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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第12章 銀座継承戦争
207/261

春の青嵐

 2005年4月3日。


 春らしい陽気と共に首都圏の桜が一斉に満開を迎えたこの日、東京都港区の『桜月堂庭園』ではとある宴が開かれようとしていた。


 桜月の宴――。


 毎年の桜の季節に中川一族所有の別荘『桜月堂』で開催される恒例行事だ。千本を超える桜の樹が植えられた広大な庭園に組織配下の極道たちを集め、絢爛豪華な花々を眺めながら酒を酌み交わす。言うなれば中川会のお花見である。


 そこでは関東各地から招かれた一流の料理人たちが腕によりをかけた懐石料理が振る舞われ、丁半や手本引きといった江戸伝統の博打が楽しめる賭場が開帳される。中川会直参は勿論、恒元に挨拶料を納める都内の一本独鈷の親分衆も集まるため、まさに恒元の威光を内外に知らしめる春のビッグイベントだ。


 表向きは花見の宴会だが、この催事には深い意味がある。それは何といっても賭場の開帳。関東博徒の棟梁たる中川恒元にとって、賭場を開くことはまさに至上命題。他のシノギが如何に収益の大半を占めようと、賭場を開けなければ中川会は博徒集団としての顔が立たない。時代が平成に差し掛かっても、これだけは昭和の頃から変わらぬ慣習だ。


「……たった数時間の宴のために十数億のカネを投じるとはな。流石に大袈裟な気がしてきた」


 この日、早朝から続く準備作業を手伝いながら俺は呟いた。今回、与えられた役目は現場責任者。助勤たちや組織お抱えの業者連中を指揮して庭園内を飾り、酒や料理の膳を支度して賭場の実務を仕切ることになっている。


「組織にとっては夏の納涼と並んで年に2回の賭場。会長の気合いが入るのも訳ないです。これをやらなきゃ恒元公は博徒の親分を名乗れませんので」


 俺の言葉に酒井が苦笑いで応じた。彼は未経験の俺を丁寧に補佐してくれている。昨年は暖冬に伴う桜の早咲きで3月初旬に開催されたため、当時まだ日本に戻っていなかった俺は桜月の宴を経験していなかったのだ。


「それにしたって単なる建前の行事にカネをかけ過ぎだ。ただでさえ玄道会との問題が片付いてねぇって時に。もし仮にこのまま奴らと戦争になりゃ軍資金も沢山要るだろうに」


「ええ。次長の仰る話は俺も分かります。でも、その建前があるから恒元公は関東博徒の王で居られるんです」


 直参組長の息子として幼い頃から博徒の慣習に馴染んできた酒井。育つ過程でそのような伝統的価値観が心に染みついていない俺とは考え方が根本的に違う。尤も、郷に入っては郷に従え――この宴の采配を無事に務め上げるのが恒元の命令である以上は俺も従う他ないのだが。


「それに今年は銀座の一件もありますから尚更です。会長の権力を取り戻すためにも、まずは恒元公の権威を維持するのが最優先でしょう」


「確かにな」


 だから莫大な資金をつぎ込んで馬鹿高い酒を揃え、贅の限りを尽くした料理を作り、趣向を凝らした賭場を開くというわけか。色々と共感できない部分はあれども俺は素直に頷いた。「今はこんな事をしている場合ではない」という会長への諫言は、胸にしまっておくとしよう。


「……まあ、お前の言う通りだな。この花見は中川会三代目の威光を天下に示し、関東博徒の親睦を確認するための行事。であるならば、それを完璧に遂行するのが俺たち執事局の仕事ってわけか」


「ええ、仰る通り。ですから、次長もどうかよろしくお願いします。この宴で少しでも粗相があれば、それは忽ち恒元公ご本人の不評に繋がりますので」


 そう言って深々と頭を下げた酒井と共に、俺は今まさに慌ただしく準備が行われている庭園内をぐるりと歩いてみる。


 時刻は15時30分。まもなく開始される宴の準備が滞りなく済んでいるかを確かめる最終点検だ。



「それにしても、この庭園は広いな。赤坂の本宅も立派なもんだが、ここも相当だ。前に昔の地図を見たことがあるが、この辺りは元々湿地帯だったんだよな」


「ええ、よくご存じですね。俺が聞いた話によりゃあ、江戸の頃に中川右衛門佐って旗本が時の将軍に献上するために整備したのが始まりだとか。桜の木に関しては、もっと後の時代らしいですが」


 整備事業の折、中川右衛門佐は無宿博徒を普請に多数動員し、彼らに江戸居住権と仕事を与えた。そして庭園の竣工後は功績を称えられて旗本から大名へと昇格、工事で財を成した関東の博徒集団と絆を築いた。右衛門佐は恒元から数えて六代前の先祖であり、中川一族が関東博徒から曲がりなりにも尊敬を集める理由にはこうした歴史的背景が関わっているのだ。


「明治維新後に中川一族は子爵に叙されて華族になりましたが、以降の当主も東京周辺の博徒系組織の面倒を見ていたようです。貴族院議員として彼らに有利な法案を通したり、あるいは彼らの支持を背景に政府や議会に影響力を行使したり。まあ、この辺は持ちつ持たれつってやつですね」


 一方、博徒たちも中川一族のために働いてきた。日比谷暴動ではロシアとの和平に反対する当時の当主の意を汲んで騒乱に加担し、逆に大正の米騒動では軍や警察に代わって暴徒を鎮圧するなど、戦前の有名事件の裏には常に中川一族と関東博徒の存在があった。さながら鎌倉幕府の御恩と奉公を連想させる関係だが、両者の仲は時代が戦後に至っても続いてゆく。


「大日本帝国の降伏直後、中川一族の当主だった中川なかがわ恒澄つねずみこうは私財を投げうって博徒たちの生活を助けました」


「恒元公の親父さんだよな。戦時中に陸軍少佐をやってたせいで公職追放に遭い、尚且つ華族制度の廃止でご自分も生活が窮乏しておられただろうに」


「ええ。やがて恒澄公は関東中の組をまとめ上げ、自らを会長とする『中川会』を立ち上げました。全てはGHQの弾圧から自分の愛する博徒たちを守るためでした」


 混迷の時代を生き抜くためには、関東全ての極道が一枚岩にまとまる必要があり、恒元の父親はそれを連中の世話人である自分自身がヤクザとなることで成し遂げたというわけだ。


「社会制度が崩壊したとはいえ、それまで華族だった男が極道の世界に飛び込むとは……初代にとっては一世一代の大勝負だったに違いない」


「本当に恐れ入りますよ。初代恒澄公のご尽力のおかげで、今の中川会があるわけですから」


 それから進駐軍と衝突する組が続出して混乱状態に陥ったが、軍人時代のコネと統率力を活かした恒元の父親の活躍もあってすぐに関東に平和が訪れた。戦後の復興と共に裏社会にも安定期が訪れ、その後の高度経済成長で関東博徒たちはますます力を付けていった。そして会長の座は長男のひろつね、次男の恒元へ受け継がれ、現在に至る。


 だが、かくして平成の世を迎えた中川会に何も問題が無いかといえば決してそうではない。


 父と兄から権力を継承し、三代目会長となった中川恒元が仕切る当代の中川会は関東のみならず甲信越と北陸にも勢力を拡げ、組織としては最盛期の真っ只中。しかし、その組織体制が矛盾に満ちているのは俺も酒井も既知の通りだ。


「初代恒澄公は『自分が博徒たちの錦の御旗となって外圧の一切を引き受ける』ために組織を創成しました。ですが、それは博徒たちの傀儡となることを自ら容認するも同然のことでした」


 酒井の言う通り、中川会は関東の有力博徒組織の連合体という形式で創設された。それゆえ会長には盟主としての発言力こそあれど、組織の運営に関しては創成時に集まった七つの組織の代表者 = 御七卿が合議で決めるという形式を取っている。つまり、初代会長は自ら傀儡となることで極道たちの連携を確固たるものにしたのだ。


「親分衆の合議制にすることで彼らの自己決定権を認めたのは良かった。しかし、そのせいで後の時代に連中の子孫たちが専横を極めるようになってしまった」


「ああ……」


 そしてそれは組織の混乱を招くことになった。代替わりを経た現在の御七卿は中川一族当主への敬意を欠いて、勝手放題に振る舞っている。その最たる例が眞行路一家だ。


「眞行路高虎は中川会の歪んだ組織体制と負の伝統が生んだモンスターだった。ここで歪みを正さねぇ限り、いずれまた奴のような馬鹿が現れる。絶対にな」


「同意見です。戦後の混乱期はそれで良かったとしても、今は時代が違います。おそらく初代も自分の息子の代でこんな有り様になるとは思っていなかったでしょう」


 酒井も苦々しい表情で頷いた。彼らは事あるごとに会長に対して度を超えた意見具申を行う。表向きこそ『中川会のために』などと抜かしているが、根底にあるのは自分たちの利益を守ることだけだ。


 俺が思うに、組織とは統率者が盛大なる力を誇示して初めてひとつにまとまる。配下の者たちの独断専行も時には必要だ。なれどもそこに上下の序列を基礎とした規律が無ければ所詮は荒くれ者の集まりである暴力団などはあっという間に崩壊してしまう。


 関東博徒を守ることを最優先課題に据えた中川会初代のやり方は何ら誤りではない。自分の代で組織を改革しないまま息子たちに跡を継がせたのも、それが関東裏社会の安寧維持に繋がると判断したからだろう。

 だが、眞行路高虎のような輩が台頭した平成の世となっては最早過去の全てを時代遅れと断じ、改革に踏み切る他に手は無いのだ。


「まあ、どんな賢者であれ未来のことなんざ分からねぇもんさ。この庭を造った中川右衛門佐だって、まさか自分の子孫がヤクザになってるとは思ってもいなかっただろうからな。人の為す行為ことってのは、大体そんなところだ」


 広大な庭園の桜の木々を見つめながら俺は呟く。よくよく考えれば今回の宴はそうした負の歴史がもたらす歪みを是正する第一歩ともいえる。無駄にカネが使われているのは問題だが、やるからには徹底的にやってやろう。


「気を取り直して全体の見回りだ。この庭園は花見の会場であると同時に中川会にとっては聖地でもある。少しの問題もあっちゃならねぇ」


「ええ。次長の仰る通りです。ではさっそく行きましょうか」


 酒井と共に庭園内の各施設を見て回ることに。この庭の最大の特徴は何といっても無数に植えられた桜の樹である。至る所に桃色の花弁を咲かせた木々が連なっており、春の薫風を受けて枝が揺れる様はまさに夢幻の世界といった情緒だ。


「見事な桜だな……これほどの数の桜は俺も初めて見るかもしれねぇな」


「でしょう? 俺も最初にここに来た時には驚きましたよ」


 思わず感嘆の声を漏らす俺に酒井が笑いかける。この庭は華族制度の廃止と共にGHQに接収され、サンフランシスコ条約成立後は長らく国有地になっていたところを恒元が2000年に買い戻したらしい。江戸から続く庭園の歴史と中川一族の隆盛を感じさせる光景だ。


「今回、樹木の一本一本に灯篭を吊るしています。中には電球が入っていて夜になったら点灯します」


「そんでもって皆に夜桜を楽しんでもらおうってわけか……なかなか良いアイディアだ」


 酒井の言葉に俺は頷いた。樹木を照らす灯りが無ければ夜桜は映えない。参加者に幻想的な眺めを満喫してもらうための趣向であり、そのためにこそ開始時間を16時に設定したのだ。


「昼間の桜と夕暮れ後の夜桜。この二つを同時に愛でられるだなんて最高じゃないっすか。こんな贅沢な花見はきっと他にはありませんよ」


「そうだろうな。花見と言えば真っ昼間にやるのが普通だ。そこを夜に合わせて夕方からにすりゃ一日に二度楽しめる」


 今回、その案を出したのは酒井だ。酒井組が中川会の中でも経済派ということもあってか、彼にはビジネスマン風の思考力が備わっている。無論、こうした場面においては実に頼りになる。


「料理については東京中から料理人を招いています。いずれも和洋中の一流店ばかり。酒も馬鹿高い銘柄を取り寄せました」


「そりゃ良いな……ああ、配膳については料理より酒を優先するんだ。多少、料理の支度が遅れても酔っ払っちまえば誰も文句を言わねぇだろうからな。そこん所、気を付けろよ」


「ええ。勿論。料理も酒も最高のものを用意させています。あとは……」


「まあ、後は適当で大丈夫だ。どうせ、連中は酔って騒いで遊べればそれで良いんだからな」


「へへっ」


 酒井の懸念を俺は一言で片付けた。別に至れり尽くせりの宴にする必要は無いのだ。中川恒元が関東博徒の頂点に君臨することを示すために必要なのは、ただひとつ。


「皆が『素晴らしかった』と言ってくれりゃあそれで良いんだよ。その評価こそが恒元公の権威に繋がるんだ」


「……確かにそうですね」


 俺の言葉に酒井は深く頷いた。花見の主役は美しい風景であり、料理と酒はそれらに添える引き立て役であれば良いのだ。この庭園は景観に関しては申し分ないだろう。


 天然の沼に浮かぶ小島に桜の木々が連なる様子は、まさに地上の楽園と云える。園内中央の櫓から見ゆる景色は絶景だ。


「いやあ。しっかし、珍しいな。」


「何がですか?」


「この庭園はジャンル的には大名庭園の区分だ。それなのに何処か京都の公家の屋敷みてぇなおもむきがある。造られたのは武家文化全盛の時代だってのに」


「ああ、それですか」


 俺の疑問に酒井は頷いた。


「実はこの庭、設計したのは京都の庭師だったらしいんですよ。将軍に献上するだけあって並大抵の大名庭園にしちゃつまらねぇと思ったんじゃないですかね」

「そういうことだったのか……」


 幕府の財政が概ね枯渇していた江戸時代後期にこれだけの庭園を整備できるとは驚きだ。費用は旗本だった中川一族が全て賄ったというが、そう考えると工費を削減するために敢えて水を引きやすい沼地を建設地に選んだようにも思えてくる。限られた予算の内で出来るだけの仕事をやってのけた先人たちには敬服する他ない。


「で、俺たちはそんな庭園の各所にテーブルを設置して料理を並べるってわけか。この桜と一緒に食う飯は美味いだろうぜ」


「へへっ。美味いに決まってますよ。まあ、お楽しみは他に一つありますが……」


「お楽しみ?」


 意味深に笑った酒井に俺は問い返す。尤も、それが何なのかは俺とて分かっている。宴会における楽しみといえば自ずと想像は付く。


「ああ。分かった。女か」


「はい。赤坂、鶯谷、錦糸町と、本家のシマ中から女を掻き集めてます。そりゃあ勿論のこと美女揃いですよ」


 本家直轄領のキャバクラやラウンジ、風俗店から選りすぐりの美女を招聘しているという酒井。百戦錬磨の極道たちが酔っ払えば自然と肉欲が昂る。女の一人も用意しないで良いはずが無い。このような場面で女が必要不可欠なのは裏社会の鉄則だ。彼らの需要に応えるためにこそ水商売が存在すると言って良かろう。少し言い過ぎかもしれないが。


「まあ、どうせ御七卿のゴミどもは本家のアラばかり探すでしょうから。女遊びでもして気を紛らわせてもらおうって魂胆です」


「ふっ。そうするのが一番だろうな。男ってのは浅ましいもんで酒と肉があれば大抵の問題は許しちまう」


 俺は頷いた。確かにそれは一理ある。思い返してみれば傭兵時代の同僚たちも似たようなことを言っていたような気がする。


「で? その女どもは何処に?」


「ああ、それならもう原田が連れて来てます」


 桜の木が生い茂る沼のほとりに立食形式の会場が設けられている。酒井が指差した先を見れば、そこに女たちが集まって来ていた。待機中の彼女らは酒と料理を片手に談笑している様子が窺える。


「ほう。あれは確かに見事なもんだ。近頃のキャバクラは昔に比べて質が向上してきた」


 女どもはだいぶ刺激的な装いをしている。上はハーフキャミソールもしくはチューブトップ、下はマイクロミニのタイトスカートかショートパンツという出で立ち。いずれも胸元は谷間がはっきりと強調され、脚は太腿が露出した派手なものだ。


「次長もそう思われますか。俺も、さっきすれ違った時に思わず見惚れちまいましたよ。文字通り二度見したっていうか」


「しかし、あの服は……まるで水着だな。あれで客の前に出ようってんだから大した度胸だ」


 俺は女たちの服装を見ながら言った。ああいう衣装はキャバクラでも着ないだろう。だが、それには深い理由があるらしい。


「すぐに脱がせやすいようになってるんですよ。ほら、あのミニスカート。上までスリットが入ってて太腿が丸見えでしょう?」


 酒井に言われて俺は小さく頷いた。



「言われてみれば……」


 確かにあの女どもの格好は男を誘惑するためにはうってつけ。ここは宴会場だ。その目的のためには服装もそれに見合った形式にする必要があるのだろう。


「あれじゃあ脱がせてくださいって言ってるようなもんですぜ」


「なるほどな……確かに理にかなっている。これなら客がすぐに女を抱けるってわけか」


 酒に酔って興奮した男が女に抱き着いても、いちいち服を脱がせていたのでは行為に及ぶまで時間を要して気分が萎えかねない。だが、女が身に纏う衣服を最小限にしておけばその手間が省けようというもの。一言で云えば、合理的だ。


「ああ、そうそう。あの女どもは下着をつけてねぇんですよ。ブラジャーもショーツも」


 酒井の言葉に俺は眉を顰めた。よく見れば、笑顔で語らうキャバクラ嬢たちの胸の辺りには乳首が浮き出ていた。その訳は何となく分かる。


「男どもを興奮させるためか?」


「ええ、脱がせばすぐに素っ裸ですからね。その方がヤリやすいってもんでしょう」


 どう反応すれば良いのか。確かに男からすれば嬉しい施しと言えよう。けれども女からすれば下着を身に付けていないというのは不安だろう。


「ま、男どもは皆喜ぶことでしょう。あの格好に」


 酒井の言葉に俺は苦笑した。何せキャバクラ嬢たちの中にはグラビアアイドル顔負けの美女が何人もいる。そんな女が下着を着けずにマイクロミニのタイトスカートを穿いているというのに歓喜しない男など居るのだろうか。


 されども俺はふと心配になって口を開いた。


「しかしまあ……あの女たち、本当に大丈夫か?」


 酒井は首を傾げる。


「何がです?」


「いや、その……まだ客に抱かれたことのない奴もいるんじゃねぇかと思ってな」


 水商売を糧としているからと言って必ずしも全ての女が客との肉体関係に及んでいるとは限らない。風俗嬢なら未だしも、キャバクラやラウンジといったセックスを伴わない飲食店で働く娘たちは、まだ客と寝た経験が無いというケースも充分考えられる。


「ああ。その心配は要りませんよ」


 酒井は俺の問いに笑顔で答えた。


「さっき原田が全員に訊いて回ったんです。『お前、セックスしたことあるか?』ってね」


「ほう……それで?」


「全員が『はい』って答えたそうですよ。つまり、全員そっちの仕事も可能ってことです。まったく問題は無いですよ」


 それならば確かに安心だ。心なしか嬉しそうな酒井の様子はさておき、俺は居並ぶ女の子たちを今一度眺めてみる。部下の云う通り誰もが極上の美女ばかりで自然と心を奪われそうになってしまう。


「……あれ?」


 その時、ふと俺の脳裏に引っかかる何かがあった。それは女どもの顔ぶれを見てのことだ。女たちの中に見覚えのある顔が居たのだ。


 あれは……華鈴!?


 一瞬、他人の空似だろうと思ったが紛れもなく当人。亜麻色の長い髪と切れ長の瞳。その面差しは見間違えようが無い。


「おい、酒井」


 俺は思わず酒井に声を掛けた。


「はい?」


 俺の声に酒井が振り向く。そして、俺が指差している方向に視線を向けた途端、彼は息を呑んだ。


「あれ……三丁目の喫茶店の!?」


「そうだよな。やっぱり」


 俺も同感だった。商売女じみたヘアメイクを施しているが、あの顔と髪型は間違いなく華鈴だ。だが、何故に彼女がこんな所に? いや待てよ……そもそも華鈴は、どうして水商売の女どもの中に入ってるんだ?


「何であの喫茶店のウェイトレスがここに!?」


 俺との関係のことは知らないまでも、華鈴のことは酒井も存じている。俺と同じ疑問を抱いたらしい。彼女がここに居る理由は見当が付かない模様。


「何でまた……お前、あいつに声をかけたのか?」


「いや、夜の店には女を寄越すよう頼みましたけど、いくら何でも喫茶店には頼みませんよ。それに俺は店ごとに『美女を見繕ってくれ』と注文しただけで女一人一人の情報までは把握してねぇんですよ」


 ならば、どうして華鈴が居るのだ。俺は華鈴が水商売の女どもに交ざっていることに驚きを隠せなかった。まさかこんな所で会うとは思いも寄らなかったのである。


「あの……次長?」


 酒井は俺に何か言いたげな表情だ。すっかり動揺している俺の様子に戸惑っている。おそらくは俺が華鈴と恋仲であることを知らないからだろう。だが、そのことに関しては敢えて口にしないことにした。今はそれどころではないのだ。


「……いや、何でもない」


 俺は努めて平静に返した。


「まあ、たぶん、副業がてら赤坂界隈のキャバクラか何かで働いてんだろうよ。あいつのカフェにはそういう女たちが沢山来る。軽いノリで客の店を手伝うことが無いとは言えない」


「ああ。なるほど。そういうことですか」


 俺の推測に酒井は納得した。水商売は臨時雇いも多い業種。喫茶店の常連客にせがまれて一日だけ嬢として働く流れになったとしても不思議ではない。


 しかし、それでも俺は釈然としなかった。どうして華鈴がこんな所に居るのか。そして何故にキャバクラ嬢たちと一緒に居るのか。


 考えれば考えるほどに分からない。


「おーい! 諸君!」


 その時、いきなり野太い声が響き渡った。


「そろそろ始めようか! 今宵は楽しい花見だよ!」


 その声の主は中川恒元。


 彼は中央の小島で俺たちを手招きしている。どうやら宴の始まりのようだ。俺は酒井と一緒にそちらに足を向けた。


 華鈴のことは気になる。けれども、今はそれどころではない。既に場内には参加者が集まってきており、個人的な用事に時を割いてはいられない。


「よし、行くか」


 後ろ髪を引かれながらも俺は酒井に告げた。


「ええ」


 酒井は頷く。そうして俺たちは宴の会場へと歩んでいった。


 中川会の春の恒例行事、桜月の花見。


 云うなれば絵に描いたような大盛況だ。関東甲信越の各地から直参組長が一堂に会し、その取り巻きの組員たちもまた大勢が詰め掛けている。


 酒も料理も皆、美味そうに口にしている。特に女性陣が大人気で、彼女たちの周囲には常に人だかりが出来ていた。男どもはその美貌とスタイルを褒め称えているし、女たちも満更ではないらしい。


「おうおうネエちゃんよぉ! あんたみたいな別嬪さんは久々に見たぜ! こっちで一緒に飲もうや!」


「うふふっ。褒められても何も出ませんわよ。親分さん」


 娼婦というのは不思議な生き物で、異性から下心を剥き出しに賛美されることを厭わない。それどころか、むしろそれを喜びとする傾向すら見受けられる。


「なあ、一晩幾らだ? 相場は?」


「うふふっ」


 ヒラの某直参組長に口説かれていたのは、六本木の有名キャバクラでナンバーワンの座にあるとの噂の美人嬢。


 彼女は蠱惑的な笑みを浮かべるばかりで男の問いには答えない。その笑みに男はますます興奮している様子である。だが、それも無理は無いことだ。


 彼女の美貌と色気は男の理性を狂わすのに十分すぎるほどだ。


 俺はそんな光景を見ながら思う。女とは斯くも恐ろしい生き物であると。色香と豊満な体が放つ魔力を前に自制心の効く男など居るのだろうか。


「まったく……女ってのは怖いもんだな」


 俺の隣で酒井が「同感です」と苦笑した。彼もまた親分衆の酒池肉林を目の当たりにして呆れ返っている様子である。確かに、この光景はある種の異様さを感じさせるものがあった。


 普段はお堅い御七卿の当代たちが今は見る影も無い。一人は女に無理やりキスを迫り、一人は女に酒を飲ませ、一人は女の服を脱がせようと組み付いている。


「えへっ! えへへへへっ! 良いじゃねぇかあ、良いじゃねぇかよぉ!」


「いやん! やめて下さいっ!」


「良いじゃねぇか、良いじゃねぇか! 減るもんじゃねぇし!」


「もう! 越坂部総長ったら! スケベなんだから!」


 口でこそ嫌がっているが、そのキャバクラ嬢は何処か嬉しそうな様子。相手は群馬を仕切る巨大組織、椋鳥一家の総長だ。媚を売って取り入っておけば何か得があると踏んだのだろう。


 それにしても見事なまでの弾けっぷりだ。この越坂部おさかべ捷蔵しょうぞうという男に恥という概念は無いのか。ここ最近は政治的に対立していたはずなのに、中川恒元の御前でよくもまあ醜態を晒せるものだな。


 酔っ払って騒いでいるのは越坂部と五分兄弟の森田総長も同様。彼は服を脱いで自らが全裸となり、しょうもないギャグを連発している。


「おまんこっ! おまんこっ! どうだ、上手いだろう!?」


「あははっ!」


「うひょーっ! なーんちゃってぇぇぇ!」


 森田総長に群がって大笑いするのは森田一家の組員たち。揃いも揃って馬鹿丸出しで実に楽しそうである。「子は親に似る」と云うが、子分が親分に似るのも事実らしい。


 しかし、そんな彼らとは反対に静かに酒を嗜んでいる者も居るには居るのだ。それは千葉の阿熊一家の門谷総長。彼は女に言い寄られながらもそれを適当にあしらい、黙々と酒を呷っている。


「ねぇねぇ。門谷の親分さーん。さっきから全然飲んでないじゃないですかぁ」


「こいつが俺のペースなんだ。放っておいてくれ。酌がしてぇなら理事長の所にでも行きゃあ良いだろ」

「だってあたしは親分さんと飲みたいんだもーん」

「けっ。下品な女だぜ」


 とは言いつつも、門谷総長は何だか嬉しそう。心なしか頬も少し紅潮している。彼のような御仁を俗に『むっつりスケベ』などと呼ぶのだろうな。


 そんな理事長補佐に名指しされた理事長と云えば、完全に前後不覚となっていた。


「うおおおお! ヤラせろぉ! ヤラせろぉぉぉ!」


 飲み干したワインボトルを振り回して女を追いかけ回し、白水一家の子分たちに窘められていた。


「親分! 飲みすぎですよ!」


「うるせぇよぉ! 今日は本家のカネで酒が飲める絶好の機会なんだよぉ! 飲まなきゃ損っだろぉ、げぼっ!」


「ああ、もう、そこに寝ないでくだせぇ……」


 この男も己の欲を満たすことしか頭に無い。表向きには『組織のため』だの『恒元公のため』などとほざきながら、実際には自分の組の都合を優先させる。他の御七卿の奴らと似たような手合いだ。


 多くの者が泥酔する中で、一人だけ冷静沈着な男が居る。


「……」


 本庄組の組長、本庄利政。


 馬鹿騒ぎを繰り返す他の連中とは違って静かにグラスを傾けている。彼の連れてきた本庄組の連中は親分衆に混じって馬鹿騒ぎを繰り広げているが、当人は群れの中に加わっていない。肴の皿が置かれたテーブルに座り、周囲の喧騒を無表情で眺めていた。


 暫し彼の様子を窺っていると、向こうも俺に気付いたのかそそくさと近づいてきた。


「よう。涼平」


 彼は俺の名を呼んだ。その面持ちは普段と何ら変わるところが無い。まるで何事も無かったかのように落ち着いた様子だ。


「おう……」


 相変わらず何を考えているか分からない顔。だが、少なくとも今は穏やかに見受けられる。この御仁にしては実に珍しい佇まいだ。


「どないしたん涼平? 飲まへんのか?」


「……仕切り役が酔っ払っちまったらいけねぇだろ」


「そうかい。まあ、おどれらしいわな」


 本庄はそう云って頬を緩めた。その表情に俺は苦笑する。何を隠そう組織でも指折りの謀略家、あまり関わりたい相手ではない。


 だが、次の瞬間には彼の表情が一変した。それはいつもの策士の顔つきであった。


「なあ、涼平。あの嬢ちゃんたちは何処の所属や?」


 そんなことを訊いて何が得られるというのか。まったくもって不可思議な質問。ともあれ俺は軽く答える。


「さあな。俺としては『夜の店の女たち』としか答えられん。本家のシマ内の店に軒並み声をかけたとは聞いているが」


「おいおい。知らへんのかい。把握しとくもんやろ、そこは」


「は?」


 俺は首を傾げる。すると本庄は呆れた様子で溜め息を吐いた。


「おどれ、ほんまに言うてんのか?」


「何がだ」


「ったく……そんなんじゃ恒元公の側近は務まらへんで」


 彼はそう云って軽く舌打ちをした。そして、そのまま眉間に皺を寄せた。まるで我が子に説教でもしているかのような動作だ。


「……あのな涼平。嬢ちゃんたちは全員が『夜の店の女たち』と違う。いや、まあ確かにキャバクラには所属しとるけど正式なキャストやあらへん。嬢ちゃんたちの中には素人が紛れとる。普段は昼の仕事で働いとる娘たちが」


「は?」


 俺は思わず訊き返した。だから何だというのだ。不景気の昨今、生活苦ゆえに昼の仕事と夜の仕事を掛け持ちす女性が増えていることくらい俺も知っている。そんなのは社会の一般常識であろう。しかし、本庄は真顔のままさらに続ける。


「わしの読みが正しけりゃ、あの嬢ちゃんらは自らの意思で来たわけやない。会社に命令されて仕方なくこの現場に派遣されてきたんや」


「裏があるってことか?」


「ああ。さっき話しかけた時に『丸の内から来た』って答えとった時点でおおよその察しは付いていたんやけど……」


 そんな台詞を吐いた本庄に俺は顔を顰めるしかない。一体、どういうことだ。いや、待てよ。会社? 現場? 派遣? あれこれ思考をめぐらせたことで俺にひとつの仮説がもたらされた。


「派遣会社のOLが水商売の店にまわされたってことか」


 すると本庄は深々と頷く。


「せやで。嬢ちゃんたちの会社はな、かの有名なパーソン・ジャパンや」


「はあ!?」


 思わず素っ頓狂な声が飛び出した。パーソン・ジャパンといえば人材派遣業の国内最大手。あの竹取久兵衛が設立したことで知られる大企業ではないか。


「馬鹿な」


 俺は呆然とする。まさかあの大企業が夜の店なんかに人材派遣していたとは……しかも水商売未経験の女性を無理やり働かせるなんてな。まあ、だからこそ人間観察力に長けた本庄が彼女らの表情で気付いたのだろうけれども。


「ああ、馬鹿な話や。本当に」


 本庄はそう云って頷いた。しかし、すぐに真顔に戻った。そして俺に向かって問いを投げてきた。


「涼平よお。おどれならこの意味は分かるよな?」


「パーソン・ジャパンの竹取会長が恒元公に頼まれて女の派遣に応じた。竹取を入閣させるよう尽力したことへの見返りか。今後も組織の力を借りるための」


「けけっ、分かっとるやんか」


 昨年秋に行われたゴルフ大会で中川恒元と竹取久兵衛は親しく語らっていた。その席で藤城琴音が官房長官の和泉義輝に竹取の大臣起用を要求、琴音に弱みを握られる格好になっていた和泉は渋々ながらに承諾していたのだ。政財界の実力者たちが笑顔の裏で駆け引きを繰り広げる模様は刺激的だった。


「今回、竹取が就いたんは金融政策担当大臣兼郵便制度改革担当大臣。20年ぶりの民間人閣僚ってことでメディアは歓迎ムード一色や。少し前まではパーソン・ジャパンの労働環境が酷いやら何やらで散々叩いとったのに」


「そのマスコミにカネをばら撒いて黙らせたのが恒元公か。他にどういう手段を使ったのかは知らねぇが、ブン屋連中を押さえつける『実力』を持ってるのはこの国じゃ極道だけだ。一昨日の朝刊に批判が一切載ってなかったってなりゃ尚更な」


 コンビニへ煙草を買いに行くついでに買った新聞。その一面には『パーソン・ジャパン社の竹取久兵衛会長金融政策担当相に大抜擢』と書かれていた。社説では起用を決めた小柳総理の人事を手放しに絶賛、民間人を内閣に入れることで政治に新たな風を吹かせる云々と奇妙なほどに褒め称えていた。


 本庄の云う通り、少し前まではパーソン・ジャパンの企業体質を厳しく批判していたにもかかわらずだ。それも都内に本社を置く大手五紙は勿論、テレビやラジオ、週刊誌といったあらゆる報道機関が竹取久兵衛の閣僚就任を大歓迎。疑問や否定を呈しているのは個人運営のインターネットニュースだけという有り様だった。


「へへっ。お前も新聞は読むんやな。勉強熱心なのは感心するで」


「時事に詳しくなきゃ極道はやっていけねぇと教えてくれたのはあんただろう。まあ、個人的にも不思議に思っていた。そういう裏があったか」


「ああ。ま、腑でも剣の前には無力ってことや」


 皮肉っぽく呟いた本庄の言葉に俺は苦々しく頷いた。自らの入閣を官房長官に提言してくれた琴音に竹取がどんな報酬を払ったのかは定かではない。だが、恒元に対しての謝礼は女の供給だった。


 水商売に携わる嬢や娼婦には独特の臭いがある。これは彼女らが勤務する店や街、あるいはそこにやってくる顧客によって染みついた臭いであり、その種類は様々だ。客たちの中にはそうした臭いを厭い、まだ何色にも染まっていない純潔さを女の子に対して求める輩も少なくない。


「色んな意味で夜の世界に慣れてへん女。そいつを賄う手は一つしかない」


「……未経験の女を引っ張り込むってわけか」


「せや。そういう女を好む奴は極道の中にも少なからず居る。奴らを喜ばすんに今回の竹取の申し出はぴったりやったっちゅうことや」


 本庄は俺の言葉に頷いた。そして、さらに続ける。


「今だけやない。竹取……いや、小柳内閣は恒元公の期待に応えて、ヤクザが女を調達しやすくする法制度を整えようとしとる」


「女を調達しやすくする法制度だと?」


「私立大学の助成金廃止。今までは全ての大学に助成金を出しとったんを国公立大学に限定するらしい。そうすれば、私大の学費は馬鹿みたいに跳ね上がる」


「つまり、その法整備が実現すれば……」


 俺はそこで言葉を止めた。本庄も俺の意図を察したのか小さく頷く。そして、彼は答えを続けた。


「ああ。べらぼうに値上がりした学費を稼ぐ、または奨学金を返すために若い女どもが夜の仕事を始める。わしらヤクザは潤って仕方ないってわけや」


 そう言い切って本庄はグラスに入った酒を一気に飲み干す。聞いていて虫唾が走りそうな話だった。俺のあずかり知らぬ所で恒元がそんなゲスなことを政界に働きかけていたとは。


「……っ!」


「何や。怒っとるんかい」


「別に」


「まあ、お前の気持ちは分らんでもないけど。これでも紳士的なやり方や思うで」


「紳士的? どこが?」


 俺は思わず訊き返した。本庄は深く頷いてみせる。そして、躊躇なく続けた。


「どこぞの御曹司がやっとるように、女どもを攫って無理やり売春させるわけと違う。そいつらは自分の自由な意思で夜の店に来て仕事をする。それだけのことや」


「自分の自由な意思だと? 冗談も休み休み言えや。貧しさを理由に風俗嬢を始めることのどこに自由があるってんだ!」


「眞行路一家のやり方は拉致をはたらいとる時点で選択の自由を奪っとる。だが、貧乏な女が夜の店に来ることは違う。何せカネを稼ぐ手段として風俗で働くことを自ら『選択』しとるわけだからな」


「そこで働くしか選択肢がない状況に自由があるとは言えねぇだろ!」


「いやいや、風俗以外にも仕事は沢山ある。それを蹴って手短に儲ける道を『選択』して夜の仕事に就くわけやさかいな。それを自由な選択と呼ばすして何と呼ぶんや」


「……」


「もっと云えば大学を辞める、もしくは行かないって『選択』もあるんやで」


 本庄はそう云って俺を見た。そして、さらに続ける。


「ともかくや。涼平。お前は本当に甘い。ええか? ヤクザはカネを稼いでナンボなんや。手段云々なんかいちいち気にしとったら儲かるもんも儲からへんわ」


「……ゲスなやり方で稼ぎたいとは思わねぇ」


「それ甘い言うとんのや! 輝虎のやり方かて常識的に考えりゃ何ら問題は無い! そもそも俺たちの稼業に道理なんざ存在せぇへんのや!」


 俺は本庄の言葉に何も言い返すことができなかった。確かにヤクザは手段を選ばない。だからこそ、俺は陰惨な裏社会に在っても俺自身の美学を貫き通したいと思っている。


 だが、その美学が極道の常識と矛盾するものだという自覚はある。無論のこと、己の考えが甘いという自覚も。そんな甘さを抱えていては、玄道会の井桁のような手段を選ばぬ危険な男と渡り合えないのではないか――淡い不安が先日の一件以来心の中で台頭するようになっていた。


「……あまり説教じみたことは言いたくはないけど。涼平も本当は分かっとんのやろ。自分の考えが愚かで至極くだらないって現実に」


 本庄の問いに俺は一言で返した。


「さあな」


「ふん。まあ、。悩むのは若者の特権だ。せいぜい悩んだら良い。稼業人を続けるか、それとも辞めるか、会長が味方で居てくれてるうちに答えを出すことだな」


 彼はそう云って俺の肩を叩いた。空いたグラスを片手に去って行く本庄。その背中を見送った俺は、溜め息と共に溜め息を吐いた。


「俺がヤクザに向いてねぇって言いてぇのか」


 飲酒が許される立場であればバーボンを一気飲みしたいところであった。いつになく心が揺れ、そして荒れている。自分の考えが甘すぎると指摘されて動揺しているのだろうか。それとも俺自身の考えの愚かさを悟ったか。いや、分からない……ひとつ云えるのはこの感覚の正体が不安であるということ。俺の考えに迷いが生じているからだ。


 本庄もつくづく下世話な男だ。こんな時にまで俺の心を揺さぶらなくたって良いだろうに。そもそも、あいつは何故に恒元と竹取の関係を知っているのか。娘を眞行路一家へ嫁がせる話はどうなったのだ。奴自身、俺に対して説教をかませるほどに清廉な男ではないというのに。


 まあ、渡世の先輩からの助言をこのように捉えてしまう時点で、俺は『甘い』のかもしれないな。自覚がある分、心が締め付けられる。


「ちっ……」


 思わず舌打ちをしたその時、遠くで叫び声がした。


「きゃああ!」


 その方向を見やると、ぐでんぐでんに酔っ払った直参組長が黒髪の女性のキャミソールを脱がそうとしていた。先ほどの嬢たちとは違い、その女性は本気で拒否している。男慣れしていなさそうな初々しい様子から察するに、おそらくは本庄の云っていた派遣のOLの一人だろう。


「良いじゃねえかよ~、なあ?」


「や、やめてください!」


 そこへ一人の男が駆け込んでくる。原田だ。


「ちょ、ちょっと! い、岩尾組長! 何やってんだよ、素人の女には手を出さねぇってルールじゃ……」


「うるさいやい! 黙ってろぉ! 馬鹿野郎がぁ!」


 ――バキッ。


 裏拳で殴られた原田は、その瞳に瞬間的に怒りを燃やして拳を振り上げる。だが、寸前で止められる。

「待て」


「きょ、兄弟!?」


 止めに入ったのは酒井だった。


「おい! どうして止めるんだよ!」


「ここは堪えろ」


「どうしてだよ! こんなの、見過ごせるわけねぇじゃねえか!」


「お前は恒元公の催す宴の空気を壊すってのか。俺だって兄弟にこんなこと言うのは本意じゃねぇんだ。分かってくれ」

「くっ……!」


 原田は渋々と拳を下げる。


 部下たちの姿を前に俺は溜め息を吐いた。何だか申し訳ない気分だ。おそらく酒井も、原田も、この場に意に反して連れて来られた女が居ることは知っており、その上で彼女らが辛い思いをしないよう最大限に配慮してくれていたのだろう。


 されども『気に入った女を自由に抱ける』というのが今回の饗応の謳い文句。ここで割って入ったのでは、場の盛り上がりを壊しかねない。それすなわち恒元の評判に傷をつけることにも繋がる。


「……すまねぇ」


 やがて女は衣服を破られ、豊満な胸を露にされる。その状況を前に俺は立ちつくす。


 どうすべきか。助けるか。しかし、それでは……。


『お前は本当に甘い』


 つい数分前の本庄の声がフラッシュバックし、俺は硬直した。そしてそのまま何も出来なかった。


「いやっ、いやあああ! 誰か助けてぇぇぇぇぇ!」


 絶叫も虚しく蹂躙される黒髪の女と、それをせせら笑う本職の風俗嬢たち、そして「いいぞもっとやれ」とばかりに歓声を上げる極道たち。群集の中で、俺は自己矛盾にひたすら反吐を出していたのだった。


 それからも宴会は滞りなく続き、やがて日が傾いてきたところで助勤が拡声器でアナウンスする。


「皆様、大変長らくお待たせいたしました。これより花見の賭場を開帳いたします。中央の広場までお集まりくださいませ」


 その言葉を皮切りに皆がぞろぞろと橋を渡って集まってくる。鮮やかな緋毛氈が敷かれた広場には、酒やつまみが用意された長机が幾つも置かれていた。


「さあさ、お立合い! お立合い!」


 いよいよ今回の花見の本番、皆お待ちかねの博打大会が始まる。司会の助勤が威勢の良い声で場を盛り上げる。


「今回の賭けは至ってシンプル!我が国伝統の『手本引き』でございます!」


 その声と共に会場から歓声が上がった。皆、既に出来上がっているようだ。俺はそんな連中を尻目に広場の隅っこに陣取り、一人煙草を吹かすことにした。


 手本引きとは江戸時代から続く伝統的な賭博だ。要するに現代でいう所の絵合わせ。ホストたる胴前どうまえ繰札くりふだと呼ばれる木札を6枚の中から1枚抜き出し、ゲスト張子はりこが一点から四点張りのいずれかの賭け方で親が選んだ札を推理するという遊び。


「では、本日の配当率レートを発表いたします! 一点張りが10倍! 二点張りが6倍! 三点張りが2倍! 四点張りが1.5倍でございます!」  


 助勤の説明に会場から拍手が起こった。皆、この博打大会を楽しみにしていたようだ。


「さて、本日の胴を勤めますは……こちらの女子おなごでございます!」


 助勤がそう声高に叫ぶと、盆茣蓙ぼんござと呼ばれる長机の向こう側にぞろぞろと女が入ってくる。彼女は皆和装姿で、鮮やかな振袖を片肌脱ぎにして美しい肉体を露わにしていた。実際、江戸時代に開帳されていた賭場では胴を女性が務めていたというから史実通りの趣向を楽しんで貰いたい訳か。


 組織の威信が懸かった行事だけあって胴たちはいずれも絶世の美女ばかり。女好きの恒元が自ら選りすぐったのだろうか――なんて思っていた俺は、直後に息を呑んだ。


 何と、入場してきた女らの中に華鈴が居たのである。


「っ!?」


 声を出さぬよう堪えるのが大変だった。何故、華鈴がここに居るのだ。それも、こんないかがわしい博打大会に……。


「当たれば賭け金は倍にしてお返しいたしますが、当たらなければ全額頂戴いたします!」


 助勤の説明が続く中、俺は華鈴の姿を目で追う。


 彼女は他の女たちと共に長机の向こう側で正座していた。椿紋様の黒い着物に金箔塗りの帯。髪は美しく結い上げられ、化粧も施されている。先ほどのキャミソールにショートパンツという刺激的な格好から打って変わって、華鈴は艶やかな和装美人となってそこに堂々構えていた。


 一体、どうして華鈴が胴を務めているのか。その理由について考えていた俺は、ひとずの仮説を導き出す。思い返してみれば、ここ最近の彼女には兆候が表れていたのだ。


『ええっと、サンピンとロクの時は……』


 3日前にカフェを訪れた折、華鈴は仕事の合間を縫って何やら手帳のようなものを読んでいた。よくよく考えればあれは手本引きの専門用語集。この宴で胴を務めるために賭博の知識を深めていたというわけだ。

 彼女が胴に選ばれた理由は、今ひとつ分からない。まあ、恒元の為すこと。華鈴の存在は昔から知っているわけだし、シマ中から美女を選抜する過程で彼女に思い当たったとて何ら不思議ではない。


 だが、それにしたってあの服装は実に破廉恥だな。はだけけられた着物からあらわになった二の腕と、胸に巻かれたサラシからはみ出した谷間。華鈴とは一度夜を共にした仲ゆえにその裸体を見ている俺だが、全裸の時とはまた違った美しさに心が焦がれそうだ。


 俺は思わず目を逸らした。だが、その時である。俺の視線に気付いたのだろうか、彼女は俺の方を向いてニヤリと笑ったのだ。


「あっ!?」


 その仕草に驚愕すると同時にドキリとしたが……すぐに俺は深呼吸をして平静を装い直す。いけない。こんな所で興奮を催していては見届人など務まらない。此度の賭場における俺の役柄は広場全体を監視し、不正行為をはたらく輩がいないか監察すること。ゆえにこうして庭園全体を俯瞰できる高台に腰を下ろしているのだ。


 一方、腰を下ろした胴たちと向かい合うように客である張り子たちもぞろぞろと前に出て着座してゆく。この張り子は各組から1人ずつ選出されており、賭け事が得意な者や動体視力や推理技術に優れた者などが名を連ねている。


 この賭場は単なる賭場ではない。普段は本家へ上納金を支払う立場の直参にとっては、本家からカネを巻き上げることができる唯一の機会。


 だからこそ、各組は張り子の選出にも力を入れる。この博打大会で優秀な成績を収めれば組織内で名を轟かすことにも繋がるからである。


 無論、本家としては易々と負けて直参にカネを貪り取られるわけにはいかない行事だ。ゆえにこそ胴の選出には直参以上に全力を注ぐ。手先が器用な者、心理戦に長けた者、さらには賭博のプロである裏カジノのディーラーなどが参戦するのが慣例なのだが、そこにどういう訳か華鈴が居る。


 中川会における手本引きは西日本を中心に広まっている遊び方とは少し違う。胴を女性が務めるのも特徴の一つで、これは胴に6枚の木札を片手のみで混ぜる煩雑な作業が求められるから。男性よりも指が細長い女性の方が適しているのが理由らしい。


 そんな離れ業が華鈴に務まるのだろうか。確かに華鈴は指が長くて手先が器用なれども――少し不安に包まれてゆく俺をよそに、やがて準備が整ったところで場内には会長の豪例が響いた。


「我輩の嗜みは何もチェスやポーカーだけではない。年に三回くらいは日本の博徒らしい遊びに興じるのも良いものだ。さあ、始めようじゃないか」


 冗談交じりに言い放った恒元。序盤から年代物の銘酒を飲み続けた所為か、美女を侍らせて上機嫌。そんな彼の号令でゲーム開始だ。


 まずは盆茣蓙の上に6個ずつ置かれた木札を胴たちが一斉に手に取り、客側に見せぬよう片手で札を混ぜ、そこから1枚だけを取り出して残りを後方に置き、選んだ木札を正面に置かれた「カミシタ」と云う手拭いの中へ隠した。


「さあ、張った張った!」


 司会役の助勤の掛け声と共に張り子たちは張子札と呼ばれる木の板に数字を書き込んだ木片を取り出して、自身の賭け方に応じて三点張りか二点張りで賭けてゆく。


 張り子は答えが出た時点で「できた!」と叫ぶ。その場に居る全員が答えを出し終えたところでいよいよ勝負が始まる。


「お唄いなされ! どうぞ!」


 司会が声を掛け、胴は一斉にカミシタを外す。そのカミシタの中にあった木札の絵柄が張子札の内容と合致しているかどうかで賭けを行うのだ。


「赤!」


「青!」


 胴たちが一斉に声を上げながら木札を見せる。要は自分が提示した木札の内に、胴が選んだ絵柄が有るか無いか。四点張りなら4枚、三点張りなら3枚、二点張りなら2枚、一点張りなら1枚の内に胴と同じ絵柄があれば良く、選択肢の少なさに比例して掛け金の倍率も上がる仕組みだ。


「ああっ! 畜生! 外した!」


「俺もだ! クソったれが! どうして青じゃねぇんだよ……!」


「ふう。やっぱ手堅いのは四点張りだよなあ。地道に少しずつ稼ぐのが一番だぜ」


 張り子たちが悔しそうな声を挙げる中、胴たちは淡々と札を伏せて次の勝負へ。それを延々と繰り返し、最後まで勝ち残った者が賭け金を総取りできる。


「さあ、張った!」


 張り子らが次々と張子札を開示してゆく中、やがて華鈴の番がやって来た。彼女はカミシタに両手を翳し、ゆっくりと開いてゆく。その動作は実に洗練されており、まるで舞でも踊っているかのようだ。


「青! 青です!」


 胴たちが一斉に叫ぶ。そして華鈴はニヤリと笑ったまま木札を手拭いの中に隠し、次の勝負に臨む。実に見事な手際である。


 この手本引きの面白い所は、回が連なるにつれて胴と張り子の激しい心理戦が展開されることだ。互いに思考を読み合い、相手が次に選ぶであろう木札を当てて予測を仕掛ける。胴は張り子の予測の裏をかき、張り子はその更に裏をかいて予測する――その心理戦が兎にも角にも熱い。


「二点!」


「二点!」


「青だ! 俺は青の一点に賭けるぜ!」


 張り子らが叫ぶ中、華鈴はカミシタに手を翳してゆっくりと開いてゆく。その動作は実に洗練されており、手つきそのものが美しい。そして手拭いの中にあった木札を開示するや……。


「ああっ! 畜生! なんで外したんだよ!」


 皆が頭を抱えて悔しそうな声を挙げる。一方で華鈴はニコリと笑って次の勝負へ。組から支給された持ち金を出し尽くした張り子は肩を落として退場し、代わりに新たな張り子がやって来る。その中には先ほど黒髪のOLを犯していた直参組長も居た。


「うへへっ! 巨乳のネエちゃんが俺の相手か! こいつは儲けられそうだぜ!」


 華鈴を見るや否や、ひしゃげた笑顔を浮かべる直参。その面相は実に下劣であり、思わず殴りかかりたくなる衝動に駆られる。しかし、そんな俺の心情など知る由もなく華鈴は客と向き合い、木札を手に取って片手で混ぜる。


「四点! 四点だ!」


「俺は一点!」


「全額賭けてやる! 勝負だ!」


 張り子たちが一斉に叫ぶ中、華鈴はニヤリと笑ってゆっくりと手拭いを開いてゆく。そして現れた木札を見るや、場内から悲鳴が上がる。


 何と、華鈴が選んだ木札の絵柄を提示した張り子が一人も居なかったのである。


「うおおおおっ! マジか!」


 皆が頭を抱えて悔しそうな声を挙げる。先ほどの変態組長は持ち金の全てを一点に賭けてしまっていたようであり、その額は実に1億円。アタッシュケースに収められた札束が一瞬で水の泡と消えたことになる。


「このアマぁ、イカサマしてんじゃねぇか!?」


 激昂した組長は立ち上がり、ポケットから小さな拳銃を抜いて華鈴に向ける。


「おい、お前! イカサマしてるだろ!」


「はあ? 何を言ってるんですか?」


「うるせぇ! 土下座しろや! 土下座! 土下座しろ!」


「はあ。どこの組長さんか知りませんけど。言いがかりはみっともないですよ」


 喚き散らす男に対して華鈴は呆れ顔だ。俺が目配せするや否や助勤たちが組長を取り囲むも、華鈴の対応は迅速だった。


「おいコラ! 今すぐ俺に土下座して、その綺麗な指で俺のポコチンをいじってくれるんだったら許してやっても良いぜ!」


「お断りです。私、そういう趣味はありませんので」


「は? 何言ってんだよお前! 俺を誰だと……」


 ――ドサッ。


 突きつけられた拳銃を華鈴が瞬時に奪うと、いきり立つ組長を盆茣蓙の上に捻じ伏せた。


「う、うわあっ!?」


 華鈴の怪力に驚いたのか、組長は悲鳴を上げてジタバタともがく。だが、それも彼女の前では無駄な努力である。体格こそ男の方が上回っているが華鈴はこの手の締め技に精通しているようであり、瞬く間に肘を絞り上げていった。


「うあああっ! いてぇぇよ!」


「お見苦しいですよ」


 そう言って華鈴は奪った拳銃を分解し、近くにいた助勤に男を引き渡す。結局、変態組長は素っ裸にされて帰された。その姿はまるで、おむつを替えられる赤ん坊のようだった。


「おっ、おい! 離せ! 離しやがれぇぇぇ!」


 組の看板が懸かった勝負事に自ら出陣した親分と呼ぶには、見るも情けない不格好さである。一体、この御仁は何のために来たのやら。酒を飲んで暴走した結果なのだろうが、中川会の直参が皆彼のような人物だと思うとため息が出る。


 そんな中年男の醜態はさておき、華鈴は相変らず勇猛な女だ。俺は心の中で感嘆の声を上げる。当人は怯える胴たちに優しく声をかけていた。


「大丈夫ですよ。もしまたさっきみたいな輩が現れても、あたしが即刻ぶちのめしますので。安心してくださいね」


 その頼もしい言葉に女たちも落ち着きを取り戻したようだ。女が女に惚れるとは、このことか。皆が華鈴に尊敬と信頼の眼差しを向けていた。


「さあ、気を取り直して楽しんで参りましょう! 張った張った!」


 助勤の声に、張り子たちは一斉に張子札を提示する。

 傍らには記録役の助勤が座っており、賭場の勝敗結果についてつぶさにホワイトボードへと書き記す。持ち金を全て使い切った組から脱落していき、開始から50分ほど経った頃には盆茣蓙に群がる男たちもだいぶ少なくなっていた。なお、賭場では持ち金を全て使い切った状態 = ゲームオーバーのことを『お勘定』と呼ぶから滑稽なものだ。


「……椋鳥一家、お勘定。さてさて、次の組は……」


 張り子らの賭け金が回収され、桜の咲き誇る庭園内に悲鳴と怒号が響き渡る。いよいよ終盤戦だ。


「さて、残すところ最後の組となりました!」


 助勤のアナウンスが響く中、盆台には最後の張り子が並ぶ。


「この熱き激しき戦いを勝ち抜いてきた猛者中の猛者! せっかくですから自己紹介頂きましょう!」


 芸能事務所が宴会などに寄越すタレント司会者のごとくハイテンションで喋る助勤。居残った張り子はマイクを渡されると、淡々と自らの所属を名乗った。


「……坪江つぼえ久呂人くろと。22歳」


「ええっと! どこの所属で!」


「一応、後田組ってことになりますかね」


 そう言って深々と頭を下げた男――坪江久呂人は背広姿ではなかった。茶色のダウンジャケットにジーンズといったラフな格好。パッと見た感じはどこにでも居そうな若者だ。


 えっ、こいつがヤクザ……?


 思わず二度見してしまった俺。その坪江とか云う男の装いがあまりにも軽薄すぎたのだ。出前を届けに来たバイトの青年の間違いではないのか。顔つきも何処かあどけなく童顔にも見える。容姿はともかく、少なくとも服装は本家主催の宴に来るに相応しいとは言えない。このような場では最低限、スーツを着てくるべきだろうに。一体、彼は何を考えているのか。


「おい、若造。何だ。そのふざけた服装は。舐めてんのか? ああ!?」


 背後から声を荒げる越坂部総長。他の連中も彼に同調して非難し始めた。


「そうだぞ! てめぇ、舐めてんのか!?」


「ここは本家の賭場だぞ!? そんな格好で来る場所じゃねえんだ!」


「ぶっ殺されてぇのか? ああ?」


 ヤクザたちの怒声に坪江は動じない。それどころかヘラヘラと薄ら笑いを浮かべている。その態度がますます気に食わなかったか、越坂部は短刀ドスを抜いた。


「おい、何とか言ったらどうだ若造!」


 すると坪江は薄ら笑いで意外な台詞を口にした。


「ちょっとぉ! 親分! 何とかしてくださいよ、もう!」


 その言葉に応じて前に出てきたのは本庄だった。


「いやいや。皆さん、すんまへんのぅ。うちの若い衆は礼儀知らずでして。ほら、久呂人。おどれも謝らんかい」


「あー、はいはい。すんませんしたー」


「この野郎! そんな態度で許されると思ってんのか!?」


 坪江の態度に激昂する越坂部だが、本庄は意に介さない。それどころか彼の肩を抱いてこう告げたのだ。


「まあまあ親分さん。ここはひとつ穏便に済ましたってくだせぇや。な?」


 その一言が効いたのか、越坂部は舌打ちをしながらも短刀を収めた。近くでいきり立っていた森田も彼に同調して大人しく肩をすぼめる。


「……」


 なるほど。これはまた随分と分かりやすい変わり様である。中国マフィアとの内通の件で本庄に弱みを握られて逆らえないとの話は本当だったか。


「さて、気を取り直して張り合いましょうや。この坪江って男はうちの組の新入りや。頭が切れる男やさかいこの機に皆にお披露目したる」


 本庄の一声で皆が我に返ると、一連の騒ぎを黙って見ていた助勤がひと呼吸置いた後で口を開く。


「は、はい! それでは参りましょう! どうぞ!」


 助勤のアナウンスで胴たちが顔を見合わせる。誰がこの青年の相手をするかで躊躇しているようだ。どうやら坪江なる男は今までの勝負において全て勝ってきたようで、そのあまりの勘の鋭さに皆が尻込みしてしまっているらしい。


 無理もない話だ。何せ彼女らが扱うのは中川会本家の金。これ以上、坪江に敗北して張り子の勝ち逃げを許したとあらば、後々でどんな罰が待っているか分かったものではない。


「あれ? どうしたんです? さっさと始めましょうよ?」


 二の足を踏む女たちに当の坪江が煽るように声を上げると、一人の女が彼の前に座った。


「相手になるわ。あたしで良ければ」


 華鈴だった。


「へぇ。あなたですか。自信満々なようですけど、さっきの人たちよりマシな勝負ができるんでしょうね」


「ふんっ。舐めないでよね。そっちこそ並みの男よりショボかったらお笑い草だよ」


「あなたのその発言が見掛け倒しでないことに期待しますよ」


 両者睨み合う中、場を取り巻く空気が次第に緊張の色を帯びてくる。現時点で残っているのは本庄組だけ。この男が連中の


 最高戦力であることは言うまでもない。


 しかし、こいつは一体何なのだろう。先ほどは本庄の奴に『頭が切れる男』と紹介されていたが、とてもではないが極道とは思えぬ優男然とした顔立ちをしている。さほど勝負事に長けているような風貌ですらないのだが……。


 訝しく思っているのは俺だけではないようで、居並ぶ直参組長たちは総じて坪江に冷ややかな視線を向けていた。それでも坪江本人はまったく意に介していないので、それなりに逞しい精神性の持ち主であることは分かった。衆人環視の中に在っても表情一つ変えずに佇んでいられる辺り、このような場面は過去何度か体験しているものと思われる。


「はははっ。見かけない顔だが、まあ良いだろう。始めてくれたまえ」


「会長、坪江は本当に切れる男です。その凄さを今からたっぷりご覧いただきましょう」


「うむ、楽しみだ」


 恒元が頬を緩める中、助勤は合図を送る。


「それでは参りましょう!」


 助勤の合図で華鈴は木札を手に取り、閃光のような速さでカミシタの中へと入れた。対する坪江は瞬き一つせずにその模様を観察している。


「……」


 華鈴の手の動きをじっくりと分析しているのか。奴の瞳が見開かれていたのが印象的だった。勝敗を分かつのは動体視力と思考力、一瞬の油断が相手に付け入る隙を晒す。


「さあ! 張った! 張った!」


 次の瞬間、男は木札を出した。


「できた」


「えっ?」


 助勤が驚きの声を上げる。何故なら、特に考える素振りも見せない反応だったから。それも坪江は一点張りで100万円の札束をポンと差し出してみせたのだ。


「あっ、ええっと、これで良いってことで……」


「そう言ってるじゃないですか。さっさと次へ行ってくださいよ」


 坪江が仕切りを促す中、助勤の「勝負!」の声を待たずに華鈴はカミシタを開ける。結果は外れ。彼女の一連の動作には一切の無駄がなく、まるで最初から自分の勝ち筋を読み切っていたかのような余裕さえ感じられた。


「あたしの勝ちね」


 しかし……。


「へぇ。なかなかやりますね。でも、次はどうですかね」


「あたしの手の動きを全て読めるって言いたいの?」


「はい。実に分かりやすい。『読んでください』と言ってるようなものだ」


 そんな二人の会話を聞きながら、俺は坪江という男の分析をしていた。おそらく奴は未だ本気を出していない。華鈴の挙動や仕草における特徴を見極めるためにわざと負けたのだ。


 ここまでならギャンブラーにはよくある話。けれども坪江の表情は自信に満ちている。華鈴が出した札を一目見ただけで瞬時に「勝負できる」と判断した模様。


 この男の思考力は並大抵のものではない。そして何より気になるのは奴の表情だ。まるで勝利を確信しているかのような不敵な笑みを浮かべているではないか。

 彼の技は想像以上かもしれない……。


 俺の脳裏に一抹の不安が過る。果たして華鈴はこの勝負に勝てるのか?


「それでは、参りましょう!」


 助勤の合図で今一度木札を提示する二人。果たして、その結果は。


「僕の勝ちだな。一点張りで10倍、一千万円頂きます」


「なっ!?」


 坪江は完全に的中させた。それも最もハードルが高いと言われる一点張りで。華鈴悔しそうに歯噛みする。


 だが、この程度のことは想定内らしい。むしろ彼女は坪江の強運ぶりに舌を巻いていた。あの状況からでも当てることが出来るとは……。


 華鈴としてもテンションが上がってきたということだろう。彼女はすぐさま木札を混ぜて布の中へと隠す。そして、間髪入れずに勝負する。


「今度はあたしの勝ちね」


 華鈴は自信たっぷりにそう宣言するも、結果は負け。またもや坪江が一点張りで当ててきたのだ。場内がざわつき始める。


「おいおい! どうなってやがる!?」


「あの若造、さっきから何かイカサマでもしてんじゃねえのか?」


 口々に驚きの台詞を口にする中、俺は一人冷静に状況を分析していた。


 坪江は完全に先を読んでいる。華鈴の行動の一挙手一投足を観察して、そこから彼女の思考を読み取っているのだ。


 これはもうギャンブルなどではない。華鈴と坪江の頭脳戦だ。どちらが先に相手の思考の先を読むかが勝負の鍵を握っている。


「さあ! 張った! 張った!」


 助勤の声が響き渡る中、俺は二人の動きに目を凝らしていた。この勝負を何としても見届けなくては。


「ふふっ! 僕の勝ちだ! 一点張りで10倍、今度も一千万円!」


 だが、次第に戦況は坪江の優位に傾いてゆく。俺は二人の一挙手一投足を見逃さないよう、目を皿にして見ていた。華鈴がどんなカードを出すのかを見極めるために……。


 だが、その甲斐もなく勝負は続いてゆく。


「僕の勝ちだ! 一点張りで10倍! またまた一千万円!」


 坪江の読みの鋭さに場内は騒然としていた。華鈴ですら奴には敵わないらしい。この展開に誰もが圧倒されている。


「おいおい……マジかよ……何で分かるんだよ……」


「どうなってるんだ?」


「あいつ、胴の女の心の中を読んでるのか!?」


 これは本当に手本引きなのかと戦慄がこみ上げてくるほどに何から何までを的中させてみせる坪江。次第に彼が木札を出す度に悲鳴にも近い歓声が上がるようになった。無論、華鈴も負けてはいない。


「くそっ!」


 華鈴は悔しそうに木札を混ぜると、すぐに勝負する。だが、結果は負けだ。またしても坪江に当てられたのだ。


「くくっ。これで僕の勝ちだ」


 坪江は不敵な笑みを浮かべ、華鈴の背後を見やる。そこには1億円ほどの現金の束が積まれていたのだが、度重なる的中により今や1千万円にまで減っていた。


「さて、次が最後の勝負になりますかね。僕が買ったら1千万円。本家側おたくらの持ち金を根こそぎかっさらってやる」


 それが何を意味するかは皆が分かっていた。中川会本家の敗北――恒元の顔を潰したことになり、華鈴は組織の粛清対象となる。


「どうしました? ビビッてます?」


「うるさい!」


 挑発的な坪江の言葉を華鈴は遮った。しかし、坪江の指摘は事実。華鈴は見るからに動揺していた。


 肩で大きく息をし、額には脂汗を滲ませている。雪のような二の腕には鳥肌が立っていた。眉間には大きく皺が寄っている。


「もう後がないですよ? さあ、どうします?」


 坪江は余裕の表情で華鈴を煽り続ける。だが、彼女は坪江を睨みながらも木札を取り出すと、震える手で布の中へと隠した。そして勝負するのだが……。


 俺は見抜いていた。その結果はまたも華鈴の負けであることを。手の動きから、彼女の出した札に迷いが生じているのが分かる。おそらく最後の勝負ということでプレッシャーを感じているのだろう。そんな彼女の動揺は例によって坪江に悟られており、奴は不敵な笑みを浮かべている。


「くくっ……」


 まずい。このままでは華鈴は終わってしまう。この勝負、どう足掻いても坪江には勝てない。


 奴の先読みは常軌を逸している。まるで未来予知でもしているかのように的中させてくるのだ。そんな男を相手にして勝てるわけがない。


 もはや後が無いということで零細さを欠いているなら尚更だ。


「さあ! 張った! 張った!」


 助勤が叫ぶ中、俺は席から立ち上がった。そして思考に先回りして大声を発した。


「待て!!」


 己の声で場内が静まり返る中、俺は我武者羅に頭を回す。勝負を止めてしまった――その行為が立場的にまずいのは百も承知。それでも華鈴を助けたかった。どうにかして彼女を窮地から救わなくては。何か俺に為せることがあるはずだと全力で思考を働かせた。


「じ、次長!?」


 マイクを持った助勤が驚きの表情を浮かべ、幹部たちが呆気に取られ、坪江が好奇の視線を向けてくる。そんな中で俺は淡々と切り出した。


「その勝負、一旦預からせて貰うぜ。イカサマは見過ごせねぇんでな」


 俺の言葉を受けて場内がざわめき始めた。当然だ。こんな前代未聞の展開など誰も予想だにしていなかったのだから。


「イカサマ? 僕がですか?」


 坪江は心外とばかりに眉を顰めるが、俺には確信があった。この男は確実に何かを仕掛けているはずだと。


「坪江とか言ったな。お前は華鈴の出す木札を予め知っているんだろ。そうでなけりゃ10連続で当て続けるなんざ不可能だ」


「ははっ! そんなわけないでしょう! 何を言い出すかと思えば!」


 俺の指摘に対して坪江は鼻で笑うように否定したが、無理もない話。何せ俺の言っていることは根拠の伴わぬハッタリなのだから。それでも俺は構わず続けた。


「その舐めた態度こそが何よりの証拠だ。お前は華鈴の出す札を知っている。だからこそ、あそこまで的中させることができたんだ」


「馬鹿馬鹿しい! 言い掛かりも甚だしいですね!」


 坪江は語気を荒らげて反論してくるが、俺は構わずに続けた。ここで引くわけにはいかないのだ。


「ああ? だったら何故だ? どうして華鈴の出す木札を事前に知っている?」


「いやいや。ちょっと待ってくださいよ。どうしてそれを俺が説明しなきゃいけないんですか」


 坪江は一瞬言葉に詰まったもののすぐに切り返してくる。


「後ろ指を指すなら、あなたの方から先に教えてくださいよ! 僕に言い掛かりをつける理由を! 僕がイカサマとやらを働いた証拠ってやつを!」


 その瞳は決して笑っていない。静かな怒りに燃えている。まあ、そうなるわな。


 されどここで引き下がる俺ではない。作戦などは万事走り出してから立てれば良いのだ。幸運なことに俺にはハッタリに計算を伴走させるだけの知略があった。


「ふっ。証拠か。そんなものはぇな」


「はあ? だったら、どうして僕がイカサマをやったなんて決め付けるんです?」


「そりゃあ決まってんだろ。お前が怪しいからだ」


 俺が即答すると、坪江の目つきが鋭くなった。心なしか舌打ちも聞こえたような気がする。同時に場の空気が張り詰めたものへと変わる。


「おいおい……あいつ、何を言ってんだ?」


「いや、どう考えたって言いがかりだろうよ」


「何とかして勝ち逃げを防ぎたいんだ、本家は」


 ざわめきが庭園内を澱ませてゆく。皆を黙らせたのは野太い怒声だった。


「静まらんかい!」


 本庄組長である。


「コラ。涼平。おどれ、うちの久呂人に何か文句あるんかい。『怪しいからイカサマだ』ってふざけとんのか。そない馬鹿げた言いがかりがあるかい。このダボ」


 鬼の形相で俺を睨み、詰め寄ってくる本庄。だが、俺は臆することなく睨み返した。


「ふざけるも何も。イカサマはイカサマだよ。本庄さんよ」


 俺の発言を受けて場内が騒然とする中、本庄は目を剥いた。


「せやからマトモな根拠を言わんかい! 舐めたこと抜かしとると容赦せぇへんぞ! この場で今すぐ殺したろうかゴラァ!?」


 怒り狂った様子で掴みかかってくるも、俺はその腕を払いのけながら続けた。


「おいおい。あんまりムキになるなよ。怪しい奴を怪しいと言って何がいけねぇんだよ」


「おどれ! いい加減にせぇや!」


 本庄が拳を繰り出してくるも俺は悠々と躱す。場のざわめきはますます深まり、もはや収集が付かなくなってくる。庭園内に居た誰もが固唾を飲んで俺と奴のやりとりに注目している。


 そんな状況下において華鈴は心配そうに俺を見つめていた。


「……」


 待ってろ、今すぐに助けてやるから――想い人を前に決意を固めた俺はなおも言葉を連ねてゆく。


「ふっ。『怪しいから』ってのは事実だが。それにはれっきとした根拠があるんだ」


「だからそれをさっさと言わんかい! 殺すで! それとも一度ブチ殺されなまともな口の聞き方ができへんのか、おどれは!?」


 しかし、途中で割って入ってくる者が居た。


「まあ待ちたまえ。本庄よ」


 制止に現れたのは恒元だった。その登場に本庄は歯噛みした。


「会長!」


「落ち着けと言っている。そのようにいきり立たんでも良かろう」


 恒元は柔和な笑みを浮かべながら言うが、その目は笑っていない。眼光鋭く本庄のことを見据えている。


「……ちっ!」


 そんな恒元に気圧されたのか、本庄は小さく舌打ちして一旦矛を収める。助かった。ここに恒元が歩いて来なければ本庄は怒気をなおも爆発させていたであろうから。


「そんなことより、だ」


 彼は穏やかな口調で諭すように続ける。


「……涼平よ。この場においてイカサマを指摘するからには、それなりに何か根拠があるんだろうね?」


「ええ、もちろん」


 俺は即答した。


 すると恒元は顎に手を当てて考え込む仕草を見せる。やがて考えがまとまったのか再び口を開いた。その口調は実に厳かで貫録に溢れていた。


「では、中川会三代目の名において命ず。麻木涼平。お前の唱える推理を皆に分かるように説明したまえ」


 そこまで言った後、さらに続ける。


「分かっていると思うが、曖昧な憶測での語りは許されんぞ。今ここでのお前の言葉は中川会三代目の言葉と同じ。我輩も勝ち逃げを厭い姑息な手を使ったと思われたくないのでな」


 会長の眼差しを受けた俺は「分かっていますとも」と大きく頷いてみせた。ここまでは計算通りだ。もっと云えば、今までの台詞は全て自分の中で推理を組み立てるための時間稼ぎである。


「良いでしょう。ではご説明申し上げます……」


 そう言うと俺は深く息を吸い込んだ。そして周囲を見回してから穏やかに語り始める。


「……まず最初に、手本引きという遊びは『張り子側が胴の選んだ木札を目視できない』という前提条件があって初めてギャンブルとして成り立つもの。それがあるから胴の思考を推理する駆け引きが楽しめるんです」


 ロジックを整理しつつ、俺は続ける。


「ですが、胴の選んだ木札を知っていたとしたらどうでしょう。胴がどの木札を選んだかを賭ける前に知り得ていたとしたら。その前提条件は忽ち崩れる」


 俺がそこまで言うと本庄組長も口を開いた。


「何を抜かしとんのや? このネエちゃんの手の中を久呂人が覗き見してたってのか!? そんなことできるわけないやろがい!」


 確かに坪江の位置からは不可能だ。華鈴は張り子に見られぬよう念を入れて木札を混ぜていたわけだし、そもそも衆人環視の状況。不自然に覗き込んだりすれば必ず「待った」の声が飛ぶだろう。


「ふっ。うちの親分の仰る通りですよ。僕に覗き見が出来ないのはあなたもご存じでしょう。僕はこの女性の瞳の動きと手の動きから物理法則を利用して木札の回転率を計算し、予測を立てていたのです。それを理解できぬ学の無い馬鹿ほど難癖をつけたがる。まったく愚かなことだ」


 坪江は余裕の表情で反論してくる。だが、俺は構わず続けた。


「確かにお前の言うように覗き見は不可能だったかもしれん……しかし、木札の内容を知る方法は何も覗き見だけじゃない」


 俺の指摘に場内が再びざわめき始めた。皆が互いに顔を見合わせる中、本庄の表情に変化が起こる。ほんの僅かに眉間に皺が寄っていた。


「っ!?」


 どうやら俺の読みは外れていないらしい。


「じゃあ、僕が如何にして木札の中身を盗み見たというんですか」


 興味津々な口調で尋ねてくる坪江に対して、俺は答えた。


「サインだよ」


「サイン?」


「単純な話だ。胴の背後に協力者を配置し、選ばれた木札の内容をハンドサインで教えてもらう。そうすりゃ賭けの前に中身を知ることは可能だぜ」


 そう言って俺は拳銃を抜き、華鈴のちょうど真後ろに立っていた人物へ突きつけた。


「動くな。本庄組のチンピラさんよ。あんたと俺は初めましてじゃねぇよな」


 その男は、ちょうど逃げようと疾走の体勢をとった直後だった。俺はそそくさと当人の所へ近づいて左腕を捻り上げる。そして彼の左手を皆に見せた。


「はっ、放せ……」


「道理でおかしいと思ったぜ。花見が始まる時は両手に包帯を巻いてたあんたが今になって外してるなんざ」


 その人物は本庄組長の護衛として広く顔が知られた人物。ゆえに彼が両手に包帯を巻いて庭園に入ってきた事実は全員が把握済み。それがどういうわけか外されている――皆が戸惑う中、俺は続けた。


「手本引きの胴は選ばなかった木札を背後に置く。逆に考えりゃ『背後に置かれなかった木札が正解』ってことだ。あんたの位置からは華鈴の背中が見える……それを見てハンドサインであそこのガキに教えてたんだろ」


 そう指摘すると男は目を泳がせるも反論してきた。


「ば、馬鹿を言うな! なんで俺がそんなことをしなきゃいけないんだ! 本家の賭場でイカサマを働くほど命知らずじゃない!」


「ほう? だったらどうして両手の包帯を外してるんだ? さっきまでは両手共にグルグル巻きだったろ?」


 俺が問うと男は言葉を詰まらせた。その反応が何よりの証拠である。


「……花見の前には両手とも包帯を巻いていたはずなのに、今は外している。それはつまり『胴の背後に立ってもハンドサインなんか作れません』ってアピールするためだよな。白々しいにも程があるぜ」


「はあ!? デタラメをほざくな! そんな訳ねぇだろうが!」


「だったらこれは何だ」


 そう言うと俺は地面に落ちていた包帯を拾い上げた。


「ち、違う! これは……そう、今さっき治ったから外しただけだ! それの何が問題だ!」


 いや、無理があるだろう。思わず突っ込みそうになったが俺は堪えた。要らぬ言葉は相手に言い逃れの隙をやるも同じだ。


「包帯を巻かなきゃならねぇほどの怪我をしてた割には、あんたの手には傷口ひとつ見当たらねぇじゃねぇか」


 俺が指摘すると男は息を呑む。どうやら己のミスにようやく気付いたらしい。このままの勢いで畳み掛けるとしよう。


「あんたは盗み見た木札の内容をハンドサインで教えた。右手なら青、左手なら赤って調子でな。どういう手捌きだったのかは分からんが」


 そう言い放つも男は頑なに否定し続けてくるが、もはやそれは自白のようなものだった。


「ち、違う! 違うんだ! 俺は何も知らねぇ!」


「この期に及んでまだ無実と言い張るとはな。あんたの辞書に往生際って文字は無ぇのか。大体、二回目の勝負の時に間違ってピースサインを作ったのを俺は見てたんだぜ」


「そんなわけがあるか!」


「へっ。引っかかったな」


「なっ!?」


「お前が作った手信号は総じて正解だ。『何のことやら』ととぼけてみせりゃ良いところでムキになって否定する、ちゃんと仕事してましたアピールってやつか。ミスしたら後で親分に殺されるんだもんな」


 滑稽なまでに自ら追及の隙を晒してくれた男。実を申せば、俺はこの人物の挙動を観察していたわけではない。推理の半分は当てずっぽうだ。


「お、俺は、何も……」


 この反応を見る限りは図星の模様。主導権は完全にこちらが握っている。巻き返されないうちに王手をかけておこう。


「あんたの仕事は至極正確。何ら間違っちゃいなかった。唯一間違っていた点があるとすれば、それは畏れ多くも恒元公の賭場でイカサマを働いたことだ」


 その言葉に男は完全に沈黙した。もはや反論のしようもあるまい。


「ハンドサインを作って組の仲間を助けたのは見事な芸当だった。尤も、恒元公の賭場を荒らしたって事実の前じゃクソの役にも立たんがな」


 そう吐き捨てると同時に俺は男を地面に組み伏せた。男は観念したのかギリギリと音が鳴るほどに歯噛みする。


「さて。これでお分かりいただけたでしょう。さっきの勝負にはイカサマがあった、よって勝ち金は全て……」


 俺が恒元に視線を向けて彼の賛同を得た矢先。男の怒声が響き渡る。


「待てや!」


 その声の主は本庄組長だった。


「今のは推理になっとらんやろ! うちのチンピラが変な動きをしとったのは確かに事実やとしてもや、それと久呂人がイカサマをしてたってことに何の関係があるんや! どう見たって関係ないやろう!」


 本庄組長が詰め寄ってくる。どうやら俺の推理に納得がいかなかったらしい。同意を求められた直参たちはざわめくだけで何も答えないが、本庄の指摘はごもっともだ。


「まあ、確かに現時点では『坪江久呂人が不正行為を働いた』って証拠はぇよな」


 俺は奴に頷いてみせた。だが、すぐに言葉を続ける。


「だが、それでも『本庄組の若い衆が胴の背後で不審な挙動を取っていた』ってのは事実。言っちまえばそいつ自体が問題なんだよ。結果の信頼性が保証されねぇ限り本庄組の勝利は無効だ」


 そう断言する俺に対して本庄はなおも食ってかかる。


「だからよぉ! それは久呂人がイカサマをした証拠と違うやろ! それにわしが確認した限りじゃよそ見なんかしてなかったで!」


「あんたの意見は聞いてない。おたくの若い衆に怪しい挙動があったこと自体が問題だと言ってんだよ。最初から賭け事として成立してねぇってわけだ」


「うるさいわ! こっちは久呂人がイカサマをした証拠を出せと言うとんのや! それを出せんようならおどれの推理とやらはデタラメや!」


「ちっ。話にならねぇな」


 俺は舌打ちする。この調子だと何を言っても無駄だろう。坪江の不正を決定づける証拠さえあれば証明は容易いのだが今の時点では特に無し、今の状況でどうやって黙らせるか――思考をめぐらせていると本庄が言い放った。


「大体よぉ! おどれはうちの子分がやったっちゅうハンドサインってのを見たんかい!? まさか『見てない』なんて言わんだろうな!?」


 ほうほう。そう来たか。こちらの推理が付け焼刃のハッタリであることを見抜いているのか否か、主張の穴を突いて形勢を巻き返そうとの狙いらしい。


「ああ。見たさ。当然な」


 そう答えると本庄が目を剝いた。俺は構わず続ける。


「あんたらしいというか何というか。随分と手の込んだ仕草を考え付いたな。あれがハンドサインだって分かる奴は殆どいないだろうぜ」


 暗号自体は普通ならず気付かれない巧妙な仕組み――そう前提を置くことで、本庄が周囲の直参たちに「お前も見たか」と確認を求める展開を未然に防いだ俺。勿論のこと本当はそんなものは見ていない。当然ながら、こちらの煽るような言い方を受けて奴はいきり立った。


「おう!? だったどない手振りだったっちゅうんや!? 参考までに聞いたるで!」


「手で顔を掻く仕草。尤も、そう言ったところであんたは否定するだろうがな。人間のありふれた生理行為に見せかけるとは何ともあんたらしい」


「はっ! よりにもよってそれかい!」


 俺の指摘を本庄は笑って受け流した。その反応からして、真偽は断言しづらい。奴がイカサマを働いていたことはおそらく事実なれど、それを証明する手段が存在しない。何か、攻め口実は無いのか。一気に王手をかける、とっておきの駒は。


「けっ! くだらねぇな! んなもんで浅ましい言いがかりをつけるとは本家も落ちぶれたな!」


 本庄は吐き捨てる。顔を掻くという行為は人間なら無意識のうちに誰でもやってしまうこと。深い意味は無い動作ゆえに、無難な答えだと思ったのだが。


 どうやら決定打にはならないようだ。本庄を追いつめるにはインパクトが足りないと云うべきか。だが、ここで芋を引いては男の名が折れる。


「くだらねぇのはあんたの方だ」


 そう言うと俺は右手に携えていたグロックの銃口を奴に向けて突きつける。周囲の直参たちがざわめく中、本庄もまた仰天した。


「おどれ……何の真似や……!」


「口を滑らせてくれたな、本庄利政。『本家も落ちぶれた』なんざ戯言にしても度が過ぎると思わねぇか。シラを切り通すに飽き足らず恒元公まで貶めるとは……この場であんたを殺す理由としては十分だぜ」


「っ!?」


 ここへ来てようやく血相を変えた本庄。勢い余ってボロを出したことに気付いたようだが時既に遅し。奴の台詞は全ての逃げ口実を帳消しにしてしまうほどの暴言だった。


「涼平、おどれは自分が何をやっとるか分かっとんのか!?」


「あんたこそ、さっきの恒元公の御言葉の意味が分かってねぇようだな。今ここでの俺の言葉は中川会三代目の言葉、俺を罵るってことは恒元公に唾を吐きかけるも同然なんだよ」


「何!?」


 本庄が絶句する。こんな反撃をされるとは予想外だったのだろうか。かくいう俺も己の言っていることが理屈としておかしいという自覚はある。


 それに何だか論点がずれているような……。


 だが、俺は止まらない。奴を突き崩すには今しかないのだから。居並ぶ幹部連中が黙り込み、恒元が満面の笑みを浮かべた現状、場の空気は完全に俺の味方をしていると分かる。


 意を決して俺は続けた。


「おう、本庄さんよ。あんたは本家の賭場でイカサマをした挙げ句、開き直って会長を罵った。それが何を意味するか、分からねぇとは言わせねぇぞ」


「な、何をほざくか! わしはただ……」


「黙れ。あんたは恒元公に泥を塗ったんだ。その落とし前はきっちりつけさせて貰う」


 銃口を額に押し当てると、本庄は舌打ちを鳴らした。


「くっ! 何の冗談だ!?」


「こいつが冗談に見えるとは、天下の本庄利政も落ちぶれたな」


 俺は引き金に指を当てる。本庄の頬を冷や汗が流れ落ちる。歯噛みしながらも、奴は瞳を左右に動かして周囲を睨んだ。


 さしずめ「他の連中はどうして自分を助けないのか」と苛立っているのだろう。考えてみれば実に単純な理由である。恒元への忠誠心は殆ど皆無なれど、幹部たちはいずれも関東博徒の名門所帯。そしてこの場は関東博徒の伝統的な宴。そこへ水を差す真似をした本庄が煙たがられるのは当然の至りだ。彼らにとってイカサマ云々の真偽はどうだって良いのだ。


「クソッ……おどれ、覚えとけ……!」


「その言葉はそっくりそのまま返してやる。あんたが俺にしたことを考えりゃ、この程度でも足りねぇくらいだ」


 俺は引き金に掛けた指に力を込める。だが、その時。


「麻木さん!」


 華鈴の声が聞こえた。瞬間的に集中力が途切れ、それと同時に我に返る心地がした。俺を支配していた激情がみるみるうちに鎮まってゆく。


 いけない。何をしているのだ。俺は。


「……会長」


 ひと呼吸分の間を置いて今一度自分を鎮めた後、俺は恒元に向き直った。


「どうされますか。ご指示を賜りたく」


 その問いに深々と頷くと、恒元は笑いながら答えを示す。


「ははっ。お前にしては随分と派手にやったな。実に愉快だ」


「側近の身で出過ぎた真似をしました。誠に申し訳ございません」


 俺は深々と頭を下げた。しかし、恒元は「構わんよ」と言って続ける。


「お前の言う通りだ。証拠は無いにせよ、怪しい部分が少しでも見え隠れしている以上は我輩としても口を出さぬわけにはいかん。此度の賭けは全て無かったこととする」


 その言葉に本庄が反応した。奴はひっくり返らんばかりの勢いで慌てて反論する。


「な、何を仰いますか! イカサマなど滅相も無いことです!」


「ううむ。ならば華鈴の背後に立っていた若い衆は何だというのだね。皆が納得する申し開きをお願いしようじゃないか」


「そ、それは……」


 言葉に詰まる本庄。恒元は続ける。


「仮にお前が正々堂々やっていたとしても、我輩としてはこの勝負を無効にせざるを得ん。イカサマなどその可能性があるだけで大問題だからな」


「せ、せやけんど!」


 なおも声高に訴える本庄だったが、その主張は恒元の鋭い視線によって制される。


「お前は自分の立場が分かっていないのか。本来なら我輩への敬意を欠いたケジメをとらせ、この場で撃ち殺しているところだぞ。これ以上がっかりさせてくれるな」


 先ほどの暴言は、ただでさえ厳粛な桜月の花見という場において決して許されぬ行為。武家文化を模倣して大義名分を兎角好む名門組織の親分衆が彼を庇護できるべくも無く、それは森田一家や椋鳥一家とて同じこと。両組織に守って貰えない以上、流石の本庄も押し黙る他ないようであった。


「涼平」


 恒元は俺に向き直ると、改まった調子で言った。


「此度のお前の働きぶり、実に見事だ」


「いえ。 この宴を預かる責任者として当然の務めを果たしたまでのこと」


 俺は今一度深く頭を下げた。すると、恒元は皆に声を放つ。


「皆の者。此度の一件、我輩は涼平の働きを高く評価する。よってこの勝負は無効とし、本日の賭場はこれにて終了とする」


 その言葉に一同がどよめいた。俺は内心でひどく安堵しつつも表情に出すことはしない。恒元の裁定に異論を差し挟む者は一人も居なかった。


 まあ、我ながら上手くやった。屁理屈も同然の論理で本庄をやり込めたのだ。偶然に偶然の幸運が連なった結果ではあれども華鈴の窮地を救えて何よりだ。


「気を取り直して、花見を楽しもうではないか。皆、この涼平に改めて拍手を!」


 恒元がそう促すと、本庄を除く全ての直参たちが俺に向け一斉に拍手をした。俺はその賞賛の嵐を一身に浴びる。しかし、それが決して心地よいものでなかったことは言うまでもない。


 何せ本庄が凄まじい形相で睨みを利かせてきたのだ。よくも自分を陥れてくれたなと言いたげな殺意に燃えた顔つき。自業自得だろうと言い切れぬ忍びなさが俺の心を焦がした。


「……」

 皆、数分後には何事も無かったかのように宴に戻っていたのだが、俺は少し落ち着かなかった。本庄とは別に視線を感じていたからである。坪江だ。


 奴は立食の料理を皿によそい、それを黙々と口に運んでいた。そして何かにつけて俺の方をちらちらと覗き見てくる。先ほどと同じ不敵な笑みを浮かべて。


 本庄組の連中がそそくさと会場を去ったのに、奴だけが庭園内に残っている。よもや純粋に食事と花を楽しみたいわけではないだろう。何かよからぬ企みを抱いていることは容易に想像が付く。


 一体、あの男は何を考えているのだろう……?


 思えば奴は俺と本庄が言い争っている時も平然としていた。自分が騒動の当事者であるにもかかわらず、口を開くことも無く他人事のように振る舞っていた。形だけでも組長の肩を持っても良さそうなものを。


 その後の恒元の詰問に対しても「僕は何も知りませんね。組長が勝手にやったんじゃないですか」と主張し続けていた坪江。当の本庄もそれを許しているかのようだった。下っ端組員にしては何とも態度が横柄というか、偉ぶった男だ。


 そんな推考に耽っていた俺は、女性の声で我に返る。


「麻木さん」


 華鈴の声だ。彼女は俺の目前まで歩み寄ると、深々と頭を下げた。


「本当にありがとう。あたしのこと、助けてくれたんだよね」


「……いや、礼には及ばねぇよ」


 俺はそう応じる。だが、華鈴は納得していない様子だった。


「どうして? あたし、麻木さんに助けられてばっかりだよ!?」


「馬鹿言え。俺がお前を助けたことなんて一度だって無いだろ。むしろ俺の方が助けられてばっかりだ」


「今日くらいは謙遜しなくたって良いじゃん……」


 言いかけた華鈴だったが、すぐに口を噤んだ。俺の表情を見て思うところがあったのだろう。彼女はそれ以上何も反論しなかったが、代わりにこんな言葉を口にした。


「……でも、麻木さんのそういうとこ。かっこいいって思う」


 そんなやり取りをしていると、2人の男が近づいてくる。酒井と原田。俺の部下たちだ。


「次長」


「兄貴」


 空気を察して華鈴が「また後でね」とその場を離れて行くと、酒井と原田が俺の前で声を揃えて言った。


「先ほどはお見事でした!!」


 そんな2人に俺は向き直る。


「お前ら、心配かけてすまなかったな」


 すると彼らは揃って首を横に振ったのだった。


「いえいえ、何をおっしゃいますか。次長が本庄の野郎を言い負かす様は見ていて最高に気持ち良かったですぜ!」


「女のためにあそこまで体を張れるなんて、俺、兄貴に一生ついて行きます!!」


 俺は思わず静かな溜め息をついた。


「……そうか」


 部下の言葉は嬉しい。されども全くもって迂闊だったと思う他ない。この期に及んでもなお自分の不甲斐なさに反吐が出るばかりだ。


 この宴の一切を預かる立場にありながら、私情にはやって体が動いてしまうとは。知己の女であろうとなかろうと、勝負に敗れた胴の命運など些末事ではないのか。賭場の仕切りを妨げてまで彼女を助ける理由など、中川恒元の側近としての俺には存在しないはずなのに。


「兄貴、どうしたんです?」


 原田が不思議そうな面持ちで聞いてくる。俺はかぶりを振った。


「いや。何でもねぇよ」


 麻木涼平という男の不格好は今に始まったことではない。そして自己批判を繰り返したとて肚が決まるわけでもないのだ。いつも通り、極道のくせに人の情を捨てきれぬ己を心の中で蔑んでおくとしよう。


「……ああ。腹が減った。何かしら食いてぇ気分だ」


 空気を換えるかのように呟いた俺に部下は顔を見合わせる。


「良いですね! ちょうど俺も腹が減ってきたところです! アルコールが飲めないなりに食欲で補うとしましょうぜ!」


 酒井が威勢よくそう提案した。俺は頷く。


「そうだな」


 原田も賛意を示してくれる。部下の気遣いが心に染みる。悔しさを空腹で噛み砕いた後となっては余計に。


「今日は東京中から料理人が来てるんですよ! 兄貴の好きなナポリタンだって勿論! 俺、取ってきます!」


 意気揚々と駆け出していった原田。ナポリタンが好きなどと彼に話したことは一度も無いというのに。そんな部下の背中を見送った後、俺はぽつりと呟く。


「……本当に調子の良い奴だな」


 そんな俺の言葉を聞きつけたのか、酒井がニヤリと笑って言った。


「ええ。どんなことがあってもあなたの味方って訳です。俺も、原田あいつも」


 その一言に俺は思わず笑みを漏らす。


「へっ。そいつは頼もしい限りだ」


 俺たちの様子を遠くから見ていた坪江が何を思ったかは知る由も無いが、まあ良いだろう。今はただ、部下の気遣いに感謝していようと思うのだ。


 さて、宴もたけなわである。そろそろ締めの挨拶が回ってくる頃合だ。


「では、そろそろお開きとしようではないか」


 恒元がそう宣言した。その一言に場は一気に静まり返る。


「皆の者、本日は誠にご苦労であった。今年も皆と共にこの桜を愛でられたことは生涯忘れ得ぬ思い出となろう」


 そして彼は上機嫌に続けたのである。


「願わくば来年もまた、こうして皆で集いたいと思うものである」


 そんな彼の言葉を受けて、直参組長たちが一斉に頭を下げる。


「ご苦労様でございました!」


 皆がぞろぞろと会場を後にしてゆく。そんな光景を眺めながら俺は思うのである。色々あったが実に有意義な花見であったと。


 桜の花は何故に斯くも人の心を惹きつけるのだろう。風に舞い散る花弁が乾いた雨を降らせる。その景色は例えようもなく壮観だ。


 だが、そんな桜もいずれは散り果てて無に帰すのだ。俺はそれを寂しく思うと同時に、春という季節の循環を美しく感じる。


「麻木さん」


 背後から俺を呼ぶ声がした。


 振り返ると、そこには華鈴が立っている。彼女は静かに歩み寄ってきた。そして俺の隣に立つと、桜の木を仰いで言ったのである。


「今日は本当にありがとうね」


 そんな彼女に俺はどんな顔をして良いやら分からなかった。


「いや……俺は何もしてねぇよ。本庄の野郎を言い負かすことしか考えてなかった。そこに偶然お前が居合わせたってだけだ」


 すると華鈴もふふっと笑うのだった。


「麻木さんって本当に照れ屋だよね。でも、そういうところが素敵だと思うんだ。かっこ良いって」


「よせやい。そんなこと言われると調子が狂う。俺なんか所詮はどうしようもねぇヤクザだ」


 俺は思わず俯いた。そんな俺の様子を見て華鈴はまた笑う。やがて彼女は桜の木を見上げると、静かに言った。


「あたし、昔から困ってる人を見捨てられないんだ。何とかして助けたい、手を差し伸べてあげたいって思っちゃう。まあ、全然力不足なんだけどね」


「……力不足じゃねぇさ。華鈴はよくやってると思うぜ。すげぇよ」


 俺がそう答えると、華鈴は安堵したような笑みを浮かべた。


「ありがとう……そう言ってくれるのは麻木さんだけだよ……」


 そんな彼女の仕草に俺は胸が締め付けられるような思いがした。同時に、心の中に仮説が並び立つ。彼女が今日の宴に来たのは普段いつもの如く人助けのためだったのではないかと。


「なあ、華鈴」


 思わず声をかけていた。そして尋ねる。


「今日、お前がここへ来た目的は用心棒か? 無理やり連れて来られた女たちを守るための」


 華鈴は一瞬目を丸くしたが、すぐにいつもの表情に戻る。そして苦い笑みを浮かべると言いづらそうに答えたのだった。


「やっぱり麻木さんには勝てないね。確かにその通りだよ。常連の子が派遣の仕事やってて、経験も無いのにいきなり水商売に回されたって聞いたから心配で」


 俺の予想は悉く当たっていた。パーソン・ジャパンに勤務する馴染みのOLが会社の命令でこの宴に派遣されることを知り、彼女を含めた無垢な女性たちを守るため華鈴は自らも危険を冒して桜月堂へやって来たという訳である。酔った極道たちによって手籠めにされるリスクがあったというのに――そう今さら咎めるのは無粋なので止しておく。


「そうだったのか。お前にしてはかなり色っぽい格好をしてたもんだから驚いたぜ。最初は近所のキャバかラウンジを手伝ってるもんだと思ったが」


「あれは、ああ……あたしだって嫌だったけど、その子の助けになるならと思って……」


 華鈴は言葉を詰まらせた。話題の流れを換えるつもりで放った一言だったが、別な意味で心に刺さってしまった模様。此度、彼女は女たちを救うことができなかったのだ。責任感の強い華鈴のこと。無力だった己を恥じているに違いない。心なしか、その瞳は若干うるんでいるようにも見受けられる。


 どうにかして会話の方向を換えなくては。無い知恵を絞って台詞を練り上げ、俺は口を開く。


「まあ、なかなか綺麗だったぜ。その、何つうか、たまにはああいう服で出歩いてみるのも面白いんじゃねぇか」


 すると彼女は顔を真っ赤にして「えっ!?」と、上擦った声を発した。おっと、付け焼刃にしても迂闊なジョークだったか。そう思って慌てて取り消そうとした俺だったが、華鈴は意外にも素直に頷いてくれた。


「う、うん。そうね……」


 それから彼女は桜の木を見上げた。恥ずかしさを含めた色々な感情を中和するように。俺の作戦は上手くいったか――いや、そんなことより片肌脱ぎの着物から覗く彼女の肩が妙に艶めかしい。彼女を眺めていると、俺の胸は自然と高鳴る。この程よく引き締まった二の腕と肩を俺はあの夜に激しく抱いた。その感触を思い起こさせるのだ。今もなおそそられる。


「……でも、こんなこと言ったらその仕事の人たちに申し訳ないけどね。あんまり着心地は良くなかったかな。好きにはなれないかも」


 ふしだらな感情に支配されゆく俺を尻目に、華鈴は桜の木から視線を外さぬまま言った。


「えっ?」


「あの格好。何て表現したら良いのかは分からないけど、男の人を満足させるためだけの衣装っていうか」


 慌てて我に返る俺に、彼女はそのまま話を続けた。


「男の人からしたら脱がしやすくて良いのかもしれないけど、あたしら女からすれば体のラインがけっこうはっきり出るから恥ずかしいんだよね。その上ブラも着けられないなんて。女性のプライドをまったく無視してるとしか言えないよね」


 そこまで言ってから華鈴はハッとしたように口を噤んだ。そして「ごめん!」と頭を下げる。


「あたし、何言ってんだろ……こんなこと言われても困るよね……」


 俺は慌てて言った。


「い、いや、構わねぇよ。そんな、謝ることじゃねぇさ」


「麻木さんにする話じゃなかったよね。本当にごめんなさい。勿論、そういう仕事でプロ精神をもって働いてる人もいるのに、何言ってんだろ、あたし……」


 華鈴は俯いてしまう。俺はそんな彼女を励まそうと思ったのである。


「いや、そこまで気にすることはねぇよ」


 俺がそう言うと、彼女は顔を上げた。その瞳には涙が滲んでいる。弱者が虐げられる社会や不甲斐ない自分への怒り、苛立ち、その他あらゆる感情がごちゃ混ぜになって押し寄せてきた悲嘆であることは云うに及ばない。


「……」


 そんな彼女の姿を見ていると、俺の胸には愛しさがこみ上げてきた。そして思った。この娘を守りたいと。その華奢な体を抱きしめてやりたいと。


 そんな衝動に駆られるままに俺は口を開いた。


「華鈴。俺、お前のこと……」


 すると次の瞬間だった。


「おーい! 涼平!」


 唐突に聞こえてきたのは恒元の声だ。俺は思わず華鈴から視線を外し、声の方へ向き直った。するとそこには才原ら忍びたちに守られた会長の姿がある。


 俺は「はい!」と反応する。そして華鈴に言う。


「すまねぇ。そろそろ行かなくちゃ」


「う、うん」


 軽く別れのあいさつを交わして彼女の元から離れ行く俺。主君の所へ向かう足に躊躇いは無かった。すぐ背後に立つのは惚れた女だというのに、友人以上の関係に仲を深めたいと想いを告げるには絶好の機会だったというのに――極道とは何と因果な生き方なのだろうか。


「どうかしたのか?」


 才原が心配そうに声をかけてくる。俺はそれに答える代わりに溜め息をついた。すると恒元が言う。


「どうした? 何か考え事か?」


 会長の言葉を受けて俺は顔を上げた。そして恒元たちの顔を見渡して言うのだ。


「いや……何でもありません」


 そう答えた後、桜の花を見上げる俺。直後に寂しさやら虚しさやら、得体の知れない感情が一緒くたに押し寄せて混乱したが、脳裏には華鈴の姿が終始一貫して浮かんでいたことだけは確かだった。


「さて。帰るとしようか。涼平」


 深く背伸びをした恒元は月が照らす宵闇の中を歩いて行ったが、どういうわけか俺を帰路に随行させた。執事局の仕事である庭園内の片づけが済んでいなかったにもかかわらずだ。組織所有の黒塗りのリムジンに乗ると彼は車内のワインセラーから赤ワインを取り出してグラスに注ぎ、俺に振る舞ってきた。


「今日はご苦労だった」


 そう言って彼は俺の労をねぎらった。会長から酒を勧められることはよくある話だが、カルヴァドスが定番の恒元にしては珍しい。礼を言いながらそれを受け取った俺は、乾杯のグラスを鳴らした後、ひとまず一口飲んでから尋ねてみた。


「……何か嬉しいことでも?」


 傭兵時代、アフリカの国連軍野営地で出会った将校が『フランス語圏では慶事に際して真紅の酒を嗜む習慣がある』と自慢げに語っていた。よって、あの国の文化に傾倒している恒元ならば、そんな理由でボトルの栓を開けてもおかしくは無いと思ったのだ。乗車前より上機嫌だったこともあってか、滑稽な推察をしてみせた部下に会長は大笑いでもって応じた。


「あははっ。流石は涼平。鋭いね。お察しの通り嬉しいことずくめさ。実に愉快だ。こんなに面白い日は久々かもしれない」


 恒元はそこで一旦言葉を切ると、グラスを回しながら続けた。


「お前が本庄をやり込めてくれた件は勿論、何より心地よかったのは女どもだ。竹取も素晴らしい仕事をしてくれた。あの男は使えるぞ」


「竹取と言えばパーソン・ジャパンの社長ですか。人材派遣会社という話は知っていましたが、まさかこういう宴会の賑やかしにも人員を寄越しているとは。彼女らは生え抜きの水商売ではないのですか?」


 背景事情は本庄から聞かされて知っていたが、敢えて冷静に努めた俺。そんな問いに恒元は「うむ」と満面の笑みで相槌を打った。そしてこう続けるのである。


「そうだとも。あのように業界に染まっていない女だからこそ、味わい甲斐があるというものだ」


 本庄から聞いた話は事実だった。組織経営の店で働かせる娼婦の調達を恒元は竹取に依頼していたのだ。まったく、この男の為すことは……一瞬、俺の中で途方もない憤怒が湧き上がってきたが、どうにか堪えて穏やかな台詞で返事を投げた。


「確かに。そういった女の方が売れますからね」


 すると彼は嬉しそうに目を細めた後、グラスの酒を一気に呷った。


「お前も分かるか。彼女らの良さが」


 そして彼は更に言ってのけた。


「男にとって一番の楽しみは女を犯すことだ。かのチンギス・ハンも『女は犯して奪うものだ』と豪語したのだ。男に生まれた以上、これは真理だよ」


 下劣すぎて失笑する気さえも消えるほどの一言。


 夜の仕事を生業としていない女との情事は実に興奮するものだ――恒元はそう続けた。そしてグラスを空にすると、俺に言ったのである。


「涼平よ」


「……はい」


 俺は静かに答えたが、内心では嫌な予感がしていた。この流れで次にどんな命令が来るか予想できたからである。案の定だった。


「とびきりの女を調達してくるのだ。組織のためにな」


 激昂が喉元まで飛び出しかけた。この野郎、そこまで堕ちるか。ぶちまけたい気持ちを呑み込んで俺が「分かりました」と頷くと彼はまた大笑いした。


「何も『街に出て勧誘を行え』と言っているわけではない。お前にやってほしいのはきっかけ作りだ。女どもを娼館に引き込むにはそれが欠かせない」


 きっかけ作りとはまた意味深な命令だ。俺はグラスをテーブルに置いて問うた。


「と、おっしゃいますと?」


 すると恒元は懐から一枚の写真を取り出した。


 そこに写る人物には心当たりがあった。今年の1月に開催された奴隷オークションで見かけた顔――偶然にも俺はその氏名を覚えていた。


「……添田そえだ雅和まさかず。外資系証券の日本法人社長ですね。こいつを始末せよと?」


「ああ。方法は任せるが、なるべくむごたらしいやり方で頼むぞ。血みどろの現場を作った方が輝虎への警告として有意義だ」


 添田雅和はとある外資系証券会社の日本法人社長である。その経歴は華々しいものだ。東大法学部卒の超エリートで、学生時代から起業したベンチャー企業を大手証券会社に育て上げ、それを売却して外資系証券会社に転身したという異色の経歴の持ち主だ。


 そんな人物を何故に殺すのか、俺は恒元の真意を測りかねた。なれども数秒遅れで理解が追い付いてくる。この添田なる男は思い返してみれば例の見本市の席にて『自分の所に卸してくれれば更なる販路を拡大できる』などとほざいていたのだ。


 つまりはこの男もまた奴隷の仲買人という訳である。


「……要は、こいつが仕切ってる市場を潰して中川会うちがそっくりそのまま貰い受けようってことですか」


「そうだ。美しい女も数多く揃っていると聞く。上手く行けば億は見込めるシノギになるだろう。我輩としてはそそられる話よ。やはり商品は現地調達に限る」


 俺は実に悩んだ。ブラックマーケットの関係者を排除して輝虎に打撃を与えられるところまでは良いが、そいつを始末したところで恒元が似たようなビジネスを展開するだけ。謂わば元の木阿弥というやつだ。当然ながら、恒元としても闇市場の話には旨味に等しい魅力を感じるよな……以前から思考の奥底で渦巻いていた懸念に火が付き、まるで全身が焦がれるような心地だった。


 どうにか考え直しては頂けぬものか。


 主君を翻意させる説得口実を練り上げてみるが、如何に頭を捻っても適切な台詞が導き出せない。組織改革という壮大な目標がすぐ傍にあり、なおかつ玄道会との因縁を抱えた現在いま、資金獲得が急がれる組織事情は俺も理解できるのだ。


「分かりました。お受けいたします。どうぞお任せください」


 結局、俺は承諾する他なかった。それが極道としての返事である旨は最早語るまでもない。弱者のため云々と青臭い美学を心に抱いておきながら現実に巻かれ続ける矛盾――心が痛くて痒かった。


「うむ、頼んだぞ。原田と酒井は勿論、事を為すにあたっては執事局の人員を自由に使って構わんよ。どうか、此度も我輩を満足させておくれ」


 それから更に酒を食らって機嫌を良くした恒元はとりとめのない話を始めた。幹部の親分衆が旨い土産を持ってきたこと、


 直参の中に美食家が居たこと、極道の衣食住もここ数年で向上してきたことなど、くだらぬ話題のひとつずつに相槌を打ちながら、俺はひたすらに考えを巡らせた。


 これからどう動くべきか? 標的を始末するためにはどうすれば良いのか? いや、そもそも俺の行動は組織のためになるのだろうか?


 何にしたって抱えている悩み事が多すぎる。玄道会との因縁は未だ継続中。第一、敵方に拉致されたと思しき杵山組長の件は解決どころか真相すら明らかになっていないのだ……。


 やがて車が高輪から赤坂の総本部に着く頃には、アルコールの酔いがまったく作用しないほど俺の心は鬱屈としていた。


「では涼平よ。またな」


「……おやすみなさいませ」


 そう返事して本日の仕事から解き放たれた俺だが、心は上を向かないまま。このように気分が沈んだ時は酒を浴びるように飲むなり、飯をたらふく腹に入れるなりして気を宥めるのが一番。傭兵稼業で異国を旅していた頃は、訪れた街で部隊の同僚らと騒いで夜を明かすのが楽しみの一つだった。


 腕時計の針は21時30分。夕食は先ほどの宴で済ませたので、食事よりも酒を体が欲している。俺は歩き出した。


「あいつ、帰ってるかな?」


 目的地は総本部を出る前から決まっている。華鈴の店だ。彼女のカフェなら、今の俺を取り巻く憂さを紛らわすにはうってつけだと思った。


 毎度のことながら歩けば意外と長い赤坂三丁目までの道中、俺は携帯電話を取り出して部下からの報告を受ける。


『もしもし。次長。撤収作業、無事に完了しました』


「おう。ご苦労さん。任せちまってすまねぇな」


 電話に出た酒井は『とんでもない』と恐縮した。


『次長こそお疲れ様です。あの後、会長と何をお話に……?』


「野暮な仕事を押し付けられちまったよ」


 憂さに駆られながらも俺は続ける。


「まあ、それについては後々で伝える。原田にもよろしく伝えといてくれ」


『分かりました……あれ? 次長はもう会長と総本部へお戻りに?』


「会長は本宅に入ったが、俺はこれから行く所があるから少し出てくる。お前らは終わったら先に帰って良いぞ」


『了解です。じゃ、また何かあればご連絡ください』


 電話を切るなり俺は大きな溜め息をついた。そして酒井と原田の顔を思い浮かべる。またしても不甲斐ない俺に付き合わせてしまう。此度の命令に彼らは文句ひとつ言わず従うだろうが、理想には反している。仁義に溢れたおとこの姿とは程遠い汚れ仕事を押し付けられるのだから。その申し訳なさがまた俺の心を苛んだ。


「……すまねぇな」


 ふと立ち止まり、宙を仰ぎ見る。春の星空は綺麗で、幾つもの閃光が眩い感動を放っている。あまりの壮麗さに、つい己の今を憂いてしまう。


 思い通りにならない現実と、矛盾に満ちた自分自身の情けなさ。


「何なんだ……このザマは……」


 俺はまた溜め息をついた。そして今一度歓楽街に向かって歩き出した時。


 ――ブブッ! ブブッ!


 懐の中の携帯が作動した。慌てて手に取ると呼び出しの真っ最中。華鈴からだ。


「俺だ」


『もしもし。麻木さん』


「どうした?」


『いきなりこんな風に誘ったらおかしいと思うかもしれないけど……』


 彼女の台詞に俺は思わず息を呑んだ。電話越しに聞く華鈴の声はどこか儚げで、まるで今にも泣き出しそうな雰囲気さえ感じ取れたからだ。「ああ」とだけ言って俺は静かに耳を傾ける。


 すると彼女は言ったのだ。


『……もし良かったらさ、これからうちで一緒にお酒でもどう?』


「えっ!」


 実に意外な申し出だった。俺としては今まさに華鈴の店に行って裏メニューのウィスキーでも飲もうかと思っていたところだったのだ。華鈴と飲める機会など滅多に無いから、特に断る理由は無いのだが……。


『あっ! もちろん無理にとは言わないよ! 麻木さんも疲れてるだろうし……』


 俺の沈黙を拒否と勘違いしたのか、彼女は慌てて付け加えたが、その一言で俺は予想が付いた。きっと彼女もまた何か悩みを抱えていて俺に助けを求めているに違いないのだ。ならばここは男として彼女の誘いに応じる他ないと思った。


「大丈夫だ。行こうぜ。俺もちょうどお前と飲みたいと思ってた」


『本当?』


「ああ。んじゃ、どこにする?」


 すると華鈴は暫しの間を置いてから告げた。


『……あたしの家』


 おいおい。思わず耳を疑った。


「えっ!?」


 されど彼女は構わず続ける。


『あたしの家で飲もうよ。店だと落ち着かないんじゃない? 嫌?』


「……いや、そうじゃねぇけど……」


 今宵は店のカウンター越しに飲む流れだと思っていたので俺は戸惑ったが、それでもすぐに承諾した。断る理由など何処にも有りはしない。


「分かった。じゃあ、今からそっちに行く」

『うん。待ってる』


 そうして電話を切るなり、俺は駆け出した。歓楽街を通り抜けて華鈴の家『Café Noble』へと急ぐ。


 しかしながら、まさか華鈴が自宅に俺を招待するとは予想外だった。いや、先月の一夜もあったわけだから完全に脈が無いとは言えないが……。


 そもそも彼女は俺に好意を抱いてくれているのだろうか? それとも単に酒を飲む相手として誘っただけなのか? そんな疑念が頭の中に次々と浮かぶが、今はそれを考えている場合ではないなと思い直して足を動かした。それから数えるに3分ほど経って俺は店の戸を開けた。


「いらっしゃい。来てくれてありがと。麻木さん」

 普段通りの服装に着替えた華鈴はフロアに居た。いつもはカウンタ―の向こうに立っているので珍しい。店内を見渡すと、店主の他には俺一人だった。


「店、閉めちまって良いのか?」


「大丈夫。今日は花見に料理を出さなきゃいけないってことで丸一日店休にしてたから」


 そう云えば表の札が『CLOSE』になっていたような。まあ、華鈴なしで喫茶店の営業が回るべくも無いと思うので妥当と言えば妥当である。ともあれ花見で華鈴の料理が食べられたとは……出来ることなら俺も相伴に預かりたかった……。


「さ、行こっ! 玄関の入ったのところでスリッパに履き替えてね!」


 雑念はさておき、華鈴はフロアの蛍光灯を消すと俺を店の奥へと案内する。前回は裏口から入ったが今回は店から2階へと昇らせてくれるらしい。


「お邪魔します」


 そう告げて階段を昇っていくと、華鈴は「どうぞ」と言って部屋のドアを開けた。足を踏み入れるなり俺は頬を緩める。


 懐かしいような、それでいて何処か真新しいようにも思える空間。訪れるのは今日で2度目だというのに。心躍らせる雰囲気と香りがその部屋には漂っていた。


「ごちゃごちゃしてるけど、適当に座ってて」


「おう。分かった」


 華鈴に促されるまま俺はソファに腰掛けた。そして部屋を見回す。前の訪問時も思ったことながら、この部屋は意外と広いのだ。


 恐らく3LDKの間取りで、リビングにはダイニングテーブルが置かれていて、その奥にキッチンがある。廊下側には扉が3つあって、きっとあれは華鈴と家族の部屋、そしてバスルームとトイレが備わっているのだと分かる。


「おまたせ!」


 しばらく待っていると華鈴がボトルと2つのグラスを持って台所から現れた。どうやら彼女は俺の好みがバーボンだと心に留めておいてくれているらしい。それが純粋に嬉しかった。


「……ふふっ。ありがとよ」


 心地よい気持ちに目を細めた俺はソファから立ち上がってテーブルへと移動する。そして華鈴は俺から見て右斜め前に座った。


「はい。これ」


 彼女はそう言って酒の入ったグラスを手渡す。それから自分の分も手に取ると、それを俺のグラスに軽く触れさせた。キンッという高い音が部屋に響く。


「それじゃ、乾杯!」


「ああ。乾杯」


 俺と華鈴は互いにグラスを傾けた。そうしてひと思いに口へと含むと……。


「うめぇ」


 そんな台詞が心の底から本能的に漏れた。やはりバーボンの味わいは格別だ。それは俺が傭兵時代に愛飲していた銘柄で、血と硝煙に塗れた戦場に在ってはこの酒だけが唯一の癒しだったので余計にそう感じるのだろう。


「……うん! 我ながら美味しい!」


 華鈴の反応を見て俺も満足気に頷く。それから彼女はグラスを置くと視線を宙に泳がせ、呟くように切り出した。


「ごめんね。こんな時間に誘ったりして。ああいう宴会の後だから麻木さんも疲れてるよね」


「構わねぇよ。ちょうど俺も誰かと喋りたかったところだ。誘ってくれてありがとな」


「こちらこそ……」


「もしかして今日のことか?」


 そう問うと彼女は小さく頷いた。そして顔を俯かせると絞り出すように云う。


「……うん」


 ああ、そうだよな。俺はグラスをテーブルに置いて彼女の言葉を待つことにした。すると華鈴は吐息と共に語り始めたのである。


「今日ほど自分が嫌になった日は無いよ。あたしって本当に駄目だなって思ってさ。馴染みの子に『絶体に守る』って大口叩いたくせに何も出来なかったし、挙げ句の果てには麻木さんをあんな目に……」


 俺は黙って耳を傾ける。華鈴は続ける。


「今日、あたしがミスしたせいで修羅場になって……それで麻木さんが危ない橋を渡らされて……」


「お前のせいなもんか。あれは本庄の野郎が妙な真似をしやがったからだ」


 そう反論する俺だが、それでも華鈴は俯いたままだ。そして彼女は続ける。


「でも、あたしがあの場で負けなければ麻木さんがあたしのために引き金を引こうとすることも無かったわけだし、それに……」


 そこで華鈴は言葉を切った。彼女が今まさに語らんとしていることは分かる。己の無力さに対する自責の念だ。


 人でなしの不良だった少年期から、荒野を駆け抜けた傭兵時代、そして今に至るまで、俺自身も何度となく味わっている感情。こうした場面で取るべき態度の相場は決まっている。何も言わずに黙って話を聞いてやることだ。


「胴の役を引き受けたのはあたしの意思なの。あそこで負けを晒した女は会長に殺されるから。自分が厄介な客を一人でも多く引き受ければ、皆を守れるんじゃないかと思って」


「ああ。いつも店に来てくれてる馴染みの娘らを守りたかったんだよな。分かるぜ」


「でも、そのあたしがヘマをやらかしちゃった! 皆を守るどころか、あたし自身が守って貰っちゃったんだよ!?」


 華鈴は俺の目をまっすぐに見て続ける。


「結局、あたしには何も出来ないんだって……虚勢張って『街の何でも屋』を気取ってるくせに自分のヘマを自分で片付けることも出来ない……いつもそうだ……」


 そこでまた言葉を詰まらせる彼女。俺はグラスに酒を注ぎながら声をかける。


「何を言ってんだ。お前はよくやってるじゃねぇか」

 彼女はそれをひと息で飲み干すと、またも俯く。


「そんなことない……あたしなんか、所詮は口だけの駄目な女……あの場では中川恒元に逆らえないって分かってたのに……」


 その声色は俺に全てを悟らせるのに十分だった。よく見れば華鈴の両手は微かに震えている。それだけ彼女は自分の不甲斐なさを悔いているのだ。


 しかし、そんな時こそ寄り添ってやらなくては。それが俺の務めであり、ここで為すべきこと。ぶっきらぼうなやり方でしか、想いを伝えられないとしても。


「……麻木さん?」


 気付けば俺は華鈴を抱きしめていた。そして耳元で囁く。


「お前は絶対に駄目な女じゃねぇよ。逆らえないのは俺だって同じだ」


「えっ!」


 不意に立ち上がったことも含めて華鈴は驚いたような声を上げるが、俺は構わず続ける。


「俺なんか薄汚れたヤクザだ。自分らしくだのと何だのとそれらしい美学を語る癖に、あの変態野郎の言いなりだ。結局は何処まで行っても中川恒元のマリオネットに過ぎん存在なんだと改めて思い知らされた」


「……麻木さん?」


「ああ。分かってる。しょうもねぇよな。けど、それでも俺は貫き続けたい。華鈴のことを守りたいから。華鈴の傍に居て守りたいからだ」


 気付けば自分語りを始めてしまった。心の奥底から感情が溢れ出してくるようで、これでは何というか本末転倒。目の前の想い人を励ますつもりだったというのに俺自身が感涙にむせんでどうするのか。


 されども俺は言い切った。組織の都合などはもはや関係ない。一人の男として燃え盛る心を堪えられなかった。


「だから、俺はこれからもこの道をく。お前を守るために。たとえお前が自分を駄目な女だと思っていようが、俺は何度でも言ってやる。お前は駄目な人間なんかじゃねぇって。俺にとっては最高の……」


 直後に華鈴はハッとしたように「うん」と応じると、その瞳から大粒の涙を滲ませた。そして彼女は言うのだった。


「ありがとう」


 そうして互いを抱きしめる手に力を入れた後、俺たちは接吻を交わし合った。どちらが先に仕掛けたかも分からぬ勢いで。唇を触れ合わせ、舌を絡ませ、唾液を啜り合う。


「んっ……んむっ……」


 華鈴の口から漏れる甘い声が俺を更なる情欲へと駆り立てる。俺は彼女の後頭部に手を当ててさらに深く求めると、彼女はそれに応えてくれた。俺の首に腕を回して情熱的に応えてくれるのだ。


 やがて唇を離す頃には互いに息が上がっていた。この女がたまらなく愛おしい。好きだ。


「……華鈴。ずっと言おうと思ってた。俺、お前のことが」


「分かってる」


「あ、ああ」


 俺の台詞を遮った彼女は激しく抱き着いてきた。そうして胸に顔をうずめて「嬉しい……」と呟く。その一言で俺は更に燃え上がり、今一度華鈴にキスを落とす。


「っ……ううっ……」


 激しく求め合い、俺たちはそのまま倒れるように床へと寝転んだ。華鈴は俺の上に跨ってキスを続け、俺はそんな彼女の尻を揉みしだく。


「んっ……ちゅっ……」


 やがて唇を離すと彼女は蕩けた表情で微笑んだ。その笑みに俺の理性は吹き飛びそうになるが、何とか堪える。まだ足りない。もっとじっくりと彼女を味わいのだ。


 しかしそんな思いも虚しく、華鈴は俺の上で起き上がると着ていたブラウスを脱いで言うのだった。


「ねぇ、麻木さん」


「……何だ?」


「今夜、泊まってってよ。あたし、もっと麻木さんが欲しい。あたしの全てを受け入れて欲しいの」


「ああ。俺も同じ気持ちだ。お前の全てが欲しい」


 そうして俺たちは互いの服を脱がせ合った。華鈴はキャミソールを脱いでブラを晒すと俺のシャツを捲り上げて胸板に舌を這わせる。その刺激で俺の理性は完全に吹き飛んだ。


 俺はお返しに彼女の胸を揉みしだきつつ首筋に吸い付く。


「うっ……んんっ……」


 華鈴は甘い吐息を漏らして身をよじった。その反応が堪らなく愛おしい。


「華鈴……」


 俺は彼女の耳元で囁いた。そしてそのまま胸元へと降りて乳首にキスをする。すると彼女はビクンッと身体を震わせて反応するのだった。


 そんな反応に気を良くした俺はさらに続けることにした。今度は可愛らしいピンク色の丘を口に含んでみることにする。


「ひゃっ……んんんっ……!」


 華鈴は一際大きな声を上げた後、恥ずかしそうに顔を背けるが、それでも構わず舌を這わせた。そうして何度も繰り返していると次第に彼女は絶頂を迎えた。その嬉声はさながら雌豹の咆哮だった。


「はぁ……はぁ……」


 脱力して肩で息をする華鈴。俺は彼女のショーツに手を伸ばしてゆっくりと下ろしていった。そして現れた秘所からは愛液が溢れ出している。それを指で掬って舐め取ると彼女はまたも甘い声を上げた。


「あっ……んんっ……」


 その反応を見て俺のモノはさらに大きさを増していくのを感じた。この女の全てを自分のものにしたいという欲望に駆られる。


 されど、まだだ。もっとじっくりと愛さなくては。そう自分に言い聞かせて俺は彼女に覆い被さって愛撫を続ける。


「んっ……あっ……」


 華鈴は何度も身体を痙攣させて達し続けた。その度に愛液が溢れて俺のモノを濡らしていく。もう限界だ。俺は彼女の両脚を広げさせると、そのまま挿入しようとした。しかし。


「待って」


 不意に彼女は制止の声を上げた。何事かと思いきや、華鈴は俺の首に手を回して抱き着いてくるのだった。そして耳元で囁くように言うのだ。


「……着けて」


 その一言で俺は自制心が完全に消し飛んだ気がした。潤んだ瞳と惚気た両頬。もはや我慢できない――彼女から渡された避妊具を男根に装着するなり、俺は華鈴の両脚を開かせて覆い被さった。


「あっ……んんっ……」


 そしてゆっくりと挿入していくと、彼女は甘い声で鳴いた。そのまま奥まで到達すると、俺たちは唇を重ねる。舌を絡ませて唾液を交換し合った後、俺は彼女の両手首を掴んで床に押し付けた。


「んっ……ちゅっ……」


 そうして再びキスをしながら腰を動かし始める。最初はゆっくりだったが次第に速くなっていく。


 ――パンッ! パンッ! パァンッ!


 艶めかしい快音が部屋中に響き渡る中、華鈴は表情を歪ませて喘いだ。


「んっ……んんっ……!」


 俺は彼女の両脚を肩に担ぐと、さらに深く挿入する。そしてそのまま激しく抽送を繰り返した。その度に彼女は身体を大きく震わせた。その反応が堪らなく愛おしい。


 やがて絶頂に達しそうになった時、俺は華鈴に覆い被さって耳元で囁くように名を呼んだ。


「……華鈴」


 すると彼女は一瞬驚いたような表情を見せた後、微笑んで呼び返してくる。


「麻木さん」


 その言葉と同時に俺たちは同時に果てたのだった。ドクンドクンと白濁液が放たれ、役目を終えた避妊具の中にはたっぷりと情欲の跡が溜まっている。俺はそれを引き抜くと、思わず苦笑した。


「ふふっ……こりゃあやべぇな……」


 華鈴も笑っている。


「麻木さんってさ。顔に反して意外とスケベだよね」


「……まあ、否定はできん」


 まじまじと見つめ合った俺たちは、すぐに自然と可笑しさがこみ上げてきて腹を抱えた。そうして今一度キスを交わして抱き合う。どれほどの時を費やしたかは分からないが、それから俺たちは抱き合ったままでいた。互いの体温を一緒に感じながら、ただ静かに時を過ごしていたのである。


 翌朝。


 目が覚めると、俺はベッドの上に居た。そこが華鈴の部屋だと察するのに時間は要さなかった。酒のせいで記憶が飛んでいるが、互いに酔っ払った勢いで夜通し何度も情事を繰り返し、雪崩れ込むように彼女の寝室に到着したらしい。


「……」


 ふと隣に視線をやると華鈴が寝息を立てていた。俺も彼女も全裸だ。その寝顔は実に可憐で、昨夜とはまた違う魅力を醸し出している。


 女の布団とは何故に斯くも麗しい香りを放つのか。俺はその匂いを堪能するべく、華鈴の身体を抱き寄せて胸元に鼻を押し当てる。


「んっ……麻木さん?」


 彼女も目を覚ましたようだ。しかし、まだ寝ぼけているのかぼんやりとした表情を浮かべている。そんな様子もまた可愛らしい。


「……おはよう」


 そう囁いて軽く唇を重ねると彼女もそれに応えてくれる。そして互いに見つめ合って微笑んだ後、俺たちはもう一度キスをしたのだった。


 俺と華鈴が、裸で同じ布団の中に居る。この状況が途轍もなく嬉しい。使用済みの避妊具が床中に散らばっていて、互いに着ていた服も見当たらないが、そんな些末事の憂さはすぐに掻き消された。


 何故なら、二日酔いの陰鬱も気にならぬほどの幸福感で心が満ちあふれていたのだから。


「うふふっ。ちょっと羽目を外しすぎたかもね」


「まあな」


 俺は華鈴の手を取ってベッドから起こすと、部屋の中の景色に視線をやる。全体的には落ち着いた色合いで統一されているが、ところどころに可愛らしい小物が飾られており、如何にも女の部屋といった雰囲気だ。


「へぇ。色んなの集めてるんだな」


「あ、あんまり見ないで」


 恥ずかしがって俯く姿も美しい。


 それから床を片付けて部屋を出ると居間へ向かうことにしたのだが、その時にはもう既に日が高く昇っていたことに気づく。


「やばい。そろそろ支度しないと大学に遅刻しちゃうよ。ちなみに今日は始業式なんだよね」


「そうか。俺も戻らなきゃ色々と面倒だな。とりあえず着替えるか」


 衣服は床に脱ぎ散らかしたままであった。互いに全裸だったので、何とも言えぬ気持ちになってくる。降って湧いた気恥ずかしさを打ち消すように、俺はパンツを穿いてシャツを着込み、ズボンを穿く。


 一方で華鈴はブラジャーで豊満な乳房を包み込んでいた。その仕草が色っぽく見えたのは言うまでもない。出来ることならすぐにでも抱きしめたかったが……そんな暇は無さそうだ。


「さてと」


 華鈴は細い手指を躍らせてショーツを穿き、スカートを履く。そうして最後にブラウスを着たところで彼女は俺の方を向いた。


「ねぇ、麻木さん」


「何だ?」


「その……また、泊まりに来てね」


 不安そうな面持ちで問うてくる彼女に俺は迷わず答えた。


「ふっ。当たり前だろ。いつでも来てやるさ」


「……うん! ありがとう!」


 華鈴は満面の笑みで頷いてくれた。


 その表情を見て改めて思うことがある。やはり彼女には笑顔が似合うと。この笑顔を絶やさぬように守ってやらねばと俺は心に誓った。


 彼女を守りたい――だからこそ、銃を撃ち、刀を振るい、欲深い主君の下で謀略をめぐらすのだ。俺が裏社会で名を上げれば、華鈴の理想だって叶えられるのだから。それによって恒元の寵愛がさらに深まりどんな意見でも聞いてくれるくらいになれば、どんな輩も華鈴に手出しは成し得ないだろうから。


 決意を固めると、俺は華鈴の手を取って玄関へと向かうのだった。


「じゃあ、またな」


「うん! 行ってらっしゃい!」


 そうして俺たちは別れたのである。総本部へと戻る途中、俺は今後のことを思案した。昨晩に申し付けられた添田雅和なる男の始末だ。


 第一に奴の素行について調査を行わなくては。当人の行動パターンをしっかりと把握したい。何をするにも先ずはそこを確かめる必要性がある。


 輝虎の闇市場についても更に探りを入れなくてはなるまい。奴が玄道会を自陣に引き入れる前に利権を潰さなければならないのだ。そのためには……。


 あれこれ考えながら歩いている時、俺は背後からの気配を悟った。


「ん? あんたは?」


 意外な顔がそこにはあった。眞行路秀虎。下ろした茶髪に柔らかい目つき。


「お久しぶりです。麻木次長」


 相変らず人が良さそうな笑みを浮かべている。されども俺は戸惑った。彼がそこに立っている意味が分からなかったからだ。


「ちょ、ちょっと待て! あんた、何をやってんだ!? こんなとこに居たら……」


「分かってます。今日は直々にお願いに伺いました。麻木次長」


 俺に何の用があるというのか。数名の護衛を連れているとはいえ、車通りの多い大通りの歩道。こんな場所を歩いていたら輝虎派が襲ってくるかもしれないというのに。


「とりあえず、聞いてくださいますか」


 秀虎はそう言うと俺に背を向けて歩き出した。それゆえ俺は黙って彼の後に続く。辿り着いた先は人気のない路地裏。


 わざわざこのような場所に連れてくるとは。兄の襲撃を警戒すれば当然のことながら相当に込み入った話になりそうだ。


 護衛たちが周囲に散らばって防御陣形を取る中、人目を憚るように秀虎は口を開いた。


「無理を承知でお頼み申します」


「何だよ?」


「……添田雅和暗殺のお役目、僕にも手伝わせて頂けませんか」


 おいおい、どうして知っているのだ。まあ、ともあれこの優男には何か深い事情がありそうだ。ただならぬ困惑に駆られるつつも、俺は事の経緯を問うてみることにしたのだった。

思わぬ誘いに困惑する涼平。秀虎の申し出の真意とは? 次回、眞行路一家の内紛に新たな展開が!

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