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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第2章 ふたりの異端者
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秋元が見せた配慮

 自室に戻ってもなお、俺の心は荒ぶったままだった。


 人を殺してしまった――。


 その事実が胸を締め付ける。それは後悔だとか、恐怖だとか、単純な名詞で片づけられる感情ではない。誰かの命を奪った罪悪感と、乱闘の中でおぼえた高揚感。ポジティブとマイナスがごちゃ混ぜになって、思考が乱れて、複雑化した情念で頭がショートしそうになった。そんな心中のまま、いつも通りの日課をこなせるはずがない。


 戻ってきた俺の姿を見た秋元は、優しく、そして静かに言った。


「ご苦労さまでした。さ、お風呂に入ってきてください」


 俺はひどく、汚れていた。スラックスは土まみれで、ワイシャツはぐっしょりと濡れている。そんな状態では、絢華の前に立たせられないと秋元は判断したのだろう。


「それまで仕事は私がやっておきますから」


「……わかった」


 軽く返事をした。俺としても、シャワーで汗を流したい気分。彼女の心遣いが、素直に嬉しい。とはいえ、それで心が落ち着くわけでもない。ぼーっとして温水に打たれ、その後は湯舟に浸かった。だが、心を覆うモヤモヤは一向に払えなかった。


「……」


 水の音しか聞こえない浴室という空間では、どうも余計に考え込んでしまう。


「ん?」


 シャンプーで髪を洗っている時。ふと鏡に映った自分の顔を見て、俺は驚きの声を上げた。


「うわああっ!!」


 映っていたのは、なんと森だった。俺の顔が一瞬、彼の顔に見えたのである。おそらくは心が映し出した幻影の類だろう。しかし、恐ろしいインパクトだ。戦慄と衝撃が全身を駆け抜けた俺は、そのまま後ろ向きに倒れた。


 ――ドッシーン!


 即座に受け身をとったので後頭部は無傷だったが、背中を床に強打してしまった。痛みを堪えながら、何とか起き上がる俺。


「ううっ……」


 痛めた背中を片手で摩りつつ、ゆっくりと風呂椅子に腰かける。そして恐る恐る、鏡を再び覗き込んでみる。だが、そこにいたのは普段と同じ自分の顔。


(いまのは何だったんだ……)


 つい30分ほど前に殺した男が、自分の顔になって現われるという恐ろしい幻覚。気分転換のつもりが、更に心を乱す結果に終わってしまった。俺は、そそくさとシャワーを済ませると、風呂場を出た。


 ドライヤーで髪を乾かし、事前に秋元から渡されていた新しい服に袖を通す。本来ならば鏡を見て、シャツの襟を整えねばならないのだが、先ほどの恐怖体験のせいで鏡を見るのが怖かった。


「はあ……」


 大きなため息と共に、俺は絢華の部屋へと向かう。欲を言えば、少し自室で休ませてもらいたかった。少しどころかずっと、寝ていたかった。しかしそれは世話係という役目上、許されない。


(いまいち元気が出ねぇなぁ)


 鬱屈とした気分のまま、ドアを開けた。すると、そこにいた絢華の装いがいつもとは違った。


「お前、どうした? その格好は」


 真ん中にリボンのついた上品な黒いブラウスと、膝までの茶色いスカート。黒いタイツを履いた脚には毛布が掛けられている。入ってきた俺を見るなり、絢華はつんとした声で言った。


「遅い。いまから出かけるところ。早く支度なさい」


 わけが分からず戸惑う俺に、絢華の後ろにいた秋元が補足説明をしてくれる。


「お嬢様は今から、美容室に行くのです。そのついでにお買い物も済ませるご予定です。あなたも一緒に来てください」


「えっ?」


「お嬢様たっての希望です」


 美容室とショッピングであれば、秋元がついて行くだけで良いではないか。自分が誘われる意味が理解できなかったが、彼女曰くこれは命令であるという。渋々であるが、俺は同意した。


(どうせ俺の役目は荷物持ちだろ? めんどくせぇなあ)


 このような場面における男の役割と言えば8割方、買い物の袋や箱を持たされるポーターだ。幼少期、母と妹との買い物で経験済みだった。


「今日の運転は私がやります。麻木君はお嬢様をお願いします」


「分かったよ」


 秋元が車を取りに行っている間、絢華は車椅子を自分で押して、部屋の鏡台で軽く化粧をしていた。乳液やら、ファンデーションやら、女性が使う道具は分かりにくい。それ以上に鏡を見ることに抵抗があった俺は、途中で絢華から「ここ、ちゃんと濡れてる?」などと聞かれても全く答えられなかった。


「ねえ、ちゃんと聞いてる? 私は質問をしているのだけど!」


「知らねぇよ。自分が良いと思うなら、それで良いんじゃねぇのか」


「どうしてさっきからそっち向いてるわけ?」


「それは、その……」


 風呂場の鏡の中に、さっき自分が殺した男がいた――。


 そんな事を言えるわけがない。俺は頭の中で必死に言葉を取り繕って、できる限りの言い訳をした。


「なんつーか、自身が持てねぇんだよ。自分の顔に」


「……だから鏡を見るのが嫌だと?」


「あ、ああ。そういうことだ」


 すると絢華は、くすっと笑った。


「意外ね。あなた、自分には絶対の自信を持ってるものだと思っていたけど。でも、言うほどあなたの顔は悪くないんじゃない? 粗削りだけど、いちおうパーツは整っているし。ぜんぜん地味な感じもしない」


 思いがけず、ルックスの品評をされてしまった俺。上から目線の言い方には腹が立ったが、鏡が見られない言い訳が通じたので、それはそれで良い。軽く、受け流した。


「お、おう。褒め言葉として受け取っておくぜ」


「うん。もっと、外見に気を遣ってみるのも良いかもしれない。たとえば眉を……」


「わかったわかった。そんな事より、お前。さっさと化粧を済ませやがれ。いつまで待たせんだよ」


 年頃の女の子の身支度には時間がかかるようで、俺はあくびをしながら待機した。そもそも、絢華は出不精ではなかったのか。引きこもり気味の彼女が外へ出るのに、ここまで入念に準備をするとは想像できなかった。


(まあ、楽しそうだから良しとするか)


 そんなことを考えているうちに、絢華は髪の身支度を終えた。


「おまたせ。さ、行きましょ!」


「はいはい……」


 いつになくテンションが高い彼女。一方で車椅子を押しながら廊下を歩く俺は、未だに風呂場での体験を引きずっていた。忘れようにも忘れられない、グロテスクな幻想。あれは俺が人を殺してしまったから現れたのだろうか。それとも、最初から現れる運命だったのか。


 どちらにせよ、己の心を沈ませるには十分だった。車に乗り込んでからも、ただ呆然と窓の外を見つめていたと思う。絢華に話しかけられても適当に返事をするだけ。


「ねぇ。あなた、さっきから俯いてるけどさ。何かあったの?」


「別に何ともねぇよ。ただ、疲れてるだけだ」


 一方、俺の気持ちを察していたのか。秋元は黙っていた。このような時、熟年者というのは有り難いかもしれない。て相手の心情を察する能力が若輩者に比べて長けているからだ。彼女の無言の気遣いに俺は助けられた。


「……」


 それから2時間ほど走った後、車は目的地に着いた。横浜からかなり離れた、東京のショッピングモールだった。秋元によると、このモールの一角にある会員制の美容室が絢華の行きつけなのだという。


 これまでヘアカラーを買うのはたいていスーパーかドラッグストア、切るのは専ら近所の床屋で済ませてきた俺。それゆえ、髪を整えに行くためにわざわざ遠出をする行為は些か理解しがたかった。


「さあ、お嬢様! 着きましたよ!」


「うん!」


 秋元の肩を借り、嬉々として車から降りる絢華。笑顔が眩しく見えた。


(珍しいな……)


 いつもは決まって仏頂面の彼女のこと。もしかしたら、笑っている姿を見ること自体が初めてかもしれなかった。


「さ、早くあなたも降りてください」


 秋元に促され、俺も渋々車を降りた。彼女たちが店に行っている間は車内で寝ていようかとも思ったが、そうはいかないようである。


「……では、2時間後にトランシーバーを鳴らしますから。ここへ来てください。いいですね?」


 モールに入るなり、秋元は絢華の車椅子を押し、目当ての店へと行ってしまった。ちなみに2時間というのはヘアセットだけの時間で、買い物はその後に済ませるらしい。


(やっぱり荷物持ちかよ……)


 心に抱いた不満を悟られぬよう、俺はできる限り明るい表情をつくって絢華たちを見送った。


「ああ。どうぞ、楽しんで!」


 1人になってしまった。待ち合わせまで、どこかで時間を潰さなくてはならない。しかし、どこへ行けば良いのかがわからない。


(浮いている……)


 オシャレに格好つけた人々が行き交う中、俺は自分の格好が見るからに「場違い」であることを認識させられたのだ。


 とにかく大きな図体に、剃られた眉と金髪。こんなにもいかつくて威圧的な容姿では、オシャレ以前の問題だろう。すれ違った者の中には、俺の方を見ながらひそひそと話す家族連れの姿もあった。怯えているようで、なんだか申し訳ない気分になってきてしまう。


(どっか、ひっそりと目立たない場所にでも行こうかな)


 そう思って足早に歩き始めた、その時。


「おおっ! 涼平じゃないか!」


 後ろから、突如として呼び止められた。聞き覚えのある声だ。ハッとして振り返ってみると、やや懐かしい顔があった。

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