る。怒りと恐怖、憐憫が混ざる胸中でその肉を食した。
「お、美味しい……」
悔しいかな、それは絶品であった。料理長の腕のおかげか見た目もビーフステーキそのもので、筋張った様子も無く非常に柔らかく美味い。
「そうだろう。流石は我輩の涼平だ」
恒元は下品な笑みを浮かべる。俺は心で舌打ちをしつつ、無難な感想を口にした。すると直後、華鈴がフォークを手に近づいてきた。
「会長……いや、総帥。あたしもそのお肉を頂きたく存じます。よろしいでしょうか?」
「ふふっ。構わんぞ」
「ありがとうございます。では、失礼して」
華鈴は肉にフォークを突き刺した。それを口に運ぼうとした瞬間、彼女の手は止まる。ギョッと瞳を見開く俺の顔が視界に入ったからであろう。
「……これが姫香ちゃんだというなら、あたしも食べたい。ただ、それだけ。涼平ひとりに、そんな思いはさせたくないから」
そう言うと華鈴は肉を口の中へと放り込む。一瞬、その表情が強張る。しかし、それでも彼女はゴクッと飲み込んで「うん、美味しい」と微笑んだ。
俺は自分が情けなかった。よもや守りきれなかった妹分の肉を恋人に食わせようとは。
それから恒元は凍り付いた表情で一部始終を見守っていた一同に「ほら、お前たちも食え。美味いぞ」と言い放ち、拒否の痙攣を催したり、躊躇いのあまり嘔吐した数名の直参組長を射殺するに至った。
まさに悪魔の園のような光景の中で、俺と華鈴はただただ体を抱き寄せ合っていた。互いの心を守るかのように。
宴が終わり、心臓を抉り出された姫香と吉浦たちの骸が庭で晒されたのは朝を迎えてから。酔い潰れた恒元が寝室で眠りに耽ると、俺は華鈴の家へ向かった。
そうして互いに抱え込んだあらゆる激情をぶつけ合うかのように体を交わらせた。
「……あたしもクズだよね」
事後、一糸纏わぬ姿で横たわる俺の胸に寄り添ってきた華鈴。その目は涙で潤んでいた。
「全ては俺が仕組んだことだ」
「でも、あたしは!」
すかさずキスで口を塞ぐ。そして諭すように言葉を続ける。
「お前はあいつの最後の夢を叶えてやったじゃねぇか。『東京見物をしたい』っていう夢を」
「……うん」
「関東の病院に移ってから抜け殻みてぇに生きてた姫香の顔が、あの時だけは輝いてた。この17日の中でいちばん幸せな瞬間だったと思うぞ」
「で、でも、そのせいで姫香ちゃんはあんな事をする決意を固めちゃったんだよ!?」
「あいつ自身が選んだことだ。憎き敵の妾として生かされるより極道として華やかに散りたいと」
「……分かってる。分かってるけど!」
俺は無言でいた。豊満な肢体を抱き寄せながら目を閉じる。
四国から戻った後で琴音の息のかかった病院で治療を施されていた姫香は、中川恒元による助命を拒否した。そして彼を討ち、殺された嘉賀、竹葉、そして大林たち子分らの仇を討ちたいと願った。
『そんなことが為せると思うのか?』
『為せなくてもやる他ない。それが極道だ』
『お前って奴は……』
歯噛みした俺に、姫香はこんなことを言っていた。
『もうこの世に居る理由が無いんだ。皆、私のために命を落としたようなものだからな。竹葉の大伯父貴だって、私のために煌王会とパイプを作ってくれていたのに……せめて愛する人と一緒になれるなら話は違ったが、どうやらあたしには無さそうなのでな』
寂しそうな目で俺を見つめる姫香に、何も言えなかった。
しかし、俺と一緒に見舞いへ赴いていた華鈴がこんな提案をしたのであった。
『ねぇ姫香ちゃん。あたしに東京の街を案内させてもらっても良いかな』
『えっ……』
『涼平から聞いたんだけど、姫香ちゃんは東京見物がしたいって言ってたらしいじゃん。だから、この機会に』
『……だが、私は』
『細かいことは気にしないで楽しみましょうよ、ね?』
華鈴の提案を戸惑いがちに呑んだ姫香は傷が癒えた後、彼女と遊びに出かけた。俺としては女同士気兼ねなく楽しんで貰いたいと思ったが、姫香に『涼平も来てくれ』と言われたのでついて行くことにした。
歓楽街の住人だけあって遊び慣れた華鈴は姫香をエスコートし、彼女が憧れていたことを全て満喫させた。渋谷のファッション街で買い物をしたり、赤坂で食べ歩きをしたり、東京タワーや上野公園といった観光地にも足を運んだ。
『凄いな……私はこんな世界があるなんて夢にも思わなかった』
『姫香ちゃんはもっと自分の世界を広げるべきなんだよ。あたしなんかよりよっぽど広い世界をね』
『華鈴さん……』
姫香は瞳を輝かせていた。されども、一日を終えた後に彼女から飛び出たのは哀しい台詞であった。
『……ありがとう。これで未練が消えたよ』
その言葉には俺も華鈴も息を呑んだ。華鈴としては楽しい思い出をつくることで姫香に生きるという選択をしてしてもらいたかったのだろうが――結局のところ覚悟を決めてしまった女総長の姿に項垂れる他なかった。
俺は恒元に全てを伝えた。
『どうなさいますか?』
恒元は下品に笑うだけだった。
『ならば素晴らしき散り舞台を用意しようではないか、余興としても十分に見応えがあろうよ』
そうして起こったのが舞踏会での一幕。わざと姫香に自分を討たせる機会を設け、これを打ち砕くことで彼女の誇りを今わの際まで砕いてやろうという醜い魂胆だ。
姫香を始末する仕事は忍びたちに任せた。恒元には『忠誠心を示す機会を与えませんと』と理由を語って納得させたが、当の局長は俺を睨んで言った。
『貸しだとは思わんぞ』
『そ、そうか』
『だがな、麻木……引き金を引くべき時に躊躇しておれば後々で必ず悔やむことになろうぞ』
俺に後悔は生まれなかった。そんな気分を覆い隠すほどに後味の悪さが情緒を支配していたから。
「……どうしてこんなことになるんだろう」
目覚めた後、大粒の涙をこぼす華鈴へ再びキスをする。俺はこれほどまでに素晴らしい女を愛してしまったのだ。
「ああ、この世界は間違っている。だから、変えようぜ。俺たちの手で」
「……うん。ありがとう。涼平」
「そのためにも力を得る。いつしか中川恒元を倒せるくらいの力を」
俺の言葉に華鈴は深々と頷いてくれた。
「うん。あたしは涼平の味方だからね。涼平の夢を叶えるために全力で応援するよ」
「華鈴……本当にお前は良い女だ」
「ありがとう。でも、それはお互い様だよ」
そんな会話を交わした後、俺はまたもや華鈴の唇を奪い、その肢体を心ゆくまで堪能したのであった。
数時間後。
「涼平、今日のお仕事は?」
「特に総帥のお出かけも無ぇから、いつも通り赤坂近辺の地回りをすることになりそうだ。昼くらいなったらまた何か食わせてくれや」
華鈴の店での食事は俺の息抜きであり、稼業の男の肩書きを外して寛げる大切な時間だ。愛しい女と触れ合うことこそ俺が俺のままでいられる理由だと最近は思うようになった。
裸のままベッドから起き上がり「今日も美味いもんを頼むぜ」と華鈴に目を細めると彼女も笑みを返した。
「分かった。あ、良かったら屋敷に出前しようか?」
「気持ちは嬉しいが、一人で店を切り盛りする華鈴の手を煩わせるわけにはいかねぇからよ」
「そっか……」
「第一、総本部は恒元公の機嫌次第で何が起こるか分かったもんじゃねぇ。お前を呼ぶには危なすぎる」
「……そうだね」
「尤も、その『総本部』って施設名もヤクザっぽくて嫌気が差したとかで『宮殿』に変えるみてぇだが」
「何よそれ、どっかの王様じゃあるまいし」
「まったくだ。しかし『会長』の称号を『総帥』に変える御教も唐突だったのに、あっという間に浸透したからな」
組織の誰もが恒元に恐怖を抱いている。そうした中では理想を貫き通すなど夢のまた夢ではないか――虚しい現状にため息がこぼれそうになる俺だったが、寸前で堪えた。
「まあ、皆が恒元公にビビってるってことはそれだけ権力が強くなったってことだからな。利用のし甲斐があるってもんだぜ」
「う、うん」
少し懸念の色を交えて頷いた想い人の乳首を俺は優しくつねった。「あんっ」と可愛い嬌声が華鈴の唇から漏れる。
「心配するな。俺がお前を必ず守ってやる」
「うん。ありがとう」
「ああ」
そうして再び唇を吸った俺は彼女の体を優しく抱き寄せ、そのままベッドへと押し倒す。
「あ、あの……涼平。もうそろそろお店に行かないと」
「……そうだな。だが、その前に」
俺は華鈴の体へ手を這わせる。そして豊満な乳房に喰らいついた。
「あんっ」
艶のある声があがる。華鈴は頬を赤らめつつ、俺の目を見つめてきた。
「もうっ、涼平ったら……このままじゃお仕事間に合わなくなっちゃうよ?」
「大丈夫だ。俺は急いでいたって必ず間に合わせてみせるさ」
そう言って乳首を甘噛みする。華鈴は途端に「駄目ッ」と言うもその声は明らかに嫌がっておらず、むしろ心地好さそうに瞳を蕩けさせている。
「欲しいんだ」
「はぁ、はぁっ……な、何を?」
俺は乳房から口を離し、その耳元で囁く。
「……お前の愛を」
「りょ……涼平っ」
華鈴は切なげな声で俺の名を呼ぶと自ら唇を合わせてきた。そして舌を絡ませて互いの唾液を交換する。
「んっ……ちゅっ……んんっ」
やがて唇を離すと彼女は潤んだ瞳で言った。
「……いいよ。あたしの愛をあげる。全部あげる」
「嬉しいぜ。華鈴。好きだ」
「あたしも。好きだよ」
そうしてまたもや貪るように体をぶつけ合う俺達であった。
「んじゃ、行ってくるぜ」
華鈴は布団の中から「行ってらっしゃい」と手を振る。その愛らしさに笑みを返しながら俺は朝焼けに包まれる赤坂の街へ歩みを進めていった。
華鈴のカフェから総本部……いや、宮殿までは歩いて15分ほど。その近くも遠くもない距離感が俺にとっては心地よかった。
恒元からは『お前も幹部に昇進したことだし外出の折は助勤を送迎に使った方が格好が付くだろう』と言われているがお生憎様、想い人の元とを行き来する際は徒歩と決めている。
何故なら穏やかな空間から血で血を洗う闇の世界へ戻るにあたり、落ち着いて考え事に耽ることが出来るからだ。
ただ、その日は少し違った。宮殿の近くまで行くと、門の付近に人だかりが生じて怒声が飛び交っている。
「何の騒ぎだ?」
足早に歩み寄ってみると、一人の男を囲んで助勤たちが口汚く罵っている。
「この野郎! ぶち殺されに来たか!」
「今すぐその首刎ねて心臓抉ってやろうかコラァ! 敵地のド真ん中へ一人で現れるたぁ良い度胸じゃねぇか!」
二叉槍や銃を携えて興奮する酒井や原田たちに囲まれた男――何と、それは駈堂であった。
煌王会のナンバー2であることに変わりは無いが、もしかすれば組織を割るかもしれない人物。ゆえに俺の部下たちは迂闊に殺せずにいるらしい。
「あっ、次長!」
助勤を下がらせて群れを掻き分け、駈堂を睨みつける俺。すると奴の方から鋭い眼光を飛ばして言葉を浴びせてきた。
「川崎の獅子が言ってたぜ。『弱い獣ほど吠えやがる』ってな。もっと部下を教育した方が良いんじゃねぇか、涼平」
「何の用だ。駈堂。随分と迂闊だな」
「この野郎……とぼけんじゃねぇぞッ! テメェ、姫香を殺しやがったな!」
「は?」
怪訝な声で応じる俺に、駈堂はにじり寄る。
「人のすることか! 年端もいかねぇ少女を汚ぇ罠にかけて殺した上に、その肉を食らうなんざ!」
この男の瞳は怒りで燃えている。
どうやら駈堂は俺が奸計を弄して姫香を粛清したものと思っているらしい。誤解も良いところであるが、表向きの事の流れだけを見ればそのように認識されるのは仕方ないことである。
まあ、今さら善人ぶる気など毛頭ない。想い人と誓った理想を成すためなら俺は化け物にでも何でもなってやる。
俺は薄ら笑いを浮かべて返答した。
「ふっ、だったら何だ?」
「ガキがぁぁぁッ!!」
次の瞬間、駈堂は俺に拳を放ってきた。無論、今回は黙って殴られてやったりはしない。
――ドガッ。
俺は滑らかにカウンターを入れた。
「ぶはっ……」
だいぶ手を抜いたつもりが、駈堂は尻餅をついた。口からはおびただしい量の血を吐いている。
そんな彼に俺は言った。
「あんたも極道だろう? だったら力のある者に歯向かった人間がどういう末路を辿るかくらい、分かるよな?」
「……そのクソみてぇな世の理を変えるのがテメェの夢だったんじゃねぇのかよ」
「俺の夢は恒元公による美しき世界の創造をお支えすること。そいつを邪魔する奴は何人であろうと殺すだけだ」
「イカれてるな。薬でも打ったか」
「黙れ」
口を塞ぐように、俺は駈堂の右肩に貫手を突き刺す。
――グシャッ。
飛び出す血飛沫と共に、奴は顔を苦悶で歪める。
「ぐああっ」
静脈の位置は外したつもりが想像以上の血が噴き上がった。まあ、ここで殺してしまったとしても構わないか。
どうせいずれ遠からず始末することになるのだから。
「起こせ」
「はっ」
助勤たちに立たせた駈堂に俺は言い放った。
「あんたは俺に川崎の獅子の幻影を見ているようだが、俺は俺だ。ただ、万物の王たる中川恒元公の御為に忠を尽くすのみ」
そんな俺の姿を見る駈堂の瞳の色が一瞬だけ変じていたことに俺は気付いていた。怒りと憎しみの中に、ほんの少しだけ憐れむ情が浮かんだように見えたのである。
「……」
しかし、すぐさま元の目つきへと戻った。そして心の中で爆炎のごとく燃え盛る闘気を全身から放出しながら言い放った。
「……そうか。だったら俺も殺すだけだ。麻木涼平、テメェは倒すべき敵だ」
その瞬間、駈堂の中における麻木涼平という男についての認識が変貌したことを俺は悟った。これまでは恩人の息子という縁で手心をかけていたが今後は無用というわけか。
願ったり叶ったりだ。俺は吹き出すように笑う。
「ふっ、そんなに殺してぇか」
「当たり前だ! テメェみてぇに権力を傘に着て他人の命を平気で奪う奴が俺は何より許せねぇんだ……男ならせめて自分の名と腕だけで戦ってみやがれ!」
「素晴らしい演説だが、あんたに何が為せるってんだか」
鼻を鳴らした俺は酒井と原田たちに言った。
「この男を殺せ」
俺の申し付けに彼らは歓喜した。
「ひゃはははっ! 了解しましたぜ次長!」
「嬲り殺しだーっ! 兄貴にとくとご覧頂きましょう!」
跳び上がらんばかりの雄叫びを発した彼らは各々の得物を構え、駈堂に向けて振り下ろす。だが、その瞬間。
――シュッ。
駈堂が自らの両脇を抱えていた助勤たちを振り払った。そして生じた一瞬の隙に彼らを次々と殴り倒してゆく。
「オラァ!」
目にも止まらぬ速さ。一人、また一人と吹っ飛ばされてゆく部下たちに俺は息を呑んだ。
「なっ、何だと!?」
米兵顔負けの格闘術を仕込んだ俺の部下をこうもあっさり……ましてや駈堂は負傷しているのではなかったのか。
「俺は負けねぇっ! 負けてたまるかってんだよっ!」
爆発したマグマのような駈堂の猛攻を前に、ついに酒井と原田までもが膝をついてしまう。密集しているが故に、衝撃波の発生する二叉槍を使えなかったことが響いたか。
何にせよ恐るべき火事場の馬鹿力だ。
「……やってくれたな!」
構えをとった俺を睨みつけ、なおも凄まじい闘気を放つ駈堂。彼の命を絶つべく、俺が突進を駆けようとしたその時。
「そこまでだ」
声が聞こえた。ふと視線を向ける屋敷の方から恒元が歩み寄って来ていた。
「誰かと思えば貴様か、駈堂。我輩の宮殿の門前を血で汚すとは大した胆力だ」
「ああ? 次はテメェか?」
「まあ、ひと思いに殺してやっても良いのだがね……それではつまらぬ」
彼の言わんとしていることを見抜いた俺は「総帥!」と声を上げる。しかし、恒元は「良いのだよ」と微笑んでみせると駈堂に言った。
「駈堂よ。貴様ほどの男なら今の我輩の力が如何ほどのものか、理解しているのだろう?」
「……何が言いてぇんだ」
「如何に雄々しく盾突こうが、もはや貴様ごときに倒される我輩ではないのだよ。ましてや、稼業の男でありながら『殺し』という行為に奇妙な哲学を持つ者にはな」
「……」
「今日とて、銃の一丁でも携行しておれば易く我輩の首を獲れたというものを。そんなに己の手を汚すのが嫌とは笑わせる」
「だから、俺じゃテメェに勝てねぇってのか。負けが見えた喧嘩だろうが何だろうが命乞いするほど俺は弱かねぇぞ」
「逆だ。せいぜい我輩を楽しませてみよということだ」
「何だと」
眉を顰める駈堂に恒元は言った。
「狩人に追い立てられる野兎に為せることはたったひとつ。生き汚く足掻いて逃げて、狩人を楽しませることだけだ」
「……人間を動物扱いとはどこまでもふざけてやがる」
「ああ。ふざけているのだよ。我輩のように圧倒的な力を持つと全てが戯れに見えてしまってね」
表社会で国家のフィクサーとしての権勢を盤石なものとし、裏社会においても日本制覇を着々と進めつつある暗黒の帝王。その自信たるや、もはや目につくもの全てが下等生物に思えて仕方がないのだろう。
いやはや、もしかしたら俺のことも他の人間と同様に内心では見下しているのかもしれないが――そんな可能性はさておいて心は昂っていた。この男の傍に居れば困ることはあるまいという確信めいたものが脳内に振って湧いたから。
「これより我輩は西方へ進撃をかけ、圧倒的な武力をもって裏社会を平らかにする。九州の玄道会は既に手中に入れたことだし、残るは貴様ら煌王会だけだ……昨年に広島を傘下に入れて勢力を拡大したとて関東博徒には勝てぬぞ」
その言葉に駈堂は一切の怯む様子を見せなかった。
「それがどうした、この野郎。相手が誰だろうがぶっ潰すだけだ。関西一丸となってな」
「ならば貴様の煌王会破門がに撤回されたという情報は真であったか」
「テメェを殺すまでの間は組織に残してくれるとよ。何だかんだ俺の腕をうちの会長は高く買ってるみてぇでな」
駈堂に人を惹きつける不思議な魅力があることは俺も感じていた。その人心掌握術と今までに築き上げた松下組の武力は、いくら当人が忠誠心に欠ける跳ねっ返りとはいえ捨てるに惜しいのであろう。
「中川恒元、そして麻木涼平! テメェらは俺がぶっ殺す! 覚えておけ!」
駈堂はそう言い放つとよろよろと足を引きずりながらも去って行った。おそらく近くに部下を待機させているのだろう。
「放っておけ。奴がいれば楽しいゲームが出来そうだ……関西の賊党どもを嬲り殺しにする『狩り』をな」
恒元は自信満々だった。彼の次なる標的は関西――負ける可能性など微塵も考えていないのであろう。
傲岸不遜で癪に障るし、何より腹立たしい。されども彼が強ければ強いほど、俺と華鈴も利用しやすい。
せいぜい俺たちの理想を叶える道具になってもらうとしよう。
「恒元公」
俺は振り向いて総帥たる男へ言った。
「煌王会を攻めるなら今が攻め時と存じます。村雨耀介との戦いで奴らの中枢は混乱の極みに達しつつあります」
「そうだな」
恒元は勿体ぶるように深く頷いてみせる。
「関西へ兵を差し向け、大阪を落とす。さすれば盃外交で繋がった組織など易く崩れよう」
「ええ、そして横浜の雄たる村雨を中川会へ引き入れましょう」
「良いだろう……だがな、涼平よ。一日や二日で趨勢を決してしまってはつまらぬ。やるからには楽しみたいのだよ」
そう言い放つと恒元は宮殿の中へ入って行った。俺は部下たちに負傷兵の救護および手当てを申し付けると、総帥を慌てて追いかけて屋内へ入る。
「楽しみたいとは? 如何なることで?」
「奴らが苦しみ泣き叫ぶ姿を眺めながら、ゆっくりと嬲り殺しにしたいのだよ。ふふっ、その方が楽しいだろう」
西日本制圧に時間をかけるということか。まあ、俺の思い描く理想は裏社会を全て中川会一色に染めずとも成せる。
ゆえに俺は恒元の指揮する戦で程良く武功を立て、彼のおぼえがめでたくなったところで意見具申を行えば良い。曖昧なプランが浮かんだところで恒元は呟くように言った。
「しかし、駈堂は煌王会に残ってどうするつもりなのか。橘を諫めて翻意させるにしても、あの欲深き男がそう簡単に考えを改めるとは思えぬ」
「ええ……」
「尤も、いずれ煌王会ごと討ち滅ぼしてやるのだがな。はははっ」
鼻で笑う総帥の傍らで、俺は駈堂の状況が少し気になっていた。方向性は違えど、気高き理想を成すために暴君の傍で仕えるという選択は俺と共通するものがある。俺が絶対に折れないと心に誓ったように奴もまた不屈の闘志を抱いていることだろうから、今後はあの男が少なからぬ脅威になるのではないか。
「ところで涼平。今日の予定は?」
「はっ。いつもと同じ、恒元公のご領地の見回りでございます」
「であれば、少しくらい遊びに興じても障りあるまい」
「えっ」
恒元はニヤリと笑みを浮かべて言った。
「汚らしいビル風に吹かれたのだ。風呂に入ろう」
それから風呂場でさんざん愛撫を施された後、屋敷へ戻った俺は恒元の寝室で彼に抱かれていた。事に及ぶ前にシャワーで全身を洗った後、火照る体を冷やすためそのまま布団にくるまっていた。
「ふふっ、頼もしいよ……」
恒元がポツリと呟く。俺は腕枕を受けながら次の言葉を待った。
「……お前が居ればこの世の全てが手に入りそうだ」
「ええ、俺には夢があります」
「夢?」
「万物を統べる恒元公の為される政で全ての寄る辺なき人々を救い、この国から貧困を一掃するという夢が。それを叶えるためにこそ俺は銃を撃ち、刀を振るうのです」
「ふははっ。可愛いな、お前は」
そう言って俺を抱きしめた恒元は舐め回すように顔を眺め、ニヤリと頬を緩めて言うのであった。
「以前にも増して良い顔つきをしている。これからも我輩のために戦い、我輩を愛するのだよ」
「はっ。承知いたしました」
かくして、いつものごとく始まった情事の中で俺は闘志を燃やしていた。近い将来、必ずやこの中川恒元を倒す。自らの手で奴の命を断ち、この国の闇を全て切り開くのだ――そんな大それたことを心に誓いながら。
しかし、この時の俺は知る由もなかった。
この誓いを果たすためには、途方もない数の人を殺さねばならない宿命にあるということを。
四国制圧を果たした中川恒元の野心は昂ってゆくばかり。そんな男の傍で涼平は何を為すか。次回、新章開幕。




