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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第12章 銀座継承戦争
200/261

開戦

 2005年1月3日。


 この日、俺は赤坂の中川会総本部の寮で朝から過ごしていた。世の中はお正月ムード一色で、テレビでは新年恒例ともいうべき大学駅伝を中継している。


 ブラウン管の中では大学生ランナー達が走っている。


 沿道からの声援が途切れることなく続き、ランナー達はその声援を力に変えて走る姿はまさに稲妻。疾風の如しであろう。


「大したもんだよ。まだ正月だってのにご苦労なこったな……」


 俺はそう呟き、リモコンのスイッチを押してテレビを消した。


 一昨日から寮の自室に籠って食っちゃ寝の生活を続けてきた俺であるが、このようにゆったりと新年を迎えるのは実に久々のこと。つい前年までは傭兵として異国を流浪していたため正月という正月を過ごした気がしなかったのだ。アフリカや東欧で過ごす正月より日本で過ごす正月の方が良い。


 ふと時計に視線を向けると13時32分。起きてすぐにテレビを付けて以来ここまでぐうたら過ごしていたせいで、昼飯を食べていなかった。


「……何か食うか」


 少し眠くなった体に鞭を打って俺は椅子から立ち上がり、自室のキッチンへと向かう。いつもなら別宅の食堂で会長の残り物を食べる俺だけれど、会長は家族と旅行に出かけてしまっている。


「何か簡単に食えるもんあったかな……」


 冷蔵庫を開けて中を覗く。とはいえ普段からまったく料理をしない俺なのでまともな食材が入っているわけもない。こんな時、華鈴だったらどんな料理を作ってのけるんだろうか……。


 ちなみに彼女も彼女で旅行中である。父の雅彦氏と2人で岐阜の温泉地に出かけると言っていた。そのため『Café Noble』は5日まで店休だ。


「う~ん、やっぱりこれだよな……」


 俺が手に取ったのは大晦日、華鈴の店から総本部に戻る帰路にコンビニで大量購入したカップラーメン。総本部専属の料理人や女中たちも帰省するということで「もしや」と思い買っておいたのだ。それは実に的確な選択だった。


 案の定、俺は年明けから3夜連続でカップラーメンを啜る不摂生極まりない正月を送ることになった。年末年始は店も休みで出前を取ることもままならない。その上で自炊も難しい俺が食えるものといったら必然的にこのような食品ばかりなのだ。


「はあ。これで3日連続か。さすがに飽きてきたぜ」


 お湯を入れてから5分経過してもまだ柔らかくならない麺を啜りながら、俺は呟く。やはり自炊は大事だと痛感させられる。まあ、調理自体は傭兵時代に習得済みなのでやろうと思えばできるのだが、如何せんやる気にならない。


「ごちそうさん」


 麺を食べ終えてスープを飲み干すと俺はカップラーメンの容器をゴミ箱に捨てる。そしてそのまま一人掛けソファに倒れこんで眠りにつくのだった。


 それからどれくらい時が経った頃だろう。テレビの前に置いてあった携帯が、けたたましく鳴り始めた。


「……ん?」


 携帯に手を伸ばし、通話ボタンを押す。そこで俺が思わず「えっ!」と驚いたのは電話の主が酒井だったからだ。


『もしもし、次長!?』


「ああ、酒井か。どうした」


 確か彼は実家の酒井組に帰省中のはず。それにしては電話の向こうが何とも慌ただしい……と思った時。部下は想定外の話を切り出してきた。


『喧嘩です! 恵比寿駅の前で男たちが揉めてます! そいつら、互いに眞行路一家の連中のようです!』


 自然と声が裏返る。


「なっ!?」


 眞行路一家は輝虎と秀虎の兄弟が絶賛睨み合いの真っ只中であるも、よもやこの正月から揉めるとは。おまけに場所は直参『酒井組』領の恵比寿駅前という。色々と分からないことはさておいてひとまず状況を確認する。


「眞行路一家? 輝虎派と秀虎派か? 駅前のどの辺りで何人くらい揉めてるんだ?」


『はい。新橋から来た輝虎付きの幹部が銀座の若衆と鉢合わせたようです。東口の噴水広場のところです。今、酒井組うちの若い衆で何とか割って入ってます。次長は……』


「分かった。すぐに行くさ」


 俺はそう言うと携帯を切ってソファから立ち上がる。そしてクローゼットに歩み寄るとスウェットからスーツに着替え、ハンガーに掛かっていたコートを手に取る。これは前月に買ったばかりの新品だ。


「さて……行くか」


 6分ほどで身支度を整えた俺は玄関に向かう。正月ということもあって助勤たちは軒並み帰省中で、執事局の中で総本部詰めは俺を含めて帰れる実家を持たぬ男たちという有り様。しかも大半が会長の家族旅行に随行して総本部には居ない。


 それゆえ車は俺が自らハンドルを握らねばならなかった。仕方なく自らエンジンをかけ、新春の首都高を飛ばすこと15分。


 恵比寿駅に到着した。


「あっ、次長! こちらです!」


 車を降りてすぐに酒井と合流。彼に誘導される形で現場へと向かった俺は、そこで初めて想像の斜め上をゆく光景と出くわした。


「……!?」


 絶句する俺。以前に華鈴と訪れた噴水広場で、スーツ姿の男たちが睨み合っている。その数はやたらと多く互いに30人前後は居そうだ。


「何があった?」


「それがですね……」


 酒井の話によると事のきっかけは実に単純なものだった。


 この恵比寿界隈で遊んでいたと思しき秀虎派の組員らが駅から出てきた輝虎派とばったり遭遇。


 双方とも道具は抜かず、拳を交えることも無く、激しい怒鳴り合いの後にこのような膠着状態に落ち着いたという。


酒井組うちの連中が割って入って何とか宥めました。たぶん、実際に手を出したらその時点で戦争開始だってお互いに分かってるから今のところは睨み合ってるんでしょうけど、これからどうなるかは分かりませんぜ」


「そうだなあ……」


 俺は噴水のへりに腰を下ろし、両勢力を俯瞰する。


「……しっかし、よりにもよって他所の組のシマで遭遇しちまうとはな」


 酒井は頷く。


「ええ。この街でドンパチをやれば酒井組うちは先に引き金を引いた奴を追い込みますからね、銀座で事を起こすのとは勝手が違う」


 表向き酒井組は中立状態。そんな組の領地内でトラブルを起こすということは、それすなわち彼らを敵に回すことを意味する。より多くの直参組長を味方に付けた方が勝ちという図式の争いにて、いたずらに敵を作るのは避けたいだろう。それゆえどちらも勢い任せの実力行使は禁物。たとえ興奮状態に在ろうとも、先に相手が手を出すまでは堪える他ないのである。


「まあ、連中も哀れですよ。酒井組うちはどっちの味方もしないってのに」


 聞けば年明けから程なくして“年賀挨拶”との体裁で輝虎派、秀虎派の双方の幹部が組長の酒井義直邸を訪れ、自分たちの味方に付くよう要請してきたという。彼らは他にも現時点で中立の姿勢を取る各地の直参組長宅へ次々と使者を遣わせている模様。輝虎は秀虎に、秀虎は輝虎に競り負けまいと互いに意地を張り合う様はまさに椅子取りゲームのようだ。


「確かに。子弟を執事局に勤めさせてる組は会長の影響下にある。恒元公がどちらも推さない立場を明確にしている以上、彼らが中立の姿勢を崩すことは無い」


「ええ。ましてや会長に嫌われている輝虎兄さんなんかどう考えたって味方して貰えないでしょうに。当人もそいつを分かってるはずですぜ」


 だとすると輝虎の意図が腑に落ちない。秀虎はともかく、あの男が酒井組など会長派に援軍要請を行っても無意味だろう。全ての直参に声をかけるから一応そちらにも挨拶しておくという考えか。


「まったく。何考えてんだか」


「ま、ともかく今はあいつらが事を起こさないよう祈るしかないですね」


 酒井の云う通りだ。この場所は多くの人が行き交う広場であり、現に睨み合う彼らを大勢の通行人たちが好奇の表情で眺めている。このまま膠着による均衡が続くのなら未だしも、ここで乱戦が繰り広げられようものなら忽ち大惨事だ。


「そうだな。今はただ待つのみだ」


 俺はそう呟くと煙草に火を付ける。


「……吸うか?」


「頂きます」


 箱から紙巻を1本取り出し、酒井へ手渡す。沈黙を紛らわすには一服するのが丁度良い。このように振る舞うことで成立する会話もある。


「この正月はゆっくり過ごせたか?」


「ええ。おかげさまで。良い休暇になりましたよ」


「そうか。俺もだ」


 酒井祐二は組長の息子であり、殺された兄に代わって生まれながらに跡継ぎとなるべく育てられてきた。直参組織の年始恒例行事である挨拶回りも特に苦には感じていないらしい。幼い頃からそれが当たり前であったための慣れということなのか。


「一番の思い出としては久々にゲーセンへ行ったことですかね。ここ最近は行く機会が無かったんですけど。原田のバカがどうしてもって言うもんですから」


 聞き流せない台詞だったので慌てて問い返す。


「原田と出かけたのか?」


「ええ。昨日はお互い暇だったもんで」


 驚いた。2人がプライベートで連絡を取り合うどころか共に遊びに行くようになるほど距離を縮めていたとは。出会った当初は不仲だったはず……。


「お前ら、いつからそんな関係に?」


「さあ。気が付いたら、ってところですかね。同じ男に仕えてる身ともなれば親近感が湧くのも当然です。少なくとも前みたいな言い争いは減りましたよ。あの男も少しは成長したと考えるべきでしょうか」


 経緯や背景はともかく、助勤同士で親睦を深め合ってくれるのは大いに結構だ。俺としては素直に嬉しい話だった。


「ふっ。今年初めての良い話を聞いた気分だ」


「しかし、あの男には色々と問題が多すぎます。特に約束事にルーズなのは許せませんね。極道たる者、1秒の遅れとて敗北に繋がるというものを」


 そう呟くと、酒井は紫煙を燻らせる。彼は煙草を咥えると必ずそれを上下させる癖がある。まるで何かの儀式のように。


 出会った当初から思っていたことながら、相変わらず几帳面な奴だ。時として神経質ともいえる彼のそれは長所である。今後ともその明晰な頭脳で組織に貢献して貰いたいものだ。


「そうだな……」


 俺はふと視線を広場中央に戻す。輝虎派と秀虎派は未だに両者睨み合ったままであるも、この分だとまだ暫くは動きそうにない。


 やがて煙草を吸い終えた酒井が苛立った声で吐き捨てる。


「あいつら、いつまであんなことやってるつもりなんでしょうかね。いい加減に帰れっての」


「まあ、お互い引くに引けなくなっちまったんだろうぜ」


「クソッ。人様の領地シマのド真ん中で……」


「なあ、酒井? 奴らがお前の親父さんの所に挨拶回りに訪れたのはいつ頃だ?」


「一昨日、元日の朝ですぜ」


「そうか。じゃあ、挨拶ついでに恵比寿へ寄ったってわけじゃなさそうだな」


「もしそうだったらぶっ殺してますよ! 味方してくれって頼み込んだ組のシマで遊んで帰るなんざ、有り得ませんよ!」


 酒井の気持ちも分かる。酒井組の若衆たちは正月から対応に当たらされたのだ。彼らは睨み合う眞行路の連中を取り囲む形で待機しているが、いつ両者が殴り合いを始めるか分かったものではない。


「銀座のクソ野郎どもは何を考えていやがる……」


 酒井の呟きには怒りや苛立ちよりも呆れの色が強い。彼がこのような態度を取るのも無理は無かった。酒井祐二にとって酒井組の面々は幼い頃から共に過ごしてきた臣下であり大事な家族、迷惑をかける奴が許せないのだろう。


「まあ、あと30分くらい様子を窺ってそれでも帰らねぇってんなら、その時は『本家の命令』ってことで声をかけてみるか。お前もそのために俺を呼んだのだろう?」


「ええ、よろしくお願いします」


 本家の命令であれば、彼らとて従う他ないだろう……そう思いつつ俺も煙草の火を消した時。


 突如、双方が一斉に銃を構えた。


「おいっ!?」


 慌てて立ち上がる俺たち。


 一体、何があったというのか。それは分からない。けれどもこのような状況において相手が銃を取り出せば自分も銃を抜いてしまうのは自然な流れ。


「おいっ! やめろ!」


 酒井の叫びは届かない。次の瞬間、まるで示し合わせたかのように双方が一斉に発砲した。耳をつんざく轟音と硝煙の香りに包まれながら俺は叫んだ。


「なっ!?」


 それは輝虎派の銃弾が秀虎派に直撃したからではない。完全に予想外だ。なんと、彼らは周囲に立つ酒井組の組員たちに向けて引き金を引いたのだ。


 無数の鉛玉が男たちの体を貫いてゆく。


「うぐあっ!?」


「ぐおっ!」


 何故なのか、どうして輝虎派は酒井組を標的に……!?


 唖然とする俺たちの前で次々と倒れ伏す酒井組の若衆たち。その光景に酒井は絶叫する。


「ああああああっ!」


 すかさず銃を抜いて飛び出そうとする彼を俺は制止した。


「待て」


「次長!?」


「今飛んでっても蜂の巣になるだけだ。ここは堪えろ」


 興奮する部下の腕を掴んで制止することで俺はやっとだった。そんな中で秀虎派はというと輝虎の部下たちが放った銃弾に倒れてゆく。


「うぐっ!」


 一方、輝虎派は手持ちの銃を乱射する。相手方から反撃を受けて何名か倒れるも気に留めず、まるで子供の八つ当たりのように引き金を引き続ける。


「う、うわあああっ!?」


「ぎゃあっ!」


 こうして広場はみるみるうちに狂乱の絵図と化した。倒れゆくのは双方の組員たちばかりではない。偶然その場を通りかかった通行人たちも次々と銃弾の餌食となってゆく。


「な、なんてこった……」


 酒井が呆然と呟く中、やがて手持ちの銃弾を撃ち尽くした輝虎派は踵を返して去って行く。最初からそれが狙いだったと云わんばかりに。


「待ちやがれ!」


 それから被弾を逃れた酒井組の組員たちが鬼の形相で後を追うも、敵集団に追いつくことは叶わなかった。


「畜生っ!」


 酒井は怒りに震えていた。それはそうだろう。すぐ前で部下たちが撃たれたのだから……俺はそっと彼の肩に手を置くと宥める様に語りかける。


「落ち着け、酒井」


「しかし次長! あいつらは……!」


「分かってるよ」


 俺は頷く。輝虎派が引き金を引いたのは事実だ。その上、奴らは明らかに酒井組の組員たちを狙って撃っている素振りがあった。


 流れ弾に当たった云々ではなく最初から酒井組を標的にしていたということだ。むしろ、秀虎派よりも彼らを優先して射撃していたような。


 酒井が激昂するのも無理からぬことで、そもそも連中は特に誤魔化すふりもせず、堂々と酒井組の若衆らを撃っていた。


「あいつら、絶対にわざとやってましたよ! うちの組を狙って!」


「ああ、俺もそう思う」


 俺は頷く。酒井はなおも続ける。


「親父が援軍を断った腹いせですよ! 絶対そうに決まってます!」


 そう考えるのが今の時点では妥当な所であろう。されども、奴らの暴挙には不可思議な点が多すぎる。最初に引き金を引いた男の顔色に俺は妙なものを感じていた。


「あのチンピラ、拳銃チャカを出す前に俺たちの方を一瞬だけ睨んだような」


「えっ!?」


「あたかも俺たちが居合わせていることを確かめてるみたいだった」


 無論、その件については確証が無いので何とも云えないのだが。とりあえず、今は負傷者の救護である。俺は怒り狂う酒井を何とか宥め、傭兵時代の知識を活かして稼業人と一般人を分け隔てなく手当てに走ったのだった。


 恵比寿駅東口噴水広場での銃撃事件。


 この正月三が日に起きた大事件は云うまでも無く各方面に衝撃を与え、暴力団同士の衝突ということも相まって社会を震撼させた。


 カタギの犠牲者が出なかったのが何よりの幸いである。ただ、一般人の盾となった代償に酒井組は構成員の約五分の一が射殺された。生き残った大半も重傷だ。


「ああ……痛ってぇ……」


「うう……」


「クソッ! あいつら!」


 その晩、酒井組の事務所では負傷した組員たちの呻き声で満ちていた。中には出血多量で意識不明となった者もいるという。


「……っ」


 そんな若衆たちの姿を前に酒井祐二は歯噛みし、近くにあったゴミ箱を蹴り飛ばした。彼は執事局の次長助勤であると同時に酒井組の継承者でもある。自分にとっては家族同然の者たちを傷つけられた怒りで腸が煮えくり返っていたことはは容易に想像し得る。


 無論、激昂したのはこの人も然り。


「何をやってくれてんだ眞行路のクズどもは! 絶対に許しちゃおけねぇっ!!」


 酒井組の組長、酒井義直。普段こそ温和で組の運営を殆ど理事長に任せきりな酒井親分だが、自分の組をここまで滅茶苦茶にされたとあっては落ち着いていられるはずが無い。


 ただ、酒井組も眞行路一家も中川会の傘下。会長の許しを取らぬことには対処も何も為せないため、まずは一旦本家に伺いを立てようという流れになった。


「組長。若。ここはどうか落ち着いてくだせぇ」


 いきり立つ酒井組長父子を説得する組理事長の広川。


「じゃあ、このまま黙ってろってのか!?」


 激昂する組長に対し、広川は冷静に応じる。


「いえいえ、そうは申しませんとも」


「ああ!?」


「俺が思うに眞行路の連中は我々を挑発する腹積もりでしょう。うちの組が本家に忠実なのは周知の事実。たぶんそいつを知ってのことです」


 彼は冷静に続けた。


「俺たちの仕返しを嗾けて『本家が傘下組織に手を出した』って事実を作り上げる、そしてゆくゆくは恒元公の足並みを切り崩すってぇのが向こうの算段かと思います」


 それゆえ決して挑発には乗らず、あくまで冷静に向こうの出方を注視するべきだと主張する広川に組長は折れた。


「ちっ、おめぇがそこまで言うなら仕方ねぇ。祐二もそれで良いな?」


 次代継承者たる息子として納得の行かないところはあったろうが、父親が事態静観を決めたとあっては承服する他ない。


「ああ。分かっていますよ。父さん」


 その声色から苦渋の想いが伝わってくる。彼らのやり取りに組長室の外から聞き耳を立てていた俺は、夜更けになって総本部へと戻る酒井祐二に缶のホットティーを差し入れてやった。


「お疲れさん」


「次長……」


 彼はそれを黙って受け取ると、一口飲んでから言葉を紡ぐ。


「はあ。すみません。みっともないところをお聞かせして」


「良いんだよ。銀座の奴らが憎い気持ちは分かるけど、あまり無茶はするな。親父さんだってお前を眞行路へカチコミに行かせないために渋々折れたんだから」


 そう諭すと酒井は自嘲気味に笑う。


「……ですね。うちと眞行路じゃ組の規模が違い過ぎますもんね」


 酒井の気持ちは痛いほどに分かる。感情を押し殺しつつも、抑えきれぬ激情が溢れ出る。その態度には未だどこか怒りが籠っているように感じられた。


「ひとまずは会長のお考えを仰ごう。何をするにもそれが無きゃどうにもならん」


 俺はそう言う他なかった。己の気持ちをぶちまけるかのごとく、酒井はホットティーを一気に飲み干し「ありがとうございます」と缶を返す。


「久々に怒りで我を忘れそうになりましたよ」


 そう吐き捨てて、すたすたと歩いて行く酒井。激昂に駆られたのは彼のみならず、酒井組の禄を食む全員であろう。彼らの憤怒を掬い上げるためにも総本部としては輝虎に毅然とした態度を取らねばならない……と思った俺であるも、事はそのようには運ばなかった。


 1月5日。


 この日、年始の家族旅行から帰京した中川恒元はすぐさま理事会を招集。居並ぶ幹部たちを前に彼はあっさりと述べたのである。


「まあ、流れ弾が当たったのは事実だからね。輝虎には酒井組にきちんと詫びるよう伝えておくとしよう」


 輝虎派の暴挙に毅然とした態度を取るどころか、総本部として特に制裁を下すことはない旨を言ってのけた会長。この姿勢には俺も戸惑った。


 自分たちには関係の無い話だからと言いたげに聞き流す幹部たちはともかく、輝虎の破門および絶縁を強く求めた酒井組長は仰天気味に食らいついた。


「何故です!? あれほどのことをやったのにお咎め無しとは!? 奴のせいで割を食ったんですよ!?」


 そう問う酒井組長を恒元は軽くあしらうのみ。


「傘下同士の揉め事だ。本家がどうこう云う話じゃないことはお前も分かるだろう。輝虎からケジメを取りたいなら自分でやれば良いじゃないか」


「……っ」


 眞行路一家輝虎派が三千騎なのに対して酒井組の兵力は三百騎程度。十倍の兵力差では仕返し攻撃を掛けたところで反撃に遭うというのに。そもそも食客が正式構成員に対して無礼を働いたにもかかわらずお咎め無しなんて、あまりにも馬鹿馬鹿しいではないか。


 俺のみならず、酒井組長もそう思ったらしく「会長!」と声を上げた。しかしながら、恒元はそれを静かに諫める。


「分かってくれたまえ。義直。我輩にも会長としての立場というものがあるのだ」


「……さ、左様でございますか。会長がそこまでと言うなら。承服せざるを得ません」


 声を震わせ、そう応じる酒井組長。


「うむ。分かってくれたようで何よりだ」


 恒元は満足げに頷くも、その顔は笑っていなかった。そして彼は集まった幹部たちに向けて釘を刺すかのように言う。


「良いか。銀座の争いに関して本家の立場はただひとつ、絶対中立だ。この事を肝に銘じておくように」


 わざと恭しく返事をする幹部たち。


「ははーっ。承知しました!」


 そんな中で酒井組長だけは輪に加わらず、ただ黙って俯くのみであった。


 相手の非が明らかであるにもかかわらず処断を下さなかった恒元。常人にはおおよそ共感し得ない考えであろうが、これには関東の王なりの意図があった。


「とんだ食わせ者だな。輝虎は我輩を戦列に引っ張り出そうとしている。義直は我が忠臣。その領地シマで面倒を起こせば怒り狂った我輩が出てくると奴は思っている。あの男は自らが本家と直接敵対する構図を作ろうとしているのだ。とんだ不埒者よ」


 理事会の散会後、執務室で窓の外を睨みながら苦々しげに呟く恒元。曰く輝虎の思惑はまさにその辺り。奴は中川会本家を挑発している。煽りに煽って破門あるいは絶縁によって組織から自分を追放させようと企んでいる。何故か。俺にとって予想の付く真意はひとつしかない。


 九州の玄道会へ鞍替えするためだ……。


 ゆえにこそ中川会を自ら追放されようと今回のような騒ぎを起こしたのだろう。ここで中川会として輝虎に制裁を下せば、奴に組織離反のきっかけをくれてやることになる。


 無論、勘の鋭い恒元はそれを既に察知していた。


「才原党の忍びによれば、輝虎は前月から頻繁に福岡へ出かけている。玄道の井桁会長の別荘へ赴いたとの話だ。まさかとは思ったが我輩を裏切る気だったとはな」


 情報の入手経緯は違えど、俺が琴音から聞いた話と完全に符合する。


「輝虎の奴も馬鹿ではない。組織改革の駒として利用されるつもりは更々ないということだろう。輝虎が中川会を割って出てしまえば戦争の構図は大きく変わり、有力幹部同士の潰し合いによる共倒れを狙う我輩の思惑は破綻する」


 そんな会長に俺はなるべく自然な仕草で頷いた後、率直に尋ねた。


「奴をどうされますか?」


「ふっ。決まっているだろう。組を割るつもりならそれを未然に食い止めるまで。輝虎と玄道会の合流を防ぐのだよ」


 恒元としては策があるようだ。


「何の手土産も無しに古巣を離反した男を受け容れるほど、井桁久武はお人好しではないはずだ。ならばその手土産を潰して九州へ渡せなくすれば良い」


 その“手土産”が何であるかを探るよう俺に命じた恒元。ああ、どうやらそれが国際的な人身売買の闇市場であることまでは知らないらしい。そんな会長に少し安堵感をおぼえる俺が居たのは語るに及ばないことだ。


「……それはそうとして。義直には申し訳ないことをしてしまったな。彼は我輩がこの組織を継いだ時から真摯に仕えてくれているのに」


 思いのほか人情味のある言葉を口にした恒元に驚きつつも「今日はご苦労だったな」と言われたので、俺は執務室をそそくさと後にした。


 とりあえず自室へ戻るべく廊下を歩いていると、様々なことが頭をめぐる。


 まさか輝虎がこんな挑発行動に踏み切るとは思わなかった。奴にとって眞行路一家の継承などは最早どうでも良く、ただ単に権力が欲しいだけなのだろう。そのために他所の酒井組を標的にするとは何と下劣なことであろうか。


 怒りに燃えながら歩いていた俺であるも、不意に気配を感じて立ち止まる。別宅1階の武器庫の前。部屋の中で言い合う男の声が聞こえたのだ。


「止めるんじゃねぇ! やらせてくれ!」


「いいや、お前にそんなことをさせるわけにはいかねぇ!」


 俺はすぐにその2名の人物が酒井と原田であると悟った。物陰に隠れて様子を窺ってみると、原田が酒井の胸ぐらを掴んでいた。


かたきを取りに行くって、たった一騎でどうなるってんだよ!? 数に押し潰されて返り討ちに遭うのが関の山だぜ! 頭の良いお前ならそれくらい予想が付くだろ!?」


 そんな原田の凄みに、酒井もまた凄まじい形相で反論する。


「そうとは限らねぇだろ! 俺だって次長から喧嘩の仕方を教わった身だ! 百だろうと千だろうとまとめてぶっ潰してやるよ!」


「馬鹿を言うな! お前は兄貴とは違う! あの人みてぇに上手く行くわけねぇだろ! 大体、本家としては手を出さねぇって会長が決めたんだぞ! それに逆らうってことの意味がお前には分からねぇのか!」


「だから何だよ! 中川会を辞めてから事を起こせば済む話だ! そのために俺も敢えて引退届まで書いたんだ!」


 酒井の口から出た“引退”の言葉に思わず胸が竦むも、俺は大方の事情に勘付いた。どうやら彼は怪我をさせられた組の若衆の仇を討つため、単騎で新橋の眞行路輝虎の元へカチコミをかけようとしているらしい。そこで道具を用意しようと武器庫を訪れた際、偶然通りがかった原田に諫められて口論になったと考えるべきか。


「そいつを書いときゃ、俺は中川会とは関係ねぇ一個人ってことになる! 何をしようが会長に迷惑は……」


「馬鹿野郎! そんな下らねぇ理由でお前は全てを捨てるつもりか!」


「下らねぇだと!? ガキの頃から同じ釜の飯を食ってきた家族がやられたんだぞ!?」


「悔しいのはお前だけじゃない! お前の親父さんだって、組の連中だって、皆が歯ぁ食いしばって堪えてんだ! そんな時にお前一人だけ暴走してどうすんだ!」


 原田は酒井の胸ぐらを摑み上げながら言う。それには興奮状態に在った酒井もたじろいだ。それは原田の剣幕に慄いたからではない。


 気付けば、原田が涙声に喉を震わせていたからだ。


「……っ」


「頼むから頭を冷やしてくれよ兄弟! 俺はお前に消えてほしくねぇんだ!」


「原田……」


「俺だって直参組長のせがれだ! お前の気持ちは嫌ってくれぇに分かる! けどよ! お前が居なくなったら、俺は誰と組めば良いんだよ!? 誰が俺の喧嘩の相手になってくれんだよ!?」


 驚いた。少し前までは互いに反りが合わず、いがみ合う仲だったのに。いつからそれほどまでに友情を温めたのか。


 ただ、考えてみれば自然なことだ。酒井祐二と、原田亮助。この2人は同じ執事局次長助勤として俺に付き従い、昨年の春から共に戦火をくぐってきた盟友なのだ。絆が育まれぬ方がおかしいではないか。両名とも唯一無二の存在なのである。互いを兄弟きょうだいと呼ぶ仲になっているのも当然だ。そんな2人の関係の変わり様に気付かなかった俺も愚かだ。


「……」


 涙を流して怒声を上げる原田と、そんな同輩の姿に黙り込む酒井。そして、息を潜めて物陰から部屋を覗く俺。場を沈黙が支配する中、先に言葉を紡いだのはこの男だった。


「……分かったよ」


 ぼそっと呟いた酒井は、懐から『引退届』と書かれた封筒を取り出して破り捨てた。そして原田に向き直って言う。


「お前がそこまで言うんだったら折れる以外にぇわな。ったく。兄弟には敵わねぇぜ、クソが」


「……さ、酒井っ」


「何だか馬鹿らしくなってきたわ。お前の無様な泣きっつらを前にしてるとよ。俺たちには夢があったんだ。組云々の些末事に時を割いてる場合じゃねぇよなあ。兄弟よ」


 感極まった原田が涙ながらに膝から崩れ落ちる。


「酒井……っ!」


「おいおい。これじゃあまるでどっちが宥めてるか分からねぇだろう。さっさと立ちやがれ。みっともねぇぞ。ったくよぉ」


 原田の肩を叩いて立ち上がらせる酒井。二人の仲に築かれた信頼関係は、俺にとってはあまりに眩いほどに美しいものに感じられた。


 その輝きは、まるで太陽のように直視できないほど眩しくて……。


 まあ、ともあれ酒井が心変わりしてくれたようで何よりだ。ここはひとまず一件落着と考えて良さそうだ。今さら彼らの前に姿を現すのも不格好に思えるので、俺はそのまま歩いて立ち去ろうとする。


 しかし、その時。


「……ああ。そうだったよな」


 原田の口から、思いもしない言葉が漏れた。


「俺たちには夢があるんだったよな……麻木涼平を日本一の男にするっていう」


 声が出そうになるのを全力で堪える俺。


 どういうことだ?


 俺を日本一の男にする!?


 それから原田は暫く感涙にむせんでいたので、以降の会話は聞き取ることが叶わなかった。まあ、詳細は不明なれど、俺のことを尊敬してくれているのは何となく分かった。そう思われること自体は不愉快ではないので胸に留めておくとしよう。


 ただ、問題は俺自身が尊敬に値するような男に非ずということだ。


 所詮、俺などは幻想を捨てきれぬロマンチスト。生まれながらに極道の世界で揉まれてきた酒井や原田にとってみれば、とんだ甘ったれでしかないはず……。


 そう若干のやるせなさをおぼえた時。


「次長~!」


 渡り廊下に繋がる玄関から1人の男が入ってきた。彼の名は鮎原あゆはら颯太郎そうたろう。執事局次長助勤で、昨年末に入ったばかりの酒井や原田にとっては後輩にあたる男だ。


 ここで返事をしては武器庫の2人に勘付かれるので俺は慌てて身を隠す。


「あれぇ? 次長? どこですか?」


 きょろきょろと辺りを徘徊する鮎原に酒井が声をかけた。


「おい。ソウ。その格好で総本部に出入りするんじゃねぇっていつも言ってるだろうが。場違いすぎるんだよ」


「あ、すみません! 酒井先輩! この服以外には着られるのを持ってないもんですから、つい……」


「だっから親御さんにスーツの一着でも買って貰えや! ここは天下の中川会だぞ!? ガキが学校の制服でうろつく場所じゃねぇんだよ!」


 そう。この鮎原あゆはら颯太郎そうたろうという男はまだ16歳。現在は都内の私立高校に通っている現役高校生なのだ。


『鮎原組』組長の鮎原あゆはら宗邦むねくに氏の嫡男であることから、規定に従い執事局で次長助勤として働いている。


 まだ高校生ということもあってか年相応の拙い振る舞いが多く、先輩たちからは度々叱咤されている。それでも鮎原は謙虚で人懐っこい気質のため、執事局内では“ソウ”の愛称で呼ばれ、可愛がられている。特に気に入っているのは原田である。


「おいおい。そうカッカすんなよ、兄弟。まだスーツが似合う年齢でもねぇんだしよぉ」


 そう酒井を嗜めた後、原田は鮎原の頭を撫でた。


「ソウ。お前が着てるそいつはどちらかと云えばスーツっぽいから、そのままで良いと思うぜ。会長も良いと言ってるわけだし」


「あっ、ありがとうございます!」


「ただし、外に出る時はジャージに着替えろな。ま、お前はまだ入ったばかりだから護衛とかに連れて行くことも無ぇだろうけど」


 おいおい。大人が着るスーツと高校生のブレザーは明らかに違うだろう……と思いつつも、俺は原田の粋なはからいに密かに拍手を送った。


「ところで、次長はどこですか?」


「いやあ、どこだろうなあ。午後から会ってねぇな」


 その様子から思うに、鮎原は俺に用事がある模様。


「俺で良ければ伝えておく。何かあったか?」


 原田に代わって尋ねた酒井に、鮎原は「あっ、そうでした」と用件を述べた。


「たった今、実家から連絡がありました。新橋で銃声が聞こえたって……」


 その言葉に思わず息を呑む二人をよそに、俺はため息と共に心の中で静かに呟くのだった。ついに戦争が始まったのだなと。


 2005年1月5日。


 秀虎派の幹部たちが若衆を引き連れて新橋の事務所へ攻め込み、輝虎派を攻撃。正月の騒動の“仇討ち”となったこの出来事により、眞行路一家の次代をめぐって兄と弟がしのぎを削り合った『銀座ぎんざ継承けいしょう戦争せんそう』の火ぶたが切って落とされたのである。

ついに始まった兄弟抗争。野心家の兄か、慈善家の弟か。この戦乱は裏社会全体を巻き込んでゆく……!

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