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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第12章 銀座継承戦争
206/261

高輪戦時協定

 突然の乱入者に恒元が問うた。


「桜井先生。これは一体、どういうことですかな。そんなに血相を変えて何が起きたというのです」


 すると桜井は足早にこちらへ駆け寄って来て、縋りつくような目で訴えた。


「さっき松下組の駈堂に襲われた! 松下組は……いや、煌王会は私を殺す気なんだ!!」


「何ですと?」


 見れば、わなわなと戦慄に見悶える都知事の顔には、殴られたような痣や擦り傷が多数あった。それだけではない。彼の着ているスーツが、まるで水の中に飛び込んだかのようにぐっしょりと濡れているのだ。おまけに臭い。桜井の全身からは糞尿のごとき酷い異臭が漂っている。一緒に来た秘書官と思しき男らも似たような具合だ。


「会長、これは一体……」


 俺が顔をしかめながら問うと、恒元は苦虫を噛み潰したような表情で言った。


「ううむ、分からん。だが、この御方の身に『何かあった』ということだけは確かのようだな」


 そして彼は卓上にあったナプキンで鼻を覆い隠すと桜井に尋ねた。


「お怪我は大丈夫ですかな? 何があったか、詳しく事情をお聞かせ頂いても?」


「……ああ、分かったよ」


 会長が都知事と話している間、俺は酒井に電話をかける。


「もしもし? 今、どういう状況だ?」


『はい。一言で云えば睨み合いっすかね。松下の兵隊どもはレストランに入らず、駐車場で待機してます」


 車を降りるも、店内には入らずタバコを吸っているという駈堂。俺たち中川会の兵隊はそんな彼を取り囲むように布陣し、いつでも攻め込めるよう臨戦態勢で待機している。


「そうか。そのまま待機しててくれ」


『了解』


 電話を切り、再び桜井へ目を戻すと彼は恒元にこれまでの経緯を話していた。都知事はへなへなと座り込むと、そのまま力なく語り始めた。


「さっきも言った通り、煌王会松下組若頭の駈堂に命を狙われた。どうやら彼を怒らせてしまったらしい。私としたことが迂闊だった」


 桜井都知事は憔悴しきった声で呟くように話を切り出す。それによるとこうだ。


 彼は昨日、政務を終えて都庁から知事公舎へ帰ろうとしたところをバンに乗った5人組の男に襲撃され、拉致されたのだという。


「通用口から公用車に乗るまでの僅かな隙を狙われたよ。突然のことで、私のSPたちもまともに対応できなくてね。あっという間に奴らの車に乗せられてしまったよ」


 そして東京における煌王会松下組の極秘拠点まで連れて行かれた後、その施設内で拷問を受けた。


「酷いものだったよ……何度も蹴られたり殴られたりされて、しまいには『都知事を辞めろ』と脅されながら首を絞められたんだ」


 桜井はその時の痛みを思い出してしまったのか、苦々しげに顔を歪める。しかし、そこで恒元が口を挟む。


「それで? その場からどうやって逃げおおせたのです?」


「そこに居る彼らが助けてくれた。皆、僕が個人的に雇った私設秘書でね。柔道三段に合気道五段と腕っぷしもそれなりのもの」


 平和ボケした警察なんぞよりよっぽど頼りになると苦笑いで語った桜井。そんな武闘派の秘書たちが何故に監禁場所を特定できたのかと云えば、過去に都知事に随行して訪れたことがあるために所在地を知っていたからだという。


「あのビルは松下組が東京で活動するときの隠れ家でね。表向きは普通の企業オフィスなのだが、中には射撃場や拷問部屋まで完備されている」


「ほう、そんなに凄い敵の秘密基地が東京に存在していたとは……今の今まで気づきませんでしたな……」


 恒元が納得したように頷く。彼は淡々と耳を傾けているが、冷静に考えれば桜井の言葉は中川会への裏切りを自白したようなもの。『支持母体を中川会から煌王会に乗り換えて彼らと懇意にやってます』と認めているに等しい台詞なのだ。一般的なヤクザの親分であれば忽ち激昂して短刀ドスを抜いていてもおかしくない場面。相手が恒元で良かったなと思う。


「で? あなた方は逃げる時に下水道を通って来られたと?」


「あ、ああ。流石は中川の親分さん。相変わらず鋭いな」


「そのように服が小便臭かったのでは誰でも気づきますよ。敵方の追っ手を躱すためにマンホールを通って逃げたことくらいはね。とんだ災難でしたな」


 秘書たちによる決死の救出作戦で辛くも監禁から逃れて、下水道の中を一晩中彷徨い続けたという桜井。


「ああ……本当に恐ろしかったよ。これはもうおしまいだと何度も思ったよ」


 彼はそう言うと、疲れ切った顔で大きく息を吐いた。そして恒元に向き直ると、再び語り出す。


「……さんざん逃げ回っているうちに気付けば朝を迎えていてね。程よいタイミングで地上へ出たいと思ったのだけど、奴らの執拗さは想像以上だった」


「それで、そのようなお姿で駆け込んで来られたというわけですか」


「ああ。君たちとは、まあ、色々あったわけだが……その、私を守ってくれると思ったからね。いやあ、助かった、本当に助かった」


 今日に恒元との会食がセッティングされていたのは本当に幸いだったと語る桜井。そんなやり取りを横で聞きながら俺は思う。どうにも引っ掛かる所があった。


 桜井都知事は煌王会の駈堂に命を狙われている。これは確かだろう。乗り捨てたはずの中川恒元と会食すると奴らに知られれば、少なからず怒りを買うのは妥当な話。


 しかし、何故だ? 都知事が俺たちに呼び出されている旨の情報は、煌王会サイドには一切伝わっていないはず。こちらからは流していないし、眞行路輝虎や玄道会も利害の合わない煌王会に話を知らせるわけがないのだ。それがどうして煌王会の駈堂の耳に入った? 考えられるのは『都知事の行動で勘付かれた』という線だが……それにしてはタイミングがおかしい。


 俺が都知事に連絡を入れたのが一昨日の23日の昼。そして桜井が拉致されたのは昨日24日の夕方。物事に抜かりの無い駈堂怜辞なら、監視対象者に不審な点があれば即時行動を起こすであろうにどうしてここまで空白が生じたのか。


 桜井都知事は煌王会に常時マークされているわけではないのか?


 そう考えもしたが、東京進出の成否を分かつ要注意人物を監視しないわけが無い。桜井の話には確かに穴があった。彼が下水道を夜通し逃げ回っていたというのもよくよく考えればおかしな話だ。


「少しよろしいでしょうか」


 恒元の許可を取り、俺は桜井に視線を送る。


「変なことを聞きますけど、東京の下水道は都庁の管轄ですよね?」


「えっ、ああ。そうだが」


「だったら、都内の下水道の構造は概ね理解されているのでは?」


 わざわざ一晩中逃げ回らなくても適当な頃合いで地上に脱出することができたのではないかと尋ねた俺。桜井は一瞬だけキョトンとしたが、すぐに表情を戻して答えた。


「いやいや。いくら都知事だからと言っても、下水道の構造全てを頭に叩き込んでいるわけではないよ。それに私は普段あまりそういったブルーカラーの現場には関わらないからね」


「おかしいですね。現在、東京都の地中を流れる下水道は知事が3年前に自ら音頭を取ってご改修なさったもの。詳細までは無理でも大まかな構造くらいは覚えているはず」


 1999年の都知事選で初当選を果たした桜井は、東京都の上下水道の全面大改修を公約に掲げていた。そして2002年には公約通り工事を断行し、それまで整備の及んでいなかった地域まで下水道を伸ばした。彼は都議会での予算審議の折に下水道の模型を使って答弁を行っているため、地下施設内の構造に明るくないという主張には無理があるのだ。


「なっ! そ、そんなの、覚えているわけがないじゃないか! 私は東京都知事だぞ! 毎日膨大な量の報告が寄せられてくるんだ! 3年も前の執務の記憶など薄れて当然だろう!」


「政治家お得意の『記憶にございません』ってやつですか。普通の代議士とかならその言い訳も通るんですが、あんたはそうはいかない。何故なら都庁の知事執務室には今までの実績を誇示するかのように下水道の模型が置いてあるからだ」


 執務室の棚に飾られている模型。それをうっとりとした面持ちで眺める桜井の姿が、数か月前に放映されたテレビの特集番組に登場していた。


「まさか、この期に及んで『模型は片付けた』なんて言いませんよね?」


「人を馬鹿にするのも大概にしろっ、この若造!」


 俺の追及に怒り心頭といった様子で立ち上がる桜井。しかし、俺は構わず続けた。


「だったら何で下水道からさっさと出なかったんですか? 毎日のように模型を眺めて地下施設が何処にどう繋がっているかまで理解してるはずのあんたが、どうして一晩中も下水道を逃げ回ったんです?」


「そ、それは……ああ、そうだ。そうだった。し、仕方がなかったんだ」


 桜井は苦々しげに顔を歪めながら答えた。


「煌王会の奴らが地上で網を張っていたからだよ。そんなところで迂闊に地上に上がれば、すぐに追手に捕まってしまうだろう。ましてや私は怪我をしていたのだから」


 そう来るか。尤も、その弁明について俺は既に反論を用意していた。


「怪我をしていたなら下水道に居続けた方が危険でしょう。煌王会が網を張っていると言ったって、その数は多くて百人程度で東京中をマークできるわけじゃないんだから。都知事のあんたなら人目に付きにくい出口くらい分かるでしょうに」


「いいや、駄目だ。煌王会が私の行動パターンを把握している可能性がある限り、私は迂闊に地上へは出られなかったんだよ!」


「迂闊に地上へ出られなかったなら、どうして今になって出て来られたんですか?」


 俺は桜井の矛盾を突くように問い返す。


「それは……あれだ」


 桜井はそこで口ごもり、視線を泳がせた。俺の隣で黙って座っていた恒元も事の真相に気付いたらしい。会長は冷たく言い放った。


「お見苦しいですぞ、都知事。あなた、本当は自力で脱出なんかしていないのでしょう。事前の約束通り、我輩との会食に向かうよう脅されて来たんですな」


 その瞬間、桜井の声が上擦った。


「ひいっ!?」


 桜井は血相を変える。その反応を見て、俺は自分の推測が正しかったことを悟った。


「都知事。あなたは駈堂に拉致され、痛めつけられた後で解放された。予定通り我輩との会食に向かわせるために。あなたは駈堂にとっても都合の良い餌だったわけだ。あの男を誘き出すための。あなたが我輩と会うことになれば、あの男は必ずや口を塞ぎに来るはずですからな」


 恒元の指摘を笑い飛ばす桜井。


「ふふっ、唐突に何を言い出すかと思えば! そんなはずが……」


 しかし、彼の虚勢は容易に剥がれた。顔を強張らせて黙り込むと、がくりと膝から崩れ落ちたのだった。


「……いや、そのまさかなんだ……」


 そう呟くと彼は頭を抱えてしまった。図星か。ここまで粘った割には随分とあっさり自ら負けを認めたものだ。


「涼平。どうやらこの御方は煌王会に脅されておいでのようだ。それもかなり手酷い方法でな」


 恒元が桜井を見下ろしながら言った。俺は頷いて答える。


「そのようですね、会長。仮にも東京都知事だってのに、酷いもんです。全身に糞尿クソをぶっかける拷問なんて、えげつなすぎます」


 俺と恒元の推理は一致していた。


 桜井都知事は全てを煌王会に監視されていた。そうして俺が連絡を入れた23日中に拉致され、奴らの拠点に連れ込まれて激しい拷問を受けた。煌王会に黙って中川会と交流を持とうとした件に対する報復もあったのだろう。ただ、駈堂が追及したのはその話だけではないはず。煌王会を怒らせるのに十分な理由。それはひとつしか考えられない。


 恒元は桜井に尋ねた。


「都知事。あなたは仮にも煌王会を後ろ盾に選んだはずなのに、水面下で玄道会とも手を取り合っていたのでしょう? 違いますかな?」


 桜井はビクリと体を震わせる。図星のようだ。


「煌王会と玄道会が油断ならない関係にあるのはご存じでしょう? それなのにあなたはその両者と手を組んで、一体どうなさるおつもりだったのです? 都知事?」


 恒元が問い質すと、桜井は小さな声で答えた。


「……煌王会は……乗り気じゃなかった……」


「乗り気じゃなかった? 何に?」


「……子供を売り買いすることにだ。煌王会の橘は『成人した女なら未だしも』と私たちのビジネスに難色を示した。だから、玄道会を頼る他なかったんだ」


 桜井は苦々し気にそう語った。恒元はさらに問う。


「ん? 私たちのビジネスとは? それは例の『貧困児童救済計画』のことですかな?」


「あ、ああ……そうだ……」


 桜井の声は震えていた。しかし、その震えは次第に大きくなる。彼はついに涙声になって語り出した。


「最初は小遣い稼ぎのつもりだった……隠れ蓑を用意してくれれば報酬をくれると言われて……だから、乗ってしまったんだ……あの誘いに!!」


 そこで言葉を詰まらせる桜井。恒元は彼に続きを促した。


「何があったんです?」


「……っ」


 桜井都知事が語ったのは衝撃的な事実だった。彼は言う。


「……この国には、生まれたばかりの赤ん坊をカネで売り捌く連中が居る。私はそいつらに雀の涙ほどの報酬と引き換えに協力させられていた。奴らの商品となる乳児を産ませるための母親を調達するための仕組みづくりに」


 その瞬間、俺の中で一つの仮説が導き出される。同時に凄まじい怒りが全身に油のごとく滾ってゆく。努めて冷静な声で俺は桜井に問いかけた。


「つまり、あんたは『貧困児童救済計画』を隠れ蓑に、東京の夜の街で女の子を攫う鬼畜の所業に絡んでいたと?」


「そうだ。私は奴らに言われるがままに助成金の制度を整えて奴らが活動しやすい環境を作った。言うまでもないことだが私自身は誘拐には何ら……」


「人身売買に関与していたのかと訊いている!」


 俺がそう激しく問い質すと桜井は狼狽えるばかりだった。


「違う! そんなつもりはないんだ! ただ私は……」


 彼の言葉はそこで遮られた。俺が拳銃を突きつけたからだ。


「テメェ! それでも人の上に立つ公職者か! どんだけ腐ってんだこの野郎!」


 俺は思わずそう叫んだ。桜井は目を見開いて硬直している。


「涼平! 落ち着け! ここで都知事を殺して何とするか!」


 恒元が俺の腕を掴んで制止する。それによって瞬間的に我に返った俺は「すみませんでした」と詫びる。俺の意を汲んだか、会長は桜井に厳しい声を浴びせた。


「我輩のあずかり知らぬところで随分と勝手なことをなさっていたようですなあ、都知事。百歩譲って中川会と手を切ったことは許すといたしましょう。されども言うに事を欠いて人身売買とは……流石に堪忍袋の緒が切れましたぞ」


 恒元の言葉で、自分がこれからどんな目に遭うのかを悟ったのか。桜井の顔色が変わる。彼は慌てて言い訳を並べた。


「待ってくれ! 私だって奴に脅されていたんだ! 協力しなければお前の孫を殺すと!」


「だったら、この中川恒元に縋りついてくれば良かったものを。煌王会へ乗り換えたことが後ろめたかったにせよ、そうしなかったのは少なからずあなたに邪心があったからではないか。奴らと共にカネを稼ごうという意図が」


「違う! 本当に私は脅されていたんだ! 信じてくれ!」


 桜井は必死の形相で叫んだ。しかし、恒元は冷たくあしらう。


「見苦しい言い訳ですな」


「本当だ! 本当だって!」


 桜井の目に涙が浮かぶ。


 この男は例の事業を掲げて助成金の制度を作り、不逞の輩が誘拐行為をはたらきやすい環境を作った。そうして自らは事業にかこつけて汚職を行い、数億円のカネを懐に入れた。先ほどから都知事の云う“奴”とはおそらく眞行路輝虎のことで、人身売買利権の入手を目論む玄道会が輝虎と協力関係にある件も知っていたのだろう。


 昨年の浅草騒動をきっかけに提携を切られ、さらには都内に煌王会のみならず玄道会まで引き込まれた恒元にとっては背信に次ぐ背信。激しく怒り狂って当然である。


「あなたをどうしてくれましょうかな、都知事……いや。桜井庚太郎。貴様はこの中川恒元の顔に泥を塗ったのだ。その代償はきちんと払ってもらうぞ」


 穏やかな声色の中に凄まじい憤怒、そして殺意の色を覗かせる中川会の会長に、桜井はすっかり怯えて何も言えなくなっていた。目の前に立つのは中川恒元。関東博徒の王であり、関東裏社会の実質的な頂点に立つ男なのだ。それを分かって敬意を払っていたら、こんなに怖い思いはしないで済んだものを。俺自身、怒りを通り越してもはや哀れだった。当然の理だ。


 一方、俺の頭の中には「やっちまった」という後悔も去来していた。それは恒元に、眞行路輝虎による人身売買闇市場の存在を悟られてしまったこと。気付いていながら隠していたことまではバレていないので現時点での危険は無いが、これからが不穏すぎる。


 欲深くて、利益第一主義者の恒元のこと。闇市場があると分かれば、すぐさま奪取に乗り出すだろう。輝虎に代わり、自らのシノギとするために。


 まったく……もう少し遠回しな言い方をすれば良かった……怒りに駆られるあまり、そこまで気が回らなかった……。


 そんな悔しさに心を焦がしていると電話が鳴った。酒井からだ。


「どうした?」


『次長。駈堂の野郎、銃を下ろしやがりました』


「ほう!?」


 曰く、入り口で睨み合っていた駈堂率いる松下組の兵隊が構えていた銃を突如として下げ、武装解除を行ったというのだ。どういうことなのか。酒井によると、駈堂は『戦う意思は無い。会長と話をさせてくれ』と求めているとのことであるが。


『何かの罠かもしれませんぜ。それにそもそもここは関東で中川会おれらの領地、そんな所へ入ってきた時点で俺らに喧嘩を売ってるようなもんです。殺しちまいましょう』


「待て。殺すな」


『ですが……』


「殺せば煌王会との戦争だ。とにかく会長に判断を仰ぐ。それまで何もするな」


 俺は酒井を宥めて電話を切った。そして、恒元に向き直る。


「会長。松下組の駈堂が階段を求めております。いかがなさいますか」



 すると恒元は少し考え込んだ仕草を見せた後、苦笑いを浮かべながら反応を示した。


「まあ、せっかくの機会だ。話をしてやらんことも無い。通してやれ」


 そう言った後、彼はひとつ要求を付け加えてくる。


「ただし、話すのは駈堂だけだ。他の者どもは駐車場にて待機。それでも良いならな」


 俺は「分かりました」と応じると、酒井に電話をかけた。それから程なくして駈堂が姿を現した。店に入る前に執事局のボディーチェックで銃器類は軒並み没収済みで、完全なる丸腰状態での登場である。


「どうも。お時間作っていただいて光栄です。中川さん。あなたにも先約があったでしょうに、俺なんかのために。すみませんね」


 そう言い頭を下げる駈堂。恒元はにこやかに応じた。


「いやいや、気にするな。都知事との話は既に終わっているのでな。今日はよく来たね」


「へへっ。そう仰ってくれりゃあ、こっちとしても話がしやすいです。お心遣いに心から感謝いたします」


 中川会の会長と、煌王会最大派閥のナンバー2。その両者が向かい合うという異様な光景。その緊張に店内の空気は凍てついていた。


 ゆっくりと歩いてきた駈堂に対し、店の至る所から飛び出してきた黒装束の男が刀を突きつける。


「おっと!」


 鎖帷子という見るからに時代錯誤的な衣装をまとった彼らは、才原局長率いる『才原党』の関係者。つまりは全員が忍者。現代を生きる忍者である。


「ほほう。噂には聞いていましたが、本当に忍者を雇っておいででしたか。これは驚いた」


「はははっ、まあな。煌王会が相手だ。こちらもそれ相応の備えをしておかなくてはな」


 そう笑った恒元は左手を頭上に上げた。すると、才原たちは刀を鞘に収めて一歩下がった。


「君には怖い思いをさせたね。さあさあ。気を取り直して、楽しいランチタイムと行こうじゃないか」


 わざとらしく笑みを浮かべる恒元に、駈堂もまたわざとらしい笑みを返す。


「ええ。楽しみです。すっかり腹も減っちまいましたので」


 それから駈堂は俺と恒元が座るテーブルまで来ると、椅子を引いて着席した。彼の視線は真っ先に俺へと運ばれる。


「おう。どこかで見た顔が居ると思ったら、あの時の執事さんじゃねぇか」


 俺は「どうも」と返す。この男とは昨年末の煌王会クーデター騒動介入の際に会っている。あの事件では随分と辛酸を舐めさせられている。


「あの時は世話になったな。松下組の若頭さんよ」


 すると駈堂が俺に「おうよ」と短く返した。そんな俺たちのやり取りを恒元は笑みを浮かべて見ている。


「さて。では早速本題に入ろうか。君は一体何の用でここへ?」


 その問いに対して、駈堂が答えた内容はこうだ。


「単純にランチを食いに来たんですよ……と言いたいところですが、ひとつお詫びしなければならないことがあります」


「詫び?」


「そこに座ってる馬鹿のことです」


 駈堂が指差したのは桜井都知事だった。彼は続ける。


「そいつがあなた方に断りなく、勝手に商売をやっていたと聞きましてね」


 桜井が顔面蒼白になって駈堂を見る。駈堂はなおも淡々と言い立てる。


「しかも、そいつのやってることは完全にアウトでした。人身売買です」


 桜井の顔がさらに青くなる。俺はここで口を挟んだ。


「ちょっと待てや。そいつがやってたゲスな商売については既に調べが付いてる。あんたらと何の関係があるってんだ」


「おうおう。今はお前んとこの会長と喋ってんだ。黙ってろや」


 駈堂はそう俺を制して話を続けた。


「本日、俺が領土侵犯を覚悟で東京に来たのは、一連の件について桜井にあなた方へ詫びを入れさせるためです。しかし、当の本人は知らぬ存ぜぬで話にならない。そしてあろうことかお食事中のあなた方の所へ逃げ込んじまったってわけです」


「ふむ? それで?」


 恒元が先を促す。その問いに駈堂は簡潔な答えを放った。


「つきましては、この桜井庚太郎の今後については中川会の方で相応の始末をつけて頂きたく思います」


 いきなり何を言い出すのやら。これにはさすがに恒元共々耳を疑った。俺は思わず口走る。


「……俺たちに都知事を処刑しろってのか?冗談だろ?」


「天下の中川恒元公に冗談なんか言うかよ。本気でお願いしているのさ。ガキは黙ってな」


 駈堂がギロリと俺を睨みつける。そしてさらにこう続けるのだった。


「そもそもの経緯を辿れば中川会のシマで不逞を働いた男だ。それなら中川会がケジメをつけるのが道理ってもんだろ」


 すると恒元が言葉を挟んだ。


「なるほど。確かに筋の通った話であるな。しかし、都知事を殺せというのは流石に行き過ぎだな。それに今回の騒ぎは曲がりなりにも桜井の後ろ盾を務めていたであろう君たちの監督不行き届きで始まった話だぞ? その始末を何故に我々がつけねばならぬ? 君は何か勘違いしているのではないか?」


 恒元の言葉は御尤もだ。普通の人間を殺すのとは訳が違う。今回の相手は公職者たる都知事。仮にも選挙で選ばれた人間を秘密裏に抹殺するとなれば、メディアや警察といった各方面へのお膳立てや根回しなどで莫大なコストが生じる。駈堂の申し出はそれを自分たちに代わって中川会に負えと言っているようなもの。到底、受け入れられる訳が無い。


「任侠渡世の論理で云えば君の言い分は正しかろう。されど今回ばかりは違う。どちらが代償を払うべきかといえば、我らの主権を潰して桜井のケツを持っていた煌王会の方ではないのかね」


 その言葉を受けた駈堂は深々と頷く仕草を見せたが、すぐに反論を返した。


「仰る通りです。しかし、今回の件は何も煌王会おれたちの監督不行き届きだけに起因する騒動ではないと思います」


「それは中川会われらにも責任があると言いたいのかね?」


「まあ、そうと言えばそうなりますね」


 不敵な笑みを浮かべる駈堂。一体、この男は何を企んでいるのか。頭を回転させながら睨みつける俺を尻目にまたも淡々と言葉を続けた。


「先ほど申し上げました通り。この男は東京都の事業を隠れ蓑にした少女誘拐と人身売買に手を染めていました。俺たちが調べたところによると、それはある男と結託して行われたものだったとのことで」


「……ある男? 玄道会の井桁か?」


「流石は中川会三代目。そこまで調べが付いておられるとは。話が早くて助かります」


「ふん。しかし、それと中川会との間に何の関係がある? まさか、その井桁が我々の身内だとでも云うつもりかね?」


「へへっ。そんなわけないでしょう。ですが、もう一人いるんですよ。都知事と共謀して今回の騒ぎを裏で操っていた不届き者がね。あなたもよくご存じのはず」

 駈堂はそう答えた後、さらに続けた。


「眞行路一家若頭、眞行路輝虎です。今は正式な組員ではない食客の立場に在ると伺いましたが。それでも組織の関係者という事実に変わりはないでしょう」


 これに俺は息を呑んだ。「そう来やがるか」という驚嘆の思いと、並々ならぬ悔しさ。駈堂め。やってくれたな。人身売買の首謀者として奴の名をここで出してくれたおかげで、先ほど以上に恒元の関心が闇市場へと向いてしまうではないか……なんて下らぬ愚痴は心の中だけに留めておく。ここで名前が出ずともいずれ遅からず気付かれていたことなのだから。


 しかしながら、この提案には大きな問題がある。


「おいおい。流石に黙ってられねぇなあ」


 ため息と共に俺は負けじと口を挟んだ。すると駈堂がこちらを睨む。


「ああ?」


「あんたはこう言いてぇんだろ。あの輝虎のバカのせいで煌王会サイドも損害を被ったから埋め合わせをしろと。だが、そうだとしてもいくら何でも都知事を殺してくれってのは筋が違うだろ」


 俺の反論を聞いて隣の恒元も「うむ。涼平の言う通りだな。桜井の始末は君たちの方でつけるべきだろう」と頷く。一連のやり取りを聞いていた桜井は相変わらず顔を真っ青にして身を震わせるが、彼を無視して駈堂は答える。


「いいや。違わねぇな。おたくの眞行路輝虎は煌王会うちのシマからも女を漁ってたんだ。その損失は円に換算すりゃ5億にはなる。都知事を処刑する費用と並べても全く釣り合わねぇ額だぜ」


「ほう。なら、煌王会そっちは譲歩してやってると?」


「ああ。そうだとも」


 すると駈堂の言葉に恒元は語気を強めて反応した。


「ううむ。分からんな。どうして君がそのように図々しく振る舞えるのか……埋め合わせも何も先にシマ荒らしに及んだのは煌王会なのだがね」


 その通りだろう。ところが恒元の台詞に駈堂は鼻で笑って高らかに言い返す。


「いやいや。今はそんな議論はしてないでしょう。おたくの眞行路輝虎さんが都知事と組んで暴走した件にどう落とし前をつけるかって話ですよ」


「君たちが東京へ来なければ起こらなかった問題だと言っている! 大体にして現時点で桜井の後ろ盾は煌王会だろう!? この男がしでかした不始末の責任を負うべきはそちらではないか!」


 そう声を荒げた恒元に、駈堂は憮然と反論する。


「確かに今の時点で都知事のケツを持ってるのは俺たちだ。しかし、眞行路輝虎は中川会おたくらの所属でしょう。自分ん所の食客の管理責任までこっちに押し付けないでくださいや」


 要するに、駈堂は都知事の人身売買騒動における責任は中川会と煌王会にて半々ずつ存在すると言いたいのだ。煌王会には桜井を暴走させた責任がある一方、中川会には共犯者の眞行路輝虎の管理責任があると。そう主張されては吞み込むしかないのが、任侠渡世の常識的価値観というものだ。


「煌王会は今回あんたんとこの眞行路輝虎がやらかした件の賠償は求めません。ただ、都知事の始末はそちらで付けて頂きたい。業界内の誰もが納得するケジメをね」


 無論、ここで黙っている中川会三代目ではない。


「ふざけたことを言うな! 我らに取るべき責任など無い!!」


 そんな恒元に駈堂は「なら仕方ないですね」と呟くや、ニヤリと笑みを浮かべてこう言い放った。


「こちらとしても荒っぽい手段を選ばざるを得ないようだ。妥協案を呑んで頂けない以上、俺たちはあんたらとの戦争を準備する必要がある」


「何だと!?」


「眞行路輝虎は中川会の人間です。身内の人間の不始末の責任を取るという業界の掟さえ守っていただけないなら、戦争でもするしかないじゃありませんか」


 駈堂のその言葉に恒元は押し黙る。そして、すぐにこう答えた。


「ふんっ……まあ良いだろう。そこまで言うのならやってやろうじゃないか。手始めに貴様を殺してな」


 そう言い放つと恒元は拳銃を突きつけた。しかし、駈堂は全く動じない。そればかりか奴は恒元が銃を構えると同時に自らも道具を取り出していた。


「おいおい。冗談は止してくだせぇよ」


 先ほどのボディーチェックで拳銃は奪い取られているはずなのに。一体、何処に隠していたというのだ。


 ともかくその銃を出す挙動に先んじて俺もグロックを抜いて駈堂に突きつけたわけだが、それでも奴の不敵な笑みは崩れなかった。


「二対一か! 撃ちたいなら撃てば良いぜ! 今のあんたらに煌王会と戦争する覚悟があるってんならな!」


 さて、どうしたものか。


 状況から考えるに、駈堂は自分が射殺される展開を恐れてはいないのだろう。煌王会松下組若頭である自分が中川会によって殺されたとなれば、煌王会に報復の名目で関東へ攻め込む大義名分が生まれる。それ自体が、煌王会の旗色を決定的に優勢とするカードとなるわけだ。


「駈堂。そこまでだ。銃を捨てて両手を挙げろ」


 やがて飛び出してきた才原たちに囲まれて忍者刀を向けられるも、駈堂は表情一つ変えない。


「おうおう! お前ら忍者の癖に随分と遅いご登場じゃねぇか! そんなに俺を斬りたきゃさっさと斬れやっ!」


 それでも駈堂は威勢良く叫ぶばかりで銃を下げない。それどころか、その場で立ち上がってを銃を両手に構え直す。これには俺も流石に焦りを覚えたが、当の恒元は余裕の表情だ。


「む? どうした? お前の方こそ撃たんのか?」


 そう挑発するも駈堂は動じない。そしてこう言い返したのだった。


「今の言葉、そっくりそのままお返しするわ。俺は構わないぜ。撃ってみろよ」


 さてさて、まずいぞ。


 この状況は一体どこへ着地するのか。


 中川恒元には関東博徒の王としての意地と矜持があるのだ。すぐにも引き金をひきそうな表情をしているのは無理からぬこと。


 されどこのまま恒元が奴を撃とうものなら、煌王会に関東へ攻め込む口実を与えてしまう。かといって銃を捨てろと言ったところで駈堂が素直に応じるとも思えない。何故なら駈堂にも譲れないものがあるからだ。煌王会の極道としての信念が。


 銃を構える駈堂怜辞の顔は真剣そのもの。煌王会の看板を背負っている以上、ここで折れることなど出来ないのだろう。


 しかし、俺には分からないことが一つあった。


 それは、駈堂がここへ来たそもそもの理由だ。桜井都知事の不祥事の責任追及に来たと話しているが、果たして本当にそうなのか。駈堂とて恒元が誇り高い人物であることは熟知しているはずで、一連の件の責任を問うたところで受け入れられるとは思っていないだろう……そんな無謀ともいえる交渉に来たのは何故か。


 煌王会が都知事の始末を引き受けてくれるというなら、その隙に桜井の身柄だけでも確保して逃げるつもりなのではないか。俺はそう考えていたのだ。しかし、それは違うようだ。もしそうであるならば、ここで銃を捨てる必要は無いのだから。


 駈堂が組織の意向で遣わされたなら、それを命じた橘威吉は愚かだ。たかが都知事の始末のために組のナンバー2を捨て石に使ったことになるのだから。いや、待てよ。交渉成就の可否以前に駈堂の条件は不自然である。『都知事殺害の見返りに賠償権を放棄する』だなんて交換条件として相応しくない。譲歩しているにせよ煌王会側にメリットが少なすぎるのだ。


「なあ駈堂さんよ」


 俺は意を決して口を開いた。すると奴は一瞬だけこちらを見た後、すぐに視線を戻しながら「何だ?」と短く答えた。


「あんた、ただ単に俺たちを怒らせようと……」


 そこまで言いかけたところで、俺の言葉を遮るように叫ぶ男が居た。先ほどから床に座っておろおろとしていた桜井都知事である。


「も、もう沢山だ! 貴様らのようなヤクザにこれ以上関わりたくない! さっさと帰らせてくれ!」


 俺は自然と彼に視線が向いた。その恐怖に歪んだ顔に涙が浮かんでいたのだから。駈堂は苦笑いしながら応じた。


「おいおい。都知事さんよ。そりゃあねぇだろう」


 呆れたように桜井を見下す駈堂。そして、あからさまに馬鹿にした声色で続ける。


「まだあんたの仕事は終わってねぇんだぜ。大体、あれだけのことをやっといて謝罪だけで済むわけがないよなあ」


「そんな! 約束が違う! 中川会と交渉の段取りをつけたら解放してくれるって約束だったじゃないか!」


「その交渉が始まってすらいねぇんだよ、馬鹿野郎」


 そんなやり取りを聞いていた俺は銃を構えたまま鼻で笑った。


「そういうことだったか」


「ああ?」


 睨みつける駈堂に己の推測をぶつけてやる。


「駈堂さんよ。あんた、ただ単に俺たちを怒らせようとしてるだろ。だから平行線を辿るのが最初から分かりきった交渉を仕掛けてきたと」


 すると駈堂は怪訝に問い返す。


「は? どういうことだ? お前さんの言ってる意味が分からねぇな?」


 俺は笑みを浮かべてみせた。駈堂の意図は完全に見抜いている。言ってしまえば、この交渉に意味は無いのだ。


「よくよく考えてみりゃあ変な話じゃねぇか。桜井都知事の不始末をダシに中川会おれらから詫び料をふんだくろうと思えばできるのに、それをやらずに始末だけを頼んだ。組織全体の利益を考えるならカネもセットで要求した方が儲けが多いだろうよ」


 そう尋ねると駈堂はまた鼻で笑う。そしてこう答えたのだった。


「いいや、何も奇妙ではない。都知事の始末は中川会あんたらに付けてもらう。そいつを条件に煌王会おれらが賠償権を放棄することで落とし所にしようって話じゃねぇか」


「だったらどうして戦争という言葉を口にした? 妥協案を提示するくらいだから、もう少し粘り強く交渉しても良いと思うが? 最初から交渉を決裂させるのが狙いなんじゃねぇのか?」


 こちらの反論に駈堂は目を大きく見開いたかと思うと、元の表情に戻るや否や銃口を恒元から俺へと向け直した。そうして物凄い形相で睨みつけてきた。俺は奴を見据えながらさらに続ける。


「俺が思うに、あんたは俺たちに要求を呑ませるのが目的じゃない。話を揉めるだけ揉めさせて焦らすのが目的なんだ。時間稼ぎってやつか」


「ああ? さっきから何を寝ぼけたこと言ってんだ? 何が言いてぇのか分からねぇぞ?」


 駈堂は低い声で唸るように問うてきた。しかし俺は構わずに続ける。


「まあ、時間稼ぎだ。こうやって互いに銃を向け合って引くに引けない膠着状態を作ることこそがあんたの目的。この状況はあんたの思う壺ってわけだ……あの男を誘き出すためのな」


 すると今度は恒元が「あの男?」と訝しげに呟く。


「ええ、そうです。玄道会の会長、井桁久武ですよ。奴の存在が脅威なのは、俺たちも煌王会も一緒ってことです」


 俺の台詞に桜井が反応した。


「なっ!? 何だと!? い、い、井桁は、奴はこの場に来るというのか!?」


 俺は首を横に振る。そしてこう答えたのだった。


 その様子に俺は己の予測が当たっていたことを確信する。そして皮肉交じりに頷いたのだった、


「まあな。来るしかないだろうな。尤も、あんたにとっちゃあ今の時点で一番怖い存在だろうが」


 すると駈堂も同じような反応を示した。しかし奴の場合は桜井とは異なり、あくまで冷静さは欠いていなかった。


「おいおい。ふざけんじゃねぇぞ。何を根拠にそんな……」


「まあまあ。待たんか。駈堂」


 そんな奴の機先を制するように恒元が口を挟んだ。そして、やや声のトーンを落として続けるのだった。


「涼平。彼もまた井桁を誘き出すつもりとは、どういうことだね。お前の推理を聞かせてくれるか」

 俺は頷きつつ答えた。


「もちろんですとも。お聞かせします。まあ、語るまでもない話でしょうが」


 そう前置きして俺は深く息を吸い込む。あまり恒元には聞かせたくない話だったが、事ここに至っては仕方がない。


「桜井都知事は眞行路輝虎と組んで人身売買の闇市場を営んでいました。都の事業を隠れ蓑に、輝虎が設立した眞行路一家のフロント企業を商品調達役にして。これは一見すると煌王会への背信行為のように思えますが実のところはそうではない」


 きょとんとして「ほう? 何故だ?」と尋ねる恒元に対して俺はこう答える。


「都知事が勝手なことをしたからといって、それだけでは煌王会にとって損は無いからです。儲けをハネたいなら後で用心棒代に上乗せして要求すれば良いのだし、どっちかって言えばふんだくれる上納金が増えるから利益の方が多いはず。それどころか、煌王会は当初輝虎のビジネスに乗り気でした」


 先ほど桜井は『煌王会の橘は子供を売り買いすることに否定的だった』と言った。それは裏を返せば、成人女性を売り買いする闇取引は認めていたということ。上手く行けば億どころか数百億単位の莫大な利益を生む金の生る木を橘威吉ともあろう男が見逃すはずが無い。


「しかし、さっき都知事が言った通り両者の提携関係はすぐに壊れました。煌王会の橘が子供の売り買いを頑なに容認しようとしなかったからです。利益を追求したい輝虎と都知事にとって煌王会は次第に煙たい存在になっていったと思われます」


 そこで両名は提携先を煌王会から玄道会へ乗り換えることを思い付き、輝虎は玄道会に話を持ちかけた。人身売買がもたらす利権を餌に九州ヤクザを手懐ける目論見だ。それも自分が玄道会に降るのではなく自分の組と玄道会を対等合一させようというのだから例の利権は相当のものなのだろう。


「当然、煌王会サイドにとっては許せることではないですよね。これまでバックアップしてきた桜井都知事が自分たちを裏切って、よりにもよって冷戦状態にある九州ヤクザと手を結ぼうってんだから。そりゃあ、怒って当然でしょう」


 そこまで言うと駈堂が「ふんっ」と鼻を鳴らした。


「よく分かってるじゃねぇか。まあ、お前さんの言う通りだ。俺たち煌王会はこの半年でさんざん動いてやった。ブン屋を黙らせ、野党都議の口を塞ぎ、スキャンダルを未然に揉み消してきた。そうまで貢献してやったのに反りが合わなくなったら手を切るなんざふざけてやがる。これを恩知らずと呼ばずして何と呼ぶんだ。顔を潰されちゃ黙ってられねぇんだよ」


 駈堂の視線が桜井に刺さる。桜井は「ひぃっ!」と情けない声を発しながら、またも床にへたり込んだ。そんな奴を見下ろしつつ駈堂は続ける。


「まあ、たっぷり灸は据えてやったさ。さんざん殴った後で牛と馬と人間の糞尿クソを混ぜ合わせた特製風呂に秘書官の兄さん方ともども5時間漬かって貰った。本当なら今すぐにでも首を刎ねてやりてぇところだがな」


 道理で桜井たちの身体が臭いわけだ。その台詞を聞いて俺は思わず笑いそうになった。しかし、それを堪えてさらに話を続ける。


「顔を潰された煌王会としては、報復かえしをしなきゃならねぇ相手が二人いる。事の首謀者である輝虎と玄道会の井桁です。しかし、輝虎はここ最近まるで姿を現さない。となると井桁を狙いたい。でも、今の煌王会として井桁を殺す選択は避けたい。ただでさえクーデターで揺れてる時に玄道会との全面戦争となったら組織が根本から崩れかねない」


 恒元が「確かに」と頷く一方で駈堂は何も答えない。煌王会の人間として組織が動揺している事実は認めたくないのだろう。そんな彼に俺は続ける。


「そこであんたは考えたわけだな。桜井都知事を使って井桁を誘き出し、俺たちに討たせることで全てに片を付けようと」


 すると駈堂は怪訝に鼻を鳴らした。


「だからよぉ、さっきから何を根拠に言ってんだ? 自分とこの喧嘩を他人に任せるだなんて、天下の煌王会がそんなショボい真似するわけねぇだろ? 大体にせよ、ここに井桁が来るってどうして俺が分かる?」


 俺はその台詞を聞き流して話を続ける。


「それなら、どうしてあんたは都知事をここへ逃げ込ませたんだ。本人はさっき『煌王会の監禁から逃げ出した』と言い張ったが、そいつが嘘だってことはお見通しさ。そもそも都知事を型に嵌めてぇなら、わざわざ今日を選ぶ必要も無かっただろ」


 駈堂はまたも無言を貫く。しかしその反応で俺の推測が正しいことが証明された。先ほどに比べて駈堂は見るからに動揺しているように思えるのだ。


 ここらで畳み掛けてやりたいところだが逆上させても意味は無い。ここで為すべきことは口論を繰り広げることではない。このような局面では相手に敢えて逃げ場を残しておいてやるのが交渉を上手く運ばせる秘訣だ。


「駈堂さんよ。あんた、井桁を討つために俺たちを利用しようってんだろ。都知事が中川会おれらに情報を流そうってなれば必ず奴は嗅ぎ付けてくるはずだからな」


 そこで割って入ってきたのは恒元だった。


「おいおい。涼平よ。それはさすがに飛躍し過ぎではないのかね」


 俺は首を横に振ってこう答える。


「いいえ。そうとも限りませんぜ。俺たちが井桁を討てば煌王会は直接手を下したことにはならねぇし、中川と玄道が喧嘩に発展しようものなら漁夫の利を得られる」


 そのやり取りを聞いて何を思ったか。黙っていた駈堂が不意に声を上げた。


「ははっ! あははははっ! こりゃあたまげたもんだぜっ!」


 そしてひとしきり笑った後、彼はこう続ける。


「ああ……負けたよ。こうまで見抜かれちまうとはなあ。流石は麻木光寿の息子、恐ろしいほどに勘が良いな。おう、お前さんの言う通り。俺が今日ここに来たのは井桁を誘き出すためさ。わざと無茶な要求をしたのも、そのための時間稼ぎだ」


 その台詞に桜井が「私を餌に使うつもりだったのか!」と喚き散らす。どうやら都知事に真意は伝えられていなかった模様。しかし、駈堂はそれを無視して俺にこう語ったのだった。


「勘違いしてもらっちゃ困るぜ。井桁久武は煌王会の獲物だ。組織の顔を潰した下衆野郎を他人様の手を借りて討つわけがねぇだろう」


 俺は「ほう?」と相槌を打つ。そしてこう続けた。


「じゃあ、井桁は煌王会が討つってことで良いんだな? 俺たちはそのおこぼれに預かれるってわけか?」


 そんな俺に対して駈堂はまたしても鼻で笑う。


「ふんっ! おこぼれだと? 馬鹿言ってんじゃねぇ。井桁を仕留めるのは煌王会おれたちだ。お前らには桜井の身柄をくれてやる。邪魔はさせねぇぞ」


 ため息をつきながら「それじゃあ対価になってねぇだろ」と眉を顰めた俺。駈堂はなおも言い立てる。


「井桁を殺す役回りを中川会に代わって請け負ってやると言ってんだ。そうすりゃお前らは九州と戦争にならなくて済む。儲けもんだろ」


「ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ。何が『戦争にならなくて済む』だ、この野郎。こちとらドンパチなんざとっくの昔に覚悟の上なんだよ」


 俺の言葉に駈堂は吹き出した。


「今の中川会に玄道と事を構える余裕があるとは思えんがな」


 奴の反応を見て、俺は思わず笑いをこぼしそうになった。一言で云ってしまえばどの口がほざいてんだという話だ。


「へっ、その言葉をそっくりそのまま返すぜ。今の自分とこの混乱っぷりを見てから言いやがれ。おたくの大将が起こしたクーデターの余波を未だに打ち消せてねぇのに戦争も何もあるかよ」


 ただ、駈堂もまた笑い声を上げる。


「ああ、そうだったな。中川会おまえらが村雨のバカに味方しやがったせいでこっちは大混乱だ。まったく迷惑な話だぜ……橘の組長オヤジの自業自得と言われりゃそれまでだがな」


 その返事は少し意外だった。二代目松下組組長である橘威吉が起こした謀反劇について、若頭の駈堂は当然肯定的だとばかり思っていたのだ。


「まったくもって自業自得だな。松下組には極道の道理ってもんがぇのか。これだから関西の連中のやることは好きになれん」


「うちの組長のやり方に多少の問題があったことは認める。それでも、俺たちは俺たちの正義を貫くために決起したんだ。煌王会全体のためを思えばこそだ」


「はっ。どうだかな」


「何が言いてえんだ?」


「どんなに綺麗事を並べようと、謀反なんざ所詮は罪でしかねぇ。罪に善意の服を着せてまで正義の味方を気取るな。自分てめぇの罪くらい自分てめぇの心で語れ……それが出来ねぇならあんたは偽善者にもなれねぇカスだ」


「んだと!? この若造ガキ、言わせておけば調子に乗りやがって!」


 話が少し横道に逸れたので恒元が軌道修正をはかる。


「まあまあ。落ち着きたまえ。今、考えるべきはどちらが井桁を討つかだ」


 会長に肩をポンと叩かれた俺は「すみません」と謝罪する。しかしながら、恒元はどういうわけか嬉しそうだった。


「お前も言うようになったな。ますます似てきているぞ」


 俺は首を捻った。似てきている? 何のことだ? 誰に似てきているというのだ? そんな部下の心中などいざ知らず、恒元は駈堂に向かってこう続ける。


「しかしだな、駈堂よ。煌王会おまえたちの正義とやらをどう語るかは自由だが、井桁の首を獲ることに関しては我々も譲れないものがある。それは分かるな」


 恒元の言葉に駈堂は頷きつつも低い声で返した。


「分かってますよ。だからこうして話を持ちかけてるんでしょうが。俺が井桁を仕留めて、中川会あんたらが桜井を消す。どうです? おたくの眞行路がうちのシマを荒らした件もチャラにすると言ってんですぜ? ここらでそろそろ着地点にしませんか?」


 軽く笑いつつ「まあ……良い頃合いだろうな」と頷いた恒元。それでも、こう続けるのだった。


「だが、呑めないな。その申し出は拒否させて貰おうか」


「何故です?」


「当然だろう。お前も先ほど言っていたように、組に喧嘩を売った不逞の輩を討つのに他所者の手を借りていたのでは極道の名折れだ。関東博徒を統べる王としてそんな恥ずべき取引には応じられん」


「ふっ。関東博徒を統べる王ねぇ。お言葉ですが、それは過去の栄光に過ぎんでしょうよ。今や御七卿の台頭により中川一族当主の価値は有名無実化したも同然だ。権威はあっても権力は無い。そんなお飾り同然の君主様が何を偉そうに」


「お前の言い分は確かに正しいのかもしれぬ。だが、我輩は権威のみならず全ての関東博徒の命と糧を背負っているのだ。それを守るためにも此度の要求は呑めぬと言っている」


「いやいや、申し訳ないですけど俺はあんたが力ある人だとは思えない。この場にたった三百の兵隊しか連れて来てねぇのが良い例だ。東京の極道すらまともに従わせられねぇような奴の言葉なんか……聞く価値があるかってんだよクソ野郎」


 堪えていた本音が飛び出したとばかりに炸裂した駈堂の暴言。その無礼さは流石の俺も聞き捨てならない。不思議と腹の奥から怒りがこみ上げてきた。


「てめぇ!」


 しかし、当の恒元は「まあまあ」と俺を宥める。そしてこう続けたのだった。


「確かに今の我輩は組織を完全に統制しきれてはおらん。しかし、それは組織を活気づかせるために敢えて幹部たちの勝手に任せているだけのことよ。もし然るべき時が来れば組織の体制くらい容易く組み替えられるわ」


 それを聞いた駈堂はまたも笑い声を上げる。


「はっ! そいつはおめでたいこって!」


 二人のやり取りを見て俺には不可思議さばかりが躍った。恒元の謎の自信ではない。駈堂の不遜な振る舞いだ。


 現時点で玄道会と戦争になったらまずいのは煌王会とて同じはずなのに。どうしてこうも悠々と構えていられるのだろうか。


 そんな俺の疑問は駈堂の次の言葉ですぐに解消されたのだった。


「だが、あんたが何と言おうがこの場は俺に仕切らせてもらうぜ! どうせ口だけのお飾り親分様とは覚悟が違うんだよ! 何せ今日のために組織を辞めてきたんだからなあ!」


 組織を辞めたとは。一体、如何なる意味だろうか。きょとんとする俺と恒元に駈堂は高らかに語った。


「俺は今日限りで松下組を破門されている! ここでどんな無茶をやらかそうが煌王会には何ら関係ねぇってわけだ!」


 言い終えるや否や、駈堂は一枚の書状を出してくる。それは奴の云う通り『破門状』である。中川会のものと多少の違いはあれど基本的な文面は似ていた。


 ーーー


 破門状


 以下の者を破門に処した旨、ここに記す。


 一、貸元二代目松下組 若頭 駈堂怜辞

 一、貸元二代目松下組代貸二代目緒方組 構成員一同


 以上をもって破門を申し渡す。今後は上記の者との交流および交際、その他一切合切の取引を固く禁ずる。


 平成十七年三月二十五日 六代目煌王会会長代行 前坂俊


 ーーー


 俺と恒元は絶句した。まさかここまでするとは思いもしなかったのだ。無論、これは駈堂が本当に組を追放されたわけではない。


 いわゆる偽装破門。駈堂が井桁を討つことで生じる玄道会との因縁を最小限に留めるため、形式的な追放という体をとったのである。当然ながら復帰の手筈も予め用意されている。


「松下組が天下を獲った以上、いずれ六代目体制は終了し七代目体制が発足するだろう。そうなった時にお前は煌王会の貸元として復帰するつもりか。『破門に処したのは六代目煌王会であって七代目ではない』という建前で」


 恒元の言葉に駈堂は笑った。


「ああ? 何のことだか分からねぇなあ? ま、ひとつ云えるのはあんたらとは気合いの入り方が違うってことだよ!」


 井桁を討つため次なる最高幹部候補を形式上とはいえ破門にするとは。煌王会の並々ならぬ決意には驚く他ないが、それでも譲れないものは譲れない。


「だとしても、あんたに井桁を討たせるわけにはいかねぇな。あの野郎は中川会の獲物だ。関東で勝手な真似は許さねぇぞ」


 俺は駈堂に向かってそう言い放った。しかし、駈堂はこちらの威圧など何処吹く風。「はっ!」と鼻で笑ってのけたのだ。


「おたくらに獲物を譲る気なんてこれっぽっちもねぇぞ。そっちが折れねぇってんなら力ずくで折らせるまでだ」


「良いねぇ! やってやろうじゃねぇか! もう煌王会の傘下じゃねぇってんならこっちも気兼ねなくあんたをぶっ殺せる!」


 いきり立つ俺の反応に恒元は笑った。


「はっはっはっ! ちょうど良い機会だ! 駈堂よ、我輩の涼平の力がどれほどのものかをその身で確かめてみたまえ! 当分舐めた口は叩けなくなるぞ! 井の中の蛙大海を知らずというやつだ!」


 どうやら駈堂と勝負をする流れらしい。俺は奴に向けていた銃をゆっくりと下ろすと構えを取った。


「ええ! 俺は素手で構いませんよ! 会長!」


 すると駈堂は一瞬だけ驚いた顔をしつつもすぐに元の顔に戻ると上機嫌で返したのだ。


「俺も良いぜ。前々から思ってたんだ。一度、こいつと真っ向から殴り合いてぇってなあ!」


 そう言い放つと駈堂は手に持っていた拳銃を捨てる。

「男の喧嘩に道具なんか要らねぇだろ。尤も、弾丸タマなんか入っちゃいねぇだろうがな」


 恒元がにやりと笑う。ああ。分かったぞ。先ほど才原党の忍びたちに囲まれた際、背広のポケットに投げ込まれたのだ。『煌王会の幹部が自分に銃を向けた』という事実を作り上げることを狙う恒元の意を汲んだ忍びの一人によって。ボディーチェックは受けたはずなのにどうしてだろうと思っていたが、そういうことだったか。


「では、ここらで互いの力量差をはっきりさせておくとしようじゃないか。涼平よ。手加減は無用だ。痛めつけてやれ。殺さぬ程度にな」


 会長の檄を受けた俺はゆっくりと立ち上がると円卓から少し広いスペースまで数メートルほど歩いた。駈堂もそれに倣って付いてくる。


「おい、小僧。武術や格闘技の経験はあるか?」


「あったら何なんだよ」


「ふんっ。ただ、聞いただけだ。喧嘩じゃ20年負け知らずの俺が本気を出すのも可哀想と思ってな」


 なるほど。つまりこいつはただの馬鹿か。


「そうかい。じゃあ俺が教えてやるよ……本物の暴力ってやつをな!」


 そんなやり取りを傍観していた桜井が不意に声を上げる。


「ちょっと待ってくれっ! 私はいつまでここに居れば良いんだ!?」


 すると駈堂は「ああん?」と彼を睨みつつこう答えたのだった。


「お前は今回の騒動の元凶だ。中川会と煌王会の両方にとって敵も同然なんだよ。そんな奴をすんなり帰すわけねぇだろうが!」


 桜井の顔が青ざめる。


「か、帰してくれるって約束だったじゃないか! 第一に私は都知事だぞ! このまま都庁に戻らない日が続けばマスコミが……」


「だから何だってんだ? こちとら最初からテメェを始末するつもりで来てるんだよ! 都知事だろうが総理大臣だろうが煌王会を舐めた奴はぶちのめす!」


 そんな二人のやり取りを見ていた俺は思わずこう呟いてしまったのである。


「都知事よぉ。むしろここに居た方が安全なんじゃねぇのか」


「えっ……?」


 桜井は目を丸くしてこちらを見る。駈堂も怪訝そうな顔でこちらを見ていた。俺はそんな二人の反応に構わずこう続ける。


「あんたを仇と思ってるのは俺たちだけじゃねぇぜ。玄道会の井桁もだ。あんたが中川会おれらに情報を売ったと思って、奴は今ごろあんたを全力で探してるだろうな」


 すると桜井は怯え竦んだ顔で声を上げた。


「い、いや……その……」


 そもそもこいつは井桁久武を誘き出すための餌だ。奴は裏切り者を絶対に許さない。都知事が中川会に寝返ったと勘付けば自ら当人を討ちに来るはず。


「そ、それなら! それなら君たちが私を守ってくれ! 井桁を殺したいのだろう!? だったら私の味方のはずだ! 敵の敵は味方と云う言葉がある! だから……」


 しかし、そんな命乞いも虚しく恒元が鼻で笑うのだった。


「おめでたい男だな。自分の立場が分からないのか。貴様は井桁にとっても然りだが、我らにとっても憎むべき敵なのだぞ」


 そしては恒元は都知事に向かって拳銃を構える。それを見た桜井は悲鳴を上げてのけぞった。その滑稽な姿に思わず笑いがこみ上げてくる。


「へへっ。 あんた、思ったより大人気だな。良かったじゃねぇか」


 そんな俺の煽りにも桜井は怯んだままだ。駈堂が俺に向かってこう叫ぶ。


「おい、小僧! 遊んでねぇでさっさと始めろや!」


 俺は頷くと構えを取り直した。そして駈堂を見据えつつこう告げるのだった。


「んじゃ、味わってもらうとするか……テメェにとって20年ぶりの敗北ってやつをな!」


「ああ! やれるもんならやってみやがれ!」


 駈堂はそう叫ぶとファイティングポーズを取った。俺もそれに応じて鞍馬菊水流伝統の呼吸法で全身の神経を研ぎ澄ます。


 先に仕掛けたのは駈堂だった。


 奴は俺に向かって突進してくると拳を繰り出してきたのだ。だが、俺はそれを難なく回避する。そのまま奴に足払いをかけ転倒させた後で馬乗りになった。そして顔面を殴るべく拳を突き出すが……寸前で止めたのである。


「そこまで!勝負ありだ!」


 恒元がそう叫んで制止したからだ。


「何だよ。まだ終わってねぇぞ」


「もう決着はついた。駈堂よ。お前の負けだ。涼平の実力は分かったろう。これ以上続けても無駄に傷つくだけだ」


 恒元は駈堂に怪我をさせるつもりは無いと見た。当人が不服の意を顔に表す中、俺は奴を押さえつける力を抜いた。ひとまずは会長の命令に従っておく。


「聞いたか? あんたの負けだってよ? 俺とあんたじゃ、そもそも基本的な武術の素養ってもんが……」


 その時だった。


「甘いッ!!」


 駈堂が二本指での目突きを繰り出してきたのだ。俺は慌てて躱すが咄嗟の出来事に体勢を崩す。その隙が相手にとって有利となるのは当然のことで、気付いた時には反撃が見舞われていた。


 ――バキッ。


 強烈な頭突き。真正面から食らう格好となった俺は思わず背後に仰け反る。


「うぐあっ!」


 形勢逆転の好機を逃さず、そのままヘッドバットの勢いを利用して起き上がった駈堂は、すかさず俺の襟首を掴むとそのまま投げ飛ばした。


「うおっ!?」


 俺は背中から床に叩きつけられたが、すぐに受け身を取って立ち上がった。そして駈堂に向かって吠える。


「この野郎!」


 そんな俺に対して駈堂はこう返すのだった。


「へっ! 組み伏せられた程度で俺が負けを認めるとでも思っていたのかよ! ああ!?」


 どうやら先ほどの一撃を躱されたことで火がついてしまったらしい。だが、こちらとてやられっ放しでは引き下がれない。久々に燃えてきたぞ。


「オッサン……調子に乗るなよ……」


 深く息を吸い込んで構えを取る。鞍馬菊水流、ごろもかた。両手を前方に突き出して交差させる流派独自の構えだ。


「はあっ? 何だ、そのふざけた構えは!」


 駈堂は鼻で笑うが、これは平安時代より伝わる鞍馬菊水流の中でも二番目に攻撃的な構え。この構えから繰り出される神速の手技の数々は、鞍馬菊水流が『天狗より授かりし妖術』と呼ばれる所以を如実に体現している。


 俺は駈堂に問うた。


「おい、オッサン。本格的に武術を学んだ経験はあるか?」


「あったら何なんだ、この野郎!」


「ふっ。ただ、聞いただけだ。喧嘩と殺しの区別もつかねぇ馬鹿相手に本気を出すのも可哀想と思ってな」


 その煽り文句に駈堂は笑みを浮かべ、ネクタイを緩めると高らかに叫んだ。


「言ってくれるじゃねぇか……後悔するなよッ!!」

 そんな奴に対して恒元は声を荒げる。


「止めんか! 駈堂! 先ほど勝負はついたと言ったはずだ!」


 だが、その台詞を聞き終える間もなく駈堂は走り出していた。


「ガキがぁぁぁぁぁ!!」


 凄まじい勢いで突進してきた駈堂。しかし、間合いを詰められるより先に俺は奴の懐へ入り込んでいた。


おせぇんだよ。オッサン」


「なっ、何ッ!?」


 理解の範疇を超えた速さに駈堂は驚いたようだが、もう遅い。俺はそのまま奴の胸に掌底を打ち込んだ。


 ――グキッ。


 骨にヒビが入る音が聞こえた。無論、先ほど恒元に「殺すな」と言われたので加減をしてはいるのだが。それでもかなりの衝撃だったと云える。


「がはっ!」


 心臓付近を激しく揺さぶられたことで呼吸困難に陥りかける駈堂だが、何とか踏みとどまることに成功したようだ。しかし、それも一瞬のこと。次の瞬間には俺の回し蹴りが彼の右肩を直撃していたのである。


「ぐあっ!!」


 またしても骨が砕け散る音が聞こえた。駈堂はその場に倒れ込むと苦痛に顔を歪めた。胸骨に加えて右の肩甲骨も砕かれたことで完全に怯んだ模様。


 そんな光景に桜井は顔面蒼白になっていたのだが、一方の恒元は手を叩きながら俺に言った。


「うむ。よくやったな、涼平。よくぞ我輩の言い付けを守ってくれた」


「そりゃどうも。けど、本当に良かったんですか? 中川会三代目を馬鹿にした不届き者をらねぇで……」


 すると恒元はこう返す。


「ああ。構わんよ。この男は喧嘩で自分と互角以上に渡り合った男に対しては敬意を持つ男。久々にここまでやられたんだ。暫く不遜な態度には出られんだろうて」


 そんなやり取りをしていると駈堂がゆっくりと立ち上がった。そして俺を睨みつけながら言うのだ。


「お、お前……強すぎる……何なんだ……?」


 馬鹿に名乗る名前は無いとばかりに俺は睨み返すだけで何も答えなかったのだが、代わりに恒元が答えた。


「元傭兵で古武術由来の拳法使いだ。我流の喧嘩技で勝てる相手ではない。身の程を知れ」


 その答えに駈堂は舌打ちする。


「なるほどな……そういうことか……」


 そして彼は今一度構えを取るとこう叫んだのだった。


「……おい!小僧! 名前は何だ!」


 何を今さら。もはやこの場において聞く必要も無いであろうに。俺は一瞬戸惑ったが、それでも答えてやることにする。


「麻木涼平だ」


 すると駈堂はニヤリと笑った後で言ったのである。


「なるほど! 似ている! その顔つきといい、容赦の無さといい、全てが父親そっくりだッ!!」


 そんな奴に対して恒元は呆れ顔でこう返したのだ。


「やれやれ……まだ懲りておらんようだな……」


 かくしてそのまま第二回戦が始まるかと思われた時。俺の懐の携帯が震動した。


「何だ、こんな時に」


 舌打ちを鳴らして画面を開くと、そこには『酒井』の二文字。俺は瞬間的に我に返る。ああ。そうだった。店の前では部下たちが警戒態勢を敷いていたところだった。喧嘩に夢中になり過ぎてすっかり忘れていた。


 やっぱり俺は腕のある奴相手に興奮を我慢できない戦闘狂なのだな。そもそも今は喧嘩に耽っている場合ではないのだ。駈堂が連れてきた兵隊の出方を監視し、いずれ来る井桁を迎撃するという本懐があるのだ。


 俺はすぐさま通話に応答した。


「どうした?」


 すると電話の向こうの酒井が慌てた声を上げてきた。


『じ、次長! 大変です!』


「何があった?」


『来ました! 奴です! 奴が姿を現しました!』


 おっと。もう来たのか。向こうもこちらの待ち伏せに気付いて様子を窺っていると思っていたが。意外とあっさり来たな。いよいよ今回の本命のご登場に、俺はゴクリと唾を飲み込む。


「……あいつか?」


 しかし、俺の問いに酒井が投げた返事は予想とは裏腹のものだった。


『はい! あいつです! 輝虎です!』


「えっ! 何っ?」


 輝虎? 


 いやいや、そんなはずは無い。これまで雲隠れしていたはずの男が、何故今になって。しかもこんなタイミングで現れるのだ?


 そもそも井桁はどうしたのだ。桜井都知事の身柄を狙って奴が現れるなら分かる。本人が来なくても玄道会の手の者が来るなら未だしも、何故に輝虎が……?


「おいおい! どういうこった!?」


 俺は思わず酒井に問い質すも、向こうから返ってきたのは『分かりません』という戸惑いを隠せぬ返事。


『とにかく次長の指示に従います! ご指示を!』


 よからぬ予感を悟ったのか、恒元が俺に訊いてきた。


「涼平。何があった?」


「……輝虎が来たそうです」


 すると桜井が血相を変えて喚き始めたのである。


「なっ! 眞行路さんが!?どうして!?」


 恒元はそんな都知事を一瞥すると俺に言った。


「ううむ。確かに輝虎は油断ならない男だ。しかし、今は奴に構っている暇は無いぞ」


 そんな主君の言葉に俺はこう返すのだ。


「ええ……分かってます……」


 そう答えつつも俺の頭の中は混乱していたのである。どういうことだ? 何故に輝虎がここに来た? いや、もしかすると井桁久武と示し合わせた上での来訪か。考えれば考えるほどに分からない。兎にも角にも今は狼狽えている場合ではない。事の真相を探る方が先決だ。


 俺は恒元にこう報告した。


「会長。とりあえず輝虎を通して事情を聞き出します。今日このタイミングでここへ来たってなると何か変なことを企んでやがるかもしれませんので」


 俺と同じことを考えていたのか、恒元は頷いた。


「うむ。そうだな。それが良かろう」


 そして彼は桜井をひと睨みすると忍びたちにこう告げたのだった。


「この者を連れて行け!」


 恒元の言葉を聞いた桜井は真っ青に戦慄した。されども、そんな彼の反応などお構いなしに忍びたちは彼を拘束する。


「ひ、ひえーっ! 助けてくれーっ!」


 そんな桜井の悲痛な叫びも空しく、彼はそのまま引きずられて行ったのだった。そんな光景を見届けた後で俺は恒元に言う。


「とりあえずは尋問に徹します。俺が思うに、輝虎と井桁はそこまでの信頼関係は無いと思いますが。確かめてみねぇことには」


 すると恒元はこう返した。


「ああ。頼んだぞ。面倒事は避けたいから、くれぐれも奴を殺さぬようにな」


 現在、銀座の後継者の座を巡って弟と熾烈な争いを繰り広げている輝虎。中川会本家の姿勢はあくまでも中立だ。ここで迂闊に手を出して恒元の方針を崩すわけにはいかない。こちらから危害を食わぬことは絶対条件だ。俺は恒元に「はい」と返事をする。その流れで駈堂にも確認した。


「駈堂さんよ。どうやらあんたと遊んでる暇はぇみてぇだ。すまねぇな」


 その言葉に駈堂は案外素直に従った。


「ちぇっ、分かったよ。お前さんとの勝負はまた次の機会に持ち越しと行こうじゃねぇか。ところで俺はこの後どうすりゃ良いんだ?」


 予想に反して冷静な彼の反応に若干の驚きをおぼえつつ、俺は答える。


中川会おれらの身内の話し合いになるから帰ってくれと言いてぇところだが、あんたも輝虎にぶつけなきゃならねぇ文句が山ほどあるんだろ」


「この場に居ても良いのか?」


「俺は別に構わねぇぜ」


 恒元に承認を求めると、彼もまた賛意を示した。


「我輩としてもお前が居てくれた方が良いと思う。他所の人間の前で奴がどんな申し開きをするのか。些か興味があるのでな」


 同席を許されたことに駈堂は少し驚いていた。てっきり追い払われると思ったのだろう。どこか嬉しそうな様子だった。


「へへっ。あんたらも意外とお人よしなんだな。こりゃあたまげたぜ」



 別に駈堂に配慮をかけた訳ではない。輝虎にプレッシャーをかけるべく彼の存在を利用したいだけだ。偽装破門の身の上といえども煌王会関係者、その存在感は存分に活用してやるとしよう。


 そうと決まれば酒井に連絡を入れる。


「酒井。輝虎を通してくれ」


『分かりました』


 部下に指示を出して会長の意向を伝えた後、俺は駈堂へと近づく。この男とは一時的な協力関係が成り立ったのだ。軽い挨拶くらいせねばなるまい。


「立てるか?」


「ああ、何とかな」


 俺は駈堂に手を差し出して立ち上がらせる。そして懐から煙草を取り出して一本くれてやる。


「すまねぇな」


 駈堂から謝意を示されるも、俺は素っ気なく返す。


「気にするな」


 すると奴は俺の耳元で囁いた。


「……なあ、さっきの話だが」


「さっきの話?」


 何のことやら分からず聞き返すと駈堂は言ったのだ。


「お前が本当に父親そっくりだって話だ。何から何まで似てやがる」


「そうかよ」


 特に興味の無い話題である。俺は適当に相槌を打ち、奴の煙草に火を点けてやった。


「ふっ。つれねぇ奴だな。もう少し聞いてくれてもいいだろ」


 にこりともしない俺の反応に駈堂は苦笑しつつ、さらに続けた。


「まあ聞けって。だいぶ昔の話になるんだがな。お前の父親と俺は会ったことがあるんだ。それも単なる顔見知りどころの仲じゃねぇ。一緒に仕事もやった関係だ」


「いつ頃の話だ?」


 俺が若干ながらに興味を示すと奴は嬉しそうに笑った後で言った。


「今から20年以上前だ。あの時の俺は川崎でも有名なヤンキーでな。仲間ダチと一緒にチーム組んで毎日のように暴れまわってた」


「ほう。驚いた。あんた、川崎かよ」


「ああ。お前と同じ川崎出身。自分で云うのもアレだがけっこう名を馳せた方だぜ。地元の暴走族ぞくを潰して傘下に入れたりしてな。本職の極道相手にだって一歩も引かなかった」


 まさか俺と煌王会の駈堂が同郷だったとは。そんな思わぬ情報も程々に、不良少年だった過去を誇らしげに語るかのような説明に俺は呆れた。


「おいおい、そりゃ自慢か?」


「へへっ。ただ単に事実を言ったまでだ」


 駈堂は懐かしそうに語り始める。


「そんな時だ。負け知らずだった俺たちの前に一人の男が現れた。麻木あさぎ光寿みつとし。中川会系列の極道で俺が出会った時にはもう枝の組長を任されてた。俺とはそんなに歳が変わらねぇってのに」


「親父か」


「ああ。一目で分かったぜ。こいつは只者じゃねぇってな。実際、とんでもねぇ腕っぷしだったよ。それまでは無敗だった俺たちもあっという間に全員ボコられちまった」


「ほう……」


 親父の喧嘩が凄まじかった旨の武勇伝は俺も今までに何度か聞かされていた。敵対暴力団や海外マフィアをまったく寄せ付けなかった話は知っていたが、ほぼカタギである不良少年相手にも一切容赦が無かったとは初耳だ。駈堂は続ける。


「まあ、そんな訳で俺はお前の父親に完敗を喫した。でも、トドメは刺されなかった。奴は俺たちにこう言った。『成長しきってねぇ獣を狩ったところで美味くも何ともねぇだろ』とよ。要は殺す価値もぇ未熟者ってことさ。おかげで俺は思い知ったぜ、自分がいかに甘ったれた人間だったのかをな」


 組を挙げて追い込みをかけられるも、最終的には川崎から出ることを条件に見逃されたという駈堂たち。まあ、親父と云えば親父らしい。俺が知る麻木光寿という男は、基本的には人情家で気の良いおっちゃんだったのだから。


「確かにな……調子に乗ったガキなんか討ち取ったところで何の手柄にもなりゃしない……」


 俺がそう呟くと駈堂は大きく頷いた後で言ったのだ。


「ああ。そうだ。それがきっかけで俺は川崎から神戸に渡り、ひたすら男を磨いた。あの麻木光寿に追いつくために。奴から男として認められるために。そんでもって中川会と双璧を成す関西の煌王会に入って今に至るってわけさ」


 そんな昔話を聞いているうちに駈堂の煙草は灰になったので俺はそれを近くの灰皿に捨てさせた。


「なるほどな。あんたが俺の親父と浅からぬ縁だったのは分かったよ。一緒に仕事をやったってことは、そこから少しは認められたってことか」


 俺がそう返すと駈堂は笑いながら言ったのだ。


「ははっ! まあ、そういうことだな! 奴に追いつけたって自覚はこれっぽっちもぇけどよ!」


 そこまで話した所で恒元が言葉を挟んできた。


「麻木光寿。あれは実に良い男であった。極道としても人としてもな」


「ええ。そのようですね。ありとあらゆる場所で伝説を聞かされますから」


 息子の俺もヤクザになって6年が経つが、未だに父の存在は計り知れない。この業界であまりにも伝説的に語られ過ぎていて、本来の人物像があやふやになっていると言えば良いだろうか。俺が知っている親父は極道としての麻木光寿ではなく、息子を可愛がる一人の優しい父親なのだから。


「うむ……何度も思うことながら、お前は本当に奴の若い頃によく似ている……」


 複雑な俺の気持ちを見抜いたのか、恒元は続けた。


「されど父の伝説を超えようなどと思う必要は無い。お前はお前の道を歩めば良いのだ」


 そして彼はさらに続ける。


「それがいずれお前の伝説となろう」


「伝説……」


 俺は思わず主君の言葉を反復した。だが、その時。表で銃声が鳴った。


「!?」


 それも一発や二発ではない。何発もの銃弾が炸裂する音だ。俺は瞬時に警戒態勢を取ると懐の拳銃を取り出してこう叫んだのである。


「何だ! どうした!」


 そんな俺の声に呼応するかのごとく、店の扉を蹴破って原田が入ってきた。


「あ、兄貴! やられました!」


「やられた!?」


「輝虎の野郎が撃ちやがったんです!」


 何ということだ。俺は耳を疑った。だが、そんな俺の思いなど知る由もない原田は続けるのだ。


「輝虎ん所の組員が! こ、煌王会の連中に向かって……!」


「何だとっ!?」


 そんなはずがあるか。そんな暴挙に及ぶ意味が分かっているのか? 煌王会を敵に回すことの意味を……いや、待てよ。


 考えてみれば完全に有り得ないというわけでもない。仮に現在の駈堂の立場を輝虎が知っているとすれば。もしかしたら。


「局長! 会長を頼む!」


 俺は才原に恒元の護衛を任せ、店を飛び出した。


 表に出てみると、そこに広がっていたのはまさしく地獄絵図だった。


「う、ううっ……」


 駈堂が連れてきた緒方組の組員らが血を流して倒れている。そのむくろに空いているのは無数の弾痕だ。生き残った者たちは変わり果てた仲間の姿に慟哭を鳴らす


「くそっ! くそおおおっ!」


「しっかりしろっ! しっかりしろよ!」


「畜生がああああ!」


 場を見る限り10人前後がやられたのではないか。辺りが血と硝煙の臭いで覆い尽くされる中、一人の男が笑みを浮かべていた。輝虎だ。


 ポケットに手を突っ込み、持ち前の不遜さを顔で表現していた。


 そんな彼を執事局助勤、酒井組、原田一家といった中川会の面々が取り囲み、各々が銃を向けている。俺は何となく状況を理解した。


 突如として現れた輝虎派が、駐車場内に居た緒方組の組員たちに次々と発砲。そのうち何人かを射殺したのだ。一方、中川会としては何をどうすれば良いのか分からなかったのだろう。当然だ。中川会こちらが被弾したなら未だしも、撃たれたのが敵対する煌王会の組員らとあっては輝虎派たちに反撃する理由など無い。


 組織の事情はさておき、輝虎のやったことは罪にも等しい愚挙。一体、何を考えているのか。


「おいッ! てめぇ、どういう了見だゴラァ!」


 俺は怒りに任せて奴にそう叫ぶも、奴はせせら笑うだけで何も答えない。代わりに近くに立っていた痩せ型の男が答える。須川だ。


「どういう了見も何も。ここに居るのは関西のチンピラども、中川会の敵だろうよ。よそ者が関東の地を踏み荒らすなんざ言語道断」


「ふざけるな! こいつらは煌王会だぞ! てめぇはこいつらを弾くってのが何を意味するか分からねぇのか!?」


 すると須川はこう返す。


「さあね。たかが戦争になるくらいだろ。喧嘩を恐れてちゃ極道はやってられん」


 ふざけたことを言いやがる。俺は憤りに駆られると同時に、相変わらず上機嫌な様子の輝虎を見て先ほどの仮説に確信を抱いた。どうやら今の駈堂が煌王会を離脱していることを輝虎は知っているらしい……一体、その情報を何処から入手したのか。


 ともかく、これは非常にまずい状況だ。駈堂の部下が撃たれたとあっては、彼らに応戦の理由が生まれる。それはすなわち、戦争を意味する。


「お、おい! やべぇよ!」


「どうなっちまうんだ……!?」


 中川会の兵たちが狼狽えている。無理もないだろう。まさかこんな事態になるなど予想できるはずもないのだから。俺はそんな彼らにこう叫んだのだ。


「馬鹿野郎ッ! 誇り高き関東博徒が腑抜けてどうすんだ! 気合いを入れやがれ!」


 その時だった。


「眞行路!」


 背後から大声が聞こえた。すかさず振り向くと、そこに立っていたのは駈堂だった。痛む右腕を押さえて全身に怒りを燃やしている。


「何が起きたかと思えば……てめぇ、俺の可愛い子分をよくもやってくれたなっ!」


 駈堂は今にも輝虎へ飛びかからんとする勢いだった。だが、輝虎派の組員たちは何のこっちゃといった様子である。


「別に何もしちゃいないさ」


 須川が言った。


「ただちょっと挨拶をしただけさね」


「ふざけんな! てめぇ、ぶっ殺されてぇのか!?」


 駈堂がそう叫ぶと、須川はせせら笑う。


「おいおい。あんた一人に何ができるってんだ。この状況を見てからモノ言いやがれ」


 そんな彼の態度に駈堂は激昂する。


「この野郎ッ!!」


 だが、彼はその場で顔を歪めて膝を付いた。先ほど俺との喧嘩で負った胸骨の怪我が痛んだのだろう。そんな彼を見て輝虎が口を開いた。


「おうおう。落ち着けよ。オッサンよ」


 この男とは数ヵ月ぶりに顔を合わせたが、以前にも増して顔つきが凶暴になっていた。精悍などという陳腐ちゃちな形容詞で例えるつもりは無い。けれども鋭くなった目鼻立ちから醸し出される覇気はまさに獣で覚悟を決めた勝負師の顔と云わざるを得なかった。


「ぐおっ……このガキ……ただじゃおかねぇぞ……」


 大きく息を乱しながら駈堂はそう凄むも、輝虎はどこ吹く風といった様子でこう返す。


「ああ? どう『ただじゃおかねぇ』ってんだ? 俺に文句があるなら今すぐ殴ってくりゃ良いじゃねぇか、ああ?」


「ううっ……許さねぇ……貴様だけは……松下組うちのシマで女を攫ったばかりか、俺の子分にまで手を出しやがって……人を何だと思ってやがる……」


 すると輝虎は下品な笑みで応じるのだった。


「おいおい。何を言ってんだ。俺たちは極道だろ。極道がそんなくだらんものを気にするなんざ愚の骨頂じゃねぇか。関西ヤクザはそんな簡単なことも分からねぇのか」


 そんな彼の態度に駈堂の怒りはさらに爆発する。


「うおおおおおっ! 眞行路ぃぃぃぃぃ!!」


 しかし、旨と肩の骨が折れているせいで立ち上がることができない。


「おう、そうだ! 良いぜぇ、オッサン! かかってこいよ!」


 輝虎は余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》といった様子で両手を広げた。その態度に駈堂は歯噛みする。


「このクソガキがっ!!」


 そんな駈堂に構わず輝虎はゆっくりと歩み寄る。そして彼の眼前まで来ると仁王立ちして言ったのだ。


「おい、オッサン」


「……何だ」


「うちのシノギを邪魔してくれた礼だ。あんたには大事な商品を無駄にされたからなぁ。そのツケを払ってくれや」


 輝虎はそう言うと俺の顔面に向かって拳を振り下ろした。だが、俺は瞬時に割って入る。そして彼の腕を掴むとそのまま地面に引き倒したのである。


「ぐはっ! て……てめぇ……!」


 そんな俺に今度は須川が突っかかってきた。


「てめぇ! 若頭カシラに何しやがる!」


 しかし、俺はそれを軽くいなす。そして奴の襟元を摑み上げると凄んだのだった。


「そっちこそ何を勝手なことしてやがるんだ? 駈堂怜辞を打ち払えと誰が言った? そんな命令、出てねぇだろうが!」


 全力で須川の顔を掌底で打った俺。ほぼほぼ感情任せの行為であった。軽はずみではあったがそうしなくては男の名が廃るように思えた。


「ぐはあっ!」


 そんな憤怒の一撃を喰らって吹っ飛んだ須川。地面に倒れ込み、苦しげに呻いている。歯が何本も折れているのが分かった。


「ぶはっ……ふがあ……ふがっ……」


 悶える須川を尻目に、俺は輝虎に向き直った。奴は俺に拳銃を構えていた。


「このガキがっ!」


 するとその時。


「彼の言う通りだ」


 声が聞こえたかと思うと、恒元が外へ出て来ていた。


「輝虎。お前は一体、何をしているのだ」


 そう言って恒元はゆっくりと歩を進める。その威圧感に輝虎がたじろいだのが分かった。


「な……何って……」


 そんな輝虎に恒元は続ける。


「ここは我輩が直に仕切る土地だ。仮に面倒が起きたとて執事局が事を収めるならいざ知らず、お前が出しゃばって良い道理など無いだろう」


 会長はさらに続けた。


「ましてや相手は武器を持っておらん丸腰の状態。そんな相手に銃を撃つなど言語道断。お前は関東博徒の名を汚すつもりか」


 すると輝虎はこう返す。


「な、何をおっしゃいますか! こいつらは煌王会! 中川会のシマに土足で踏み込んできたんですよ!」


 けれども会長はそれを一蹴する。


「だとしても、彼らをどうするか決めるのは我輩であってお前は関係ない」


 そうだ。ここは高輪たかなわ。中川会の本家直轄領なのだ。


 今回、輝虎のやったことは越権行為。本来ならば会長の直属部隊である執事局が対応すべき事案にもかかわらず、侵入者討伐の命を受けたわけでも無い輝虎が勝手に動いた。これは立派な掟破りで処罰の対象となり得る話。自分たちが出過ぎた真似をしたと気付いた組員たちはみるみるうちに青ざめた。


「……っ」


 先ほどまでの威勢は何処へやら。怯え竦む彼らの姿は非常に滑稽だった。そんな連中を前に恒元は淡々と続ける。


「我輩に力を示してくれると思っていたら。随分とがっかりさせてくれる。銀座を仕切る器に非ずということか」


 そんな会長の言葉に輝虎は返す言葉も無い模様。


「輝虎よ」


 畳み掛けるように、恒元はさらに続けた。


「この落とし前をどうしてくれようか。お前の土下座ひとつでは足りぬぞ」


「……くっ!」


 輝虎は表情を強張らせた。けれども、その顔と表情に焦りは無い。数か月前まで俺に見せていたヘタレ御曹司の姿は何処にも無く、どっしりと構えた毅然たる貫禄が滲み出ていた。


 それはおそらく玄道会の存在だ。九州ヤクザを後ろ盾につけた安心感が奴を増長させているのだ。そんな男に会長への経緯などあるはずも無い。


「お言葉ですがね。会長。俺はあくまで組織のために動いたつもりですよ」


 輝虎はそう言って恒元に銃を向けた。俺はそれに応じるようにグロックを構えるが、奴は引かない。己の背後に玄道会が居ることがそんなに心強いか。


「てめぇ、正気か!? ここで恒元公に銃を向ける意味が分かっているのか?」


 そんな俺の言葉に対して輝虎は声を荒げた。


「うるせぇ! 俺は会長に話があるんだ! チンピラは引っ込んでろ!」


 そんな奴の言葉に恒元は呆れ顔だ。


「輝虎よ……」


 深いため息と共に奴をこき下ろすのか。しかし、俺の考えとは裏腹に会長が口にしたのは予想外の言葉だった。


「……どうやらお前を少し見くびっておったようだ。すまなかった」


「え?」


 そんな会長の返答に輝虎は思わず素っ頓狂な声を上げる。俺のみならず、その場に居た全員が呆気に取られる。ざわめきが起こる中で恒元は続けた。


「お前がそこまで思い詰めていたとはな。我輩の不徳だ」


「い、いや……会長……」


 輝虎はしどろもどろになりながらも何とか言葉を紡ごうとするが上手くいかない様子。絵に描いたような拍子抜けだ。そんな彼に恒元はなおも続ける。


「ここはひとつ、我輩と話をせぬか。お前の思いの丈を我輩に聞かせてくれ。内容の如何によっては叶えてやれることもあるだろうて」


「えっ? ええ? それは……」


「此度のお前の罪は全て不問に付す。不服かね」


「い、いえ、そのようなことは!」


 輝虎は頷くしかなかった。会長が譲歩を示したのなら断る術は無いのだから当然か。どういう経緯で来たのかは知らないが、おそらく奴は恒元に何かしらの要求を吹っかけるつもりでいるようだ。


「では、中に入ろう。せっかくの機会だ。美味い料理を食わせてやらんとな」


 恒元はゆっくりと店へ入って行く。俺は慌てて恒元の背中を追った。そして追いつくなり小声で質問を浴びせる。


「会長! どういうおつもりですか!?」


「ふふっ。まあ、良いじゃないか。奴からは聞き出さねばならん話が山ほどあるのだ。であれば、この程度の譲歩で矛を収めるのなら安いものだよ」


 恒元の云う『聞き出さねばならん話』とはおそらく闇市場のことだ。どうやら恒元は輝虎に対して直接尋問を行うために敢えて譲歩してみせたようである。元はといえば越権行為云々の話は俺が咄嗟に思い付いた輝虎を殴る口実でしかなく、恒元はそれに乗っかっただけなのであるが……。


「よろしいのですか? 奴は付け上がりますよ?」


「構わんさ。第一に、輝虎は既に中川会を離れて井桁と組む決意を固めていよう。奴の中にはもはや我輩への忠義などひとかけらも無いだろうからな」


「ですが……それでは……」


「別に我輩は奴に離反されたとて痛くも痒くもない。輝虎が持っておるというシノギとやらを我が物にできればな。ははっ」


 恒元の言葉に俺は苦笑する他なかった。ああ、この男に輝虎の闇ビジネスの話は聞かせたくるんじゃなかった。そう途方もない後悔を胸に抱きながら。


「……」


 会長に輝虎を呼んでくるよう言われた俺は、店の前に呆然と佇む奴に声をかける。


「会長がお呼びだ。来い」


 奴は俺に返事をすることもなく無言で歩き始める。

 そんな彼を酒井が物凄い表情で睨みつけていた。「後で必ず殺してやるぞ」という顔をあからさまに見せつけながら。


 酒井もよく堪えてくれた。年始の騒動で輝虎に対しては尋常ならぬ恨みが渦巻いているだろうに。私心を殺して仕えてくれる部下には何だか申し訳ない心地だ。

 そんな酒井に目配せで「すまねぇな」と伝えた後、俺は輝虎と共に会長の待つ店の中へと入って行くのだった。


「おいおい。拳銃チャカはこいつ1丁だけだぜ」

「嘘をつけ」


 才原党の忍たちによる輝虎へのボディ―チェックが行われる中、俺はふと今までの状況を整理してみる。


 今日、俺はこの港区高輪のフランス料理店に罠を張っていた。玄道会の井桁久武を呼び出し、討ち取るための罠を。


 ところが、現れたのは何故か煌王会の駈堂怜辞。奴は都知事の桜井から俺たちの計略を聞き出し、来る井桁を自分が殺すべく便乗を図ってきたのだった。

 駈堂の登場は俺にとって想定外だが、そこへ新たな想定外が起こる。


 次に現れたのは、なんと眞行路輝虎。井桁本人ではなく、奴と協力関係にあると思しき輝虎がやって来たのである。関東に現れた煌王会からの侵入者を排除するために出撃したと輝虎は主張しているが、それはおそらく方便に過ぎないだろう。


 奴が高輪ここに現れた本当の理由は分からない。井桁に頼まれて桜井都知事の口を塞ぎに来たか、あるいは俺たちの作戦を引っ掻き回しに来たか。いずれにせよ、輝虎は俺たちにとって招かれざる客。この場において奴の存在に価値は無い。せいぜい闇市場にまつわる情報を聞き出せるくらいだ。尤も、拷問でもしない限りは口を割らないだろうが。


 さて、真の標的の井桁はここへ来るのか。


 彼の性格上、重要な局面においては部下に任せるということをせず自ら陣頭指揮を執りたがるはず。かつて鹿児島であの男と相対した俺の読みでは来る確率が高いと踏んでいたのだが、果たして……。


「おい」


 そんなことを考えていると、突然輝虎に声をかけられた。俺はその呼びかけに応じて振り返る。すると彼はこう続けるのだった。


「どういうつもりかは知らんが、あまり俺を舐めない方が良い。今の俺はこないだまでとは違う。忠誠を誓う相手くらい自分で選んでやる」


 どうやら奴はこの状況が気に入らないらしい。


 まったく。よく言うぜ。中川会の兵隊に囲まれている状況に恐れを成して恒元の提案を呑んだくせに。玄道会という後ろ盾が付いているにせよ、輝虎一人が動かせる兵力は限られている。所詮、自分だけでは何もできない小心者なのだ。まあ、この場で暴発せず随行の取り巻きどもに「自分が戻るまで大人しく待っていろ」と待機を指示したことだけは褒めてやるか。


 だが、輝虎を蔑む俺の心とは裏腹に会長は奴を歓迎する様子であった。


「さあさあ。よく来たね。輝虎。座りたまえ。今日はたらふく食わせてやるぞ」


「は、はい……」


 何だ。口では偉そうなことを言っていたのに、いざ面と向かい合うと怖いのか。恒元に促された輝虎はおずおずと席に着く。


「見ての通り、どれもナイフとフォークを付けていない。少し冷めてしまったが、まあ良いだろう。さあ、召し上がれ。遠慮は要らんぞ」


 円卓の上には前菜の盛り合わせと生ハムのサラダ、それからビーフシチューとバケットが並んでいる。いずれも先ほど食べ損ねた料理だ。


 そこへ白身魚のポワレ、チキンソテーのチーズクリームソース和えといった本格派フレンチの料理の数々が並ぶ。見ているだけで腹が減ってくる。素晴らしい。


「い、いただきます……」


 輝虎はおずおずと料理を口に運んだ。一応、ナイフとフォークを手には取ったが……この男は本当に分かりやすいな。会長を前に緊張しているのだろうが、それにしても酷い手つきだ。


「どうだね? 我輩御用達の料理人の腕は? 築地の板前よりも美味かろう?」


 そんな会長の言葉にも輝虎は何も返さない。ただ黙々と料理を口へ運ぶだけ。銀座で弟を相手に圧倒し、さらには玄道会を味方に付けたことで有頂天になっているのだろうが、内面は数か月前のヘタレのままだ。


「そうかそうか! それは良かった。どんどん食べなさい」


 会長はそんな輝虎に気を良くしたのか、次々と料理を勧める。すると、その時。入り口の方から、野太い声が響いた。


「待ちやがれ!」


 視線を送ると、エントランスから続く通路に駈堂が立っていた。


「俺も同席させてもらいますよ。恒元公」


 そう言うと、駈堂はゆっくりと歩いてきて円卓の空いた席に座った。


「駈堂か。よく来たね」


 会長はにこやかに出迎えるが、輝虎は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。無理もない。部下を殺された男が自分に対して何もしないはずが無いからだ。

 そんな奴を阿修羅の形相で睨むと、駈堂はこう続けるのだった。


「恒元公。あんた、今からこのクソ野郎からあれこれ話を聞き出すんでしょう。なら、俺も同席させてもらいましょうか。こいつには借りがあるんでね」


 駈堂の言葉に輝虎は青ざめる。会長は笑った。


「うむ。我輩としてはただ単に食事を取るつもりだったが。別に構わんよ。ただ、お前は良いのか? 憎き男と食事を共にするなんて嫌だろう?」


 その問いに駈堂は「いいえ」と一言で答えた。そしてこう続けるのだった。


「嫌なもんですか。食事なんてのは建前で、本当はあれこれ問い詰めるんでしょう。俺を仲間外れして貰っちゃ困ります」


 そんな彼の言葉に対し、恒元は鼻で笑った。


「ふっ。良かろう。好きにしたまえ」


「ありがとうございます。では……」


 駈堂はそう言うと、一番手前にあったバゲットを掴んで頭上高くに掲げた。


「おっ、おい! 貴様、何を!?」


 奴の行動に輝虎は声を荒げるが、駈堂は無視してバゲットをちぎった。そしてそれを生ハムのサラダに乗せて口に運ぶ。


「うん……美味い」


 そんな彼の言葉と態度に会長も俺も笑いが込み上げてきた。


「はっはっはっ! こりゃあ愉快だ! いや、実に面白い男だな!」


「ええ。まったくです。食いっぷりも見事ですよ」


 駈堂は俺たちの反応に一瞬戸惑った様子であったが、すぐにまたバゲットをちぎってビーフシチューの上に乗せ、それも口に運んだ。


「おお。これも美味い」


 そんな駈堂の態度に輝虎も思わず毒気を抜かれたようだ。彼はおずおずと生ハムのサラダを口にすると呟いた。


「……食えなくはない」


 それは奴が初めて見せた安堵の表情であった。そんな様子を駈堂は憮然と眺めていたが、やがてこんなことを言い出したのである。


「さて、会長さん。食事もひと段落ついたところで。そろそろこの腐ったクソ野郎の話を聞くとしようじゃありませんか」


「うむ。そうだな。では、輝虎よ。話してくれんか。手始めにここへ来た本当の理由を。次いで都知事の桜井とはどのような関係にあるのかを」


 会長はそう促すが、当の輝虎は鮭のピティヴィエにフォークをぶっ刺しながらこう返すのだった。


「その前にひとつお伺いしたいのですがね……どうして教える義務があるんですか? 会長なら未だしも、関西ヤクザの三下なんかに」


 そんな奴の言葉に駈堂は鼻で笑った。


「ふん。何を言い出すかと思えば……この期に及んで馬鹿か、てめぇは。お前はこれから洗いざらい全てを話すんだよ!」


「んだとぉ!?」


 駈堂の一言に輝虎の表情が一変する。その反応を見て会長が笑う。


「はっはっはっ! 良いではないか!」


 そんな彼の言葉にも輝虎の表情は依然として変わらない。しかし、そんな奴に対して駈堂はさらに続けるのだった。


「まあ聞けや、クソ野郎。俺はな、本当なら今すぐにでもテメェを殺して東京湾に沈めてやりてぇところなんだよ。ここで手を出さないでやるのは、あくまでも恒元公の顔を立てての善意だってことを忘れんな」


「はあ? 『東京湾』だと? おいおい、そこは『神戸港』か『知多湾』と答えるべきところだろ……お前のその発言は煌王会が関東のシマを荒らしてたと認めることになるぜ? それって大問題だよな? ああ?」


 駈堂の言葉の揚げ足を取って責め立てる輝虎だが、そんな彼に会長は率直に尋ねるのだった。


「そういうお前はどうなのだね。弟との争いを優位に進めるべく、九州の玄道会を頼ったそうではないか。彼らを東京へ引き込もうとしているとの噂は事実なのか」


 いきなり核心に切り込んだ恒元。そんな彼の言葉に対し、輝虎はニヤリと笑う。


「まあ、そういう噂が立つのも無理からぬ話ですか」


「む? では、事実なのかね?」


 そんな会長の問いに輝虎はこう返すのだった。


「いいえ。ここのところ玄道会の井桁会長と連絡を取り合っていたのは事実ですが、あの人を頼ったことなんかありませんよ。ましてや東京へ引き込むなんざとんでもない」


 井桁との交流自体は認める一方、内通や寝返りの画策については真っ向から否定してのけた。そんな輝虎の態度に駈堂は苛立ちを募らせる。


「おい、コラ。与太ぶっこいてんじゃねぇよ。テメェは玄道の井桁と組んで汚ねぇシノギで儲けようとしてただろうが」


 そんな問い掛けに輝虎は鼻で笑った。


「ふんっ。何の話だか分らねぇな。尤も俺がどういう商売をしようと煌王会のお前さんにゃ関係ねぇだろ」


「とぼけるな! もう尻尾は掴んでんだぞ! お前が玄道会の兵隊を使って色んな土地で女を攫ってるってな!」


 そんな駈堂の指摘に輝虎は「チッ」と舌打ちする。どうやら図星らしい。


「む? 女を攫ってる? 輝虎、それは一体どういうことだね?」


 会長の問いに輝虎はこう答えた。


「いやあ。俺も詳しくは聞かされてねぇんですが。井桁会長が関西で何やらよからぬことを企んでるみたいで」


「ほう……しかし、どうしてお前はそれを知っているのだね? そもそも井桁会長とはどのような話をしているのだ?」


 その問いに輝虎が「軽い茶飲み話です。俺は食客だから勝手に他所の組織とつるむこと自体は問題無いはずですよ」と答えた直後。


「さっきからとぼけてんじゃねぇぞクソ野郎が!」


 横で聞いていた駈堂が、ついに怒りを爆発させた。輝虎の胸ぐらを掴んだ彼は凄まじい形相で睨みつける。


「都知事の汚職を利用して好き放題やってただろうが! こちとら証拠は握ってんだよ!」


「証拠だ? どういう証拠だってんだよ!? あるなら出してみろこの野郎!」


「この店にテメェが来たことが何よりの証拠だ馬鹿野郎! どうせここに居る桜井の口を塞ぎに来たんだろう! 何もかもがバレてんだよ!」


 しかし、駈堂の言葉に輝虎は意外な反応を見せる。どういうわけだろう。きょとんとした表情を浮かべたのである。


「は? ここに居る? 口からでまかせ言ってんじゃねぇぞゴラァ!」


「でまかせほざいてんのはテメェだろ! 本当は口封じで桜井を殺しに来たくせに! 顔に書いてあんだよ馬鹿野郎!」


 激しく言い合う2人。闇市場の件が恒元の知る所となるのを恐れて桜井都知事の口封じに来たのだろうと駈堂は追及する。だが、当の輝虎の反応は煮え切らないものであった。


「何だと……ここに桜井の野郎が居るってのか!?」


「ふざけんなよテメェ! 臭い大根芝居すんのもその辺にしとけゴラァ!」


 輝虎の胸ぐらを掴む駈堂に対し、会長が制止に入る。


「待て駈堂。少し落ち着くのだ」


「落ち着いてられますか!」


 一方、俺はどこか腑に落ちない思いを抱えていた。桜井都知事がこの店に居る事実を知らないとは。どういう訳だろう。


 てっきり輝虎は井桁の指示あるいは命令で桜井を消しに来たと思っていたが。違うのか。奴の表情からして知らないふりをしている様子ではなさそうだ。

 頭を回転させ、俺は率直に問うた。


「……輝虎」


「何だよ」


「お前、玄道会の井桁の下に着こうとしてるんじゃねぇのか?」


 先ほど恒元が既に訊いている質問。されど、もう一度だけ尋ねてみた。俺が抱いた仮説が正しいか否かを確認するために。


「ああ? だからさっきから言ってんだろ! 俺と井桁は組んでなんかいねぇよ! あんな田舎者の下に誰が入るか! いずれ俺は銀座の跡取りになる男だぞ! 馬鹿かテメェは!」


 その台詞で俺は確信した。己の立てた予想が正しかったことを。無駄にプライドが高くて、嘘が下手で、おまけに感情の起伏の激しい輝虎の青臭さが、全てを教えてくれた。


「……そういうことか」


「ああ!?」


「いや、何でもない」


 俺は輝虎にそう返すが、実のところは導き出せた答えに心を躍らせていた。俺が睨んだ通り、輝虎は玄道会の傘下に入ろうとしているわけではないのだと。その上、輝虎と井桁は俺が警戒したほど深い関係にはないらしいと。


 桜井がこの店に居る事実を知らなかったのが何よりの証拠。井桁と利益を共有する間柄でなければ、わざわざ桜井を討ちに来たりはしないだろう。尤も、輝虎にそんな度胸があるとも思えんが。


 しかし、そうなるとひとつ分からないことがある。一体どうして輝虎は今日この時を狙って高輪に来たのか?


 俺の考えを先回りするかのように恒元が問うた。


「輝虎よ、ひとつ尋ねるが」


 そんな彼に輝虎は「何ですか」と訊き返す。


「なぜお前は今日という日を選んで高輪ここに来たのかね? 桜井都知事の殺害を企んでいることもそうだが、それ以上にこのタイミングでの行動には何か理由があるのではないかと思ってね」


 その問いに彼はこう答えた。


「ああ。それはさっき申し上げた通りですよ。シマを荒らした不届き者を討つためです」


 けれども輝虎の答えを会長は一蹴する。


「馬鹿を言うな。そんな戯言に我輩が騙されると思うのか。偽りを述べるならもっと上手な口実を考えたらどうだね」


 今までの穏やかな表情から、みるみるうちに険しい顔つきへと変貌した恒元。しかしながら、輝虎はほんの一瞬たじろぐも、すぐに元の冷静さを取り戻して言葉を紡いだ。


「戯言じゃありません。俺はこの男を殺すために来たんですよ。出過ぎた振る舞いだとは分かっていましたが、それでもの余所者の跋扈を見過ごせなくて」


 中川会への忠誠心ゆえの行動だったとばかりに弁を振るう輝虎。まったく。先ほどは忠誠心なんか既に捨てたなどと抜かしていたくせによく言う。


 ただ、見事な言い逃れであることは確かだ。つい先ほども、輝虎は駈堂たち煌王会の人間が関東で暗躍していたことを問題提起しており、彼の行動論理自体は一貫している。無論、それは建前に過ぎないが、俺たちの尋問を躱すに十分だった。


「……それじゃあ、お前は本当に駈堂を討ちに来ただけだってのか?」


「そうだ。そしたらたまたま会長がいらっしゃった。まさか都知事とお食事中だったとはな。驚いたぜ」


「けっ」


 舌打ちした俺に代わり、恒元は輝虎をじっと睨みつけて問いかける。


「では、その情報は何処から得たのだ?」


「と、言いますと」


「我輩が高輪ここに居るという情報だ。この件に関しては執事局と酒井組、原田一家にしか伝えておらず、いずれも口止めをしてあった。よもや彼らの内の誰かから聞いたとは言うまいな?」


 少し声のトーンを上げて問い質した恒元。その迫力は輝虎を一瞬だけ怯ませた。しかし、聞かれることを予測して前もって答えを用意していたのか返事はすぐに飛んできた。


「たまたまこの辺りに居た輝虎派うちの人間が見たそうで。ほら、会長に何かあったらいけないじゃないですか。ってなわけで東京中を巡回させてるんですよ」


「そのようなことを頼んではいないぞ。自分は忠誠心に溢れているとでも言いたいのか。では、何故に先ほどは我輩に銃を向けた!?」


「会長に向けたわけじゃありません。恒元公の後ろに居た忍者もどきが俺に手裏剣投げようとしてたので。つい、反射的に銃を構えちまいまして」


 のらりくらりと質問を受け流す輝虎。これには恒元はおろか、傍で聞いていた駈堂もまたすっかり呆れ返ってしまった。けれども会話の筋は通っているためにそれ以上は尋問のしようが無い。


 俺は思った。このままではまずい。輝虎から闇市場とその他諸々のことを聞き出すつもりが、完全に奴のペースに呑まれてしまっている。


 ひとまず頭を整理してみる。


 輝虎は闇市場のことについては知らぬ存ぜぬを貫き通すだろう。そもそも現時点では証拠に乏しい。桜井都知事の証言しか証拠が無い上に、恐怖でおかしくなった都知事がまともに喋れる状態ではないのでこの場に彼を登場させるのは不可能と考えるべき。


 第一、都の事業に輝虎がフロント企業を介して絡んでいた件も「まっとうなシノギの一環だ」と主張されてしまえばそれまでだ。


 ゆえに、ここで直接闇市場について質すのは断念せざるを得なかった。


 しかし、引き下がるわけには行かない。どうにかして輝虎から情報を得ねば。有益な話を少しでも引っ張り出したかった。


 何の成果も無しに帰るなど許されない。


 そう思った時、俺はふと己の本懐が頭に浮かんだ。執事局次長として恒元に仕えること以外に、俺には為すべきことがもう一つあった。


 秀虎を銀座の後継者争いで勝たせること――。


 ああ。そうだ。すっかり忘れていた。己の美学のためにはそれが欠かせないのである。俺は輝虎に向き直ると、彼にこう切り出したのだった。


「輝虎」


「何だ?」


「例の件はどうなったんだよ。お前、外相の真島と親しかったよな。その真島とつるんでひと儲けしようとしてたシノギは上手くいったのかよ」


 俺の問い掛けに輝虎はふんと鼻を鳴らす。


「は? 知らねぇよそんなことは」


 彼の反応は全て想定済み。何故ならこれはデタラメの話なのだ。恒元が少し驚いた顔で俺を見つめるが、構わず奴に続けた。


「そうかよ。まあ良いや。ところでお前は外務省のODA事業を知ってるか?」


「あ? ああ……名前くらいはな」


「そうか。知らないはずが無いよな。つい最近もニュースになったばかりだ。インドのインフラ整備に協力していたんだが、最近になって現地の業者との癒着が発覚して問題になった件とかな」


「何の話をしてやがる?」


「何って。時事問題さ」


 俺は輝虎にそう語りつつ、頭の中で話の流れを組み立てていた。もちろん全てデタラメだ。しかし、俺の中には確かな餌があった。


 目の前の男に揺さぶりを仕掛けるための餌が。


 無論、付け焼刃の会話をこのまま延々と続ければいずれボロが出るだろう。だからその前に輝虎を食い付かせたい。何としても。


「まあ、それはさておき、実はここへ来る前に思い出したことがあってなあ。輝虎。眞行路一家おまえんところの『ゲンダイエレクトロニクス』って会社、数年前から東欧で鉱山採掘の仕事をしてるんだったよな」


「ああ。それがどうした」


 俺の問いを肯定する輝虎。よし、食い付いた。俺は心の中でほくそ笑むと、いよいよ本題に入った。


「その事業は外務省の下請けだったよな」


「そうだが……何でお前が知ってやがる?」


 訝しげに俺を見つめる輝虎に対し、俺はこう言ってやったのだった。


「そりゃあ知ってるさ。何しろ俺は元傭兵で一時期東欧に居たもんだからな。『ゲンダイエレクトロニクス』って会社の仕事ぶりを間近で見ている」


 そう言った直後、輝虎の表情がはっきりと変わった。


「は? お前、何言ってんだ?」


 そんな反応に俺はさらに続ける。


「だから東欧に居たと言っている。エウロツィア共和国。アララト地方に数か月ほど滞在していたことがあるんだ」


 そして俺は眉間に皺を寄せる輝虎に言い放った。


「お前んとこの会社がやってるアララト山での天然資源採掘事業。知らねぇとは言わせねえぜ」


 その一言で輝虎は全てを悟ったようだった。凄まじい勢いで俺の胸ぐらを掴んで吠える。


「テメェ……何を知ってやがる!?」


 完全に上手く行った。頭の片隅にあった知識を利用してかまを掛けたら、清々しいまでに引っかかってくれた。俺としては奴をこちらのペースに巻き込むことこそがねらいだ。


 ああそうだともと俺は心の中で頷いた。しかし、表には出さない。淡々と会話を続けるだけだ。


「おいおい。落ち着けや。俺はただ、お前の会社を知っていると言っただけじゃねぇか」


「テメェ! 何を知っている! あの国で何を見たってんだゴラァ!」


 我を忘れて怒り狂う輝虎をよそに、俺は続ける。ここで一旦解説を挟んでおかないと恒元が訝しむだろうからな。


「エウロツィアでの天然資源採掘は外務省と民間企業が共同で進めている事業です。しかし、その鉱山から産出される鉱物資源は全て国内需要には満たず、日本企業の買い手は一切つかない。それをいいことに奴らは採れた鉱物を現地軍閥や過激派ゲリラに……」


 そこで輝虎が大声を上げた。


「ぬわああああああっ!」


 俺の声を遮るように。俺は勿論のこと、聞いていた恒元や駈堂も驚きを隠せない。


「おい輝虎。どうしたというのだね」


 恒元がそう問うと、輝虎ははっと我に返ったような表情を浮かべてこう答えた。


「い……いや、何でもありません。少し取り乱しちまいました。へへっ」


 そんな彼の態度に恒元は訝しむ。


「本当に何でもないのか? ならば良いのだが……」


 しかし、俺は見逃さなかった。一瞬だが、彼が顔を曇らせたのを。そしてそれは俺の言葉に対する反応だったことを。


「輝虎。お前よぉ。本当は知らねぇんじゃねぇのか」


「なっ、何がだ」


自分てめぇんとこのフロント企業が東欧で何をやっているのか。ろくに知らねぇんだろ」


 俺の問い掛けに対し、輝虎はあからさまに動揺する。


「ば……馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ! そんなわけねぇだろうが!」


「だったらどうしてそこまで過剰に反応した?」


 そう返すと、輝虎は言葉に詰まった。そしてしばしの間を置いてからこう答える。


「……何でもねぇよ」


 俺は心の中でまたもほくそ笑む。上手く乗せられてくれたと。輝虎は俺に弱みを握られていると思い込んだのである。


 眞行路一家のフロント企業『ゲンダイエレクトロニクス』の不正の話。本当のところ、前述の行為をはたらいていたのは別の企業であって同社ではない。これは輝虎の精神的動揺を誘発するために俺が仕掛けたハッタリだ。


 しかし、その過程で面白いことに気付いた。奴は傘下のフロント企業の事業についてあまり詳しいことを知らないようなのだ。詳細まできちんと把握していないというのが適切な表現だろうか。


 ゆえに奴は乗せられた。俺のでまかせを鵜呑みにしたのだ。ODA事業で不正を働いている噂が広まるのはまずいと思ったのだろう。


 ならば、あの件についてはどうだろうか……。


 そんな可能性を念頭に置きつつ、彼を輝虎を見据えてさらに続けた。


「仮にも役所のカネを使ってやってる事業だぜ。いくらお前が極道だからって、事実上の経営者が詳細を知らねぇのはまずいだろ。その様子じゃあ他にも知らねぇことが沢山ありそうだな」


「う、うるせぇ! 黙れ!」


「例えば都の事業。『貧困児童救済計画』だっけ。お前があれに参画するために起こした会社の連中が暴走して人攫いを働いてる……ってのも知らされてねぇかな」


「黙れ! それ以上喋るんじゃねぇ!」


「へっ。図星かよ。お前の元には、たとえ現場の連中がハネようと報告が上がって来ない。だから『貧困児童救済計画』と銘打たれた慈善事業を隠れ蓑にした闇市場の存在も知らねぇときた。そういうことだろ? ああ?」


「黙れっつってんだろ!」


 輝虎は吠えるが、俺は構わず続けた。


「要は子分どもに舐められてるんだよ。お前は」


 俺のこの一言で輝虎は完全にキレた。顔の血管が浮き出るほど激昂し、俺の胸ぐらを摑む。


「ふざけんじゃねぇぞゴラァ! さっきから聞いてりゃあ好き放題言いやがって!」


「おいおい。俺はただ事実を言ってるだけだぜ」


「事実だと? 何が事実だ! この俺が下の連中に舐められてるだと? そんなわけねぇだろうが! 適当なこと言ってんじゃねぇ! 殺すぞ!」


 そんな輝虎に恒元が割って入った。


「落ち着きたまえ輝虎よ。少し落ち着くのだ」


 しかし、彼は止まらない。俺を睨みつけたままこう叫んだのだ。


「都の事業はこの俺が自ら桜井にかけ合って始めさせたもんだ! 何もかも知ってんだよ! 下の連中も俺の命令無しじゃ動かねぇ!この俺がこそが全ての支配者なんだよ!」


 全ての支配者という滑稽な表現はさておいて、俺の作戦は功を奏したようだ。輝虎はボロを出した。『舐められている』という彼自身にとっての最大の禁句を耳にしたことで頭に血が上って冷静さを欠き、隠すべきことを自ら口走ってしまったのだ。


 まったく。輝虎め。キレやすく、乗せられやすいのは相変わらずか。少しでも計算外の事が起これば、すぐに精神的に動揺して醜態を晒す間抜けぶり。それも戦争が始まる前に比べて拍車が掛かっている。おそらく奴は不安なのだろうな。今のところ戦況は輝虎派優位で進んでいるにかかわらず、未だに秀虎を討ち取れずにいるのだから。むしろ焦っているのだろう。


「っ……っ……」


 ふと輝虎の顔をじっと眺めてみると、唇は割れて額には汗が浮かんでいる。なるほど。この様子では不安に駆られて覚醒剤シャブにでも手を出したか。


 ならば、ますます乗じやすいというものだ。俺は更に煽り立てるように詰問をぶつける。


「へぇ、全てを仕切ってる!? だったらどういう命令を下してるってんだよ! 言ってみやがれ!」


「うるせえ! 黙れ! 俺を舐めるんじゃねぇぇぇ!」


 そう叫ぶと輝虎は俺の胸ぐらから手を離す。何を錯乱したか。奴は俺の予想のはるか斜め上を行く答えを言い放ったのだった。


「俺は狗魔をもアゴで使う男だぞ! 俺に盾突くとなりゃあ、千は超える数のヒットマン集団が敵に回るぞ! それを分かって喋ってんのかコラッ!?」


 俺は思わず呆気に取られた。狗魔。まさか、あの中国系マフィアの名前を聞くことになろうとは。


「狗魔だと? お前はそいつらと組んでるのか?」


「組んでるなんて甘っちょろいもんじゃねぇ! 奴らは俺の兵隊なんだよ!」


「な……何!?」


 俺は輝虎の言葉に耳を疑った。狗魔とは中国系マフィアの中でも特に名の知れた組織だ。その構成員数は千を超えるとさえ言われる。


 彼らを手下に従えているだと?


 そんな馬鹿なことがあるか。


 いや、待てよ。考えてみれば、有り得なくはない。今の輝虎には、人身売買闇市場という巨大な利権があるのだ。


 それを餌にちらつかせれば狗魔を釣ることなど容易ではないのか。何せ、7年前に村雨組に敗れて以来、奴らは資金窮乏状態。食うに困った中国系マフィアたちがカネ目当てで輝虎の傘下組織に成り下がったことは十分に考えられる可能性だ。


 俺の知る限りにおいて、輝虎は戦争が始まる前より遥かに力を増していた。それもこれも全て狗魔を事実上傘下に置いたからだと考えれば、十分に辻褄が合う。あまりにも予想外の事実にひどく驚いたのか、恒元と駈堂は顔を見合わせていた。


 狗魔日本支部を傘下に置いているとなれば、玄道会の井桁が輝虎に遠慮するのも頷ける。てっきり利権の旨味ゆえに下手に出ているのかと思っていたが、相手が凶暴なマフィアを従えているのなら対等な合一という不利な話でも呑まざるを得なくなる。輝虎側からすれば、敢えて玄道会に降る必要も無いわけだ。


 そういうことだったか。今までの不遜な言動もようやく納得できた。他人の力を借りて自らの力と思い込むのは何とも奴らしい。


 気を取り直して俺は輝虎に尋ねる。


「……ほう。そりゃすげぇな。じゃあ、お前は連中の兵隊をいつでも自由に使えるってわけか?」


「そうだ! 奴らは何でも言うことを聞く! 例えば今ここで俺が『麻木涼平を殺せ』と奴らに電話をすりゃあ、たった数分でヒットマンが送り込まれてくるだろうぜ!」


「ほうほう。そりゃあすげぇな。大したもんだぜ、お前は」



 そう答えた直後、奴は今一度俺の胸ぐらを掴んでこう叫んだ。

「だから舐めた口きいてんじゃねぇぞコラァ! この俺の下には今や六千の兵隊が居るんだよ! 下手な態度取ってると血祭りに上げちまうぞ!」


 本人としては恫喝しているつもりなのだろう。しかしながら、俺は思わずほくそ笑んだ。まさか自分の口から種明かしをしてくれるとはな。


「……へっ。あの玄道会が遠慮するわけだな」


「ほざけや! 玄道会なんざ屁でもぇよ! いずれこの俺は弟を殺し、銀座を手に入れ、数万の兵を支配下に置き、中川会をも超える力を手に入れてやるんだ!」


「ご立派なこって」


 頼んでもいないのに語られた壮大な計画に、俺は苦笑する他なかった。尤も、笑みを浮かべていたのは俺一人ではない。傍らで聞いていた恒元もまた、輝虎の話にほくそ笑んでいたのだった。


「そうか。よくぞ話してくれたな。されど今の言葉を御七卿の親分どもが聞いたら、何て思うだろうなあ」

 その台詞に輝虎の表情が変わる。ハッと我に返ったような顔つき。無理もない。


「うむ、輝虎よ。中川会うちの直参たちが中国人どもに悩まされているのは、お前も知っていよう。自分が苦労してマフィアを押さえ付けている中、眞行路一家の若造がその憎き敵と親密な仲にあると知ればどうなるだろうか」


「あ……いや、それは!?」


「少なくとも、理事の親分衆からは総スカンだろうな。今までお前の味方をしていた連中は悉く離れ、秀虎の側に付くかもしれん。狗魔の日本支部を傘下に入れて喜ぶ気持ちも分かるが、肝心の銀座を弟に奪われては元も子もないだろう」


 輝虎が「しまった」という表情で歯噛みする。中国系マフィアとの密通はそれだけで親分衆の不興を買う行為。狗魔を味方に付けたからとはいえ、中川会の直参全てが敵に回れば安心はできない。


「狗魔だって、お前が銀座とその利権全てを手中に収めているから味方に付いているようなもの。お前が父親から受け継いだ富と権力を弟に奪われるようなことがあれば、奴らはすぐさまお前と手を切るぞ」


「……っ!」


 輝虎は苦い顔のまま項垂れた。そして小声で「俺を嵌めたか」と呟くのだった。そこへ駈堂が不敵に笑う。


「他人を利用することばかり考えてるからそうなるんだよ。未熟者が」


 そんな痛烈な批判を聞き流し、己の置かれている立場を悟ったのか、奴は俯いたまま恒元に問うた。


「……俺は何をすれば良いんですか」


 先ほどはハッタリだったが、今は違う。この瞬間に俺たちは輝虎の弱みを完全に握った。それによって奴はこちらの要求を何でも呑むしかない局面に置かれた。


「そうだな。どうすれば良いかねぇ」


 鼻で笑いながら、恒元が覗き込んだのは俺の顔だ。


「会長?」


「涼平。お前ならどうすれば良いと思うかね。この身の程知らずの不届き者にどんな裁きを下してくれようか」


 恒元はじっと俺の顔を見ている。おいおい。俺に振るのかよ……どうしてこの場面で俺に……。


 この人の考えることは毎度のことながら分からない。俺は呆れてため息をつきたくなった。しかし、逆手に取って考えてみれば好機とも思える。自分の考え、すなわち理想を具現化するまたとない好機。おそらく恒元としては、俺の考えが自分の思慮にそぐうか否かを見極めようとしているのだろうが。せっかくの機会である。遠慮なんか止めておこう。


「そうですね」


 俺は少し考えてから答えた。


「とりあえず、こいつには色々と誓紙を書いてもらうことにしましょう。銀座での戦争、こいつが少し優位に立ちすぎているような気がするので」


 一体、如何なることを考えたか。俺の提案に恒元は暫し沈黙する。腕を組み、じっと俺の顔を眺めた。


「……なるほどな」


 そう呟くと、彼は少し間を置いてからこう答えるのだった。


「良かろう。詳しく聞かせてくれたまえ」


「ありがとうございます」


 俺が恒元に具申したのは戦時協定の確立だった。輝虎派と秀虎派、銀座における眞行路一家の後継者争いに一定のルールを設け、双方ともに遵守させる。そうすることで争乱の火の粉が取り返しのつかない領域にまで降りかかる展開を防ぐというねらいだ。


 これは輝虎と秀虎の兄弟喧嘩をあくまで己の管理下に置いておきたい恒元の意向にもそぐう。会長はこの案を快諾してくれた。


「それで? 内容は?」


「考えてます」


 まず、輝虎派と秀虎派がそれぞれ持つ東京都外のシマについては「互いに不可侵」とする。つまり戦争中は立ち入り禁止ということだ。これは戦乱の累が他組織や無関係な一般市民に及ぶことを極力防ぐためであると同時に、奪い合う領地の総量を予め決めておくことで陣取り合戦をさっさと終わらせる意味もある。


 次に武器の使用についてだが、ガトリング速射砲やバズーカ砲といった「1分間に100人以上の人間を殺傷できる重火器」は互いに使用禁止とした。こちらも一般人の被害を極力防ぐというのが建前だが、武器弾薬に乏しい秀虎派が被る不利な状況を覆すのが俺の意図だった。


 そして最後は部外者の介入。これについては輝虎あるいは秀虎と「盃を交わした者」以外は介入を固く禁じた。本当は全面的に禁じたかったが、より多くの組織が巻き込まれる展開を恒元が理想としているために折れざるを得なかった。


 助勤に紙と万年筆を用意させ、以上の内容を記した誓文を輝虎に突き付けると、奴は渋い顔をした。


「おいおい……これじゃあ秀虎の方が有利じゃねぇかよ……」


「そうでもしなきゃフェアじゃねぇだろ。嫌ならそれで良いんだぜ」


 呑まなければ狗魔との関係を公開するだけだ。そう脅すと、輝虎は渋々ながら誓紙を受け取った。


「分かったよ……ったく、しゃーねぇな」


「じゃあ、ここにサインしてくれ」


 俺が差し出した万年筆で署名する輝虎。その傍らでは恒元がじっとその様子を見ていた。そして彼は俺の耳元でこう囁くのだ。


「お前は分かっておるな。実によくできた腹心を持ったものだよ」


「いえ、別に」


 恒元が満足しているから良しとするべきか。けれど、彼は見抜いたであろう。本来は中立の立場を守るべき執事局次長の俺が内心では秀虎を推していることを。


 無論、それについては輝虎にも見抜かれている。

「麻木次長。どうしてそんなにお前さんが秀虎に肩入れするのか、俺には分からねぇぜ。あんな理想家の甘ちゃんの何処が良いんだよ」

「何を言ってやがる。お前らの争いが変な方向に及ばねえように規範を設けただけだ。くだらん邪推は止めてくれ」


「へっ……あの愚弟は俺なんかよりよっぽどクズだってのにな……まあ、良い。秀虎を殺しちまえば何もかも済む話だ。すぐに片を付けてやるよ」


 そう言って輝虎は誓紙にサインした。恒元はそれを受け取り、懐に収める。


「じゃあな。また会おうぜ」


 そう言い残し、奴は俺たちの前から立ち去ったのだった。


「ったく。あの野郎を殺せねぇのが残念でなりませんね。奴を野放しにしてたんじゃ、いつまた新たな被害が出るか分かったもんじゃないってのに」


「同感だ。しかし、それについては中川会うちの方で何とかする。駈堂よ。此度はよくぞ折れてくれたな。感謝するぞ」


「いえいえ。恒元公。あんたの顔を立ててのことですよ。こっちが先に働いた非礼を許してくださった上にご慈悲まで助けて頂いたとありゃあ、折れる他ないでしょう。それに……」


「それに?」


「……若い頃に背中を追いかけた男の息子と会って、腹を割って話ができたんだ。それで良しとしたい」


「ふっ。そうか」


 駈堂は、その顔に晴れ晴れとした笑みを浮かべながら俺の肩を軽く叩いた。俺は少し照れ臭くなって頭を掻いたのだった。


「じゃあな。涼平。親父さんに負けねぇよう、良い男になれよ」


「うるせぇよ。親父は親父、俺は俺だ。馬鹿野郎」


 軽口を叩き合った後で駈堂も去って行った。輝虎派に殺された組員の死体処理などは全て緒方組で引き受け、桜井都知事の処遇に関しては恒元に一任するという譲歩まで残して。


 一方、東京に在る煌王会の秘密拠点の撤去については「自分はもう煌王会の人間ではない」という理由で固辞した。見事な逃げ口実だ。自分が認めてしまえば煌王会が東京に侵入していた事実を認めることになるのだから。


「実に食えぬ男だ。都知事をどうするか決めたら、さっさとケリを付けなくてはな」


「ええ」


 それから数十分後、店には連絡を受けた淑恵がやって来た。秀虎派サイドの代表者として、戦時協定に調印させるためだ。昔気質な母親は自分たちに何の相談も無しに規範が設けられたことに憤慨しているかと思いきや、意外と素直に受け入れてくれた。


「まあ、良いんじゃないのかい」


 そう彼女は言った。


「あの馬鹿息子にも少しは考える頭があったってことさね。それにあんたも色々と思うところがあるんだろ?」


「それは……」


 俺が口ごもると彼女はにこりと笑った。


「だったら文句は言わないよ。あんたの好きにやりな」


「……すまねぇな」


 俺は頭を下げた。そこへ便所へ行っていた恒元が戻ってくる。彼は淑恵の姿を見つけると、すぐさま歩み寄ってきた。


「淑恵! 久しいな! いつ顔を合わせても綺麗だな、お前は!」


「ふん。そういうあなた様は相変わらず胡散臭いですね。ともあれこうして膝を付き合わせて話すのは久々でございますね、恒元公」


 恒元は淑恵の隣に腰かけると煙草に火をつけた。そして、その煙を吐き出す。


「で? 秀虎はどうかね?」


「少しは親分としての気概が備わってきました。まだまだ未熟で頼りのうございますが、あの子なりに努力しているのですよ」


「ほうほう」


 淑恵は近頃の銀座での暮らしについて語った。ドンパチの真っ最中で気の抜けない時間が続いているとはいえ、それなりに楽しくやっているようだ。恒元は興味深そうに彼女の話を聞いていたが、やがて大きく笑ったのだった。


「そうか! ならば良い!」


「恒元公も意地汚い。あなた様がさっさとうちの子を銀座の跡取りとお認めになっていれば、こんなことにはなっていないというのに」


「ふふっ。良いではないか」


 恒元は愉快そうに笑ったが淑恵は彼を睨みつけるばかりだった。まあ、当然の反応と云えるわな。俺は苦笑を堪えるのが大変だった。


「さて、ここに秀虎の名前を書けば良いんだね」


 一通りの世間話を終えた後で、淑恵は書面に目を向けた。そしてペンを取る……が、そこで彼女は手を止めた。


「どうした? 何か問題でも?」


 恒元が問うと、彼女はこう答えた。


「いえね、本当なら秀虎が書かなきゃいけないもんだと思ってね」


「ああ。まあな」


 俺は少し笑った。確かにそうだ。本来なら秀虎が輝虎との取り決めに署名するべきだろう。だが、奴はここには居ない。おそらくは淑恵が置いてきたのだろう。敵の大将と鉢合わせする可能性を考えれば、そうする他ない。


「まあ、良いではないか。代筆でも構わん。実のところ組を仕切っているのは君なのだからね」


 恒元は淑恵の手をギュッと握りしめた。すると彼女は大きくため息をついた。


「全く……あなた様ときたら……」


「はははっ! いやな? こうでもしないと君に会った甲斐が無いのだよ。綺麗な君とね。手くらい握らせてくれたまえよ」


「馬鹿なことを仰りますね」


 ああ。分かったぞ。二人はそういう関係か。色恋とはまた違う、体ばかりの間柄というやつだ。俺が男色の相手として弄ばれている状況と似ているな。一体、恒元にはそういう相手が如何ほど存在するのだろう。俺はこみ上がるため息を全力で堪えるばかり。


 しかし、淑恵は呆れつつも、どこか嬉しそうである。


「うふふっ……」


 おいおい。何だこの表情は。こんなにも女っぽい顔をする淑恵の姿を初めて見た気がするぞ。


 そんな彼女は恒元に優しく笑いかけると、ペンを取ってそこに秀虎の名前を署名。そしてそれを恒元に返して寄越す。恒元はそれを受け取った後で懐に収めたのだった。


「これで良いですか?」


「うむ。ありがとうな」


 淑恵は頭を下げると、そのまま店を出て行った。恒元は煙草の煙を吐き出す。そして俺に向かってこう言ったのだった。


「さて。我らも帰るとしよう。都知事を拉致した噂が広まる前に手を打たねばならん」


「はい。そうしましょう」


 そして、俺たちは赤坂の総本部へと戻るのだった。


 2005年3月25日。


 この日、東京都港区高輪に玄道会の井桁を呼び出して暗殺するという俺の計略は見事に崩れた。井桁は最後まで姿を現さないまま。こちらの動向に気付いているのか、否か、気配すら漂わせることが無かったあの男の存在が不気味で仕方なかった。


 なお、都知事の桜井は職務を続けることになった。これは中川恒元が奴の現時点での排除を見送ったためである。「今度同じことをすれば暗殺する」との条件付きで。


 恒元にあれだけ弱みを握られたのだ。もう桜井は彼に二度と逆らえまい。桜井が掲げていた地方自治法首都条項の廃止はお蔵入りになり、政治家としての後ろ盾は煌王会から中川会へと元の鞘に収まる格好となったわけだが、おそらく、今後は傀儡としての日々が待っていることだろう。


 その日の晩、俺は『Café Noble』で華鈴とグラスを傾け合った。


「……お疲れ様」


「お疲れさん」


「上手く行かなかったね」


「ああ」


 鬱屈な空気に包まれる俺たち。狙っていた井桁の暗殺は成せないまま。奴に弱みを握られている状況も変わりはしない。


 されども俺はひとつの楔を打ち込んだ。それは輝虎および井桁に「このままでは煌王会とも揉める流れとなる」という印象を植え付けたこと。


 駈堂が偽装とはいえ破門中の身であることは事実。けれど、煌王会の橘威吉が奴に激怒していることに変わりはない。駈堂の破門は遠からず撤回されよう。東京の秘密基地も煌王会は変わらず占有し続けるだろう。すなわち彼らの怒りを買った輝虎はいずれ煌王会と全面的に事を構える流れになるということだ。これは奴と組む玄道会にとっても由々しき事態のはず。


 これから中川会に戦争を仕掛けようという時に煌王会とまで揉めれば、彼らは挟み撃ちを食らったも同然だからだ。


 無論、これで玄道会が東京進出を諦めるとは思えない。されども一連の件は輝虎を通して確実に井桁の耳へと入り、ある程度の抑止力となってくれるはず。


「でも、あたしらが弱みを握られてることに変わりはないんじゃない? 輝虎がマフィアと組んでいる以上は煌王会にとっても十分な脅威だと思うし……」


 玄道会は関西と揉めることを厭わず東京へ侵入してくるだろうと不安がる華鈴に俺は言った。


「いや、そうはならねぇ。戦時協定がある以上、輝虎は中国人の戦力は使えない。いくら井桁が野心家だからって、合流する相手くらいは選ぶだろうぜ」


「ああ。そっか」


 華鈴は納得したような声を上げたが、その表情にはどこか憂いが残っている。俺はその理由に思い至った。


「このままじゃ終わらせねぇさ」


「う、うん……でも、今回来なかったってことは……」


「大丈夫だ」


 少し肩を落とす華鈴を安心させるかのように、俺は笑ってみせた。以前のような焦燥の念は不思議と消えている。きっとそれは自分が前進している自覚があるからだろうか。


 今日は誤算の連続だった。来るのが井桁ではなく輝虎だとは予想もしていなかった。だが、おかげで奴に戦時協定に署名させることと相成った。


 そんなこんなで収穫は勝ち取ったが、厄介な状況が依然として続いているのもまた事実。


 俺と一緒に井桁を討つつもりだった華鈴は肩透かしを食らった。恒元も依然として九州への報復侵略を考えている。そして銀座の戦争は未だ継続中だ。


 それでも俺は前に進んでいる。そう信じて、明日に向けて気合いを入れ直す。未来のことなんか何一つ分からないのだから。


「……まあ、また上手くやってやるさ。きっと大丈夫だ。 何とかなる」


「そうだね。あたしたちきっと何とかなるよね」


 華鈴は笑った。その笑顔には陰りが見えない。俺が前進していることを彼女も感じ取っているからだろう。今の俺たちなら大丈夫だと、そう確信できるのだった。


 2005年3月31日。


 かくして迎えた約束の期日。されども特に何も起こらなかった。高輪割譲の要求を呑んでやると玄道会側へ連絡を入れなかったわけだが、奴らが攻め入ってくることもなかった。


 拍子抜けだ。


 そう思った。けれども油断はならない。


 井桁久武という男は狡猾だ。


 おそらく奴は俺が要求を呑まないことを予想していたのだろう。あるいは要求が突っぱねられてからが本番だと前々から考えていたのかもしれない。


 いずれにせよ、奴には「中川会から領土を奪える」という確信があるのだ。だからこそ危険を承知で東京に姿を現したのだろう。


 輝虎と組んだ理由も眞行路一家のお家騒動に乗じて東京に足掛かりを築くのが狙いだろうが……。


 それにしては奴の行動が消極的に思えるのは何故か。しかし、この期に及んでは考えても仕方ないな。俺は頭を切り替えたのだった。


 とりあえずは戦時協定を設けた。これで井桁が銀座に直接干渉してくる可能性は少なくなった。眞行路一家との対等合一を拒む彼が輝虎の盃を呑むとは思えないからだ。


 しかし、この時の俺は考えてもいなかった。自分が主体となって作り上げた『高輪戦時協定』が、後に眞行路兄弟の熾烈な争いをさらに熾烈な方向へ導いてゆくことを。

井桁を討つ狙いは達成できずに終わるも、銀座の後継者争いで秀虎が挽回するきっかけを作れた涼平。しかし、事は思い通りに上手く運ぶのか……? 次回、新たな展開!

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