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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第12章 銀座継承戦争
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夏のゆらめき

 夜の街は華やかだ。ネオン輝く看板が爛々と輝き、行き交う人波は男女問わず野心に満ちた顔をしている。そんな空気に魅せられるのか、いつだって通りは賑やかである。


「ご注文は何になさいましょうか」


「バーボンをロックで」


「かしこまりました」


 バーボンのロック――これは俺がよく注文するお気に入りの飲み方だ。


「お待たせしました」


 グラスに注がれた琥珀色の液体を俺は口に含んだ。強いアルコールが喉を焼く感覚は心地良い。傭兵をやっていた頃から、俺はこの感覚が大好きだった。


 かつて渡り歩いた異国の酒場では、バーボンのロックを頼むと「ストレートで」と注文したも同然だった。俺が酒について詳しいことを見抜いたマスターは、きっと俺の昔の姿をも想像しているに違いない。


「お客さん、今日は何かお悩みごとでも?」


 グラスが空になった頃、マスターが話しかけてきた。俺は頷いて応える。


「ああ……まあな」


 すると彼は微笑んで云った。


「よろしければお話くださいませんか? お力になれるかもしれませんよ」


 その言葉に俺は笑った。


「ありがとな。ちょいと待ち合わせをしてるんだが……」


 待ち合わせ相手が一向に表れない。20時に会おうと約束していたのだが。


「まあ、よく考えたらあと少しあるわな……マスター。適当に肴をくれ。そいつの分も頼む」


 するとマスターは頷いて小皿に乾き物を盛り付けた。俺はそれを口へ運ぶと勢いよく咀嚼して気を紛らわせた。


「お客さんはご結婚されているんですか?」


 ふと尋ねてきたのは、俺の左隣に座った男である。年齢は60代半ばくらいだろうか。中肉中背でこれといった特徴は無いが、酒に酔ったような赤ら顔と皺の刻まれた肌は印象的だ。


「生憎、独り身だ」


「そうですか。私は家内が居りますが近頃は上手く行ってませんもので、こうしてひとり寂しく飲みに歩いているわけで」


 そう云って彼は笑った。俺はグラスを傾けつつ尋ねる。


「それにしては随分とめかしこんだ格好のようだが?」


 すると男は嬉しそうに頷いた。そしてこう続ける。

「ええ、今日はたまたま娘の予定が空いてたもんで、これから一緒に飲むんですよ。いやあ、さっきメールを貰った時には飛び上がりそうになりましたよ。古希間近のショボくれたジジイにとっちゃ、手元を離れた我が子の成長した姿を見るのが何よりの喜びなんです」


 道理で上品なジャケットを身に纏っていたわけだ。


「……そうか」


 俺がバーボンを呷ると、男もウイスキーを注文した。


「まあ、お互い楽しい夜の時間を過ごすとしましょう」


「おう」


 これから久々に父と娘で水いらずの時を満喫するのに、赤の他人の俺が邪魔をしてはいけない。この老人と少しばかり話して暇を潰すのも良かったが、程々で会話を切り上げることにした。


「……ふう」


 またひとつピーナッツをかじったところで、ドアが勢いよく開いた。そこから姿を現したのは待ち人たる御仁である。


「おっと、もう来てるかと思いきや姿が見えんな。どこへ行ったんだか」


 彼はいたずらっぽい声と共に店内を見回した。わざとらしい仕草に俺は思わず苦笑する。


「よう、先に酔わせて貰ってたぜ」


「分かってるさ、兄弟」


「何が兄弟だ、この野郎」


「ではこう呼ばせて貰おうか……鞍馬の使い手さん」


「止してくれ」


「ふふっ、冗談だよ。麻木次長」


 三淵みつぶち史弥ふみや。かねてより思っていたことだが、この男の振る舞いは鼻につくほど飄々としている。


 そんな食えない輩と酒の席に赴いたのは当然ながらプライベートではない。


「まあ、良い。それで、俺に伝えたいことって?」


「輝虎の秘密拠点のある街を掴んだ」


 俺はグラスを傾けつつ云った。


「それは朗報だな」


 三淵は頷き、俺の脇に腰を下ろしてマスターにカクテルを注文した。


「ああ。あんたに教えて貰った『横須賀の米海軍基地』って情報を頼りに秀虎派うちで探りを入れたらビンゴだった」


「じゃあ、本当にアメ公の海軍基地の中に奴らの拠点が?」


 やはり先月の時点で三淵に探りを頼んでおいて正解だった――そう思いつつ俺が相槌を打つと彼はこう続けた。


「ところがどっこい、横須賀の基地はあくまでも“物品”の発送に使っているだけらしい」


「……そこはカモフラージュで別に拠点を構えてるってことか」


「ああ」


 俺は合点した。真相を隠すために偽情報を流すのは情報戦の基本だ。米軍のみならず何処の国でも常識であろう。


 しかし。


「度肝を抜いたぞ。よもや俺たちの手の届かない土地にあったとは。ああ見えて先代もなかなかの国際派だったんだな」


 その言葉で眉間に皺が寄る。慌てて訊き返す。


「俺たちの手の届かない土地? それってもしや……」


「ああ。海外だ。アメリカ本土。しかもラスベガス」


「何だって!?」


 俺は息を呑んでいた。


「マジか……」


 三淵も笑うしかないようだった。


「俺も驚いたよ、本当にな」


 曰く、亡き眞行路高虎の持っていた海外の口座を全て洗ったところ、ネバダ州の企業から定期的に送金があったことが分かったのだという。


「その会社の経営元は西海岸でも名うてのギャングだった。『もしや』と思いその組織を探ってみたら案の定、メンバーの大半が元海軍軍人だった」


「……戦地帰りで精神がおかしくなった兵卒が軍を辞めた後でそっちの道に堕ちるって話は聞いたことがある」


「ああ。海軍直伝の航海技術を使って世界中の海で荒稼ぎしているようだ。まったくもってイカれた集団だ」


 彼らは麻薬や武器の密輸に人身売買と何でもござれ。現地のマフィアと結託して莫大な利益を上げていると三淵は語る。


「で、そいつらの提携先が日本の場合、高虎時代の眞行路一家だったってわけか」


 俺の言葉に三淵は深々と頷く。


「ああ。先代は日本のみならず世界中に領土シマを拡げることを目標にしていたからな」


 そして、その元海軍ギャングたちが拠点を置いているのがラスベガスだったというわけだ。


「なるほどな。だから『手の届かない土地』か」


「ああ。俺たちの情報網ではそこまでしか探れなかった。当然、向こうへカチコミかけることもままならんが……」


 三淵は意味深に言葉を区切ってから続けた。


「……あんたは違うだろう?」


 思わず酒が喉につっかえた。


「おいおい、冗談は止せ」


 そう云ってバーボンを呷る。されども三淵の瞳は本気そのもの。どうやら本気で俺に頼む気でいるらしい。


「三淵さんよ。よもや『ラスベガスに殴り込んでギャングどもを潰してくれ』なんて言わねぇよな」


「そのよもやだ。麻木次長」


「馬鹿野郎。そんなこと出来るか」


「いや、元傭兵でアフリカに東欧と激戦地を渡り歩いたあんたなら出来んことも無いだろう」


「あの時は部隊の一員で、なおかつイギリス軍が後ろ盾についていたから暴れられた。だが、今は違う」


「今はただのヤクザだとでも言いたいのか」


 そう云って三淵は俺を見る。その眼差しには真剣さと狡賢さが半々ずつ含まれている気がした。


「言っておくが、あんたが持ちかけてきた話だぞ」

「はあ?」


「あんただって本当は分かっているのだろう。今ここで手を打たなければブラックマーケットは潰れん」


「……ああ」


 このまま輝虎の好きにさせておいて良いのか――そう話を振られたら俺としては頷かざるを得なかった。


「確かに、このまま輝虎の好きにさせておくのはまずいな」


「だろう?」


 三淵はしたり顔で頷く。されども俺はグラスに口を付けた後、ゆっくりと口を開いた。


「だが、アメリカ本土に乗り込むなんざ正気じゃねぇよ。日本国内で他の地域に赴くのとは訳が違うだろうよ」


 すると三淵は大袈裟に肩をすくめた。


「おいおい。だからあんたに頼んでいるのではないか。異国の空で隠密降下して潜入するくらい易い話のはずだ」


「俺をスパイ映画の主人公か何かだと勘違いしてねぇか。俺にそんな腕は無ぇぞ。ましてや心得も無い」


「だが、傭兵時代にパラシュート降下のノウハウは習得しているはずだ」


 そう云うと三淵は笑った。こいつめ、俺の傭兵としての過去を探りやがったな。ため息をつく俺を尻目に奴は続ける。


「そもそもにして、我が主君を守りたいのはあんただって同じはずだ」


 それはそうだ。ブラックマーケットがもたらす豊富な富がある限り、輝虎は弟に優勢であり続けるだろう。よって輝虎の持つ金脈を潰すことこそが秀虎を勝たせる絶対条件なのだ。


「……言っておくが、パラシュート降下はやらねぇぞ。あんなものは映画の産物だ。もっと効率の良い戦術を採る」


 俺のその言葉に三淵は喜んだ。


「ああ。分かっているとも」


「やるからには作戦の全てを任せて貰う。そちらさんの言う通り、元々は俺の考えたプランだからな」


「勿論だ。あんたに任せる。必要なものがあれば何でも言ってくれ、人手以外は用意してやる」


「人手以外とは……相変らず食えねぇ野郎だ」


 すると三淵はグラスに口を付けてから笑った。


「我らもドンパチにけりをつける最終段階なのでね。人員は一人でも多くヒットマンに回したいのだ」


 要は輝虎を討つべく全力を注ぎたいということか。よくよく考えればブラックマーケットを叩かずとも奴さえ倒してしまえば動乱は秀虎の勝ちで決するのだろう。


「……まあな。こちとら少なくとも仕込みに時間がかかる。それよりも先にあんたらが輝虎を討ってくれることを願うぜ」


 皮肉っぽく吐き捨てた俺に、奴は不敵に笑うばかりであった。そして云うのだ。


「良いだろう。今日、あんたに伝えたのはあくまで可能性の話だ。もし俺たちが輝虎を討ち損ねた場合のプランBだ」


 プランB――つまり自分たちが輝虎を早々に始末してしまうから問題ないと言いたいのか。まったく、いつものことながらに食えない野郎だ。かくして俺は三淵の策に乗ることになったのだが、案の定というか何と云うか、それから秀虎派は輝虎に決定打を与えるには至らなかった。


 総力を集めてしらみつぶしに仕掛ける秀虎派の攻撃に、輝虎は徹底して身を隠すことで応じた。それまでの情勢における攻め手と守り手がひっくり返ったと言わんばかりに、輝虎はそれまでに蓄えていた資金とコネクションを駆使して秀虎派を翻弄したのである。銀座方が血眼になって探しても、輝虎の気配すら掴めなかったという。


「だいぶ巧妙に逃げてるみてぇだな」


 ある日のこと。俺は華鈴の店でニコチンの煙と共に息を漏らした。両陣営のドンパチは赤坂の街でも噂になっている模様。


「まったく。あいつのことだから、どうせ外国にでも逃げちゃったんじゃないかな」」


 華鈴は呆れた様子で呟いた。外国に逃げた――そうなると考えられるのはアメリカ・ラスベガスか。

「……分からん。奴とコネがあるのはアメリカだけじゃないはずだ」


「ん、何のこと?」


「あ、いや。何でもねぇ」


 例のブラックマーケットの拠点がラスベガスにあるという話は、華鈴には伝えていなかった。背中を預けた戦友でもあるとはいえ、あまり組織に触れさせるのは忍びなかった。なおかつ行動力のある彼女のこと、迂闊に話して想い人を危険な目に遭わせまいという思いがあった。


「アメリカかあ……旅行先としては悪くないかもね」

「旅行先?」


「先々月に話したと思うんだけどさ。麻木さん、良かったらあたしと旅行に行こうよ」


「旅行?」


 俺は思わず目を剥いた。まさか華鈴がそんな誘いをかけてくれるとは思いもしなかったのだ。


「……ああ」


「その、ほら、思えば麻木さんと二人きりで過ごす時間ってあんまり無かったってでしょ。だから丁度良い機会と思って」


 そう云えばそうだったなと想い起こす。プライベートで丸一日二人きりだったことは無い。彼女はこう続ける。


「外国はちょっと大袈裟かもしれないけど、どこかゆっくりできる行き先が良いなって……それに……」


「それに?」


「……もっと麻木さんと仲良くなりたいから」


 照れ臭そうに云う華鈴に、俺は思わず生唾を飲んだ。


「そ、そうか」


 そして、こう返したのである。


「なら、俺もとことん付き合ってやろうじゃねぇか」


 すると彼女は頬を赤らめた。その仕草も愛らしかったが……まあ、それはさておくとして俺は続けた。


「会長に話して休暇を貰う。組織のことは抜きにして、二人だけでゆっくり楽しもうぜ」


 ちょっと待てよ? 男と女が旅行に赴くとして、その夜に為すことと云えば――いかんいかん。下世話な妄想が頭をよぎる。


 俺は慌てて振り払った。


「あ、ありがとう」


 華鈴はそう云ってから微笑んだ。そしてますます頬を緩める。


「嬉しいな。麻木さんと二人で旅行なんてさ」


「……ああ」


 俺もまたコーヒーを呷る。すると彼女はこう続けた。


「でも、無理はしないでね。もし組織から何かを申し付けられたなら、そっちを優先して構わないから」


 まあ、そうだよな……まあ良いだろう。


 とにかく華鈴と過ごす時間が欲しいのだ。しかし、そんな俺の想いとは裏腹に中川恒元は頷かなかった。


「プライベートなバカンスは構わんが、なるだけ関東甲信越にしてくれ。理由なら分かるだろう」

 もしも赤坂が敵の奇襲攻撃に瀕した場合、すぐに戻れるようにということか。


「……ええ。承知しました」


 確かにそうだよなと思い、俺は素直に頷いた。しかし、恒元は続けてこう云ったのである。


「それとな、涼平」


 そして彼は冗談っぽく笑った。


「年頃の娘との逢瀬は結構だが、くれぐれも一線を越えるなよ」


 いや、一線って何だよ。俺はただ彼女と休暇を楽しみたいだけですよ……とは云えなかった。


 何故なら表情とは別に恒元の目は本気だったからだ。まるで俺の心を見透かすような眼差しに思わずたじろいだものだ。


「っ!?」


「まあ、冗談だ。九州の親分を討った褒美として楽しむと良い」


 思えば中川恒元は好色家だけあって、恋愛模様には人一倍敏感なのかもしれない。


「我輩もアリーシャとは長い付き合いだ。思えば共にモンサンミッシェルを観に行ったなあ」


「へぇ……」


 恒元の妻、中川アリーシャはフランス人だ。パリで育った生粋のパリジェンヌで、若き日の恒元がフランスで暮らしていた頃に恋仲になったのだという。


「アリーシャは美しい女だった。我輩が今まで会ったどんな女よりな」


 そして恒元は遠い目になって続けた。まるで過去を懐かしむように。そこへ俺はツッコミをぶつける。

「奥様は今でもお綺麗ではありませんか」


「ははっ。そう云ってくれるのはありがたいがな。我輩には勿体無いくらいの女だな」


「ええ、会長と奥様の仲睦まじいお姿を見ていると俺たちまで惚気ちまいますよ」


「涼平。夫婦というものはだな、互いが互いをどこまで理解できるかで仲不仲を左右するのだよ」


「はあ……」


 そして恒元はこう続けた。


「アリーシャと我輩はな、結婚してから二十年も連れ添ったのだよ。当時はまだ若くてな……今思えば若気の至りだったなあ」


 そう云うと彼は懐古の念に耽るように目を細めた。まるで遠い過去を懐かしむように。俺は黙って聞くことにした。


「涼平、お前はまだ若いのだからもっと恋愛を楽しむべきだ。一人の女に縛られてはならんぞ」


 一線を越えるな――それはつまり勢いでプロポーズして夫婦になってはいけないという意味か。少しほっとした。


「良いかね。出来るだけ多くの女との恋を楽しむのだ。結婚など30歳になってからでも遅くは無い。まあ、結婚してからでも妾を持てば良いのだが……それとは違うのだ。純粋な恋というものは。とにかく、若いうちに恋を学べ。それが男としての器を作る何よりの秘訣だ」


「そう考えると我輩は様々な恋を学んだものだ。何せパリは恋の街だからなあ。あの街に居れば、自然と誰かを愛する心が芽生えるから不思議だ」


「うむ。我輩がアリーシャに惚れたのは、彼女が通りすがりに我輩を見た際に微笑んでくれたからだ。まあ、俗に云う一目惚れというやつだ。無論、それだけで夫婦仲になったわけではない。それから我輩も何とかアリーシャに振り向いてもらおうとあれこれ励んだ。あいつは恋多き女だったからなあ……」


「わ、分かりましたよ」


 ともあれ、旅行に赴くこと自体の了解は貰った。俺はさっそくそれを華鈴に伝えて行き先を策定する。


「関東の温泉地っていうと……やっぱり草津とか?」


「草津か。温泉は良いな」


 やっぱり温泉地だろう。こういう時は王道こそが正解なのだ。


「こないだ登別に行ったばかりなのにごめんね? それくらいしか思いつかなくて」


「大丈夫だ」


 俺はそう云ってから続ける。


「華鈴と一緒に旅行できるならどこだって良いぜ」


 すると彼女は笑顔に変わった。そして云うのだ。


「じゃあ、草津温泉にしよっか」


 そんなこんなで俺たちは旅のプランを練り、互いの日常をこなしてゆくうちに当日を迎えた。


 俗に旅行に出かける時間帯と云えば朝だが、俺たちは夜だった。『Café Noble』の営業終了後だ。


「ごめんね、わがまま聞いて貰っちゃって。出来るだけ稼いでおきたくてさ。あの人だけだと心許ないから」


「あははっ。気にするな。俺としても組織の奴らに冷やかされねぇからこの時間帯の方が良い」


 ちなみに酒井や原田といった部下たちには今回の旅行のことを伝えていない。数日の休みを貰うとしか話していなかった。


 理由はひとつ、華鈴と二人きりでの旅に赴くと分かれば奴らは必ずや揶揄ってくるからである。


 酒井も原田も俺と華鈴の中には気づいている。小馬鹿にしているわけではない。彼らなりに俺の恋を応援してくれているのだろうが、持て囃されることに慣れていない俺にとっては何ともむず痒い。


 ただ、彼らからすれば俺が羨ましいのだろう。物心ついた時から御曹司として育てられ、結婚相手が幼少期の時点で既に決まっている二人からすれば。


 今までに酒井と原田と3人で『Café Noble』へ赴いたことは何度となくあるから、華鈴もまた俺の部下とは馴染みの仲だ。


 もし、俺が華鈴と結婚したら、その時は二人とも大はしゃぎするのだろうな……なんてくだらぬ幻想が頭に浮かぶ。


 まあ、いつも俺のためにあれこれ頑張ってくれている弟分たちだ。もしも華鈴と結婚することになったら、その時は式に呼んでやろう。


 そして彼らから心からの祝いの言葉を貰おうではないか――まあ、くだらぬ妄想はこの辺にしておこうか。


「一応だけどさ……麻木さん。その、組織の人たちにあたしのことは何て伝えてるの?」


「まあ、馴染みの喫茶店の娘としか伝えてねぇな」


「そ、そっか。良かった」


 華鈴は胸を撫で下ろした。だが、直後に浮かべた表情が気になる。嬉しいような物足りないような――何が正解だったのだ。


「……」


 華鈴は俺のことを恋仲だと思っているのか。いや、それは分からない……とは言い切れないが、彼女から「好きだ」と言われたことは無い。


 よってまだ正式な恋人関係には至っていないと俺は考えている。無論、この曖昧な関係が続くのは何とも歯痒い限り。ゆえに先に進めたいと思っている。


 華鈴との仲を。


 しかし、もしも彼女が俺に振り向いてくれないとしたら……その時は俺は単なる勘違いで暴走した痛々しい男でしかない。


 よってタイミングは選ばなくてはなるまい。思いを打ち明けても良いかどうか、ゆっくりと考えなくてはならないだろう……って、何を情けないことを考えているのだ。俺は。


 微妙な空気が流れた。この雰囲気は好きではない。気まずさを切るように言った。


「……とにかく行くぞ!」


「あ、待ってよ麻木さん!」


 そんなやり取りを経て俺たちは店を後にしたのである。


 さて、今回の旅行は二泊三日だ。


 初日は草津温泉でのんびり過ごし、翌日は周辺地域を観光、翌々日は動物園をめぐって帰るというプランである。


「ところで麻木さん」


 終電を残す新宿駅に向かう道中、華鈴が口を開いた。


「何だ?」


「あたしさ、こういう旅行って初めてなんだよね」


「……そうなのか?」


 初耳だった。


「うん。今までそんな機会無かったからさ。彼氏だって居たこと無いし」


「そうか……って、華鈴!?」


 思わず驚いてしまう。そんな俺に華鈴は続けた。


「だから、その……今日は楽しみだった」


「……ああ」


 俺は静かに頷いた。この場では如何なる反応を示すのが正解なのだろう。悩みに悩んで無難な答えを返す。


「俺もこういう完全プライベートな旅行は無かったな。華鈴と行けて良かったぜ」


 すると彼女は嬉しそうに微笑んだのである。


「うんっ!」


 ああ、良かった。今度は正解だった模様。そんな他愛もない会話を経て俺たちは新宿駅へ向かったのだった。


 さて、終電を逃さぬよう足早にホームへ駆け込むと運良く電車が到着したので飛び乗るとすぐに発車した。どうやら間に合ったようだ。俺と華鈴は隣り合わせでシートに腰を下ろした。


「間に合って良かったね」


「ああ、そうだな」


 そう云って俺は欠伸を噛み殺す。そんな俺に華鈴が苦笑した。


「ごめんね、こんな時間に」


「大丈夫だ。むしろ絶好調だ」


「あははっ。麻木さんって面白いよね」


 華鈴はそう云って笑った後、こう続けたのである。


「でもさ、本当に良かったの? あたしのわがままに付き合ってくれて」


「……」


 彼女の云う「わがまま」とは旅行のことではなく、電車に乗っている間は俺と手を繋ぎたいというリクエストだ。俺はそれに応じたのだが……。


「気にするなよ。俺だって華鈴と過ごしたいんだ」


「……そ、そっか」


 彼女は照れたように下を向いた。その仕草が可愛らしくなって、俺は思わず華鈴の頬を撫でた。


「あっ……」


 彼女は一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに俺の手に自分の手を乗せた。そしてこう云うのである。


「麻木さんの手って温かいね」


「……そうか?」


 俺は笑った。


 昔から体温は高い方だが、それでも華鈴の方が温かいような気がするのだが……まあ良いだろう。

 今はこの温もりに浸っていたいのだ。すると華鈴は上目遣いで見つめてきた後、いたずらっぽくねだってくる。


「ねえ麻木さん」


「何だ?」


「キスしても良いかな」


「は!?」


 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。すると華鈴が笑う。


「あははっ、冗談だよ」


「……ったく」


 俺は呆れつつも内心ほっとしていた。いきなりキスしたいなどと云うから驚いたじゃないか……って違う! 何を期待しているんだよ俺! そんな俺の心を見透かしたかのように彼女は続けた。


「でもさ、あたしと麻木さんの仲じゃん? もう良いかなって思ったりもしてさ……」


 ああもう! どうすれば良いのだ! 深夜だけあって確かに車内に人影は見えないが、それでもここは電車の中だぞ!


 誰かに見られないとも限らない。


「ま、まあ……な」


 俺は平静を装って答えるが、心臓はバクバクである。そんな俺の反応に華鈴は笑みを浮かべる。彼女はこう云った。


「あ、その……ごめん。あたしってちょっと変だよね」


「……いや、そんなことはねぇぞ」


 むしろ可愛いくらいだと云いたかったのだが、それを口にすれば無駄に変な空気になりそうだったので止めた。すると彼女は続ける。


「でも、あたしさ。もっと近づきたいんだよね。麻木さんと。いつでもキスできるような仲になりたいっていうか」


 おいおい、どういう意味だ――しかし、その瞬間。

「っ!?」


 気配を悟った。誰かがこちらを凝視している。すぐに視線を向けると、ちょうど斜め向かいの椅子に女が腰かけている。


「……」


 その女がチラチラとこちらを覗き込んでくるのだ。携帯をいじるふりをしつつも、明らかに俺たちを意識している。


「どうしたの、麻木さん?」


「……いや」


 華鈴が不思議そうな表情を浮かべるも、俺は咄嗟に誤魔化した。そして小声でこう続ける。


「……さっきから俺のことを見てる奴がいる。念のためだ。席を変えよう」


 そう云って俺は華鈴の手を握りしめて隣の車両へと向かった。そしてドアを開けると……そこには誰も居なかったのだ。


 一瞬、戸惑ったものの背後からの気配ですぐに理解した。あの女が俺たちの後をつけてきてるのだ。

 しかも、俺が気付くのに遅れた。並大抵の人間ではない。隠密行動に長けたプロと云えようか。


「……華鈴。次の駅で到着だな。ドアが開いたら真っ先に走って電車を降りて駅を抜けろ、俺がひきつけておく」


「分かった。じゃあ、予約した宿で合流しよう。気を付けてね」


 駅周辺の地域は把握済みだ。その言葉に「ああ」と返し、俺は背後に気を配りながら時を待つ。そして。


『次は、草津。草津』


 車内アナウンスが流れた。俺は華鈴に「今だ」と耳打ちする。彼女は頷いてから電車を降りてゆく。


「……」


 少し遅れて電車を降りた俺は、女の進路を阻む位置に佇む。


 そうして華鈴が無事にホームの階段を駆け上っていった姿を目視で確認した後、謎の女に尋ねた。


「……人様のデートを邪魔してくれるとは無粋じゃねぇか。誰に頼まれた」


 すると女はニヤリと笑みを浮かべた後、思いもよらぬ答えを返すのだった。


「流石は元傭兵。CIA仕込みのスニーキングスキルで気配を消していたつもりがまんまと悟られてしまうとは。我が主人が見込んだだけの力量ですね」


 その女の声に、俺は聞き覚えがあった。


「あんた、もしかして……」


「お久しぶりでございますね、ミスター・アサギ。我が主人から伝言を預かっております」


 謎の女と、その雇い主――俺は深いため息をついた。

涼平が遭遇した謎の女の正体は……? このエンカウントが銀座の情勢を大きく動かすことに! 次回、さらなる思惑が交錯する!

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