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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第11章 親分たる器
197/252

秀虎、立つ。

 2004年12月29日。


 この日、俺は朝から銀座の眞行路一家総本部に居た。恒元の命令で眞行路秀虎の様子を見に来たのである。


 昨晩に華鈴と会ったおかげで足取りは軽い。だいぶ心の憂さが払えたようだ。裏切られた一件のわだかまりは未だ心の中に渦巻いていたが、棚上げにするくらいできなければヤクザなど務まらない。


 些末事を胸に仕舞い込み、俺は屋敷の門番に話しかける。


「よう。恒元公からの使いで来た。おたくのあと……いや、秀虎さんに会わせてもらえるかい」


 うっかり「跡取り」と言いそうになって慌てて訂正したのは語弊を避けるためだ。今の時点で恒元は眞行路一家後継者問題について裁定を下していない。既に後継者が秀虎で決まっていると勘付かれれば要らぬトラブルに繋がりかねない。


 門番の男は不満そうに俺を睨んできた。


「おいおい。本家が何の用だよ。どういう理由で来たかは知らねぇが、さっさと決めてくれって会長に伝えろや。こちとら大変なんだぜ。マジで」


 その男の言葉には一理ある。先日の秀虎の失踪騒ぎ以来、眞行路一家は内部分裂の臭いが日増しに強まっている。父の書き置きで後継者から外された兄の輝虎が弟を討つべく挙兵するとの噂が拡散。一方の秀虎派が主君を守るべく眞行路邸の防御を固めたことで、両陣営の緊張は頂点に達しつつある。この門番は秀虎派。すぐにでも恒元のお墨付きが欲しいのだろう。


「あんたらの事情は分かってる。けど、もうちょっと待ってくれよ。会長はどちらにとっても最善の道を模索しておられるんだからよ」


「いつまで待たせる気だよ。こうしてる内にも若頭カシラは新橋の拠点に物凄い数の兵隊を集めてるんだ。森田と椋鳥があっちのケツを持ってるって話じゃねぇか」


「大丈夫だ。輝虎の野郎も馬鹿じゃねぇ。会長の裁定が下る前に迂闊なことをすればどうなるかくらい分かってるさ」


 俺は門番の男を宥めるが、彼は苛立った様子で俺の胸倉を摑んできた。そのまま俺を壁に押しやり、ドスの利いた声で凄んでくる。


「その会長に下の奴らを抑える力があるのかよ!? 本家を舐め切ってるから森田も椋鳥も若頭に味方してるんじゃねぇかッ!」


「おい。落ち着けよ……」


「秀虎様が殺されたら裁定もクソもぇだろうが! 連中が今さら会長の言葉になんざ従うと思うか!? 最早、いつ何処で何が起きてもおかしくねぇんだよ!」


 男は鬼気迫る表情で俺を睨み付けてくる。どうやら彼は輝虎派が攻め込んでくることを危惧している模様。


「まあ、それは確かにそうだよな……」


 先週に銀座から新橋に退去した輝虎は、今や森田一家と椋鳥一家を味方に付け、着々と戦備を整えつつある。村雨組から掠め取った湘南も合わせるとその兵力は千騎近くに膨れ上がっていると思う。奴としては武力を使って弟から是が非でも後継者の座を奪い取る腹積もりらしい。


 されども俺は毅然と断言する。


「……だが、会長が裁定を下す限りはそれに従って貰う。あんたらも、輝虎も。中川の代紋を担ぐ者に例外は認めない」


「けっ! 本家に新橋の奴らを抑えられるのかよ! つい先週も停電が無かったら危うく森田と椋鳥に総本部を取り囲まれてたところだったって聞いたぜ!?」


 門番の男は嘲笑で俺の言葉を受け流した。もはや何を言っても無駄らしい。これ以上は分かってもらえぬと思ったので、先ほどの用件を改めて言い付ける。


「とりあえず秀虎さんに会わせてくれ」


 そんな俺を男はまたしても睨んできた。


「会わせるのは別に構わねぇんだけどよぉ! 言質を貰えねぇかなあ!? 中川恒元公は秀虎様を眞行路の跡取りとして認めると!」


「そいつを決めるのは会長だ。俺の考えではどうにも決められねぇ」


「何でだよ! 恒元公は秀虎様を既定路線にしてるんじゃねぇのかよ! だからあんたが遣わされてきたんじゃねぇのか!?」


 俺の仕事は、ひとえに様子を見にきただけ。秀虎に親分たる器があるか否かを考える材料を揃えるべく、その人柄を今一度確かめて来るようにと恒元に任されたのだ。実際問題として、会長は今の時点で輝虎か秀虎かを決めかねている。


「裁定は未だ下っていない。俺の口からはそれしか言えん」


「いや、そこを何とか頼めねぇか!? このままだと秀虎様は若頭に殺されちまう! 今攻め込まれたら俺たちはひとたまりもねぇんだよ!」


 切実な事情は分かるが、資質に欠ける者に組を継がせたくない恒元の意向は大いにごもっともだ。そもそも秀虎に器があれば恒元だってとっくに眞行路の後継者として盃を授けていたというのに。せめてあの小心者の次男に人の上に立つだけの気概さえあれば……そう思ってため息をついた時。


「門の前で騒ぐんじゃないよ! みっともない!」


 野太い女性の声が響いた。


「あ、あねさん!」


 やって来たのは眞行路淑恵。秀虎の母親にして、親分が不在となった眞行路邸の主人を務める女傑である。


「話は聞かせてもらったよ。麻木次長。秀虎に会いたいんだってね」


「ああ。会長から直々の命令だ。おたくの次男と話して来いと」


「分かったよ。ついてきな」


 淑恵は門番を押し退けて屋敷の中へ俺を通す。この場に彼女が来て助かった。無駄に揉めなくて済むのは良い。


「さっきはうちの者がすまなかったね」


 廊下を歩きながら、淑恵は真摯に詫びてきた。


「いや、気にしちゃいねぇさ。この状況じゃ焦って当然だわな」


 俺は軽く流す。あの門番が不安になる気持ちも分からなくはないからだ。輝虎の暴走は淑恵も苦々しく思っているようで、彼女はガラス張りの窓から覗く中庭に視線をやりながら嘆息をこぼした。


「輝虎がいつ攻め込んでくるか、分かったもんじゃないからね。屋敷のそこいらに若衆を置いてるのよ。だいぶ新橋に流れちまったからギリギリだけど」


「そうか……だとすると、けっこうな人数が輝虎について出て行ったんだな……」


「ああ。輝虎だって、別にあたしが追い出したわけじゃないんだけどね。あの子は『眞行路の本拠地を変える』とか何とか言い出して、そそくさと新橋に引っ越しちまった」


 輝虎は秀虎失踪騒動を機に銀座を退去。弟を殺そうとした云々の風評が流れて銀座に居づらくなった所為だろうと淑恵は踏んでいるも真相は定かではない。今は新橋に購入した高級マンションのペントハウスで暮らしており、蕨、須川、新見ら3人の幹部が彼に従っているという。


「森田と椋鳥におだてられていい気になってるのさ。母親としては情けない限りだよ。森田たちの狙いはうちらの内輪揉めのゴタゴタに乗じて銀座を食い物にすること、自分はそのための御輿として担がれてるだけだってのにね」


「けど、ここ最近の輝虎の勢いは侮れねぇぜ。奴は茅ヶ崎の湘南龍曜会を傘下に組み込んだ。まだ他にも手を伸ばしてるかもしれねぇ」


「まったく。一体、あの子は何処からそんなカネを出してるんだろうね。昔から父親に似てシノギが上手い子ではあったけどさ」


 おそらくは森田一家および椋鳥一家らが輝虎に資金提供を行っているのだろう。彼らが輝虎にどの程度の兵を貸すかは分からないが、真っ二つに分裂した眞行路一家における輝虎派だけでも組員数は600騎を数える。100騎前後しか残っていない秀虎派にとっては圧倒的な脅威である。


 それから暫く無言で廊下を歩いた後、ふと淑恵は呟いた。


「……必ず秀虎が組を継がなきゃならないのかねぇ」


 思わず尋ね返した俺。


「えっ?」


「いや、考えたんだよ。やっぱり秀虎が眞行路の当主に立つのは無理があるんじゃないかと思ってさ」


 そう語る淑恵の顔は虚ろだった。ここ数日は悩みに悩んでいたことが伺える表情。やや少しの無言を挟んだ後、彼女は続けた。


「だって、あの子はヤクザに向かない気質だよ。人の上に立てる器じゃないんだよ。あの子を産んでから今までずっと育ててきたんだ。それくらいのことは分かるよ。あんただって同じ考えだろ?」


「まあ、色んな意味でヤクザっぽくない人柄だってのは俺も思うけどよ。このまま継がせねぇってなると先代の意に背くことになる。それで良いのかい?」


「そうだとしても秀虎をヤクザにするよりゃ結構だと思う。あの子にはもっと相応しい生き方があるはず。ヤクザの親分なんて似合わない」


「姐さん……」


「だってそうだろ? あの子は優しい子なんだ。あたしやあんたと違って、根っから善人なんだよ。ヤクザになんかなったって幸せになれるはずがない。下手すりゃ殺されちまうよ」


 淑恵は秀虎を溺愛している。それは俺も知っているし、だからこそ秀虎が行方不明になった時、彼女は激昂のあまり狂乱状態に陥ったのだ。そんな母親にとってみれば、息子が切った張ったの世界に飛び込むなど到底容認できぬことなのだろう。


「もう会長は眞行路の跡取りはあの子って決めてるんだろ。敢えて気弱な人間を据えることで銀座を支配しやすくするはらなんだろうね」


「……いや、恒元公は親分の器たり得ぬ人間に盃を授けることは無い」


 俺は言葉を濁すしかなかった。淑恵の指摘は大いに的を得ている。されども恒元としては何とも悩ましい問題のはずだ。輝虎に継承させればますます付け上がる。一方で、素養の無い秀虎に盃を下賜すれば、前代未聞の人事に世間の嘲笑を買う。これは中川恒元の権威を左右する話でもあるのだ。


「でも、たとえ会長が輝虎を選んだところであの馬鹿息子は弟を始末するだろうからね。秀虎を守るって意味では眞行路の親分に据えるのが賢い道かもしれないわね。不本意だけど」


 俺と肩を並べて歩きながら淡々と語る淑恵。彼女にも彼女の葛藤がある。彼女の声色を聞いていればすぐに分かった。


「姐さんの一番は秀虎さんを守ることかい?」


 俺は尋ねた。それに淑恵は即答する。


「そりゃそうさ。他に何を求めるってんだい」


「だよな、失礼したぜ」


「けど。欲を言えば輝虎にも幸せになってもらいたいのよ。父親と同じ轍は踏まないで貰いたいわけさ。あれだってお腹を痛めて産んだ息子だからね。もっと言えば秀虎と兄弟仲良くやってくれたらって思う。まあ、夢物語だよね」


 俺は相槌しか返事を投げられない。息子を思う母親の気持ちに偽りは無いのだ。人として当然の心情を容易く踏みにじってしまう裏社会の摂理とは何とも虚しいものであろうかと俺はしみじみ感じるのであった。


 そんな話をしているうちに俺たちは部屋の前へと着いた。いつも秀虎が使っている部屋。淑恵によれば彼はここのところ引きこもっているという。


「あんなことがあったわけだからね。外に出るのが怖くなったんだろうさ。そんな気の弱い子は尚のことヤクザになんかさせたくないよ」


 おそらく、秀虎は函館行きの真相を母親に説明していないのだろう。そのせいで淑恵は、一連の息子の逃避行は輝虎による拉致から逃れての行為だと錯覚している。尤も、人には誰しも隠し事の一つや二つはあるだろうから責められないのだけれど。


「まあ、あんたと会う分には問題無いだろうよ」


 そう言って淑恵は襖の前で声を上げる。


「秀虎! お客さんだよ! 本家の使いがあんたと話したいってさ!」


 ややあってから、部屋の中から返事があった。


「……どうぞ」


 襖を開いて中に入るとそこには座卓で本を読んでいる秀虎の姿があった。彼は俺を見るなり立ち上がって挨拶する。


「こんな寒い中、ようこそいらっしゃいましたね。麻木次長。わざわざお越しくださりありがとうございます」


 そんな丁寧な挨拶を受けたのは久しぶりである。先日までは随分と憔悴した様子だったのだが、今日はだいぶ顔色が良いようだ。


「元気そうじゃねぇか」


 俺は率直に感想を述べる。秀虎は苦笑いで応じた。


「先日はお騒がせいたしました。もう大丈夫ですよ。特にケガとかもしていませんでしたので」


「そうかい。なら良かったぜ」


 俺は淑恵に促されて座布団に座る。すると彼女は茶を淹れるために一旦、部屋から出て行った。その隙を見計らってか、秀虎が尋ねてくる。


「ところで今日はどういったご用件で? 僕に話があるとか?」


「ああ、そうだな。実は会長からのお達しだ。あんたに恒元公の直参盃をやることについて、その意思があるかどうかを確認したい」


「盃……ですか?」


 秀虎は俯いている。


「そうだ。あんたは眞行路一家の総長として銀座を治めていく肚が決まっているのか。それともヤクザの世界とは縁を切って堅気に戻るか。それを知りたいんだとよ。もちろん、どっちを選べとかそういうのじゃない。あくまでもあんたの考え次第さ」


 俺の質問に秀虎は答えない。ただ、じっとの座卓の一点を見つめているだけ。


「どうした?」


「……いえ」


 彼はようやく顔を上げ、俺を真正面から見据える。そして口を開いた。


「僕はヤクザになんかなりませんよ」


 そんな答えが返ってくることを俺は分かっていたし、だから敢えて驚きもしなかったのだが、それでもやはり惜しかった。盃を授かれば裏社会に身を投じることになるのだから当然と言えば当然だ。しかし、そうなってくると如何にして輝虎から彼の身を守れば良いものか。


「僕はヤクザになる気は無いです。前にもお話したように、争い事が好きではないので。その方が兄にとっても良いでしょうから」


 後継者の座を辞退することが兄のみならず自分にとっても最善の道だと語る秀虎だが、その意図までは読み取れなかった。俺は尋ねる。


「知ってるかどうか。もしも輝虎が総長に就けば、あんたは真っ先に命を狙われるぜ。将来的に邪魔となり得る存在は軒並み排除するのが奴のやり方だからな」


「ええ。知ってます。兄は昔からそういう人でした。僕は兄のことが好きですが、兄は僕を邪魔だと思っているようですから。後継者の座を譲ったところで僕への敵意は変わらないでしょう」


 彼は即答したのだった。俺はますます分からない。


「だったらどうして? 身の安全を一番に考えるなら後継者争いに名乗りを上げるのが賢い道なんじゃねぇのか?」


「組を継がなくても身は守れます。関西に逃げれば良い。煌王会の勢力圏内であれば兄だって迂闊には手が出せないでしょうからね」


「なるほどな……」


 俺は思わず唸った。確かに煌王会の領内であれば中川会系は踏み込めない。ヤクザ稼業で身を立てられぬ以上、それは賢明な判断と思えたのだ。しかし、である。その考えには致命的な欠陥があるように思えてならなかった。それを俺は率直に尋ねてみる。


「けどよ、行く当てはあるのか?」


「サークルの同級生の実家がありますので。事情を話して居候させてもらいます。大学はレポートを提出し続ければ何とかなるでしょうから」


 秀虎なりに身の振り方を考えている模様。上手くいくか否かは別として、案外しっかりした計画を練っていたので俺は感心させられた。


「じゃあ、あんたは組を継ぎたくねぇってことで良いか?」


「ええ。そういうことになりますかね」


 後継者の辞退。断言された答えを俺は心の中で反芻する。当人にその気が無い以上は仕方ないが、果たして恒元に何と伝えたれば良かろうか。輝虎に継承させしまうのは個人的にも懸念がある。奴が権力を持てば何をするか分からないからだ。さて、困ったぞ……と思ったその時。


「けど、まあ」


 打ち切られたはずの会話に突如として続きが用意される。溜息と共に秀虎が語りを繋いだのだ。


「僕がどう思おうと組の人たちは僕に継がせたいのでしょうね。皆、兄のことを相当に嫌っているようで。じゃなかったらここまで僕を守ろうとはしないはず」


 眞行路邸の至る所に武装した組員が配置されている旨は秀虎も存じている模様。それについて彼は少し変わった視点で推論を抱いていた。


「皆、僕を守るというよりは攻めて来る兄を返り討ちにしたいんです。だって今この屋敷に詰めてる人たちは兄に虐げられてた人たちなので」


「……確かに輝虎は一部の連中への当たりが強いように見える」


「ええ。普段なら日常の給仕をしてくれる小姓の皆さんまでもが武器を持って防御陣形に加わっている。それだけ兄を殺したいんですよ」


 淡々とした口調で彼は語るのだった。俺は思わず尋ねる。


「あんたは輝虎を恨んでないのか?」


「まあ、兄ですから。それに僕よりも優秀で統率力があるので、リーダーになるならああいう人が相応しいと思います。何より僕は争い事が苦手なので兄と喧嘩をする気はありませんけどね……」


 彼は即答する。その口調は実に淡泊なもので、恨みや怒りの感情が微塵も感じられなかった。しかし、そこへ続いた一言が意外であった。


「……けど、まあ。皆が『どうしても』というなら立ち上がらざるを得ないでしょうね」


「えっ?」


 俺は思わず聞き返した。すると秀虎はすぐに補足を寄越す。


「いや、別にヤクザになりたいわけじゃないですよ。ただ、僕は困っている人たちを放ってはおけないタチなので」


「そうかい」


 俺は彼の意図を汲み取りかねていた。その台詞から察するに彼は組の継承を必ずしも嫌がっているというわけではなさそうだ。しかし、かといって位の継承を熱望しているわけでもない。どうにも捉えどころのない心持ちでいるようである。言ってしまえば中途半端。


「つまり、あんたは争い事やヤクザは苦手だけど組を継ぐこと自体はそこまで嫌じゃねぇんだな?」


 確認のつもりで俺が問うと秀虎は失笑をこぼしながら答えた。


「まあ、そういうことですかね」


「だったら無理に継ぐこともねぇだろ。不本意さを押し殺して続けられるほど極道の世界は生易しくはねぇぜ」


「ですよね」


 そんな答えが返ってきた。やはり秀虎にヤクザは向いていない、そう俺は直感を抱いた。率直に言わせてもらえば肚の決まらぬ者に稼業は務まらないのである。ましてや「周りの人間のために」などという曖昧な理由では尚更に脆い。いざという時に体を張れるとは到底思えない。恒元としても忠義を尽くして喧嘩が出来る男でなければ難色を示すだろう。


「僕は大学ではボランティア同好会に入ってます。だからってわけじゃないんですが、どうしても自分より他人を優先しちゃうんですよね」


「自分より他人を優先……ああ、それでさっきは組を継ぐことになっても仕方ないって言ったんだな?」


「はい。兄が総長になれば今ここに詰めてる人は大変な思いをするでしょう。それよりだったら、僕一人が我慢してヤクザの世界に飛び込んだ方が良いかも」


「いや。その考えはヤクザに向いてねぇな。自分の軸ってもんをしっかり持ってねぇと勝負所で困るぜ」


「でしょうね。自分でもそう思うんですけれども。やっぱり困ってる人を放っておけなくて」


 秀虎は苦笑してそう語る。俺は何となくだが彼の気質が掴めてきたような気がした。同時に少し安堵する。彼が裏社会に飛び込んだとしても輝虎のようになるとは到底思えないからだ。しかし、それでも組を継げば否応なしに争い事に巻き込まれるし、時として人の道に外れた判断を下さねばならない。彼ほどの優男にそんな所業ができるはずもなかろう。


「確かに麻木さんの言う通りかもしれませんね。ちなみに僕の将来の夢は海洋学者です。だから、ヤクザになっても仕方ないのかもしれない」


「へぇ。海洋学者か。そいつはすげぇな」


「ええ。僕は海が好きなんです。特に南の海が大好きでね。いつか世界中の海を回ってみたいと思っています」


 大学ではクジラの研究をしていると得意気に語る秀虎である。その夢はとても素晴らしいものに思えたし、同時に微笑ましいものですらあった。俺は思ったままを口にする。


「いいねぇ。あんたならきっとなれるさ」


 すると彼は嬉しそうに笑った。そして言うのである。


「ありがとうございます!」


 そんなやり取りをしていると淑恵が湯呑に注がれた茶を携えて戻って来た。


「秀虎。母さんはお前がヤクザになるのは反対だからね。恒元公の盃を貰うなんてもってのほかだよ」


 彼女はそう言って秀虎の前に湯呑を置く。彼は「分かってますよ」と苦笑いで答えた。淑恵はそんな息子に念を押すように言う。


「お前は昔から本当に優しい子だ。そんなお前に切った張ったの稼業は似合わないよ。組は継がなくて良いんだ。お前がカタギで居続けられるよう、母さんが何とかするから。組の都合は考えず好きなことだけを勉強していなさい」


「分かったよ。母さん」


 その答えを聞いてひとまず安心したのか淑恵は部屋を出て行った。


「……まあ、姐さんもああ言ってることだ。あんたはあんたの好きなクジラの研究にでも熱中してりゃ良いさ。会長には俺から話しとくからよ」


「ありがとうございます。いやあ、母も変わりましたよ。ついこの前までは僕をヤクザにするかどうかで悩んでる感じだったのに」


 おそらくは秀虎の失踪騒動が堪えたのだろう。あの出来事の真相はさておき、息子に危害が加えられたとなれば反対するのは道理だ。今も葛藤はあれど淑恵にとっては我が子の安寧が一番だ。


「そりゃあそうだろうなあ」


 軽く雑談をして秀虎の部屋を出て赤坂に戻った。会長には「器に非ず」と報告するしかあるまい。ただ、いざ事の次第を伝えてみると恒元が語り出したのはあまりにも意表を突いた話であった。


「ううむ。やはり眞行路は秀虎に継がせるべきだな」


 呆気に取られた。てっきり秀虎については「器に非ず」ということで見限るものだろうとんばかり思っていたからだ。しかし、恒元の口ぶりにはどこか含みがあった。何か別の狙いがあるようである。俺が思わず黙り込んでいると彼は続けて言ったのだった。


「我輩の意図するところは秀虎と輝虎、この兄弟の両者共倒れだ」


「へっ?」


 俺は思わず聞き返した。すると恒元は飄々とした口調で語り始める。


「ここ数日の輝虎を見るに改めて思ったのだが、やはりあの男は不忠者だ。盃をくれてやったところでいずれ必ず裏切るだろう」


「……なるほど」


 俺は頷いた。確かに輝虎の野心家ぶりからして将来的に反旗を翻すのは確実だ。しかし、だからといって兄弟で殺し合わせるというのは何とも短絡的ではないか? そう思ったので俺は尋ねてみた。すると恒元はあっさりと答えるのである。


「我輩が下した裁定に輝虎が異を唱える。さすれば奴を誅する口実が生まれるではないか。弟と殺し合ってくれれば尚のこと良い」


 会長にとっては秀虎も邪魔者。これを機に眞行路高虎の血筋を一掃しようと考えているようだ。いつ心変わりしたのかは存ぜぬが陰惨なやり方だ。


 ことおさめかいで裁定の中身を表沙汰にするらしい。会長は秀虎に眞行路一家の名跡を継ぐことを命じ、不服に思った輝虎が銀座に攻め込むよう仕向けるのだそうだ。


 ああ。そうか。眞行路邸に詰めていた才原党の忍者たちを引き揚げさせたのは、敢えて秀虎の守りを手薄にさせるのが狙いだったか。


 道理で眞行路邸が不安に包まれていたわけである。恒元としては、むしろ裁定を下す前に輝虎が暴発してくれた方が都合が良さそうだ。


 されど淑恵に何と伝えれば良いものか。兄弟が二人とも始末される予定だなんて。息子を想う彼女にとってはあまりに惨い話。しかし、俺はそれ以上の異論は唱えなかった。「我輩直属の戦力が十分に確保できたタイミングで他の幹部たちは適当なとがをでっちあげて誅殺するよ」と語る恒元にそっと頷くだけ。彼に逆らうなど俺には有り得ないからだ。


 哀しいかな、俺は中川恒元の操り人形でしかないのである。


「さて。銀座から戻って来たところで申し訳ないが、お前には新しい仕事を引き受けて貰いたい。どうにも気がかりなことがあるのだ」


 恒元はそう切り出す。俺は「承知しました」と頷く。すると彼はさらに続けた。


「最近、錦糸町で商売女が次々と姿を消しているという噂だ。あの辺りは我輩の直轄領、何者かが稼ぎを奪おうと企んでいるなら問題だ」


「ああ、そこで俺が調べて来るってわけですね?」


「うむ。事の次第を確かめて来てくれ。場合によっては粛清の順序を変えねばならんのでな」


 俺は「はい」とだけ答えた。会長の命令を断るわけにはいかない。それに、女が姿を消しているという話に妙なきな臭さを感じたからだ。


「あの、出かける前にお尋ねしたいんですけど。会長は煌王会の橘と手と結ぶおつもりなんですか? 長島勝久公が引退してもよろしいので?」


「うん。長島体制を続けさせるより、橘と村雨の間を取り持った方が実入りが多いと思ったからね。今さら長島を復位させるのは無理だよ」


「なるほど……それならそうと前もって伝えて頂きたかったですね。いきなり本庄から知らされたもんでたまげましたよ」


「あははっ。すまんすまん。何しろ停電のおかげで電話が繋がらなくて連絡が付かなかったからねぇ、まあ今度からはまめに連絡を取り合おうじゃないか」


「は、はあ」


 俺は虚ろな表情で頷いた。この件について会長が方針を換えたのはいつ頃であろうか。秀虎の件といい、彼の気の変わりやすさには困ったものだ。


「ああ、それともう一つお尋ねしたいことが……」


 俺がそう切り出すと恒元は「何だね」と応じた。


「村雨耀介をどこまでお助けになるおつもりだったんですか? あの男に義侠心から手を差し伸べたわけじゃないんですか?」


「ああ。それか。勿論、義侠心だよ。お前と同じように我輩も村雨を高く買っているからね。潰されるには惜しいと思ったのだよ。だからお前を遣わせて戦争の手伝いをさせた」


「じゃあ、どうして途中でハシゴを外すようなことを?」


 俺の問いに恒元は笑みを浮かべて答える。窓から差し込む冬の日差しが彼の髭を金色に照らしていた。


「ああ、それはね。あの男を中川会こちらに取り込むためだよ」


 思わず声が裏返る。


「えっ!?」


 俺は驚愕に震えた。話を聞くに、恒元は村雨耀介および村雨組の中川会移籍を期待しているようだ。まったくもって寝耳に水だ。


「手打ちが成ったとはいえ、村雨組は煌王会内で完全に孤立した。討奸状を送り付けた手前、橘が敷く新体制に合流することは村雨耀介のプライドが許さないだろう」


「……そこに声をかけて中川会に寝返らせるってわけですか?」


「ああ。このまま煌王会に居続けても村雨は冷や飯を食わされるだけだろうからね。橘は彼に何の処分も下していないというから、こちらに取り込んでも外交問題にはなるまいよ」


 それでわざと村雨に不利になるように謀らい、彼を煌王会で孤立無援の窮地に立たせたというのである。俺は困惑することしかできなかった。


「しかし、会長。村雨は俺たちを心底憎んでいると思いますよ? そう簡単にこっちに着くでしょうか?」


「まあ、確かにね。けれど、我輩が思うに村雨耀介という男はそこまで馬鹿じゃない。中川会の傘下に入ることで得られるメリットを計算できるはずだよ」


「村雨は打算で動く男じゃないと思いますけど……」


「そういう男こそ今の中川会に必要なんだよ。彼の武勇はお前も知っているだろう。村雨が我輩の下に付けば大きな戦力となること間違いなしだ」


 何とも汚いやり方である。中川会へ引き込むために煌王会内での居場所を失わせるとは。いずれ村雨が煌王会に居られなくなるのを恒元は心待ちにしているのだった。


「村雨には折を見て使いを送るとしよう。どんなに喧嘩上手でも二万騎の煌王会を相手に単独では戦えん。我輩の差し伸べる手を握る他ないだろうねぇ、ククッ……」


 これが中川恒元の為す事なのだ。ああ、そういえば6年前に俺を中川会にヘッドハンティングした時も彼は奸計を弄していたな。おかげで俺は村雨組に居づらくなって中川会へ来ることを選んでしまった。


 もはや怒りの類はこみ上げて来ない。俺を焦がす感情に名前を付けるとすれば『呆然』であろうか。また同じことを繰り返そうとしている。


 尤も、俺に心の中でついた嘆息を表明するすべは無いのだが。


「ああ。分かりました。それでは失礼いたします」


「うん。必要があれば連絡を寄越すのだぞ。待っているからな」


 ああ。秀虎を執事局に加えることで身の安全を確保しようという俺の案は提言するまでもなかったぞ。これでは、最早あの気弱な青年は見殺しではないか。


 やり場のない気持ちに蓋をするように俺は執務室を後にした。このような時はさっさと出かけてしまうに限る。とりあえず外の空気を吸おう……と思った時、俺に声をかけてくる男がいた。


「よう。涼平」


 その人物の顔を見た瞬間、呆れが苛立ちへと変わる。


「何の用だよ」


「おいおい。何の用だとは失敬な奴やのぅ。顔を合わせた直後に舌打ちせんでもええやないか。仮にもわしはおどれの先輩なんだぜ。もっと敬意を払えや」


「あんたに払う敬意があるか。ボケが」


 本庄利政。言わずと知れた直参『本庄組』の組長にして俺が最も苦手とする男。というより、今の俺には最も会いたくない御仁であった。


「会長は眞行路の後継者をどうするつもりなんやろうな。裁定を下すって言ってたけどそろそろ決めても良い頃や思うで」


「その話を俺にして何になるんだよ。まさか俺に『会長の裁定の内容をこっそり教えろ』とか言わねぇだろうな。もしそうなら馬鹿にも程があるぜ」


「んなわけあるかい。ただ、気になってるだけや。どっちに味方するのが得なのかと思ってな」


 相手にせず、さっさと立ち去れば良いものを。俺は不覚にも尋ね返してしまった。


「味方だと?」


 すると本庄は上機嫌に食い付いてきた。


「そうだ。会長がどう考えとるのかは知らんけど、眞行路一家のゴタゴタは確実に他所へ飛び火するで。単なる兄弟喧嘩の域を超えて下手すりゃ中川会全体を巻き込む大戦争になる」


 またとんだ与太話を抜かしたものだと一笑に付そうとした俺だが、冷静に考えてみれば有り得ない話でもない。


 今の時点で輝虎派には森田一家と椋鳥一家が絡んでいる。御七卿のうち2つの組が既に介入してしまっているのだ。他の組が銀座の街がもたらす旨味を狙って干渉してくる展開は大いに考えられる。そうなれば本庄の云う通り、眞行路一家だけの問題ではない。銀座を舞台に中川会直参同士の利権争いが繰り広げられることになる。想像してみれば何とも厄介な話だ。


「輝虎派と秀虎派、それぞれのバックに大勢力がつけば喧嘩は激しくなる。俗に云う代理戦争ってやつか」


「甘いなあ。代理戦争どころか中川会は戦国時代に突入や」


「戦国時代!?」


「わしが思うに秀虎派はすぐに潰される。森田と越坂部を敵に回して誰があんな小倅に味方すんねん。問題は秀虎がぶち殺された後や」


「今度は輝虎のケツを持ってた連中同士で喧嘩になるってわけか。輝虎を勝たせた見返りをめぐって」


「大幹部同士で喧嘩になったら収まりがつかへんで。下手すりゃ中川会は崩壊する。そいつを止める力は恒元公には無い」


 本庄の見立てによれば、森田と越坂部のみならず様子を窺っていた直参組長たちも欲に駆られて次々と加わり、ごちゃ混ぜの内紛状態に陥った中川会は内部崩壊に至るらしい。それだけ銀座の街にはヤクザたちを惹き付けるだけの魅力があるということ。その魅力こそが眞行路高虎を“銀座の猛獣”たらしめていたのだろう。


「銀座っちゅう街は無法者を権力者に変えてまう不思議な街でのぅ。政治家から芸能人までありとあらゆる大物が足を運ぶもんで、そいつらと上手く仲を築けばとことん甘い汁を吸える。掘っても掘っても金脈が枯渇せぇへん無限の金鉱山みたいなもんや」


 かくいう本庄も銀座という街の利権構造に食い込むことを狙っている模様。羨望の情が声色に表れていた。そんな彼に俺は率直に尋ねる。


「何が狙いだ? ここで俺に話しかけて来たってことは何かしらの旨味を見込んでるんだろ?」


 その質問に本庄は下品な笑みで答えた。


「けけっ。流石は涼平や。物分かりが良くて助かる」


「で、何が欲しいんだ?」


「わしが欲しいのは眞行路一家次期総長の媒酌人の座や。輝虎が恒元公と盃を交わす時のな。森田も越坂部も自分テメェが輝虎の後ろ盾になって眞行路を牛耳る気でおるが、あの街の金脈を全て手に入れるのはこのわしや」


 本庄はそう言ってのけると、俺に一枚の写真を投げつけた。それは森田と越坂部が中国人のような男と共に写る一枚であった。


「おいおい、こいつは……?」


 俺はその写真を拾い上げながら尋ねる。


「向かい合って座ってる男は知ってるぜ? 確か横浜で貿易商をやってる徐明鷹とかいう野郎だよな?」


「おう。その徐とかいう兄ちゃん、実はマフィアやねん。日本支部総督。お前がやり合った張覇龍に代わって本国から遣わされた切れ者や。巧妙に立ち回ってるもんで役所も手を焼いとるとか」


「なるほど……やっぱりな……」


 先々日に徐と対面した時に感じたのは裏社会の人間特有の殺気だった。おそらく関係者だろうなと踏んでいたが、よもや日本国内でかなり偉い立場だったとは。


「あんたの話が読めたぜ。つまりこの森田と越坂部が中国マフィアと密かにつながってるってことだろ。連中は中川会のシマを荒らす迷惑な存在、ってなわけで奴らと仲良くしてるのがバレたら森田と越坂部は中川会系列から総すかんを食らう」


 俺が推測をぶつけると、本庄は深く頷いた。


「せやで。この写真は森田たちにとっては弱みってわけや。“交渉”すりゃあ大抵の要求は通るやろうな」


 本庄の狙いは森田と越坂部に眞行路一家から手を引かせること。彼らを追い出し、自分一人が輝虎の後ろ立てを務めようという腹積もりである。


「ただ、本庄組うちは兵隊の数で劣るから実際に参戦するのは森田と越坂部やけどな。わしは旨味だけ貰えりゃそれで良い」


「そんな話を俺にする理由は何だ?」


「どっちに付くのが得か思うてなあ。いや、どっちを勝たせるんが実入りが多いのか。それで悩んどるのや」


「は?」


 訝しむ俺に本庄は言った。


「今の俺は森田と越坂部、合わせて3千騎を思い通りに使える。すなわちこの喧嘩は俺が味方した側が勝つってことや。どうせ勝たせるなら少しでもマシなのを勝たせたいやろ」


 ヤクザの喧嘩において3千という数字はあまりにも痛烈だ。さっきの本庄の話を事実と仮定するなら、輝虎と秀虎の家督争いは彼の出方次第で風向きが変わる。つまり本庄こそが今回の継承問題を左右する存在ということだ。


「涼平、お前は会長の使いで秀虎に会うてきたんやろ?」


「ああ。そうだけど」


「ってことは、あいつがどういう奴かを知っとるんよな? 良かったら教えてくれへんか? “ヘタレ”だの“人もまともに殴れんヘナチョコ”だのは俺が勝手に思ってる先入観かも分からへんし……?」


 俺は返答の内容に迷った。そもそも本庄相手に何処まで話して良いかは勿論、秀虎の人物評を正確に伝えて良いものか分からなかったのだ。ここで俺が『秀虎は器に非ず』と言えば本庄は輝虎支持を続けるだろう。ただでさえ輝虎が圧倒的優位であるというのに、俺の一言が決定打になって良いものか。秀虎に肩入れするわけではないものの何だか気が乗らなかった。


「……」


「何を黙っとんねん。恒元公の側近として俺に甘い汁を吸わせるわけにはいかへんってか。まあ、お前の役柄はそうだわな。裁定を下す側の奴がどちらか一方の優位になる話をしたらあかんよな。分かるで。涼平は昔から律儀やさかいのぅ」


 知った風なことを抜かす本庄。実際に思っていた内容とは少し違うが、訂正するのも面倒なので無視する。そんな俺に彼はさらに言葉を続けてきた。


「だけどな、考えてみろよ。俺がこのまま銀座に介入しなかったら森田と越坂部が得をするだけだぜ」


「そうだろうな」


「今でこそ違いの一致で手を組んでるが、あいつらはいずれ揉める。そうなったら他所の組も入って来て収まりがつかなくなるぜ」


「ああ」


「下手すりゃ中川会が割れるかもしれない。内紛に至っての内部崩壊や。そいつは会長にとっても困るんと違うか」


 そのような展開を防げるのは自分だけだと言いたいわけか。やはり本庄は話が上手い。なかなか巧みな揺さぶり方をしてくるものだ。


 言うか、言うまいか。迷いに迷った俺は最大限に無難な言葉で本庄に仄めかすことに決めた。無論のこと漏らしても構わない領分の内で。


「……あんたが思ってる通り、秀虎はヘタレだ。人をまともに殴ることもできねぇヘナチョコだよ。俺から伝文できるのはそこまでだ」


 その返答を聞いて何を思ったか。ほんの少しだけ宙を見て静寂に浸った本庄。彼が次に繰り出したのは簡潔な台詞だった。


「やっぱりそうか」


 そこから深いため息をつき、彼は吐き捨てるように続ける。


「お前から見てそう感じられるっちゅうことは、たぶんそうなんやろうな。やっぱりあの小倅は器やあらへんかったか」


 少し残念そうな声色だったのが意外であった。本庄なりに秀虎に対して若干ながらも期待を寄せていたのだろうか。


 尤も、そんな話はどうでも良いのだが。


「あんたがどう出ようと勝手だけどよ。銀座の後継者問題については会長が裁定を下される。それを蔑ろにする気なら許さねぇぞ」


「けけっ。そいつは建前やろ。恒元公かて秀虎を選びたいわけと違う。嫉妬に駆られた輝虎に殺させるのが狙いなんや。何だかんだ言うて会長も内紛を期待している」


「うるせぇ。下手な邪推してるとぶっ殺すぞ。カス野郎が」


 そんな俺の態度に本庄はますます頬を緩めた。


「図星かい。まあ、わしに任せてくれればうまい具合にまとめたるわ。森田と越坂部は封じとくから好きにやれや」


 これ以上の話は意味が無い。俺は何も言わずに廊下を歩いてその場を離れた。背後から「哀れだねぇ。中川恒元の人形に成りきれなければ、かと言って自分の意思も持てないとは」と聞こえたような気がしたが、黙殺するに限る。


 何とでも言えば良い。俺は俺の意思で恒元に仕えている。周りからどんな評価を得ようと俺はそういう道しか歩まないし、歩めないのだから。


 全てを振り切るように、俺は総本部を出て墨田区へと向かった。


 鶯谷。


 台東区の中でも比較的閑静な雰囲気で知られる地域だが、東京最大の風俗街としての顔を持つ。少し歩けばソープランドやおさわりパブなどの看板に出くわすから賑やかなものだ。夜になると客を待つ娼婦がずらりと歩道に並んでいたりもする。


 そんな鶯谷に俺が足を踏み入れたのは12時37分。昼ということもあって女たちの姿は見えない。暮れの買い物客ばかりが行き交っている。


「ふう……せめて夕方くらいに来るべきだったかな……」


 車を降りた俺は、鶯谷駅南口の広場で真っ白な息を吐いた。


「ったく」


 思わず舌打ちが出た。


 この鶯谷は3年前から中川会総本部の直轄地域になっている。戦後に中川会が旗揚げしたのはこの付近であり、その縁で特定の傘下団体に知行させず本家が直接仕切る慣習が続く。よってこの街から吸い上げられたカネは全て恒元の懐に入る。


 そんな直轄領でシノギを邪魔する者が居るとすれば、それすなわち恒元に喧嘩を売っているも同然。中川会会長の威信に懸けて全力で討伐しなくてはならない。ここでの不始末はすぐさま会長の権威失墜につながるだけに少し気が重かった。


「ちっ……」


 俺は車に戻ると煙草に火をつける。こちらの苛立ちを察したのか、運転席に座る酒井が口を開いた。


「そんなに怖い顔しなくたって大丈夫ですよ、次長。いつもと同じようにやりゃあ上手くいきますって」


「ここは会長がじかに仕切る土地だぞ。シマ荒らしの不届き者を万に一つでも取り逃がそうもんなら恒元公の権威は地に堕ちる。領地の管理すらまともにこなせねぇ本家に誰がついて来るってんだ」


 何だかいつもより緊張しているのは気のせいか。昨日までとは明らかに違う。会長の権威云々を自ら口にするなんて我ながらに驚きだ。


 そんな俺の様子を笑っていた酒井は、前方へ向き戻るなり声を上げる。


「あっ、来たみたいですよ」


 駅前の交差点をこちらに向かって歩いてくる男の姿が視界に入った。


「おい」


 俺は煙草を消すと、酒井に声をかける。


「はい?」


「赤の革ジャンに黒のレギンスだったよな。鶯谷の采配は」


「ええ、そう聞いてます」


 人混みを縫うように周囲を頻繁に見回しながら歩いてくる長身の男。俺たちはこの鶯谷駅前で協力者と待ち合わせていた。執事局に代わって直轄領を管理する、通称“采配”だ。


 俺は酒井に命じて車のライトを5回点灯させる。それが俺たちの存在を示す合図ということで事前に電話で打ち合わせていた。


「……どうも。執事局の麻木涼平次長でいらっしゃいますか?」


「そうだ。あんたが采配さんで間違いねぇな」


「はい。私、恒元公よりこの街を任されております。まあ名乗るほどの者でもありませんので……へへっ……」


 金髪にピアスという、如何にも軽薄そうな風貌の男。こんな奴に直轄領管理の実務を担わせているのかと恒元の意図が分からなかったが、この男は雇われた采配役であって正式な中川会構成員というわけではないらしい。聞けば近くでガールズバーを経営しているらしく、街の実情には人一倍詳しいのだとか。


「そうかい。んじゃ、さっそくだが本題に入らせてくれ」


 俺はそう言うと、酒井に車を出すよう指示を出す。


「この鶯谷で近頃、娼館の女どもが姿を消してるって聞いたが?」


「ええ、存じ上げております。私どもの手には負えないと思いましたので会長にご報告申し上げた次第で」


「会長に頼んだのはあんただったか。とりあえず何が起きているのか、順を追って説明してくれや」

「かしこまりました」


 采配は懐から黒革の手帳を取り出すと、ページを捲っていきながら説明を始める。俺と年恰好の変わらない若者と思しき容姿の割に随分と古風な物を持っているらしい。


「まず……申し上げておきたいのですが、姿を消しているのは完全な商売女というわけではないのです」


「えっ?」


 少し回りくどい説明に思わず聞き返した。酒井も戸惑っている。


「彼女らは夜の仕事とは別に正業を持っていましてねぇ。昼の職で稼ぎ損ねた分、この鶯谷で身体を使って稼いでいるというわけなのです」


「つまりは何かしらの仕事と副業で娼婦をやってるってことか?」


「左様でございます」


 不景気の昨今、多くの若者が貧困にあえいでいる。特に近年は戦後最低とも揶揄されるほどの就職難で、大学を出ても働き先が見つからぬ就職浪人で街は溢れ返っている。物価高に比例して賃金が下がり続ける世相において、とりわけ女が一本の仕事のみで食っていくのは至難の業だ。


「男女雇用機会均等や女子差別撤廃が叫ばれてだいぶ経ちますが、未だに日本は男尊女卑。企業は男ばかりを優先して採りたがりますからね」


「まあ、確かにそんな話は聞くよな……旧帝大卒の女が三流私大卒の男に集団面接で競り負けるとか……」


「ええ。仮に運良く入社できても男よりずっと低い賃金で働かされたり。そんな貧しき女たちの受け皿となっているのが、この鶯谷なんでございます」


 話がだいぶ横道に逸れてしまったが、この街で働く商売女たちが必ずしも専業ではないことは何となく分かった。そして今回の事案はそんな兼業の女性たちの問題であるということも。


「なるほどな……それで?」


「はい」


 俺は相槌を打ちながら話の続きを促した。


「彼女らが姿を消すようになったのはここ1週間ほどのことです。そして消えた女どもはいずれもこの鶯谷に構えている店に在籍する娘たちばかりでして……」


 采配の話によれば、消えた女たちは全員が来店型のソープランドやアダルトマッサージなどで働いているという。派遣型風俗の嬢たちが仕事の後に失踪するケースはよく耳にするも、今回は違う。いずれも勤務外で店に居ない時間帯に姿を消しているそうな。


「体を売るのが嫌になって逃げたんじゃねぇのか?」


 俺は采配に尋ねるも彼は否定した。


「いや、それは有り得ません。彼女たちは皆、身寄りのない者たちばかり。他に働き場所なんてどこにもありませんので」


「それなら誘拐や拉致と仮定するべきか。しかし、この鶯谷が中川会の直轄領って話は有名だろ。よりにもよって恒元公のシマでそんなことをする輩は……」


「ひとつだけ怪しい奴らが居ます」


 何かを思い出したように采配は仮説を提示した。


「政村興業です」


「何だって!?」


 思わず声を張り上げた。政村興業といえば横須賀水尾組の枝で村雨組系列の組ではないか。酒井も驚いている様子だ。


 そんな俺たちの様子を見て采配が話を続ける。


「実はですね、ここ最近この街を嗅ぎ回っている連中が居るんです。おそらくはこの街を密かに狙っているのではないかと私は踏んでます」


「それが政村興業だってのか?」


「ええ、そうです」


 彼が政村興業の関与を睨む根拠は明確にあった。この鶯谷にポケットティッシュ販売会社が事務所を構えているたそうなのだが、その会社の本社所在地を調べたところ横須賀市内だったというのだ。暴力団が他所のシマに足を踏み入れる際にカタギの企業を偽装するのはよくある話なれど、それだけで犯人にあたりをつけるのは何とも拙速ではないか。


「けど、奴らが事務所を構えたのは先々週で女たちの失踪が起こる直前です。偶然とは思えません」


「政村興業は村雨組の枝だ。村雨とはつい昨日まで事実上の同盟関係にあったんだ。仲が拗れた今ならともかく、手を組んでいる時にそんなことをするのか……?」


「横須賀の会社がわざわざ鶯谷に来るってのがそもそもおかしいんですよ。さっさと連中を捕まえて女どもの居場所を聞き出さなくてはなりません」


 采配は鼻息を荒くすると、その団体の事務所へ殴り込みをかけるべきだと捲し立てた。


「まあまあ落ち着けや。ひとまずそいつらは犯人候補ってことにして裏を取ろうじゃねぇか。もしかしたら水尾とは繋がりの無い普通の会社かもしれねぇし」


「そんな呑気なことを言ってる場合ですか! 恒元公のシマが荒らされてるんですよ!? すぐに女の子たちを助けないと……!」


「ティッシュ配りの会社が風俗街に事務所を構えるのは自然な話だ。それに証拠も無しにカタギをぶっ潰して『本当のところは違ってました』ってなりゃ中川会の評判に傷が付いちまう」


 俺が諭して聞かせると采配は舌打ちを鳴らした。正式なヤクザではないため功を立てる必要も無いというのに随分とせっかちな男だと思った。事実、チラシ入りのポケットティッシュは店の名前を広めるのに丁度良いから各地の風俗街で重宝されている。そのビジネスチャンスに乗りたい単なるカタギという線も考えられるだろう。血気に逸った憶測は禁物だ。


「いや、他所の組が仕切る横須賀の会社が東京に出てくること自体が問題なんですよ! 連中のバックにはヤクザが居るに決まってます!」


「カタギの経済活動は自由だろうよ」


「失礼ですが麻木次長、あんたはヌルい! 横須賀に本社があると言うことは水尾組にだいを払っているということです! 連中の息のかかった奴らはその気になればこの街で何を始めるか分かりませんよ!?」


「落ち着けよ」


 俺は采配の言葉を諫めた。何をそこまで興奮しているかは知らんが、もう少し冷静になってほしいものだ。いくら横須賀に村雨組系の水尾組があるからといって市内すべての企業がフロント企業とは考えづらい、仮にそうだとしても証拠が無い以上は迂闊なことはしたくない。


「とりあえずは別ルートで調べてみようや。ここは恒元公の直轄地なんだ。ヘマをやらかせば会長の風評に直結するからよ」


 しかし、采配は突っぱねた。


「恒元公の直轄地だからこそ、さっさと事を収める必要があるんです! あなたは腑抜けか!? 今売り出し中の執事局次長が来ると聞いたからどんな奴かと思ったら緊張で体が震えたビビり野郎じゃないですか!」


 棘のある言い方に眉間に皺が寄る。すかさず酒井が噛みついた。


「おい、コラ。次長に向かってその言い方は何だ。舐めてんのかこの野郎ッ!」


「うるせぇ! てめぇに用はねぇんだよ!」


 そこに俺は手を叩いて割り込む。


「はいはい。そこまでだ」


 隣に座った男を睨み、俺は俺なりの返答を示した。


「あんたは知らんと思うが『無暗にカタギを殺すな』ってのは会長が定めた大原則だ。会長の側近がその掟に反するわけにはいかねぇ。直轄地なら尚更だ」


「……もしかすると政村興業は既に鶯谷を乗っ取りつつあるかもしれませんよ。それでも手をこまねくおつもりですか」


「何もしないとは言ってねぇじゃねぇか。より正確に犯人にあたりをつけるために裏を取ると言ってんだ。あんたの仮説が正しいってことを証明するためにな」


 こちらの反応に采配は鼻を鳴らした。


「ふっ」


 おそらくは俺のことを念には念を入れる軟弱者と見くびったであろう。されども此度は慎重に事を運ばねばならない。この鶯谷での失敗は許されないのだから。


「とりあえず、行方を眩ませたっていう女について教えてくれ。それと街を案内してくれ。もしかしたら手がかりがあるかもしれないんでな」


「やるだけ無駄だと思いますけど。別に教えるだけなら構いませんよ。ダラダラしているうちにまたひとり新たに女が攫われちまうんじゃないっすかね」


 そう思いたいならそう思えば良い。この男の気持ちも分かるのだ。身分的には準構成員と云えど、街で起きた騒ぎは全て実務担当者の管理不行き届きということになる。損失が出ようものなら結果として罰を受けるのはこの采配だ。彼もまた失敗が許されぬ緊張感のもとで仕事をしているのである。皮肉をぶつけられたところで感情的に怒る謂れは俺には無かった。


「……はい。着きました。ここが『おっぱい倶楽部ストロベリー』です」


 程なく酒井の運転で着いたのは路地裏にある店。よくある雑居のテナント等ではなくビルを一棟ごと風俗店として営業している事業所だった。


 采配の先導で俺が車を降りると、不意に視界へ飛び込んでくるものがあった。


 そこに居たのはなんと通行人にティッシュを配るスタッフだ。見たところ若い女で、年齢は20代といったところだろうか。


「もしよろしければどうぞ」


「要らねぇよ! このクソ女っ!」


 ティッシュを拒否した采配。嫌っているとはいえ、そんな言い方をすることも無いだろうに。彼が地面に投げ棄てた紙には鶯谷のタウンマップと共に護身用特殊警棒の販促チラシが記されている。


「おいおい。仮にもこの街の店が世話になってる会社だぜ。顔役のあんたがそんな態度を取るのは感心できねぇな」


「あなたは政村興業を庇うんですか? こっちの嬢を汚い手で引っ張ろうとしてるクズどもに暴言を吐いて何がいけないんです!? どうせあれも奴らの手先だ!」


「さっきの女はずっとこの店の前でティッシュを配ってるのか?」


「ええ。そうですよ。おそらくは上の奴に言われて攫う標的を絞ってるんでしょうね」


「そんな証拠は何処にも無ぇだろ……」


 溜息をつきながら俺は采配に続いて歩く。改めてビルの方を向くと表に掲げるには何とも鮮烈なデザインの看板があった。


「へぇ。なかなか面白いコンセプトじゃねぇか。ああいう堂々とイラストが載った看板もこの街ならではだよな」


「鶯谷は昔っから風俗街ですからね。それに鶯谷は都内じゃ割と治安が良い方ですから。他の街と比べて客も安心して遊べるんじゃないですかね」


 曲がりなりにも中川会の会長直轄領だけあってこれまで不埒な輩は少なかったようだ。思えば中川会が産声を上げたのもこの鶯谷だ。恒元の父親である初代会長がこの辺で暴れまわっていた関東博徒を腕っぷしで捻じ伏せたことが中川会誕生のきっかけになったと聞いている。


 そんな中川会にとっては重要な土地柄だからこそ、この街を荒らす輩にはきっちりとケリをつけねばならない。俺はそう心に決めながら自動ドアをくぐり店の中へと足を踏み入れた。


 店内に入ると受付カウンターがあるが、今はお昼時なので営業時間外。それでも店内にはキャストらしい女たちが集っていた。


「いらっしゃいませ。すみません……当店はお昼の営業を行っておりませんので……」


「ああ、違う違う」


 俺はそう言いながら手短に用件を述べた。それと同時に肩書きを知るや否や、彼女は驚いた様子であった。


「あら、これは失礼いたしました! お見苦しいところをお見せして申し訳ありません!」


 頭を下げる女に采配はぶっきらぼうに言い放つ。


「お前、麻木さんたちを案内して差し上げろ」


「分かりました」


 そうして去って行こうとする采配を俺は呼び止める。


「おい、あんたも立ち会ってくれねぇのか?」


「色々とまとめなきゃいけねぇ書類仕事がありますので。ただでさえ師走は慌ただしいんだから業務を増やされるのはまっぴらですよ」


 酒井が止めるのも聞かず采配は出て行ってしまった。彼も彼で色々と大変そうだ。


「それではご案内いたしますね、こちらへどうぞ」


 気を取り直して、彼女はそう言うと俺たちを店の奥へと導いた。


 店は3フロア構成になっており、接客ブース以外にはキャストたちが待機する待合室や事務所、そして調理スペースなどがあるようだ。俺たちは1階にある事務所へと通された。中には応接用のソファとテーブルがあり、壁にはキャストの宣材写真が貼られていた。


「改めまして……当店『おっぱい倶楽部ストロベリー』のマネージャーを務めております。モモカといいます」


 おそらくモモカというのは源氏名だろう。風俗嬢にしては礼儀正しく丁寧な物腰だと思った。髪色もメイクも派手ではなく昼食のOLをやっていてもおかしくはない雰囲気である。


「どうぞおかけくださいませ」


 彼女は俺たちにソファを勧めた。酒井は座ろうとしないが、俺は遠慮なく座る。


「それで、お話というのは何でしょうか?」


「ああ、実はこのお店の女の子たちについて聞きたいことがあってな」


 俺が話を切り出すと、彼女は表情を曇らせた。


「……何人かが行方不明になっている件でございますね。私どもと致しましても大変困惑しております」


「俺も聞いて驚いたよ。さっきの采配から、街の中で最も女が消えてるのがこの店だって聞いたものでな」

 モモカは神妙な面持ちで頷いた。


「はい、確かに……ですが……」


 彼女はそこで言葉を詰まらせた。何か言いにくいことがあるのだろうか。俺は話を促した。


「どうした? 何かあったのか?」


「……実はその日の夕方に女の子たちと話していたのですが、その時に気になることを言っていたのです」


「ほう?それは何だ?」


 俺が促すと、彼女は意を決したように語り出した。


「付きまとってくる人がいると。『もう何度も断ったのにティッシュ配りがしつこい』と。そう言っていたのです」


「なるほど。それはいつ頃の話なんだ?」


「ちょうど2週間前くらいでしょうか……それを私に教えてくれた子は翌週に姿を消してしまって……あの時、私がもっと注意していたら……」


 俺は頭の中で計算した。政村興業らしき会社が鶯谷にやって来たのはその辺りだと聞いているから、拉致および誘拐の下準備であれば辻褄が合う。


 しかし、妙だ。この店は鶯谷でもかなり大きな部類に入る店であるし、客もそれなりに多いだろう。そんな大きな店の前で立ち続けていたのであれば顔を覚えられるはず。誘拐をはたらくには不利な状況だ。拉致の実働は別の者が担うとしてもティッシュ配りの前後に事が起きたのなら怪しまれる。暴力団という犯罪のプロがそんな簡単なヘマをやらかすだろうか。


 じっと考え込む俺を他所に、モモカは肩を落として言葉を続ける。


「考えてみれば明らかに不審者って服装だったんですよ。そのティッシュ配り」


「どんな風貌だったか覚えているか?」


「黒いジャンパーに黒いズボン。ティッシュ配りと呼ぶからには明らかに相応しくない格好をしたおっさんでした」


「ん、ちょっと待てよ? 今、あんた。何て?」


 俺は思わず聞き返してしまった。モモカは怪訝そうな顔をする。


「え……? ですから、黒いジャンパーに黒いズボンで……」


「いや、違う違う。その後だ」


「ティッシュ配りと呼ぶからには明らかに相応しくない格好をしたおっさんでしたって……」


 変である。今の発言が意味するのは彼女が知っているそのティッシュ配りというのは中年男性だったということ。しかし、それはおかしいのだ。


 何故なら先ほど采配が俺に言ったのは……。


「店の前でティッシュを配ってるのは女の子じゃなかったか?」


 その問いにモモカは小さく頷いた。


「あれはこの近くにやって来た防犯グッズ販売会社が雇ったバイトの子ですね。こないだの停電の後くらいから働き始めたと思います、確か」


「停電の後か」


「えっ? あの娘がどうかしたんですか? 言っときますけど彼女は関係ないですよ?」


「いや、別に」


「あんな熱心な良い子が不審者なわけが無い! 大体にして、うちの子をつけ回してたのはおっさんですからね! 私、その人を注意した時に写真を撮ったので!」


 念を押すかのように、モモカは俺に携帯電話を取り出して写真のフォルダを開いて見せた。そこにはいかにも怪しい服装の中年男が写っていた。聞けば女の子たちからの苦情を受けて注意しに行った際「今度うちの店に来たら警察に突き出す」と釘を刺す意味で写真を撮ったのだという。


「……そうか」


 ひとつ確証を得た。采配は俺に明らかな嘘をついた。怪しいティッシュ配りは店の前で出くわした女ではなく、まったくの別人だった。


 一体、あの男は何のために俺に偽りを述べたというのか。そもそもこの与太話が何を意味するのかは分からない。ともかく采配の信頼が揺らぎ始めた以上、奴の言ったことを前提に推理するのは止めた方が良さそうだ。


 気を引き締め、俺はモモカに質問を投げる。


「その怪しいおっさんはあんたが注意してから店に来たのか?」


「いいえ。その日以来、店には来ていません」


「他所の店には?」


「詳しくは分かりませんが、たぶん来ていないと思います。不審者や迷惑客の話はこの辺りの店で共有されるので。話が聞こえて来ないってことはおそらく」


 誘拐の基本は隠密行動。そういった行為に従事する輩は兎にも角にも顔を覚えられるのを嫌う。モモカの云う怪しいおっさんは彼女に注意されたことで店に近づくのを止めたのだろう。そいつを犯罪のプロと仮定すれば尚のこと憶測に説得力が備わる。やはり今回の下手人と考えるのが適切らしい。そして前述のティッシュ配りの女の子はまったくの無関係だ。


ツラが割れてから姿を隠すようになったって考えりゃ、ますます怪しいな」


 そう言った俺は一旦頭の中をクリーンに掃き、次なる質問を放った。


「ところで、消えた女らはどんな子だ? ティッシュ配りを装った不審者に出くわした以外で何か変わったことは無いか?」


「そうですねぇ。皆、お仕事は精力的にこなしていたので特にこれといった話は無いですね。ただ、共通項を挙げるとすれば、全員が兼業ってことですかね」


「兼業か」


 モモカは頷いた。


「はい。例えば、ある子は昼はOLとして働いていますし、別の子には大学に通いながらって子もいました。あと、これはあまり関係無いかもしれませんが……全員が働き始めて1ヵ月以内でした」


 俺は思わず息を吞んだ。


「1ヵ月以内? 風俗嬢としてはキャリアが浅めだな……」


「ええ。当然、店の売り上げランキングでは下位の方でお客さんにも人気は浸透してない子ばかりでした。姿を消した日が初出勤だった子もいます」


「だとすると、他所の土地で娼館を仕切るヤクザが鶯谷ここでの稼ぎを貶めるために売り上げ上位の嬢をかっさらったって線は無さそうだな」


 一体、彼女たちは何故に狙われたのだろうか。鶯谷界隈の嬢たちが次々と消えていることを考えれば、個人ではなく集団での犯行と考えるのが妥当。しかしながら、攫われた女らに誘拐のターゲットとなり得るだけの人気があるとは思えないのである。


「うーん。言っちゃアレですけどね。誘拐されたのは皆、まだ風俗嬢として働き出して日の浅い素人同然の娘らってことになりますからね……」


 酒井の指摘に俺も頷いた。人気の嬢を攫うなら未だしも、経験値の低い女を攫ってどうするのだろう。自分の店で働かせるにしたって最初から教え込まなくてはならないので色々と大変だろうに。単純にシノギを邪魔する意図であれば誘拐した女をすぐに殺害する展開も考えられるが、もしそうなら尚更に売り上げ下位のキャストを標的にした理由が分からない。


「今回の騒ぎにヤクザが絡んでねぇとなると、誰がこんなことをやったんだろう」


 そう俺が眉間に皺を寄せた直後、事務室の扉が開いて数人の女の子たちが入ってきた。


「どうも、ご苦労様です!」


「いやあ、今日は寒いですね! モモカ姐さん、何かあったかい飲み物ありませんか?」


「私、今月ぜんぜん稼げてなくてぇ。これじゃあ帰省する新幹線代も賄えませんよぉ。誰か貸してくれないかなぁ」


 雑談を交わしながら入室してきたのはこの店のキャストたちの模様。全員がブランド物のコートに身を包んでおり、何とも水商売らしい装いだった。


「あれ、モモカ姐さん。その人は?」


 先頭を歩いていたキャストがモモカに尋ねる。


「この方は麻木涼平さん。中川会で会長の側近をやっておられるの。皆、ちゃんとご挨拶しなさい」


 彼女が“中川会”という単語を出した瞬間、キャストたちの態度が一変した。


「な、中川会!? ヤクザ!?」


「嘘! 私たちを殺しに来たの!?」


「きゃー! どうしよう!! 怖いよう!!」


 その豹変ぶりに俺は思わず眉を顰める。モモカが彼女らを窘めた。


「ちょっと皆、落ち着きなさい! 中川会は私たちのケツモチだから失礼なこと言わないの! 今は大事な話をしてるんだから!」


 それを聞いた彼女たちは少しは平静さを取り戻すかと思いきや、ますます混乱する有り様。ケツモチの意味も分からないのか。慌てて酒井が彼女らに説明した。


「要するに、俺たちはお前らの味方だ! この店からカネを貰う代わりに何かあった時は守ってやる契約を結んでるんだよ!」


 酒井の説明を聞いてもなお、キャストたちは訝しげな表情のままだった。


「本当なの? 私たちをどっかに売り飛ばすつもりじゃ……」


「そんなことするかよ! 大体、お前らの仲間が攫われたっていうから来てやったんだろ! 呼んどいて何を抜かしてやがる!」


 モモカもまた彼女らを宥めて言う。


「皆、落ち着きなさい! この人たちは本当に味方だから!」


 しかし彼女たちは依然として警戒を緩めない。無理もないだろう。一般人にとってヤクザは恐ろしい存在でしかないのだから。


「まあ、頼むから落ち着いてくれや」


 なるだけ穏やかな声色となるよう気を付けながら、俺は彼女たちに切り出した。


「俺は麻木涼平っていうもんだ。この街を守るよう会長に命じられて来た。攫われたっていうあんたらの同僚を助けるために、話を聞かせてくれねぇか」

 キャストたちは呆然とした。少しばかり冷静さが戻ったようか。すかさずモモカが続けた


「皆、この人たちの言ってることは本当! 会長の側近である麻木さんは私たちを守ってくださる方なの!」


 その言葉が後押しになったのか、キャストたちはようやく落ち着きを取り戻した。


「そ……そうよね」


「ヤクザってすぐに暴れたり怒鳴ったりするイメージだけど、この人は大人しいもんね……」


「たぶんそうだよね……」


 彼女たちはモモカに促されソファに座り始めた。俺は皆が着席したタイミングで話を切り出す。


「さてと、じゃあさっそく聞かせてもらうぜ。この店のキャストが姿を消しちまったのは皆も知ってる通りだと思う。何か最近で変わったことは無かった?」


 俺がそう言うと、キャストのひとりが恐る恐る手を挙げた。彼女はまだ20歳くらいの若い娘だった。名前は『サユリ』というらしい。


「あの、実は……私、最近誰かに尾けられているような気がするんです」


「尾けられてる?」


「はい。私の職場の近くにいつも同じ人が立っていて……」


 サユリはそう語ると、その詳細を語り始めた。


 それは3日前のこと。仕事を終えて帰宅しようとした彼女は自宅のマンションの前に誰かが立っていることに気が付いたのだという。時刻は明け方5時頃。辺りは真っ暗で街灯も疎らなために顔はよく見えないも、シルエットからして男であることは分かった。


「最初は私のお客さんかなって思ったんですけど、ちょっと様子が変で……ずっとマンションの前に立ってるんです」


 彼女はその人影に恐怖を感じつつも無視を決め込むことにしたのだという。すると次の瞬間、何と男がこちらに向かって歩き出したのだ。サユリは驚いて咄嗟に身を隠すと、男は踵を返して立ち去ったのだという。


「私、怖くてすぐに部屋に戻ったんです。それから暫くして外に出てみたんですけどさっきの男の人はもういませんでした」


 そして翌日も翌々日も同じような時間帯に男は現れ、マンションの前まで来ては去っていくという行為を繰り返した。


「その日から私は夜が怖くて眠れなくなってしまって……それで、モモカ姐さんに相談したんです……」


 サユリの話にモモカも頷いた。


「確かに私もそれは気になってたんだよね……」


 俺と酒井は視線を合わせた。この流れだと、次なる標的はサユリと考えるべきか。彼女に付きまとう謎の男は明らかに何かしでかすつもりだ。


「サユリとか言ったな。その男の特徴を教えてくれ」


 酒井にそう尋ねられ、彼女は「はい」と頷いた。


「年齢は分かりませんけど、背はそこそこ高いです。長身で、いつも黒いコートを着ています。あと……顔はサングラスで隠されていますね……」


「なるほどな」


 やはり狙いは彼女か。しかし、その男は何を考えているのだろう。誘拐する気があるならこちらが警戒し始める前に事を起こしそうなものだ。まるでサユリをじっくりと監視しているかのよう。ある意味では泳がせているとも思える素振りだ。その真意が分からない。


 俺が頭を捻っていると、周りの嬢たちが次々と声を上げた。


「サユリちゃん、この店に来たばかりだけど意外と人気あるんですよ。背も高くて可愛いから」


「こないだなんかモデルのスカウトも来てましたよねぇ」


 するとサユリが恥ずかしそうに彼女らを制止する。


「ちょ、ちょっと! 止めてください姐さんたち!」


 そんな彼女に酒井が問うた。


「モデルのスカウト?」


「はい……今月の頭くらいに……」


 サユリが語るには、この『おっぱい倶楽部ストロベリー』で働き出した12月初旬、どういうわけか芸能事務所のスカウトマンを名乗る人物が訪ねて来たのだという。


「そのスカウトマンってどんな奴だった?」


 俺がそう尋ねると、サユリは淡々と言った。


「変な素振りとかは無い、至って普通の方でした。スーツをビシッと着込んで髪はワックスで固めて。名刺もくれたので」


 たまたま貰った名刺を鞄に入れていた彼女。頼んで取り出してもらうと、そこに書いてあった会社名に俺は驚いた。


「おいおい……エースタウンって……」


 エースタウン・マネジメント株式会社。芸能プロダクション国内最大手『エースタウングループ』の傘下企業で、言わずと知れた超有名所帯だ。


「エースタウンって言やあ、あの神野龍我や紅坂姫奈も所属してるところじゃねぇか」


 酒井がそう呟くと、サユリは小さく頷いた。


「はい……たぶんその名刺は本物だと思います……」


 俺は思わず唸った。大手芸能プロのスカウトマンが何故に風俗嬢なんかを? しかもこの店で働いているというピンポイントな情報まで掴んでいる……?


 これは偶然とは考えにくいだろう。


「そのスカウトマンってのはどうしてあんたを?」


 俺の問いに彼女は答えた。


「私が通ってる大学の学祭に来てたそうです。けど、変なんですよね。私はミスコンにも出てないのに」


 芸能事務所のスカウトマンが有望株の青田買いに学祭を訪れるのはよくある話だ。もしやそのスカウトマンは彼女にモデルとしての素質があるか否かを思案すべく尾行しているのか。いや、それならば堂々と調べるはず。わざわざ密かに素行を調べるというとは考えにくい。第一にそのスカウトマンと怪しい男は容姿の特徴が合わない。きっと別人だろう。


「たぶん事務所の人がサユリのことを調べてるんだって」


「天下のエースタウンだよ。羨ましいじゃん」


 そう周りの嬢たちが囃し立てるのに対してサユリは「でも、私なんて……」と謙遜した。


「そんなことないわよ。サユリは可愛いわ」


 モモカたちがそう言うと周りのキャストたちも頷く。サユリは皆から期待をかけられているらしい。確かに彼女は美人だ。身長も170センチ近くあり、細身ながらも抜群のスタイルを誇る彼女ならばモデルの仕事も務まろう。むしろ風俗嬢よりそちらが似合っているだろう。学費を自分で稼いでいるという健気なところも愛らしい。


「それにしても、何なんだろうな……怪しい男らは」


 俺がため息と共に呟いた時、扉が開いて一人の男が入って来た。


「何だ。まだ居たんですか、麻木さん。もう用は済んだでしょう」


「ああ、采配さん。お疲れ様です」


 采配である。彼にモモカが挨拶すると皆がそれに続いた。


「お疲れさまでーす!」


「皆に肉まんを買ってきたよ」


「わあ! ありがとうございますぅ!」


 近くのコンビニで肉まんを買って来たらしい采配。店の皆への差し入れというわけか。ビニール袋から取り出すなりサユリたちに配った。


「美味しいです!」


「そりゃあ良かった」


「いつもありがとうございますね、采配さん。私たちのために」


「君たちはこの街の歯車なんだから。奉仕するのは当然のことだよ。ほら、あったかいうちに食べて」


 風俗嬢たちからは慕われている模様。そんな采配は俺の方に向き直ると怪訝な表情になって言い放った。


「あんた、いつまで居る気ですか? さっさと帰ってくださいよ」


 こちらには聞きたいことがある。それは店の前でティッシュ配りをしていた女の子について俺に嘘を述べたことだ。奴には色々と問い質さなくては。


 と思った俺だが、寸前になって唱えるのを止めた。


「ああ。すまねぇな」


 それだけ言い残すと部屋を出たのである。慌ててついてきた酒井が俺に問うてきた。


「ちょっと、次長!? よろしいんですか!?」


「構わねぇよ」


「何でまたあの野郎を問い質さなかったんですか!? あいつは俺たちに嘘を……」


「だいぶ女どもに慕われてる様子だったからな。あの場で追及すれば彼女らは奴の味方をする。嬢たちにまで嫌われちゃあ後々に響く」


 あのような場では無理に事を荒立てないのが無難というもの。傭兵時代に数々の心理戦をくぐってきた俺が学んだ知恵だ。どうせ采配は言い逃れの口実も用意してあるだろうから。


 そうだとしても奴が怪しいことに変わりはない。


「酒井。お前、しばらく采配の後を尾けろ。奴が怪しいことをしていたらすぐに知らせろ」


「分かりました。次長は?」


「奴が言ってたティッシュ配りの会社ってのを調べてみる」


 酒井にそう指示を飛ばすと、彼は近くの電柱に身を隠して隠密行動の体勢に入った。それに踵を返して俺は鶯谷の街を歩き出したのだった。


 そういえば来るときには居たティッシュ配りの女の子が居ないな。オフィスに戻ったのか……と思った、その時。携帯が鳴った。

「もしもし」


『ああ、涼平。話せるかね』


 恒元だ。


「ええ。大丈夫ですよ」


『すまんがこれから銀座に行ってくれないか。お前を寄越して欲しいと淑恵から連絡があった。すぐに来てほしいそうだ』


「銀座に……?」


 俺は戸惑った。このタイミングで本家の者、それも俺を呼ぶということはよほどの問題なのだろう。何だか妙な胸騒ぎも催してくる。


「分かりました。鶯谷の件ですが、そちらについてはもう少し調べてみる必要がありそうです。酒井を残していきますので何かあったら連絡します」


『うむ。よろしく頼むぞ。きちんと隅々まで事を調べてくれ』


 電話が切れると俺はタクシーを拾い、銀座の大通りへと駆け付けた。一体、何だというのだろう。よもや、輝虎派が攻撃を仕掛けて来たか。


 様々なシチュエーションに想像をめぐらせつつ車に揺られること30分。大通り沿いの眞行路邸へ着いた。そこには待ちくたびれた様子の秀虎が居た。


「ああ、麻木次長。やっと来てくださいましたか」


 護衛と共に庭に立っていた秀虎は少しさ無用だ。どうやら俺をずっと外で待っていたらしい。


「遅くなってすまねぇ。何があった?」


「ちょっとお出かけしたくなって。あなたが来るのを待っていたんです。これでやっと出かけられる」


「お、お出かけ!?」


 半ば呆然気味にきょとんとする俺。そんな中で屋敷から淑恵が出てきた。


「来てくれたのね、麻木次長。いきなり呼びつけてすまなかったね。うちのモンだけじゃどうしても不安でさ。あんたが居れば安心かなと思って。助かるよ」


「おいおい。こりゃあ一体、何だってんだ? 並々ならぬ事態だと思って来てみりゃお出かけだなんて……」


「そうだ。読んで字のごとくお出かけさ」


 彼女が続けた言葉に俺は腰が砕けそうになった。


「これから秀虎は水族館に行くところなんだよ」


「水族館!? おいおい……勘弁してくれよ!」


 思わず頭を抱えた。何かしら護衛を任されるだろうとは思ったが、まさかそれが水族館に行きたいからだったとは。しかも組の護衛が居るのに付けさせて俺までを指名するとは。


「あんたも師走で慌ただしいのに。すまないね」


「いや、構わねぇけどよ……」


 しかし、これは困ったことになったなと俺は思った。今、輝虎派の動きが激しくなっているというのに秀虎が水族館とは。流石に迂闊な外出ではないかと具申したが、淑恵によればこれは秀虎が大切にしていることのよう。


「あの子は海洋学者になりたいからね。水族館に行って海の魚と触れ合うのは秀虎にとって欠かせない時間なんだ。どうか守ってやってくれ」


 そのためにこそ海洋学を専門に教える学部に通っているという秀虎だ。まあ、ここまで母親に深々と頭を下げられては仕方あるまい。俺はやむなく引き受けた。


「分かったよ」



 淑恵が俺を秀虎の護衛につける意味はただひとつ。本家の者を随行させることで外出中に輝虎が手を出してくるのを防ぐ狙いだ。流石の輝虎も裁定待ちの最中に会長側近を巻き込んでドンパチを始めるのは避けたいだろうから。


 それにしたって何とも気が乗らない仕事である。この俺が水族館に赴くなど考えてもいなかった。あまり興味の無い分野だ。


「麻木次長。行きましょう」


 まるで子供のように瞳を輝かせた秀虎が俺に発破をかける。仕方なしに俺は彼の後に続いてリムジンへ乗り込む。俺を含めて数名の護衛が従うこととなった。


 首都高を飛ばして向かった先は東京都墨田区の押上。錦糸町から5分くらい走ったところにあるのが『すみだマリンワールド』である。その規模は関東最大級で、淡水魚や熱帯魚など約3000点の生きものを観賞できる魚の楽園だ。


「わぁ! 凄いですね!」


 大興奮の面持ちで館内へと入ってゆく秀虎。俺はそのあとに続いた。


「おい、あまり離れるなよ」


「分かってますって」


 そんなやり取りをする中、護衛たちは俺たちを遠巻きにしてついて来る。まあ、彼らも魚には興味が無いようだが仕事なので仕方あるまいか。


「麻木次長は水族館は初めてですか?」


「いや、ガキの頃に1回だけあるな」


 たった一度だけだが家族で訪れたことがあるのだ。確かあれは俺がまだ小学生だった頃。家族で東京へ遊びに行ったときだ。


「……あの頃は親父も居て、母さんとも妹とも仲良くやってた。皆でイルカショーを観たのが思い出に残ってるな」


 俺の言葉に秀虎は頷いた。


「へぇ、そうなんですか! 楽しいですよねぇ! イルカショーって!」


 そんな他愛もない話をしながら俺たちは館内を歩いて行く。そして、ある水槽の前で立ち止まったのだ。それは熱帯魚コーナーにある『大アマゾン展』だ。


「見てくださいよ、麻木次長! この魚たち!」


 秀虎が指差したのは南米の淡水域に生息する熱帯魚であるだ。俺はその水槽を覗いてみた。するとそこには数匹の肉食魚たちが泳いでいるではないか。


「おわっ!? 何だこりゃあ!?」


 思わず仰け反った俺である。そんな俺の反応に秀虎は笑った。


「あはは! そんな驚かなくても!」


 いや、驚くだろう。何せ獰猛な肉食魚なのだから。餌の肉に群がり一心不乱に貪り食らう姿に圧倒される俺に秀虎が語った。


「知能が高いんです。肉食魚としては数少ない、同族同士での殺し合いをしない魚といわれてます。だから、こうして同じ水槽に共存していられるんですよ」


 俺はその魚たちを眺めながら呟いた。


「……そいつは初耳だな」


 確かに彼らは互いに争うような素振りは見せず一緒に泳いでいる。まるで家族のように。


「何だか僕たちの世界にも考えさせられるものがありますね」


「ああ。確かにな」


 肉食魚も極道も獰猛という共通項がある。同族で争わない前者に対して、後者は同じ組の者ですら平気で殺す。両者の違いを分ける者は何であろうか。


 そう物思いに耽った時。俺の頭の中を覗いたかのように秀虎が言った。


「たぶん知力だと思います」


「まあ、言えてるな。争い合う俺たちヤクザには知力が足りねぇってか?」


「いいえ。逆です。僕らには知力がありすぎるんですよ。物を考える頭が過度に成長しすぎている。だから互いに憎み合って殺し合う。知力が無ければ争う理由に考え至ることも無い」


 なるほど。言われてみれば確かにそうだ。ヤクザの世界における戦争とは互いに求める利益がぶつかった結果、なし崩し的に起こるものだ。


 争い事のきっかけの大半は欲である。知力さえ無ければ、そもそも物の価値が分からないのだから手に入れようという気にならない。以前は傭兵として各国の紛争地帯を歩いていた俺としては、高まりすぎた知力こそが争いをもたらしているという秀虎の考えには賛同を示すしかなかった。


「まあ、そんな肉食魚も同族外の魚に対しては容赦なく噛みつくんですけどね。彼らは時に驚いちゃうくらいに残虐な殺し方をします。僕らが牛や豚の肉を貪り食らうように」


「食っていかなきゃいけねぇからな。そのために殺すのと、単なる欲のために殺すのとでは罪の深さが違うだろう。俺たち稼業人は言うまでも無く後者だ」


「そうかもしれませんが、このように考えることもできます。ヤクザたちが殺し合う理由は『食い繋ぐため』だとしたら」


「食い繋ぐため?」


「はい。その日の糧を得て、暮らしを明日に繋げるために短刀ドスを振るい、拳銃チャカを撃つのです。簡単に云えばカネのためですけど、カネが無ければ飯は食べられませんからね」


「カネのためといえば確かにそうかもしれねぇな。尤も、この世界は真っ当に汗水たらして働いて稼いでる奴が大半だぜ。『食い繋ぐために仕方なく……』ってのはそういう努力をサボった奴の戯言だと思えなくもないな」


「では、そういう稼ぎ方を知らなかったとしたら。もっと云えば真っ当に働く道を知らない、あるいはそうする選択すら許されない身の上であったとしたら。そんな人がヤクザの世界にごまんといる話はあなたもご存じのはず」


 秀虎の指摘に俺の言葉は止まった。


「……」


 脳裏をよぎったのは、これまでに出会ってきた数多もの男たち。自らの意思で裏社会に飛び込んだ者ばかりではないであろう。親からの権力継承、貧困ゆえの無学無教養、中には幼い頃に奴隷として売り飛ばされたせいでヤクザになるしかなかった人物も居たと思う。


「僕は犯罪者を擁護するつもりはありませんし、大体にしてヤクザという存在は大嫌いなんですけどね」


「……」


 俺は無言で秀虎の話に耳を傾ける。


「でも、彼らが残虐非道な行為に手を染めるのは必ずしも彼らのせいでは無いと思うのです。食い繋ぐために仕方ない側面も確かに存在すると思うのです」


「……そうだな」


 頷かざるを得なかった。カタギの人々が糧を得るために労働に勤しむのと同じように、裏社会の住人たちはただひとえに飯を食うために暴力を生業にしている。そして何より彼らは修羅の道しか許されなかった。食うか食わざるかの瀬戸際で、彼らなりの知力をもって営みを立ててきた。そんな連中を何故に非難することができようか。俺にそんな謂れは無い。


「変な喩えと思われるかもしれませんけど“パンはペンよりも強し”ってことです。どんなに高潔な理想や哲学も空腹の前では絵空事でしかない。腹が減っていては正義も語れない、パンを食べなければペンを握る力は出ませんからね」


 その言葉に俺は心の底からの賛同を示す。何だか社会の真理を教えられたかのような心地だ。秀虎の思った以上の底の深さに感嘆をおぼえたのは言うまでもなかった。


「ああ。そうだよな。お前の言う通りだよ」


「ちょっと奇妙な話になっちゃいましたね。せっかく水族館に来たわけですから楽しみましょうか。さあ、こちらへ」


 この水族館では常連らしい秀虎に案内され、俺は一緒に館内を回った。『すみだマリンワールド』はとても広く、1日ではとても回りきれない。


「ここにはね、色んな種類の魚がたくさんいるんですよ。ほら、あそこにはアマゾン川に生息するというピラルクが泳いでいます」


 秀虎が指差した先には確かに巨大な淡水魚のピラルクがいた。その姿はまるで太古の恐竜のようでもある。


「おお! すげえな!」


 俺は思わず感嘆の声を漏らした。すると秀虎も嬉しそうに笑ったのだ。


「でしょう? この水族館には他にもこの国には棲んでいない魚たちがたくさん居るんです」


 そんなやり取りをしつつ、俺たちは熱帯魚コーナーの中で最も奥にある展示ブースへとやって来た。その水槽に居たのはヘラヤガラという魚だった。


「ヘラヤガラは熱帯魚の中でも特に美しい魚です。この美しさには惚れ惚れしますね」


 秀虎がうっとりと眺めるその水槽の中には、まるで宝石のように輝く鱗を持つ1匹のヘラヤガラが居た。俺は思わず見とれてしまう。


 すると突然、彼は俺に向かってこう言ったのだ。


「実はこの魚、大西洋では最も弱いんですよ」


 一瞬、何のことか分からなかった俺だが、すぐに頭の中で認識が追い付いたので答えた。


「ああ……そうだな。こんなに綺麗な体をしていたら肉食魚の標的になりやすいだろうな。擬態する能力にも乏しいみてぇだし」


 俺が答えると秀虎は指をパチンと鳴らす。


「そうなんです。だからヘラヤガラたちは同族外の大きな魚にくっついて泳ぐんです。代表的なのがカスミアジですね。カスミアジの後ろについて泳いでいる限り、ヘラヤガラは肉食魚に襲われる心配が無い。虎の威を借りる狐ならぬ『カスミアジの威を借るヘラヤガラ』ってやつです」


 虎の威を借る狐か。似たようなことを6年前に村雨組で言われたような気がしたが、それはさておいて。秀虎はこの魚を眺めてまたもや物思いに耽っていた。


「……僕、大学でボランティア同好会に入ってるって話をしたじゃないですか。こんな弱っちい男ですけど昔から人助けが好きなんですよね」


「そりゃあ結構な事だな」


「兄からは馬鹿にされるんですけどね。それでも僕は誇りを持って活動してますし、僕なりに哲学も持ってます。少しでも多く困ってる人に手を差し伸べたい」


 秀虎の大学のボランティア同好会の活動は非常に盛んで精力的という。街頭でのゴミ拾いや貧困層向けの炊き出しなど、その内容は非営利団体さながら。学生の身分ゆえに為せることは限られているが、それでも学業の合間を縫う形で社会貢献事業に励んでいるのだとか。


「僕は社会の中におけるカスミアジでありたいと思ってます。困っている人たちや傷ついている人たちを守ってあげられるような存在でありたいんです。誰かを守るどころか喧嘩が苦手で力の無い僕が言うのもおかしいですが」


 その巨躯でヘラヤガラを守るカスミアジに自らの理想を重ね合わせたか。例えはともかく志としては素晴らしいと思う。俺が感心した直後、彼は意外な内容を語った。


「でも、時として逆説的に思うんですよね。力があれば、もっと多くの人に手を差し伸べて、守ってあげられるんじゃないかなって」


「あんたの大学のサークルを今以上に拡充したいってことか?」


「いえ。権力を持つという意味です」


「権力?」


 俺は秀虎の真意を測りかねた。彼は続ける。


「僕はね、この社会には『力』というものが存在すると思うんですよ。何もかもが『力』によって回っている」


「そりゃあそうだよな」


 それは俺も否定はしない。社会を回すのは必ず何らかの強制を伴うエネルギー、つまりは『力』なのだ。尤も、ヤクザが幅を利かせている時点でこの国の統治機構は機能不全に陥っているのだけれども。


「例えば、政治家を思いのままにする力。これがあれば全ての貧しい人たちの一挙救済だって可能なわけです」


「まあ、極道が賄賂で手駒にしてるくらいだから可能といえば可能なのかもな」


「はい。だから、僕は思ったんです。何もかもが腐りきったこの国で正義を貫くためには、その腐敗の根本的要因である極道に……」


 その時だった。


「よう! 秀虎ァ! こんな所で出くわすとは奇遇だねぇ!」


 突如として男のせせら笑う声が聞こえた。よもやと思って振り向くと、招かれざる人物が部下と共にやって来ていた。


「お前の魚好きは相変わらずかぁ。俺には良さがさっぱり分からねぇけどな」


 輝虎だった。

「に、兄さん!?」


 呆然と立ち尽くす秀虎を庇うように俺は奴を睨みつけた。


「何しに来た」


「おいおい。そんな言い方はぇだろぉ。たまたま魚を観に来たらお前らに会ったってだけだぜ。それとも何だよ。俺が水族館に来たらいけねぇってルールでもあるのかよ」


「ついさっき『良さが分からねぇ』って言ったのはテメェだぜ。廃嫡された元継承者さんよ」


 その返し文句を軽く受け流して、輝虎は俺の背後に居る秀虎に迫った。


「それより秀虎。お前、俺を差し置いて親父の後を継ぐ気かよ。さっさと会長に自ら辞退しろって言ったよな。何をやってんだよ。俺のことを舐めてるのか」


「……っ!」


 威圧的な態度で迫る輝虎に秀虎は萎縮する。俺は咄嗟に割って入った。


「待てや。ここは水族館だ。兄弟喧嘩をぶちかます場所じゃねぇよ」


「くくっ。相変わらず威勢が良いなぁ、麻木次長ぉ。お前は何で俺の弟にくっついてんだよ。会長は公平公正なお立場で裁定を下してくださるんじゃなかったのか。会長側近のあなたがそいつの側に立ったら中立の意味が失われるだろうに」


「ここ最近のテメェの様子があまりに不穏だったもんでな。裁定を前に危害を加えられたら困るんで護衛させてもらってんだよ。そしたら案の定、ちょっかいかけに来やがった」


 そう言うと輝虎は舌打ちを鳴らした。


「どうせ最初から決まってんだろ。俺じゃなくて秀虎を眞行路の跡継ぎに選ぶと。あの人にとっては利用しやすけりゃ誰だって構わねぇんだ」


 この男がどう受け取ろうと勝手だが、会長の裁定は絶対だ。それを蔑ろにするつもりなら誰であろうと容赦はしない。俺は輝虎に凄みを利かせた。


「さっさと帰れ。これ以上、舐めたことを抜かすのは許さねぇぞ。恒元公の意向に逆らう奴は誰であろうとこの俺が叩き潰す」


 すると輝虎は一瞬だけ怯む表情に変わったが、すぐにいつもの顔つきに戻ると今度は秀虎に向けて吐き捨てた。


「おい。秀虎。今すぐ会長に『辞退します』と伝えろや。お前は親分たる器じゃねぇんだ。この俺と争おうってこと自体が分不相応だ。ろくに喧嘩をしたこともぇくせに」


「っ!」


 この男の物言いはあまりに横暴だった。その態度に怒りを覚えた俺は奴の胸倉を摑み上げたが、奴は動じるどころかなおも弟を罵る。


「俺と喧嘩して勝てると思うのか? 母さんに何を煽られたのかは知らんが、お前は俺に敵わねぇよ! この兵隊どもを相手にどう喧嘩するってんだゴラァ!?」


 すると、輝虎が連れて来ていた組員が俺たちを取り囲む。そのあまりにも猛々しい雰囲気に周囲の客が怯え始める。


「皆、俺を支持する連中だよ。こいつらだけじゃねぇぜ。俺のところには3千は下らねぇ数の兵隊が集まってる」


「……」


「対してお前はたったの100。あんなカスどもでどうやって俺に勝つってんだ? 言ってみやがれ!」


「……」


 確かに輝虎の言う通りだ。会長が秀虎を選んでも、この男は必ずや弟の所に攻め込む。多勢に無勢では太刀打ちできない。ましてや相手は森田一家と椋鳥一家を味方に付けているのだ。いざ戦争の火ぶたが切って落とされれば、たちまち秀虎派は数に押し潰される。そうなっても会長は秀虎を守らない……いや、守る気などあったか? ただ、その時だった。


「……兄さん」


 今まで萎縮していたはずの秀虎が口を開いた。


「やっぱり兄さんとは分かり合えないな。」


「あ? 何を言ってんだコラ?」


 唐突な問いに輝虎は眉をひそめた。しかし、秀虎は続ける。


「兄さんは自分について来る人を物としか考えていない。だから平気で人を切り捨てる。自分が良ければそれでいいんだ」


「だから何を言ってんだこの野郎! 大体、下の連中なんざどうなろうが構わねぇだろうよ! 格上の俺に尽くすために組に居るんだからなあ!」


 輝虎は叫ぶように言った。対して秀虎は続ける。


「兄さんのやり方では誰も幸せにならないよ。誰もが他人の犠牲の上にしか成り立たない幸福しあわせに何の価値も無い!」


「けっ、どうしたんだよ突然。俺に説教か。随分と偉くなったもんだな、秀虎ァ!!」


 輝虎の怒声を受けても彼は語るのを止めない。


「そうやってすぐに人を見下す……どうして対等な立場で話そうとしないんだよ! 僕以外にもそうだ! 兄さんは周りのことなんかまるで考えていない!」


 その熱弁はまるで哲学者のような熾烈なものだった。そして……。


「そんな兄さんに僕は負けるわけにはいかない!」


「はあ? 何を言ってやがる!?」


「僕は決めた! 眞行路一家の跡を継ぐ! そのためには兄さんに勝たなければならない!」


「何だと!?」


 突如として放たれた表明。秀虎の言葉を受けて俺はおろか輝虎も驚愕する。されども長年にわたり弟を虐げてきた兄だ。


 やがて平静を取り戻すと彼は怒りを露わにして叫ぶ。


「お前みたいなカスが俺を倒すだと? 寝言も休み休み言え! お前が俺に勝てるわけねぇだろうが!」


「僕は本気だよ。僕は僕のやり方で兄さんを倒してみせる。僕の哲学でだ」


 激怒する兄に対し、怯むことなく反論する弟。その堂々たる態度に輝虎は思わず後ずさった。しかし、すぐに体勢を立て直すと秀虎に食ってかかる。


「いいか! テメェが俺に勝てるわけがねぇんだよ! 俺との兵力差は分かってんだろ!?」


「ああ、分かってるさ。だけど……」


 すると秀虎は言ってのけた。


「……僕がいつまでも昔の僕だと思ったら大間違いだぞ。クソ兄貴。あんまり調子乗ってるとブチ殺すぞ、この野郎」


 別人になったかと思った。その豹変にぶり輝虎も思わずたじろぐ。


「ひ、秀虎っ!?」


 これまでに蓄積された鬱憤が全て吐き出されたかのような貫録を纏う秀虎。当然ながら視線も鋭い。さっきまでの威勢は何処へやら、輝虎は足を竦ませながら逃げ去った。


「クソっ! 覚えていやがれ! テメェは絶対に許さねぇ! 俺に盾突いたことを泣き喚きながら詫びさせてやるからなっ! この愚弟ぐていっ!」


 部下と共に去ってゆく兄の背中に秀虎は吐き捨てた。


  「兄さん……もう僕はあんたに従う気は無いぞ……」


 俺は思わず尋ねる。


「なあ、良かったのか?」


 すると彼は一変。おろおろとした様子で俺に言った。


「ああ、やってしまいましたよ……僕は何てことを……どうしてあんな汚い言葉を……」


 そっちかい。


「いや。組の跡取りに立つって話だよ。あんた、将来の夢は海洋学者じゃなかったのか?」


 ずっこけそうになりながらも問うと、秀虎は厳かな声色で答えを寄越す。


「本当はさっき言うつもりでしたが。悩みに悩んで決めたことです。眞行路一家の跡取りは僕が引き受けます」


 一体、どうしたのか。ヤクザの存在をあれだけ嫌がっていたというのに。今朝から今に至るまでの時間で何が彼を変えさせたのだ。



「この国は腐っています。分立した三権の全てに賄賂が蔓延し、何もかもがカネと暴力で左右される世の中だ。そんな社会で正義を貫くには極道にでもなるしかないじゃないですか」


 弱者救済を実現するためにこそ、武を司り、カネを使い、権力を持つヤクザになるというわけか。


「いや……まあ、確かにそうだが……」


 秀虎の言うことはごもっともである。この国の統治機構を暴力団が牛耳っているのは確かだ。されど、気高い志のために敢えて裏社会へ飛び込むのはあまりにも突飛すぎる。


「……それで全てが自分の思い通りになるとは限らねぇぜ」


 俺は言う。確かに秀虎がヤクザになればカネも権力も手に入るかもしれないが、如何なる場においても自分を貫ける訳でもない。裏社会には裏社会の摂理というものがあって、誰しもそれに従わざるを得ないのだ。


 自由奔放に渡世を歩んでいるように見える人物も、実際には伝統や慣習に縛られている。関東博徒の王である中川恒元ですら己のやりたいようには振る舞えない。無論、俺などは言うまでもないだろう。


 そもそもヤクザの道は修羅だ。バイオレンスの中に在れば誰であろうと心が荒む。力と引き換えに人間性を奪われる。


 秀虎には拳を振るう覚悟があるのか?


 自分の存在を血で真っ赤に汚す覚悟が……?


「分かっています。僕は弱者救済のために全てを捧げる覚悟です。一人でも多くの困っている誰かを笑顔にするために」


 懸念に眉を顰める俺に対して秀虎は力強く答えた。その声色からは途方もない意思が伺える。最早、どんな言葉をかければ良いのか分からない。


「あんたはそれで良いのか。将来は海洋学者を志していたんじゃねぇのか。こっちの世界に来るってことはその夢を捨てるってことだぞ」


「そりゃあそうですよね。ですがご心配なく。そんな夢はもうとっくに捨てましたので」


「え?」


「確かに海洋学者という夢は僕の憧れです。でも、多くの人を救うという志の前では些末事です。第一に、クジラの研究なんかやったところで人は救えないでしょう」


「夢を捨てたって、あんた。つい今朝までは『将来は海洋学者』って言ってたじゃねぇかよ……」


「はい。言ってましたね。けど、この水族館に来て改めて思ったんです。僕こそがこの腐りきった世界におけるカスミアジであらねばなるまいと。所詮は自己満足でしかない研究をするよりよっぽど世の中のためになる」


 秀虎の顔つきには確かな決意が宿っていた。そうだとしても俺は快く頷けなかった。ヤクザに身を堕とすことの意味が分かっているのか……たとえ親からの継承だとしても、ひとたび手を血で汚してしまえばその罪業からは永遠に逃れられなくなるものだ。


 ましてや秀虎は争いや喧嘩が嫌だったのではなかったか。人を傷つけることが出来ないのではなかったか。そんな優男に裏社会など似合うはずもない。


 そう、思ったのだけれど。


「秀虎様。よくぞご決心なさいましたな。嬉しゅうございます」


 よろよろと近づいてきた三淵が、彼に声をかけた。先ほど輝虎派の組員に痛めつけられてトイレにでも押し込められていたのだろう。その顔は傷だらけ血だらけで周囲の客が思いっきり引いている。


「そうと決まれば、秀虎様に誠心誠意お仕えする所存にて。例え火の中、水の中、何処へでもついてまいります。何なりとお命じくださいませ」


 彼だけではない。ボロボロになった身体を引きずりながら随行の護衛たちが次々と現れ、秀虎の前に跪いたのだ。


「同じく。眞行路を継ぐのはあなた様を置いて他にはございません。秀虎様こそが銀座を統べるに相応しいお方」


「秀虎様。我ら一同、今日より貴方様が主君。ご命令に従うことを心から誓いまする」


「確かにヤクザの道は決して楽なものではございません。しかし、俺たちが全力で貴方様をお守りする覚悟でおります」


「あなたが眞行路一家の跡継ぎとなられるのなら、我らも喜んでついて行きますぞ!」


「そうでさぁ! あなたしか居ねぇや!」


 おいおい。ここは水族館の中だぞ。つい数分前の輝虎の来襲も然りだが、冷静に考えたら途轍もなく異様な雰囲気。周囲の客たちは完全に怯えきっていた。暫くすると熱帯魚の展示スペースには俺たちしか居なくなったのは語るまでもないだろう。


「ちょっと、あんたら……」


 困惑気味に声をかけようとする俺であるが、当の秀虎がそれを遮った。


「ありがとう。皆の想いはこの僕が引き受ける。どうか力を貸してくれ。社会を変えたいんだ。それは一人の志だけでは成し得ることじゃない」


「承知いたしました! 秀虎様!」


 ああ。最早、こいつらには何を言っても無駄。穏便な形で後継者争いから遠ざけようとしていたのに。


 ただ、頭を抱えながらも俺は思った。特に何をするわけでなくとも輝虎が殺意を剥き出しにしている今、秀虎が身の安全をはかるには兄との争いに名乗りを上げる他ないのではないか……と。それ以外に秀虎が穏やかに過ごす道は無いであろう。


 輝虎と秀虎。この兄弟は殺し合い、どちらか一方しか生き残れないさだめなのだ。極道の親分の息子としてこの世にやって来たばかりに。


「……これしか道はぇのか」


 吐き捨てるように呟いた俺をよそに、秀虎と三淵たちは微笑み合っている。その後、この水族館のイルカショーを観て俺たちは帰路に就いた。


 自らが眞行路一家を継承すること。


 息子の口からそれを聞いた淑恵が呆気に取られたのは語るに及ばず。


「あんた、本気なの? ヤクザになるって?」


 彼女は動揺を隠せない様子で息子に問うた。無理もない。あれだけ暴力から遠い存在だったはずの我が子が対極的な道を自ら選ぼうとしているのだから。


「ああ、本気だよ」


「一体どうして? いや……それ以前にあんたはヤクザが嫌いだったんじゃなかったの!? 海洋学者になるって夢はどうしたのさ!?」


「海洋学者の夢も捨てたくはなかったけど。結局、僕が生き残るにはこれしかない。母さんだって分かっているんだろう」


 その言葉に淑恵は返答を失った。思っていたことを言い当てられた、つまりは図星を突かれたかのような表情。哀しいなと俺は思った。


「……ごめんね。口じゃ『反対』って言ってたけど、やっぱりこうするしか無いのよね。一番はあんたを守ることだから。すまないね。秀虎」


「良いんだよ。母さん。この腐った社会を変えるために、僕自身が選んで決めた道だよ。少しでも多くの人を笑顔にしたいんだ。それが出来るのは極道だけだと思ったんだ」


 淑恵も、組員たちも、俺からすれば「とことんずるい」の一言に尽きる。本人のためだと云いながら、無言の圧力をかけ、結局はヤクザになる道を秀虎に選ばせた。極道となって眞行路一家を継承し腐りきった社会に一石を投じるという志。これは秀虎の真意か。あるいは周囲の期待に応えるべく自分なりに辻褄を合わせた出任せか。それは最早どちらでも良いことだった。


 全ては動き出してしまったのだ。こうなった以上、秀虎は兄を抹殺し、その血肉を食らって生き残るしかない。何もかもが最初から定められた因果の上に在ったとすれば、何と哀しいことであろうか。


 夕方16時頃。眞行路邸を出た俺が電話で恒元に事の経緯を全て伝えると、彼は上機嫌な反応を聞かせてきた。


『ははっ!そりゃあ結構だ! ならば兄弟でとことん気の済むまで潰し合ってもらおうじゃないか! そもそも銀座が力を持ち過ぎていたんだよ! この我輩を臣下の分際で超える者がいること自体がおかしいのだよ!』


「裁定はどうなさるおつもりなんですか?」


『ああ、秀虎を選んでやろう。そうなれば輝虎は怒り狂って銀座に攻め込んで弟を討つだろうからね、こちらとしても奴を断罪する大義名分が得られるわけだ。ふふっ、計算通りにね』


「け、計算通り……」


 やはり恒元としては秀虎を守り育ててゆく意図は何処にも無い。あの銀座における兄弟喧嘩の開戦こそが彼の唯一にして最大の狙い。そんな冷徹さこそが彼を曲がりなりにも関東の王たらしめているだと俺は改めて思わされた。


『大体にせよ、秀虎は器ではないのだろう? そんな青二才に盃をやったところで我輩の名に傷が付くだけ。輝虎には裁定が出たその晩に銀座へ攻め込んで弟を殺して貰いたいものだねぇ、盃の儀式が行われる前に』


 秀虎は器にあらずと恒元は云う。そんな彼に対して何のつもりか。ふと気が付けば俺は反射的にこんなことを述べていた。


「あいつ、社会の何たるかについては意外と分かってるところがあると思います。少なくとも俺よりは物事の本質に気付いているなと思いました」


『たとえばどんなことをだね?』


「あいつ自身はヤクザの非道さを嫌っていますが、一定の同情を示してもいました。ヤクザが暴力を振るうのは“食い繋ぐため”であると」


『食い繋ぐため?』


「ええ。“パンはペンよりも強し”とも言っていました。どんなに気高い思想や正義も空腹の前では単なるおべんちゃら、人が罪を犯す大元の要因は明日の糧を得ることにあり、そういう連中が跋扈するのは仕方がないというのが奴の考えで」


 すると恒元は鼻で笑った。


『ふんっ、猿知恵だな。困窮ないしは空腹ゆえの衝動が思想に勝るのは大昔に証明されたことだ』


「はあ……」


『かつて「一枚の新聞は千の銃剣より恐ろしい」と言った将軍でさえ兵糧不足が原因でイデオロギーを放棄したのだからね』


 分かりきったことをさぞ己が辿り着いた境地であるかのように語るのは恥ずかしいと恒元は断じた。そもそも裏社会において正義など必要ないと言い切る。


『良いかね。涼平。お前はまだ若いから理想に萌えるのだろうけどね、最終的に勝ちを収めるのは正しくあろうとする者より狡い者だよ。我輩のようにね。傭兵として数多もの戦場を駆けまわったお前なら何となく分かることだろう』


 返答を出せずにいると、恒元は言い放つ。


『ヤクザなど所詮はカネと暴力しか取り柄の無い汚れた存在だ。全てを力で押し通す傲慢さを秀虎は嫌うようだが、かくいう彼だって極道の力で己の野望を形にしようとしているんだ。そういうダブルスタンダードはいずれ身を滅ぼすよ』


 俺は閉口した。欲深い恒元の言葉にではない。それに対して何も返せない自分自身と、甘いと分かっているのに秀虎への同情を捨てきれないことにだ。彼の肩を持ったところで所詮は利用するだけ。本家の者としての立場を考えれば共感などは絶対にいけないというのに。ただただ己が情けなく感じた。


『まあ、ダブルスタンダードでしかない戯言を何の臆面もなく抜かせる傲慢さはある意味じゃ極道向きかもしれないね。裁定は秀虎に決めるとしよう』


「分かりました」


『お前はとりあえず鶯谷に戻ってくれ。何かあればすぐに連絡をするように。今後も期待しているよ』


 俺は電話を切った後、すぐにタクシーを拾って台東区へと逃げ去った。とてもではないが恒元の話は淑恵と秀虎の耳には入れられなかった。執事局次長としての立場もあれど、それ以上に「お前たちは捨て駒でしかない」などとは、面と向かって言えなかったのである。


 まったく。俺もつくづく甘い男だな。傭兵として数々の修羅場を歩いてきたことで少しは乾いた考え方が可能になったかと思いきや、むしろそのせいで人の情が恋しくなってしまったのだから。


 軽く自嘲に浸っていると携帯が鳴った。酒井からだ。


「俺だ」


『もしもし、次長? 今、何処に居られます?』


「ちょうど首都高に乗ったところだ。どうしたんだ。そんな慌てた声を出して」


『いやあ、実はですね。例の采配の後をけているんですが、妙な所に入ってたんですよ。丸の内のエースタウン本社に……』


 俺は反射的に聞き返した。


「エースタウンだって?」


「はい。入ってから10分は経ってます」


 俺は思わず携帯を握り締めた。驚きを隠せない。何故に風俗街の顔役が国内最大手の芸能事務所へ赴くのだろう。


「ああ。確かに妙だな」


『でしょう?』


「サユリがスカウトを受けていたって話は聞いたが、何で采配が行く必要があるんだ」


『ですよね。“うちの嬢を引っ張らないでくれ”って釘を刺すつもりだとしても無理がありますから。何せあの事務所は中川会うちの得意先なんですから』


 エースタウン・グループは持株会社へ改組する以前の創業時より中川会がケツモチを務めている。創業者の風越かざこし正美まさみ代表取締役社長は中川会初代の中川なかがわ恒澄つねずみ公と親しかったのだ。その縁は恒澄公の長男にして二代会長のひろつね公、そして次男で当代の恒元にも引き継がれ、中川会は今も同社を支援している。


 そんなエースタウンの方針に一介のチンピラ風情が盾突くなど絶対に有り得ない。中川会の上客に迷惑をかけたとあればどうなるかくらい采配も分かっている。ゆえにサユリのヘッドハンティングを阻止しに来たという線は考えられなかった。


 であれば、何故に采配はエースタウンを訪れているのか。俺は訳が分からなかった。ひとまず酒井に指示を飛ばす。


「お前はとりあえず尾行を継続。ただし、オフィスビルの中には入るな。もしも事が露見したら後が面倒だからな」


「分かりました」


 何かあればすぐに連絡するように言い含め、俺は電話を切った。一体、何のために奴は国内最大手の芸能事務所に。事実関係を確かめるためにもとりあえず今一度鶯谷の近辺を探ってみるとしよう。


 駅前でタクシーを降り、俺は『おっぱい倶楽部ストロベリー』へ向かった。采配が不在なだけあって気兼ねなく調べられる。


 陽も落ちてすっかり暗くなった街を歩いて行くと、ちょうど店に入るモモカと出くわした。


「あ、麻木さん。お疲れさまです」


「よう」


「どうなさったんです?」


「ああ。ちょっと気になってることがあってな。さっき会ったサユリって娘のところにモデル仕事のスカウトが来てるって話、采配は知ってるかい」


「ええ……実を言いますと……」


 するとモモカは意外なことを続けた。


「モデルの話を持ってきたのは采配さんなんです」


「え? そうなのか?」


「はい。何でも事務所の人に『おたくの店の嬢で可愛い娘はいないか』って声をかけられたらしくて。それでサユリちゃんを推薦したみたいです」


 意外だった。てっきりキャストが辞めるのを嫌ってこの話を快く思っていないと踏んでいたのだが。モモカによれば、むしろ采配は引き抜きで得をする立場にあるというのだ。


「もしも女の子が事務所に正式に所属することになったら采配さんは紹介料として大枚のお金を貰えることになってるんです」


「そうか。だとすると、あの野郎としても結構な人数を推薦してるんじゃねぇのか」


「いいえ。ところがそうではないんです。実際にモデルになる娘は意外と少ないんですよね。風俗と違って緩い世界じゃないからスカウトを受けても断ってしまうらしくて」


 確かにそうだわな。体を売れば必ずカネになる風俗業と違い、モデルの世界は格差社会。スカウトされて事務所に所属したとしても、すぐに仕事にありつけるわけではないのだ。


「だから采配さんはその辺りは慎重に選んでいるはずです。言っちゃアレですけど、お店の娘の中にはすぐに辞めちゃいそうな娘もいるので」


 仕事に関してはシビアなスタンスらしい采配。その誠実さも相まってキャストたちからは支持を集めていると思われる。


 ただ、奴が風俗嬢の中から適当な娘を選りすぐってモデル候補を芸能事務所に紹介している件と一連の失踪騒動に何の繋がりがあるのだ……?


 頭を回していると、モモカが俺に問うてきた。


「麻木さん。少しお時間よろしいでしょうか」


「ああ」


「サユリから麻木さんにお話ししたいことがあるそうなんです。何でも、さっきは話せなかったことがあるとかで……」


 俺に話とは。一体、何であろうか。戸惑いつつも了承するとモモカは俺を裏通りに向かって案内し出す。


「嬢たちが使ってる寮がありますので、そこへ。店では話したくないと言っていましたもので」


 俺は即座に勘付いた。采配について何かよからぬことを感じているのだろう。同僚たちが采配を慕う中では言い出しづらい内容だと思われる。


「着きました」


 その寮は歓楽街の中に佇むアパート。築10年以上は経っていそうな古い物件であった。多くの人や車が行き交う道路のすぐ前にあり、これでは街の喧騒が聞こえてきて気が休まる暇も無いだろうなと思わされる。


 俺たちが来た時もちょうど建物の前にバンが停まっていた。水道業者か。作業着姿のドライバーらしき男が乗っているも居眠りをしており、ハザードランプは灯っていない。


「……」


 ただでさえ道路は狭いというのに嫌な止め方をする者だなと呆れつつ、モモカに続いてアパートに入ろうとしたその時。


 ふと、車が揺れたような気がした。


「……っ!?」


 気のせいか。いや、確かに揺れた。どういうわけかバンの車体が左右にぐらぐらと揺さぶられたのである。


「麻木さん。こちらです」


 一体、何だと呆気に取られる俺だがモモカに促されて我に返る。ふとバンに注意を配りつつも彼女の先導でアパートの階段を上っていった。


 そのままモモカは206号室の前で立ち止まった。


「サユリ。麻木さんを連れてきたよ」


 インターフォンを押して呼びかけるモモカ。けれども返事は無い。そこから1分ほど待っても中から人が出てくる気配が感じられない。


「おかしいですね。いつもならすぐに出てくるのに」


 モモカは扉に手をかける。すると、鍵が開いていた。


「えっ!?」


「おい、モモカ。ちょっとどいてろ」


 俺は彼女に代わってドアノブを回した。すると、ドアは開いたのである。鍵が開いていたのも当然だった。


「……っ!」


 中に入った俺たちは絶句した。部屋中に物が散乱しているのである。まるで泥棒が入った後のような惨状であったのだ。


「なっ!?」


 室内は荒らされ、特に下着が辺りに散乱している。これは確実に何かあったぞ……と思った俺の脳裏に、先ほどの光景がよぎる。


 アパートの前に停められたバン。何故か点灯していないハザードランプ。そして俺が通った瞬間に揺れた車体。


「……まさか!」


 ギョッとして部屋を飛び出した時には既に遅かった。


 そのバンが高速で走り出していたのである。そのタイミングはさながら俺に気付かれたことを悟ったかのよう。どうやらサユリは攫われたようだ。


「待てやっ!」


 呆然とするモモカをよそに慌てて追いかける俺。しかし、その差は縮まるどころかどんどん開いていく。このままでは追いつけないと踏んだ俺はすぐさまタクシーを拾った。


「おいっ! あの車を追いかけてくれ!」


「え? あのバンですか?」


「ああ。頼む!」


 鬼気迫る俺の形相に業者は車を走らせた。突然、追ってくれと頼んできた俺に戸惑いつつも彼は車を走らせていくが、その差は全く縮まらない。


 それどころかどんどん引き離されてゆくばかりだ。


「くそっ! 何て速さだ!」


 俺は思わず舌打ちした。バンは猛スピードで走っている。どうにかついて行こうとするタクシーであるが、一向に距離が縮まらないのだ。


「おい! もっとスピード出してくれ!」


「そっ、そう仰られても」


 焦る俺に業者も戸惑いを隠せないようだ。しかし今はそんなことを言っている場合ではない。何とかして追い付かなければ……!


 だが、それでも差は開くばかりであった。このままでは追いつけないと踏んだ俺はやむなく万札を渡してタクシーから降りた。そして走り込んでくる車に構わず車道のド真ん中を駆けた。


「待てやコラァ!」


 俺の怒号に周囲の人々は驚き、道行く車も慌ててブレーキを踏む。しかし、俺はそれを物ともせずにバンを追跡する。


 しかし、人の脚力には限界がある。とても車に追いつけはしない。まずい。このままでは見失う。サユリの誘拐を許してしまう……と思ったその時。


 俺の真正面にバイクが停まった。


「麻木さん! 乗って!」


 ヘルメットのバイザーを下ろしているために顔は分からないが、女性の声と分かる。この声の持ち主は一人しかいない。


「華鈴!? どうして!?」


「良いから乗って!」


 言われるがまま、俺は華鈴の後ろに跨った。


「しっかり摑まっててね!」


 そう言うと彼女はグリップを全開にした。凄まじい加速に体が後ろに持っていかれそうになるも何とか堪える。


「おい、華鈴! 何でお前がここにいるんだ!?」


「話は後だよ麻木さん! すぐに追いつくから!」


 そう叫ぶと華鈴は更にスピードを上げた。バイクの良さは小回りが利くところだ。信号を無視して車と車を通りぬけて行く。


 華鈴のドライブテクニックは半端ではなく、すぐに前方を走るバンに追い付いたのである。しかし、それでもなお引き離されるばかり。


「あの車、絶対に改造してるでしょ……!」


 悔しそうに呟く華鈴の体にしがみつきながら、なおもスピードを上げるバイクで風を切ること数十分。バンは国道6号線から東京都外へ出た。


「ったく、何処まで行くんだよ!」


 標識には『千葉県』の文字。やがて車は人里離れた山の中へと入っていった。


「……はあ。やっぱりここか」


 華鈴はそう呟いた。その口調には何か確信めいたものを感じる。一体、この先に何があるというのだろう。


 やがてバンが停まったのは小さな町工場だった。周囲には民家もまばらであり、人通りも少ない。そんな場所に不似合いな大きな建物だ。


「ここは?」


「あたしが調べたところによるとエースタウンの“休暇所”らしいの。取締役級以上の幹部限定のね」


 華鈴の口から出た“休暇所”なる聞き慣れない響きに困惑していると、彼女はかいつまんで説明を始めた。


「エースタウンの風越社長をはじめとする経営陣のお偉方が色んな所で攫った若い女を食い物にしてるって噂があるの。その現場がおそらくあの建物ってわけ」


「何だって?」


 俺は耳を疑った。エースタウンの社長が一般人の女を拉致している? そんな馬鹿なことがあるか。エースタウンといえば日本最大の芸能事務所だぞ。しかし、華鈴は断言するかのような声色で続けるのだった。


「風越社長の女癖は有名なんだよ。自分の会社に所属するタレントやアーティストに便宜と引き換えに肉体関係を要求してるって話は聞いたこと無い?」


「ああ……それは俺も聞いたことがある……いわゆる枕営業ってやつだろ」


「枕営業ならまだしも、あの社長は一般人にも手を出してるってさ。首都圏各地の繁華街から無作為に選んだ女を拉致して、あの建物で一晩中ヤりまくってるらしいの」


「そんな馬鹿な。極道ならともかく上場企業のトップだぜ。そんなことをしたら忽ち大騒ぎになっちまうだろ」


「その辺はケツモチの中川会も使って上手くやってるんじゃないかな。業界最大手の芸能プロとなればメディアも統制下に置いてるでしょうし」


「ほう……!」


「麻木さんは知らないの? 風越は中川会の会長と昵懇の仲だから何でも揉み消せてるって聞いたけど?」


「いや、知らない」


 俺は思わず耳を疑った。しかし、華鈴の表情や口調から察するに冗談を言っているわけではなさそうだ。マスコミが扱わないというだけで実際には鬼畜の所業が行われていると華鈴は語る。


「で、どうしてあたしがこんな所に来たかっていうとね。あたしの可愛い後輩がその件の被害者になってしまったから」


「何!?」


「彼女はうちの大学の後輩でね。昼は学校に通いながら夜は道玄坂の風俗で働いてるの。あたしはその子から『ここ最近、誰かにつけ狙われてる』って相談を今月の初旬に受けてた」


 そんな後輩の相談を受けた華鈴は独自に調べ始める。店のツテを使って興信所さながらの探索をかけ、彼女にストーキング行為を繰り返していたのがエースタウン社に雇われた者である旨を突き止めた。同時に、その後輩の女子大生に同社からモデルとしてのスカウトがあったことを踏まえ、一般人の拉致を繰り返すエースタウンの仕業と断定したそうな。


「じゃあ、誘拐の実働部隊が使ってるのがあのバンだったってわけか」


「そういうこと」


 よもや俺が横浜へ赴いている内に華鈴がそのような厄介事に足を踏み入れていたとは。この日、華鈴は後輩が路上で拉致される現場に遭遇。慌てて家にあったバイクに乗って追尾を始めたところ俺に出くわしたというのだ。


「麻木さんはどうしてあの車を?」


「俺も似たような感じだな。会長から『鶯谷で女が消えてるから真相を探れ』って命令を受けていた」


「中川会の会長が!?」


 俺の依頼主が中川恒元であることに華鈴は大変驚いていた。彼女としては一連の誘拐事件は恒元の協力があってこそ繰り返されていると思っている模様。聞けば彼らのやり口はあまりにも卑劣で狡猾という。


「あの事務所は大学のミスコンでグランプリを取った子やビジネス街で美人と評判のOLさんなんかに当たりを付けては、モデルのスカウトって体裁で接触してる。そうして写真を撮って、後で社長が気に入った人を攫うってわけ」


「でもよ、極道がケツを持ってるからって、そうやって一般人ばっかり攫ってたら家族とかが騒いで事件になっちまうんじゃねぇのか!?」


「そこがエースタウンの巧妙な所。風越が狙うのは完全な一般人じゃなくて水商売をしている女の子たち。夜職で働いてる女なら失踪しても騒がれづらいだろうという思惑みたいでね」


 華鈴によれば、標的となっているのはいずれも家族と疎遠になっている女ばかりという。無理やり拉致しても親族が騒がず、風俗嬢はトラブルがデフォルトの境遇だから「男を作って夜逃げした」くらいにしか思われない。まさに彼女らの弱みを突いた行為であった。


「攫われた子たちはあの建物で風越の好みに調教されるって噂。そして用が済んだら全裸のまま放り出されるとか」


「なっ……」


 俺は思わず声を上げた。自分の知らないところでそんな非道が行われていたなど、想像すらしていなかったからだ。


「いや、でも、中川会が揉み消してるなら、どうして会長は俺に調べてくるよう命じたんだろう?」


「さあね。鶯谷でも拉致が行われてるってことを知らなかったんじゃないかな。あなたの所の会長がどこまで下のチンピラから事を聞いてるかは知らないけど」


「それは無いぜ。俺は会長の側近だけど、そんなことに加担してるって話は寝耳に水だ」


 どうにも腑に落ちない点にきょとんとする俺。華鈴によるとエースタウン社による誘拐は赤坂、歌舞伎町、鶯谷といずれも中川会の会長直轄領で行われているという。恒元のことだから俺の知らないところで何をしていてもおかしくないのだが、あの男がわざわざ自らのシマを自ら荒らすような真似をするとは思えないのだ。


 よもや風越は恒元に隠れて彼のシマで女漁りをしているのか?


 訝しがる俺をよそに、華鈴は怒りに燃えていた。


「まあ、何であれ絶対に許せないよね。女を食い物にするゴミ野郎。ぶっ潰してやる」


 そう吐き捨てると、華鈴は何処から取り出したのか金属バットを担いで敷地内へと歩いて行った。


「ちょっ、ちょっと待て!」


 俺は慌てて彼女に追いつくと懐から取り出した拳銃を差し出す。


「何?」


「一応、持っておけ。これだけのことをしでかすくらいだから相手はおそらく一般人じゃない。拳銃くらいは持ってるはずだ」


「あ、ありがとう」


「こいつはグロックだ。特に難しい安全装置セーフティーは無いからトリガーを引けば撃てるぜ」


 華鈴は戸惑いながら俺の差し出した銃を受け取るも、すぐに返してきた。


「せっかくだけど私はこういうのは使わないんだ。大体、銃なんか撃ったことも無いし。あたしが切り込むから麻木さんが援護してよ」


 まあ、当然といえば当然か。


 ついつい柄にも無いことをやってしまったと自分を恥じる。素人に気安く銃を握らせてはいけないと傭兵時代に叩き込まれたというのに。殴り込みをかけようとする華鈴を案じるあまり己の鉄則が揺らいだ。


 華鈴のこととなるとどうも調子が狂う。いつもの自分を保てなくなるというか。最近、彼女を意識する機会がやたらと増えた気がする。


 何故だろう。


「分かったよ、華鈴。でも、危ねぇから先陣は譲ってくれ。銃を持ってるかもしれねぇ相手に、バット一本は差がありすぎる」


 俺は渋々と拳銃を懐に仕舞うと、華鈴と横並びで建物の中に入った。その途中でこんな話題を振られた。


「あなたが来てくれて良かったよ」


「良かったも何も、お前が連れて来てくれたんだろう? あの場でお前と出くわしてなかったら見失ってた」


「そうじゃない。殴り込みについて来てくれてありがとうって意味。エースタウンには中川会が絡んでるかもしれないのに」


 言われてみればそうだ。この“休暇所”の運営には中川恒元が携わっているかもしれないのだ。もしもその線が当たっていたら、俺は会長に弓を引いたことになる。


 ふと自分を省みて胸が竦む。その瞬間、俺の足は止まった。


「……」


 そんな俺を華鈴は振り返り、ただ無言で眺めていた。数秒くらい静寂の時が続いた後で彼女は苦い笑みを浮かべたのだった。


「……そうだよね。会長にとって不利益になることはしないよね。ごめんね」


 そう言うと華鈴は踵を返して一人で歩いて行ってしまう。


「お、おい、華鈴」


「来なくて良いよ。麻木さんはそこで待ってて」


「いや、そうじゃねぇんだ。ただ俺は……」


「麻木さんは中川会の人だもん。その立場は分かってるつもり。それにあたしは麻木さんに守られなきゃいけないほど弱くないから」


 華鈴はそう言うと俺を置いてすたすたと建物の中に入っていった。


 その後ろ姿があまりに凛々しくて思わず見惚れてしまった。同時に彼女が無言で表した失望の意に、胸が締め付けられるような思いに駆られたのだった。


 情けない。この期に及んでも俺は中川恒元の操り人形なのか。すぐそこに苦しむ人たちが居るというのに、主君の都合でしかモノを考えられないのか。


 自分を縛る鎖の苛烈さに歯噛みする。そして自由意志を貫けない己の弱さに反吐が出そうになる。


 ただ、そんな時。


「っ!?」


 突如として車の音が聞こえた。1台、2台と、次々とエンジンの駆動の気配が近づいてくる。


「何? 車?」


 俺は咄嗟に華鈴と共に近くの森の茂みへと身を隠して様子を窺う。すると建物に群がるように黒塗りのセダンが次々と停車する。そしてそこから続々と降りてきたのはいかにもその筋といった風貌の連中ばかりであった。


「ヤクザ……? どこの組だ?」


 息を殺して眺めていると、降りてきた男の中に覚えのある顔があった。


「よし。皆、良いかい。これからカチコミをかけるわけだけど。知っての通りこの辺りは中川会阿熊一家のシマだからね。事が済んだらさっさと帰るよ。あんまり長居して外交問題になるのは好ましくないから」


 菊川だ。村雨組若頭、兼『菊川組』組長の菊川塔一郎である。指示を飛ばした彼に集まっていた男らが「分かりました! 組長!」と返事をしたのでおそらく連れて来ているのは村雨組本隊ではなく手勢の菊川組だと思われる。


 一体、何をしに来たか。俺と華鈴は呆気に取られた。


「ねぇ、あの人。確か前にお店に来た……?」


「ああ」


 気になったので俺が尋ねてみることにした。木の影から出てゆっくりと近づいて行くと、その場の若衆たちに一斉に銃を向けられる。


「何だテメェ!?」


「エースタウンの手の者か!?」


「いや、待て! こいつ、麻木だ! 中川会の麻木涼平だ!」


 皆が俺に向かって凄んでくる。まあ、そうなるのも仕方のない話。何せ俺の所属する中川会はつい昨日に村雨組のハシゴを外したのだから。


「はいはい。静かに」


 騒ぎ出す部下たちを宥め、菊川が俺に笑いかけた。


「何だよ。誰かと思えば麻木クンじゃないか」


 これは大いに意外な反応だった。てっきり激怒されると思っていた。そもそも俺は彼の敬愛する村雨耀介に累を及ぼしたのだ。


 しかし、そんなことにはまったく触れずに菊川は飄々と俺に言葉をかけてくる。


「どうしてここに……と言いたいところだけど、何となく予想は付くよ。恒元公の命令で風越をぶっ潰しに来たんだろう? あの男も怖いもの知らずだよねぇ、恩のある中川恒元公にまで唾を吹っかけるなんてさぁ」


 ちょっと待ってくれ。話の意味が分からない。


「えっ?」


 俺がそう応じると、彼は吹き出した。


「そうとぼけなくても大丈夫だよ。別に僕はキミを憎んでるわけじゃないんだから」


「あ、いや……」


「今この場においては利害が一致していることだし、中川会として僕らの行動を黙認してくれると助かる」


「利害の一致?」


「だからとぼけなくて良いって」


 こちらが話を受け流そうとを決め込んでいると思ったのか。菊川は不敵な笑みで語りを紡いだ。


「キミも風越をぶちのめしに来たんだよね。あの男のことだ。僕らのシマを荒らしたばかりか、恒元公のシマでも女漁りをしてたんだろう。仮にも日頃から世話になっている恒元公のシマで。まったくとんだ変態だよ。国内最大手の芸能プロの創業者ともあろう人がさぁ」


 例によって初耳だったので戸惑ったが、話の大筋は掴めてきた。要するにエースタウンの風越社長は本当に中川恒元の領地で勝手に女漁りをしていたというのだ。ゆえに恒元は俺に風俗嬢失踪の件を探るよう命令したのである。そういうことだったか。一連の誘拐に恒元が絡んでいるわけではなさそうなので少しばかり安堵をおぼえた俺である。


「……風越は横浜でもそんなクソみてぇな行為を?」


「ああ。伊勢佐木長者町を中心にけっこうな数の女の子が行方不明になってる。下手人を締め上げて吐かせたら『エースタウンの社員だった』と」


 聞けば風越は会社の社員を使って各地で女を誘拐させていたというのだ。大企業の経営者がヤクザまがいのことを平然とやっているとは。聞いて呆れる話だ。


「そうか。うちのシマを荒らしただけでなく、あんたらのシマまで。つくづくヤクザを舐めてやがるぜ」


 眉間に皺を寄せると、華鈴が近寄ってくる。


「麻木クン。この娘、もしかして喫茶店に居た娘じゃない?」


「どうも。与田華鈴と言います。先日はご来店ありがとうございました」


「な、何でまたキミは……」


 驚愕のあまり呆然となったのは菊川だけでない。彼の連れている若衆たちも啞然としている。ここに女が居るのがよっぽど不可思議であったか。


「舐めないでくださいね。あたし、けっこう喧嘩自慢なんですから」


 華鈴はきっぱりとそう言い切った。そんな彼女の啖呵を受けた菊川は俺に小声で詰め寄った。


「何でキミは女なんか連れてるんだよ」


「いや、話せば長くなるんだが……」


「どういう関わり合いかは知らないが、鉄火場に女を連れてくるのは感心しないね。これは女子供の喧嘩とは違うんだ。正真正銘の殺し合いなんだから」


 その件については心配無用だ。何故なら彼女は……と言いかけたが、俺は止めておいた。別に話さなくたって良いだろうから。


「組長。こんな奴らに構ってねぇで、さっさと突入しちゃいましょうぜ。奴らに勘付かれます」


 側近らしき部下の具申を受け、菊川は向き直る。


「ああ。そうだった」


 そして彼は俺と華鈴に視線を向けた。


「そこの彼女はともかく、麻木クンさぁ。キミは中川会の代表ってことだからさぁ。一応は顔を立ててやる必要があるわけだよ」


 俺は頷く。


「ああ」


「こっちは横浜から攫われてる女の子たちを助け出したら、風越を軽く痛めつけるだけに留めて立ち去るから。後の始末は中川会そちらに任せるよ。良いね?」


「構わねぇぜ」


「僕としては風越の身柄を押さえたかったんだけど。ここ、中川会の領地だからさ。中川会のキミが居る以上はあんまり出しゃばれないっていうか」


「分かってるよ」


 互いにカチコミにおける役回りを決めることで後々の面倒を避けたいのだろう。微妙な関係の村雨組との仲が拗れるのは俺個人としても会長側近としても芳しくなかった。俺は菊川の心配りに感謝を示し、その提案を呑むことにした。


「よし。それじゃあ、行こうか」


 菊川は部下たちに指示を飛ばした。俺は華鈴が「麻木さん、こっち!」と手招きしたのでついて行く。彼女はすたすたと先へ先へと歩いた。


「おい、華鈴。俺が先に道を開くから……」


「だったらさっさと行こうよ。あの人なんかに負けていられない」


 ついさっき菊川に軽んじられたことで華鈴は若干ムキになっているらしい。


「おい、落ち着けって」


 俺は彼女を宥めたが彼女は聞く耳を持たない。どんどん先に行ってしまうので仕方なく俺も後に続いたのだった。


 俺と華鈴は建物の裏側に回り込むと、そのまま裏口から侵入した。彼女の話によればここは“休暇所”の厨房にあたるスペースとのことだ。


「誰もいないね」


 華鈴の言う通りだった。誰の姿も無く、人の気配さえないのである。


「ああ。だが、油断するな」


 俺は拳銃を構えたまま慎重に歩を進める。すると華鈴が不意に立ち止まったので俺は振り返った。


「どうした?」


「あれ」


 彼女が指差したのは厨房の奥にある扉であった。その扉は半開きになっており、中から光が漏れているのが分かるのだ。


「……行ってみるか」


 俺たちは警戒しつつ中へと入ると、そこは宴会場だった。そこには想像を超えた光景が広がっていた。


「な……!」


 思わず絶句する俺。無数の全裸の女たちが一心不乱にセックスをしている。その数、ざっと30人くらいだろうか。皆、一様に虚ろな表情をしてただ快楽を貪っているように見える。


 ある女は男の一物をしゃぶり、ある女は四つん這いになって尻を突き出し、またある女は仰向けになった男に跨って腰を振りたくっていた。


「何なの? これ……!?」


 華鈴も絶句していた。


 そんな中、俺は一人の女が視界に入った。それは鶯谷で出会った女子大生、サユリ。彼女は肥満体の男の上に跨り、腰を振っていた。


 彼女はもうすっかり快楽に溺れていた。そんな時である、彼女の尻を叩いていた男が俺たちの存在に気付いたのだ。彼は顔を恐怖に歪ませて叫んだ。


「だ、誰だっ! お前たちは!?」


 その時、俺の情緒を数秒遅れで激情が支配した。


 一体、どんな調教を施したのか。すっかり快楽の虜になっておかしくなった女たち。彼女らは何処からか拉致されてきたのだ。


 許せない。俺の心の中の炎が瞬時に燃え上がる。


 ――ズガァァァン!


 俺は拳銃を男に向けて発砲していた。


「ぐあっ!?」


 男の頭を銃弾が撃ち抜く。その轟音は室内に響き渡り、一瞬の静寂が訪れる。


「……」


 静かになった宴会場で俺は叫ぶ。心からの大音声を激情に任せて。脳内には半年前にエウロツィアで観た凄惨な光景がよぎっていた。


「この野郎ーッ!!」


 大義名分などどうでも良いし興味も無い。ただ、こいつらが気に食わないから殺す。それだけだ。俺は拳銃を連射した。弾丸は全て、女たちを犯していた男たちの脳天を撃ち抜いていく。


「な、何なんだ!?」


「うおおおっ!」


「あああっ!」


 たちまち阿鼻叫喚の修羅場に変わった宴会場。その混乱に乗じて華鈴が女たちを避難させる。彼女に支えられてよろよろと立ち上がるサユリ。


「さあ、ここを出るよ!」


「せっくすぅ。せっくすぅ。おっぱいせっくすぅ」


「ああ、もう! しっかりして!」


 華鈴はサユリの頬を軽く叩きながら叱咤した。一方、グロックの弾が尽きた俺は、拳銃を懐に戻して連中を殴り倒し、蹴り飛ばしていく。


「この野郎! どこのどいつだ!」


「ぶっ殺してやる!!」


 怒り心頭の男たちが襲いかかってくるが俺はそれを次々とねじ伏せていった。


「麻木さん!」


 激情に呑まれて暴れ続ける中、華鈴の声でふと我に返る。


「っ!?」


 華鈴はサユリを連れて裏口から脱出したようだ。俺は彼女を追うように部屋を飛び出した。そしてそのまま宴会場の外へと出る。


 するとそこには菊川組の面々が待ち構えていた。


「驚いたな。まさかキミひとりで片付けてしまうとはね」


「……ああ」


 菊川は俺の肩をポンと叩いて笑った。


「おかげで面倒事は避けられそうだよ」


 そんな彼の側にいた側近らしき男が俺に詰め寄った。冷静さを崩さない菊川組長とは対照的に、その男の顔は怒りに満ちている。


「おい、風越はどうした! まさか殺してしまったんじゃあるまいな!?」


「さあな」


「この野郎っ!」


 胸ぐらを掴んできた組員であるが、俺が返り血を浴びた顔で睨みつけると一瞬にして臆してしまう。緒戦はチンピラだ。


「ああ? 何か文句あるか?」


「な、舐めんじゃねぇっ……!」


そんなやり取りに菊川が割って入る。


「まあまあ。彼は中川会の会長側近だよ。手を出したらマズい」


 菊川はそう言って側近に微笑みかけた。すると彼はすごすごと引き下がったのである。


「……分かりました」


 直後、組員は俺に対してこう吐き捨てた。


「覚えてろよ!」


 そんな捨て台詞を残して彼は立ち去っていった。気を取り直し、菊川が俺に問うてくる。


「殴った奴らの中に風越社長は居なかった?」


「分からねぇ。そもそも俺はその風越って野郎の顔を知らん。1階に居た奴らは奴は全員殴り殺しちまったからな……その中に入ってたら申し訳ねぇ」


「そんな他人事みたいな。仮にも風越はキミん所のボスのビジネスパートナーなんだよ。まったくもう」


 そう呟くと、菊川は部下と施設内の探索に入った。彼としては風越をボコボコにせねば帰れないのだろう。そうでなくば組としてのメンツが立たないのだから。


 一人残される形となった俺は暫くその場に佇んだ。


「麻木さん」


 背後から呼びかけられたので振り返る。そこには華鈴が居た。彼女は俺の側に歩み寄ると、労うように肩を叩いた。


「お疲れさま」


 俺は静かに頷くに留めた。すると彼女が不思議そうに問うてきた。


「……どうしたの?」


「いや、何でもない」


 俺はかぶりを振ってから彼女に尋ねた。


「女の子たちはどうなった?」


 菊川たちが突入してすぐに華鈴は彼女を連れて外へ出たはずだ。その彼女がここにいるということは無事に連れ出せたのだろう。


「安全な所まで逃がした。皆、ちょっとおかしくなってたから。あのままだったら危なかったかも」


「そうか……」


 俺は華鈴に向き直ると、改めて礼を述べた。


「……ありがとうな」


「ううん。お互い様だから」


 彼女はそう言って微笑んだのだった。そして俺に問うてきたのである。


「あの子たち……一体、どうしちゃったのかな?」


 俺は肩を竦めて見せた。そんな俺の反応を見て彼女も勘付いたらしい。それ以上は何も言わなかったので俺も何も語らなかった。


 ただ、これだけは話しておかねばならない。


麻薬ヤクってのは人を簡単に壊しちまうんだよな」


「うん……」


 サユリたちは明らかに薬物中毒の症状を呈していた。攫われてから数時間も経っていないのに、ああまでおかしくなってしまうとは。どれほど強烈な麻薬を打たれたというのか。


「あの子たちは麻薬をキメてセックスしてた。攫われてから日が経ってない子もいたろうに。すぐにああなっちゃうなんて……」


「よっぽどえげつないドラッグを使ったんだろうぜ。エウロツィアにあったコカイン・カフェにそっくりだな。あの国は麻薬が蔓延してたから」


 サユリをはじめとする女たちは麻薬を吸わされ、一瞬で脳が快楽に嵌り込んだことで精神が崩壊してしまったらしい。そうでなければあんな様子にはならない。


「あんなのおかしいよ……」


 華鈴は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。それはそうだろうなと俺は思った。彼女の価値観では到底受け入れられない光景だったはずだから。


 されど俺としては何とも複雑な心境だった。中川会は麻薬を扱っている。風越社長が女たちにドラッグを使っていたとすれば、その入手先は確実に中川会だ。麻薬を扱う集団の中に居る男が先ほどの凄惨な現場に怒りを表明して良いものか。俺は己の感情のやり場に困った。


 そんな俺を掬い上げたのは華鈴の言葉である。


「でも、さっきは嬉しかったよ」


「何が?」


「麻木さん。今までにないくらいにブチギレてたじゃん。あたしが思ってたことを代弁してくれてるみたいで嬉しかった」


「ああ、そういやあそうだな」


「やっぱり中川会の利益を優先しちゃうんだって最初は思ったけど。麻木さんはそういうのにとらわれず自分の心で考える人なんだね」


 華鈴はそう言って笑った。確かにあの怒りは尋常ではなかったと自分でも思う。本能的に激情が自分を支配しただけで特に意義は無いのだけれど。


「それは多分……」


 俺は自分なりに理由を探ろうとしたが上手く言葉にできなかった。すると彼女はこんなことを言い出したのである。


「麻木さんは極道だけど良い人だよ。きっと心の中には正義感があるんだと思う」


「……そうなのか?」


「うん! そうだよ!」


 華鈴は自信たっぷりに断言したのだった。そしてこうも続けた。


「正義の心が残ってるから、弱い人が虐げられる光景を前に怒りが湧いてくるんだよ。昨日は『自分は人じゃないかもしれない』とか何とか言ってたけど、ぜんぜんそんなことは無いって。麻木さんは良い人だよ」


 俺は何も言えなかった。ただ、華鈴の言葉によって何かが軽くなってゆく。俺の心の中を包んでいた憂さの雲が、一気に取り払われるような感覚であった。


「ありがとうな」


 俺は素直に礼を言った。するとその時。


「華鈴しゃあああん!」


 誰のものとも分からない甲高い奇声が響いた。慌てて音の聞こえてきた方に視線を送ると、素っ裸の女が走ってきた。


「っ!?」


 その女は華鈴に抱きついた。そして恍惚の面持ちで意味不明なことをまくし立てる。


「こんにゃくこんにゃくこんにゃくぅ~!」


 華鈴は慌てて女を引き離そうとする。


「ちょ、ちょっと真由ちゃん!?」


「うひひひっ! せっくすぅ!」


「やめなさいってば!」


 華鈴は女を必死に引き剥がそうとするのだが、その女は一向に離れようとしない。それどころか、彼女は華鈴の穿いていたレザーパンツを脱がそうとするのである。


「うひひっ! あへあへぇっ! せっくすします!」


「やめて! やめてっ! やめなさいよぉ!」


 そんな二人のやり取りを見ていた俺は思わず呟いた。


「な、何だこれ」


 全裸という状態からして“休暇所”に囚われていた女であることは分かる。名前を知っているということは……もしや華鈴の後輩か!?


 すると女はおどろおどろしい笑顔でその場に座り込むと、股を広げて自分の秘部に指を挿入した。


「ひひっ! せっくすっ! せっくすぅ!」


 そして彼女は自慰を始めたのである。そのあまりにも惨たらしい光景に俺は言葉を失ったが、華鈴はすぐさま女の背後に回り込むと彼女を羽交い締めにしたのだった。


「もうやめなさい真由ちゃん!」


「うひひっ! あへあへぇっ! せっくすぅ!」


 真由と呼ばれた女はなおも自慰を止めようとしない。長い右腕を股間に伸ばして中指で陰核を刺激し、もう片方の手で自らの乳房を揉む。


「うひひっ! おっぱい! おっぱい!」


「いい加減にしなさい!!」


 華鈴は真由の正面に回り込むと頭突きを見舞った。するとその衝撃によりようやく止まったのである。


「……ああっ」


 気絶した真由の体を抱きかかえ、華鈴はへなへなと膝を付く。


「真由ちゃん……こんなになっちゃって……」


 華鈴は暫く無言で後輩を抱きしめたのだった。俺はそんな彼女を呆然と眺めることしかできないでいた。それから駆け付けてきた救急隊員に女たちの介抱を任せた後、華鈴が呟くように話し出した。


「真由ちゃんの家はお父さんが居ないから、あまり裕福ではなくて……奨学金を貰いながら大学に通ってるの。生活費はキャバクラでバイトして稼ぐんだけど、どうしてもお金が足りない時はあたしが貸したりしてた」


「そうだったのか。努力の人だってのが伝わってくるぜ。この不景気じゃあそういう事情を抱えた学生も多いだろうなあ」


 華鈴が後輩を可愛がっている理由が何となく分かった気がする。片親の家庭ながらに真摯に学業に励んでいる後輩の姿が自分と重なるのだろう。片や真由は華鈴のことを“先輩”と呼び慕っているらしい。


「真由ちゃんの将来の夢は財務官僚だって。国全体にお金が回る仕組みを作って、皆を幸せにしたいんだって。それなのに……」


 華鈴は泣き崩れた。あの様子では真由は麻薬中毒から脱却できないかもかもしれないのだ。


「……彼女なりに一生懸命だったのに、ひた向きに努力してたのに、どうして夢を奪われなきゃいけないわけ!? おかしいよ、絶対に! おかしいよ!」


 俺は彼女を慰めようとしたが、それは叶わなかった。突然、背後から声をかけられたのである。


「麻木クン」


 振り返るとそこには菊川の姿があった。彼は俺と華鈴を一瞥するとこう言ったのだ。


「風越の姿が無い」


 その話に俺は驚く。


「何だって!?」


 部下に“休暇所”の中をあらかた探し回らせたものの何処にも居なかったという。彼の予測では「今日はたまたま不在だったのだろう」とのことだった。取り逃がしたか。


 ただ、菊川は興味深いことを話した。


「風越は捕らえられなかったけどね。その代わりと言ってはアレだけど面白い連中が居たよ」


「面白い連中?」


「ああ。ついてきな」


 俺は菊川に言われるがまま彼について“休暇所”の建物内へと戻った。先ほど大暴れした宴会場を通って2階へ上がると、そこには縄で縛られた男たちの姿があった。


「……おいおい。驚いたな」


 全員、テレビで観たことのある顔ぶれ。菊川が左から順番に冷徹な声で名前を呼ぶ。


「こいつはのロックバンドのボーカル、隣のこいつは俳優。皆、エースタウンの所属さ」


 いずれも俺にとってはお馴染みの顔と名前である。テレビや雑誌に何度も出ているが、こうして実際に対面するとやはり迫力が違う。俺は思わず後ずさりしたのだった。


「こいつら……まさか!」


 菊川は俺を振り返って言ったのである。


「そうさ。この“休暇所”は社長のみならず、会社に所属するアーティストやタレントの男どもが女を食い物にする場所でもあるんだ」


「ほう!?」


 俺は菊川に詰め寄った。彼は平然とした顔で続ける。


「社長が若い女を“休暇所”に連れ込むのは、そういう意図もあったってわけさ」


 つまり風越社長は会社全体でこの施設を利用していたということか。そして女たちを凌辱していた……いや、そればかりか麻薬まで使用していたというのだから何て惨たらしい話なのだろう。


「どうやら僕が思った以上に腐った会社のようだね。エースタウンは。僕が思うに関わってる奴はまだまだ居るよ」


 国内最大手の芸能事務所が千葉の人里離れた場所に娼館を建て、各地から攫った女たちを囲い込んでいたという話。鶯谷の失踪騒動がここまでの事件に繋がっているとは。これは言うまでも無く大スキャンダルになる。


 ただ、それからの流れは俺の予想とは違った。


 電話で俺の連絡を受けた恒元は一連の件について驚愕の声を上げるも、特にエースタウン側にペナルティは与えないと言ってのけたのだ。


『確かに我輩の存ぜぬところで勝手にやっていたのは不愉快だけどね。これといって問題ではないよ。守り代も貰ってるわけだからね』


 エースタウン側からは毎月10億の金を上納金として貰っているため、中川会の領内でこのような行為をはたらいても許されるだろうと恒元は語ったのだ。


「連中がやったことはシマ荒らしですよ!? 俺たちがケツを持ってる店の女を攫って……」


『それについては後で風越から追加料金を貰うとしよう。そうすれば普通に『街で女を買った』ということになる。特に不都合は無いよ」


「しかし! それでは!」


『涼平。エースタウンは日本で最も盛んな芸能プロダクションだよ。ここはより実入りの美味しい選択をしようじゃないか』


 俺は言葉を失った。確かに恒元の言うことは正論である。たかが会社ごとき潰そうと思えばいつでも潰せるが、中川会としての利益を重んじるならば関係を続けて今後もカネを吸い取るべき。面子云々などは些末事なのだ。ただ、俺の中の正義がそれを許さないだけった。


「……分かりました」


 俺は電話を切った後、華鈴や菊川たちと共に“休暇所”を後にしたのである。菊川組による襲撃は不問とされた。恒元としても村雨および菊川には恩を売っておきたいらしい。


 施設の2階に居た男たちを華鈴に引き合わせなくて良かったと思う。もしも奴らの存在を知れば、彼女は連中を殺していたであろうから。


「なあ、華鈴」


「ごめん。ちょっと今日は一人で帰りたい気分」


 そう言うと華鈴は俺を置いてバイクで帰って行ってしまった。気が狂ってしまった後輩の姿に深いショックを受けたのだろう。


「まあ、女の子には無理もないよね。今日のところは一人にしてあげることだね。麻木クン」


 頼んでもいない助言を気取った口調で菊川が寄越してきたものだから、少し腹が立った。


「……ああ」


 けれども怒りを表明することはしない。そんなことで徒労感を味わっても虚しいだけだからだ。


「分かってはいると思うけど、風越のやったことは何らおかしくはないからね。問題があるとすれば極道である僕らに断りなくやっていた件のみだ」


「……言われなくたって分かってるさ」


「だったら良いんだけど。麻木クン、さっき『許せない!』って顔してたからさあ。念のため忠告させてもらったってわけ」


 菊川組の若衆が運転する車の後部座席で、俺は菊川と二人きりになっていた。彼からかけられるのはまたしても頼んでもいないアドバイス。真摯に耳を傾ける義務は無いので軽くあしらうだけだ。


「ああいうことをするのが極道だからね。無駄な正義感なんか捨てるに限るよ。今どき任侠に重きを置いたところで1円にもなりゃしない」


 そう吐き捨てた後、菊川は俺に煙草の箱を差し出す。


「吸うかい?」


 俺は黙ってそれを受け取ると、一本取り出して口に咥えた。すると菊川も煙草を取り出し、ライターで火をつけてくれる。その所作は意外にも紳士的であった。


 菊川が煙を吐き出すのと同時に俺も息を吐いた。焦げた煙が車内に充満する中、彼は俺を諭すように語り出す。


「極道ってのは所詮、金儲けのための手段に過ぎないんだよ。利益を獲得するために暴力を行使するってだけさ」


「……なるほどな」


「で、麻木クンはどう思う?」


「何がだよ」


 菊川は大袈裟に肩をすくめた。それがこの男の癖らしい。


「極道の在り方について。キミの考えを聞かせてくれないか」


 俺は舌打ちを鳴らす。そんなものを論じたところで無駄でしかないのに。無視を決め込もうと思ったが、気付けば口が開いていた。


「別に深くは考えちゃいない。ただ、仕事をこなすだけだ。その中で少しでも自分なりの美学みてぇなのを貫きたいとは思うぜ」


 止せば良かったと己の選択を悔やんだ。無理もない。直後、話を聞いていた菊川が露骨なまでの高笑いで応じたのだから。


「あはははははっ! 美学だって!? 流石は麻木クンだ!」


 菊川の笑い声が車内にこだまする。俺は苛立ちを隠そうともせず彼を睨み付けた。


「ああ?」


 しかし、彼は怯むことなく笑い続けたのである。


「いやいや、失礼。別に馬鹿にしているわけじゃないんだ」


「だったら何なんだよ」


 ひとしきり笑った後で菊川は答えた。


「実にキミらしい考えだと思ってね。口ではリアリストのように振る舞うけど、実のところは理想論を捨てきれていない」


「結局馬鹿にしてるじゃねぇかよ」


「いや。それがキミの良い所だ。世界の戦場を流浪して凄惨な光景をさんざん脳裏に焼き付けてきたはずの男が未だそんな考えを持っているのは実に興味深い」


「要は理想家肌の甘ちゃんだと見下してるってことか?」


「逆だ。むしろ僕はキミを羨ましいと思う。僕くらいのキャリアになると、どうしても考えがドライになってしまうものだからね」


 俺は何とも返答に困った。あれこれと麗句を並べつつも菊川は心の底では馬鹿にしていると思ったのだ。


「はあ。別に理想とかそういうのじゃねぇよ」


 ため息の後、俺は言葉を続けた。


「特に大それたことなんか考えちゃいない。ただ、弱い者にある程度は救いの手を差し伸べてやりてぇだけだ。持てる力はそのために活かしたい」


「へぇ、意外と古い発想なんだね。ちょっと違うかも分からないけど『弱きを助け強きに噛みつく』ってやつ? 元傭兵の割に人情家だこと」


「どうとでも言いやがれ。まあ、敢えて云うなら傭兵をやってた所為だな。外国でクソみてぇな現場に腐るほど立ち会ってきたから却って人の情を肯定したくなるのかもな」


 俺の返事を聞き終えるや否や、菊川は煙草を深く吸い込んで煙を吐き出した。


「常人なら、修羅場を経験すれば心が荒んで極端なまでにドライな考えに変わるものだけど。そうならず俄然生温かい夢を追い求めるとは。キミはある意味では才能を持っているのかもね」


 菊川は短くなった煙草を灰皿に押し付ける。そして俺の顔をじっと見据えた後、こう続けたのである。


「ただ、キミの云う“クソみたいな現場”とやらは人の世の本質なんだよ。奪い、奪われ、傷つけ、傷つけられる、この愚かな繰り返しこそが世界の真理ことわりなのさ。そんな醜い世界で夢を抱くなんて、僕に云わせれば実に馬鹿馬鹿しいことだよ」


 俺は何も言い返せなかった。菊川の言っていることは事実だったからだ。ただ、それを素直に認めて頷くのも癪である。


 ゆえに敢えて別の言葉を返したのだった。


「あんただって成し遂げたいことの一つや二つはあるだろうよ。『村雨耀介を日本一の男にする』ってあんたは前にほざいてたよな。それはあんたの否定する夢ってやつなんじゃねぇのかよ」


 すると饒舌な若頭は苦い笑いをしてみせたのだ。


「まあね……ただ、僕の場合は夢というよりは義務だね。僕には彼が天下を獲るのを傍で支える責任があるからさ」


「じゃあ、あんただって夢を抱いてるじゃねぇかよ」


 菊川は俺の言葉を受けてもなお笑うだけ。そしてこう返したのである。


「でも、人生の全てを村雨耀介に捧げている僕と違って、キミの夢は『このようにありたい』という志じゃないか。だから羨ましいんだよ。他者に運命を握られながら、それでも自分の歩む道を自分で決めようと足掻くキミがね」


 この若頭と俺とでは背負っているものがまったくの別である。自由意思に基づく決定ではあるものの村雨耀介に忠を尽くすことのみを至上命題と心得ている菊川に対し、俺は自分が如何に振る舞うかばかりを考えている。言うなれば、己自身に忠を尽くそうとしているのだ。


 俺は中川恒元の忠実な駒であるし、彼に歯向かう気は無い。されど彼の非道なやり方に対して、内心では異論を唱え続けている。


 親分の考えこそが自分の考えだと絶対的な忠誠心をもって仕える菊川と、親分の操り人形でありながら自らそれに成りきれない俺。どうしてだろう。俺の方があまりに稚拙で愚かしく思えてきた。


「……褒められてるのか、貶されてるのか分からねぇな」


 そう呟いた俺に対し、菊川は笑みを浮かべた。


「僕としては褒めてるつもりだよ。僕自身、たまに組長の考えについていけなくなる時もあるからさぁ、キミのその純粋さは貴重だと思うんだよ」


「はあ」


「ただ、妬みや嫉みで言うわけじゃないけど。極道をやっていくなら夢は持たないの一択だよ。自分らしく在ろうとすればするほどにこの世界は辛いからね」


 そう語る菊川の瞳は、どこか遠くを捉えているように思えた。車内の空気にふと重みが帯びる。煙草の煙も相まって若干の息苦しさをおぼえる。


 この若頭も己の道に迷うことがあるのか……?


 考えてみれば意外だ。村雨への忠誠云々を除くとすれば、彼は一体どんな道を歩みたいのか。ただ、この若頭がその話を語りたがっていないことだけは分かったので、敢えて深くは追及しないことにする。


「まあ……あれか。あんたも俺も極道として飯を食ってく以上、思い描くものと現実とのギャップを自分なりに割り切るしかねぇってことだな」


 俺がそう返すと菊川は笑った。


「それが分かっているなら僕から言うことは何も無いさ」


 6年前から変わらない、菊川の尊大な振る舞い。顔を合わせる度に先輩風を吹かして偉そうなのは最早この男の特徴といったところか。それでもこの時ばかりは不思議と嫌な気にはならず、むしろ何処か彼に対して親近感が湧いたような、何とも云えぬ心地の良さを味わった俺であった。


「麻木クン。ちょっと外国の思い出を聞かせてくれないか。傭兵なんて職に就いてたからには面白い話くらいはあるだろう?」


 車が都内に入ると、菊川がそんなことを尋ねてきた。突飛なリクエストに俺としては戸惑った。


「面白いかどうかは分からねぇが、クソみてぇな話だったら山ほどあるぜ」


「例えば?」


「俺は東欧のエウロツィアって国で傭兵をやってた。あの国は無政府状態でな。日本で云う戦国時代みてぇなもんだ」


「へぇ」


「政府軍と反政府軍ところか、エウロツィアは国の全土を仕切る政府が存在しない。各地が複数の軍閥によって実効支配されててな」


「まさに日本の戦国大名が室町幕府に代わって好き勝手に地方を統治してたみたいだね」


「ああ。毎日ドンパチやってて、村も街もそこら中が戦場だった。そんでもって俺たち傭兵部隊はある軍閥に雇われてた。腐った政府の駒になるのにはアフリカで嫌気が差してたからな。もう部隊全員の総意だったよ」


 すると菊川は車内で笑い声を上げたのである。


「あははっ!」


 何がそんなにおかしいのか。俺は訝しんだが、気にせず話を続けることにした。


「まあな。でもよ、その軍閥ってのがまた腐った奴らでな。旧王朝復興だの何だのを掲げて社会主義を敵視してるくせにロシア軍と癒着してやがったのさ」


「あれ? でも、エウロツィアって昔はソ連の一部じゃなかった? そんな国に旧王朝系の軍閥がいるの?」


「意外と多いぜ。その軍閥のトップはソビエトの衛星国になる以前の旧貴族の家系を名乗っていた。まあ、そんなもんは自称だろうよ」


 菊川は鼻で笑った。


「それで? その軍閥は何をやったんだい?」


 俺は当時のことを思い返しながら答えた。


「ああ。そいつは他の軍閥が押さえる街を襲って虐殺したんだ。しかも、その村はたまたまロシアとの最前線に位置してた」


「それはまた酷いね」


「それだけじゃねぇぜ。奴らはロシア政府に賄賂を送ってやがったからな。露軍のお墨付きで国境地帯で略奪し放題ってわけさ」


「あははっ! ただの畜生じゃないか!」


 菊川は腹を抱えて笑い続けている。何がそんなに可笑しいのか俺にはさっぱり分からない。構わず話を続けることにした。


「でな、俺たち傭兵部隊が任されたのはそいつらが自陣に引き揚げるまでの陽動だ。あの連中は作戦地域でやりたい放題に略奪してやがった」


「あははははっ!」


 菊川の笑いは止まらない。俺は構わず話を続けた。


「軍閥が引き揚げる時に俺たちが暴れるわけだから、エウロツィアの現地住民にしてみりゃ俺たち外国人傭兵の蛮行ってことになっちまうんだ」


「あはははっ! そりゃあそうだろうよ!」


 そんな菊川の反応を見て俺は思うのだ。この若頭、実は笑い上戸なのではないかと。


「で、だ。当然ながら現地住民は俺たちを敵と見なして襲いかかってくる」


「だろうね! あははっ!」


「ただなあ……俺たちはその村とは何ら関わりが無いのさ。俺たちが略奪したわけでもねぇのによ。向かってくる村人に銃を向けるのは心が痛かったぜ」


「あはははははっ!!」


 菊川の馬鹿笑いが車内に響き渡る。俺は思わず耳を塞ぎたくなったが、何とか堪えた。この若頭は何がそんなに可笑しいのか? いや、そもそもこの話を聞いて笑うこと自体がどうかしている。菊川は昔からこういうぶっ飛んだ男である。尤も、ぶっ飛んでいなければ村雨耀介の右腕など務まらないであろうけど。


「まあ、良いや。面白い話をありがとう」


 やがて車が赤坂に入ると、菊川は満足そうに礼を述べた。


「お楽しみいただき恐れ入るぜ」


「キミが人の情とやらに執着する理由が分かった気がするよ。『元傭兵だから』か。異国の戦地を駆けめぐっても人の心を失わなかったキミは凄い逸材なのかもしれないね」


 意外にも褒められた。真意のほどはさておき、真正面から受け取っておくとしよう。彼が俺に賛同してくれたとは思えずとも過去の話を聞いてくれる人などはそう居ないのだから。


「……別に俺はそんなに凄ぇ男じゃねぇよ」


「組長もキミを手放したのがますます惜しくなるだろうね」


 不意にそんなことを言うものだから俺の胸が竦んだ。昨日の今日で菊川とばったり出会った件も然り。心に渦巻く郷愁の色が一気に深みを増した。


「なあ、菊川さん。あの人は何て言ってた?」


 その問いに若頭は俺と視線を合わせずに答える。


「特に何も。敢えて伝言があるとすれば『もうお前は村雨組に非ず』かねぇ。昨日は怒り心頭だったからさあ」


 真偽は分からない。けれども、俺はその言葉を心に馴染ませるしかなかった。村雨耀介と二度と同じ道を歩めないことは既に何回も思い知らされている。


「ああ。分かったよ」


 ただ、そう考えると菊川の言動が不思議だ。村雨組長の忠臣のはずなのに、親分にとっては裏切り者の俺と何食わぬ顔で話した。俺の知っている彼ならば組を割った裏切り者に対しては容赦無用ではなかったか。


「あんたは良いのか?」


「何がだい」


「俺のことを許したってわけじゃないだろう?」


「ああ、昨日のことか。別に許すも許さないも無いよね。裏切ったのはキミではなく中川会なんだから」


「でも、俺は中川会の構成員で……」


「ヤクザが上の命令に逆らえないことくらい僕も組長も嫌ってほど分かってる。それが極道のあるべき姿だよ。気にすることじゃない」


 その言葉を受けても当惑を崩さない俺の肩を叩き、菊川は上機嫌に続けるのだった。


「キミはキミの道を歩くが良いさ」


 必ずしも思うままになることばかりでは無い。岐路ごとにおける選択に誇りを持てるとは限らない。それでも選んだ道を歩むだけだ。


 何だか叱咤激励を受けたかのようだ。俺は菊川に軽く礼を言うと、寒空の下の赤坂へ車を降りたのだった。


「……遅くなっちまったな」


 時計は既に21時を回っている。鶯谷へ出かけたつもりが思いもよらぬ事件に遭遇してしまった。そういえば酒井は何をしているかと思い、俺は彼に電話をかけた。


 すると酒井は総本部に戻っているという。


『次長、例の采配の件ですが……』


「ああ。奴を尾行してたんだったよな」


 詳しい話は戻ってから説明すると答え、俺はすぐさま総本部へ戻った。ひとまずは会長と話さなくては。


「麻木です。ただいま戻りました」


「入りたまえ」


 総本部の最上階、会長執務室。ノックをして入室すると、そこには驚くべき光景があった。いや、招かれざる客と表すべきか。


「えっ!?」


 思わず声を出してしまった俺の視線の先に居たのは、何と采配。ロープでグルグル巻きにされた彼は、会長の机の前で床に正座をさせられていた。


「やあ。遅かったね」


 会長は俺に軽く手を挙げて挨拶すると、采配を鋭く睨みつけた。


「さてと。お前はどうしてくれようかねぇ。この我輩に恥をかかせた落とし前はつけてもらわなくてはな」


「かっ、勘弁してください! 俺はただエースタウンの社長に言われてやっただけです! てっきり会長もご承知なさっているものと!」


 どうやら男は恒元の指示で捕縛されたのだと分かる。先ほど酒井が伝えようとしたのは、おそらくはその件であろう。


 されど一体、何のことだ。俺は慌てて恒元に尋ねる。


「会長! どうしてこいつを!?」


 すると彼は薄ら笑いで答えを投げてきた。


「知っての通りエースタウンの風越は我輩のシマで勝手に女漁りをしていた。この男はそれを我輩に伝えもせず、鶯谷での風越の振る舞いを黙認した。あろうことか自らも女の調達役となってな」


 ああ。そういえば。この男はエースタウン社の依頼を受けて鶯谷周辺で女にあたりをつけていたのだった。あれはすなわち誘拐の下準備だったというわけか。自分は会社の求めに応じただけだと言い張るが、彼も立派な共謀者の一人である。何せ一連の風俗嬢失踪の下手人は横須賀の政村興業だと俺に思い込ませようと謀ったのだから。


「お前、何であの時は政村が糸を引いてるって言ったんだ? わざわざ無関係のティッシュ配りの姉ちゃんまで巻き込んで?」


「あっ、あれは中川会のためです! 東京に入り込んできた他所の組のフロント企業はさっさと潰すべきだと思ったんですよ! 人攫いと関係が無かったことは認めますが、俺の具申はあなた方の利益を第一に考えたものです!」


 すると酒井が言った。


「何が利益だコラ。調べさせてもらったが、例のティッシュ配りの会社は政村と関係無かったじゃねぇか。横須賀に本社があるってだけでよぉ」


「だとしても横須賀から来てる時点でおかしいでしょう! 政村と繋がってる線を視野に入れて考えるのは当然だ!」


「うるせぇ! 関係のぇ一般人の会社を次長にカチコミかけさせて、恥をかかせる算段だったんだろ! 麻木涼平の名を貶めるために!」


 その追及に采配は真っ青になった。


「いや、違う! 決してそんなつもりは!」


 ああ。図星か。恒元は采配に冷たく言い放った。


「まあ、何にせよだ。風越の件を知りながら我輩に教えなかった罪は重い。涼平を嵌めようとした経緯も含めてじっくりと体で後悔させてやろうじゃないか」


「ひいっ! か、会長! どうか許してください! 俺にそんなつもりは微塵もありません! エースタウンの件は既に会長もご存じなのかと思ったんです! ティッシュ配りの会社の件はマジで政村が絡んでると思ってて……」


 采配の申し開きを遮り、恒元は助勤たちに指示を飛ばす。


「連れて行け!」


「はっ!」


 酒井と原田が采配を無理やり抱え上げ、執務室の外へと連れ出した。これから何をされるのか勘付いたのだろう。彼は悲鳴を上げた。


「助けてぇぇぇぇぇーっ!」


 そしてそのまま連行されてゆく男を睨んだ後、恒元は俺に言ったのだった。


「すまなかったね。涼平。まさか風越があんなことをしているとは思いもしなかったよ」


 色々と思うところはあるが、俺はきわめて冷静に努めて淡々と問う。


「会長はご存じなかったのですか?」


「ああ。あの男の変態趣味は有名だけどね。女を攫いたいなら我輩に一声かけて貰いたかったところだよ」


 それしか答えない恒元。国内最大手の芸能事務所経営者のぶっ飛んだ行為はともかく。彼が今後もエースタウンとの友好関係を維持する以上、今回の件について知っていたか否かは問題ではないのだろう。


「そうですか。エースタウンが“休暇所”の運営に使っていたのは傘下プロダクションの社員でした。ヤクザは一人も居なかったようです」


「ううむ。ならば、なおさら我輩に声をかけて貰いたかったなあ。そういうことに慣れた者を何人も召し抱えているというのに」


 残念がる恒元に俺は相槌を打つ。


「ええ。そもそも中川会うちは風俗を沢山経営していますからね。女なんか攫わずに普通に客として店に来てくれても良かったでしょう」


「おそらくは女を攫うという行為も含めて奴の遊びなのだろうな。まったく分からんよ。あの男の思い付くことは」


 今以上に中川会に借りを作りたくなかったのか。もしくは、少年時代からの馴染みであるという中川恒元に女癖を知られるのが恥ずかしかったのか。会長の言葉に倣うわけではないけれど、大富豪の考えることはつくづく分からない。


「ともかく。ご苦労だったな。涼平」


 会長は俺にねぎらいの言葉をかける。俺は深々と礼をして応じた。


「はっ」


「今日はゆっくり休むと良い。夜は冷えるから身体を暖めるのだぞ」


 そんなこんなで執務室を出たのと同時、俺は途方もない疲労感と脱力感に襲われる。任侠精神も何もあったものではない。極道とは何とも惨めな役柄だ。


 結局、街で勝手に女を漁っていたエースタウン社については一切お咎め無しとなった。今月分の上納金増額を求めるだけで恒元は責任の追及を行わないのだという。尤も恒元は旧友の行為について特に非難する気は無いらしいけれど。


『特に大それたことなんか考えちゃいない。ただ、弱い者にある程度は救いの手を差し伸べてやりてぇだけだ。持てる力はそのために活かしたい』


 吐いた唾を呑み込むことは好きではない。けれど、その美学は貫けそうにはないと改めて思い知らされた。所詮は未熟で半端な男の戯言だ。


「やっぱり、この世界で夢なんか抱いたって仕方ねぇのか……」


 己の為すべきは、ただひたすらに中川恒元の操り人形でいることか。師走の夜の空に小さく呟き捨てた俺であった。

誰もが陥る、理想と現実の乖離。思い悩む涼平の苦しみは深まるばかり。裏社会にて己を貫き通すのは難しい……。

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