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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第11章 親分たる器
199/252

大晦日の約束

 俺の言葉を聞いて一瞬驚いた顔をする本庄。彼はすぐに吹き出した。


「けけっ! 何を言い出すかと思えば、随分とアホなことを言うんやのぅ!」


 豪快に笑い飛ばす本庄に俺は続ける。


「確かに馬鹿なことかもしれねぇな。けどよ。こちとらあんたの利益にも適う提案をしてるつもりだぜ」


「何やと?」


「この喧嘩で輝虎が勝ってもあんたには何の旨味も無い。それどころかひどく割を食うことになるぜ」


「……分かっとるわ。あの輝虎ガキは組織を割るつもりなんやろ。森田や椋鳥と一緒にのぅ」


「おお、流石は五反田の蠍。もう把握済みだったか」


 本庄利政は兎にも角にも情報収集能力に優れた御仁。その能力のお陰で、本庄組は品川区での不動産利権を一手に占めて中川会では史上最も若く直参組長に成り上がった。輝虎の離反計画についても既に森田や椋鳥から聞き出していたようである。


「だったら話しやすい。連中が組織を離反しちまえば森田と椋鳥を支配下に置こうってあんたの算段はオジャンになるぜ。中国マフィアとの癒着が“弱み”になるのはあくまでも中川会内に限っての話だからよ」


「せやかて。わしが秀虎を推すメリットは何やねん。そもそもわしが森田たちの離反に同調するって手もあるんやでぇ」


 本庄は妖しく睨みを利かせながら言葉を続けた。


「この喧嘩、より多くの直参組長を味方に付けた方が勝ちや。おどれは知らへんと思うけど、わしは森田と椋鳥の他にも15の直参の手綱を握っとんねん。つまりはわしを味方に付けた方が勝ちってことや。どうや。本家はどういうわけか秀虎を推しとるさかい、俺を味方につけたいんやろ。せやったらわしを説き伏せてみんかい! 秀虎につくよう、このわしを勧誘してみろやぁ!!」


 流石は本庄組長。彼は自分の価値というものを最大限に分かっている。本庄の中では既に最初から結論は出ており、秀虎に味方するつもりなのだろう。そうして恒元に恩を売って戦争後に幹部の地位でも要求する腹積もりか。つくづく食えない男である。まあ、そうと分かれば、俺としてはとことん利用させて貰うまで。


「……そうか。どうやらあんたにはひとつ誤算があるようだな」


「ああ?」


「あんたは会長が秀虎を依怙贔屓してると思ってるみてぇだが、それは違う。会長はあの兄弟の喧嘩においてはどっちの味方もしない。両者の共倒れを望んでおられる」


「何やと!?」


 本庄の顔色が変わった。その機を逃さず、俺は話を詰める。


「あんたの予想通り、会長は今回の喧嘩を利用して有力幹部たちを軒並み潰そうとしている。けれどもそれは眞行路一家も例外じゃない。戦争が終わったら適当な理由をでっち上げて勝った側を処刑するつもりだろうな」


「んな、アホな。そないなことをしたら、ただ単に組織がガタガタになってまうやろ。ましてや本家は幹部の支え無しでは……」


「ああ。そのために会長は本家の戦力を拡充しておられる。旧態依然の老舗所帯に頼らぬ、会長の命令で直に動く戦力だ。銀座のドンパチで弱り切った幹部どもはひとたまりもねぇだろうよ。疲弊した隙を突けば一瞬で片付けられる」


「せやな……」


 本庄は唸りながら考え込んだ後に口を開いた。


「……それが本当だったとしてや。何でわしにそないな話をする? 会長近辺の情報は洩らせんとか言うとったのに、どういう風の吹き回しや?」


「個人的に秀虎を勝たせたいんだよ」


 俺は即答する。


「あんたは中川会でも随一の知略と人心掌握術を持っている。そのあんたの協力があれば、秀虎の勝算はグッと上がるってもんだ」


「……なるほどな。せやけど、それはわしのメリットやあらへんやろ」


 本庄は訝しげに俺を睨みつけた。そう。これは取引なのだ。俺が提示した条件を飲む代わりに、俺は彼に何かを差し出す必要があるのである。


「ああ、そうだなあ」


「会長の思惑に逆らって秀虎を勝たすやと? そないふざけた話に乗るアホが何処におるねん。おどれの言うように会長が力をつけてるっちゅうことは、下手に歯向かったら潰されるってことやないか!」


「確かに。あんたの言う通りだ」


「言う通りって、何をほざいとんねん!」


 声を荒げて本庄は俺の胸ぐらを掴む。まあ、予想していたリアクションである。この事務所に歓迎されていないことも含めて。


「大体おどれは本庄組うちの前の若頭を殺した仇敵やで? そない奴の繰り出した話ぃ、ましてや何のメリットも無いような話にわしが乗ると思うのか!? 人を馬鹿にしとんのかワレェ!!」


「いいや。あんたは乗るさ」


「ああ!?」


「そう踏んでなかったら俺だって欲深いあんたを訪ねてきたりはしない。本庄利政は打算でしか動かねぇ狡賢い男だ。それは逆に云えば利益次第でどうとでもなるってことだからな」


 今の言葉で火に油を注いだか、組長は懐から銃を取り出して俺に突き付けた。これもまた予想済みの反応であった。


「どうとでもなるやと!? おどれ、何様のつもりじゃゴラァ!」


 親分の怒声に呼応するように、入室時から俺を取り囲んでいた組員たちも一斉に銃を向ける。この本庄組も変わったものだ。6年前に俺が居候していた時には組長を含めて9人くらいしか居なかったというのに。あれから領地拡大を繰り返すうちに兵力も増えたと考えるべきか。変わっていないのは提灯や日本刀などが飾られた古風な事務所の内装くらいである。


 それはさておいて。俺はやれやれとばかりに鼻で笑った。


「ふんっ、褒め言葉のつもりだったんだけどな」


「じゃかあしい! おどれみたいなガキに褒めてもらうほどわしは落ちぶれてへんわ!」


「そいつはどうかね」


「んやとぉ!?」


「今後の情勢次第じゃ凋落も大いに有り得るってことだ。冷や飯を食いたくなけりゃ黙って聞けや。策略家気取りの組長さんよ」


「もういっぺん言ってみろや! いてまうぞッ!」


「あんたは終始どっちつかずの態度を取り続けるつもりだろ。でもな、それを許すような会長じゃねぇぜ。あの人の粛清リストにはあんたの名前も入ってる」


「……っ!」


 本庄は押し黙った。俺の揺さぶりは見事に的を射たようだ。少なからず恐怖をおぼえたということ。それはまたとない好機。俺は畳み掛ける。


「あんただって薄々不安に思ってるんだろ。銀座の喧嘩に玄道会が絡んできたら自分のシマに影響が及ぶんじゃねぇかってな」


「……」


「このまま日和見を続けても後々で粛清される。輝虎と一緒に玄道会に行っても単なる一直参に過ぎねぇあんたは森田や椋鳥と違って冷遇されるだろう。勝ち馬に乗りたいんだったら秀虎に付くべきだ」


「……ふんっ!」


 本庄は鼻を鳴らして銃を下ろした。どうやら交渉のテーブルに着いてくれるようだ。俺は内心でほくそ笑んだ。この機を逃す手は無いからだ。


「涼平。玄道会が絡むなら恒元公の思惑は崩れるんと違うか。輝虎と秀虎の争いに多くの幹部を巻き込んで潰し合わせることで自分の権力を確立する算段やのに、その輝虎が幹部を連れて九州に寝返ってもうたら中川会の内なる話じゃなくなるやろ」


 もっともな指摘である。俺は肯定した。


「そうだな。輝虎の反逆は既定事項と考えて良いかもしれない」


「せやったら会長だって幹部の粛清どころじゃ……」


「恒元公はその線を想定済みだぜ。輝虎が玄道会に寝返らねぇよう先手を打たれるおつもりだ。眞行路兄弟の喧嘩をあくまで中川会の内紛に留め、その先の粛清と権力確立を絶対的なものとするためにな」


 無論、恒元はそこまでを考えていない。これは俺の出まかせだ。何だか物凄く危ない橋を渡っている気がするぞ。されども嫌な感覚は皆無。むしろ胸の内は澄やかだ。何故だかは知らないけれど、このまま突っ切るしかない。


「いずれ粛清が行われるんやったら秀虎を勝たせたところで意味はあらへんやないかい」


「それはそうとも云える。けどよ、自分にとって役に立つ男だと分かれば会長も秀虎を殺さないかもしれねぇ」


 中川恒元も利益第一主義者だ。たとえ粛清の対象者であっても己に多くのメリットをもたらすなら清濁併せ吞むつもりで側に置くだろう。それは本庄も知っていることだった。


「だから、俺はあんたに協力を持ちかけてるんだ。あの人の下で俺よりも長く働き続けてきたあんたにな。あんたには秀虎を支えてやって欲しいんだ。会長がご認識をお改めになるよう、秀虎に武功を立てさせる手伝いをしてくれねぇか」


 本庄は訝しげに俺を睨んだ。


「武功? あのガキの代わりに輝虎を討って、それを秀虎の手柄ってていに偽装せえとでも言うんか?」


「いや。秀虎の代わりにってのは確かだけどよ、あんたにやって欲しいのは裏工作だ。輝虎の玄道会への合流、これを食い止めてくれや」


「ああ?」


 ますます眉間に皺を寄せる本庄に俺は言った。


「輝虎は森田と椋鳥の兵隊、総勢6千騎を手土産に玄道会に寝返ろうとしている。ってなわけでずは森田と椋鳥に脅しをかけて輝虎から離れるよう促してくれ。手土産が無くなりゃ輝虎も玄道会で顔が立たなくなっちまうだろうからな」


「それで寝返りを食い止めて、そいつを秀虎の手柄にするって寸法か……で? 次は何をすれば良いんや? まだあるんやろ?」


「ああ。輝虎はもうひとつ玄道会への手土産を用意している。そいつを完膚なきまでに叩き潰してビジネスとして機能しないようにしてくれ」


「叩き潰せって? 何のことや? そりゃあ?」


「人身売買の独自市場だよ。眞行路一家は赤ん坊を安く買い上げて海外に売り渡す闇商売を手がけてる。そこの収益全般を玄道会に譲渡するつもりらしい」


「なるほどぉ、そういうことかい」


 本庄はニヤリと笑った。彼もまた眞行路一家の奴隷ビジネスについては知っていたようである。


「兵隊とビジネス、この2つが無けりゃ輝虎は玄道会へ寝返る代金を払えなくなる。奴の反逆を防いだとあれば会長も秀虎に褒美を取らせるしかない。そうすりゃ形勢は一気に秀虎優位に傾き、銀座の戦争は弟の勝利で終わるってわけだ」


 俺の言葉に本庄は頷く。


「そうなるやろうなあ」


 しかし、彼はこんな事も言った。


「せやけどそいつを敢えてあの弱虫野郎の手柄にしてやるメリットは何や? わしの武功ってことにすればわしが褒美を取れるわけや。お前はわしに立身出世の機会を手放せって言うんか?」


 本庄の指摘は尤もだ。けれど俺は冷静に答えた。


「まあな。輝虎の離反を防いだとなればあんたが得られる恩賞は計り知れん。理事長補佐の地位は確実だろうな」


「せやったら何で……」


「言ってしまえばそれまでだ。会長からの褒美はせいぜい出世くらいのもんだろう。でも、眞行路一家は違う」


「違うやと?」


「秀虎を盛り立てて次期総長に多大な貸しを作ったとなれば、あんたは銀座に足掛かりを持てる。あの街からもたらされる人脈とカネを全て思いのままに懐に収められるんだ。どっちが儲かるかは考えるまでもぇだろう」


 その言葉に本庄は一瞬だけ渋い顔をした。されど、それはみるみるうちに笑みへと変わった。


「……なるほどのぅ」


「それによ、カネがあれば出世なんかどうとでもなるだろう。だったらこの話に乗って損は無いはずだぜ」


「ふんっ、まあ良いやろ。確かにあのガキに恩を売っとけば後々で役に立ちそうやさかいな」


 本庄はそう云ってから、大きなで欠伸をした。かなり眠そうな様子が伝わってくる。極道にとって師走、それも年の瀬は慌ただしい。挨拶回りやら飲み会やらで夜は暇が取れないのである。この男も例外ではない。まあ、各方面にコネクションを持っていそうな本庄のことだから彼方此方の宴に引っ張りだこだろうな……と思ったその時。


「せやけどな」


 その呟きと共に本庄が懐から取り出した代物に俺は驚いた。それはICレコーダーだったのだ。


「今、おどれが言うたことは会長への立派な背信行為やで? 自分が何を言ったか分かっとるのか? もしも事が変な形で明るみに出れば、その時はわしのみならずお前も粛清されるんやで?」


 ああ。密かに録音した音源を会長へ届けても良いんだぞという脅しか。本庄の意図は分かっている。おそらくは俺を試したいのだろう。鼻で笑って答えた。


「別に構わねぇよ。俺は会長の利益を思えばこそ、眞行路秀虎を推しているんだからな」


「随分と踏み込んだことを言うんやな。わしが途中ではしごを外さへんとでも?」


「それはあんた次第だから何とも言えねぇな。けど、相手に信じてもらうためには自分てめぇがその相手を信じる他ねぇ。かつてあんたから学んだことだ」


「あ? そないなことを教えたか?」


「前に他所のシマを乗っ取った時、あんたは逮捕される危険を顧みず自ら現地へ足を運んで地元住民を取り込んだじゃねぇかよ。利益のためには取るべきリスクを取るものだとな。良い勉強になったぜ」


「ちっ……」


 本庄は舌打ちを鳴らした。されどもそれは怒りや苛立ちから来るものではなく、照れ隠しのようである。彼は俺の提案に乗ったのだ。


「……分かったわ涼平。おどれの話に乗ったるで」


 本庄はICレコーダーのスイッチを切りながら頷く。これで交渉は成った。彼は俺に森田一家と椋鳥一家に圧力をかけることを約束した。


「森田たちについては任せとけや。中国人との一件以外にもいくつか弱みを握っとるさかいな」


「ああ、よろしく頼むぜ」


「せやけど、わしにはどうにも分からへん。おどれは秀虎の何がそんなにええんや? あんなのはただのヘタレやろうて」


 不意に問いを投げつけられて心が竦む。ここで青臭い理想論を語っては小馬鹿にされるだけだ。適当に答えておこう。


「輝虎と比べてマシだからな。それだけだよ」


「ふんっ、そうかい」


 本庄は鼻で笑った。どうやら俺の答えはお気に召さなかったようである。まあ良いさ。


「本庄さんよ。あんたとしても取り入りやすいんじゃねぇのか。秀虎派の連中は今、喉から手が出るほど戦力を欲してるから後ろ盾になれば確実に恩を売れる」


「そない簡単に言うけどなあ、涼平……」


 一瞬、本庄の表情が険しくなった。


「後ろ盾になる者にも矜持ってものがあるんや。器にあらざる輩を担げばわしの名が廃る。『御輿は軽けりゃ良い』なんてのは任侠映画の中の話やで。もしもわしに恥をかかせたら、その時は分かっとるやろうな? ああ?」


 本庄にとって俺は秀虎の後見を頼んだ推薦人だ。己の立場は最初から心得ている。


「分かってるさ。ただ、その器に非ざる秀虎をあんたが鍛えてやるのも面白いんじゃねぇかと思ってな」


「ふんっ、ええやろ。あのガキがどこまで成長するのか試すのも一興や」


 本庄はそう云ってから、周囲の男たちを一瞥する。


「おい、おどれら。いつまで道具を構えとるねん。さっさと仕舞えや」


「へ、へい……」


 本庄に命じられ、組員たちは構えていた銃を下げた。彼らとしては親分の決定に納得いかないことだろう。俺への敵愾心が渦巻いている。


 そんな子分たちの心情には一切お構いなしといった調子で、本庄はゆっくり立ち上がると高らかに言った。


「秀虎とは近いうちに八二の兄弟盃を交わしたる。どうせケツを持つなら森田たちより上の席に座りたいさかいな。媒酌人は涼平、お前や」


 当然ながらどよめきが起こる。


「お、親分!?」


「正気ですかい!?」


「迂闊ですぜ! そんな!」


 されども本庄は部下の言葉など聞く男ではない。怒鳴り散らすまでも無く低い声でいきり立つ若衆らを制止した。


「お前ら、何か文句あるんか」


「い、いえ。別に」


 組員たちは口を噤んだ。皆、本庄の迫力に気圧されたようだ。この組長は昔から村雨耀介とは違った意味で顔が怖い。


「……なあ涼平よ」


 不意に本庄が俺に顔を向けた。その鋭い眼光は俺を射抜かんばかりである。


「勘違いしたらあかんで。おどれのためやない。おどれの父親の顔を立ててやるために、そして何よりこのわしが旨味を掴むために話に乗ったるんや」


「ああ、分かってるさ。それにしても俺の親父のためとは意外だな。昔の兄弟分だったとはいえ息子の俺はおたくの前の若頭の仇だってのにな」


「ふんっ、おどれへの恨みが帳消しになるわけやないで。せやけどおどれの父親、麻木光寿には腐るほどの恩があるんや。こういう機会でも無いと、そいつを返しきれんやろ」


 吐き捨てるように云った本庄。なかなかこの御仁も義理堅い。冷徹な策士である反面、必ずしもドライとは呼びきれぬ人情家でもあるのだ。


 6年前、俺は本庄組若頭の山崎を殺した。その怨嗟は今もなお燻ぶっている模様。にもかかわらず俺の話を聞いてくれた度量の深さに称賛以外の言葉は相応しくない。


 俺は素直に礼を取った。


「恩に着るぜ。本庄さん」


 軽く頭を下げる俺の言葉を受け流し、彼は応接椅子の近くに立つ部下に煙草の火を付けさせた。そして「ふう」という声と共にぶっきらぼうに呟く。


「それにしても、お前も随分と思いきった挙に出たもんやな。下手すりゃ会長のお考えに反することをやってのけるなんて。ついこないだまでは恒元公のご意思には一字一句従うマリオネットやったっちゅうのに……どない風の吹き回しや?」


「さっきも言ったろ。会長の利益を真に思えばこそ。それに、万が一の時の予備策って意味もある。必ずしも本家の力だけで輝虎を倒せるとは限らねぇ。奴の玄道会との結託は絶対に止める必要がある。そのために為す事を為すだけだ」


 無論、瞬発的に思いついた付け焼刃の口実に過ぎないのだ。結局のところ俺はただ秀虎を勝たせたいとしか考えていなかった。中川恒元への忠誠心は特に揺らいではいない。それでも心は昨日までよりだいぶ自由になっていた。昨晩に琴音から背中を押されたおかげだろうな。


 さて。そんな俺の答えを受けて本庄は何を思ったか。俺の顔を舐め回すように睨む彼の表情が何とも不穏であった。


「……」


 ただ、もう鎖は断ち切れたのだ。せっかく踏み出した一歩を後戻りするなんて馬鹿げている。俺は本庄を真っ向から睨み返した。


 すると組長は鼻で笑った。


「……ふんっ、ええやろ」


 どうやら俺の覚悟が伝わったようである。


「わしは博徒や。より儲けの多い選択に賭けたるわ。立つからには必ずあれを勝たせてやる」


 そう云ってから本庄は組員たちに向き直る。そして大音声で命じたのだった。


「お前ら! この話は他言無用や! もし口外したらどないなるか分かっとるやろうな!?」


 そんな脅し文句に若衆たちは「へい!」と威勢良く返事した。


「ええか? 銀座の利権はわしらが根こそぎかっさらうで! あの街の全てを奪い尽くすつもりでな!」


 若衆たちは皆、満足そうな面持ちで頷いている。本庄組の連中はこれで良いだろう。だが、俺はそうもいかない。


「おいおい。金儲けも大事だけどよ、最も力を入れるべきは輝虎の闇ビジネスを潰すことだぜ」


 そんな俺を本庄が笑った。


「おどれ、随分と輝虎潰しに熱心やな。何かあったんか」


「何もぇよ。優先順位を勘違いされちゃ困るってだけだ。輝虎が人身売買の市場を手土産に玄道会へ寝返れば中川会全体の危機なんだからよ」


「そないなことは分かっとるわ……しっかしぃ、銀座の猛獣もえげつないことをやっとったわな。生まれたての赤ん坊を物として売り買いするなんて。わしかて任侠なんざ興味あらへんけどそないクソみてぇな真似はせぇへんで」


「ああ。絶対に潰さなきゃならねぇ。確実にだ」


「おどれ……」


「何だよ?」


 呆れたように俺を眺めまわす本庄に、怪訝な顔をして応じた俺。一体、この組長は何を思っていたのか。やがて数秒くらい経った後、ため息と共に彼は吐き捨てた。


「涼平。ひとつ忠告しておくけどな。この世界で夢は持たんに尽きるで」


 その一言に胸が揺さぶられるように騒いだ。心の奥底まで全てを覗かれたような感覚。慌てて俺は否定の台詞を投げる。


「は、はあ? 何を言ってやがる? 俺は別に夢なんか持ってねぇぜ?」


「あかんと言うてるわけやない。ただ、どうせ夢を持つんなら自分のことに留めておけっちゅうことや。『世のため』とか『人のため』とか、そない綺麗事を掲げてる奴から無様に消えてくんがわしらの世界の定番やさかいな」


 本庄の言葉で心が乱れ狂う。何故に暴かれたのか。やはりこの本庄利政は人の考えていることや心の奥底に隠していることを言い当てる天才だ。


「……ご助言を賜り感謝しますよ。本庄の親分。それじゃあ良いお年を」


 精一杯の虚勢のつもりで嫌味を垂れ、高笑いする本庄組長に背を向けて俺は帰路に就いた。改めて思うことながら本庄は切れ者である。その知略と洞察力が敵に回らないことを祈るばかりだ。


 さて。赤坂へ帰るか。気分的に電車で帰りたかったので、五反田駅から山手線に乗った俺。車内は年の瀬ということもあってか、カップルと思しき男女があちこちで談笑している。


 俺の隣にも一組のカップルがいるのだが、その片割れの男が何やら熱心に女の耳元で囁いている。一体どんな会話が繰り広げられているのか気になって耳をそばだててみたけれど、残念ながら断片的にしか聞き取れなかった。しかし、男が「愛してる」と何度も繰り返しているのは分かった。


 そんな彼らの姿に羨望を覚えつつ俺は嘆息する。


 ……俺も誰かとあんな風になれる日が来るのか?


 いやいや、そもそも『誰か』って誰だよ。琴音か? 華鈴か?


 女のことを思うと心がざわめく。


「はあ……」


 思わずため息が漏れた時、電車は代々木駅へと到着する。そこからタクシーで赤坂の総本部へ戻ると、恒元は意外にも暇そうだった。


「おお、涼平か。どうした。今日は随分と遅かった」


「いや……実はちょっと長引いてしまって」


 俺はそう云ってから、恒元と対面するようにソファに腰掛けた。そして事の次第を彼に話す。全てをひと通り聞き終えた後で会長が関心を示したのは秀虎と本庄が兄弟盃を交わすことだった。


「ふむぅ。本庄が秀虎と。これはまた意外な組み合わせだね、どうしてまたこの二人は手を取り合うことに決めたのかな」


「提案したのは俺です。本庄から個人的に相談を受けまして。『輝虎と秀虎のどっちに付けば良いか』と言われましたので適当に秀虎と」


「ははっ! でかしたぞ涼平! あの小賢しい関西人も巻き込めるなんて痛快じゃないか! 上手く運べば本庄も潰れてくれる! 不穏な輩は一人でも減らすに限るからね!」


 思いのほか歓喜した恒元に俺は呆然となった。帰りの電車の中で考えついた与太話が通ったことは勿論、恒元が本庄の排除まで考えていたことが俺には衝撃的だったのだ。


「いやあ、本庄は他の幹部とは違うふりをして奴も奴で我輩に盾突くからね。あんな奴はさっさと始末したいものだ。組織に要らないよ」


 もはや恒元は現状の幹部たちは軒並み粛清する勢い。これでは新体制に残留させる直参組長が少ないのではと思わされた。しかし、当人は至って問題にせず。


「まあ、良いんだよ。どうせいつかはやらなければならないことだからね」


「はあ……そうですか……」


「それよりもお前の手柄だ! 此度は本当によくやってくれたよ!」


 恒元はそう云って俺の手を力強く握った。俺が個人的に秀虎を護衛した件はどうでも良いのか。結局、この男は自分の権力を拡充させることしか頭に無い。


「あ、ありがとうございます」


 心に湧いた失笑を堪えて俺は上辺の礼をする。そんな俺の答えに恒元はさらなる笑みを浮かべ、抱き着いてきた。


「ああ、涼平! お前は本当に良い子だ!」


 まるで愛犬を可愛がるかのような抱擁。俺は無言でそれを受け入れるだけ。恒元の香水の匂いが鼻をかすめた。そして彼は俺の耳元で囁く。


「お前の働きぶりは素晴らしいよ。褒めて遣わす」


「……ありがとうございます」


 上機嫌に「これからも期待しているからね」と付け足して恒元は俺の服を脱がそうとする。


「ちょっと会長……」


 俺は慌てて拒んだ。しかし恒元は聞く耳を持たず、俺のシャツのボタンを外してゆく。そして露になった俺の胸板に舌を這わせた。


 生暖かい感触に背筋がぞっと凍る。


「ふふ……お前は本当に可愛いね」


「……っ!」


 妖しく微笑んだ恒元は俺のズボンのチャックを下ろすと、股間を弄り始めたのだった。その快感で思わず声が出そうになるも何とか堪える俺。


 そんな俺を嘲弄するかのように彼はさらに愛撫を続ける。


「ああ、良いねぇ……お前のその表情かおがたまらないよ」


 恒元の吐息が俺の耳をくすぐる。彼は俺の右耳に舌を這わせた。生暖かい感触に思わず身震いしてしまう俺である。


 やがて恒元は俺のズボンとパンツを同時に下ろすと、露になった下半身を見て舌なめずりした。その仕草はあまりにも淫靡で背徳的である。


「さあ、涼平……我輩に全てを委ねるのだ……」


 そう云って恒元は俺の男根を口に加えた。生暖かい感触。ざらついた舌の感触が脳全体に響き渡る。


「あっ……」


 思わず声が出た俺の反応を見て恒元は満足そうな笑みを浮かべると、さらに激しく口淫を始めたのだ。その快感はあまりにも強烈で腰が砕けそうになるほどだ。俺は必死に耐えようと歯を食いしばるも、身体の奥底から湧き出してくる快楽を止められない。


 やがて限界に達しそうになった時、恒元は俺の男根から口を離すと今度は自らのズボンを脱ぎ始めた。そして下着の中から勃起した男根を取り出す。


 それはまさに凶器であった。血管が浮き出た太い幹に大きく傘の開いた亀頭部。その先端からは透明な液体が流れ出ている。


「ふふっ……涼平も準備万端じゃないか」


 恒元はそう云って俺の右手を彼の股間へと導いたのだった。そして握らせるようにして俺自身を扱かせ、彼は俺に口付けをする。


 舌を絡め合うディープキスだ。互いの唾液を交換し合いつつ俺は恒元のそれを受け入れる。それは数分に渡って続き、俺を苦しくさせた。


「はあ……はあ……」


 そんな俺を前に恒元は昂る。


「美しいぞ。涼平。我輩は美しいものが好きだ」


 何時になくテンションが高いのは酒を飲んでいる所為か。正午を過ぎたばかりというのにふしだらな会長である。


「さあ。涼平。我輩を愛するのだよ」


 その台詞の直後、恒元は俺を床に倒して肛門に自らの男根をねじ込んだ。


「ああっ……はあ……ああ……」


 喘ぎ声を漏らす俺の様子を見て恒元は興奮しているようである。彼はさらに動きを盛んにさせた。そしてついに限界に達した時、恒元は俺の体内へ大量の精子を流し込むのである。それと同時に俺も果てた。


「さあ。まだまだ楽しもうじゃないか」


「うっ……ううっ……」


 全ての行為が終わった後、恒元はぐったりとする俺から離れた。そして全裸のまま机に腰掛けると、今度はこんなことを言うのだった。


「さて。涼平。秀虎の若い衆が輝虎を襲ったようだけど、あいにく互いにケガだけで済んだようだね。残念だねぇ。我輩としてはさっさと戦端を開いてほしいのに」


 東京ドーム近くの路上で勃発した騒動は既に表社会でもニュースになっていた。先ほど電車の中でもその件について語らう一般人が居たくらいだ。どうやら世の中は中川会系暴力団同士の内紛であることに気付いているらしい。


「ヤクザをあからさまに嫌う人々が増えたから噂話はすぐに拡散する。いくら金をばら撒いて統制をかけても追いつかん。困ったものだよ」


 それはさておいて、輝虎と秀虎が本格的に戦争状態に突入しないことを恒元は不満に思っていた。流石に昨日の今日で開戦はしまいと俺は思うも、会長は違う。どうにも彼は、可能な限り兄弟喧嘩を長引かせてやりたいというのだ。


「少しでも多くの実力者を巻き込んで潰し合わせたい。我輩の狙いは銀座の内紛を中川会の改革に繋げること、それゆえに戦争勃発のきっかけは派手であればあるほどに良いのだ」


「はあ……なるほど……」


 その時、俺は恒元の言いたい内容に予想が付いた。彼のために先回りして提案を行うなど馬鹿げているし本意ではない。されどもそうせねばいけないような気がしたので仕方なく口を開いた。


「……では、何かしら煽ってみますか? 輝虎と秀虎がぶつかり合うようなきっかけでもあれば良いんですよね?」


「ふふっ。涼平が居て本当に良かったよ。お前のような優秀な部下に恵まれて我輩は本当に幸せ者だね」


「……ありがとうございます」


 俺はそう云うしか無かった。精神的に自由になったつもりでいても結局は中川恒元に尽くしてしまうとは。つくづく情けない男だ。


 しかし、そんな俺の葛藤など知る由もない会長は笑いながら話を続ける。


「ああ、そうだねぇ。輝虎か秀虎のところの組員をなるべく痛めつけて殺して、その惨殺体を所属先の拠点ヤサに送り届けるのはどうかね。そうすれば相手の仕業と激怒して仕返しに出る、忽ち戦争の火ぶたが切って落とされるだろうから」


 ゲスなことを微笑みながら揚々と言ってのける恒元はともかく、やり方としては非常に優れていた。シンプルながら大いにやってみる価値はありそうだ。


「なるほど……確かにそれは効果がありそうですね」


「ふふふ。楽しみだねぇ。輝虎と秀虎の全面戦争は」


 俺は恒元のその台詞を聞いてため息をつくしかなかった。恐らくこの男は本気でそう思っているのだろう。下劣だからこそ中川恒元は関東の王たり得ているのだ。


 そんな俺の反応を前に恒元はまた頬を緩める。そして彼は云うのである。


「さあ、涼平よ! 来年は大改革だぞ! 我輩に力を貸してくれよ!」


 それに対する答えは一つだ。


「……はい」


 やはり俺は中川恒元の意のままに振る舞う人形だ。マリオネットの鎖が断ち切れたとすれば、今度は何だろうか。会長の意を汲んで自律的に暴れる殺戮アンドロイドか。まったく。自嘲のあまり涙がこぼれそうだ。考え方を変えたことで精神的な自由を得たと思ったらそれはそれで辛くなるとは。


 とりあえず、昼飯を食おう。俺は静かに会長の部屋を出た。そんな時。


 携帯のバイブ音が鳴った。


「メール?」


 噂をすれば何とやら。差し出し人は秀虎だった。


『麻木次長。こんにちは。昨晩はありがとうございました。昨日に引き続きすみませんが、お話したいことがあります。すぐにお越し願います。お願いいたします』


 銀座の屋敷まで足を運べとある。一体、どうしたというのだろう。俺はとりあえず原田に車を出させて銀座まで向かった。


「ん? あれは……?」


 屋敷の近くまで行くと電柱の影に隠れている男が視界に飛び込んだ。それは当の秀虎だ。


「おい。秀虎」


 俺が声をかけると彼はびくっと身体を震わせた。そして、恐る恐るこちらを振り向く。心から安堵したようだった。


「ああ……良かった……」


「どうしたんだよ。何か用でもあるなら電話でも大丈夫だったじゃねぇかよ」


「いえ、電話だと傍受される危険がありますので」


 秀虎が口走った“傍受”という単語に俺は顔色を変えた。どうやら面倒な話だとすぐに予想が追い付く。


「詳しく聞こうじゃねぇか」


「はい」


 そう頷いて秀虎は周囲にキョロキョロと気を配り、俺を合流地点から少し離れた所へと連れて行った。変わらず屋敷の外。連れて来た原田からも距離を置いている。


「俺にしか聞かせられねぇ話か?」


「え、ええ」


 少し遠くできょとんとする原田をよそに、人通りの少ないビルの裏で秀虎は俺に語り出す。提示されたのは携帯のモニター。俺は思わず驚かされた。


「おいおい。これって……」


「はい。僕の携帯に届けられたものです。送り元は兄さんのアドレスですね」


 それは衝撃的な文章だった。


『秀虎。お前の大好きな華鈴は預かった。いわゆる“誘拐”ってやつだ。返して欲しければお前一人で月島の倉庫に顔を出せ。別に俺は身代金を要求したりはしない。ただ、お前が一人で俺の所定の場所に行けば良いだけの話だ。もし、護衛の者を連れてきたらその時はどうなるか予想は付くよな。まあ、待ってるよ』


 ドラマや映画でお馴染みの犯行声明。


「何だと……!?」


 俺は呆然気味に呟いた。このメールが真実なら華鈴は誘拐されたことになる。それもあの輝虎にだ。


「えっ、華鈴は攫われたのか?」


「はい……おそらくは……電話をかけても出なくて、メールにも返信が無くて……」


 男勝りで喧嘩自慢の華鈴が簡単に拉致されるものか。たまたま大学や喫茶店の仕事で携帯を開けないだけなのではと思ったものの、今日は年の瀬。大学は冬休み中であるし、そもそも『Café Noble』は年末年始にかけて休業する店だ。


「うーん。何か別の用事で携帯を触る暇が無いのかもしれねぇぜ」


 そう思って電話をかけた俺。されど、華鈴は出ない。店の固定電話にかけても出ない。与田家の家庭番号や御父君の携帯にかけても同じだった。


「はあ……」


「兄さん、どうします?」


 不安げな表情で秀虎が聞いてくる。俺は少し考えてから答えた。


「とりあえず俺が行く。あんたに行かせるわけにゃあいかねぇだろ」


「……お願いできますか?」


「おいおい。そこは『僕が行かなくて良いんですか』って突っ込むところだろ。まあ良いや」


 そう云って俺は自分の胸をドンと叩く。そして言うのだ。


「おそらく輝虎はあんたを人気のない場所に誘き出して嬲り殺しにするつもりだ。このメールの真偽はともかく、乗ったら奴の思う壺だ。ここは俺が行くぜ」


「麻木次長、ありがとうございます!」


「いや、良いよ。別に」


 秀虎としても最初から俺を行かせるつもりで連絡したのだろう。彼が屋敷の外に居たことを考えると、たぶん三淵以下、組の連中には話していないと思う。輝虎を討てるとなれば暴走しかねない奴らなので、万に一つ華鈴が本当に誘拐されていた線を想定すれば賢明な選択だったと云える。


「あんたは屋敷でどんと構えて俺の帰りを待ってな。親分らしくよ」


「は、はい!」


 頭を下げた秀虎の肩をポンと叩くと、俺は原田の所に戻って共に車へ乗り込んだ。


「原田。赤坂で女が誘拐された。これからそいつを助け出す」


「女? 眞行路の次男の知り合いですか?」


「まあ、そうだな」


 傘下組織の個人的事情のために執事局を動かすわけにはいかないけれど、事が事なので仕方あるまい。「赤坂で起きた誘拐ゆえ本家としては見過ごせない」と原田に言い聞かせて車を出させた。直後、俺は後部座席で考察に耽る。


 華鈴が誘拐されたという情報は本当なのか。はたまた嘘なのか。もし真実なら輝虎は何のためにそんなことをしたのか。ただ単に俺を誘き寄せるためだけか、それとも何か別の狙いがあるのか……いずれにしてもこのメールには罠があるに違いないと思う俺であった。


 ともあれ先ずは状況の確認だ。俺は携帯を取り出すと酒井に電話をかけた。


「もしもし。麻木だ」


『次長? どうされたんです?』


「ちょっと調べて欲しいことがある。赤坂三丁目にある『Café Noble』っていう喫茶店に行って、建物の中に人気があるかどうかを確かめてくれ」


 困惑しながらも酒井は『分かりました』と言って電話を切った。それから俺は原田に指示を飛ばす。


「ちょっとその辺で車を止めてくれ。これから先は別行動だ。こういう時は二手に分かれるべきだ」


「へい。それで、何をすれば?」


「お前は総本部に戻って煙幕と閃光をそれぞれ3つずつ持ってきてくれ。会長に伝えるのは聞かれたらで構わん」


「分かりました。兄貴はどうなさるんで?」


「俺は月島に単独先行して斥候だ。準備が済み次第、現地で落ち合おう。位置情報を教えておく」


「分かりました。では、お気をつけて」


 俺は路肩に降りて酒井からの連絡を待った。そして原田が去って行ってから数分後に電話が鳴る。


『次長。例のカフェに行ってみたんすけど、人気らしい人気はありませんでしたね。二階部分が住居になってるようですがそっちにも人気は感じられません』


「そうか……やはりな……」


『何かあったんですか?』


「そこで働いてる女が誘拐されたという情報が入った。デマだとは思ったが、店に誰も居ねぇってなると雲行きが怪しいな。ここは攫われたと考えて動くべきかもしれねぇ」


 俺は酒井に月島の当該地区へ来るよう命じて電話を切る。もたもたしている暇はない。さっそくタクシーを拾い、銀座から月島へと向かった。


「……ここか」


 着いたのはメインストリートから外れた空き地。ひどく寂びれた周囲の風景と混ざり合うかのごとく、その廃工場はそびえ建っていた。


 俺は偶然にも近くにあったドラム缶の陰に隠れ、懐から双眼鏡を取り出して状況確認に入る。


「……マジかよ」


 入口には歩哨が二人。先ほど車中で運ちゃんに聞いた話によるとその工場は既に廃業したとのことで、ゆえに彼らは確実に部外者。派手な背広という服装からしてヤクザであることに間違いなさそうだ。輝虎が連れてきた手下か。


 ああ。どうやら誘拐の話は本当だったようだ。


「ちっ」


 俺は舌打ちを鳴らして引き続き様子を窺う。建物の周囲には非常階段から続く入り口が複数ある。窓らしきものは無いので中の状況は分からないけれど、煙突のない建物なので溶鉱炉の類は存在しないようだ。


「……製鉄所じゃねぇってなると、中は広々としているかもな」


 そう呟いた時、車が猛スピードで走ってきた。


「次長!」


「兄貴!」


 酒井と原田である。二人は途中で合流して一緒に来た模様。良い判断だぞ。


「よし。お前ら、さっそくですまんが突入するぞ。ここを基点にして左右に非常階段がある。どっちかに分かれて扉の前で待機し、爆発音を聞いたら中に踏み込め。それまでは物音を立てるなよ。俺が先に敵方と交渉ナシをつけてみるからよ」


 建物内部の状況が分からない以上、形勢的にはこちらが不利である。慎重に慎重を期して事に当たるべきだろう。


「分かりました」


「任せてくだせぇ!」


 二人が頷くのを確認した後、俺は工場の正面玄関へとまっすぐ歩いた。そして入り口に佇む歩哨に襲いかかって瞬殺する。門番の癖に携帯をいじってやがったので難なく無力化できた。


「ぐええっ!?」


 もう一人の男は短刀で胸をひと突きされた仲間を前に絶句している。俺はすかさずそいつの口を塞ぎ、喉元にナイフを突きつけた。


「敵の奇襲で動揺するのは未熟者の証だ。もっと反射的に動けるよう精神を鍛えるこったな」


「んぐっ……!」


 恐怖の形相で頷く歩哨を拘束したまま、俺は中へと入る。そこには思った以上の兵隊が集まっていた。


「ほう。こいつは多いな」


 ざっと眺めたところ、100人近くは居る。工場の中は広々としていて、奥には高台のようなものが立っている。そしてそこには輝虎の姿があった。


「ふんっ、やっぱりテメェが来たか。麻木涼平」


 組員たちに取り囲まれる中、俺は輝虎に問うた。


「俺が来ると踏んでいたかのような口ぶりだな?」


「あのヘタレの弟のことだ。何かあれば他人の力に縋るのは分かりきっていた。俺への殺意で周りが見えなくなる三淵には頼めねぇってなると、消去法で最近懇意にしてるテメェしかねぇだろう。計算通りだぜ」


「計算通り? 俺を誘き出すつもりだったのか?」


「まあな」


 そう言って輝虎は「おいっ!」と声を上げた。すると高台の奥の暗闇から縄で縛られた女を須川が連れてきた。


「華鈴!」


 思わず叫んだ俺である。しかし、よく見ると何かが違う。華鈴にしては少し背が高いような……顔には紙袋を被せられているためによく分からないものの、体格が明らかに違う。


 偽物だ。謀られたか。罠にかかった獲物を見下すように輝虎はニヤリと笑った。


「麻木涼平。この女を助けたかったら大人しくしろ。武器を捨てて両手を上げろ」


「けっ、その手には乗らねぇぜ。輝虎。その女は偽物だろう」


 すると輝虎は盛大に吹き出す。


「ははははっ! おいおい。冗談だろう? この女が偽物だって?」


 俺は断言した。


「そうだ。俺の知ってる華鈴は背が低いし、身体も鍛えてるからこんなにヒョロくないぜ」


 なおも輝虎の笑いは止まらない。


「圧倒的不利な状況でも虚勢を張れるとは、流石は元傭兵! しかし、お前がここで踏ん張ったところで秀虎は終わりだ! 今ごろあの愚弟は森田と椋鳥の連合軍に嬲り殺されているだろうよ!」


 そうして輝虎は続けた。


「この女を攫ったのにはもうひとつ理由があってな、お前を秀虎から引き離すためだ。森田総長と越坂部の伯父貴には銀座へ攻め込むよう頼んである。一騎当千のお前が居なければ秀虎なんかすぐに片が付くからよぉ」


 最初から俺をここへ誘き出し、秀虎側の戦力に大きな穴を開けたタイミングで総攻撃をかける算段だったという。まさに輝虎の考えそうなことだ。俺は舌打ちを鳴らす。


「ちっ……」


「さあ、麻木! さっさと武器を捨てて両手を上げろ! 早くしねぇと華鈴が痛めつけられるぞ! お前はそこで馴染みの女が嬲られる様子サマを黙って見ていやがれ! 自分の無力さに打ち震えながらな! ひゃはははっ!」


 奇怪な笑い声を上げる輝虎。いつからだろうか、彼の纏う雰囲気は狂乱の殺人鬼と呼ぶに相応しいものへと変っている。俺の呼び方も「次長」から呼び捨てへと代わり、端正だった顔立ちも今や見る影もない。


 華鈴を攫った理由は、もはや彼女への純粋な行為ではあるまい。それはひとえに、弟が想いを寄せる女だからだ。輝虎が彼女を傷つけることは、もはや秀虎から全てを奪うための一手段でしかなくなっているのだ。


「さあ、どうする? 麻木涼平!」


 俺は縄で縛られながらもジタバタともがく女を一瞥した。そして輝虎を睨む。


「簡単な話だ。これからお前らをぶっ殺して銀座に向かい、森田と椋鳥を返り討ちにする。お前の思い通りにゃさせねぇよ」


「おいおい!状況が分からんのか! お前のお気に入りだった華鈴が人質になってるんだぞ! ここでお前が少しでも妙な真似をすればこの女を殺す! いや、お前のすぐそばで……」


「だから偽物なんだろ? 芝居が大根過ぎて臭いんだよ。ボケが」


 輝虎を遮った俺の言葉に、奴はどういうわけかその顔に嘲弄の色を浮かべた。


「けけっ、どれだけ虚勢を張れば気が済むのやら。よっぽど自分が不利だと認めたくねぇみてぇだな。良いだろう」


 そう言うと輝虎はズボンを脱いだ。


「何をするつもりだ?」


「決まってんだろう! 今この場でこの女を痛めつけ、汚してやるんだよ! お前のすぐそばでなぁ!」


 華鈴の偽物を乱暴して俺の心を折ろうというのか。いや、輝虎は俺がこの女を本物の華鈴だと認識しつつも負け惜しみがてらに偽物だと言い張っていると思っているのか。だとすれば状況が分かっていないのはこいつ自身だぞ……。


 呆れ返る俺をよそに輝虎は不敵な笑みを浮かべた。


「麻木涼平! 全てはお前自身が招いたことだ! 会長側近の癖に何をトチ狂ったか俺の愚弟に入れ上げ、この俺をコケにした! 今から起こることはお前への報復だ! よく見ておきやがれ! マヌケで哀れな執事局次長さんよぉ!」


 そう叫ぶと、輝虎は揚々と女の顔に被せた袋を外す。


「っ!?」


 案の定、現れたのは全く違う女だった。しかし、俺が意外に思ったのは輝虎の反応である。


「えっ……誰だ、この女!?」


 何が起きたとばかりに動揺し、唖然としている。どういうことか。俺に精神的打撃を与えるためにわざと偽物を用意したのではなかったのか。


「おいっ! 須川! どうなっている!」


「か、若頭カシラ、俺はお命じになられた通りに攫って参りましたが……」


「違う女じゃねぇか! こいつは与田華鈴じゃねぇぞ! 誰を攫ってきやがったんだ!」


「そ、そんなはずは!」


 須川本部長は慌てて懐から写真を取り出し、縛られた女と比較する。猿轡を嵌められたその女は確かに似ているものの、華鈴ではなかった。体格のみならず顔つきも少し違う。


「も、申し訳ございません! 赤坂の喫茶店の近くに居たもんで、つい本人だと!」


「どうして確認をしねぇんだ! この馬鹿野郎が! 俺に恥をかかせやがって!」


 輝虎は怒りのあまり須川を殴り飛ばした。床に倒れた彼の腹を何度も蹴った後、着衣を戻しながら低い声で吐き捨てた。


「クソが! どいつもこいつも役に立たねぇ!」


 そう言った輝虎は懐から拳銃を取り出し、女のこめかみに突きつけた。


「大体、テメェも何で違うなら違うと言わなかったんだよ。とんだ大恥をかいちまった。クソ女」


 さるぐつわを噛まされた女は声にならない声で悲鳴を上げる。


「んんっ……んんっ……」


 その表情が苛立ちの炎に油を注いだのか、輝虎は逆上した。


「この野郎。俺を馬鹿にしてるのか!?」


 輝虎は拳銃をさらに強く突きつける。華鈴だと信じていた女が偽物だったという事実に、彼は怒り心頭のようだ。どうやら輝虎は本物を誘拐したつもりでいたようだ。


「もう良い。お前は殺す」


 俺は思わず叫ぶ。


「待てっ!」


 しかし、時すでに遅し。乾いた銃声が響いてその場は真っ赤に染まった。


「……」


 頭を撃ち抜かれた女は恐怖に顔を歪ませたまま絶命していた。俺は思わず顔を伏せる。


「ああ、畜生! この馬鹿女!」


 輝虎はため息をつきつつ拳銃を投げ捨てた。そして俺に視線を向けて言い捨てる。


「ついでにテメェも殺してやるよ」


 その台詞は正面からは耳には入らなかった。煮えたぎる激情が腹の底で燃え盛っていたのだから。


「……この野郎」


「ああ? 何だって?」


 次の瞬間、俺は絶叫した。


「輝虎ァァァァァァーッ!!!」


 無関係な人間が殺された。あそこで俺が咄嗟に煙幕を投げていれば、結果は違っていたかもしれないのに。その事実が途方もない後悔と自分への怒り、そして高台の上に居る男への憎しみを引き起こし、爆発させる。


「殺すッ!!!」


 俺は怒りに身を任せて駆け出した。そして勢いよく跳躍し、高台の上に飛び乗る。


「なっ!?」


 動揺する輝虎に向けて渾身の拳を突き出した俺。されども、それは防がれた。風のように割って入った一人の男によって。


 ――ドガッ。


 輝虎の前に立ちはだかったその男は腕に盾を付けていた。蕨剣斗。眞行路一家若頭補佐で輝虎の配下にあたる男だ。


「なっ! わ、蕨!?」


「若頭! ここはお逃げください! こいつは俺が始末します!」


 腕を伝う衝撃に顔を歪めながらも勇ましく言い切った部下に「恩に着るぞ」と言い残し、輝虎はそそくさと逃げていった。


「待ちやがれッ!」


「お前の相手は俺だ」


 次の刹那、斬撃が飛んでくる。俺は止む無く躱して後ろへ下がった。盾と鉤爪が一体になったような西洋由来の武器、クロウ・シールド。それがこの蕨剣斗の持つ得物だ。その盾の部分も先ほどの俺の拳で大きな穴が開いてしまっている。


「5ミリの鉄板に穴を開けるとは大した腕だ。さては貴様、拳法使いか。残念だ。これほどの力があれば容易く天下が取れるものを。中川恒元ごときの忠犬に甘んじているとは」


「うるせぇッ!」


 俺は蕨に向かって今度は掌底を突き出す。蕨は両手を交差させてそれを防ぐも、その衝撃で彼の身体は後方へ吹っ飛んだ壁に激突した。奴は血を吐きながら狂気の目で睨んでくる。


「ぐあっ……貴様の拳はまるで銃弾だな……」


 その時、俺は高台の下に居た組員たちが一斉に銃を構える姿を視界に捉えた。蕨と戦っている最中に援護射撃をされたら厄介だな。煙幕を使って一時的に動きを封じるか……いや、今は何だか暴れたい気分だ。


 そう思った俺は高台の下へ飛び下り、狼狽える男たちに向かって凄んだ。


「てめぇら、誰一人として生きて帰さねぇッ! 全員ぶっ殺してやるッ!」


 構えを取り、呼吸を整える。そして全身の神経が引き締まると同時に怒声を上げる。


「でやあああああーッ!」


 その刹那、俺は駆け出した。


 先ずは正面に居た組員に狙いを定める。彼は恐怖のあまり腰が引けている。その隙をついて彼の顔に拳を叩き込み、頭蓋骨もろとも粉々に砕いて惨殺した。


 鮮血を撒き散らして男を踏み越えて次の相手に向かう。次は二人同時に仕掛けてきた。俺は一人目の腕を掴んで折り、顔に貫手を突き刺して仕留める。そして二人目の胸元に肘打ちを叩き、一瞬で息の根を止めた。


「怯むなっ! 殺せっ!」


 よろよろと起き上がる蕨の号令で日本刀を構えた数名の男たちが一斉に斬りかかってきた。


「うおおおーっ!」


「遅いんだよ。ボケが」


 俺は彼らの攻撃を紙一重で躱しつつ、各々顔面を鷲掴みにして握り潰した。そしてそのまま地面に叩きつけると、彼らは血反吐を吐きながら絶命した。


「ひいっ!?」


「馬鹿なっ!」


「ず、頭蓋骨を素手でっ!?」


 逃げ惑う組員たち。しかし俺はそれを許さない。次々と彼らを捕まえては殴り殺していく。


「ぐあっ!」


「ぎゃっ」


「があっ!」


 そんな俺の前に体勢を整えた蕨が立ちはだかった。何処から持ってきたのか、彼は分銅付きの鎖鎌を振り回していた。


「覚悟しろ。麻木涼平。貴様はこの蕨剣斗が倒す」


 蕨は分銅を投擲してきた。俺はそれを躱しつつ距離を詰める。そして蕨の顔面に向けて右の拳を放つも、彼は手持ちの鎌を大振りしてくる。


「ほう!?」


「貰ったーっ! 麻木ーっ!」


 だが、何てことは無い。俺は即座に左手で短刀ドスを抜いて鎌の刃を受け止める。俺の反応勝ちだ。


 ――ガキィィィン!


 刀身同士が激しくぶつかる。物凄い力が左腕に加わるが、足腰を極限にまで強化した鞍馬菊水流伝承者の敵ではない。俺は力任せに押し返す。


「ぐあああっ!」


 その衝撃に耐え切れず、鎌が弾き飛ばされた蕨は体勢を崩す。俺はすかさず彼の腹へ蹴りを入れた。


「ごはっ!」


 バランスを崩した蕨を尚も追撃する俺。そのまま拳を振り上げるも、奴は俺に組み付いてきた。


「へへっ……捕まえたぜ……!」


 するすると腕を絡ませてくる。胴締めスリーパーホールドの体勢か。生憎ながら、そんな技は高虎との喧嘩で対処法を学習済みだ。


「おらぁッ!」


 ――バキッ。


 締め上げられ腕を折られる前に頭突きを食らわせた。


「ぐああああっ!」


 衝撃のあまり蕨はよろよろと仰け反った。


「くっ、くそっ! 流石にヘヴィーだな!」


 蕨は血が流れる額を押さえて恨めしそうにこちらを睨んだ。常人であれば気絶していてもおかしくはない一撃を凌ぎ切るとは。この蕨なる男も相当の猛者だ。


「ふっ、あんたもなかなかの腕だよ……けど、俺の敵じゃねぇな。おらよっ」


 俺は蕨の腕を掴んで組員たちに向かって放り投げた。


「わ、蕨の兄貴!」


 飛んできた蕨の体を彼らは慌てて受け止めると、すぐさま銃を構えて兄貴分を守るように立ちはだかる。そうして俺に向けて一斉に引き金をひいてきた。


「蜂の巣になれやーッ!」


 それでも俺には当たらない。次々と飛んでくる銃弾を躱し、俺は突撃をかける。鞍馬菊水流は瞬発力も絶大なのだ。


「なっ!?」


 ほんのコンマ一秒足らずで組員たちに肉薄した俺は、まず手近に居た奴の心臓を掌底で破壊した。次にその隣の男の顔面を蹴り上げると、彼は錐揉み回転しながら吹っ飛ぶ。さらに別の男に正拳突きを食らわせると奴は血反吐を吐きながら倒れた。


 そのまま背後から斬りかかってきた男を裏拳で吹っ飛ばし、左手に携えた短刀で残る敵を切り刻んでゆく。今日の俺は止まらないぞ。怒り狂った時の自分に我ながら恐怖が湧いてくるくらいだ。


「ぐはあっ……」


 最後に残った敵を一刀両断した後、日本刀を捨てた俺は忍び寄る気配に振り向いた。そこには額からの流血で顔を真っ赤に染めた蕨が立っていた。またまたどこから持ってきたのか、両手には西洋由来の片手剣、カットラスが握られている。


「うおおおっ!」


 怒声を上げながら斬撃を繰り出す蕨。先ほどの一撃では脳震盪を起こしたであろうに、それでもなお機敏な動きが可能とは大したものだ。されども鞍馬菊水流伝承者の敵ではない。


「遅いっ」


 俺はその攻撃を躱して頭上に高く跳躍する。そして限界高度にまで達したところで天井を蹴って反転すると、落下の勢いを利用して急降下。待ち構える蕨に蹴りを叩き込む。


 よろいくずし。


 体中の闘気を全て右足に込めて放つ鞍馬菊水流最強の打撃技。本来ならば前月に眞行路高虎を蹴り殺していたはずの一撃だ。


 ――バキッ。


「ぐあああああああっ!」


 俺の蹴りをまともに食らった蕨は、そのまま数メートル後ろに吹っ飛んで地面に倒れ伏した。勝負はあったな。奴は体内のありとあらゆる臓物をぶちまけて事切れていたのだった。


「……」


 直後、俺は興奮の酔いから醒めたかのように冷静さを取り戻す。廃工場内に散らばった骸の数々を前にため息が出る。怒りで大暴れしてしまった己の狂乱ぶりにようやく気付く。


 俺は階段で高台へ上ると、そこに倒れていた女を改めて視界に収めた。


 その身体は無惨にも硬直していた。


「はあ、はあ……どこの誰だか知らんが、すまねぇな……守ってやれなくて……」


 俺は自分の無力さを痛感した。その若い女を守れなかった自分が憎くて仕方なかった。そして一度は鎮まったはずの怒りが燃え上がるのを感じた。この事態の元凶である輝虎に。裏社会の哀しき摂理に。そして自身の非力さにだ。


 虚しさに駆られながら、俺はゆっくりと建物を出た。するとそこには例によって予想外の光景が広がっていた。


「えっ?」


 なんと無数の男たちが横たわっていたのだ。その中で両手を真っ赤に染めた酒井と原田が息を切らして立ちつくしていた。


「はあ……次長……」


「あ、兄貴……」


 彼らに駆け寄り、俺は問う。


「お前ら、これは一体どういうことだ?」


 それに酒井は肩で息をしながら答えた。


「実は突入のタイミングを窺ってる時に襲われましてね。ご覧の通り返り討ちにしたんですが、奴らは次から次へと湧いて出てくるからキリがなくて……」


 原田も頷く。


「こいつら、水戸の森田一家と前橋の椋鳥一家です。でも、途中で引き揚げて行ったんです。何か、連絡を受けたみてぇにも思えましたけど……」


 酒井と原田がいつまで経っても突入してこないと思ったらそういう事態に遭遇していたとは。連中が途中で引き揚げて行った件については意味が分からなかったけれど、やがて認識と納得が追い付く。


「そうか。本庄の野郎が奴らを調略したんだな。おかげで輝虎との同盟関係が消えたってわけか」


「えっ? あの本庄組長が?」


「ああ」


 きょとんとする2人の部下は俺が午前中に行った説得工作を知らない。


「秀虎に付くよう本庄を言いくるめたんだよ。そしたら野郎は森田と越坂部の弱みを握ってたみたいでな。本庄が秀虎に付いたことで奴に逆らえない森田たちも秀虎に付かざるを得なくなったってことだ」


 酒井と原田は顔を見合わせる。


「そうだったんですか……俺たちの知らないうちにそんなことを……」


 俺は「まあな」と頷き、煙草に火を付けた。


 今回の件で本庄が信用に足る男であると一応は証明をせた。確かな利益がある限り、彼は秀虎の味方をしてくれるだろう。これにより森田一家および椋鳥一家が輝虎と結び付く脅威も薄れた。


 ただ、裏社会の情勢が如何に変わろうとそこで虐げられる人々が居ることに変わりはない。この世界で人の命は砂より安い。人が人を食らい、人を売り買いし、人が人を陥れる。そんな世界だ。


 それを憂う俺は何を為せるというのか。どんなに気高い理想を抱こうと何も成し遂げられていないではないか。事実、ヤクザたちの身勝手な都合で誘拐された先ほどの女を俺は救えなかったのだから……。


 物思いに耽っていた「次長?」と酒井に声をかけられて我に返る。どうやら物思いに耽っていたようだ。


「ああ、何でもねぇよ」


 そんな俺に原田が投げた台詞は意外なものだった。


「兄貴は凄いっすよ。こんなクソみたいな世界で、自分の正義を貫こうとしてるんですから」


 俺は思わず返答に詰まった。そして原田は続ける。


「俺なんか、兄貴の足元にも及びませんけど……それでも少しは分かりますよ。だって俺たちヤクザですよ? しかもこんなクソみたいな世界です。まともに生きてくだけでも難しいってのに……」


 そこで彼は言葉を切ると、俺を見つめた。


「そんなクソみたいな世界で、兄貴はひたすらに自分の信じた正義のために戦ってるじゃないですか。それは凄いことですし尊敬します」


「……そうか?」


「そうですよ! 俺、決めました! 兄貴みたいな極道になるために努力するって!」


 一体、俺の何処に尊敬に値する要素があるうのか。困惑と自嘲に唖然としていると酒井までもが頷く。


「俺もこいつと同じ重いです。次長は俺たちみたいなあぶれ者の味方ですよ。そんな人、なかなか居ないです」


「そう……なのか?」


 原田も「そうですよ!」と賛意を示す。


「俺たち、兄貴にずっとついていきます!」


 あまりにも唐突な称賛に俺は戸惑った。戸惑う他なかった。自分に称えられるべき所業や実績などがあるとは思えなかったのである。


 ただのチンピラどころか、拳を振るうことしか能の無い下劣な殺戮アンドロイドに成り果てようとしているのに。


「お前ら……」


 出会ってから半年以上。今まで背中を預けて共に鉄火場で暴れたことは何度となくあった。その時の俺の仕草、立ち振る舞い、紡いだ言葉が、彼らにある意味での幻想を抱かせてしまったようだ。されど俺にはそんな喧嘩しか取り柄が無い。今まで、ただただ暴力を撒き散らすだけのヤクザたちの中で何が正しいか迷いながら拳を振るってきたに過ぎない。


 それすらも正しいことなのか分からないというのに……。


 まあ、そんな俺を慕ってくれるというのなら、それはそれで嬉しいことだ。


「ははっ。ありがとよ」


 俺はそう言って笑うしかなかった。そして2人の部下はそんな俺を見て微笑んだのだった。


 その後、俺たちは総本部に連絡を入れて死体処理の段取りをつけ、廃工場を後にした。酒井と原田が乗ってきた黒塗りのセダンに乗り込み、赤坂まで送ってもらうことにした。着いたのは時刻は夕方18時過ぎである。もう日が落ちている頃であった。


「じゃあな。お前ら」


「良いお年を~」


 酒井と原田と別れ、俺はぶらぶらと赤坂の街を歩く。恒元は家族と過ごすため総本部には居ない。助勤たちは軒並み帰省している。あの2人も車を戻し終えたら実家に帰るはずだ。


「さてと……どうすっかな」


 俺は懐から煙草を取り出し一服した。そして考える。このまま寮に帰るか、それとも何処かで飲みに行くかだ。しかし、年の瀬ということもあって酒場は何処も混んでいるし、何より今日は昼飯を食べそこなったので腹が減っている。それに今年の締めくくりを普通に飲んで過ごすのも変だ。誰か知己の者とゆっくり語り合いたいものである。


「あいつの店に行くか……」


 結論を出した俺は華鈴の店に行ってみることにした。安否確認という意味も込めて。その道中のこと、歓楽街に差し掛かったところで携帯のバイブレーションが震えた。


「何だ、こんなときに……」


 携帯の画面を見ると、それは淑恵からの電話。俺は通話ボタンを押して電話に出る。


「麻木だ」


 すると彼女は穏やかな声色で切り出した。


『あんたなんだろう? 秀虎に付くよう森田と椋鳥を説得したのは。おかげで助かったよ。また借りを作っちまったね。ありがとう』


 聞けば森田一家総長の森田と椋鳥一家総長の越坂部が先ほど眞行路邸を訪れ、後継者問題における秀虎の支持を表明したとのこと。淑恵にしてみれば敵方からの突然の寝返り。どういう風の吹き回しかと驚いたそうだが俺の調略工作によるものではないかと勘付いたらしい。


「別に俺は何もしてねぇよ。ただ、あいつらが勝手に輝虎との仲を拗らせただけだ。元から利益だけで立場を変えるような奴らだからな」


 俺はそう答えた。別に嘘は言っていない。その助言を真に受けたかどうかは奴らの勝手であるし、そもそも俺の言葉など無視しても一向に構わなかったのだ。ひとまずは。本庄組の件は今は黙っているとしよう。淑恵自身も背後で五反田の蠍が暗躍していることに気付いていないようであるから。


『そうかい。でも、助かったよ』


 電話越しの淑恵の声はどこか嬉しそうだった。「それは良かったな」と返す俺は内心、複雑な気持ちであった。これで秀虎は兄と全面戦争に突入する。銀座の利権を狙う有力親分たちの思惑に翻弄されながら兄と喧嘩しなくてはならないのだ。


『麻木。今年はあんたにも世話になったね。来年もよろしく』


「ああ。姐さんも良い年を迎えてくれ。またな」


 いつからか、俺は淑恵を“姐さん”と呼ぶようになっていた。無論、そういう立場ではないものの、彼女と話していると何だか母親を思い出すのだ。きっと厳格さに内包された彼女の優しさがそのように感じさせるのだろう。出会いの印象こそマイナスだったけれど、今ではすっかり仲が深まった。どうか彼女も無事で居て欲しいものである。


 電話を切ると、俺は深いため息を吐いた。これから起こるであろう事態に思いを馳せたのである。果たして秀虎は勝てるのか? いや、それ以前に無事に生き残れるのか? そんな心配が脳裏を過る。そして何より、裏社会の情勢はこれからどんな展開を辿ってゆくのか? 銀座の戦争は激しく燃えるだろう。どちらか一方を確実に殺すまで止まらないはずだ。


 ただ、このように秀虎の身を心から案じていること自体、俺にとっては誇るべき話なのかもしれない。誰に命令されるわけでもなく、自分の意思を持っている何よりの証左といえるのだから。


 人は誰しも変わりゆく。輝虎が野心を剥き出しにし、秀虎が気高い思想と共に親分を志し、淑恵は息子を全力で守ると決めた。


 俺もまた例外に非ずということだ。


「まあ……それも仕方ねぇか……」


 そう呟きながら『Café Noble』へ歩いていると、慌ただしく通行人に声をかけている男の姿が視界に入った。


「妹を知りませんか!?」


 どうやら家に帰らない家族を探しているようだ。このご時世、物騒であるし無理もないことである。俺はその男に歩み寄って声をかけた。


「どうした? 何か困り事か?」


 男は振り返るなり縋るように俺の手を取った。そして堰を切ったかのように話し始める。その口調からして切羽詰まっていることが窺えた。


「実は昨日から妹が帰って無いんです! 21歳の大学生で、この辺りでバイトをしていたんです!」


 そうして提示された写真に俺は腰が砕けそうになる。おいおい、この女……先ほど輝虎が華鈴と勘違いして誘拐した無関係な一般人じゃないか!


 亜麻色のロングヘア―というスタイリングが人違いの原因になったと思われる。おまけに華鈴と同じ上叡大学の3年生という。輝虎サイドがミスをするのも無理は無かった。


 されど、人違いで攫われた上に殺されたとなれば、この女性も浮かばれないだろう。俺はそう思いつつ、男に問うた。


「その妹さんのお名前は?」


 男は答える。


舞香まいかといいます! 沢崎さわさき舞香まいか!」


 俺はここで少し考えた。もし俺がこの男に真相を話したらどうなるか。話したところで、既に男の妹は殺されてしまっている……。


 結局、俺は最も賢明かつ卑怯な道を選んだ。


「うーん。分からねぇな。この辺りじゃ知らん顔だ」


 俺はそう答えた。落胆するして「そうですか……」と肩を落とす男に俺は続けた。


「力になれなくてすまねぇな」


 そう言って立ち去ろうとしたが、男は俺の腕を掴んできた。そして涙声で叫ぶ。


「何か手がかりがあったら連絡をください! お願いします!」


 俺はその手を振りほどくことも出来ずに頷き、男の連絡先を聞いたのだった……。


 それから『Café Noble』に着いたのは18時を回った頃であった。華鈴は以外にも店の外で立て看板の修繕を行っていた。


「か、華鈴!」


 彼女が無事である安堵感からか。思わずそう叫んだ。


 華鈴は俺に気付くと、ひどく驚いた表情を浮かべる。俺は駆け寄るなり彼女の肩を掴んだ。


「ああ……良かった……ここに居てくれて……」


「え? 何よ?」


 当然ながら俺を華鈴は怪訝な表情で見つめる。そして俺の手を振りほどいた。


「いきなりどうしたの?」


「な……何でもねぇ……ただ、電話かけたけど出なかったもんだから気になってな」


「ごめんね。お昼からお父さんと二人で携帯の機種変更に行ってきたの」


「機種変更!?」


「うん。前のやつがだいぶ古くなっちゃってたし、親子で一緒に手続きすると安くなるキャンペーンやってたからさ。たぶん繋がらなかったのはそのせいかも」


 俺が手を離すと彼女は立て看板の修繕作業に戻った。その後ろ姿にどこか途方もない安堵感をおぼえる俺が居た。


「はあ。これでよしっと。じゃあ店に入りましょ。何か作ってあげる。お腹空いたって顔してるから」


「ああ……」


 昨晩の一件のせいで少し気まずいけれど、年の瀬の夜を華鈴と過ごせるなら文句は無い。俺は言われるがままに店へ入って普段通りのカウンターへ腰かけた。


「あなたも知っての通り、店は年末年始はお休みなんだけど常連さんだけの特別営業ってことで。だから特別に私がご馳走してあげる」


「ああ、感謝するぜ……けど、良いのか? お前も年の瀬くらいはゆっくり過ごしたいんじゃねぇのか?」


「大丈夫よ。冬休みのレポートは書き終わったし、家に居ても年末特番を観るくらいしかすることが無いから暇なんだよね」


 父の雅彦氏は知り合いとの飲み会に出かけているらしい。よって今夜は華鈴と二人きりだ。少し気恥ずかしいけれど、この時を満喫させてもらおうか。


「ああ、年の瀬と云えば紅白ね」


 華鈴がテレビをつけると、ちょうど『第55回EBN紅白歌謡大会』が始まったところだった。受信料やら政府の提灯報道しかしないやらでたびたび世論から批判されているEBN(帝国放送協会)であるが、この紅白歌謡大会だけは年末の風物詩として国民に親しまれている。


「あ、もう始まったのね。麻木さんはどっちが勝つと思う?」


「紅組だな」


 俺は断言した。華鈴が意外そうな表情を浮かべる。


「え? どうして?」


「今年はガールズグループが爆発的に売れたからな。結局、こういう勝負事は数字を稼いでる側が勝つって相場が決まってるもんさ」


「ああ……なるほどね……」


 華鈴は納得したように頷くとエプロンを着け、カウンターからキッチンへ移動する。そして冷蔵庫を漁って食材を手際よく取り出す。どうやらカレーライスを作ってくれるつもりらしい。


「へぇ。楽しみだな」


「いつものパスタは麺を切らしちゃってて年明けにならないと入荷しないから……って、あ!」


 彼女は不意に何かに気付いたかのように叫ぶ。


「な……何だよ?」


「ごめん! お米炊くの忘れてた!」


 俺は失笑するも華鈴は大して気に留めずキッチンで作業を続ける。まあ、昨日から色々な出来事があったのだ。気が回らないのも仕方ない。


 テレビでは紅組の司会が「今年の紅白は史上最強の布陣でお送りしております。どうぞ最後までご堪能ください」と満面の笑みにてアピールする。


 華鈴は炊飯器のスイッチを入れてからカレー作りに取り掛かった。俺はカウンターに肘をつき、それを眺めることにした。


「やっぱりカレーにはジャガイモだな……うん……」


 彼女にとってこの作業はプライベートというよりは仕事の番外編に近いものらしい。その証拠に、俺を2階の住居スペースに上げたりはせず店内に留めている。俺は未だ華鈴とはそういう仲には無いのか……当然といえば当然であるけれど何だか寂しい。


 秀虎だったら2階に上げるのか。


 ああ、止めておこう。男の嫉妬は不格好なだけだ。ほのかに火の付いた醜い感情を消火するように俺は取って付けたような話題を投げた。


「俺の実家ではジャガイモの代わりにイカの切り身なんかを入れてたぜ」


「へー、麻木家はシーフードが定番だったの?」


「いやあ、かと言って具材は魚介に統一されてなくて普通に牛肉も入れてたんだ」


「ふふっ。何よそれ」


 出会ってから半年以上。華鈴とも色々あった。彼女は俺をどんな対象として思っているか、それは当人しか存ぜぬこと。鉄火場で共に拳を振るう同志として、華鈴は恋の相手というよりは戦友だ。そう頭では認識している。されども時折、何故だか彼女に下心を向けてしまう。


「……まあ、良かったぜ。こうやって年の瀬にお前の作ったカレーを食えるなんて。俺は幸せな男かもしれねぇな」


 ジャガイモの皮を剥く華鈴の横顔を眺めながら呟く俺であった。


 それから約60分後のことだ。時刻は19時半を過ぎて、多少の計算違いはあったものの無事に料理は完成した。


「はい。どうぞ」


 華鈴はカレーライスを俺に差し出す。俺は「いただきます」と告げてからスプーンを手にして黄色のルーを口に運ぶ。


「ん! 美味いな!」


 一口食べた瞬間、思わずそう叫んでしまった。この味だ。俺の舌はこのカレーの味を知っているのだ。


「え? どうしたの?」


 そんな俺を不思議そうに見つめる華鈴に俺は答えた。


「いや……これさ……俺がガキの頃によく母さんが作ってくれたやつなんだよ……」


 すると華鈴は失笑を吹き出す。


「そりゃあそうでしょうね。うちの店の特製じゃなくて市販のカレー粉を使ってるんだから。きっと何処の家も皆こんな感じよ」


 だとすると麻木家はかつて華鈴の家と同じ商品を購入していたということか。懐かしさの正体に気付いて俺は苦笑いする。


「ああ、そういうことだったか」


 そんな俺に華鈴は食い入るように問うた。


「ねぇねぇ、麻木さんの親御さんってどんな人だった? 中川会でそれなりの地位に居るってことはお父さんもヤクザだったんだよね?」


 不意の質問に驚くも、答えられぬ内容ではない。


「まあな。親父は三次団体の組長だった。喧嘩好きで荒っぽい話は日常茶飯事だったが、俺には優しかった」


「お母さんは?」


「何でも受け止めてくれる人だったな。親父が組の喧嘩で人を殺して帰ってきた時も、俺がグレて道を外れた時も、母さんは笑って流してくれた」


「へぇ。凄いね」


「ああ、自慢の親だ。だけど今ではどちらとも会っちゃいない……というか会えねぇな」


 俺の言葉に華鈴は神妙な面持ちで頷いた。言い回しから薄々、麻木家の現状に勘付いたのだろう。その反応に俺は少し気恥ずかしさを覚えながら問い返した。


「華鈴は? 親父さんは知ってるけど、お袋さんはどんな感じだった?」


 そう尋ねると、華鈴は少し俯いた。


「あたしのお母さんは麻木さんのお母さんとは真逆だな。けっこうヒステリックで口うるさかったから幼心に苦手意識を持ってた」


 華鈴の父、雅彦氏とは華鈴が幼い頃に離婚しているという。今は年に何度かのペースで会っているもののあまり良い印象は持っていないようだ。


「会う度に『お父さんみたいにはなるな』って言われる。まあ、うちのお父さんはアレだから仕方ないけど。それでもあたしなりにお父さんのことは尊敬してるからあんまり罵られると腹が立つっていうか」


 そういえば華鈴の母は、正義の味方を気取って度々トラブルを起こす雅彦氏の迷走ぶりに愛想を尽かして出て行ったのだったか。


「あたしからすればお母さんの方が不安で心配なんだけどね。また変なことに手を出してるんじゃないかって……」


「変なこと?」


「何でもない。うん、この話は止めにしようよ。年の瀬くらい明るい気分でいたいから」


 少し気にはなるけれど華鈴が話題を変えたがっているのでそれに従う。この場で「何か力になれることがあれば言ってくれよな」と返せないのがもどかしい。尤も、単なるヤクザでしかない俺に手伝えることなどは専ら荒事か面倒な交渉事だろうけど。


「へぇー。前半は紅組が優位なんだ。やっぱり麻木さんの予想通りだね」


 テレビでは『紅白歌謡大会』が盛り上がっている。華鈴はカウンター越しに身を乗り出して、食い入るように画面を見つめている。


「あ! 白組の前半のラストバッター、神野龍我だ!」


 つい昨日に東京ドームに公演を観に行った神野龍我。大歓声の中で颯爽と登場した彼は今年のヒット曲『VIRGIN BLOOD』を熱唱する。セックスをテーマにした過激な歌詞なれどもそれを感じさせない爽やかなサウンドが持ち味のナンバーである。


「やっぱりカッコいい……!」


 華鈴が恍惚とした表情を浮かべている。そんな様子を俺は複雑な思いで眺めていた……。


 その後、華鈴と紅白の話題で盛り上がりながらカレーライスを食べ終えた頃、テレビは21時のニュースを伝え始めた。


「今年は株価も上がったけどさぁ、やっぱり庶民にまでは恩恵が波及していないみたい。投資家や会社経営者ばかりが得をして貧富の差は広がるばかりだよ」


「そうか……まあ、仕方ねぇな……」


 物憂げな表情で華鈴は呟く。


「生活苦から売春に走る女の子も増える一方。そこに付け込む輩が居る限り、彼女たちは虐げられ続ける。許せないよ」


 華鈴の云う『そこに付け込む輩』とは俺たちのような暴力団であると分かっている。それでも俺は彼女の言葉に賛同した。社会の歪みと腐敗に翻弄される人々が存在する現状は、やっぱりおかしいという他ない。


「ああ。そうだな。俺も許せねぇと思う」


 されど、俺に何を為せるというのか。所詮は俺も人々を虐げる側の存在。単なるヤクザでしかないのだ。


 この一年、中川恒元の傍で数々の非道をはたらいてきた。沢山の人を自らの手で殺した。銃を撃った回数は傭兵として戦地を駆けていた時分より多いからお笑い草だ。気高い正義や思想などは掲げても無駄。それを嫌というほど思い知らされた。にもかかわらず、未だにくだらぬ夢を抱いてしまうから、つくづく己の甘さに呆れてしまう。


 結局、この麻木涼平は『虐げられる人々を救う』などという妄想に耽るべき男ではないのだ。


 しかし……。


 俺は悩むことを止められなかった。


 テレビから宴会のごとく音楽が流れ続ける中、愚かな男はただただ考え続ける。殺戮アンドロイドである自分を否定するように。そんなことをしても単なる自己肯定、認めたくはない残忍な殺し屋としての姿に蓋をするだけに過ぎないというのに。


「麻木さん?」


 そんな俺の迷いを断ち切るかのように華鈴は声をかけてきた。カウンター越しに俺を凝視している。俺は我に返り、慌てて言葉を返す。


「え? あ、ああ……すまねぇな……」


 すると華鈴は呆れたように溜め息を吐いた。


「まったくもう……さっきからボーッとしてたよ」


「あ、あのさ」


 無駄なことなのに。愚かな男は漏らすように口走ってしまった。


「……俺には夢がぇ。志だの正義だのは似合わん業界に身を置いているからな。何かを掲げたところで、結局それは自己満足にしかならねぇんだ」


「え?」


 当然ながら華鈴は困惑している。俺は続けた。


「いっぱしの夢を抱いて幸せを望むことは許されねぇ身分だ。けど、誰かの幸せを守ることくらいやったって問題ねぇはずだ」


「……うん」


 俺の言葉を静かに聞く華鈴。彼女は返す。


「あたしにも夢は無いよ。こんな腐りきった世界で幸せになりたいなんて思ったって無駄だもん。傷つくだけだから。あたしはもう夢破れて傷つきたくない。だからっていうのもおかしいけど、夢を持ってる人は凄いなって思う。尊敬しちゃう。幸せになることからドロップアウトした者だからこそ、いま夢を追いかけてる人には叶えて欲しいんだよね」


 そんな彼女の言葉に、思わず胸が熱くなるのを感じたのだ。頭の中にあった青臭い考えと符合している。俺は勢い任せで口を走らせた。


「幸せになんかなれねぇって分かってるから、なおさら守ってやりてぇんだよな。誰かの幸せを。途中で投げ出した自分てめぇの分まで」


「うん。あたしもそう思う。それが後ろ暗い過去を抱えたあたしたちに許される、ただひとつの夢なんじゃないかなって」


 どうやら俺と華鈴は同じところを向いているようだ。そのことがますます心を暖めてゆく。漠然とした孤独感や虚しさが薄れてゆく感覚だ。


「ねぇ、麻木さん。さっき『俺には夢が無ぇ』って言ってたけど、麻木さんにだってあるじゃない。誰かの幸せを守りたいっていう、立派な夢だよ」


 俺にだって夢がある……ああ。そういうことか。心の中で蓋をしようとしていた甘ったるい美学が、何だか価値あるものに思えてきてしまったぞ。


「立派な夢?」


「うん。誰かの幸せを守る。とても立派なことだよ」


「……ああ、そうかもな」


 俺は頷いた。決してそうではないというのに。まあ、何にせよ己という存在の全てを容認しようとしないこの時の俺には分かるべくもない話だった。


 閑話休題。深々と頷いた俺に華鈴は嬉しそうに笑う。


「ありがとう」


 そうして俺たちは自然と誓い合った。


「これから何が起こるか分からないけど、あたしたちはなるだけ自分らしくいようよ。手を差し伸べられる人には手を差し伸べる。手の届く範囲で誰かの幸せを守るって」


「ああ。そうしような。約束だ」


 前言を撤回しよう。


 誓い合ったのではない。誓い合ってしまったのだ。


 気高い志は醜い現実に食いつぶされる。そんな世界の摂理をお互いに知っていたはずなのに。頭では分かっていても、求めてしまう。つくづく愚かで、甘ったるく、不思議な俺たちだった。


 それから程なくしてのこと。テレビでは紅組の優勝が伝えられた。華鈴は万歳三唱に感極まって涙ぐんでいる。


「ああ、紅白も終わりか。何かもう、今年もクライマックスなんだね。色々あったけどさぁ、こうやって無事に年の瀬を迎えられて良かったよ」


 そんな彼女の横顔を眺めながら、俺は思うのだった。平凡で貴い幸せを守るためにも、なるだけ美学を貫くべく精一杯足掻いてやろうと。そのためにも先ずはきたる戦争で眞行路秀虎を勝たせ、妄想が現実を超えることもあると自他に分からせてやらねば。


 やがてテレビから除夜の鐘が響く。


「あ、もう年が明けるね」


 華鈴はカウンター越しに俺に微笑んだ。その表情には期待が込められている。俺は敢えて言葉を選びながら彼女に答えた。


「ああ……来年もよろしくな」


 すると彼女は屈託のない笑みで応えてくれるのだ。

「うん! よろしくね!」


 ああ、そうだとも。来年もその次の年もそのまた先もずっとだ。約束する。


「俺たちは、俺たちらしくいような」


 ただ、この時の俺は未だ知る由も無かった。


 己が理想を果たす第一歩と位置付けた銀座の戦争が、中川会のみならず日本の裏社会全体を巻き込む争乱に繋がってゆくとは。


 そして、それが史上最も恐ろしく熾烈なものとなろうとは。


「あっ、午前0時。あけましておめでとう!」


 俺は頷いた。


「あけましておめでとう!」


 そうして俺たちは今一度笑い合うのだった……。

群雄割拠の裏社会。彼らは果たして美学を貫けるのか。そんな中で志を抱く意味とは……?


さてさて、今回をもちまして第11章は完結となります。いかかでしたでしょうか。残暑もまだまだ厳しい気候ですが、読者の皆様方にはどうかお体ご自愛の上、健やかにお過ごしになられますようお祈り申し上げます。

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