憧れ
群馬県草津町。
登別と並ぶ、日本でも指折り温泉地としてポピュラーなこの街は飲み屋もまた活気づいている。昔ながらの料理を供する居酒屋から、廉価で楽しめる屋台までバリエーションは幅広く、ここへ赴いた観光客の多くが温泉と共に酒を嗜み、温泉地ならではの酔いを満喫している。
全ての温泉地に当てはまる話ではないのだろうが、あのような地域は水商売――いわゆるスナックが多い。
メインストリートから少し外れれば、ピンク色の看板が目につく。新宿や赤坂ほどではないにせよ、やたらとそのような店が軒を連ねているのだ。
そんな独特の風情が溢れるスナック街に赴いた俺であるが、何も女店主「ママ」との会話を楽しみたくなったわけではない。
先ほど草津駅のホームで遭遇した謎の女が「あなたに会いたがっている人がいる」というので、案内されてきたのだ。
曰く、その人物は草津駅に程近いスナック街の一角にある店を貸し切り状態にしているらしい。
一体、誰なのだろう。というより、この女は……?
深夜を迎えてもなお酔客でごった返す駅前の大通りを歩きながら、俺はふと尋ねてみた。
「……もし俺の勘が当たってりゃ、あんたはCIAの中でも戦地工作担当部門に居たんじゃねぇのか」
すると女は驚いた。
「おお、元CIAだということはさっきうっかり口を滑らせましたが、まさかそこまで読んでおられるとは」
「だと思ったぜ。さっきの気配の隠し方に情報工作担当部門らしい特徴というか癖が現れていなかった」
かつて東欧でCIAの工作部隊と共同戦線で戦った俺は、その特徴をよく知っていた。
「流石はミスター・アサギ」
「別に褒めて貰う謂れは無いぜ」
俺は肩をすくめた。すると女は云う。
「我が主もあなた様の腕をとても評価しております」
「……かもな」
そんな会話を経て、俺たちは目的地へ到着したのだった。店の名前は『スナック花』だそうだ。
ドアを開けるとカランコロンとベルが鳴った。カウンターには店主らしき女がいる。年齢は四十代後半くらいか。
それよりも目についたのは座席だった。
「うふふっ。夜はどうかしら。涼平」
真珠にも似た純白のブラウスを纏った女。黒いスカートから覗く肉付きの良い生脚が美しい。妖艶の二文字では喩えらえぬほどの色気が放たれている――己の中で昂る何かを懸命に抑えながら、俺は応じた。
「っ!? ひ、久しぶりだな。琴音」
藤城琴音。投資家集団『藤城ファンド』の代表にして中川会の顧客で、中川恒元の妾。そして俺とも浅からぬ縁を持つ女性だ。
しかし、どうしてこんな街で……?
戸惑いで次なる言葉に困る俺に琴音は微笑みかけながら言った。
「とりあえず座って。飲みましょうよ」
「ああ」
俺はカウンター席に着いた。琴音の後ろでは先ほどの謎の女が待機している。ようやく記憶が巻き戻されたが、彼女は藤城琴音の私兵部隊の一員だった。
「……そういやあ昔は米軍に居たんだったな。隠密行動はCIAの戦地工作担当部門で研修したってわけか」
「うふふっ。ご名答」
その会話を耳にした当人が小さく頭を下げた後、俺は琴音の方を向き戻った。
「で? 何の用だ? 二人で飲みてぇなら錦糸町の『STRAY』でも良かったんじゃねぇのか?」
「まあ、いつもの店でも良かったんだけど。草津に行ったっていうから。たまには田舎で飲むのも良いかなと思ってね」
俺が草津へ旅行中という情報を誰から得たのやら。さしずめ恒元あたりが漏らしたのだろう。ため息と共に煙草を咥えた。
「……」
すると琴音が嬉しそうにライターを差し出してくる。その矢鱈と艶めかしい仕草も然りだが、何処か悪戯っぽい表情に俺はさらなる嘆息をこぼす。どうやらこの女は敢えて今というタイミングを狙ったらしい。
「……困った女だ」
「うふふっ。何のことかしらね」
「いくら何でも人様のデートに割り込まなくたって良いだろうに」
「あらあら。そう言う割には満更でもないご様子だけど?」
「うるせぇよ……」
彼女が点けた火で先端を炙り、煙草から放射されるニコチンを深々と吸い込む俺。この女もこの女なれど、恒元も恒元だ。華鈴と並び、琴音とも割り切れぬ仲にあることをあの御仁は知っているのか――尤も、その主君から賜った煙草を吸いながら文句を云うのもおかしな話だが。
「……いつもより味が濃いな」
こみ上がる憂さを誤魔化すように呟いた後、俺は目を逸らしたまま言葉を続けた。
「ただデートを邪魔しに来たってわけじゃねぇだろ?」
すると琴音は深々と頷いた後、少しばかりの吐息を混ぜて話し始める。
「ちょっとした大仕事をすることになってね。暫く日本を離れることになるから、あなたの顔が見たくなって」
「大仕事?」
俺は訝しんだ。わざわざこんな場所で話す内容なのだろうか。しかし、彼女は構わず続ける。
「……今、私の会社がミラージュ・エレクトロニクスの上場株式の大量買いに動いてる。おそらく来月頭には70パーセントに達する見込みよ。遅くともね」
「ミラージュ・エレクトロニクス? 確かアメリカの資源開発産業大手だったよな? 随分デカい買い物だな?」
「ええ、あの会社の本社はネバダ州のヘンダーソンにあってね」
「まさか!」
俺は目を見開いた。この女が何を云わんとしているのかを理解したからである。すると琴音は頷いた後、話を再開した。
「そのミラージュ・エレクトロニクス社を裏で操っているのが元米軍将校で構成されるギャング『ランゴスタファミリー』よ」
「……つまりあんたがTOBに成功すりゃ、奴らの隠れ蓑を剥がせるってわけか」
「ええ。本丸へ切り込む突破口が開けるってわけ」
琴音は国際的な人身売買組織を潰すために動いていた。その本拠地が米国ネバダ州にあることを突き止めるに至り、いよいよ彼らを叩きのめすべく攻勢を仕掛けようというのだ。
「ミラージュ・エレクトロニクスの経営が日本企業に奪われるとなれば、奴らは全力で阻止しに動くはず」
「……そうしてギャングどもの兵力があんたを殺ろうとネバダを離れた隙にブラックマーケットを潰すってわけか」
「うん」
琴音の声と表情は決意に満ちている。必ずや成し遂げてやらんとする顔つきだ。されども俺は煙と共にため息を吐いた。
「ミラージュ・エレクトロニクスはアメリカの防衛にも携わる企業だ。そこに粉をかけるとならば後ろ盾のギャングどころか大統領府も黙っちゃいねぇぞ。下手すりゃNSAの外国要人暗殺リストにあんたの名が載っちまうことにもなりかねんが……」
だが、琴音は頷くだけ。
「ええ。分かってる。でも、私はやると決めた」
それを為せるのは自分しかいない――そう言いたげな口ぶりである。傭兵時代にアメリカという国の強さと恐ろしさを肌で味わっている俺としては素直に背中を押してやれない話だ。まあ、俺がここで諫めたとしても琴音は耳をまるで貸さないであろうが。
「……あんたの信念は分かっている。だが、どうしてそこまで? 効率の良いやり方にせよ危険すぎやしねぇか?」
「危険を冒さなきゃ得られないものがある。それだけのことよ。まあ、だとしても普通の投資とは訳が違うわよね」
そう自嘲気味に言った後、琴音はグラスのハイボールをぐいっと飲んだ。
「投資はあらゆるリスクを見積もった上で周到にプランを練って行うもの。ただ、今回はプランの組みようが無い」
「ああ……」
俺は頷いた。確かにその通りだ。琴音がやろうとしていることは投資ではない――命を投げうつようなものだ。
「……だがよ、そこまでしてやらなきゃならないことなのか? あんたも分かってるだろ? アメリカ政府を敵に回して無傷でいられると思うのか?」
するとカウンターの奥の老婆が声をかけてきた。
「お客さん、何を飲まれますか」
そういえばまだ注文をしていなかった。俺が一言で「バーボンのロック」とだけ答えると、老婆は苦笑いで言葉を返す。
「生憎、バーボンは無いんですよ」
「そうか……じゃあ、この人と同じものを頼む」
「かしこまりました」
老婆は琴音の方をちらりと見た後、会釈をして店の奥へ入っていった。そうして再び二人きりになる俺たち。
「……」
俺は吸い終えた煙草を灰皿で消し、無言を貫く。すると琴音はグラスを置いてぽつりぽつりと語り始めたのだ。
「確かに無謀ね」
「だったら!」
思わず声が裏返ってしまう俺に、彼女はにっこり笑う。そしてこう続けたのだった。
「……でもね、これは私の生きる意味なのよ」
「生きる意味?」
俺が首を傾げると、彼女は頷く。
「ええ。もっと云えば、私が生まれた意味」
その時、老婆がグラスを持って奥から現れた。
「はい。こちら、ハイボールでございます」
「あ、ああ、ありがとう」
俺はグラスを両手で持つと口に運ぶ。奇妙な動作に自分でも失笑を催しそうになる。
そんなこちらの様子を見て少しばかり頬を緩めると、琴音が呟くように云ったのだ。
「私の家はね、旧華族なの。元は代々続く両替商で明治の頃に爵位を授かったとかで。おかげで昔から裕福だった」
「……初耳だな」
てっきり普通の家庭で育ったものと思っていたのだが……しかし、それならば合点がいくところもある。あの振る舞いや教養は生まれながらに備わったものではなかったのだろうと容易に思い至る。俺がそんなことを思っているうちにも話は続けられる。
「でも、藤城の家の両親は本当の両親じゃない」
「養女に迎えられたってことか?」
「養女と云えば養女だけど、買われたのよ」
「買われた?」
「うん。まだ0歳3ヵ月くらいの時に」
そう語った後、暫くの沈黙を挟み琴音は言った。
「私、デザインベビーなの。人工授精で生まれたの」
「っ!?」
俺は思わず目を見開いた。
「デ、デザインベビー……」
新聞で目にしたことのある単語である。それが意味するところはなんとなく分かる気がした。
「……優秀な人間を人工的に作り上げる技術が1960年代のアメリカで金持ちの道楽になってたって話は耳にしたことがある。まさか、それが日本でも行われてたってのかよ」
すると彼女は小さく頷く。
「ええ、そうよ。極秘裏にね。アメリカの研究機関から大枚はたいて購入したって」
そんな琴音の言葉に俺は愕然としたのだった。しかし、同時に納得もしていたのである。
彼女の並外れた美貌と教養が人為的に生み出されたものだというのならば――いや、そんなことはどうでも良い。
「あんた……無茶をやらかすのは、自分と同じ人間をこれ以上生まないためか。カネで買われる赤ん坊たちを」
「そうね。私の場合、藤城の両親がとても優しかったから人並程度に幸せな幼少期を過ごせた。でも、そうでない子たちの割合が圧倒的に多いのよ」
「ああ」
俺は深く頷いた。確かにそうだ。物心つかぬ赤子をカネで買うような連中は大抵が人の命を道具としか考えていない。
優秀な跡継ぎを儲ける目的にせよ、言いなりの下僕を調達する目的にせよ、他人を己の思い通りにコントロールしようとする奴らだ。そんな人間たちに買われた子供たちの末路は想像に難くない。
「だから私はブラックマーケットを潰したいの。そして私と同じ境遇にある子供たちを助けたいのよ」
「……それでミラージュ・エレクトロニクスにTOBを仕掛けようってのか」
「ええ。もし成功すれば、私と同じような境遇にある子供たちは救われて、生き方を支配されることもなくなる」
しかし、だからと言ってあんた自身の命を――そう反論を呈したい気分であったが俺は何も言わなかった。
リスクの伴う道であろうとなかろうと、やると決めたらやる。それが藤城琴音という女だ。
俺の為すべきことは、ただひとつ。
「……分かった。現地への潜入は俺に任せてくれ。ちょうどラスベガスに連中の本拠地があるって情報を掴んでたんでな」
すると琴音はこう答えたのである。
「ありがとう。涼平。そう言ってくれると思ってたわ」
彼女の腕がするすると伸びてきたので、俺もまた彼女を抱き寄せる。
「好きよ」
その言葉を遮るように無言で彼女の唇へ食らいつく俺。特に意味は持たぬ振る舞い。ただ、琴音が愛しくてたまらない。
それだけだった。
「むぐっ……はあ、涼平……大好き……私も愚かね。表向きじゃ強い女を演じてるくせに、本当は誰より強い男の人に守って貰いたいなんて」
「何も考えなくて良い。俺があんたを守る。何があろうとな」
きっとこの場がスナックという空間でなければ、もっと深い行為へと及んでいたかもしれない――なんて下世話な妄想はさておき、数秒後に唇を離した俺は糸を引く唾液を紙ナプキンで拭いながら、琴音の両目を見つめて言った。
「あんたが命を懸けるなら俺も命を懸けさせてもらう。それが俺の流儀だ。惚れた女を一人で危険地帯へ行かせられるか」
「うん。私を守ってね。子供の頃から強い男の人を見ると自然と体が疼いちゃったけど、あなたは正真正銘よ」
「ああ……ところで決行の日は?」
「7月21日。ニューヨーク株式市場が始動した瞬間にマンハッタンで記者会見を開いてTOBを発表する」
「それでギャングどもが動揺している隙を突いて俺がラスベガスにカチコミをかければ良いってわけか。任せてくれ」
すると琴音は「ありがとう」とだけ呟き、グラスのハイボールを飲み干した。俺もまた彼女に続いて酒を一気に飲んだ。
「もう一杯お作りしましょうか?」
老婆がカウンターから声をかけてくる。俺は少し考えた後、こう答えた。
「いや、いい。そろそろ行くことにするよ」
そうして席を離れ、琴音に「また後でな」と声をかけて扉へと向かう。とんだ安請け合いをしちまったもんだ……まあ良いか。どうせ琴音に頼まれずとも秀虎のためにラスベガスを奇襲する流れになっていたであろうし――そう思いつつ俺は夜の街へと消えたのである。
「ちょっとぉ! 麻木さん、どこ行ってたの? 心配したんだから!」
待ち合わせの宿のロビーで、華鈴は少しばかりムッとした様子で待っていた。
「すまねぇな。尾行を撒くのに時間がかかっちまった。もう大丈夫だ」
「それなら良いけど……」
「ま、まあ、気をとり直して旅行再開と行こうぜ。へへっ」
誤魔化すように笑いつつ煙草を咥える俺。すると華鈴は「もう!」と応じると、こう続けたのである。
「……ねぇ? 何か酔ってない?」
胸がドキリとした。
「まあな。奴さんの目を眩ますためにスナックに入った。ああいう時は酔っ払いに紛れるのが丁度良いんだよ」
「ふーん。お酒臭いのはそういうことかあ。分かった」
納得した様子の華鈴に俺は内心ほっとする。然程飲んでいないつもりだったのだが、華鈴は歓楽街で育っただけあって僅かな酒の臭いも嗅ぎ付けてしまうようだ――琴音とのことは黙っておくとしよう。
「ま、何にせよ無事で良かったよ。じゃあ、あたしたちも飲もっか」
「ああ」
そんな会話を交わしつつ俺たちは飲み屋街へと歩いた。
草津と云えば温泉街。その歓楽街には多種多様な店が軒を連ねている。俺は華鈴と共に一軒の居酒屋へと入った。
「いらっしゃいませ」
店主に会釈をしつつ店内を見回すと、カウンター席しか無い小さな店である。客もまばらにしかおらず静かな雰囲気だ。俺たちは奥のカウンター席に腰掛ける。
「マスター、ビール頂戴。それからおつまみを二皿ずつ」
「かしこまりました」
相変らず要領の良い華鈴の注文から間もなくして目の前にグラスが置かれたのでさっそく口をつける俺。しかし、隣の華鈴が耳元で囁いてきた。
「さっき琴音さんと会ってたでしょ」
「っ!?」
俺は思わずむせ返ってしまう。すると彼女はニヤニヤと笑いながら言った。
「ふふっ! 図星だね!」
「ど、どうして分かった?」
おしぼりで口元を拭く俺に、華鈴は得意げな顔で続ける。
「だって麻木さんの煙草の匂いに混じって琴音さんの匂いがしたんだもん」
「な……なるほど……」
そんな会話をしていると、二皿の料理がカウンターに並べられた。フライドチキンとペッパーキャベツ。酒との相性が抜群の食べ物だ。
「わぁ、美味しそう! いただきまーす!」
華鈴はさっそくチキンにかぶりつく。俺もまたペッパーキャベツを箸で口に放り込んだ。塩気と辛味がビールによく合う――そうして暫く食事を楽しんでいると、華鈴がこんなことを言い出したのである。
「ねえ……麻木さんはさ、あたしと一緒にいて楽しい?」
唐突なクエスチョンであった。俺は素直に答えることにした。
「ああ」
すると彼女は嬉しそうに微笑んで言ったのだ。
「良かった。あたし、麻木さんと一緒にいて楽しいよ」
「……そうか」
俺は短く答える。華鈴は続けた。
「麻木さんってクールで格好良いよね。それに優しいし……だから、ずっと傍にいたいなって思っちゃうんだ……」
「……」
えっ、それってつまり――ともあれ耳を傾けるとしよう。目を丸くする俺。彼女は続けた。
「……ねぇ、あたしのことどう思ってる?」
俺は率直に答えた。
「大切な人だ」
そう答えた。この時「惚れた女だ」とは言えずとも「大切な女だ」と答えられていたら、どれほど格好が付いたか。
大切な人だなんて。こんな答え方じゃ、異性とも仲間ととも感じられる表現ではないか。
事ここに至ってもまだ好きな女に想いを伝えられないとは。俺は自分自身の情けなさをひどく嘆いた。
「ふふっ! そっかあ、大切な人かあ!」
そんな俺の心中など知る由もない華鈴は、苦笑と失笑が織り交ざった表情へと変じる。そしてこう続けたのだ。
「じゃあ、これからもよろしくね」
その言葉はまるで、これからも友達としてよろしくねと云われているかのようなニュアンスだった。
「ああ」
俺はそう答えてビールを飲み干す。そうして追加注文の品が来るまでの間、華鈴は何も言わなかった。ただ黙って微笑んでいただけだったのである。
そうして翌日と翌々日と俺たちは草津旅行を楽しんだが、俺が期待していたもの――いわゆるお楽しみは無かった。
華鈴とは同じ部屋に寝た。けれども風呂もベッドは別。少なからぬ期待を胸に秘めていただけに何とも切なかった。
まるで彼女が敢えてそうしているように思えたことが何よりも虚しく、心で燻ぶった。事に及ぶ時、潤んだ目で「ゴム、着けて?」とせがまれる展開を想定して避妊具まで懐に入れていたというのに。いやいや、これではただの痛々しい男じゃないか!
まったく、何ということだ……。
縁日、街歩き、動物園と昼間は楽しく語らう時が続いただけに、夜に何も無いのが本当に寂しかった。
無論、彼女には格好良い姿を見せたつもりである。
「ねぇ、麻木さん。射的やりたい。あの猫が欲しい」
「おお、ぬいぐるみか。良いじゃねぇか。やろうぜ」
いつにも増して格好付けた仕草で玩具銃を構え、狙いを定める俺。
「やっぱり銃には慣れてるね。職業病ってやつか」
「ちょ、華鈴!?」
「うふふっ。冗談だよ」
俺は引き金を引いた。するとコルクの弾丸は標的の眉間に当たる――倒れこそしたものの、ぬいぐるみは台から落ちはしなかったのである。
それから6発も発射したが、結局ぬいぐるみが落下することは無かった。理由は単純明快。本来は物体のバランスを崩す足や腕を狙うべきなのに眉間ばかりを狙い続けたためである。
元傭兵の性か、ついつい急所を狙いたくなる。俺は「ありゃ……」と呆然になりつつも銃を店主に返却した。
「残念だったね」
華鈴は苦笑交じりに言う。俺は誤魔化すように答えた。
「……確かに職業病かもな」
そうして俺たちは縁日の屋台で金魚掬いをしたが、やはり1匹も掬うことができなかったのである。
「あーあ! また失敗しちゃったよ!」
そんな華鈴の嘆きを聞きながらも俺は別のことを考えていた。
俺はこの女と恋仲になれるのだろうか……?
距離は縮まっているが、恋人らしい雰囲気は皆無。そうこうしているうちに旅行はあっという間に幕を閉じ、俺たちは赤坂へと戻った。
「楽しかったね! 麻木さん!」
「あ、ああ……」
帰りの電車で俺たちを包む空気が哀しかったのは語るに及ばない。暑さを纏い始めた夏の陽気がやけに鬱陶しく思えた夕方だった。
それから俺も華鈴も日常へと戻り、昼間あるいは深夜に『Café Noble』を訪れた際に語らうだけの日々が続いた。
まるで先月までと同じように。かつてと何ひとつ変わらない関係性である。
はあ、こんな調子では秀虎や他の男に華鈴を奪われちまうな――そう思いつつもなかなか彼女の心を掴めず、悶々とした時間が流れる中のある日。
俺は中川恒元に仕事を申し付けられた。
「会長。お呼びでしょうか」
「うむ。護衛して貰いたい人間がいる」
「用心棒……誰です?」
「たぶん知っているはずだよ」
ニヤリと笑う恒元が提示したのは、どういうわけかラジオ局『ラジオ日本』へのアクセス。きょとんとしつつ指定された時刻に現地へ向かってみると、そこで待っていたのは思いがけぬ人物であった。その人物は俺を見るなり、まるで友人にでも交わすような口調で挨拶を寄越してきた。
「うぃっす。あんたが中川の親分さんが遣わした用心棒か」
俺は暫く声を発することができなかった。何故なら、そこに居たのは憧れの男。中学時代からずっと追いかけている人だ。
「あっ……マジか……」
緊張で動けなくなる俺を見て心中を悟ったか、その男は気さくに肩をポンと叩いてきた。
「ははっ。そりゃあ、緊張するわな。あんたみたいに熱心なファンがいるのはロッカー冥利に尽きるねぇ」
まるで自分には多くのファンが居て当然だと言わんばかりの台詞。だが、彼くらいのミュージシャンならば言っても差し支えないだろう。
何せ、その男は超人気ロックシンガーの神野龍我だったのだから。
「……」
彼の曲はバンド時代から好んでいた。そんな憧れの男と会っているとは。俺は頭がパニックに陥りそうだった。
すると神野は「まあ、座ってくれよ」と言って俺を着席させた。おっと、いけないいけない。テンションが上がりすぎるあまり、ここがラジオ局『ラジオ日本』の楽屋であり、今の日時が2005年7月19日0時30分であるということを忘れかけていたぞ。
「……どうして俺なんかを?」
俺は戸惑いつつも訊ねる。すると彼はこう答えたのだ。
「中川の親分さんから聞いたんだよ。護衛が欲しけりゃ麻木涼平っていう腕利きを寄越してやるってさ」
神野が中川会本家に用心棒代を納めている旨の話は、恒元から教えられていた。恒元が関係を築いているのは、永田町の政治家や兜町の富豪だけではない。神野龍我のような今をときめく芸能人ともコネクションを築き、護衛や仕事の斡旋と引き換えに毎月多額の金を貰っているのだ。
「ところで、あんた。生まれは?」
神野は興味深そうに俺の顔を覗き込む。俺は素直に答えた。
「川崎だ」
すると彼は大袈裟に驚いた様子で言ったのである。
「マジか、同郷じゃねぇか!」
ああ、存じているとも。川崎市で1990年代以降に青春時代を送った人間にとって神野龍我は英雄なのだ。かくいう俺も中学時代は「自分があのLUVIAのボーカルと地元が同じだ」ということに謎の興奮をおぼえては酔いしれていたものだ……しかし、そんな気持ちも束の間であった。
神野は続けたのだ。
「まあ、そんな地元の可愛い後輩クンには伝えづらい話なんだけど。これからラジオの最終回やるんだわ。生放送で」
思わず素っ頓狂な声が上がった。
「ええっ!?」
今の暦は7月。改変期でもないというのにどういうことか。聞けばそこには深い理由があるという。
「これからさぁ、ちょっと……まあ、リスナーやファンの子たちに向けて発表をしようと思ってるわけ。それ、俺から見てもけっこうビッグな発表つうか、まあ、サプライズなわけよ。たぶん、そいつを電波に乗せて喋った瞬間から世間は大荒れになって最終的に番組は打ち切りになると思う」
だから護衛を頼んだというわけか。自分が呼ばれた理由をラジオ局からの帰宅時における露払いだと理解し、頷いた俺。
「……そうか。けど、そんなにヤバい発表なのか?」
「まあ、たぶん悲しむ子は多いと思うねぇ。俺としても心苦しいっつうか」
当人も渋い顔をするばかりで、まるで見当もつかない。
「勿論、局のお偉いさんの同意は得てる。何だかんだ言って数字が獲れればそれで良いみたいだからさぁ」
神野はそれ以上を語らなかったが、俺は考えた。おそらくこの発表とやらは彼にとっても苦渋の決断だったのだろうと。だから俺も無駄な詮索はしなかったのである。
それから程なくして生放送が始まった。『ラジオ日本』ではダントツの人気を誇っているという、神野龍我がパーソナリティーを担う深夜番組。
『神野龍我のエブリナイト・ジャパン』である。
俺はサウンドルームにて待機し、スタッフと共にスタジオから流れてくる音声に耳を傾ける。
「うっす。神野龍我です。こういうことをラジオで話すのは気が乗らねぇっつうか、すっげえ嫌なんだけど。俺のことを応援してくれるファンの皆のために、この番組を盛り上げてくれるリスナーの皆のために、そして何より今まで俺のことを愛してくれたかみさんのために、意を決して言います……」
いつもならテーマソングが流れるはずのところで神妙な語りで口を開いた憧れのロッカー。少しの余韻を入れた後、彼は振り絞るように言葉を続けた。
「……俺、神野龍我は本日をもって、かみさん……紅坂姫奈と離婚することになりました」
これは驚いたぞ……。
まさかの電撃発表に居合わせた涼平! 一方、その背後では……? 次回、彼らに新たな展開!




