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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第12章 銀座継承戦争
208/261

矛盾だらけの夜に

 いつになく引き締まった表情の男に俺は尋ねた。


「手伝わせるか否か、それを答える前にいくつか聞きたいことがある。俺が添田の首を狙っているって噂を誰から聞いた? いつの話だ?」


 秀虎の服装は背広である。そういえば彼の通う上叡大学は今日が始業式だったか。大学生らしい黒一色の上着の柄はとても裏社会の人間には見えなかった。


「それについては……申し訳ございません。言えません」


「何故だ?」


「……申し訳ありません」


 秀虎は深々と頭を下げた。情報源は秘匿する気のようだ。俺は苛立ちを覚えたが、すぐに気持ちを切り替えて話を続けることにした。


「まあいいさ。それで? そちらさんの目的は何だ? 聞いた噂の内容が本当だったとして、どうして俺に手を貸す? お前さんが添田を狙う理由を教えて貰おうか。少なくとも利害は一致してないように思えるが」


 そう問うと秀虎はしばらく沈黙した後で答えた。


「ご指摘の通り、ネオインディアン証券日本支社の添田雅和社長は眞行路一家うちの得意先。兄に取り込まれているとはいえ、大切な顧客であることに変わりはありません。ですがそれ以上に僕は兄の暴走を止めなければならない……いや、止めたいのです」


 俺は相槌を打った。


「ほう」


 秀虎の抱える思惑は容易に想像が付いた。俺の添田排除に協力することで本家に貸しを作り、その見返りとして自分たちへの戦力支援の約束を取り付けたいのだろう。しかし、それにしては少しばかり、彼の言い方に含みがあるように感じられた。


「ただ単に本家が参戦するきっかけを作りたいんじゃねぇのか?」


 その質問に秀虎は小さく頷いた。


「それもあります」


「だったら聞く前からお断りだぜ。本家の立場は絶対中立、どちらか一方の肩を持つするわけにはいかねぇんだからよ」


「しかしながら、今ここで兄を止めなければ後々必ず面倒なことになる。恒元公のご領地を守りたいと思えばこそ、ご提案申し上げているつもりですが」


「当初の方針を覆してあんたらに味方することが、どうして会長の領地を守るのに繋がるってんだ?」


 俺は少し鼻で笑って問い返したが、秀虎は動じることなく返答を送ってくる。


「兄は中川会を脱して新たな組織を作ろうとしています。自らが持つ利権を餌に九州ヤクザを取り込んで。兄の野望を打破するためにはもはや眞行路一家うちの戦争で僕が兄を倒すしかないんですよ」


 だから本家は自分に味方するべきなのだ――そういう論理で来たか。言い分としてある程度の的は得ていよう。されども俺の中で反論は用意していた。


「ほう。奴の妙な動きはお前さんの方でも掴んでいたようだな。まあ、情報収集は当然だ」


「ご存じかと思いますが兄は先代から継いだ闇市場で年間百億近い暴利を貪っています。我々はそれを潰したいと……」


「輝虎のシノギについては既に恒元公が手を打っておられる」


 俺の言葉を聞いた秀虎は眉間に皺を寄せた。温和な御曹司ゆえに堪えたのかもしれないが、今にも舌打ちが飛んできそうな表情だ。


 すると、そこへ傍らに立つ護衛の一人が会話に割り込んでくる。


「まあまあ。秀虎様。麻木次長もそう言ってることですし、ここは一度お引きになられた方が良いかと存じますよ」


 現れたのは三淵みつぶちだ。そんな部下を秀虎は睨みつけた。


「おい、僕は麻木次長と話をしているんだぞ」


 しかし彼は怯まずに続ける。


「ですが、このまま続けても埒が明かないでしょう」


「それは……そうだが……」


「我々の都合だけを伝えても相手は動きません。交渉事においては先方の旨味となる話を前もって提示するのが肝要です。ここから先は私にお任せください」


 不慣れな御曹司を宥め、三淵は俺に向き直ると改まった声色で話を切り出してきた。


「麻木次長。今日は面白い話を持ってきた。役に立つと思うぞ」


「何だ。添田の始末に一枚噛もうってんなら要らねぇぞ。殺しをやるのに他人ひとの手を借りるなんざ美学に反する」


「別にあんたの腕を侮ってるわけじゃない。ただ、耳に入れておきたい噂があるってだけだ。そもそもとして事を為すのに情報は欠かせんだろう」


 三淵の言葉に俺は顔をしかめた。こちらが救援要請を断わるや否や取引をちらつかせてきたか。添田にまつわるネタを教えるのと引き換えに手を貸せと要求する腹積もりらしい。前々から思っていたことながら、実に食えぬ男だ。尤も、彼の狡賢さがあるからこそ、圧倒的劣勢の戦況に在っても秀虎は兄の手から逃げ続けているのかもしれない。きっとそうだ。


「……添田は俺の獲物だ。お前さんらに恩を押し売られるまでもなく俺が仕留める。ここでどんな話を聞かされようとそれは変わらねぇ」


 されど、俺としても情報が欲しいのは確か。現時点では、標的に関して分からないことが多すぎる。近くにあったベンチに腰かけてため息を吐くと、三淵はニヤリと頬を緩ませながら口を開いた。


「あんたの調べが付いてるかどうか、闇市場での添田の役割は営業だ。輝虎が仕入れた商品を少しでも高く買う販売先を探して回るのが奴の仕事というわけだ」


「だったら輝虎にとっては腹心ともいえる存在ってことか」


「そうだ。しかし、どうにも最近は表立って仕事をしてないらしい。兜町の会社にも一か月以上姿を現していないと聞く」


 これには訳があるそうで、三淵は添田が行方を眩ませている件については輝虎の意向によるものだと解釈していた。


「実は今、添田は既にお尋ね者でな。聞くところによれば九州が奴を懸賞金付きで追ってるって話だ」


「どうして九州の連中が添田を?」


「闇市場の利権を手に入れるためだ。如何に優れた商売も太い顧客が居なければ成り立たん。優秀な顧客開拓者を我が物とすることで今後の折衝事を有利にするねらいがあるんだろう」


 ちょうど現在、彼らと眞行路一家は人身売買利権をめぐり合併交渉の真っ只中にある。闇市場の運営の根本的部分を担う人物の身柄さえ奪取してしまえば、あくまでも対等な関係での組織統合を主張する眞行路サイドに対して強硬な態度が取れる。新組織での主導権どころか、眞行路一家を九州の傘下に降らせることだって出来なくもない。


「それで添田を何処かに退避させてるってわけか」


「ああ。いよいよ九州一万騎を手中に収めようって時に、人質を取られて立場が逆転したら元も子も無い」


 欲深くて計算高い薩摩隼人を相手にしていると考えれば当然の事前策といえようか。果たして添田は何処に落ち延びているのやら。まあ、秀虎派は既に大体の目星を付けており、その情報と引き換えに助力を要求するつもりか――俺が皮肉じみた指摘を放つよりも先に意外な地名が飛び出した。


「港区青海9丁目32番地。俺はそこが怪しいと踏んでいる」


 きょとんとする俺であるが、地名に読み違えは無いらしい。腑に落ちない話だ。何故ならその地域には夏に開催が予定されている環太平洋経済共同体(通称:TPEC)発足準備会議の第3回会合の会議場が建っているのだ。


「冗談は無しだ。確かあの辺は周辺一帯が立ち入り禁止だったじゃねぇか。一般人が入り込む隙は無いと思うぜ」


「ところがどっこい敷地に入り込む方法がある。実はあの辺は日本だけなくて会議に参加する各国の政府が共同で警備を担っている。だから事実上の……」


 そう語られた直後だった。


「ん?」


 俺は周囲に気配の接近を悟った。味方ではない誰かが近づいてくる感覚。不意に視線をやると公園内に散開する護衛たちが慌てて銃を構えていた。


「くそっ! 何でバレた!?」


 彼らが歯噛みしながら睨みつける先には十数名の背広の男たち。全員が銃と刀を携行している。その中心に立つのは見覚えのある顔だった。


「むふふっ。ここに居らっしゃいましたか、秀虎様。やっとお会いできて早々に不躾ではございますが、そのお命、頂戴いたしますよ」


 不気味な笑みを浮かべ、ゆっくりと近づいてくる眼鏡の男――新見にいみ晴豊はるとよ。眞行路一家の若頭補佐で輝虎派に付き従う中堅幹部だ。眞行路一家きっての経済派で、多彩なシノギで莫大な稼ぎを上げ、主君に貢献しているとされる。


「お前!」


 秀虎は驚愕に打ち震える。無論、彼の前には三淵たち護衛が仁王立ちして防御壁を作った。


「お逃げください! ここは我々が食い止めます!」


 しかし、その行動に待ったをかけたのは他ならぬ秀虎自身だった。彼は部下たちを制止すると、突然の襲撃者に向かって問いを投げた。


「新見! どうして僕を裏切った? 曲がりなりにも君は僕の五代目継承を支持してくれていたんじゃないのか!」


 そうだ。この新見という男は昨年12月の時点では秀虎の跡目継承を主張していたのだ。それが何故か突如として輝虎派に寝返り、今や新橋のタワーマンションにて輝虎陣営の金庫番を任されている。


「ふっ。何を抜かすと思えば」


 かつて仕えた御曹司を鼻で笑うと、新見は眼鏡をクイッと持ち上げて言った。


「あれはあなた様が御父上と同じ覇道を継承されると見込んでの言葉。ですが、もはやあなた様にその気が無いと分かった以上、大々的に担いでやる道理など既に私には無いのです。そもそもうつわあらざる者に従う者など誰も居ないでしょう」


 組の力を社会を換えるために使いたいと考える秀虎の決意表明を受け、彼を見限ったというわけか。昨年末に俺が蹴り殺した蕨同様、この男もまた高虎時代には数々の抗争で武功を挙げてきた歴戦の勇者のひとりである。


「貴様! 言わせておけばぬけぬけとッ!!」


「三淵、構わない」


 いきり立つ部下を押し止め、秀虎は改めて新見に鋭い眼差しを向けた。


「……新見。僕は君を買っている。その計算高い頭脳と賢さを。五代目を継いだ暁には、是非とも僕のために働いて欲しいと思っている。それは今でも変わらない」


 そしてこう訴えかけたのだ。


「どうか僕のところに戻って来てくれないか」


 たどたどしいながらも懸命に言葉を選んだ秀虎。額には大粒の汗が浮かんでいる。彼にとっては恐怖を押し殺しての渾身の説得だったこと言うまでもない。


 しかし、新見は一笑に付すのみだった。


「むふふっ。お戯れを。ヤクザのせがれの癖にへっぴり腰の軟弱者に尽くす価値など無いんですよ」


 その刹那、堪えられる限界に達したのか。秀虎の部下が構えたトカレフの引き金をひく。だが、新見はひらりと身を翻してこれを躱し、そのまま流れるように護衛の一人の懐に潜り込んだ。


「遅いんですよ」


「ぐはッ!」


 新見が突き出した刃に腹部を貫かれ、その護衛は白目を剥いて崩れ落ちる。


「ば、馬鹿な!」


「一瞬で躱しただと!?」


「何が起きたんだ?」


 その瞬間的な出来事を前に周囲の仲間が驚愕に足を竦ませている。彼らを横目で嘲り、新見はさらに跳躍してタクティカルナイフを構える。


「眞行路秀虎! 覚悟なさいッ!!」


 だが、次の瞬間だった。


 ――キィィィィィン!


 甲高い衝撃音と共に新見は空中で目を丸くした。そのままバランスを崩した彼は地面に落下すると膝を付いてよろめく。何が起きたのか理解が追いつかぬ様子だが、やがて前方に立つ人物を見るや否や今一度不気味な笑みを浮かべた。


「……ほお、どういうつもりです? 麻木次長?」


 そう。その場で高く跳躍して短刀を抜き、新見の刃を受け止めたのは俺だった。


「どうもこうもねぇよ」


 瞬間的に身体が動いてしまったというべきか。今にも殺されそうな秀虎を前に、俺は見て見ぬふりが出来なかったのだ。しかしながら、自由意志に基づく行動には責任が伴う。当然、俺の選択は立場的にまずい。新見はあからさまに嘲りの目を向けてきた。


「あなたは本家の人間、それも恒元公の側近中の側近ですよね? あのお方は我々の内輪揉めに関しては仮にも中立の姿勢を堅持しておられるというのに、側近のあなたが何の真似ですか?」


「確かにな」


 やってしまったことは取り返しが効かない。嘲弄を前にしても俺は淡々と答えるだけ。すると新見は鼻で笑うように続けた。


「分かっていらっしゃるのなら、何故に私の邪魔をしたんです? そんな真似をすれば恒元公のご意向に逆らうことになると思わないんですか?」


 ああ。百も承知だ。それでも俺は引き下がれない。秀虎を守りたい。この男を戦で勝たせたい。胸に抱き続けた青い理想の暴発を堪えきれなかったのだ。


 自分で云うのもおかしな話だが、俺は他人より頭が回る方だ。計算も好きだ。おまけに多少は弁も立つ。自分の行動の始末のつけ方くらい容易に立案できよう。ここで為すべきことは既に分かっている。やってやろう。


 俺自身と愛する者のために力をつけて成り上がると心に決めたのだから。


「……ふっ。何もかもあんたの言う通りだぜ。新見さんよ」


「だったらその短刀を仕舞ってさっさと立ち去ってください。ご自分の行動がルール違反だと気付いているなら」


「ルールを破ってるのはあんたも同じだ」


「あ?」


 失笑気味に問い返す新見に俺は言い放った。


「あんた、ここが何処だか分からねぇわけじゃねぇよな。中川恒元公が直にお治めになる街だ。こないだの協定を読んでねぇとは言わせねぇぜ」


 そして吐き捨てるや否や、奴に飛びかかる。


 ――キィィィン!!


 またしても刃に刃がぶつかり、火花が飛び散った。俺の突進を防御してみせるとは。この新見という男もなかなかの反応力だ。


「何のつもりです」


「何のつもりもクソもあるか! 協定違反の不埒者に鉄槌を下すだけだ!」


「むふふっ。それで私に勝てるとお思いか」


「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ!」


 次の瞬間、鍔迫り合いの体勢から俺は力任せに刃を振り抜いた。腕と足腰の力で、新見に競り勝ったのだ。奴はすぐさま後方へ退いて距離を取ったが、やがて余裕綽々といった様子でニヤリと笑った。


「……むふふっ。その腕力と脚力を相手に一対一サシでやり合えば私が不利のようですね。全体重を乗せて斬りつけられたら腕が飛びかねない」


「数で囲もうが同じことだぜ。この場に居る全員を秒でぶっ殺してやる。さっさと新橋に帰った方が身のためだ」


「まあ、確かにそうかもしれませんが、如何に優れた人にも得手不得手というものがあります。ここは一つ、試してみましょうか」


 そう言うと新見は指をパチンと鳴らす。すると、直後、傍らで呆然と俺たちの戦いを眺めていた輝虎派の組員たちが瞬間的に我に返り、三淵たちに猛然と襲いかかった。


「このシチュエーションはどうです? いくら古流武術を極めて格闘戦なら負け知らずでも、誰かを守りながらの戦いは苦手のはず!」


 俺は舌打ちを響かせ、踵を返して三淵たちの救援へと向かう。その途中、拳銃を抜いて新見を牽制することも怠らなかった。超人的な身体能力に加えて精神的に動揺する部下たちを一瞬で正気に戻す心理操作術をも会得しているとは――この新見という男、侮れない。


 片や秀虎派は防戦一方だった。次々と襲い来る護衛たちに苦戦を強いられている。多勢に無勢、三淵を含めて6人しかいない状況では当然だ。


「くっ! こいつら、急に動きが!」


「こりゃあどういうことだ!?」


 どうやら新見の放った暗示が効いているらしい。新見の部下たちは一切無駄のない動きで立ち回り、拳銃と短刀を組み合わせた格闘戦術で猛攻を仕掛けている。彼らの様子はさながら興奮しているようだった。


「うおおおおおおおっ!」


 しかし、そんな状況下においても三淵たちは冷静だった。彼らはすぐに陣形を整えて応戦し始めると、瞬く間に形成を持ち直す。持久力も半端ではなく、弾丸に腹を抉られてもすかさず撃ち返し、刃で肌を切り裂かれようものなら逆に相手の喉笛を掻っ切る。やはり彼らは精鋭だ。少数ながら、秀虎を守ってよく戦っている。この3ヵ月を生き残ってきたのも頷ける。


「怯むなッ! 秀虎様をお守りしろ! 押し返せぇぇぇぇーっ!」


 絶叫する三淵に背後から敵兵が迫る。ここまで見せられたら俺も負けてはいられない。突進で距離を潰して奇襲を阻んだ。


 ――ドガッ。


 勢い任せで放った飛び蹴りが命中し、敵の組員は地面に転がった。


「借りが出来たな。感謝するぞ」


「例を言うのは後だ」


 俺は三淵たちの前に立って構えると、新見に鋭い目を向けた。


「おい。このまま引き下がるなら協定違反を不問に付してやるよ。さもなくば交戦区域を頭に叩き込まなかった後悔を体で味わって貰うことになるぜ」


「むふふっ。面白いことを言いますね。私に向かって脅し文句を吐いた度胸だけは褒めてあげましょう」


 すると公園の左右の出入り口からぞろぞろと男たちが入ってくる。新見の奴、伏兵を用意していたか。ざっと見た限りでは30人はくだらぬ戦力が揃っているようだ。


 俺だけならひと思いに暴れて全員を倒せる。しかし、先ほど新見に言われた通り、誰かを守りながら戦うとなれば話は別だ。沖縄で緋田組に嵌められた時もそうだった……なんてことを考えていると三淵が俺の肩を叩いて小声で説いてきた。


「もう十分だ、麻木次長。ここから先は俺たちが丸ごと引き受ける。あんたは今すぐこの場を立ち去ってくれ」


「お前さん、正気かよ。この人数でどうやって大将を守るってんだ。俺が敵を引き付けるからその隙におたくらが御曹司を連れて逃げろ」


「すまない、言葉が足りなかった。俺たちが時間を稼ぐ間にあんたが秀虎様と共にこの鉄火場から離脱してくれ。頼む」


 思わず訊き返してしまう。


「は!?」


 だが、そんな俺に対して三淵は真摯な表情で言葉を紡ぐのだった。


「俺たちの心配ならご無用だ。大将が討たれぬ限り喧嘩は負けじゃない。ここに居る誰もが同じ思いを胸に抱いている。どうか分かってやってくれ。あんたという男を見込んで話を持ちかけているんだ」


 三淵たちは既に覚悟を決めているというわけか。ならば、俺から言うことは無い。せいぜい気休め程度の台詞を置き土産にするだけだ。


「……見事なもんだよ、お前さんらは」


 その言葉に三淵が「嬉しいね。天下の麻木次長からお世辞を賜るとは」と応じるや否や、俺は秀虎の手を引いて駆け出した。


「なっ! 何を!?」


「良いから走れッ!!」


 部下が何を頼んだか、瞬く間に悟ったのだろう。俺に手を引っ張られながら、秀虎は「三淵! 松尾! 岡沢! 色部! 西田!」と近臣たちの名を連呼していた。それでも躊躇して足を止めることがなかった辺り、流石はヤクザの跡継ぎとして日頃より相応しい振る舞いを教え込まれているだけのことはあると云える。


「むふふっ! 逃がしませんよ! 木っ端微塵にして差し上げます!」


 新見は叫ぶと、部下たちに今一度指を鳴らす。すると組員たちは一斉に拳銃を抜き放ち、弾丸を乱射して俺たちを止めようとする。


 だが、その程度で怯む俺たちではない。三淵たちが応戦して敵を引き付けてくれる間に俺は秀虎を連れて広い公園の敷地を突っ走り、外へと飛び出した。運の良いことに、敵の銃弾は俺たちに当たらなかった。


「うおおおおっ! やらせるかあああ! 秀虎様は俺たちが守るんだ!」


 背後から秀虎派組員の叫び声が聞こえ、直後に銃声と斬撃音が交互に響いたが、振り返ることなく走り続ける俺たち。そしてそのまま大通りまで出ると偶然通りかかったタクシーに飛び乗る。車の行き先を考えている暇など無い。


「とにかくこの場を離れろ! 今すぐに!」


 運転手は「はい!」と返事をするなり、ハンドルを右に切った。俺は秀虎に身をかがめるよう指示し、窓から周囲の状況を観察する。見たところ公園内から追手が飛び出てくる気配は無いが、安全圏へ離脱するまでは気を抜くことが出来ない。


「お、お客さん。どこへ……」


「暫くこのまま走り続けろ」


 狼狽える運転手を宥めた直後、前方からパトカーが赤色灯を光らせて俺たちとすれ違った。どうやら公園での騒ぎを聞いた通行人または近隣住民が通報したか。警官たちはもうすぐ現場に辿り着くだろう。ここは赤坂。眞行路一家の領地ではない。当然ながら賄賂や買収は通じないので敷地内に居る組員たちは全員御用となるものと思われる。


「三淵。どうか無事で居てくれ」


 声を漏らすように呟いた秀虎に俺は言った。


「恐れ多くも会長のご領地で騒ぎを起こしたんだ。お咎め無しって訳にはいかねぇだろ。舐めた真似しやがって」


 その言葉に秀虎はがっくりと肩を落とす。計算違いに計算違いが加わって憔悴しているのが見て取れる。このような時に追い打ちをかけるようなことはしたくないが、俺としては訊かねばならないことがあるので止む無く口を開いた。


「何でまた、あんたは赤坂の街に来たんだ? 戦時協定のことはお袋さんから聞かされてなかったのか? 交戦区域外で事を起こせば喧嘩両成敗になるってことくらい分かりそうなもんだけどな?」


 すると秀虎は俯いたまま答える。


「勿論、その危険は十分に承知していました。けれども三淵が『行きましょう』と熱心に勧めてくるから。僕としても赤坂の街に入るには今日しかないと思ったんです」


 そう云えば秀虎の通う上叡大学は今日が始業式。いつもは通信形式で講義を取っている学生も背広姿で式に出なくてはならない決まりがあるという。これに顔を出さない限り当該年度の受講が許されないなら戦時協定で交わされた本家直轄領への相互不可侵を破る口実にはなる。


「で? 大学登校を名目に俺と会って何を話したかったんだ?」


「そ、それはですね」


 言葉を詰まらせながらも返答を繰り出そうとした秀虎だが、俺は待ったをかける。ここはタクシーの車内。運転手に組関係の話を聞かせるのはまずいだろう。


「運転手さんよ。とりあえず紀尾井町の辺りまで行ってくれ。目的地の近くになったら案内するからよ」


「えっ。は、はい。分かりました」


 俺が投げた指示に秀虎は目を丸くする。


「ど、何処へ?」


「決まってんだろ。あんたの大学だよ」


 そう答えた後、窓の外を見やりながら俺は吐き捨てるように続ける。最善の行き先でないとは分かっていながらも情が勝った。


「建前にせよ何にせよ。子分に体張らせてまで本家の領地に足を踏み入れたんだ。本懐を遂げねぇと連中が可哀想だろ」


 今にも泣きそうな表情で俯く秀虎をよそに、俺は窓を開けて煙草を吹かす。またしても、立場に見合わぬ迂闊な振る舞いをしてしまった。自分の甘さに心底呆れつつも、車は都道の交差点を通り抜けて赤坂から紀尾井町へと向かってゆくのだった。


 東京都千代田区紀尾井町、上叡大学紀尾井町キャンパス。


 附属機関を含めて日本最大の私立大学とされる『上叡大学』の校舎は、まるで中世の古城のようだ。煉瓦造りの建物群が威風堂々と並んでいる様子は実に壮観で、ただ静かに外装を眺めているだけでも同校が都内の私大の中でも屈指の人気を誇る理由が何となく分かってくる。流石、日本で初めて西洋式教育を行ったとされる歴史ある学び舎だ。


 その正門前にタクシーが停車すると、俺は秀虎と共に降車した。時刻は8時50分を回ったところ。学生の多くは既に始業式が催される大講堂に向かったらしく、敷地内に入ってすぐの広場は閑散としていた。


「ほう。ここがあんたのとこの大学か」


「はい」


 俺たちは正門から構内に足を踏み入れた。そして秀虎に続いて広場を進んでいく。


「始業式ってのはどれくらいだ?」


 俺が尋ねると秀虎は歩きながら答えた。


「たぶん1時間ほどだと思います」


「そうか」


 小中学校の始業式よりも少し長いようだが、学長に加えて来賓の挨拶まであるなら妥当なところだろう。


「そいつは一般人が参加しても大丈夫なのか?」


「えっ」


 秀虎は足を止めて振り返った。その顔には驚愕の反応が色濃く表れている。


「いや。始業式ですよ。参加するのは学生と教員だけですので流石に……」


「どうにかして俺が潜り込む方法は無いか? あんたにとっては久々の登校だからよ。輝虎の野郎がヒットマンを送り込んで来ねぇとも限らんだろ」


「ええっ! それはちょっと!」


 秀虎が眉間に皺を寄せる。日頃からヤクザである旨を学友たちには伏せているというから当然の反応であろうか。されども俺としては引き下がれなかった。


「学生や教員の中に暗殺者が紛れてるかもしれねぇだろ。そんな所にあんたを護衛無しで放り込むわけにはいかない。念のためだ」


「だからって他の皆が居る所に付いて来られたら評判が爆下がりじゃないですか! 僕は大学じゃカタギの一般人で通ってるんですから!」


「目立たねぇように遠くから見るから大丈夫だ」


 何とか宥めようと試みるも秀虎は納得しない。


「やめてくださいってば! 僕は普段から組の人間を大学には入れてないんです! 今日だって本当ならいつも通り正門の前で待たせる手筈だったのに!」


「そうは言っても普段とは状況が違うだろうよ。大体よ、あんたはつい数分前に弾かれかけたんだ。少しは周囲の人間に狙われてる自覚をだな……」


「とにかく! ついて来ないでください! いくら兄さんだってカタギを巻き込んでまで僕を討つ度胸は無いでしょうから!」


「だから! あんたを危険に晒すわけにはいかねぇんだ!」


「もう、しつこいな! 来ないでと言ったら来ないでください!」


 業を煮やした秀虎は俺に背を向けると、そのまま講堂の方へ走り去ってしまった。俺はその後ろ姿を眺めながら舌打ちを漏らす。せっかく心配してやっているというのにあのガキときたら……とんだ分からず屋だ。だが今は苛立っている場合ではない。どうにかして大講堂内に入る方法を探すとしよう。ちなみに入り口では全入場者の名簿照会を行っている模様。


「大学の関係者に紛れ込めりゃ良いんだが」


 そう呟きながら周囲の状況を窺っていた時だった。俺の視界の中に、こちらに向かって歩いてくる1人の女の姿が飛び込んできたのだ。


「えっ? どうしてここに?」


 俺は相手の顔を見やった後、すぐに言葉を発した。


「華鈴!」


 そこに現れたのは、華鈴。彼女もまた秀虎と同じく上叡大学に在籍しているため構内に居ても何ら不思議ではないのだが、てっきり彼女は大講堂の中に入っているものと思っていたのだ。聞けば、ちょっとした仕事をこなしていたらしい。


「あたしのゼミの先生が始業式の後に演説をすることになっててさあ。その発表資料の作成を手伝わされてたの」


「そいつはまたご苦労なこったな」


 今朝は俺と別れてからすぐさま大学に向かって準備をしていたという華鈴。この娘の勤勉さには毎度のこと恐れ入るばかり。いつも店の仕事に加えて学校の活動も精力的にやってのけるから見事なものだ。


「でも、驚いたよ。まさか大学で会うなんて。今日はどうしてここへ?」


 目を丸くする華鈴に俺はこれまでの経緯を簡潔に説明する。秀虎が刺客に襲撃され、成り行きで大学まで護衛にやって来たと話すと彼女は「ええっ!」と素っ頓狂な声を上げた。


「大丈夫なの? 秀虎君は?」


「まあ、今に至るまではな」


 俺が答えると華鈴はほっと安堵の息を吐いた。しかしすぐに心配そうな表情に切り替わる。


「……でも、やっぱり危ないよ。始業式は入学式と違って一般には公開されていないけど、あの輝虎のことだから。もしかしたら学生を買収して鉄砲玉に仕立て上げてるかもしれない」


 俺は深く頷いた。なれど部外者の俺が講堂内に入る方法は無いのだ。すると華鈴は何かを思いついたように手を叩いた後、俺の腕を引いて言ったのだった。


「そうだ! じゃあ、あたしが秀虎君のすぐ近くで彼を守ってあげる! 学部順に座らなきゃいけないみたいなルールは特に無いから、あたしが隣に居れば少なくともどんな奴が来ても撃退できる!」


 俺は思わず目を白黒させる。


「華鈴が?」


 確かにそれなら秀虎も安心できるだろう……されども同時に彼女の負担を増やすことになってしまうのではないだろうか。また彼女自身を危険に晒すことにも繋がる。そんな俺の懸念を見透かしたかのように彼女は笑った。


「大丈夫! あたしが喧嘩自慢なのは知ってるでしょ?」


「……おうよ」


 そこまで言われてしまったら俺も断るわけにはいかない。俺は華鈴に秀虎の護衛を頼み、彼女は大講堂へと駆けて行く。秀虎に携帯で連絡を入れて自分の隣に座るよう伝えると言っていた。


「さて、と」


 俺は華鈴の背中を見送った後、今一度周囲を見回す。大講堂の周囲には学生が大勢居て賑わっている。その中には私服姿の者もちらほら見受けられたが、やはり大半は大学生と思しき風貌だった。少なくともヤクザ関係者らしき人間の姿は見当たらない。どうやら輝虎は大学にまで秀虎を討ち取りに手を伸ばしているわけではないようだ。


 華鈴は大丈夫だろうか。そんな不安と同時に、秀虎が華鈴の隣に座ることにも一抹の不安が湧き上がってくる。取るに足らない些末事なれども心穏やかではいられなかった。


 まあ、それだけ華鈴が綺麗な女ということだろう。思えば先ほどのスーツ姿も可愛らしかった。黒のジャケットに白地のブラウス。そして膝丈のスカートという出で立ちは、彼女の大人びた雰囲気をさらに際立たせている。後ろでまとめた髪も実に似合っていた。


 華鈴は元より美人だが、あのような正装姿もまた格別だ。彼女が普段から店に立っている時は大抵がラフな衣装を着ているから、普段とは違う姿を見られることは貴重なのだ。昨日の着飾った姿も美しいが、今日も服装もまた俺の心を躍らせる。


「いかんな」


 そんなことを考えていると途端に気恥ずかしくなってきた。俺は雑念を振り払いつつ一般人が居ても問題の無さそうな場所へと向かう。するとちょうど学内に設けられたカフェテリアに行き当たったので、俺は人波に紛れて中へと入る。そしてそのまま座席の一番後ろに座ると、辺りを見渡してみる。


 始業式に出るのは3年生以上という奇妙な風習のおかげか、店内には多くの学生で溢れている。皆、思い思いに談笑しており、中には携帯ゲーム機をいじっている者の姿も見受けられた。誰もが大学生らしいお洒落な服装に身を包んでいるせいで、黒一色の背広を着ている俺が目立ってしまう。


 先ほど秀虎に指摘された通り、俺はまさにヤクザという装いだ。そもそもの話だが裏社会の人間はカタギの世界に溶け込むべくも無いのだ。ならばせめて堂々と佇んでいるしかないだろう。


「それにしても……」


 周囲の雑踏の中で俺は呟く。このカフェテリアの内装も実にお洒落だ。白を基調とした壁に木目調のテーブルや椅子が並べられている様はまるで高級ホテルのような印象を受ける。学生が利用する場にしては些か気取り過ぎではないだろうかと俺は思った。


 暫し状況観察に耽っていると、楽しげに語らう学生たちの声が聞こえてきた。


「なあ、知ってるか。昨日のニュース」


「ああ。あれだろ。銀座のやつ」


 思わず耳をそばだててしまう。まさか眞行路一家に関する話題だろうか。いや、まだそうと決まったわけではないのだが……俺は聞き耳を立てることにした。そして学生たちは会話を続ける。


「何でも、中央通りで映画の撮影があったらしいぜ」


「マジで? 見物に行きたかったわー」


 どうやら眞行路一家とは無関係な話題のようだ。不思議と安堵を覚える俺が居た。取り留めのない芸能ニュースで盛り上がるのは何とも大学生らしい。


 かくいう俺も彼らとは同世代。師走が来れば23歳となる。世間ではようやく大人の仲間入りをする年齢だそうだが、未だに実感は湧いてこない。


 あどけない青春のひと時を全力で楽しむ男女の談笑を見て、俺は少し微笑ましい気持ちになる。同時に、若干羨ましくも思う。中学を出てすぐの15歳の時分で裏社会へ飛び込んだおかげで、青春を満喫する時間などは全く無かったのだ。


「もしかしたら、俺にもああいう人生があったのかもな……」


 大学どころか高校にも行っていない俺は独り言を漏らす。ふと胸をよぎるのは、俺にとっては唯一の青春と云える時間を過ごした日々の光景。あいつは今頃どうしているだろうか……などと思いをめぐらせながらボーッとしていると、不意に背後から声をかけられたのだった。


「あのーすみません」


 振り返るとそこには1人の女が立っていた。年の頃は10代後半といったところか。ブラウスにセーターという地味な装いの少女だった。


「ん? 俺に何か用か?」


「中川会執事局の麻木涼平次長ですよね」


 突如として名前を呼ばれた。それも今まで一度も会ったことの無い女に。見たところこの大学に通う女子学生のようだが、単なる女子大生にしては瞳の奥に怪しげな炎が燃えている――驚愕と困惑で返答を紡げずにいる俺に、彼女は続けて言った。


「三淵さんからの伝言です。『今夜20時に月島町のバーにお越し願いたい』とのことです。それでは」


「は? おい、ちょっと! おいっ!!」


 制止する間も無く彼女は去って行ってしまった。一体、何だったのだ。ただの学生でないことは容易に見て取れたが、そうだとすれば何者なのだろう。


 三淵と関わりがあるのか……?


 安直な仮説を立てるならば、奴が秀虎の護衛のために学内に送り込んだお目付け役だ。俺の素性を見抜いていた以上はそうとしか考えられない。


 しかし、月島町のバーで今夜20時に待ち合わせ? それ自体が謎だ。大体にして三淵は先ほどの状況を切り抜けられたのだろうか?


「……まあ、良いか」


 俺は再び周囲の様子を探る。カフェテリアの中には相変わらず多くの学生たちが居るものの、やはりヤクザ関係者らしき姿は無いようだ。だが油断は禁物だ。いつ何時、誰が秀虎に危害を加えてくるか分からないのだ。


 暫くは大学の構内に留まっているとしよう。


 俺は偶然近くで作業をしていたウェイトレスに声をかけてコーヒーを注文した。


「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」


「ありがとよ」


 程なくして運ばれてきたカップに口をつけつつ、俺は思考を巡らせる。


 秀虎は無事に大講堂に辿り着けただろうか? いや、そもそも華鈴が居れば心配は要らないかもしれないが……それでも気になってしまう。学内で輝虎派のヒットマンが罠を張っている可能性を考慮すれば当然だろう。


「このコーヒー、無駄に甘いな」


 やっぱり華鈴が淹れてくれるオリジナルブレンドの方が旨い。不毛な感想を胸に抱きながら、結局のところは四六時中ずっと秀虎や華鈴のことを考えてしまう俺であった。


 3時間後。


 上叡大学の始業式はようやく幕を閉じた。式典自体は30分ほどで終わったらしいが、その後で各学部から選び抜かれた教員が1人ずつ登壇し演説を行ったというから時間が押してしまったのだ。


 大講堂からぞろぞろと出てくる学生の群れを掻き分けて、こちらへと歩いてくる秀虎の姿を見た瞬間、自然と俺の口からは安堵の声が漏れた。華鈴曰く、特に何事も無く過ごせたとのこと。彼女が秀虎を傍で守ってくれて本当に良かったと思う。


 この日は講義が入っていないものの午後の入学式も手伝う予定だと語る華鈴と一旦別れ、俺は秀虎と共に大学を出る。正門前には銀座から組員が来ていた。彼らは例によって暗澹たる面持ちだったので、俺は特に何も話さず、ただ秀虎を自宅に送り届けるよう頼んで一人総本部へと戻った。


 昨晩は外泊をした挙げ句に朝を迎えて以降も連絡ひとつ入れなかった俺だが、恒元は全く問題と考えていなかった。いや、彼自身が問題意識すら持っていなかったと表現した方が正確か。何故なら、どういうわけか会長は酒を浴びるように飲んでべろんべろんに酔っ払っていたのである。


 執事室に入った途端、カルヴァドスの香りが鼻を刺した。夜通し警護にあたっていた才原局長に事の経緯を問うてみると、どうやら嬉しさからくる深酒の模様。恒元が政治家に圧力を掛けて作成させた私学助成金廃止法案が、大型連休前にも閣議決定する見通しが立ったというのだ。


 女子大生を困窮させて一人でも多く風俗街に導くための醜い思惑。つい先ほど同世代の若者らの微笑ましい光景を目に焼き付けてきた俺が反感を抱いたのは言うまでもない。尤も反吐が出そうになったところで逆らう術など何処にも無いのだが。


 空になった酒瓶を持ってソファに寝っ転がり、いびきをかいて眠る恒元――こんな強欲な男が主君だと思うと色々なことが虚しく感じてくる。


 そんな感情を押しとどめるかのごとく、俺は正午の昼食で気分を一新し、午後は専ら執事局次長としての職務に耽った。


 部下たちには添田暗殺の件を伝え、情報収集に入ってくれと伝えた。出来ることなら秀虎派の力を借りずに俺たちだけで事を為したい。


 ゆえにこそ奴らの申し出は全て突っぱねるつもりだった。


 やがて来る夜20時。卯月にしては少しばかり肌寒いと感じる風に吹かれながら、俺は中央区のネオン街へと繰り出す。


「いつ来ても良い街だな! 月島は! 何つーか銀座とはまた違った雰囲気っつうか!」


「ふっ。酒井組うちが借り受けてからは敢えて無駄な手を加えんようにしてきた。『街を輝かせるのはヤクザではなくカタギ』ってぇのが俺の親父の口癖だからな」


 運転席と助手席で軽口を叩いて盛り上がる部下たちをよそに、後部座席に腰を下ろす俺は無言で窓の外の景色を眺める。築地大橋から見ゆる夜景を愛でる心などは無い。思考の大半を占めるのは今日の出来事に関する俺なりの考察だ。


「……」


 自然とため息を漏らすと、ハンドルを握る原田が鏡越しに俺を見ながら話を振ってきた。


「にしても、あんなことがあった後に兄貴を呼び出すなんざ。どういうつもりなんでしょうね」


「さあな。何にせよ、連中の話に乗る気は無い。本家の人間として絶対中立を貫くだけだ」


 すると助手席に座っていた酒井が低い声で口を開く。


「何だか怪しいですね……三淵の奴の考えてることが分かりません。そもそも秀虎が襲われたのだってよくよく考えればおかしいじゃないですか。いつもは正確に逃げ回ってるのに何で今日に限ってバレたのか……」


 その言葉に俺は深く頷いた。


「ああ。ちょうど今しがた同じことを考えていた」


 兄との跡目争いが始まって以来、秀虎は敵の追撃から巧みに逃げながら生活してきた。輝虎が罠を仕掛けていると思しき場所を事前に察知しては回避し、逆に自らの行動パターンを相手方に掴ませぬよう疑似餌をばら撒く。背格好が似た組員に特殊メイクの技術で作ったマスクを被せ、影武者として複数の地域で同時刻に行動させることで捜索の目を攪乱するのだ。


 ヤクザの抗争は先に相手の大将を討ち取った方が勝ちだ。裏を返せば、その唯一の勝利条件を満たせぬ限り永久に戦乱は終わらない。ゆえに輝虎にとって、圧倒的な兵力を備えているにもかかわらず何時まで経っても弟を仕留められない現状は甚だ屈辱的なことであり、それは「あいつは何をもたもたしているのか」と直参たちからの嘲りを買うに十分だった。


 当初は輝虎派の圧勝によって短期決着を見るかと思われていた銀座継承戦争だが、今や持久戦の様相を呈している。輝虎派が秀虎を討つべく送り込んだ殺し屋は悉く空振りし、逆に秀虎派は現在までに多数の犠牲者や逮捕者を出しながらも持ち堪え続けている。依然として決定打を放てない輝虎の不甲斐なさには、開戦時の支持者たちでさえ苛立ち始めていると聞く。


「局長の調べによれば、輝虎は懇意の直参たちに尻を叩かれて相当焦ってるそうだ。ここ数週間は影武者ばっか追わされて弟の尻尾すら掴めてねぇ。なのに何で今日は秀虎本人を捕捉できたんだ?」


 才原党の忍びから聞いた話では、主君がシマの見回りに出る折には車ではなく敢えて電車に乗るなど、輝虎の裏をかく戦略を緻密なまでに練り上げていたとされる秀虎派。今日は大学の始業式ということで警護にも相当な念が入っていたことだろう。それがあっさりと敵方の襲撃を受けたのはどう考えても不自然極まりない――何か裏があると思えて当然だった。


「もしかしたら秀虎ん所に裏切り者が居るのかも。カネか何かで釣られて御曹司の行き先を敵にバラした奴が」


「それもあるが、俺は何だか輝虎サイドが手加減したように思えるぜ。兄弟。いくら次長がついてたからって射撃上手で名が通ってる新見組が一発も秀虎に弾を当てられなかっただなんて」


「どういうことなんだろうなあ」


 部下たちがそんなやり取りをしているうちに、車は西河岸通りに面した飲み屋街の駐車場へと辿り着いた。俺は車から降りて周囲を見渡すが、三淵の姿は見えない。夕方に安否確認も含めて奴へ電話を入れた時には「駐車場の近くで待っている」と話していたのだが。


「ん? あれは?」


 代わりに俺を待っていたのは、午前中に上叡大学に居たあの女子大生だった。予想的中、やっぱり組関係者だったかと俺は心の中で苦笑する。当の本人はフェンスに寄り掛かって携帯をいじっていたが、やがて俺の姿を視界に入れるなりすたすたと近づいてくる。


「お待ちしておりました。麻木次長」


「ほう。あんたが案内役か。わざわざすまんな」


「どうぞ」


 彼女はそれだけ言うと、くるりときびすを返し歩き始めた。俺は部下たちと共に彼女の後を追うことにしたが、そこで思わぬ要求が提示された。


「お付きの皆さんはここでお待ち下さい。麻木次長だけでお願いします。そのように申しつかっておりますので」


 その言葉に部下たち二人は顔を見合わせる。


「え? いや、しかし……」


「おいおい……それは……」


 されども女は声色をまるで変えずに言い放つ。


「これは私の独断では決してなく三淵さんからの指示です」


 俺もまた困惑した。夕方の打ち合わせでは一人で来るよう言われてなどいないというのに。交渉の立会人を増やすつもりで連れてきた思惑を見抜かれたか。


「ネエちゃん、そりゃあ無いだろ。この寒い中、外で海風に凍えてろってか。流石に、俺たちを馬鹿にしすぎだと思うけどなあ」


 軽く脅すような口調で原田が反論するが、女子大生の態度は変わらない。


「お付きの人たちを同行させるなとの命令ですので。私に文句を言われても困ります。不平不満は受け付けません」


 その言葉に原田が舌打ちを鳴らすが、彼より数倍増しで怒りを滾らせる男が居た。酒井だ。彼は怒気の滲んだ声と共に女を睨みつける。


「何が命令だ……調子に乗ってんじゃねぇぞ!!」


 そう叫ぶや否や、彼は懐から拳銃を抜いて女の眉間に突きつけた。


「っ!?」


 この反応は想定していなかったのか、それまで冷徹に振る舞っていた女子大生の表情に恐怖の色が浮かぶ。この女は完全に動揺している。隙を見逃さず酒井は更なる怒声を放った。


「おい、俺は直参『酒井組』跡目の酒井祐二ってもんだ! この街が現状酒井組の仕切りなのはテメェも知ってんだろ? その酒井組の継承者である俺を通さねぇとはどういうつもりだコラァ!!」


「い、いや! 分かりません! 私に言われても!」


「年始に酒井組うちの若衆を弾いただけに飽き足らず、まだ無礼を働くってのか! 人様を侮るのもいい加減にしろってんだ! あんまり舐めた態度取ってると何処の誰だろうが容赦しねぇぞ!!」


 銃を向けられ、なおかつ目の前で凄まれ、無上の恐怖を催したのか。女子大生は瞬く間に涙目となった。怯えきっている。


「……っ……」


「泣いてんじゃねぇぞ小娘! 何だったら今この場で殺して海に放り込んでやろうか! ここは俺たち酒井組の街だぞ!」


「……」


「黙ってねぇで何とか答えてみやがれぇぇぇ!!」


 そのまま引き金をひいてしまいそうな雰囲気だったので、すかさず原田が「ここで拳銃チャカを弾いてどうすんだよ馬鹿野郎」と止めに入る。兄弟分に宥められて少しは落ち着きを取り戻したものの、酒井はなおも憮然とした面持ちだ。彼の言い分は、至極ごもっともである。


 何故ならこの月島町は現在、酒井組の領地なのだから。今年の初めに起きた発砲事件のケジメとして、恒元が輝虎派に期限付きの割譲を命じたのだ。正式には租借地という扱いだが、実質的に街の支配を行っているのは酒井組および酒井義直親分だ。


 あの事件を起こしたのは輝虎派だが、もはや酒井にとっては些末事の模様。鬱憤が爆発しないうちに、俺がフォローしておく。


「こいつの言ってることは筋が通ってる。ついこないだまではあんたらの領地だったかもしれねぇが、もう違うんだよ。その土地に上がらせて頂く立場で『外で待ってろ』はおかしいと思うぜ」


 なれど今回の会合の主催者が一対一サシを要求している以上、それに従わぬ限り交渉が紛糾する火種が残ってしまう。悩みに悩んだ末、俺は弟たちに頭を下げた。命令ではなく、要請という意味である。


「……すまねぇな。お前らは車の中で待機してくれ。どうか今日は俺に免じて分かってやってほしい」


 酒井と原田は慌てて声を上げた。


「じ、次長! お止めください! たかが俺たちのために何をなさいますか!」


「そうっすよ! 俺たちは何時間でも待ってますから! 気にせんでください!」


 つまらぬ意地を張った自分が間違っていたと酒井は謝罪した。俺としても申し訳ない気持ちで胸が痛い。軽い気持ちで連れてきた結果が無駄に不快感を味わわせてしまうとは。


「すまねぇ……」


 渋々ながらに部下を待機させて、俺はすっかり泣き疲れた女子大生に店へ案内するよう言った。そうして彼女と共に飲み屋街の奥へと進んでいく。やがて辿り着いたのは雑居ビルの地下1階にあるバーだった。


 店内にはカウンター席が5つとテーブル席が2つほどあるのみで、決して広くない空間だ。だが照明や内装は凝っており、落ち着いた雰囲気が漂っている。どういう訳か客も1人しか居ない。


 店内に足を踏み入れると、その唯一の客から声を掛けられた。


「来たか」


 その声の主は語るまでもない。三淵だ。俺が歩み寄るなり、待ち侘びたとばかりに手招きして隣へ座るよう促した。


「流石は麻木次長。ちょうど20時にご登場とは恐れ入った。噂で聞いていた通り時間には正確なんだな」


「そうでなけりゃ会長の側近は務まらねぇんでな。俺には至極当然のことだぜ。定刻を守るのは執事局の鉄則だ」


「なるほど。その鉄則とやらを忠実に守る律義さが恒元公の操り人形と揶揄される所以か」


「ちっ……」


 酔っているのか。いつになく皮肉めいた台詞を浴びせてきた三淵。無論のこと腹立たしい言葉だったが、今日は彼も色々と大変だったのだろうから仕方あるまい――特に言い返すことはせず、ただ軽く受け流し、俺は三淵の向かい側に腰掛けた。


「お前もご苦労だったな。もう帰って良いぞ」


 その言葉を聞いた女子大生はそそくさと店を出て行った。俺の怪訝な視線に気づいたのか、三淵は言う。


「彼女は組の古株舎弟の娘でな。秀虎様と同じ大学の2年生だ。学内に送り込んだ護衛との連絡役を担って貰ってる」


「……なかなか教育の行き届いたお目付け役じゃねぇか。人様の怒らせ方ってもんをよく分かってやがる。その割に相手がキレたら即泣くと来たもんだ」


「ははっ。そいつはすまなかったな」


 三淵は苦笑いで俺の文句をいなしたが、こちらとしては更なる批判を浴びせてやりたいのが本音だった。されども迂闊に場の空気を澱ませたくもないので罵詈雑言は喉の奥あたりで抑えておく。秀虎の護衛部隊が大学内にも展開していると分かっただけでも良しとしよう。


「さて、何でも好きなものを頼んでくれ。この酒場は格安だから遠慮は無用だ。べろべろになるまで飲んで貰っても俺の財布で賄えるぞ」


「我が物顔で格好付けやがって。月島の街はあんたらの領地じゃねぇんだよ。本来なら居る事自体が問題だってのに」


 ぶっきらぼうに吐き捨て、俺は財布から万札を一枚取り出して酒を注文する。我が定番といえばバーボンのロック。三淵に奢られたくなかったので機先を制したのだ。


「ふんっ、無粋な男だ」


 そんな彼が自らのために作らせたのはジントニックである。今日は既に5杯目だという。俺としては甘い味は好みではないが他人様の趣向を否定するつもりは無い。


「それじゃあ乾杯と行くか」


「おう」


 求めに応じ、互いのグラスを鳴らしてやる。激烈な修羅場を潜り抜けたにしては、随分と穏やかな表情をしている。駆け付けた警察の追尾から何とか逃げ果せ、仲間も新見に何人か討ち取られたと聞いているが……まあ、今は細かいことは気にしないでおく。


 酒の席で上手くはいかなかった仕事の話をされると誰でも鬱陶しさを催す。その思いは共感できる。ここで詳しく聞かないのは思いやりというやつだ。


 俺は三淵が柑橘酒を呷るのとほぼ同時に、自分の器を口へ運ぶ。喉に焼け付くような刺激が走り、芳醇で豊かな香りが鼻孔を通り抜けてゆく。やはり夜はバーボンが無ければ始まらない。荒野を駆け回った傭兵時代、乾いた心を潤してくれたのは麦の旨味だった。あの頃も今も、俺の両手は血に塗れている。そして硝煙で燻された心は修羅場に慣れ過ぎてしまった。


「こりゃあ匂うぜ」


 少し感傷的な気分に浸っていると、三淵が薄ら笑いを浮かべていた。


「あんた、組織に入ってヤクザへと身を堕とす前から人を殺してきたろ。それも両手じゃ数え切れんほどの沢山の人間をな」


「は?」


 まったく、唐突に何を言い出すかと思えば。俺は鼻で笑ってやった。


「違うな。殺しを教わったのはこの世界に飛び込んだ後だ。中坊の頃も荒れてはいたが、本職の真似事をしたことは無い」


「だったらどうしてあんたには躊躇が無いんだ。銃を撃つ速さといい、短刀を振るう時の刃筋といい、あんたからは一切の迷いが感じられん。生まれながらの殺し屋でなければ、到底為せぬ離れ業だったぞ」


 昼間、新見組相手に大暴れした俺の立ち回りをだいぶ高く評価している三淵。褒めてくれるのは嬉しいが、羨望の眼差しを向けられたとて返礼を渡せるわけでも無い。ただ、ありのままを語るだけだ。


「決まってるだろ。躊躇なんざ抱いてたら一瞬で敗れちまうからだ。やられる前にやるのがこの世界で勝ち残る絶対のことわりってもんだろ」


「では、その躊躇を打ち消す方法は? 何があんたの肚をそこまで決めさせるんだ? 過去の出来事がきっかけか? それとも思考術か? 心がけていることでもあるのか?」


「殊勝な習慣なんざ何ひとつぇよ。それなりの環境に身を置いてりゃ自ずと肝は据わってくるもんさ。中川恒元の操り人形とやらで在り続ければ尚更にな」


 またもや皮肉を交えて答えた俺だが、三淵は興味深そうに話を聞いていた。そしてグラスをカウンターに置いて言う。


「……やはりあんたは他の連中には無い強靭な精神性を備えているようだ。もしかしたら俺が見込んだ以上かもしれない。いや、きっとそうだ」


 この男は俺に何を期待しているのかは存ぜぬが、内容については詳しく聞かずとも殆ど察しが付く。秀虎のために、自らの陣営に加勢してくれとでも言うつもりなのだろう。本家を引っ張り出すことが無理なら俺一人だけの参戦でも構わないと――少しうんざり気味にため息をついた刹那、輝虎は不意に視線を後ろへと向けた。


 その先には店の便所がある。


「……おい。さっきから気になってたが。連れが来てるのか?」


 仮にそうだとすれば、入店時より抱いていていた俺の違和感が道理を得る。店内には三淵しか居ないはずなのに、何故か彼はテーブル席に座っていたのだ。待ち合わせの人数が5人以内だとしても、このような場面ではカウンター席に座るのが正解であろうに。


「そうだ。言いそびれていたが、今日はあんたに会わせたい人を連れて来ている」


「誰だ?」


 きょとんとする俺に三淵は続けた。


「たぶん、初対面ではないだろう。向こうはあんたのことをよく知っているぞ。ちょうど今は便所で用を足しているところだがな」


 意味深に笑った彼を見て俺は訝しんだ。『誰だ』と問うたのに、何故に答えず勿体ぶった言い方で応じたのか。すると次の瞬間、彼の意図するところを悟る。


「……まさか!」


 俺が慌てて立ち上がった直後だった。便所の扉がガチャリと開いて、中から一人の男が現れた。


「むふふっ」


 その男は不気味に笑うと、三淵の隣に着席した。俺はすかさず銃を抜いた。


「この野郎!」


「おやおや。いきなり拳銃チャカを突きつけるとは無礼な人ですこと」


 俺を見据えて不敵に笑った眼鏡の男。その瞳は獲物を捉えた獣のように鋭い眼光を放っている。


「新見! どうしてテメェがここに居る!?」


 三淵が連れてきた男の正体は、なんと新見だった。まさかこんな場所で顔を合わせる展開に至ろうとは思いもしなかった。俺は隣に座る人物に怒気を露にして問う。


「おい! こりゃあどういうことだ!? そもそも何であんたはこいつと一緒に居る? こいつはあんたにとっては敵だろ!? 今日だってこの男に襲われて殺されかけたんだぞ! それが何で一緒に行動してるんだ!?」


「そうだな。確かに敵だった。そして危うく秀虎様の首を獲られるところだった」


「だったら何でだ!?」


「とりあえず落ち着いてくれないか、麻木次長。新見の兄貴は仇ではない。元より敵対などしていないのだ」


 元より敵対などしていない――呑み込めぬ話。であれば今朝の騒ぎは一体何だったというのだ。あまりにも意味深長な台詞を吐いた三淵の肩をポンと叩き、新見が揚々と俺に話しかけてきた。


「実は、三淵君とは密かに連絡を取り合っていたのですよ。秀虎様を銀座の跡取りに据えるために」


「は!?」


 思わず目を剝いた。三淵も「新見の兄貴から直々に打ち明けられた時は驚いた」と首肯するではないか。俺はますます困惑した。


「秀虎のため……だと!?」


「ええ、そうですとも。実を申せば私はスパイなのです」


 そこで新見は一拍置いて語り始めたが、それは俺の想像を遥かに越える内容だった。


「そもそも事の始まりは昨年の暮れにて。世間で云う『虎崩れの変』の後、先代のご意向を無視して跡目を継ごうとなさる若頭に私は愛想が尽きましてね。兄弟のどちらが銀座の次代を担うに相応しいか、それまで値踏みしていたのは事実ですが、意を決して秀虎様を推そうと決めたわけです」


 関東博徒の伝統を軽んじて従わない輝虎のやり方に反感を抱き、弟の秀虎を五代目に推戴しようと決めたと語る新見。輝虎陣営に入ったのは彼の動向を秀虎に逐一伝え、あわよくば輝虎を背後から討つため。所謂、獅子身中の虫の役割を自ら買って出たというわけらしい。


「当然、今日の一件だって芝居ですよ。秀虎様に直接危害を加えなかったのが何よりの証拠。前もって三淵君と打ち合わせをしていましたもので」


 新見は眼鏡の位置を正しながら言う。


「私としたことが、演技であったというのに迂闊にも熱くなってしまいました。やはり喧嘩は裏社会に生きる男の本分。久々に燃えましたね」


「素晴らしい腕前でございましたよ、新見の兄貴。この三淵史弥、改めて敬服させて頂きました。まだまだ未熟な身ですが俺もあのように果敢に立ち回りたいと心から思いました」


 そう満面の笑みで言った三淵に新見は頷く。


「ええ。三淵君、勉強熱心な君は実に良い弟分です」


「いやいや、真に恐縮でございます。全てにおいて新見の兄貴には及びませんよ。今日だって警察サツが来た時に少し慌ててしまいましたから」


「とても優秀な後輩が育っているのは誇らしい限りです。三淵君が傍に居る限り秀虎様は安泰でしょう。私も裏社会の先輩として君には負けていられませんからね、もっと鍛錬を積まなくては」


 彼らの話を聞き流しながら、俺は途方もない苦々しさに顔を歪めていた。何とまあ、嫌な奴らだ――三淵と新見は部下を捨て駒として使ったのである。両人が密かに繋がっている旨をまるで存じていなかったであろう、秀虎派と新見組の若衆たちを自分たちの喧嘩芝居に付き合わせた挙句、赤坂第二公園における乱戦で無惨な末路を辿らせたのだ。


 今日、総本部へ戻った折に才原局長から聞かされた話によれば、秀虎派と新見組の双方合わせて計16名が殺されることとなった。嬉々として語らう三淵と新見の表情から考えるに、おそらく彼らは部下の流した血を何とも思っていない。目的達成のためには必要だったと既に割り切ってしまっているのだろう。


 秀虎派の若衆を少なからず殺傷することで、敵方への内通を新見が輝虎に勘付かれぬよう機密保持を図ったのだ。


「……」


 俺は黙って銃を懐へ仕舞う。そして深いため息と共に席に座ると、半分まで飲んでいたバーボンを一気に飲み干した。彼らの下劣さは勿論、その所業をある程度肯定的に捉えてしまう自分が存在することにも嫌気が差す。


 全てに対して反吐が出る思いだった。


「むふふっ。麻木次長もお分かりいただけていたようで何よりです。流石は元傭兵、このような作戦は得意分野でしたか」


「すまんな。本当ならあんたにも前もって伝えておくべきところだったが、出来る限り俺と新見の兄貴だけの秘密にしておきたくてな。つまりはそういうことだ」


 両名からすれば俺は賛意を示しているように思えるらしい。それならそれでもはや構わない。こみ上がる憤怒を呑み込んで話題を換えるだけだ。


「……それで? 自ら危険を冒して敵陣へ潜入中の策士様が俺に何の用だ? さっさと用件を言ってくれるか?」


「そうでした。そろそろ本題に入らせてもらうとしましょう。ちょっとした頼み事と考えてください」


 新見は懐から何やら取り出し、手を真っ直ぐに伸ばして差し出してきた。俺は訝しんだ表情でそれを受け取る。折り畳まれた一枚の紙切れであった。開いて中を読んでみると何かの地図のようだった。


「どこだ?」


「港区青海9丁目32番地。TPEC発足準備会議第3回会合の会議場の俯瞰図です」


 敷地面積およそ119,445平米、3階建ての巨大会議場。現政権が外交政策の肝と位置付ける国際会議のためだけに建てられたとされる。周囲には各国代表使節をもてなすための迎賓館や国際会議開催期間中に随行員が滞在する宿舎、ホテルなども併設され、総工費は1000億にも達するとメディアは騒いでいた。


「今朝の話の続きか。随分と広い建物だな。あんたらの予測じゃ、確かここに添田が隠れてるんだったか?」


「ええ。噂によれば、ですが。この迎賓館の一室に滞在しているとの目撃情報がありました」


 そう言った後、新見は続ける。


「野党や新聞は『たかが1回の国際会議のために税金の無駄遣いだ』と批判していますが、これほどに堅牢な造りでもなければ太平洋沿岸の国々が全て集まる施設としては心許ないでしょう」


 新見は人差し指で地図上の宿泊施設群をトントンと叩く。そこには建物ごとに『割当国』と書かれていた。どうやら参加国ひとつひとつに一棟の建物が用意されているらしい。


「実はこの会議場、警備は日本の警察だけでなく参加国の警察当局が合同で担うことになっているのです」


「まるで総会期間中の国連本部みてぇだな。要するにテロや暗殺云々が起きた時の責任の所在を曖昧にするためか」


「その通り。つまりは会期中に何か事が起きても日本だけが責任を負わなくて済むというわけです。現内閣の誰の発案かは存じませんがよく考えたものだ」


「責任逃れは日本の政治家のお家芸だろ。しっかし、各国の警察サツが一堂に会するとは。その国ごとに法律や職務規範も違うんだから摩擦も多いだろう」


 すると新見が拍手を打ち鳴らした。


「流石は麻木次長! お目の付け所が的確ですね!」


「は?」


「異なる規範を持った者同士が集まれば、当然のごとく軋轢が生じる。そうしたトラブルを回避するため、TPEC発足準備会議では本会議場周辺を議長国の警察が、宿舎をそれぞれの割当国が守るといった具合に分担を行っているのです」


「だったら敷地内では建物ごとに適用される法律が違うってわけか?」


「ええ。その部分こそが今回の話の本筋。添田社長が隠れているのはこちらの迎賓館だとされています」


 彼の指差す先には『モルバ王国』とあった。あまり馴染みのない国名だが南太平洋の島国ということは何となく分かる。


「このモルバ王国は旧時代の封建制を未だに引きずっている政体でしてね。賭博、売春、麻薬といった先進国では犯罪とされる行為が軒並み合法なのです」


「つまりこの国の迎賓館に居れば仮に堂々と麻薬ヤクを吸っても捕まらない……そういうことか」


 納得した俺に更なる説明が伝えられた。


「うちの若頭は先日、モルバ王国大使館に多額の献金を行っています。それに加えて迎賓館付近での目撃情報。添田がここで匿われているのは明白でしょう」


 また、新見によれば、例の迎賓館ではカジノが開帳されているという。アメリカでさえ禁止されている暴利での取引だ。輝虎が人身売買闇市場の運営責任者たる添田をこの場所に送り込んだとなると、そうした事情をビジネスチャンスに活かそうとする思惑もあったと考えるのが自然である。


「カネに目が眩んだ世界各国の外交官が集まる賭場に女を供給する。上手く行けば大儲けだ。ついでに向こうの政府にも取り分を渡せば恩も売れる」


 治外法権を利用した賭場の開帳は既に何処の組も行っているが、会議終了までの間に多くの外交官や軍人または警察関係者が滞在するTPEC発足準備会議場ともなれば規模が違いすぎる。何しろ、一般的な駐日公館賭場とは動く金額が比べ物にならない。複数の外貨を獲得できる点もまた、商売としては実に魅力的だ。


「麻木次長。あなたが首を狙っている添田社長を討つには、まずこの会議場の敷地内に侵入せねばなりません。リスクは他にも沢山あります」


「例の迎賓館へ辿り着くまでに各国の軍や警察を相手にしなきゃならねぇってことか。会議が始まるのは夏だと聞いたが、前もって駐在員を待機させてる国も多いだろうな。面倒な話だ」


 そこまで返答を述べたところで俺は口を閉ざした。このまま会話を続ければ確実に交換条件の提示へと引っ張られる流れだ。秀虎派で添田暗殺を手伝ってやる代わりに銀座の戦争に参戦せよと――厭わしく思えたので先に釘を刺しておく。


「まあ、何にせよ添田は俺の獲物だ。あんたらの力添えは要らねぇぜ。潜入任務は傭兵時代に飽きるほどこなしてきた身なんでな」


 ところが、新見の反応は想像と少し違った。


「いえ。お力添えを頂きたいのは私どもの方でございます」


「ほう?」


「単刀直入に申し上げます。麻木次長。どうか、我らが青海の国際会議場へ入る膳立てをしてくださいませんか」


 敢えて何も答えないことで俺は新見の真意を探ろうとした。しかし、彼は至って真剣な眼差しで俺を見据えている。冗談で言っているわけではなさそうだ。


「……本気で言ってるのか?」


「はい。勿論です」


「訳を詳しく聞かせてくれねぇか? あんたらは青海の会議場で何をしようってんだ? そもそも添田に関してはあんたらが直接手を下さなくたって良いはずだぜ?」


 すると新見は少し間を置いてから答えた。


「若頭の賭場を潰したいのでございます。正確に云えば『潰す』よりも『奪う』という表現が適切かもしれません。我々といたしましても切羽詰まっている状況でございまして」


 輝虎派が会議場迎賓館で仕切っている賭場を襲撃する計画があると打ち明けてきた新見。自分たちには潜入の技術と経験が乏しいゆえに元傭兵の俺の手を借りたいのだという。議場に入り込んで脱出するまでの算段を練って欲しいと頼まれた。


「無論、貴方様の添田暗殺の邪魔立てはいたしませんとも。我々はただ若頭の賭場に奇襲を仕掛けられればそれで良いのです。どうせなら隠密行動に長けたお方と行動を共にした方が成功しやすいのではと思いまして」


「要するに俺の仕事に便乗しようってのか。快く引き受けられねぇ申し出だな。あんたらに助けられる道理も無いが、助ける義理は尚更にぇよ」


 頭を下げて頼み込んでくる新見だが、俺は頷いてやることができなかった。そもそも彼らの作戦に加担するということは即ち、彼らに手を貸してしまうということ。本家の人間の立場として、そんな真似が許される訳もないだろうに。


「あんたらも分かってんだろ。俺は執事局次長。恒元公の姿勢と相反する行動は取れねぇんだよ」


 するとそれまで黙っていた三淵が漏らすように口を開いた。


「……この場に限っての話。既に俺たちの資金は底を尽きている。今回の作戦を実行せねば秀虎様は終わってしまうのだ」


 彼によると輝虎派の妨害で商売もままならず、さらには影武者を用意するための特殊覆面の製造などで毎月膨大な額が費やされる状況という。秀虎派の懐具合が芳しくない旨の話は聞いていたが、よもやそれほどまでとは。息を呑んだ俺に、男は真摯な面持ちで言葉を繋げてきた。


「輝虎の賭場には各国の通貨が山のように積み上がってる。そいつを奪って換金すれば一気に挽回できる。俺たちはこの機に全ての命運を賭けたいのだ」


「……」


「秀虎様を勝たせたいのはあんただって同じはずだ。今回の計画はあのお方の理想を実現する第一歩でもある。輝虎に攫われた無辜の女どもを助けるための」


 拳を握りしめて見つめてくる三淵。それはまるで己に言い聞かせるようにも思えた。俺は少し考えた後、静かに口を開く。


「……聞かなかったことにさせてくれ」


 三淵の目を見据えてそう伝えたのだ。きょとんとして「えっ?」と声を上げた彼に、俺は続ける。


「聞かなかったことにしてくれと言ったんだ」


 予想していなかった返答だったらしく、三淵は唖然としている。一方で新見は食い下がってきた。


「何故です? 私どもの話に耳を傾けてくれたからには協力してくれる気になったと思っていましたが?」


 困惑を露わにする彼に俺は言った。


「ああ。だから聞かなかったことにしたいんだよ。あんたらが俺を信頼して話を打ち明けてくれたのはよく分かったが、会長の信頼に背は向けられねぇんでな」


 すると新見が何か言おうと口を開いたので、俺はそれを遮るように言葉を継いだ。


「あんたらの計画を邪魔する気は無いし、敵方に密告する気も無い。俺は俺で添田を討ちに行くだけだ。輝虎の賭場を叩き潰してぇなら同じ日にでも勝手にやれば良い」


「それってつまり……」


「やるって決めたなら勝手にやれと言ったんだ。何度も繰り返させるんじゃねぇよ眼鏡野郎」


 新見を黙らせた後、俺はもう一人の男を睨みつけた。


「おい。コラ。あんた、俺のことを盗聴してたろ」


「……」


 彼は無言のままだ。俺は更に語気を強める。


「ずっと気になってたんだよ。何であんたらが俺の任務のことを知っていたのか。その答えはひとつしかねぇだろ」


 すると、それまで沈黙を守っていた三淵が捻り出すように返答してきた。


「……やはり気付かれたか。元傭兵の観察力には敵わんな。二度も三度も恐れ入ったよ」


 その表情は絵に描いたような苦笑いだった。後輩の発言を聞いた新見は目を剥いて驚いた様子だったが、やがて慌てて弁解を寄越してくる。


「彼に指示を下したのは私ですよ。麻木次長。三淵は勿論ながら秀虎様も私の考えに沿って動いてもらったまでのこと」


「御託なんざどうだって良い。不愉快な真似は金輪際してくれるな。誰の案だろうと今後は一切容赦しねぇからな」


 そう吐き捨てると、俺は懐からボールペンを取り出して彼らに突きつけた。それは『Café Noble』にて配られていた代物。店の創業30周年を記念して作られたグッズであり、先週に華鈴の元を訪れた際に貰っていたのだ。おそらくは秀虎がそれより前に来店した際、カウンタ―の上に置いてあったペンの束をケースごとこっそりすり替えていたのだろう。


「インクの出し入れ口にマイクが入っててフリクションで充電される仕組みか。こんな精巧な道具を大量に作ってたんじゃ資金も飛ぶ。妙な真似しやがって」


 あの店でペンを一本貰い、背広の内側に入れたのは5日前。そう考えると最近5日間の出来事が丸っきり彼らに筒抜けだったことになる。春の宴で大見得を切った日も、華鈴と情事に及んだ夜も、何もかも――考えれば考えるだけ腹立たしく思える。俺自身が監視対象だった点は勿論ながら、華鈴の生活までをも盗聴していたのが何より許せない。


 怒りに駆られ、俺は三淵の顔めがけて貫手を繰り出した。


「っ!?」


 なれど、突きを当てることは無い。寸止めである。


「俺の喧嘩の腕は知ってんだろう。命が惜しけりゃ二度と華鈴に近づかねぇことだ」


「……承知した」


 俺が手を下ろすと、驚愕に顔をこわばらせていた三淵は安堵の溜息を吐き出した。一方、俺はペンを再び懐へ仕舞う。それが何を意味するか、新見はすぐに気づいたようだった。


「むふふっ。まさか麻木次長がここまでお優しい方だったとは。いやはや驚きましたよ」

「勘違いするな。あんたらの作戦に手を貸す気は無いと言ったはずだぜ。『やりたいなら勝手にやれ』って話だ」


 盗聴器は暫くの間に限って背広の内側に入れておいてやる。そうすれば、こちらから新見たちに連絡を取らずとも彼らは俺の動きを把握できる。一方通行なれども通信機としては十分だ。


「……これで失礼させて貰うぜ。俺は本家の人間。用も無く一緒に居続けるのは問題があるんでな」


「お待ちなさい! 麻木次長! お礼に何か美味しいお酒でも奢らせてくださいな!」


 新見に呼び止められても振り向かない。無視して立ち去ろうとしたところ、今度は三淵が声をかけてきた。


「本当にすまなかった。だが、これだけは言わせてくれ」


「……何だ?」


「与田華鈴のことはよろしく頼んだぞ。あの娘は秀虎様ではなくあんたにこそお似合いなんだ」


「……」


「あんたならあの娘を幸せにしてやれるだろう。ここ最近のやり取りで、俺はそれを確信している」


「……言われるまでもない」


 吐き捨てるように呟き、今度こそ店を出ようとしたその時。不意に新見が話を振ってきた。


「そうそう! 赤坂三丁目の喫茶店に置いてある記念グッズのボールペンは全て人を遣わせて廃棄させておきましたからご安心ください! 秀虎様には申し訳ないですがカタギの女性の家を盗聴し続けるのは流石に忍びないと思いましたので!」


 俺は立ち止まる。すると背後からは「なっ!? 新見の兄貴!?」と突っ込む声が聞こえた。あの御曹司とて油断も隙もあったものではない。


 何も言わず、俺は今度こそ彼らに背を向けて歩き出す。背後から聞こえてくる声は全て無視した。やがて部下たちの待つ駐車場へ近づいて行くと、俺はようやく肩の力を抜いて大きな溜息を吐き出したのだった。


「お疲れさまです。次長。よくぞご無事でお戻りに」


「兄貴! 大丈夫ですか? 何かめっちゃ疲れてますけど……」


 出迎えた酒井と原田に「ああ」と応じて俺は車に乗り込む。彼らはコンビニで時間を潰していた模様。この寒空の下で待たせずに済んだのは本当に良かった。


「……奴らの相手は大変だったぜ。だが、収穫もゼロじゃねぇ」


「収穫?」


 運転席に座った酒井がきょとんとした顔をすると、助手席の原田もまた目を丸くさせた。俺は頷きつつ続ける。


「輝虎の側に寝返ったばかりと思っていたが、新見の野郎は秀虎サイドの人間だった。向こうに潜入してるらしい」


「なっ!?」


 驚く部下二人に俺は言った。


「それが分かっただけでも収穫だよ。今後、輝虎が本家に対して何か仕掛けてきたら新見の存在を利用して切り崩せるかもしれねぇ。弱みを握ったも同じだぜ」


 背広の内側のペンに向かって聞こえるような声で言ったのは、単に奴らへの警告だ。所謂二重スパイという可能性は否定しきれないが、新見晴豊が実のところ秀虎派である旨は決して広まってはならない情報のはずだ。一連の件を敢えて教えた意図はともかくとして、俺は奴を制御下に置いたようなものである。


 あの男に少しでも不穏な動きがあれば、すぐにでも新橋の輝虎に密告してやる――色々と謎はあれども心に決めていた。


「とにかく、今は目の前の任務に集中だ。添田の情報も調べてきたからよ。さっさと始末を付けるぞ」


 威勢よく「おっす!」と返事をした部下たちが車を発進させた矢先、携帯が震動音を鳴らした。華鈴のメールアドレスだ。俺は慌てて端末を開く。


『ねぇ、聞いてよ! さっき店に酔っ払ったサラリーマンっぽい男の人が来たんだけどさぁ! カウンターにあったボールペンを全部持ってっちゃったんだよ! 私、慌てて止めたんだけど全然聞いてくれなくて! もう、びっくりしちゃったよ! 確かにご自由にお持ち帰りくださいって張り紙はしてたけど、いくら何でも全部持って帰るのは非常識すぎじゃん!』


 どうやらつい数分前に起きた珍妙な出来事を華鈴は知らせてくれたらしい。俺はすぐに返信する。


『それは酷いな。とんでもねぇ客もいたもんだ。酔っ払いってのは時として予想外のことを平気でやらかすもんだ』


 すると即座にメールが返ってきた。


『本当に信じられない! あれを作るのに10万円もするのに! お金が無駄になっちゃったよ!』


 俺は思わず「ははっ」と笑ってしまった。文面からして華鈴は不満げな様子であろうが、彼女から他愛もない内容のメールが届いたことが嬉しかったのだ。正式な恋人関係になったわけではないにせよ華鈴との心の距離が少しだけ縮まった気がする――このようなやり取りが日常的に出来るということはきっとそういうことだろう。


 俺は『それは辛いな』とだけ返して携帯を閉じた。これ以上やり取りを続けると無駄なことを言ってしまいそうだからだ。事の真相を先ほど新見から聞いて把握しているだけに、うっかり口ならぬ指を滑らせてはまずい。


「……」


 黙って窓の外を眺めていると、酒井と原田が声を掛けてくる。


「嬉しそうですね。次長。もしかして彼女とメールですか」


「羨ましいっすよ。俺はからっきし女に縁はありませんので。一度で良いから巨乳の女と付き合ってみてぇなあ」


 軽口を叩いた部下たちに「そんなんじゃねぇよ」と返し、俺は窓の外に視線を戻す。美しい宵の街に人々が色めきを灯している。あの輝きの中には華鈴も営む光もきっと混じっているだろう。


 愛する者たちを守るためにこそ、俺は銃弾の嵐の中に身を投じるのだ。例えどんな矛盾に心を突き刺されようとも。背負い込んだ状況の複雑さとは裏腹に心が高鳴る夜であった。

一打逆転の襲撃作戦。様々な思惑が交差する中、涼平は信念を貫き通せるか。全ては愛する者たちのために。

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