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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第11章 親分たる器
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惜別の涙

 轟音と共に放たれた弾丸は、狙い通り溝端の顔のすぐ横を通り抜けた。俺はすぐに次弾を装填してスコープを覗き込む。今のはわざと外したのだ。


 奴らを威嚇するために。事前の打ち合わせで決まっていたことだ。


「なっ、何だ!? どこから撃ってきやがった!」


 取り乱す溝端を周囲の男らが取り囲み、辺りをきょろきょろと警戒する。なおも動揺する溝端を宥めたのは長髪で髭面の男だった。


「若様。落ち着いてください。これは敵の罠です」


「罠、だと……!?」


「こちらを狼狽えさせて統制を失わせるのが狙いですぜ。大将であるあなた様が冷静さを失えば皆がそれに続く。敵の思うつぼになります」


 すると奴は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐさま不敵な笑みに変わる。そして杖を振り回しながら大声で叫んだ。


「そうかァ! それなら望むところだぜ! 正々堂々、正面からぶっ潰してやろうじゃねぇかッ!」

 ああそうかと俺は思った。この溝端辰也なる男は鉄火場での経験が浅い。功名心に逸っているがゆえに安い挑発でも乗ってしまうのだ。


「若様、何をなさる……」


「全員突撃! 村雨はあの廃墟に隠れてるんだ! さっさと行ってぶち殺して来やがれ!」


 溝端が叫ぶと同時に彼の部下たちが一斉に森へ駆け込んでくる。だが、俺は慌てなかった。この展開を予想して既に配置は完了しているからだ。


「ああ、森に入っちまったら」


「奴ら。完全に下手を打ったな」


 酒井と原田が顔を見合わせるのと同時に俺はほくそ笑む。すると森の中から悲鳴が上がる。潜んでいた組員たちが一斉に射撃を開始したのだ。


「ぐわあっ!」


「うぐっ……」


「な、何だァ!?」


 無数の弾丸が敵の集団に撃ち込まれてゆく。断末魔と共に血飛沫が上がるのが分かった。敵は混乱した様子で足を止めるが、背後から溝端が檄を飛ばす。


「てめぇら! 怯むんじゃねえぞ! 敵は少数だ! 一気に攻め込んで皆殺しにしろ! 爆弾でも使って敵を蹴散らせ」


「し、しかし若様! それでは見方が……」


「うるせぇっ! さっさと行け!」


 溝端が叫ぶと部下たちは覚悟を決めて森へと走ってゆく。だが、彼らは知らなかっただろう。その森の中で待ち構える者たちの正体を。


 そして恐るべき罠を。


 俺はスコープ越しにその光景を嬉々として眺めていた。どういうわけか村雨組の射撃が止んだことで敵が油断しているのが滑稽に思えたからだ。


「あいつら、この後で何が待ち構えているとも知らずに……」


 次の瞬間、爆音が響いた。


 ――ドンッ!


 銃声ともまた違った、重くて苦々しい衝撃。それと同時に、森の中から赤煙が上がっていった。


「うおっ!?」


「ス、スモーク!?」


「敵の罠だ!」


 怯え竦む敵兵の声が聞こえた途端、彼らの声は悲鳴に変わる。


「うぎゃあっ!」


「ぐああっ!」


「あああっ!」


 高速で何かを切り刻み、刃を突き立てるような音がはっきりと聞こえていた。その刹那的な攻撃の正体を俺は知っている。


 柚月だ。彼が煙の中を高速で動き回り、敵を苦無で次々と倒していったのだ。煙で視界が不明瞭な中でも俊敏に駆けられるのは忍者ゆえの特質か。


 頼もしい男である。


「なっ、何が起きてやがる……!?」


 森の外にいる溝端は、中から立ち上る煙と聞こえてくる悲鳴にわけが分からなくなっているようだった。


「若様! 敵は相当な手練れです! ここは一時退却を……」


「馬鹿言うんじゃねえ! ここで退いたら俺の面子が丸つぶれだ! 罠だと分かっていても正面から圧倒的な兵力で叩き潰すのが松下の流儀じゃねぇか!」


 溝端は叫ぶが、その足は震えていた。


「しっ、しかし……」


「……ッ」


 溝端を取り囲む親衛隊らしき男たちも怯えている。だが、彼らはまだ幸運だったと言えるだろう。もし彼らが煙の中に飛び込んだなら、柚月の餌になっていたはずだから。


 そんな彼らの様子を眺めていた俺は思わず笑いをこぼした。


「ふっ……ははは……」


 ああ面白い。実に面白い。


 俺はスコープを覗いたまま、しばらく笑い続けた。

「おい麻木クン! 何を笑ってるのさ!」


 菊川の声だ。俺は笑いながら答える。


「いや……ちょっとな」


 そろそろ潮時だろう。スコープに視線を戻すと、溝端に変化が起きていた。なんと彼は片足を引きずりながらも、森の中へ入ろうとしていたのだ。


『一軍を率いる将たる者は自ら先頭に立たねばならない』


 決して明文化されたわけでもない規範は人の心に染みついている。ましてや極道の大幹部の親族として生まれ、幼い頃より将となるべき教育を受けて来た若者にとっては、最早絶対的な義務感ともいえよう。このような場面では必ず体が動く。


 溝端の行動は予想できたことだった。無論、そのために罠は張ってある。


「お前たち。手はず通りに」


 無線で部下たちに確認する組長の声が聞こえた。そうとは知らず溝端は森の中へと歩んで行った。


「お止めください若様!」

「放せほり! ここで俺が行かねば何とする! 未来の松下組を背負って立つ者として、敵を前に後退するわけにはいかねぇだろ!」


「しかし……」


 堀という名前らしき側近は止めようとするが、溝端の足は止まらない。親衛隊たちも困惑気味に顔を見合わせるも主人だけを行かせるわけにはいかないため、自分たちも付いて行く。


「……」


 溝端が踏み入った森の中は至って静かだ。


「はあっ! 何にもぇじゃねぇか! 村雨組の軟弱者ども、俺たちに恐れを成して逃げ出したか!?」


 先ほどまでの混乱が嘘のように煙が薄まった森の中は静寂の一色。それどころか伏兵の気配すら感じられないと来たものだ。


「若様、これは……」


 側近の堀も困惑しているようだった。だが溝端はそんな彼らの様子など気にも留めずに叫ぶ。


「馬鹿野郎! まだ分からねぇのか! 敵はあの廃屋の中に逃げ込んだんだよ!」


 そう叫んだ瞬間だった。突如として彼らの背後から人の群れが押し寄せてくる。


「なっ、何だァ!?」


 溝端が驚くのも無理はない。彼の視線の先には沖野たちが列をなして迫っていたのだから。その数はざっと10人ほどだった。


 彼らは手に日本刀を構えており、その瞳は殺意に燃えている。だがそれだけではない。その真横からは芹沢に率いられた組員らが走り込んできた。


 これはどう考えても窮地だ。奴らは完全に囲まれている。自分たちの不利を悟ったのか親衛隊の男たちは思わず後ずさりする。


「おいっ! 何ビビってやがる!」


「い、いや、しかし……」


 溝端は側近の堀に怒鳴りつけるが、彼は怯えて言葉も出ない。すると親衛隊の中の一人が叫んだ。


「罠です! 逃げましょう!」


 されども溝端は許さなかった。


「うるせぇ! 今さら引き下がれるかってんだ! お前らはあのクズどもをここで食い止めてろ! 俺は本丸に切り込む! この喧嘩にケリを付けてやるよ!」


 そう怒鳴り散らして先へ走って行ってしまう溝端。


「若様! お待ちください! 迂闊でございます!」


 溝端らが慌てて後を追いかけて制止するがまったく気に留めない。恐怖と焦りで判断力に異常を来し、無謀な突撃をする将と、それに付き従わざるを得ない兵たち。見事なまでに策に嵌まった彼らの挙動は前夜に村雨組長が想定していた光景と完全に符合していた。


「村雨ッ! 出てきやがれ! この溝端辰也がぶっ殺してやる!」


 果敢にも溝端が叫んだ、その瞬間。


「なっ!?」


 森の奥から物凄い数の矢が飛んできた。それは雨のように降り注いで、溝端らの仲間たちを次々に貫いてゆく。


「ぎゃあっ!」


「ぐわっ!」


 悲鳴を上げながら倒れ伏す親衛隊たち。その内の一人は矢が心臓に突き刺さり、そのまま息絶えた。溝端は愕然とする。


「なっ……」


 だが、それ以上に驚愕していたのは堀だった。彼は震える声で尋ねる。


「ま……まさか……この矢は……」


 そう言いかけたところで彼の肩にも一本の矢が突き刺さった。よろめきながら彼は倒れる。


「ぐっ……ううっ……」


 溝端は呆然と立ち尽くし、その横で堀も苦しそうに呻いていた。他の親衛隊員らも同様である。皆一様に矢が突き刺さった部位を手で押さえて動けずにいる。

 中には刺さった瞬間に息絶えた者すらいた。


 俺はスコープ越しにその様子を見て思わず笑う。


「ふっ……」


 今、彼らの肩に刺さっているのはただの矢ではない。先端に毒を塗った特別製だ。それも村雨組が独自に栽培した毒草から取り出したもの。


 おまけに即効で神経に反応するものだから日本では戦国時代から使われてきた。さて、溝端はどう出るか。


「ひ、怯むなあーッ! 走れーッ! 神戸極道の度胸を見せてみやがれってんだゴラァ!」


 それでもなお歩みを止めようとしない。すると森の中に新たな集団が姿を現した。


「俺たちは松下組代貸、澤田組だッ!! 行くぜぇぇぇーっ!」


 松下組の傘下団体で溝端の指揮下にあるらしい澤田さわだぐみの男たち。どうやら溝端は別働隊を用意していたらしい。


 連中は森の中へ駆け込むと溝端を取り囲むように散開する。言うなれば防御の陣形か。ただ、村雨組のゲリラ戦術の前では敵に非ず。


「何っ!? おい、お前ら! 逃げるな!」


 溝端が狼狽えるのも無理はない。頼りになるはずの救援は村雨組の猛攻に耐えきれず次々と倒れてゆくのだから。


 ゲリラの基本は一撃離脱。樹木が乱立して視界が開けていない地理事情を活かして斬りかかっては逃げ、別の方向から新手に襲わせる。


 その繰り返しで森の中には血だまりが広がった。


「ぐわああっ!」


「ぎゃあああッ!!」


 そんな悲鳴があちこちから聞こえてくる中、澤田組の組長らしき男が叫んだ。


「……足を止めるんじゃねぇーっ!」


 するとやられたはずの男たちが一斉に立ち上がり、またしても溝端の周りに展開する。ここまで叩かれても未だ突撃を止めないか。


 中にはボロボロになりながらも村雨の組員を返り討ちにする者も居り、松下組は伊達に煌王会最強の地位に在るわけではないのだと分かる。


「堀! 澤田! 突破口を開いてくれてありがとよ! 行かせてもらうぜ! 一番槍をつけるのはこの俺だぁぁぁ!」


 傷だらけになった部下たちと共に全力疾走する溝端。しかし、彼の行く手には大きな罠があった。


「うおっ!?」


 夜通しで作った落とし穴だ。


「若様っ!」


 澤田が叫んで溝端は穴に落ちるギリギリのところで止まる。しかし、落ちた奴らは悲惨だ。穴の底には尖った竹槍が何本も仕掛けられているのだ。


「うぎゃあああっ!!」


 絶叫する組員たち。その悲鳴を聞いて親衛隊らは青ざめる。


 だが、落とし穴の底に落ちただけではまだ終わりではない。今度は矢の雨だ。勿論、ただの矢ではない。


 毒矢だ。それはまるで天から降り注ぐ雷のように彼らの体に突き刺さってゆく。


「ぐわああっ!」


「ぎゃああっ!!」


 穴の中で次々と息絶える親衛隊たち。その様子を見て溝端は愕然とする。


「なっ……」


 そんな彼の背後から村雨組の連中が迫ってきた。彼らの中から歩み出た沖野は刀を振り上げると、溝端の背中を斬りつける。その一撃が効いたようで、彼はそのまま前のめりに倒れた。


 屋根の上から見下ろしながら、俺は思った。これで勝敗が決したか。


 結局、この日は怒涛の勢いで押し寄せた松下組の組員総勢530騎を壊滅させ、村雨組は数名の負傷者を出すのみで決着を迎えた。


 豊橋の街中に入った増援部隊500騎は溝端が敗北したことを知ると戦わずして逃走。散り散りになって逃げ帰って行った。


「いやあ、お疲れ様! 歴史的勝利だよ! あの百戦無敗の松下組を撃退するとはね!」


 夜。菊川の音頭で皆が杯を交わし合った。若頭は上機嫌で俺を褒め称えるのだった。


「……やっぱり君は凄いね。あの狙撃の腕もさることながら、人間の行動心理を全て予測した上で作戦を練る洞察力にも舌を巻くよ」


 俺は苦笑するしかなかった。褒められるほど大層なことはしていないし、そこまでの頭脳を持っているわけでもないからだ。


 ただただ実戦を担った沖野や柚月たち村雨組の組員が奮励しただけのこと。


「いえ、俺はただ上から牽制役に徹してただけだぜ」


 俺が謙遜すると菊川は首を振る。


「いやいや、それが凄いんだって! 流石は元傭兵だよ!」


 そんなやり取りをしていると、後ろから声をかけられた。振り向くとそこには村雨組長が立っている。彼は穏やかな笑みを浮かべていた。


 そして俺の肩にポンと手を置くと言ったのだった。


「見事な策であったぞ」


「いえ……」


 俺は謙遜した。しかし、村雨はそんな俺を見てなおも続ける。


「謙遜することはない。涼平よ。お前のお陰で我らは大きな価値を手にしたゆえな」


 彼はそう言って頭を下げたのだった。おっと驚いた。よもや組長に礼をされる日が来ようとは。


「あ、頭をお上げください!」


「お前が居なくば勝てぬ戦いであった。森に陣を構えたとて真正面からぶつかっておったのでは負けたやもしれぬ。恩に着るぞ」


 村雨組を出奔して6年。組長から感謝されるなど想像も出来なかったことである。彼との間に入った亀裂を思えば、何だ感慨深いものがある。


 勝利の酒に酔いながら歓喜の言葉を交わし合う組員たち。今では部外の傍観者だが、きっとあの中に交わっている未来もあったのだろう。男らの宴を見つめながら村雨組を抜けてしまったことを改めて悔しく思う俺であった。


「やりましたねぇ、組長。俺も久々に暴れましたぜ」

「僕の忍術はいかがでしたか。夜通しで仕掛けを作った甲斐がありました」


 酒が入って上機嫌な沖野と柚月。


「うむ、良い働きであった」


 村雨も満足げである。俺はそんな彼らの会話を聞きながら盃を傾けていた。組員たちは皆、勝利に浮かれているようで俺の存在など忘れているかのようだ。


 まあそれも当然か。俺はひとえにゲリラ戦のいろはをレクチャーして陣形を考えるのに参画しただけなのだから。


「……ふう」


 そんなことを考えていると自然と溜息が漏れるのだった。我ながら情けない限りだとは思うが、やはり寂しいものは寂しいものだなと心が竦む。


 すると部屋の隅で壁にもたれ掛かる芹沢の姿を見つけた。元はレストランだけあって広い部屋の中で息を潜めるように彼は立っていた。


「よう。涼平」


 俺に気付いた芹沢の所へ俺は歩み寄って行く。


「お疲れさん。まずはあんたら村雨組の勝利に祝いの言葉を述べさせて貰うぜ。おめで……」


「いや、勝ってはいねぇよ」


「えっ?」


 きょとんとして問い返した俺に芹沢は神妙な面持ちで言った。


「今日、俺たちが仕留めたのはせいぜい500騎だ。豊橋に来ていた後詰めは無傷で取り逃がしちまった。そいつを含めて松下組にはあと4500の兵隊が居るってのにな」


「……」


「むしろ負けたと考えても良いくらいだ。こっちが薄氷を踏む思いで戦ってんのに、向こうは圧倒的な兵力差で余裕綽々なんだからよ」


 確かに今回の勝利は局地的なものだ。しかし、少しくらいは嬉しさを露にしたって問題は無かろうに。相変わらず芹沢は堅い男である。


「まあ、後は他の煌王会貸元たちがどんな出方をするか。曲がりなりにも俺たちが押し返したことで橘威吉の無敗神話は崩れたわけだからな。少しは足元が揺らぐかもしれんな」


「そういやあ橘の甥とかいう奴はどうなったんだ? 交渉カードにするとかで生け捕ったんだろ?」


「ああ。いざとなったら溝端は人質に使わせてもらうよ。実子の居ない橘にとっては唯一の後継者となり得る男子、野郎も無碍にはできねぇだろうからな」


 今後の展開を思案しながらも嘆息をこぼした芹沢に、俺は共感と頼もしさを半々ずつにおぼえたのだった。


 さてさて。


 松下組を相手に豊橋大亀の戦いで勝利を収めた村雨組だったが、その後の展開は予想外の方向へと飛んでいった。


 なんと松下組が手打ちを持ちかけてきたのである。

 翌日の夕方頃に豊橋の旧家入組事務所に橘から書状が届けられた。それを読んだ村雨が眉間に皺を寄せたのは語るに及ばなかった。


「……私を侮っておるな」


「何がです?」


 舌打ちを挟みながら村雨は書状を菊川に手渡す。俺が沖野たちと共に視線を送ると『これ以上続けても苦しくなるだけだろうから手打ちにしよう』といった旨のことが書かれている。


「はあ!? 勝ったのは俺たちですぜ!? この文面じゃあまるで俺たちに降参しろと言ってるようなものじゃねぇか!!」


「兄貴の言う通りです。おまけに橘は村雨組に負けたことについて何ら触れていない。敗者の書いた書状とは思えませんな」


 沖野と柚月はあからさまに憤った。確かにそうだ。松下組は俺たちに敗れた挙句に指揮官である溝下を捕えられたというのに、何故そんな姿勢でいられるのか理解に苦しむ。


 すると菊川が口を開いた。


「……なるほどな。どうやらこれは軍勢を豊橋へ遣わす前に書かれたものだね。きっと橘は僕らが既に敗れたか、溝端たちに包囲されて苦慮していることを想定して書いたんだろう」


 討伐軍が敗れるとは万に一つも考えていなかったと思われる。溝端が敗れた話は既に名古屋へ入っているはず。


 にもかかわらず書き直さなかったということは、きっと奴は今回の敗北を無かったものと考えているのか。あるいは「兵の数で劣るお前らと違いこちらは500騎くらい替えが利くぞ」という挑発か。いずれにせよ舐めくさった態度だ。何とも腹立たしい。


「組長? どうする?」


「無論、奴らの持ちかける手打ちには応じぬ。長島勝久公の御復位が確約されぬことにはな。我らは女将様をお守りするためにこそ兵を挙げたのだぞ」


 するとそこへ芹沢が渋い顔で口を開いてきた。


「恐れながら。このタイミングで手打ちを結んじまうのも有効ありなんじゃねぇかと思います」


 いつになく神妙な面持ちの舎弟頭。当然ながら、彼の提案に沖野と柚月は食ってかかった。


「舎弟頭!」


「どういうつもりですか!」


 だが、彼らを軽く受け流して芹沢は村雨に向き直る。


「確かに俺たちは今のところ優勢です。あちらさんの兵隊を壊滅状態に追い込んだのに対して、こっちは大して損害を被ってねぇんだから」


「……それで」


「ですが、長引けば確実に負けます。伊豆と湘南を奪われたことでジリ貧なんですから。片や松下組の方は腐るほど軍資金を抱えてんです」


 兵力と財力から見積もった戦争遂行の総合力の観点では大いに不利、よって有利なうちに手打ちを結ぶべきだと芹沢は力説する。


 部下の言葉に村雨は頷いた。


「ふむ……一理あるな」


 芹沢の言うようにこのまま手打ちへ方針変更をはかるか。そう思ったが、村雨の思惑は別のところにあるようだった。


「なれど、手打ちを結ぶのは今ではない」


「組長!」


「少なくともあと500の兵を倒してからだ。まだ我らにもそれを為せるくらいの力は残っておろう。あちらの頭数が揃っておるうちに交渉に及んでも押し切られてしまうゆえ」


 村雨組にとって有利な条件を吞ませるためには少しばかりの痛撃が必要だと語る村雨。確かにその通りである。今の段階では村雨と松下の兵力差が大きすぎる。

「し、しかし……!」


「それにだ」


 なおも言い募ろうとする芹沢を遮って村雨は続ける。

「このまま粘っておれば遅からず橘も鉄火場に出て来よう。戦が長引くのは奴にとっても本意ではあるまいて」


 俺は思わず口を挟んでしまった。


「ええ。『下に見ていたはずの村雨組をいつまで経っても潰せずにいる』って噂が広まれば橘威吉の武名が揺らぎます」


 すると菊川も頷く。


「そうだね。橘は頭に血が上りやすい男だ。戦争がダラダラと続けば可愛い甥っ子を助けるためにも自ら打って出るかも……」


 沖野と柚月が同調するのは言うまでも無かった。


「だったら単純な話だ! 鉄火場に出てきた橘をブチ殺せば良いんですよ!」


「そもそも長引いたところで何も問題ないじゃないですか! 僕たちには中川会が付いてるんだから! いざとなったら加勢して貰いましょうぜ!」


 軍議の場を瞬く間に好戦の二文字が支配してゆく。嘆息を漏らした芹沢は慌てたように反論を投げる。


「だが、各地の貸元たちの肚も定まってはおらぬ。表向きこそ松下組の味方をしておるが傘下に入ったわけではないのだ。今は中立というべきところであろう」


「それは……」


 村雨の言葉に押し黙る芹沢。直系組長たちが流動的なのは俺も同意見だ。連中の兵を松下組が動員出来ない限り、俺たちが圧倒的不利というのは些か違う。


「まあ、そういうわけです」


 そんな二人を見て沖野がニヤリと笑う。


「芹沢の舎弟頭。あんたはどういうわけか俺たちにさっさと手打ちを結ばせたいみたいですけど、村雨組はまだまだ戦えるんですよ」


「ああ? どういう意味だコラ? 沖野ッ!?」


「松下組と内通して俺たちに不利な条件を呑ませようとしてんじゃねぇかってことですよ!!」


「てめぇッ!!」


「かかって来いよ、汚ねぇ裏切り者!」


 すぐさま芹沢が掴みかかり、殴り合いの喧嘩に発展する二人。これはいけない。すかさず俺と柚月が割って入って止める。


「止めぬか!」


 村雨の怒鳴り声で一同は静まり返った。


「沖野。今の言葉を取り消すが良い。仮にも舎弟頭に向かって『裏切り者』とは何たる無礼か。芹沢は我らの前途を案じておるだけだ。分からぬのか」


「は、はい。すみませんでした」


 顔を真っ赤にしていた沖野も組長に睨まれては畏縮する他ない。いや、残虐魔王に凄みを浴びせられて平静で居られる人間などあるまい。


「金輪際、芹沢が敵と通じておるなどという世迷言を吐くでないぞ。今度左様なことを口にすれば容赦はせぬ。良いな」


「はっ」


 沖野は地面に額を擦りつけるように平伏した。一部始終を見ていた菊川は呆れた様子で言った。


「もう。血の気が多いねぇ二人とも」


 そんな彼らを見て芹沢は嘆息するのだった。そして村雨を見た。彼は静かに頷くと口を開いたのである。


「失礼いたしました」


「お前も下らぬ煽りに乗るでない。不惑の齢にもなろう男が何をやっておるか」


 芹沢は村雨よりも6歳上。年齢的にいえば自らが先輩にあたるにもかかわらず村雨を『兄貴』と敬う。この二人は何とも奇妙な関係だ。


 かつて極道として裏社会で失敗を重ね、路頭に迷っていたところを村雨組長に救われたと話していた芹沢。彼にとって村雨耀介は恩人であり、兄であり、そして渡世を一緒に歩んできた盟友でもあるのだ。そんな彼が村雨のことを裏切るはずもないだろうと俺は改めて思うのだった。


 部屋の空気感が穏やかになる。松下組に対しての手打ち交渉は先送りし、当分は戦争を続けようという方針で芹沢も渋々ながらに納得した。


 何だか腹が減ってきた。


「さて。そろそろ夕食時だね。戦勝パーティーの続きも兼ねて、この街の料理屋にでも……」


 そう壁掛け時計を見ながら菊川が呟いた時。


「申し上げます!!!」


 真っ青な顔をした組員が駆け込んできた。ドアを蹴破らんばかりの勢いで開けての入室だった。


「何事だ」


 村雨に気圧されながらも彼は報告する。


「さっき本部から電話がありまして、横浜が……」


「何だ。はっきりと申せ」


「横浜が襲われたと報告がありました!」


 菊川や芹沢は唖然として言葉を失った。


「何……!?」


 村雨も眉根を寄せて押し黙っている。沖野と柚月に至っては呆然と立ち竦んでいた。まるで呑み込めないと言ったところか。


「……横浜が、襲われた?」


 最初に口を開いたのは芹沢だった。そして組員に問いかける。


「誰だ? いや、そもそもどこの組のカチコミだ?」


「それが分からないのでございます……毒ガスを投げ込まれて気が付いたら全員が倒れていたらしく……」


 今度は俺が驚きを露にする。


「何だと!?」


 毒ガスを撒かれたとは。いや、待てよ。全員が倒れていたということは……最も恐ろしい光景が脳裏をよぎった俺は戦慄した。


「どういうことだよ!?」


「横浜が襲われた?」


 村雨組の一同は騒然となった。無理もない。このタイミングでの襲撃だ。しかも、どこの組かすら分かっていないというのである。


「まさか……」


 組長が口を開いた。彼は一瞬だけ息を呑んだ後、ゆっくりと伝令の若衆に問うた。


「……襲われたのは我が屋敷ではあるまいな?」


 すると男は恐る恐るといった様子で頷く。


「は、はい。左様でございます」


 何ということだ。俺の予感がとんでもない形で的中してしまった。横浜にある村雨組が謎の勢力による襲撃に遭ったというのである。


 報告によれば昨晩未明、たまたま開いていた村雨邸の窓から神経毒入りのスプレー缶が次々と投げ入れられ、屋敷内にガスが充満したのだという。


「留守居役の政村舎弟頭補佐以下、53名が重傷を負いましたが命に別状はないとのことでございます。ですが……」


「何だ?」


「……」


 黙り込んでしまった組員。彼は言いづらそうに歯噛みしながらも、やがて意を決したように口を開いた。


「……女将様が、殺されました」


 村雨組の若衆は、絞り出すようにそう報告した。


「何だと!?」


 組長が驚愕の声を上げた。その場にいた誰もに衝撃の稲妻が走る。俺も麻木涼平は思わず立ち上がった。


 菊川も、沖野も、柚月も、芹沢でさえも、愕然として言葉を失ってしまった。一体、どういうことだ、勢都子夫人が、何故に。


「詳しく話せ」


 村雨が促すと組員は語り始めた。


「屋敷の中にいた者の話によれば、気付けば女将様は頭を撃ち抜かれていたとかで……おそらくは毒ガスで昏倒させた後で頭を撃ち抜いたものと……」


「馬鹿な! 周りの郎党どもは何をしておった!?」


「毒で身体が痺れて何も出来なかったそうにございます……」


 滅多なことには動じない村雨でさえ衝撃を隠せないでいた。当然だ。組が襲撃された上に守っていた女将が殺されたのだ。平静でいられるはずもないだろう。


 一方で俺はというと、あまりの衝撃に言葉を失っていた。


「殺されたのは女将様だけか?」


 芹沢が尋ねる。すると組員はゆっくりと頷いた。


「はい。左様でございます」


「じゃあ、襲った奴らは女将様を討つために周りの奴らを毒で眠らせたってわけだな。クソっ。ふざけた真似しやがって」


 組長も苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。


 勢都子夫人が何者かによって討たれた。これは村雨組が更なる窮地に追い込まれたことを意味する。流石の残虐魔王も身を震わせて当然である。


「大義名分を失った。我らは女将様のためにこそ戦っておったのだ。その女将様が討たれたとなれば……」


 そこに菊川が茫然自失の面持ちで言葉を加える。


「ああ。僕らは賊軍に成り下がったことになる」


 事の重大さを数秒遅れて認識し、俺は立ち眩みがする思いであった。これからどうなるのか。まさかこのタイミングで松下組がそんな手に出てこようとは。


 皆が衝撃に震える中、芹沢が声を上げた。


「兄貴!」


 全員の視線が彼に集まる。


「今すぐ横浜に戻るべきです。女将様がご落命あそばされたということは、俺たちがお守りできなかったということ。その落ち度を口実に橘が攻勢を仕掛けてくるかもしれません」


 その野太い声に村雨は我に返った。


「そうだな。すぐに横浜へ帰って守りを固めると致そう」


 ただ、それに俺は待ったをかける。


「もしかすると屋敷の中にまだガスが充満しているかもしれません。すぐに全員で戻るのは危険でしょう」


「しかしだな……」


「まずは俺が見てきます。傭兵時代に特殊攻撃は経験済みなので。後処理についても少なからず心得があります」


 かつて俺はアフリカの戦場で毒ガス散布がされた現場に立ち会ったことがある。そこでは防毒マスクを着けて空気洗浄の任務をやらされた。正規軍に代わって危険なことばかりを押し付けられる傭兵にとっては普遍的な作業だった。


「うむ……では頼む」


 村雨耀介は静かに頷いた。組の中に特殊攻撃の経験者は居ない。他の連中としても事ここに至った以上は俺に頼らざるを得ないのが本音なのだろう。


「麻木さん」


 いざ出かけようとしたところで俺に話しかけてくる者が現れた。柚月だった。


「どうした」


「僕も行きます。あなたのことを信用していないわけじゃありませんが、部外者だけに全てを任せるわけにもいかないのでね」


 何と彼もついて来るという。危険な役回りとなるのは承知の上。尤も、彼には他の理由があるようだった。

「その、窓から毒ガスが投げ入れられたって話。どうにも臭うんですよ。もしかすると僕と同業の人間のやったことじゃないかってね」


 柚月の云う同業の人間とは、すなわち忍びだ。


「横浜は村雨組うちが買収した警察サツが哨戒線を張ってたんですよ。組長が西へ出かけている間に攻められないようにね」


「そいつをすり抜けられる奴ってなると忍びしかいない、ってわけか?」


「ええ。おそらくは。それに毒は古くから忍びの専売特許みたいなものでした。一昨日の戦いでもお見せしましたが。神経毒を使う流派ってなると意外と少ないですが」


 煌王会松下組は忍びの集団を抱えていたのか。そうなってくると今後の戦いが色々と面倒だ。眉間に皺を寄せながら俺は柚月を連れて横浜へ向かった。


 なお、その移動手段は当然ながら車である。電力騒動の影響で新幹線が未だ停まっていたのもあるが、一番の理由は俺が中川会から貰った車だ。


「へぇ。最新型の防毒マスクですか」


「ああ。会長が寄越した武器一式の中に入ってたのを思い出してな。こいつがあれば何とかなるだろ」


 川崎の船を奇襲する際に届けられた、武器を満載したバン。その中にどういうわけか毒ガス対応のマスクがあったのだ。柚月はすっかり感心に浸っていた。


「こんなに沢山の武器を使えるとは。中川会は凄いですね。流石は関東最大の暴力団です」


「そうだな。この防毒マスクも会長が手配してくれたものだ」


 俺はそう答えながら車を走らせる。豊橋から横浜までは5時間。高速道路が通行止めになっており国道での迂回を強いられたせいだ。


「で、さっきの話の続きだがな。お前と同業ってのはどういう奴らだ? 毒を使う流派は意外と少ないとか言ってたな?」


 柚月は頷く。そして彼は語り始めたのである。


「ええ。毒の扱いに長けた忍びの流派は3つしかありません。伊賀流と僕が学んだ近江流、それから朽葉流です」


「朽葉流か……」


 朽葉流といえば中川会執事局の才原局長が身を置く流派。そういえばあの男も忍者だったな。忍術として毒に関する知識を持っているということか。


 なお、柚月によれば伊賀流を用いる集団が煌王会と結託しているとの噂があるとか。彼は此度の犯人を相当の手練れであると当たりをつけていた。


「毒の扱いって難しいんですよ。特に人を殺さず、意識を奪う程度に留めるだけの量を調合するのは至難の業。ガスを吸った組員が気絶だけで済んでいたのを見るにかなりの熟練者でしょうね」


「じゃあ、侵入者は敢えて女将さんだけを殺したってわけか。他の奴らは眠らせるだけだったのはどうしてだ?」


「分かりません。松下組にとっては少しでも村雨組うちの戦力を削りたいだろうに。何か特別な思惑があったと考えるべきでしょうね」


 そんな会話を交わしながら車を走らせて、暫く経った後。俺たちは横浜山手町の村雨邸へとたどり着いた。邸宅内は思ったよりも酷い有り様ではなかった。


「ガスについては概ね片付いたようだな」


「ええ。警察サツがやってくれたようですね。今はそれよりも……」


 邸宅内にいた組員たちの表情は暗かった。無理もないことだ。勢都子夫人が何者かに殺されたというのであるから。


「女将様……どうして……」


 ある男は真っ青な顔で様子で呟いた。他の組員たちも皆、肩を落としている様子だ。柚月はそんな彼らに声をかける。


「お前たちだけでも無事で居てくれて安心したよ」


「柚月の兄貴。さ、坂崎さんが……」


「ああ。さっき聞いた。ガスを吸い込んで意識が朦朧しながらも女将様を守ろうとして、部屋の前で倒れてたそうじゃないか」


 柚月の腹心にして柚月組若頭の坂崎義盛。彼は体の痺れをものともせず最後まで対応にあたっていたという。そのため組の中では最もガスを吸ってしまったというが、柚月はそんな部下を誇りに思っていた。


「我ながら良い部下を持ったものだよ」


 一方、ある組員は怒りを露にしていた。


「クソッ! 松下組のクズどもが! 必ずブチ殺してやる!」


 そいつの叫びを横耳で聞いた後、俺は屋敷内を歩き回る。侵入者が何かしらの痕跡を残していないか。自分なりに確かめたかったのである。


「……この木筒に入れてたのか」


 俺は廊下の隅で見つけたものを拾い上げる。それは古い木筒だった。これに有害な液体を注いで投げ入れ、屋敷内で気化するよう図ったのだろう。


 毒ガスならアルミ缶入りのスプレーを使えば良いものを……と思った瞬間。俺の脳裏を不可思議な予感が通り抜けた。


 この木筒を何処かで見たことがある。以前、中川会の総本部で見かけたものとそっくりだ。あれは確か才原局長が一族の下忍たちに稽古をつけていた時に偶然通りかかったのだった。


 おいおい。そんなわけはないだろう。この屋敷を襲った犯人が才原率いる『才原党』の関係者だったとは。


 大体にして中川恒元は村雨組をバックアップしているのだ。ここで勢都子夫人を殺す理由が無い。くだらぬ邪推を胸に仕舞い、俺は柚月に言った。


「この屋敷は大丈夫そうだな。組長たちを呼んでも良いんじゃねぇか?」


「そうですね。僕もそう思います」


 村雨組長に対しては柚月が連絡を入れ、俺は携帯を取り出して別の人間に電話をかけた。


『もしもし? 涼平かね?』


 恒元だ。


「お疲れ様でございます。会長」


『いやあ、停電には参ったものだよ。何せいきなり電気が止まってしまったのだからね。こんなに寒いクリスマスを過ごしたのは貧しかった幼少以来だね』


「この電話が通じてるってことは東京は概ね復旧したようですね。会長のお声を聞けて安心しました。森田と越坂部はどうなりました?」


『お前も知っているだろうが今回の騒ぎの発端は電力会社のストだ。彼らは会社と労使交渉を行うにあたって森田と越坂部を頼ったらしくてね。その対応でクーデターどころじゃなくなったらしい」


 なるほど。恒元としては停電のおかげで御所巻きの危機を逃れたというわけらしい。


『銀座の方も表立った騒ぎは無い。輝虎も家の電気が止まったとあっては弟を殺すどころじゃないらしい』


「そうなりますか……」


『ああ。ヤクザは何処もフロント企業の対応に追われてるからね。ところで涼平は何をしているのかね?』


 恒元は電話の向こうで俺の行動について尋ねてきた。俺は率直に答えた。


「煌王会の女将が殺されました。一昨日に村雨組は豊橋で橘の送り込んだ兵隊を打ち破りましたが、それどころじゃなくなったようですね」


『何だと?』


 尋ね返してきた恒元であるが、さほど驚いている風でもない。


「驚かないんですね」


『まあな。敵の掲げる錦の御旗を奪うのは当たり前の戦術だからねぇ』


 密かに支援していた村雨組が一気に窮地に立たされようとしているというのに、この落ち着きよう。さすがは中川会の会長だ。そう思うことにして俺は続ける。


「女将が殺された事実はすぐに露呈するでしょう。そうなったら松下組は勢いづいて横浜へ攻め込んできます。会長は村雨組をお助けになりますか?」


『勿論さ。村雨耀介は天下に名だたる猛将。彼ほどの男を見捨てるわけがないだろう。村雨組が潰されぬよう最善を尽くすとしよう。我輩の威信に懸けてね』


「承知いたしました。それを聞けば村雨組長も安心するでしょう」


 ひとまず恒元は村雨を助けることに心変わりはしていないようだ。停電の混乱が続く中で何処までやれるかは定かではないが、会長がそう言ってくれたからには問題無かろう。いずれ折を見て村雨の下に兵隊を遣わせるという恒元に感謝しつつ、俺は電話を切った。


 しかし、問題は勢都子夫人を殺した下手人だ。一体、こんなことをしたのは誰であろうか。中川会が絡んでいないとすれば、やはり煌王会系の組か。


「麻木さん」


 村雨組長への電話連絡を終えた柚月が俺に駆け寄って来た。


「松下組と手打ちのナシをつけることになりました」


「なっ、どうして? 当分は喧嘩を続けるつもりだったんじゃ……」


「僕たちが居ない間に豊橋で議論を重ねたらしくってね。女将様が殺された以上は戦いを続ける理由が無いって結論に至ったそうです。女将様の一件は既に松下組も掴んでいるとか」


 俺は唖然とさせられた。されども考えれば当然か。女将が殺されたとなれば戦争継続の大義名分を失ったことになる。


「……そうだよな。このまま喧嘩を続けたところで賊軍になっちまうかもしれねぇんだ。無駄な血を流すのは避けるのが賢明だわな」


 俺の呟きに柚月は頷いた。松下組が寄越す使者と明日に豊橋市内で交渉を行うという。しかし、そうなると腑に落ちない事柄が出てくる。


「女将様が殺されたって話をどうして松下組は知ってんだ? こっちから向こうに情報を流したわけじゃねぇんだろ?」


 そうだ。普通に考えれば松下組は知らないはず。俺たちが横浜へ向かって3時間後に手打ちを求める使いが来たというのも不自然な話。


「僕が思うに、女将様を殺したのは松下組だと思います。でなきゃおかしいですよ。こんなにもすぐに情報が伝わるわけがない」


「松下組が隠密行動に長けた傘下の者を使って事を謀ったというわけか」


「きっと奴らも忍びの人間を囲ってるんですよ」


 柚月は淡々と答えた。確かにそれなら納得がいく。下手人が誰であるにせよ今回の一件で最も得をするのは松下組だ。


「……長島勝久公は言語不明瞭。夫に代わって煌王会の一切を取り仕切っていた女将を始末したとなれば、橘威吉にとっての邪魔者は他に居ない」


 俺の呟きに柚月は頷いた。そして彼は断言するのであった。


「そうとしか考えられませんよ」


 翌日。豊橋市某所の料亭にて。村雨耀介は煌王会松下組から派遣されてきた使者と対面していた。


「初めましてだな。俺は煌王会貸元松下組若頭、代貸『橘組』組長の駈堂くどう怜辞れいじだ。よろしく頼む」


 そう言って頭を下げるのは清楚な身なりの男。頭髪を七三分けに固め、スーツは黒を基調とした三つ揃いの落ち着いたもの。


 見たところ30代後半くらいだろうか。実に整った顔立ちが特徴的であった。極道ではなく何処ぞの若手実業家と言われても不自然ではない容姿をしている。


「同じく貸元松下組若頭補佐、代貸『川尾組』組長の宝生ほうしょう孝信たかのぶだ。こうして面と向かい合って話すの、初めてだなあ。村雨さんよ」

 その隣で頭を下げた男は対照的に派手なスーツを着込んでいた。髪の毛はオールバックにセットしており、いかにも軽薄そうな印象を受ける。しかし、その瞳は鋭く隙が無い。どこか強者の風格を漂わせている男だった。


「お運び頂き感謝つかまつる。私は『村雨組』組長の村雨耀介と申す」


 対する村雨組長も彼らに負けず劣らずの風貌だ。村雨が名乗りを上げた瞬間、座卓を挟んで向かい合う駈堂と宝生が思わず顔を見合わせる。さては残虐魔王の貫禄に圧倒されたか。


 そんな現場にどうして俺が居るのかといえば、組長より同席を命じられたからだ。前日夜に5時間かけて横浜から豊橋へ舞い戻った後、俺は手打ちを見据えての交渉が翌午前中に行われることを教えられた。俺を同席させるわけは他でも無い、今回の戦争に中川会が絡んでいる旨をちらつかせて少しでも交渉を優位に運ぶためである。


 そして今、俺は菊川と共に煌王会松下組の代貸2人と対面する村雨組長の後ろで控えているというわけである。


「同じく『村雨組』若頭の菊川塔一郎です」


 菊川が一言で名乗り終えた後、俺は軽く緊張しながらもゆっくりと口を開く。


「……中川会執事局次長の麻木涼平だ」


 すると俺の名を聞いた途端、駈堂と宝生がまたしても顔を見合わせる。


「中川会?」


「麻木?」


 そんなやり取りがボソッと聞こえた。俺の名が何だというのか。食い入るように視線を浴びせられるのは不愉快だ。それに笑みを帯びていたとなれば尚のこと不快感がこみ上げる。尤も、俺の名前ではなく中川会という単語に反応を示したのだろうが。


 数秒後、村雨が沈黙を裂くように話を切り出した。


「で? 今日は何様があって参ったのだ?」


 そんな彼に駈堂が苦笑いで応じる。


「あ、ああ。すまねぇ。まさか中川会のお方がいるとは思わなかったもんでな」


「この者は私用で横浜をうろついておったところ、貴殿らの差し向けたチンピラと諍いになってな。義憤に駆られ我が方に助太刀致したというわけだ」


「なるほど。そっち側に座ってるってことは仲裁で来たんじゃねぇのか。色々と行き違いはあるようだが、まずは本題から入ろうかね」


 駈堂はそう切り出した後、懐から書類を取り出した。それはおそらく手打ちの条件を記したものだろう。


「うちの親分は今回おたくらがやったことについて一切の責任を問わねぇと言っている。伊豆の領地もそっちに返す。全てを水に流してやるってよ」


 ざっと書面を読んだ村雨が反応した。


「ここにある『現金10億円』とは如何なることであるか?」


「あんたに払ってもらいてぇ詫び料さ。それさえ出してくれりゃあ全てが済むんだ。安いもんだろ」


 軽く言ってのけた宝生に菊川が反論を投げる。


「お待ちください。どうしてそんなものを払わなければならないのです?」


「おう。決まってんだろ。あんたらの攻撃で松下組うちはそれだけの損害を被ってるからだよ。他人に迷惑をかけたら相応の償いをするのが筋。ガキにも分かる理屈だぜ」


「ふっ。ご冗談を。詫び料を払う義務があるとすればむしろそちらでしょう。我々は今回の戦争で数十億近い損失を出してるんだ。そちらに関してはどう償って頂けるのですか?」


「何を言ってやがる。先に横浜でうちの人間を殺したのはお前らだろう」


「あれはシマ荒らしに対する正当防衛。何にせよ喧嘩に勝ったのは我々です。勝った方が負けた方に詫び料を払うなど聞いたことも無い」


「んだと!?」


 いきり立つ宝生を駈堂が「タカ。落ち着け」と穏やかに宥める。そうして彼は村雨組長を見据えると少し声のトーンを変えて言葉を紡いだ。


「俺たちとしては譲歩してるつもりなんだけどな。本当なら煌王会総勢で叩き潰すってところにお情けをかけてやってんだ。そいつが何故に分からねぇのか」


「道理に合わぬと申しておる。そもそも貴殿らのしたことは長島勝久公への謀反ではないか。我らは勝久公をお救いすべく立ち上がったまで」


 余裕綽々で応じる村雨。残虐魔王は決して軸がぶれることが無い。そんな彼に駈堂は少し苛立った様子でこう答えた。


「謀反ってのは言いがかりだぜ。引退を決められたのは勝久公ご自身だ。物の道理を重んじるなら親分のご意思を貴ぶべきじゃねぇのか」


「であれば何故に貴殿らは勝久公のお屋敷へ踏み込んだ? 天下の権を奪わんとする邪な心を抱いておったのであろう?」


「……あんた、それはうちの親分のことか」


「いかにも」


 その瞬間、宝生が怒鳴った。


「舐めてんじゃねえぞゴラァ!!」


 今にも殴りかからんとする宝生。しかし、村雨は眉一つ動かさずに言い放つ。


「貴殿らこそ我らを甘く見ておるのではあるまいな。ここは敗者である貴殿らが勝者たる我らに許しを乞う場のはず。そのを心得ぬのなら容赦せぬぞ」


「へぇ! 言ってくれるじゃねぇか! たかが500人程度を殺したくらいで勝者になった気分でいるとは片腹痛いぜ!」


「まだ多くの兵を抱えておるゆえ、あれは戦のうちに入らぬと申すか。負け惜しみだな。我らが貴殿らの将を捕らえておることを存じておらぬのか?」


 それを聞いた宝生がさらに激昂しようとしたところで駈堂がまたしても制止する。


「少し黙ってろ、タカ」


「何だよレイジ!」


「こっちは辰也が人質に取られてんだ。下手に煽るんじゃねぇと親分に言われただろうが」


 熱くなりやすい宝生に対して冷静沈着な駈堂。この二人はいつもそうなのだろうか。互いを“レイジ”と“タカ”と呼び合っているあたり、普段から仲が良いのだと見て取れる。


「いやあ、すまねぇな。ついつい調子に乗りすぎたようだぜ」


 相方を宥めた駈堂はニヤリと笑う。そして彼は言葉を続けた。


「じゃあよお、こういうのはどうだ? 互いにカネの要求は無し。おたくはうちの溝端辰也、うちは伊豆の領地をそれぞれ返して手打ちにするってのは」


 先ほどに比べてだいぶ譲歩した提案。しかしながら、村雨がそれを呑むことは無かった。


「ならぬ」


「おいおい、あんたは落としどころを探すってことを知らねぇのか。こっちが引いたんだから今度はそちらの番だぜ」


「負けておらぬのに落としどころも何もあるか。我らが求めるものはただひとつ。長島勝久公に天下の権をお返しすることだ」


 村雨は毅然たる態度でそう答えたのであった。


「……話にならねぇな」


 駈堂は呆れたように呟き、宝生と視線を合わせる。それを受けた宝生が懐から拳銃を取り出した。そしてそれを菊川に突きつけると彼はこう叫ぶのである。


「おい! ガキの馴れ合いは終わりだ! この距離で撃たれたらひとたまりもねぇだろうなあ!」


 しかし、その瞬間。突きつけられていた拳銃を菊川が奪い取り、その銃口を彼の眉間へ突きつけた。


「なっ!」


 宝生が驚愕の声を上げるも、菊川は笑っていた。


「この程度の芸当、村雨組では全員が朝飯前ですよ。兵の多さに慢心している何処かの組とは鍛え方が違うんでね。ふふっ」


 銃口を突きつける菊川と悔しそうに歯噛みする宝生。そんな彼らを一瞥すると、村雨は駈堂に言い放った。


「どうやら人質が増えたようだな。帰って橘威吉に伝えるが良い。今すぐ名古屋から兵を引き揚げよとな」


 そう。村雨はこれが狙いであったのだ。人質を取ったのは橘に揺さぶりをかけるため。このまま村雨組が一歩も引かないと分かれば、橘威吉はいずれ戦争の前線へ出て来ざるを得なくなる。戦争が長引くのは橘にとっても本意ではないはず。交渉で向こうが道理に合わない条件が吹っかけられたら、このように大胆な手段に出て譲歩を引き出そうという策だった。


「お前は自分の愚かさが分からないのか!? 戦争が続けば音を上げるのは村雨組の方だぞ?」


「その言葉、そっくりそのままお返し致そう。如何に松下組の兵力が多かろうと我らと戦えば苦しくなるのは必定。泥沼に嵌まることになろうぞ」


 俺は前もって組長と打ち合わせた通り、渡されていたロープで宝生を縛り上げる。そんな俺を見て駈堂が声を上げた。


「おい! そこの執事さんよ!」


「ああ?」


「さっきから思ってたけど、どうしてそっち側に座ってんだよ! お前さんは中川会の人間だろ! 」


「だったら何だよ。俺はこのドンパチであんたらの下っ端に村雨組の者と間違えて襲われたんでね。中川の代紋を担ぐ者としてそのケジメを取らなきゃならねぇんだ」


 そういう口実かと駈堂が地団駄を踏むものと思った。『中川会が村雨組に着いている』と認識し、己の置かれている立場が不利だと悟るものと。


 しかし、駈堂の反応は違った。


「はぁ!? おま……っ! じゃあお前……?」


「ああ。改めて言うが、俺は中川会の麻木涼平だ。あんたら松下組は村雨組のみならず中川会までも敵に回したんだよ」


「……おいおい! 中川会は俺たちの肩を持つんじゃねぇのかよ!?」


 その言葉は予想から大きく外れていた。


「あ?」


 意図せず素っ頓狂な言葉が出た、次の瞬間。


「よう。その辺で止めときぃ」


「っ!?」


 部屋の襖が勢いよく開き、一人の男が表れた。茶髪のオールバックに色付きのサングラスと蛇柄のスーツ。この装いをする者は俺の中では奴しかいない。


 本庄ほんじょう利政としまさ。中川会直参『本庄組』の組長で、かつて村雨とは同盟関係にあった男である。確かあの密約は俺が中川会に行った6年前に破棄されたものだったはずだが……どうして奴がここに居るのか。


 戸惑う俺、菊川、そして村雨組長をよそに、本庄はゆっくりと部屋の中へ踏み込んでくる。そして駈堂を見据えると笑みを浮かべながら声をかけた。


「遅れてすまんかったのぅ。駈堂さん」


「ああ、本庄組長。来てくれたのか」


 おいおい。これは一体、何たることだ。突然のことに認識が追い付かない。


 そんな中、村雨が低い声で本庄に問うた。


「貴様、何の用だ?」


 すると本庄はニヤリと笑いながら答えたのだった。


「うちの会長からのお達しでのぅ。あんたらの喧嘩の仲裁を仕切ることになったんや」


「仲裁だと? 左様なものを頼んだ覚えは無いぞ?」


「あんたが頼まんくても会長がそう言ったんやさかい仕方あらへんやろ。相変わらず三度の飯より喧嘩が好きなようやな。少しは落ち着くってことを覚えんかい」


 会長が仲裁を命令したとは。俺は話が見えず混乱するばかり。そんなこちらの様子に気付いたのか、本庄が苦笑を向けて来た。


「よう涼平。おどれも派手に暴れたらしいのぅ。こっちの身にもなって欲しいわ」


「はあ?」


 問い返した俺には答えず、本庄は改めて村雨組長に向き直る。そして彼はこう切り出したのだった。


「さて。今回の喧嘩やけどなあ。我らが中川恒元公は穏やかな形での決着をお考えや。あんたはさっさと人質を返して、先方から領地を返して貰うて、それで手を打てや。でもって喧嘩は止めや」


「……何?」


「聞こえんかったか。さっきの妥協案を呑んで手打ちを結べって言うとんねん。これ以上、喧嘩を続けるっちゅうんなら中川会二万騎が黙ってへんぞ」


 早急な手打ちを迫る本庄。しかも中川恒元の意思だというではないか。意味が分からない。まったく分からない。それは村雨も同じこと。


「戯言を抜かすな! 恒元公は我らにご加勢なさるとお約束くださったのだぞ!」


 されども本庄は軽く受け流して取り合わない。


「確かに助けるとは言うたが、中川会としてお前の喧嘩のケツを持つとは言うてへん。そもそも恒元公はそこの若造がおどれのドンパチに巻き込まれたのを大変お怒りや」


「馬鹿な。こちらには恒元公より頂いた親書もあるのだぞ」


「それに何て書いてあったんや。わしの聞いた話やと『麻木涼平が松下組に復讐を果たすのを個人として応援する』と。そいつの何処をどう読んだら中川会が味方に付くと読めるねん」


 本庄の言葉に村雨は唖然とするばかり。そんな村雨を見て本庄はこう続けた。


「お前は勘違いをしていたようやな。恒元公は『麻木涼平が村雨組と共に戦列に立つのを“応援する”』としか書いてへん」


 その一言で俺は全身が震える心地がした。ようやく認識が追い付いてくる。すなわち中川恒元にハシゴを外されたということだった。


「要は中川会はお前らの味方じゃねぇってことよ。どっちかといえば俺たちの味方だ。なあ、本庄組長?」


「あんたらの味方ってのともまた違いますぜ。駈堂はん。わしらは仲裁を行うだけ、誰の肩を持つわけでもありまへん」


「おいおい。この期に及んでその言い草はぇだろう。手打ちが成った暁にはうちの組長……いや、次の煌王会会長は恒元公と五分の兄弟盃を交わすって約束なんだからよぉ」


 本庄の言葉で全てが分かった。恒元は方針を変更したのだ。おそらくは長島体制の維持に執着するより、橘威吉が敷く新体制と良好な関係を構築した方が実入りがあると考えたのだろう。恒元は長島勝久に見切りをつけたということだ。極端なまでに打算的で利益第一主義者の恒元ならば大いに有り得る。彼の憎らしい笑みが脳裏に浮かぶようであった。


「ば、馬鹿な……!」


 未だ受け入れられぬとばかりに呆然自失となる村雨組長と俺。すると追い打ちをかけるように本庄が鼻を鳴らした。


「沼津に居た溝端とかいう若者を神奈川県沖の船の上までヘリで運んだのはな、何を隠そうこのわしや。橘組長に心を開いてもらう必要があったんだわ」


「何ッ……!?」


「橘組長も馬鹿と違うから『いきなり中川会が仲裁に出てくる』て言われても警戒するやろ。せやから手土産代わりに便宜を図ったっちゅうわけや。いやあ、苦労したで。ヘリは一回飛ばすだけでもけっこうカネかかるさかいのぅ」


「だったら、海に落ちた溝端を助けたのも……?」


「ああ。勿論わしや。涼平もえげつないことするのぅ。人に向かって大砲を撃つなんて。ま、別にあれで溝端が木っ端微塵になってもわしは別に構わなかったで。『何でも良いから便宜を図れ』っちゅうんが会長の命令やったさかいのぅ」


 話を聞いていた俺は身体の震えが止まらなかった。中川恒元は俺を村雨組へ派遣する一方、松下組には本庄に戦術支援をさせることで双方に恩を売ったのだ。全ては俺に伏せられていたという冷淡な真相が雷のように体中を痺れさせる感覚であった。


「まあ、うちの会長は少しでも旨味のある方を選びたがる御仁おひとや。おまけに昔から自分の胸の内は誰にも話さへん。おどれが知らんのも無理ない話や」


 俺は膝から崩れ落ちたのだった。そんなこちらをよそに駈堂が村雨に笑いかけていた。


「ってなわけだ。ここはさっさと手打ちを結んじまうのが賢い選択なんじゃねぇのかぁ、村雨ぇ。お前には女将様を匿ったくせに守り切れなかった落ち度もあるんだからよぉ」


「何を申すか。貴様らの仕業であろうッ!!!」


「おいおい。犯人呼ばわりは止めてくれよ。松下組うちは女将様が殺されたって話を聞いただけだぜ。情報通の中川会さんからなぁ。クックックッ」


 その駈堂の言葉で俺は全てを悟った。勢都子夫人を殺した犯人が誰であったか。頭の中をよぎった答えはあまりにも許せないものだった。


 静かな怒りに全身を沸騰させる俺と、俯く菊川。そしてその横で、村雨は激しい憤怒を絶叫で表明し、室内で大音声を響かせた。


「許さぬぞッ! 中川ぁぁぁーッ!!」


 されど、その直前。男の叫びが本庄に飛びかかろうとした彼を制止する。


「朋友!!」


 菊川だ。彼は村雨の腕を掴むと、その身体を必死に引き止めたのである。


「放せ! 菊川!」


「冷静になるんだ! 今ここでキミがこの男を殴ったところで何になる!? 僕らは煌王会のみならず中川会とも戦争をすることになるぞ!」


「……っ」


 菊川に諭され、村雨はようやく我に返るのであった。彼は駈堂を睨みつけるも、やがてゆっくりと手を下ろすと低い声で口を開く。


「……先ほどの話を呑むと致そう」


「ようし。これで手打ちは成立だ。そっちが辰也を返し次第、うちも伊豆を返してやるよ。裏切った旧斯波の親分衆はあんたに任せる。生かすも殺すも好きにしな」


 滝本組を始めとする旧斯波一家の代貸たちは松下組の調略で寝返ったというのに。いざ事が終われば責任を持たずに放り出すという駈堂。人様と交わした約束を平気で無かったことにする卑劣さに俺は憤りを隠せなかった。


 そんな様子を見て何を思ったか、本庄は笑う。そして彼は俺にこう言い放ったのであった。


「お前もまだまだ未熟やなぁ、涼平。裏切り、裏切られる、極道の世界じゃこれが当たり前やのに。背を向けられるんが嫌ならその相手を繋ぎ止めるだけの価値を用意せんとなあ」


「この野郎。俺をコケにしやがって」


「おいおい。俺は会長の命令に従って動いただけだぜぇ。まあ、でもよ……」


 そこで本庄は意味深に言葉を区切ると、嘲笑うように続けるのだった。


「……そもそも怒ること自体がおかしいんだけどな。お前は何処の代紋を担いでんだよ。中川の人間だったら会長が潤ったことを喜べや、馬鹿野郎が」


 一体、自分は誰に仕えているのか。そんな本庄の言葉に何も返せなかった俺であった。


 こうして村雨組と松下組が神奈川、静岡、愛知の3県を戦場に激しく争った『猿の乱』は両者が交わした停戦協定によって終結した。村雨組は捕虜とした溝端辰也を返還し、一方で松下組は伊豆の支配権を返すことで合意。この取引の履行をもって手打ちが成り立つという旨の約定書を12月28日中に署名したのであった。


 橘威吉が起こしたクーデター劇は橘の戦略的勝利で幕を閉じた。出身母体の桜琳一家に加えて村雨組という後ろ盾までもを失った長島勝久会長は引退し、遠からず橘が煌王会の新会長に就任する流れとなるであろう。


 俺としては納得の行かない結果だったことは言うまでもない。己の知らないところで中川恒元が勝手に敵と繋がって利益を得ていたのだから。味方にハシゴを外されるという経験を初めて味わった出来事だった。


 されど、それ以上に俺の心を砕いたのは他でも無い。村雨組長の言葉だった。


「……お前は存じておったのか?」


 駈堂と宝生、それから本庄が帰った料亭で俺は問い詰められた。


「いいえ。俺は全く」


「ならば何故にお前はここへ遣わされて参った!? 私を助け、共に鉄火場に立ち、敵を打ち破った! お前の働きを認めておったのだぞ!」


「本当に、何も知らなかったんです」


「私を誑かすためではなかったのか!?」


「違います! 俺は村雨組のために……」


「真に我らのためを思うのであれば、何故にあの場で本庄を殺さなかったのだ!?」


 村雨組長は食い下がったが、俺は何も答えなかった。そんなことが出来るわけがないではないか。会長側近である俺が、会長の命令で動いていた傘下組長を殺すだなんて。ただ、そんな俺の態度は村雨にひとつの答えを導き出させたらしい。やがて彼は俺を見ると冷ややかに言い放った。


「ああ。左様か。お前は中川の代紋を担いでおるのであったな。無粋なことを申した。忘れるが良い」


 そう吐き捨てると踵を返して部屋を出て行こうとする村雨組長。慌てて後に続こうとすると、振り返った組長が怒鳴った。


「ついてくるでない! お前は恒元公の忠臣なのであろう!? 代紋違いの男の背中を追うことは許されぬ身のはずだ!」


「っ……!」


 そんな組長の怒声に俺は思わず足を止めた。そして彼は冷たく言うのだった。


「もう二度とその愚かな顔を見せるな。お前とは会いとうない」


 12月28日の午後。村雨組長を助けるべく奔走した俺の出向任務は完了となった。このまま村雨組に居続けても意味が無いので、豊橋にて待機を続けていた酒井、原田と共に俺は東京へ戻る。


 武器を満載した、あのバンに乗って。


「……」


 虚ろな顔つきで窓の外を眺める俺に部下たちは何も話しかけて来なかった。彼らは事情を知らない。されども何かに気付いたのだろう。ただただ、車を走らせるタイヤの音に空気を任せるだけ。いつのまにか心身共に成長を遂げていた部下たちの配慮が本当に愛おしかった。どうやら彼らの育て方は失敗じゃなかったようだな。


「着きましたぜ」


 総本部の駐車場で車が停まる。俺は無言で車を降りると、吹き付ける冬の風が異様に冷たく感じた。師走の寒空は俺を嘲笑うかのように赤く焼けていた。


 豊橋での出来事を改めて思い返す。


 俺は村雨組長の不興を買った。そして、村雨組における立場を全て失った。持ちうる力を全て懸けて村雨を助けたというのに、俺は何ひとつ報われなかった。

 それどころか味方だと思っていたはずの中川恒元にも裏切られ、挙げ句の果てには村雨組長からも裏切り者扱いされたのである。


「……畜生」


 悔しかった。だが、それ以上に虚しかった。俺はいったい何のために戦っていたのか? そんなことを自問自答しながら玄関口へと歩いてゆく。


 頭をよぎるのは村雨への慕情、そしてもうあの場には戻れないのだという後悔と痛み。庭園の石畳を踏みしめる度、自分の中の自分にひびが入るのが分かった。


「……ッ!?」


 突如として激しい怒りが湧いてくる。それはまるで風のようで、自分の存在そのものを否定されたかのような憤りだった。


 俺にこんな思いをさせたのは誰だ。


 あの男だ。中川恒元だ。


 許さない。許せるわけがない。許してなるものか!


 次の瞬間、俺は走り出す。玄関へと続く中川会総本部の長ったらしい庭園を全力で駆け抜けてゆく。怒りをぶつけるために。


 懐の中へ突っ込んだ手には、拳銃が握られていた。あの野郎、よくも俺に屈辱を舐めさせてくれたな。絶対に殺してやる……!


 兎に角にも憎い。恒元が憎い。怒りに身を任せ、俺はは総本部の玄関へと走り込む。そして、階段を駆け上がり廊下を全速力で走った。


 ただただ、会長の待つ部屋へと。


 しかし、いざ恒元の執務室へ入ろうとした瞬間。一歩手前で俺の脚は止まった。どういうわけか歩み出すことができなかった。


 どうした。歩け。さっさと部屋に入れ。そして憎き男に引き金をひけ。俺の人生を狂わせた張本人を殺してしまうのだ。ひと思いに。


 俺は俺に命令を下す。


 されども俺の体が実行に移してはくれない。


 何故だ。何故なのだ。何故に凍り付いているのだ。あと少しで憎き仇敵を殺せるのだぞ。さすれば村雨耀介の所へ帰れるというのに。


 さっさと行け!!


 彼は怒りにまかせて思いのままにならぬ膝を殴った。しかし、どうにもならない。ただ激しい熱と痛みが拳と膝を覆うのであった。


「……っ!」


 気がつくと俺は泣いていた。涙で視界が霞む中、それでもなお足は竦んだまま。そして気付けば尋常ならぬ叫びを上げていた。


「うおおおおおおああああああああっ!!!」


 すると部屋の扉がガチャリと開いて恒元が出てきた。


「おおっ! 涼平!? どうしたのだね!?」


 どうしたものか。処理しきれぬ感情があふれ出しすぎて自分でも上手く言葉にならない。心と体、そして情緒が爆発的に沸騰しそうだ。


「……」


 けれども数秒の沈黙の後で俺の口は開いた。


「……いえ、何でもありません。ちょっと腹が痛くなっちまって。お騒がせしてすみませんでした」


 そう。俺の心は付け焼刃の嘘をつくことを選んだのだった。


「顔が真っ青だ! 大丈夫か!?」


「も、問題ありませんよ。横浜で食った飯が当たっちまったみたいで。もう痛みは引いて来ましたんでお気になさらず」


「ああ。それなら良いのだがね」


 あからさまに取って付けたような会話で無難に済ませた理由は何だろうか。この問いについてはすぐに仮説が立った。俺は中川恒元に忠誠を誓っているからだ。


 ついさっき殺そうとしていたのに。これはとんだ論理的矛盾だ。しかし、事実として俺は、恒元を殺すことはおろか傷つけることさえ出来ない。そんな行為は過去を自ら否定するも同然だった。ここで恒元に反旗を翻そうものなら、村雨耀介と訣別して中川会へ来ることを選んだ過去が間違いだったと認めてしまうことになる。それが途方もなく怖かったのである。


「あ、あの」


 俺は思わず恒元に尋ねた。


「ん? どうした?」


「……今回は本庄組長が煌王会との折衝の一切を仕切りました。俺はあなたのお役に立てたのでしょうか」


 すると彼は少し驚いたような表情を見せた後、優しく微笑んでこう答えたのだった。


「当然じゃないか。涼平が居なければ村雨を欺くことは叶わなかった。お前は我輩の宝物だよ」


 反射的な質問に対して返ってきた答えで安堵する俺。


 ああ。分かったぞ。こうすることで俺は自分自身を保っているのだ。恒元に忠誠を誓い、その意に従って裏社会を歩み続けることで、俺は「あの時の裏切りは村雨耀介のために正しかった」と自分を装飾している。自分を飾り立てることで逃れているのだ。村雨に背を向けた、償いきれない罪の意識から。


 日本に帰って来て以来、俺はずっと恒元の言われるがままに振る舞っている。たとえ己の意見があっても彼の命令とあらば心が停まった。会長と道を違えれば過去を否定することになる気がしていたのだ。


 そんな俺はこれからも虚飾の道を歩み続けるだろう。例えそれが間違っていとようと。誰のためでもない、俺が俺であり続けるために。


「ありがとうございます」


 深々と頭を下げる俺へ、恒元は優しく声をかけた。


「良いのだよ涼平。さあ、中に入りなさい」


「……はい」


 本当はすぐにでも帰ってしまいたい夜だったけれど、逆らうことなんか出来やしない。俺はそういう男だった。


「ああ。気持ち良かったよ。ご苦労だったな」


 恒元が俺の体から離れて夫人の待つ寝室へ向かったのが22時37分。痛む体に鞭打って起き上がり、脱がされた衣服を戻して執務室を出る。廊下を歩く途中で才原とすれ違って「ああ。恒元の命で長島勢都子を殺した犯人はこいつだな」と納得したのだが、追及してやろうという気はとっくに失せていた。


 恐ろしく腹が減っている。何かしらを口に入れたい気分だ。旋風のごとく襲い来る食欲に駆られて総本部を出て、漫然と歩くこと30分。


 辿り着いたのは『Café Noble』だ。特に意図していたわけではない。ただ、この時間帯も営業している馴染みの料理店といえばあの店だけだった。


「いらっしゃいませ」


 入店するなり出迎えてくれたのは、勿論あの娘。華鈴だ。彼女は俺の顔を見るなり驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑顔になって席へと案内してくれた。


「あっ、麻木さん! 久しぶりじゃない!」


 琴音とセックスをした一件以来、何だか疎遠になっている感があった華鈴。ゆえに会うのは少し勇気が要ったが前と変わらぬ反応で安堵した。


「久しぶり……と言えば確かにそうかもしれねぇな。ナポリタンが食いてぇ。頼めるか?」


「はーい!」


 俺はそれだけ言うとカウンター席に腰掛ける。店内は客でごった返しており、彼らの話声でサイフォンでコーヒーを煮立てる音が掻き消されてしまっていた。


 暫くして運ばれてきたパスタをフォークで絡め取る。


「美味い」


 思わず言葉が漏れた。やはりここの味は格別だ。


「ありがと。麻木さんったら、最近来ないから寂しかったんだよ」


「……すまねぇな」


 俺は適当に相槌を打つと黙々と食事を続けた。華鈴に対して生返事を返すことしか出来ない自分が何とも情けない。しかし、色々ありすぎてパンク寸前だった今の俺にはそうする他無かったのである。


 華鈴も歓楽街の喫茶店の看板娘。客の心情を見抜くことは容易い模様。俺に普段の饒舌さが無いことで大体の事情を悟ったか、少し経つと彼女は穏やかに言い置くと店の作業へ立って行った。


「ゆっくり食べていってね」


 華鈴と会うことで、絶望的に淀んだ気分を換えられると思っていたのだけれど。まあ、それはそれで良いだろう。矛盾も甚だしいが、この時ばかりは彼女の心遣いが嬉しかった。


 おかげで俺は師走に浮かれる客たちで賑わう店内の空気に身を委ねて寡黙に食事を取ることが出来た。

「まったく。今年は本当に色々ありましたなあ。株価はバブル期並みの水準に戻ったっていうのに俺たちの賃金は全然上がらない」


「それどころか物価高でますます苦しくなるばかり。挙げ句の果てに停電ですよ。泣きっ面に蜂とはこの事じゃないですか」


 手前のテーブルで語らうサラリーマン2人。世間的には仕事納めである12月28日。彼らは忘年会の帰りであるとすぐに分かった。見れば顔が真っ赤だ。かなり酔っ払っている。おそらくは妻子の待つ家に戻る前にこの店で茶を飲んで酒を抜きたいのだろう。

 彼らの自虐的な会話を聞き流しながら、俺は黙々とナポリタンを食っていた。


 師走の22時。いつもと変わらず『Café Noble』は客で賑わっている。華鈴が切り盛りするこの店は夜の街のオアシス。紅茶で酒を抜きたい酔客やこの辺りの店で働く水商売の関係者が常連として足繁く通うため、店内は常に満席状態なのである。夜の街は年末年始も眠らない。街が灯りをともし続ける限り、この店もずっと営業を続けるのだろう。


 やがて客足が引いて仕事がひと段落した頃、華鈴が俺に話しかけてきた。


「さっきのお客さんも言ってたけどさあ。こないだの停電、本当に大変だったんだからね。いきなり電気が停まってびっくりしちゃった」


「ああ。それは俺もニュースで観たぜ。あれから店は大丈夫なのか?」


 俺がそう尋ねると華鈴は眉根を寄せて答えた。


「それがさあ……停電が長引いたせいでオーブンが壊れちゃったみたいなの。先月は水が漏れたと思ったら今月は停電。踏んだり蹴ったりよ」


 電力会社のストライキに端を発する電力騒動は国全体を大きく揺さぶった。停電によって営業が困難になった店は多いと聞くし、もはや国の経済活動そのものが停まりかけたといっても何ら過言ではない。


「まあ、うちの店だけじゃなくて町全体が割を食ってるから文句は言えないけどね」


 俺は相槌を打つと、咄嗟に懐から煙草の箱を取り出すして火を付けた。


「……人生ってのは何なんだろうな」


「え?」


 唐突な問いに彼女はきょとんとした表情を見せる。当然だ。脈絡が無さ過ぎるのだから。しかし、俺は構わず続けた。


「どうして思うままにならねぇことばかりなんだろうなあ。最近はそう感じさせられることばかりだ。何をやっても空回りばかりでな」


 すると彼女は少し考えた後に返事を紡ごうとする。


「……うーん……そうねえ……」


 その反応から察するに、彼女もまた答えを持っていないのだろうと察した俺だったが、意味の無い話と分かってもなお、会話を続けることにした。どうしても今ここで聞いておかなければならない気がしていたのである。


 そして俺は求めたのだった。


「華鈴はどう思ってる? 良かったら聞かせてくれねぇか?」


 考え込んだ後、華鈴はゆっくりと口を開いた。


「うーん……そうだなあ、あたしは……」


 そして彼女は、少し間を置いてこう答えた。


「……そもそも人生に期待を抱いてないところがあるのかも」


「え?」


 華鈴は煙草をくゆらせる俺に向かって続ける。


「あたしは麻木さんみたいに何か特別な才能があるわけじゃないし、世界を回ったわけじゃないから偉そうなことは言えないけど。そんなあたしですら人生は思うようにいかないことばかりだなーって感じちゃうんだもん。きっとみんなそうじゃないかなあ」


 この娘にしては少しリアリスティックな答えが返ってきたので若干ながらも驚いた。しかし、華鈴らしいと云えば華鈴らしい考えなのかもしれない。


「あたし、10歳の時に親が離婚してから色々あった身でさ。お父さんがあんな風だから散々苦労させられて来たし……」


 正義の味方気取りの親を持つのも大変だ。この娘も色々とあったらしいけれど、それ以上に父のとばっちりを受けることも多かったろうと容易に想像がつく。


「だからかな。人生ってこんなもんなんだーっていう諦観みたいなものが心の中にあるんだよね」


 俺は黙って聞いていた。彼女の言葉のひとつひとつを噛みしめるように。所々にて相槌を打つ中で俺自身と重ね合わせてもいた。


「あたしはそもそも人生を思い通りにしようって努力自体しないかな。ただでさえ失望させられることの方が多いのに。無駄に期待を抱いたところで傷つくだけだよ」


「そうか……」


 俺はそう呟くと煙草を咥え直した。そして煙を深く吸い込むとゆっくりと吐き出す。


「……まあ、きっと誰もがそうだよな。すまねぇな。柄にもぇ弱音を吐いちまったな」


 華鈴はそんな俺の様子を見て少し心配そうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔になって言った。

「ううん。良かったよ」

「へっ?」


「麻木さんも弱音とか吐くんだーって分かってちょっと安心した」


「な、何だよそれ……」


 俺は思わず面食らった。この娘は俺を何だと思っているのか。


「前にも言ったことあると思うけど、麻木さんていつもクールだよね。何でも出来そうな感じじゃない? だからあたしなんかと違って悩みとか無さそうに見えてたからさ」


 確かに俺は常に冷静であろうと心掛けている。そうでなくてはヤクザなどやっていられないからだ。しかし、そんな俺でも弱音を吐くことはあるし、人並みには悩んだりもするのである。その感情が甘いということは百も承知。けれども俺は捨てられないのだ。人生における理想と執着を。


 きっとそれは傭兵として異国を渡り歩き、人が人であることを否定される本物の修羅場を心に焼き付けてしまったせいだろう。沢山の凄惨な光景を見たからこそ、俺は思ってしまう。魔界の中に在っても“人”であり続けたいと。


「……麻木涼平という人間が分からねぇ。どんなにクソみてぇことも平然とやってのけるのに、自分にはいっぱしの人の心があるもんだと思いたがる。俺の両手は血と泥で汚れきってるってのにな」


 吸い終えた煙草を灰皿で擦り消し、俺はさらに続けた。

「きっと汚名を着る覚悟がぇんだろうよ。組の操り人形であることを嫌がる割には、その立場に自ら胡坐をかいてのかもな」


「それはどうして?」


「何もかもが会長の命令ってことにしとけば、人の道を外れた自分が本当の自分だと認めずに済む」


 消し終えた煙草の匂いが辺りに立ち込める。脳裏をよぎったのは村雨組を裏切った日のこと。要するに俺は過去の自分が間違ったことをしていないと言い張りたいだけなのだ。まったくもって情けない。我ながらに恥ずかしさで胸が張り裂けそうになる。


 そんな俺の様子を黙って見つめていた華鈴は、やがて優しく微笑みかけた。


「まあ、皆そんなところじゃないかな。どうありたいかで悩むのは人として当然のことだよ」


 人として当然。それすなわち悩むのは人間らしい感情ということ。なるほど、こんな俺にも未だ残っていたかと苦笑がこみ上げてきそうになる。


 ただ、一方でそう思えば尚更に寂しさが胸の中で渦巻いた。


「もしかしたら今日がラストチャンスだったかもしれねぇな。操り人形から人間に戻るための。過ぎたことはどうにもならねぇんだけどよ」


「うーん、中川会のことはよく分からないけど。麻木さんは麻木さんが思ってるほど嫌な人じゃないと思うよ。少なくともあたしにとっては良い人だもん」


「……ありがとよ」


 俺はそう呟くと、華鈴の淹れた紅茶を啜った。


「美味いな」


「でしょ?」


 華鈴は得意げに笑う。

 この娘も随分と変わったものだな。出会った頃はもっとツンケンしていたというのに。まあ、それは俺も同じか。


「過去の全てが誇らしい人なんていないと思うよ。それこそ、あたしだって誰かに笑って話せるような子供時代は過ごしてない。小さい頃から上手く行かないことの連続だった」


「だとしても、お前はすげぇと思うぜ。自分なりに過去に整理をつけて前を向いて生きてるんだからよ。いつまでも昔を引きずってる俺とは大違いだ」


「整理なんかつけてないよ。あたしはただ、逃げ続けてるだけ。背を向けて。蓋をして。誤魔化して。そうしないとやってられないからさ……」


 華鈴の云う過去とは何だろう。一体、何から逃げ続けているというのだろう。明るく振る舞っている彼女の心の闇の一端に触れた気がした。


「お前も過去に色々あったんだな」


 それ以上は何も言わなかった。いや、言えなかったと言った方が正しいのかもしれない。何故なら華鈴の抱えている闇はあまりにも深くて重いものだと想像が付いたから。俺のような他人が簡単に踏み込めるわけがない。自分のことで精一杯の俺にそれをやるだけの包容力は無かった。


「うん。色々とままならないことばっかりだけどさ。お互い、気張ってこうよ」


 微笑みをくれた彼女の言葉が嬉しい。慰められたわけでもなければ激励されたわけでもない。たった一言、“お互い”という言葉だけで何かが軽くなった。孤独感か。もしくは胸を縛り付ける憂いが和らいだような気がした。確証は無い。けれども漠然ながら「俺一人ではない」という認識を得られた心地である。


 段々と表情が明るくなってゆくのが分かる。ヤクザの癖につくづく単純だと自分でも嫌になるが今日くらいは何も考えずに受け流すとしよう。


「ああ、そうだな」


 そして俺たちはしばしの間、他愛も無い話に花を咲かせたのだった。


「……」


 やがて客足が途絶えると店内には俺と華鈴の2人だけになった。気付けば23時50分。もう店仕舞いの時間だ。


「まあ、こんなあたしだけどさ。あたしなりにやりたいこともあるんだよね」


「へぇー、どんなことだ?」


「簡単に云えば人助け。この街で困ってる人に一人でも多く手を差し伸べたいって思うんだ。これまでやってきたように」


 俺は感心しながら頷いた。彼女の正義感は本物だと感じるし、その理想には素直に尊敬の念すら抱いた。


「別に特別なことじゃないよ。ただ自分に出来ることをやってるだけだからさ」


 華鈴が照れ臭そうに言うのを見て、俺もまた自然と笑みがこぼれた。華鈴であればきっと果たせるであろうと思った。しかし同時に、どこか寂しさも感じていたのもまた事実である。何故なら彼女は俺とは違う社会の人間なのだ。いや、そもそも俺には華鈴のように理想を抱くことさえ許されないだろう。所詮は組の操り人形でしかないのだから。


「でもさ、あたしっていつも空回りばっかりで上手く行かないんだよね」


 彼女はそう言って苦笑したが、その姿勢こそが何よりも尊いものだと俺は思うのだ。


「そんなことはないと思うぜ。お前はお前なりに頑張ってるさ」


 俺の言葉に対して華鈴は恥ずかしげな様子だったが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。


「そう言ってくれると嬉しいよ、麻木さん」


「俺には応援することしかできねぇからな。こないだ別府くんだりまで出かけてったみてぇに、手伝えることがあったら手伝わせてくれや」


「ありがとう。麻木さんは何かやりたいこととかあるの?」


「いやあ。俺にはぇな。ヤクザが夢を見るなんざ思い上がりも甚だしいからな」


「そっか……」


 華鈴は煙草を咥え、ゆっくりと火を点けてから言葉を吐くのだった。


「……でも、麻木さんならどんな理想もきっと叶えられると思うよ。だって強くて優しい人だもん」


 俺は思わず笑ってしまった。彼女が本気でそう考えていることは分かっていたが、それでも可笑しかったのだ。自分自身がいかにろくでもない人間かを知っているから尚更であろう。それでも彼女は真剣な視線を向けてくる。その真っ直ぐな瞳に射抜かれて俺は少しドキリとした。そして同時に思ったのである、何かしら理想を抱いてみるのも良いかもしれないと。


「ありがとな。華鈴」


「うん!」


 華鈴は満面の笑みを浮かべて頷いた。その無邪気な笑顔を見ていると不思議と心が温まる気がした。しかしながら、彼女に対して抱くこの感情は一体何なのだろう。


 恋愛感情と呼ぶほど下品ではない。しかし、ただの友情とも違う気がするのである。では一体何なのかと問われても答えようが無いのだが……。


 俺は勘定を支払うことで物思いを中断した。閉店時間はとっくに過ぎている。あまり長居しすぎても華鈴を困らせるだけだろう。


「また来てね。麻木さん」


「おう。今度はペペロンチーノでも食わせてくれや。おやすみ」


 華鈴の懐の深さと優しさに救われた夜だった。

まさかの裏切りで疲弊しきった涼平。もう村雨組には二度と戻れない。それでも彼は中川恒元に尽くすのか……?

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