豊橋大亀の戦い
川崎港に泊まっていた松下組の船を俺たちがたった三人で爆沈させた――この出来事は裏社会を大いに驚かせるのに十分だった。
無論、それは横浜とて同じ。日暮れの後に屋敷へ戻ると、待っていた政村は怒り心頭といった様子で出迎えた。
「おいっ! お前ら! 何を勝手なことしてるんだッ!」
どうやら自分に相談も無しに俺たちが松下組を奇襲したのが気に食わなかったらしい。政村は俺の胸ぐらを掴むと、凄まじい形相で睨みつけて来た。
「俺は組長から留守を預かってるんだぞ!? その俺を差し置いて突っ走るたぁどういうつもりだゴラァ!!!」
「ごちゃごちゃうるせぇよ。そういう情報を入手したから出来る範囲で片を付けただけだ。文句を言われる謂れは無い」
「お前! この俺を蔑ろにする意味が分かってんのか!?」
「だから、うるせぇっての。そんなにご不満ならあんたがやれば良かったじゃねぇか。中国人と揉めた時にビビッて逃げた奴が偉そうな口を叩くな」
「……っ!?」
俺の反論を前に政村は黙った。奴の弱みは完全に握っている。組長に言い付けられるのを恐れたのか、それ以上は何も言い返してこなかった。
代わりに俺に連絡事項を伝えたのは恰幅の良い男だった。
「お疲れさまでございます、麻木様。同じ渡世の者として惚れ惚れするご活躍でございましたよ。お見それいたしました」
村雨組代貸柚月組若頭、坂崎義盛。柚月の腹心で彼が組を立ち上げた時から忠実に付き従う子分中の子分という。ちなみに柚月より15歳も年上であり彼とは半ば『御曹司と執事』のような関係を築いているのだとか。
「どうも」
そんな坂崎の言葉に俺は鼻を鳴らす。すると奴は俺に言った。
「しかし麻木様。あのような無茶は今後は控えて頂きたいものですな」
「……無茶って松下組の船を沈めたことか?」
「ええ。上手くいったから良いものを。あのように大それた真似をされては我が主のみならず村雨組長も心配されます」
まったく親分に似て説教臭い男である。俺が軽く「はいはい」とあしらうと、奴は続けて言った。
「村雨組長からの伝言でございます。『今宵のうちに伊豆まで参れ』とのこと。恐れ入りますが、麻木様には伊豆の沼津にて村雨組長御一行と合流されたし」
沼津には村雨組の本隊が布陣している。そこへ俺も加われということなのだろう。大仕事を成し遂げた後で少し疲れているが命令とあらば仕方ない。
「分かったよ。受諾した。あんたは来ないのか?」
「恐れながら。私は柚月より横浜での待機を仰せつかっておりますゆえ」
「なるほど」
坂崎が横浜に待機している理由は単純明快。いつ裏切るとも分からない政村の抑えだ。この男の不穏さは村雨も薄々感じ取っているのだろう。
しかし、そうであれば何故に政村を留守居役に置いたのだろう。忠誠心を測っているにせよあまりにもリスキーな賭けだ。残虐魔王の真意が読み取れなかった。
「ところで麻木様。あなた様が出くわしたという中国人は村雨組が未だ横浜に留まっていると思っていたのですか?」
「ああ。そうだな。少なくとも徐明鷹って野郎はそう考えてたみたいだぜ」
「ふむ……松下組の溝端までもがその認識だったとなると、奴らが一体どこから情報を得ていたのか気になりますな」
少し考え込む仕草を取った後、坂崎は言った。
「まあ、私の方で調べておくとしましょう。ではこれで失礼致します。伊豆でのご武運をお祈りしておりますよ」
坂崎はそう言って俺に一礼すると、部屋を出て行く。俺としても政村が幅を利かせる村雨邸に長居するのは気が引けたので部下たちにさっそく声をかける。
「お前ら。疲れてるところ申し訳ねぇが次の仕事だ。伊豆へ行くぞ」
酒井も原田も疲れた様子は微塵も無かった。先ほどの喧嘩で大暴れしたばかりだというのに、まだ暴れ足りないと言わんばかりの表情だ。
「はいっ! 次の鉄火場が俺たちを呼んでいますぜ!」
「うっす! 今度は喧嘩の天王山ってことで、いつも以上に大暴れしますよ! 楽しみっす!」
2人は口々に言いながら準備に取り掛かる。俺はそんな部下たちの様子を満足げに眺めながら思うのであった。最近ますます気合いが入ってきたなと。
それから旅支度を済ませ、総本部から届けられたバンで東名高速に乗り、西へ向かって走り続けること1時間50分。俺たちは沼津へと着いた。
静岡県沼津市。伊豆半島北部に位置するこの海辺の街は古くから貿易港として栄えてきた。北条氏綱の時代から現在に至るまでそれは変わらない。
国際色豊かな街並みと、美しい海が観光客を魅了するこの地域には数多くの外国人の姿が見られるという。そんな洒落た街の一角に村雨組の陣屋はあった。
「遅いぞ! 涼平! さっさと参れと申したのに何をしておった!?」
狩野川に程近い蛇松町の拠点に着いたのが22時過ぎ。無論のこと俺たちは何処にも寄り道せずに直行してきた。むしろ横浜から沼津までの移動時間としては短い方なのだから労って頂きたいところ。
まあ、村雨組長のせっかちぶりは今に始まったことではない。6年前からどんなに急いで駆け付けても必ず「遅いぞ!」と怒られたものだ。
懐かしさに浸りながら俺は苦笑する。
「すみません。いやあ、これでも急いで来たんですがね。強いて遅刻の要因を挙げるとすれば昼間の疲労が溜まってたことでしょうか」
「情けないことを申すな。あの程度の喧嘩で極道が疲れを知って何とする。もっと気張らぬか」
冗談交じりに弁明を投げたら真面目な顔で叱咤された。相変わらず厳しい御仁である。彼に付き合わされる村雨組の面々に俺は些かの同情をおぼえてしまう。
「……時に涼平。松下組の搦め手を討ち取ったそうだな。大義であったぞ」
「ありがとうございます」
すると、そこへ沖野が話しかけてきた。
「ったくよぉ。ちょっと会わねぇうちに随分と喧嘩下手になったみてぇだなあ、麻木ィ。ロケランを撃ち込んで船ごと沈めちまうなんて」
「敵の心を砕くにはひでぇやり方で負けを舐めさせるのが一番だ。自分たちが乗って来た船が派手に沈んだとなりゃ川崎へ入り込んだ連中も気が滅入るだろう」
「テメェのせいで海保に大枚の賄賂を流さなきゃならねぇ! あれを単なる沈没事故として処理するのにどれだけの費用が要ると思ってるんだ!」
「じゃあ、俺のやり方以外でどうやって海から来る侵略者を返り討ちにできたよ。言ってみやがれ」
「ああまでする必要は無かったって話だよ! このキチガイ野郎! 船に乗り込んで中の奴を片っ端からぶっ殺せば済む話だった!」
「そんな甘っちょろいやり方じゃあ何の揺さぶりにもならねぇ! 戦争ってのは敵の戦意を削いでナンボなんだよ! 俺は元傭兵として……」
互いの考えを言い合っているうちに村雨組長が苛立ったらしい。彼は座卓を力強く拳で叩くと声を荒げた。
「止めよ!」
組長の一言でその場は静まり返る。そこへ組長は言った。
「喧嘩は後にせよ。今は同輩で争っておる時では無かろう」
せっかくの武勲を否定されて俺も腹が立っていたが、魔王の形相で睨まれては折れる他ない。一言だけ「失礼いたしました」と述べると素直に引き下がった。そんな俺を酒井と原田が不満げに迎えた。
「あんな言い方しなくたって良いじゃないですか。次長は村雨組のためにやったってのに。何様のつもりなんでしょうね」
「そうっすよ。大体、兄貴は敵の大将を討ち取ったんですぜ。もっと褒め称えるのが極道としての筋じゃねぇんですか」
彼らを嗜めながら、俺は呟く。
「……まあ、悔しいんだろうぜ。本来は自分が獲るべき手柄を客分に奪われたことが。あいつも変わらねぇよ」
沖野とは昔から反りが合わなかった。俺のする事、為す事に、何かといえばケチをつけてきて、大抵は口論から殴り合いへと発展する。奴とは命を賭けた殺し合いをしたこともあった。あの男に斬り付けられた腕の傷は未だに残っている。やられた痛みを今の今まで忘れたことは無い。
きっとこれからも沖野とは衝突と摩擦を繰り返す仲にしかなれないだろう。剣豪としての彼を尊敬しているだけに、そう考えると些か口惜しかった。
「ふう。あの雰囲気じゃ暫く中川勢に出番は無ぇみてぇだし、とりあえず今は休んでおくか。休息は取れる時に取っておくのが戦場の鉄則だ」
話題を変えるように吐き捨てた俺の言葉に部下たちは同調する。
「いいっすね! こっから先は村雨組だけで何とかしてくれるようですからね! 俺たちは寝ちまいますか!」
「さっすがは兄貴! 本物の戦場を渡り歩いた元傭兵の言うことは違うなあ! すっとついて行きますぜ!」
彼らが村雨組長と沖野に聞こえるような声量で反応したもので俺は少し不安を覚えたが、特に揉め事は起こらなかったので良いとしよう。
それから俺たちは休息を兼ねた待機時間に入った。割り当てられたのは大部屋の一角。イ草の香りがほのかに漂う畳の和室だった。
例によって狭い空間でため息がこぼれるが、組長を除いた全員が大部屋に収容されているから文句は言えない。というのも、ここは蛇松町五丁目にある村雨組代貸『滝本組』のフロント企業が経営する温泉旅館。沼津にやって来た村雨組一行のために、善意で部屋を用意してくれたのだ。
「あー、疲れた」
俺は大の字になって寝転がる。本音をいえば全館貸し切りにして一人につき一部屋ずつ通してもらいたいところだが、それをやらないのは村雨組長の配慮。「自分たちの勝手な都合でカタギの客を追い出すのはしのびない」とのこと。まったく。変な所で優しさを見せるんだよな、あの人は。一緒にデパートのファミレスに出かけた6年前の時も、確かにそうだった。
くだらぬ懐古に耽っていたら腹が減ってきた。この旅館は経費削減のため素泊まりの客しか受け入れていないようで、食事を取りたいなら近所にあるコンビニへ行かねばならないらしい。この時間帯に出かけるのは億劫だが空腹には勝てない。
「おい。酒井、原田。今からちょっと出て来るけど。何か食いてぇものはあるか。買ってきてやるよ」
俺は畳の上で寝転がる部下2人に声をかける。すると、酒井が答えた。
「次長! 俺が行きますよ!」
原田も続けて言った。
「何言ってるんですか! 俺たちが行って来ます!」
2人の気持ちは嬉しいのだが、この日は大いに奮戦してくれた彼らに労いがしたかった。それにコンビニまで片道5分足らずで着くし、往復しても10分だ。大した手間じゃない。
「いや。いいっての」
そんなやり取りをしている最中、突如として甲高い音が響いた。
――バリィィン!!
何かが弾けて割れるような音。俺たちだけでなく、その場にいた村雨組の全ての組員が顔を見合わせた。
「何の音だ?」
「まさか!」
俺は一瞬で何が起きたか予想が付いた。おそらくは敵の仕業だろう。こちらを挑発する意図で窓ガラスに銃弾を撃ち込んだのだ。
「借りるぜ!」
咄嗟に近くに置いてあった散弾銃を手に取り、俺は大部屋から飛び出した。
「ちょ、ちょっと! 次長!」
「どこへ行くんすか!?」
酒井と原田が慌てて後を追ってきた。彼らを連れて音の聞こえた方へと駆け付けると、廊下の窓ガラスが粉々に砕かれていた。
そして、問題はその犯人だ。割れた窓を開けて外を見やると、そいつは旅館の前に堂々と立っていたのである。宵闇の中でも存在感のある派手なスーツを着た男だった。
「何者だ?」
すると男が高らかに叫ぶ。
「滝本の親分からの伝言だ! 俺たち滝本組は今日限りで村雨耀介を離反し、松下組に着く! よってお前らには沼津を出て行ってもらうぜ!」
耳を疑うような言葉であるが、要旨は分かった。どうやら村雨の傘下にあった滝本組が松下組に買収されたらしい。先ほどの銃弾はその訣別表明というわけか。
「マジで言ってるのか?」
「ああ! そうだとも!」
不敵に笑い、滝本組の組員が続けた。
「お前らには明日まで猶予をくれてやる! それまでにこの街から出て行け! 言っておくがこれは伊豆半島の全組織の総意だぜ! もう伊豆は村雨の植民地じゃない! 伊豆のことは伊豆の者たちの手で決める! 橘威吉公はそう約束してくれた! 文句があるってんなら松下組に……」
――ドンッ!
長ったらしい能書きは聞きたくも無かったので、俺は引き金をひいて制止した。もちろん、相手の体に狙って弾を当てたりはしない。
「ひえっ!」
アスファルトに着弾した弾丸に驚いたのか、滝本組の組員は情けない声を上げて尻餅をついた。俺はその様を見て嘲笑する。
「おいおいおい! まさかこの程度の脅しでビビってんのかよ! ヤクザが聞いて呆れるぜ!」
そんな俺の言動に腹を立てたのか、組員は立ち上がると大声を張り上げた。
「な……何しやがるんだテメェ!!」
「それはこっちのセリフだ。いいか? よく聞けよ?」
俺は銃口を男に向け直し、凄みのある声を放った。
「帰って滝本って野郎に伝えろや。村雨組を裏切ったことを後悔させてやる。血を見るのが嫌なら明日までに稼業を引退するこったな」
そしてまたもや銃弾を放つ。
「ひええええっ!!」
滝本組の使者は後ずさるように逃げて行った。
「ふう。これで一安心だな」
俺が呟くと酒井が言った。
「いやいや! 次長! 全然大丈夫じゃないですよ!」
「そうですよ! マジでヤバいんじゃないですか!?」
原田も続くようにそう言った。確かに滝本組の組員は松下組への鞍替えする表明していた。つまり、それはこの沼津市が敵の領土になったことを意味する。
「まあ……確かにそうかもな……」
すぐさま緊急会議が催された。沼津には村雨組長と共に菊川、沖野、柚月の3幹部が来ており、先んじてこの街に入っていた芹沢は「元の鞘に戻るよう滝本組を説得する」と言って旅館を飛び出して行った。よって、組長の部屋に集まったのは前述の3名に加えて俺という顔ぶれである。
「まさか滝本が裏切るとは思わなかったぜ。おまけに離反は旧斯波の親分衆の総意ってなると村雨組は丸ごと伊豆半島を松下に奪われたことになる」
「僕らが伊豆に来た時点で、既に滝本は松下組の調略で寝返りを決めていたわけですか。わざと餌を巻いて標的を誘き出すつもりが。先に餌を食べられてしまうとは」
「あとは芹沢の叔父貴が何とか説き伏せてくれるのに賭けるしかないな」
顔をしかめる沖野と柚月に村雨組長が言った。
「きっと無理であろうな。滝本も斯波の手下であった男。芹沢が説得したとて私への叛意を捨てることはあるまい」
「しかし、組長! このままでは沼津だけじゃなくて伊豆全体が松下組のシマに……!」
「慌てるな沖野。まだ負けたわけではない」
「ですが……」
沖野に加えて柚月も焦燥の色を募らせる中、村雨組長が言った。
「ひと先ずは横浜へ引き揚げるとしよう。滝本が橘へ寝返ったということは、この街の警察も敵にまわったということ。いつまでも沼津におっては捕まってしまうゆえ」
そんな会話を聞きながら俺は考えていた。一体、滝本はどのタイミングで離反を決めたのか。村雨が沼津への布陣を決定した時には未だ奴は味方であったはず。水面下で裏切りを準備していたという見方も出来なくはないが、それにしては流れがおかしい。調略が行われたなら松下組の使者が沼津を訪れているはず。溝端は横浜に居たのに、誰が滝本を唆したのか。
「ようし! とりあえずは撤退だ! 各員、速やかに荷物をまとめて引き揚げの支度にかかれ! いつ警察が踏み込んでくるとも限らない! 横浜に帰るよ!」
菊川が号令をかけ、幹部たちは各々の持ち場へ戻って撤退の準備へと入った。俺も止む無く帰り支度をするべく部屋を出ようとした時。
「涼平。暫し、これへ」
組長に呼び止められた。
「何でしょうか?」
幹部たちが部屋から出て行ったのを見計らった後、組長が小声で俺に語り掛けてくる。
「どうにも臭う。こちらの出方が向こうに漏れておる気がしてならんのだ」
突如として村雨の口から出た言葉に俺は戸惑う。一瞬は聞き間違えたとも思ったが決して間違いではない。組長は確かに言い放ったのだ。
「それってつまり? 内通者がいるってことですか?」
「左様」
小さく頷き、村雨は続ける。
「お前は溝端が川崎の船の上に居ったと申したが、奴は私の留守を狙って神奈川へ参ったのだ。私が伊豆へ赴いた隙を狙われたとしか思えぬ」
溝端は村雨組が横浜に留まっていると思い込み、奇襲によって早急に戦争の勝利を決するべく海からでやって来た――そう睨んでいた俺。だが、村雨の推理は違った。
「溝端の狙いは我が組を叩くことに非ず。女将様である」
「女将さん!?」
「うむ。女将様さえ召し捕ってしまえば、奴らは我が組を賊軍に貶めることができよう。ゆえに私が伊豆へ出かけて横浜の守りが手薄になったところで攻め寄せたのだ」
村雨組は『勢都子夫人を守る』という大義名分を旗印に戦っている。極道にとって親分の配偶者=女将の存在は絶対的。そんな謂わば錦の御旗があるからこそ、橘に取り込まれたはずの各地の煌王会系列組織が村雨に表立って刃を向けて来ないのである。それが今回の戦争で村雨組が煌王会全体を敵にまわさずに済んでいる理由だった。無論、逆の事も考えられる。
「松下組にとって女将様の身柄を押さえるは勝つために決して欠かせぬ。女将様を手元に置けば、橘は煌王会の全ての貸元へ私の討伐を命令できるのだ」
「だから松下組は真っ先に女将さんの身柄確保をはかったってわけですか? 海からの奇襲の本当の狙いは村雨組の壊滅じゃなくて、女将さんの確保だったと?」
「ああ。溝端は阿呆だが恐れ知らずではない。この村雨耀介と正面からぶつかればどうなるかくらい、分かるであろう」
たとえ大兵力で攻めかかろうと、村雨は一騎当千の侠。残虐魔王と交戦した侵略部隊は甚大な打撃を被り、下手をすれば自分も危うくなるかもしれない。それは溝端でなくとも誰であろうと容易に想像が付くことで、真っ当な感覚を持ち合わせていれば正面衝突は避けたいと思うのは確かに無理からぬ話だ。
「しかし、大軍勢を送り込んできた理由が、たかが人ひとりの身柄を押さえるためだったなんて」
「国と国の争いは相手方の兵を一人残らず討つまで終わらぬ。なれど、極道の喧嘩は違う。軍勢を従わせる馬印が落ちれば、その時点で勝敗は決するものだ」
「そういうもんですかね……」
「まあ、かつて本物の戦場に居ったお前には分かりづらかろうよ。人はお前が思うほど勇猛果敢ではないのだぞ。溝端とて武功を欲するがゆえに堅実な策を選んだのであろう」
「正面から戦って武力で村雨組を打ち倒すより、女将さんを確保してこちらを詰み状態にした方が簡単かつ安全だと踏んだわけですか。戦略という点では分からなくもありませんが」
溝端が海へ出た真意のほどはさておき、問題は奴がどのような経緯で残虐魔王の横浜不在を知ったか。村雨はこれが組内部からのリークによるものだと睨んでいた。一言で云えば情報漏洩、つまり村雨組の中に敵の内通者が存在するというのである。
「横浜を出立する前、私は風聞を流し情報の攪乱を行って参った。『村雨耀介は横浜で守りを固めておる』とな。松下組にこちらの動向を悟らせぬためだ」
「組長のご推察の通りであれば、村雨組との衝突を恐れた溝端は横浜に行こうとはしないはず……にもかかわらず、あの男は船で横浜に来た。女将さんを捕らえるために」
「そうだ。誰かが溝端に私の本当の出方を伝えたとしか思えぬ。それに先ほど陣屋が襲われたのも臭う。滝本は知らぬはずなのだ。この宿に村雨組が陣を敷いていることをな」
組長は低い声で断言した。溝端の件はともかく旅館襲撃の話は確かにキナ臭かったので、俺はその説を否定できない。よくよく考えてみれば村雨組が沼津に入ったこと自体を滝本は知らないはずなのに、タイミングを計ったように離反表明を行うのはあまりにも不自然である。
だが、一体誰が裏切ったのか。
村雨によれば組の作戦行動について一昨日の時点で事の子細を知っていたのは菊川、芹沢、沖野、柚月、政村の5名。その中の誰かが内通者ということになる。
「涼平。お前に折り入っての頼みがある」
「まさか俺に内通者を探せっていうんじゃ……」
「そのまさかだ。頼めるか」
おいおい。待ってくれ。俺だけを引き留めてこんな難しい話を振って来たので何となく想像はしていたが、おいそれと引き受けられる依頼ではない。
「いや、でも俺はあんたの盃を呑んだ子分でもない中川会の人間ですよ。そんな部外者に任せて良いんですか」
「部外者なればこそだ。お前は中川会から参った客将。この組の内情を熟知しており、それでいて物を俯瞰で考え得る立場に在る」
「……買い被り過ぎですよ」
「いいや。私はそうは思わん。お前なら必ずややり遂げてくれると信じているぞ」
期待されても困る。だが、俺に断るという選択肢は無かった。きっとそれは6年前に村雨の期待を裏切ってしまった悔恨の念ゆえの安請け合いだろう。
「それで? 裏切り者を探し出したら、その後はどうすれば良いので? 流石に処断するところまで俺がやったら問題になりますぜ?」
「無論そうまでせずとも良い。お前はただ、敵と通じておると思しき者を私に教えるだけで良い。事を荒立てずに名前だけをな」
村雨は懐から煙草を取り出し、金色のライターで火を付ける。そして口を付けるとゆっくりと味わうように吸い込む。
「……」
立ち上る香りが室内に充満し始めた時、彼は言った。
「……その者が誰であるか。私は既に当たりをつけておる。己の見立てが当たっているか否かを知りたいだけだ」
村雨は組を率いる長。親分として当然ながら子分達には信頼を置いていよう。内通者が出たということはそんな子分の内の誰かが信に背いた事実を示す。彼の心情を思うと何とも胸が苦しくなる。そんな悩ましい状況の中でも冷静に物事を考えられる器量こそ、親分たる所以なのだろう。俺は無言で煙草を吸い続ける旧主を黙って見つめ続けることしかできなかった。
「涼平。暫し下がって良いぞ」
「分かりました」
少し一人になって考えたいらしい。俺は言われるがままに一礼すると、そそくさと部屋を出たのであった。
とはいえ、特にすることも無いので廊下を眺めるばかり。この旅館に中川勢が持ち込んだ荷物は少ない。だが、それとは対照的に村雨組の連中は帰り支度を済ませるべくそそくさと歩き回っていた。
「おいっ! 拳銃は二重底の箱に仕舞っておくんだぞ! 伊豆を出るまでの道中で職質をかけられるかも分からないんだ!」
部下たちに檄を飛ばすのは菊川。組の実務を取り仕切る若頭らしく機敏に働いている。ただ、所々で彼の仕草が気になる。手に持っている携帯で何をしているのだろう。まさか彼は裏切り者で、敵方と密かに連絡を取り合っているのか。いや、先入観はいけない。ただ単に横浜の留守居役にメールを打っているだけなのかもしれないのだから。
「ったくよぉ! これから暴れようって時に撤退なんざ冗談じゃねぇや! 少しくらいは剣を振らせてくれよなあ!」
そう言って素振りを始めたのは沖野。彼は自らの組『沖野組』を率いているようで、面倒事は全て直属の子分達に押し付けて自分は呑気に過ごしている模様。まったく良いご身分だ。彼が内通者という線も無いわけではない。いや、むしろ有り得る。ああいう単純そうな奴に限って腹の底では何を考えているか分からないものだから。無論、先入観はいけないのだが。
「ちょっと! 沖野の兄貴! 少しは手伝ってくださいよ!」
「ああ!? 何で俺が手伝わなきゃいけねぇんだよ! そいつはテメェの組の持ち場なんだから関係ねえだろうが!」
沖野に不満をぶつけて言い合いになったのは柚月。同じ若頭補佐でも大雑把な兄貴分とは正反対。彼のような几帳面で神経質な人物こそ、内通者と呼ぶには相応しい条件が揃っているではないか。思えば先ほどから柚月は廊下に出ては窓の外をチラチラと見ている……いやいや、先入観はいけない。ただ純粋に敵襲に警戒しているだけかもしれないのだ。
まったく。気になって仕方が無い。内通者だと思えば全ての幹部たちが怪しく思えてしまう。そういえば横浜には政村が居たではないか。そうだ。あいつこそ最も内通者という雰囲気を漂わせている。現に俺を奸計で陥れようと企んでいたわけだから……。
そんな堂々巡りの考証を頭の中で繰り広げていた時。不意に部屋の扉が開いて組長が出てきた。
「皆の者!」
彼の声に一同が静まり返る中、言い放たれたのは思いもよらぬ命令だった。
「旅支度をいたせ! これより我らは豊橋へ赴く!」
「豊橋!?」
思わず聞き返した俺に対し、村雨は頷いた。
「左様。あの街に陣を敷き直し敵の全兵力を引き付けて叩き潰す。我らが劣勢を挽回するにはそれしか無いのだ」
意味が分からなかった。何故に豊橋なのか。6年前の戦争であの街が村雨組の領地になったことは知っているが、伊豆はどうするのだろう。
そんな俺の当惑を代弁する男がいた。沖野である。
「ちょっとちょっと! 組長!」
若頭補佐は慌てたように村雨へ質問を浴びせた。
「今から豊橋に行くって、一体何をお考えなのです!? そもそも豊橋は放棄するとお決めになったじゃありませんか!」
「うむ。状況が変わったのだ。伊豆を敵方に押さえられた以上、我らが戦える場所は最早豊橋を置いて他には無い」
「いやいや、陣を敷き直すにしたって何も豊橋じゃなくても……」
村雨組は橘との関係が緊迫した今月上旬の時点で豊橋を放棄。その情報は一応俺も把握していた。放棄の理由は豊橋が敵の総本拠地たる名古屋とあまりにも近すぎており、横浜を始点に考えて場合に補給線が伸びすぎることが懸念されたからだ。
事実として豊橋は既に松下組の手に落ちているというではないか。
だが、村雨は本気で豊橋に向かうべきと主張する。彼があの街を最終決戦の舞台として高く買う理由はひとつ。それは前述の欠点である名古屋との距離だった。
「豊橋であれば名古屋から溢れ返るばかりの敵兵が押し寄せて来よう。敵を一か所に集めて一網打尽に追い込む。これこそが用兵術の王道なのだ」
「でも、それはあまりにも危険が過ぎます! 組を潰すおつもりですかい!? 横浜から見て遠いからあの街を捨てたってのに!」
沖野の言い分はもっともだ。敵の本拠地に最も近い場所へ行くなど馬鹿げた行為でしかない。いくら村雨が『我に策あり』と豪語したとて、その策とやらが上手く行く保証なんてどこにも無いのだから。
しかし、村雨には勝算があった。話を聞いていた俺はたまげた。それはまさしく発想の逆転であった。
「補給線が伸びることが危ういのであれば縮めるまでよ。横浜を捨てれば良かろう。神奈川と伊豆に残った全兵力を豊橋に集中させるのだ」
「っ!?」
「組の本部ごと豊橋へ遷してしまうのだ。さすれば補給を気にする必要もあるまい。背後を気にせず戦えるというものだ」
なるほど。少ない兵力で広大な範囲を守るのは至難の業だが、防衛拠点を一点に絞れば組の戦力を最大限に使える……と素直に賛同はできなかった。
「冗談でしょう!? 横浜を捨てろとは!? 俺たちが16年間も血と汗を流して守り抜いてきた街を捨てろと!?」
「ああ。喧嘩に勝つためだ」
「たかが喧嘩のために横浜を捨てるだなんて!」
「その喧嘩に勝たねば我らの未来は潰えるのだ! 此度の我らの使命は何ぞ? 女将様をお守りし、逆賊を討ち取り、煌王会を元の姿に戻すことではないか!」
語気を強めた組長。その迫力を前にして沖野は反論に詰まった。俺としても沖野と同じ考えであったが「勝つために」と言われたら続く台詞に困ってしまう。
「そ、それは……」
「すぐさま横浜を橘にくれてやるわけではない。私は此度、中川会三代目の中川恒元公と誼を通じておる。恒元公の威光で背後は守られよう」
神奈川から村雨組の兵隊が一時的に居なくなっても中川会が代わりに守りを固めるから問題は無いと語った残虐魔王。
「いや、確かにここには麻木ィが居ますけど、中川が村雨組を助けるって、正式に盟約を結んだわけじゃないですよね?」
「それはそうだ。なれど、己の側近である涼平が松下組との争いに『巻き込まれておる』以上は恒元公としても我らを助けて松下と戦う他なかろう」
そのためにこそ俺を横浜市内の豚カツ屋騒動に絡ませ、松下組が中川会会長側近に手を出したという既成事実を作り上げたのだと村雨は語る。いや、そうだとは感じていたが。今の時点で恒元は煌王会および松下組に討奸状は送っていないわけで、中川会の加勢を前提に作戦を決められても困る。
「……」
全員の視線が俺の方を向いた。これは何か言わねば許されないであろう空気感。何かしら無難なことを述べておこうか、と思った時。
「まあまあ。皆、そう難しく考えないで」
俺よりも先に口を開いた男がいた。
「若頭!?」
菊川である。
「中川恒元は麻木クンを溺愛しててね。もし彼が今回のゴタゴタにて一発でも銃弾を食らうようなことがあれば、それこそ中川は激怒する。その時は中川会が本気で西へ攻め込むだろう」
「若頭! 俺が聞いた噂じゃ、中川恒元は幹部連中の独断専行を制御しきれてねぇって話ですぜ? まともに部下の統制もできねぇような奴が組織を動かして戦争なんかできますかね?」
「できるだろうね。その辺は腐っても鯛。会長の力が衰えているとはいえ、中川一族の当主が関東ヤクザの王である事実に変わりはない。“権力”は無くても“権威”はあるんだよ。跳ねっ返りたちも戦争を命じられたら何だかんだ言って従うよ」
菊川が割って入ってくれて本当に良かった。沖野による指摘は事実。森田や越坂部にクーデターを起こされそうになっているとは口が裂けても言えない。
「若頭は賛成なんですか!? 俺たちの横浜を捨てちまうことに!」
「どちらかといえば反対さ。けど、中川会が露払いをしてくれるというならやっても良いと思う。大切なのは戦争に勝つことだからね」
「……」
いきり立っていた沖野も若頭に宥められては反論の矛を収める他ないようであった。
「しかし、全騎で打って出るのは流石に問題がある。少なからず横浜にも兵を残しておくべきだよ。むしろ豊橋へ行くのは組長と僕と幹部だけで良いかもしれない」
その言葉に組長は「何を申すか!」と難色を示すも、菊川は兵は少ない方がむしろ柔軟に作戦を立てやすいと主張。若頭の提言で考えを改めたのか、結局は間を取って豊橋には100人だけ見繕って連れてゆくことで組長は納得した。どうにも昔から、組長は若頭の具申だけは容れる傾向がある。
「んじゃ、さっそく豊橋へ向かうとしようじゃないか。あの街を奪還して新たな本拠地とし、敵の大軍を誘き出して壊滅させる。まあ、この状況じゃ妥当な策だね」
その妥協案に沖野と柚月も賛同。沼津に連れて来ていた500騎のうち400を横浜に帰し、戦いに長けた者を選抜して決戦部隊を編成した。旅支度と片付けで皆が慌ただしく駆け回る最中に菊川は俺へとこう耳打ちした。
「10代の頃から、組長は窮地に追い込まれると博打を打ちたがるからねぇ。あのように無難な策を選ばせるのも僕の仕事ってわけさ」
「さっきは助かったぜ。恩に着る。あんたにだけは言っておくが、今の中川会はマジで援軍を出せる状況じゃねぇからな」
「ふふっ。眞行路の後継者問題にかこつけて幹部が不穏なんだろ。湘南の件を見れば誰だって分かるよ。無理もない。そもそも僕は恒元公には期待していなかったが」
相も変わらぬ菊川の洞察力の鋭さに驚嘆する俺をよそに、組長の元には一人の乱入者が押しかけていた。
「お待ちください組長! こりゃあ一体どういうことでございますか!?」
額に汗を浮かべて声を荒げたのは芹沢だ。その慌てぶりから説得に赴いていた滝本組での説得工作を中断し、急いで戻ってきたと容易に推測できる。
「ああ、戻られましたか舎弟頭。僕も驚きましたがつまりはそういうことです。これから豊橋へ拠点を移動させることになりました」
落ち着いた口調で説明を放つ柚月。対して舎弟頭は血相を変えている。
「うるせぇぞガキが! そんなことはとっくに知ってんだ! 今は組長と二人で話してんだからおめぇは引っ込んでろや!」
突拍子も無く怒鳴られたことに困惑する柚月だが、組長が一喝して場を鎮静化させた。
「止めい」
そんな村雨に食い下がるように芹沢は問うた。
「これから豊橋へ向かうって何をお考えです!? 敵の大軍へ自ら突っ込んで自爆でもするおつもりですかい!?」
「まあ、左様に肚を決めねば勝てぬ戦やもしれぬな」
「冗談じゃねぇですよ! なんで敵の大軍が待ち構えてる一歩手前までこっちから行くんです!? 名古屋に近すぎるってんで豊橋は放棄したじゃないですか!」
「芹沢よ、聞け」
村雨の言葉に舎弟頭は押し黙る。何とも承服できぬと言いたげな顔をしている。どうやら村雨が豊橋へ赴くことに反対の模様。
「伊豆と湘南を失い後がなくなった今こそ、こちらから仕掛けるのだ。豊橋の事務所を奪い返し、そこを陣城として敵を引き付け、壊滅させる」
「む、無謀な! そんなの危険すぎます! 博打みてぇな策はやめてくださいよ!」
「芹沢よ。お前、まさか私が負けるとでも思うておるのか?」
村雨の視線に舎弟頭はたじろいだ。その気迫たるや、まるで蛇に睨まれた蛙のごとくである。
「私が負けると思うならば今すぐ盃を割って組から出て行くが良い。勝つことを欲さぬ者が陣に居っては全体の士気が下がるでな」
「組長……」
そんな2人のやり取りに菊川が割って入った。
「まあまあ。そんな言い方しなくたって良いじゃん、組長。芹沢の兄さんはこういう時こそ慎重に事を運ぶべきと具申してるだけなんだから」
村雨の肩をポンと叩いた後、菊川は芹沢に向き直って微笑んだ。
「大丈夫だよ。兄さんが思ってるほど朋友は無謀なことはしてない。放棄した街をもう一度押さえるのは敵を攪乱する意味でも大いに価値のある策だ」
「若頭……」
「兄さんが伊豆の親分衆を説得してくれたおかげで僕らは時間を稼ぐことが出来る。ここは村雨耀介を信じようよ。ね?」
菊川の言葉を受けて村雨は芹沢を見据える。
「異論はあるか? あったら申せ」
「……いえ」
「では、皆の者! 10分後に出立する! それまでに支度を整えよ!」
村雨組の兵隊たちは慌ただしく動き始めた。ある者は武器の手入れに励み、ある者は荷物をまとめて車に積み込み、またある者は部隊の編成に追われる。
そんな慌ただしい空気の中。俺は芹沢から呼び止められた。
「涼平」
眉間に皺を寄せ、彼は廊下に立ちつくしている。さながら悔しさと無念さと棒立ちという行為で表現しているかのよう。せかせかと準備に励む周囲から切り離されたように佇む舎弟頭の姿を俺は思わず二度見してしまう。
「……俺の努力が水の泡になっちまった」
「えっ?」
聞き返した俺に芹沢は歯噛みしながら言葉を紡いだ。
「何とか村雨組の傘下に戻ってくれねぇかって滝本の連中に持ちかけて、それが通らねぇってんならせめて横浜に帰る俺たちを見逃してくれよって約束をつけて戻ってみたら。まさか組長が豊橋出兵を決めてるとはな。2時間粘った手間が全て無駄になっちまった」
滝本組本部へ行っていたという芹沢。そこに集まった伊豆の親分衆たちと交渉し、今夜限りの停戦協定を取り付けてきたそうな。
要約すれば「村雨組がこのまま大人しく横浜に帰るなら攻撃しない」とのことで、それには松下組の居る名古屋方面へ以降24時間は兵を出さないという条件が付いている。芹沢としては伊豆で突如敵中孤立することになった村雨を安全に帰郷させるために屈辱を忍んだ妥協案。それを通すべく頭まで下げたというから今回の村雨の決定が承服できないのは当然だ。
いや、むしろハシゴを外されたといっても遜色なかろう。組長のために体を張った交渉をしてきた帰りに聞かされる方針変更としてはあまりに酷。わずかに傷のついた腕を震わせる芹沢の仕草が彼の心情を静かに表していた。
「組長に掬い上げてもらったから今の極道としての俺がいる。だから今度は俺が全てをかけて恩返しする番、そう思ってた」
「芹沢さん……」
「こんな事が言えるのはお前くらいのモンだ。ボヤいてる様子を他の奴に見られでもしたら威厳も何もあったもんじゃねぇからな」
溜め込んだ憂さに蹴りを付けるよう吐き捨てた芹沢だが、その口調はどこか切なげだ。芹沢は礼儀や序列にうるさい。とりわけ組長の命令に従うことに関しては愚直な程に厳しく、“何故”と僅かに異を唱えることさえ許されないと常日頃より組の青二才たちを戒めている。
新参組員の躾や教育係を任されている芹沢の口癖は『諫言は述べても不平不満は述べるな』であったような。それゆえ俺はこの芹沢が個人的な文句を垂れることに非常に驚かされた。
「まあ、グダグダ言っても始まらねぇわな。組長が決めた以上は従う他ないのが俺たちの稼業。柄にも無ぇことを言っちまったな」
「いやいや。あんたの気持ちは分かるよ。俺も上の人間のわがままに振り回されてるからな」
「ふふっ。まさかお前に慰められる日が来るとはな。じゃあな、涼平」
芹沢は踵を返すと廊下を歩いて行った。その背中を見送ってから俺も支度を始める。酒井と原田に指示を飛ばして自らも荷物の詰め込みを手伝いながら、ふと俺は考える。芹沢はいつも苦労を味わっていると。先ほどは共感を示したが、芹沢の方が俺などよりよっぽど辛酸を舐めている。少なくとも中川恒元は村雨耀介と違ってハシゴを外すような真似はしまい。
表面上は平静を装っているが、実のところ芹沢にも割り切れぬ思いがあるのかもしれない。彼とて人間だ。たまには文句を言いたくなるだろう。
昔から世話になりっ放しの芹沢の器の大きさに改めて感服しつつ、こうして一打逆転を賭けた村雨組の大移動が始まったのである。
この旅館の駐車場を含めて近隣に停まっていた100台近いセダンやバンが一斉に動き出す光景は言うまでもなく壮観だ。黒塗りの高級車の群れは東京の中川会本部で毎日のように観ているが、極道の中でもずば抜けた凶暴さを持つ喧嘩師軍団村雨組は迫力が別格だ。思わず背筋に雷を打たれたような感覚が走ったのだった。
そんな村雨組の旅路であるが、静岡から愛知までは東名高速で2時間30分。豊川インターチェンジで降りて国道151号線を西へ。そして車が停まったのは瀬木町という人気のない集落だった。
「あれ? ここはどの辺りだ?」
車を降りて周囲を眺めまわす俺に酒井が言った。
「地理的に言えば豊川市にあたるらしいですね」
すぐ近くには豊川放水路という名の大きな川が流れており、そこを挟んで豊橋市と接する地域。電灯が無いせいで真っ暗だ。
聞けば半径1キロに渡って水田が広がっているのだとか。明るい時間帯に来ればのどかな緑を拝めたものをと少し悔しく思う。今年は例年より雪が少ないらしいので猶更だ。
「しっかし、どうしてこんな場所で停まるんですかね……? 川を渡ればすぐの所ならさっさとカチコミかければ良いのに?」
やや不満げに呟いた原田に酒井が言った。
「まずはここを拠点に豊橋の拠点を奪還するんだろうよ」
部下たちの他愛もない会話を耳に入れた俺は若干の懐かしさに心を弾ませる。6年前、俺は村雨組の期待を背負ってこの豊橋を訪れた。クーデターを起こした煌王会の一派の内情を探るために沖野と二人で潜入したのだ。クーデター派に中川会伊東一家の総長の娘が誘拐されていたような。そして当時の豊橋を仕切っていたのは家入という男だった。思い出したぞ。
「お前ら、知ってるか? その頃の煌王会で舎弟頭補佐をやってた奴が大原総長の令嬢を攫ったんだ。ブチギレた大原に村雨組を攻撃させるためにな」
すると酒井と原田は顔を見合わせた。
「えっ! そうだったんですか!? 当時の煌王会で反乱があったのは知ってますけど、裏でそんなことが起きてたとは初耳ですぜ!」
「大原の伯父貴のとこの嬢ちゃんって言やあ、あの恵里ちゃんですよね!? マジっすか!? 大事件じゃないっすか!」
6年前の煌王会クーデター勃発時に酒井と原田は中学生。親分の息子といえども未だ子供の時分。詳細を知らされていないのは当然といえば当然である。尤も、俺はその誘拐騒ぎを彼らと変わらぬ15歳で打破したわけだが。誇らしげに語るのは止めておこう。年長者の自慢話ほど見苦しいものは無いと少し前に学んでいるのだから。
「そうだ。そのせいで中川会は煌王会と戦争の一歩手前まで関係に亀裂が入ったんだ。煌王サイドが中川の“要求”を呑むことで東西激突は回避されたがな」
酒井と原田は神妙な顔で頷いた。
「なるほど。俺は父から『煌王会で謀反が起きたらしい』って話しか聞かされてませんでしたから。まさか裏でそんなに緊迫してたなんて」
「あの頃に西へ攻め込んでいれば煌王をぶっ潰せたかもしれねぇのに勿体ねぇっすよ。でも兄貴。そんな裏話、どこで聞いたんです?」
不意に問われた俺は苦笑しながら答える。
「ちょうどそのあたりに横浜から東京に流れてきたもんでな」
それゆえ煌王と中川の両陣営の事情を知っているということで部下たちが納得してくれたようで本当に良かった。当時、恒元が戦争回避の条件として煌王に突きつけた“要求”が俺を渡すことだったとは恥ずかしくて言えたものではない。あの謀反劇は結果として俺の運命を狂わせてしまったわけだが今さら悔やんでも何にもならないので蒸し返すのは止めておこう。
ただ、因縁云々を抜きにしても気になることはある。誘拐騒ぎを引き起こした張本人、家入行雄の所在だ。煌王会にも中川会にも捕まらず、結果として中国マフィアに身柄を押さえられたと聞くが……。
「麻木ィ」
物思いに耽っていたところで沖野が話しかけて来た。彼はちょうど部下たちを自分の車の前に待たせて俺の元へ来たところで、どうやら何か話したいことがあるらしい。
「ちょっと良いか。お前に話しておきたいことがあってな」
「ああ、構わねぇぜ」
どうせ嫌味だの皮肉だのろくでもない話だろうが。ここでシカトを決め込んでも後が面倒なので大人しく聞いてやることにする。
「お前は芹沢の舎弟頭と親しかったよな」
「まあ、そうだな」
「お前から見た印象を率直に答えろ。このところの舎弟頭、なんか変じゃねぇか?」
俺は思わず「は?」と聞き返していた。沖野がいきなりそんなことを問うてくる理由が分からなかったからだ。
「…… 質問の意味が分からねぇな」
「お前が思う舎弟頭の率直な印象を答えやがれ。お前から見てあの人の行動が変か否かを聞いてるんだよ」
「だから、分からねぇっての。大体にして『変』って何だよ。それじゃあまるで芹沢さんがおかしくなっちまったみてぇじゃねぇか」
すると沖野は思わぬ返答を寄越してきた。
「ああ。そうだ」
ちょっと待て。言葉の意味が入って来ない。皆から少し離れた場所へいきなり呼び出したかと思えば、芹沢のことを『変』と形容した沖野。
彼に対して俺は怪訝な瞳を向けるばかりだった。そんなこちらの困惑にはお構いなしに、奴は淡々と台詞を繋げてきた。
「どうにも舎弟頭が敵に誑かされてる気がするんだよ。だからテメェに意見を聞きたかったんだ。組全体を俯瞰できるオブザーバーにな」
「誑かされてる? とてもそんな風には見えねぇが?」
すると沖野は周囲を見回してから声をひそめる。まるで内緒話をするかのように。
「芹沢の舎弟頭、どうにもおかしいんだよ。さっきの滝本のカチコミの時にも居なかったしよぉ。あたかも連中の襲撃を前もって知ってたみてぇじゃねぇか」
「おいおい。居なかったのは伊豆の親分衆に話をつけに行ってたからだろ。奴らの離反を思い留まらせようとして……」
「舎弟頭が出かけたのは21時00分。奴らが離反表明の証に弾を撃ち込んできたのは22時37分。何で未だ表明されてねぇ段階で“説得”に行ってんだよ、アホが」
「はあ!?」
素っ頓狂な声を出してしまった俺に沖野は眉をひそめながら言う。
「俺も詳しいことは知らねぇんだ。ただ、最近の舎弟頭を見てると何かおかしい。こっそり裏で敵方と通じてるんじゃねぇかって思っちまうんだ」
怪しい点は他にもあるとのこと。ここ最近における幹部会の欠席、こそこそと誰かと連絡を取り合っているような素振り、そして村雨組が戦局で優位に立つのを避けようとしていると思わざるを得ない意見具申――全て沖野が肌で感じ取った芹沢の奇妙さである。
俺にしてみれば言いがかり程度にしか感じられぬ主張であったが沖野はなおも弁を垂れてくる。
「そもそも舎弟頭はこの戦争に反対だったんだよ。『松下組が名古屋を押さえた以上、長島体制は崩れたも同然。やり方がどうあれ趨勢が既に明らかなに事柄に介入すべきじゃない』ってな。結局は組長が押し切っちまった」
「だから芹沢さんが裏切り者だってのか? あの人は自分の提言が一蹴されたくらいで敵に寝返る器じゃねぇよ。誰よりも組のことを思ってる」
「逆だ。組のことを思ってるから敵と密通してんだ。いざ俺たちに後がなくなった時に少しでも組存続の線を残すためにな」
「……まるで関ヶ原の戦いの吉川広家じゃねぇか」
「ああ。そうだよ」
俺の指摘に沖野は頷き、苦々しい面持ちで続けた。
「あの人ならやりかねん。この戦争をなるだけ少ない犠牲で和平に持ち込み、取り潰しを避け、新体制下でも組を存続させようって考えなんだろう。親分を守りてぇって信念だけで渡世をやってる、忠誠心の象徴みてぇな人だからな」
史実における吉川広家もそうだったと俺は記憶している。主を思うがゆえに敵方と内応し、結果として大乱に敗れた毛利氏を江戸時代以降も長州藩として存続させたのだ。だが、芹沢が禄を食むのは裏社会。ましてや彼が仕えているのは残虐魔王の異名を持つ村雨耀介。いかなる理由があれ、村雨は裏切りを許さない。後々で何が起こるかは明白だった。
「芹沢の舎弟頭は歪みきってた俺の心を叩き直してくれた人だ。舎弟頭が居なかったら今の俺は無い。だからよぉ、悲惨なことになってほしくねぇんだ」
そう語る沖野は、まるで芹沢を救いたいと願っているように見えた。同時に俺はつい2時間ほど前に組長から掛けられた言葉を思い出して胸が苦しくなる。
『……その者が誰であるか。私は既に当たりをつけておる。己の見立てが当たっているか否かを知りたいだけだ』
村雨は内通者の正体について勘付いている。それゆえ俺に証拠を探せと頼んだのだ。正真正銘の忠臣であるはずの男の背信が嘘であることを願いつつ。
芹沢は本当に裏切り者なのか? 報告では伊豆に居たはずの溝端が神奈川方面に姿を現した件も、先行して現地での斥候を担っていた芹沢組が虚偽の連絡を入れたと仮定すれば辻褄が合う。俺としても信じたくはなかったが、沖野の云う舎弟頭の人物像を聞けば有り得なくもないと思ってしまう。
村雨耀介を守るためなら、たとえ反逆行為であっても堂々と泥を被る。それが芹沢という男であり、彼の忠義であり、任侠道なのだろうか……?
数秒前から起こった胸騒ぎを抑えるように、俺は沖野に言った。
「ったく。あんたも随分と面倒な話を持ってきてくれたもんだな。もう部外者でしかねぇ俺が今さらあんたらの内情に立ち入れるわけねぇだろ」
「部外者だからこそ公平な視点で意見をくれると思ったんだがな。元傭兵の洞察力に期待した俺が愚かだったぜ」
「カネさえ貰えりゃ誰にでも従う傭兵に忠誠心云々を考えさせるのがそもそもおかしい。俺に何を期待したかは知らんが、身内の裏切りを暴きてえなら別の奴に頼むこったな」
「だったらお前は極道に向いちゃいない。極道が忠誠心を胸に抱かなくなったら終わりだし、その道から外れた奴を許すなんざ有り得ねぇ。そうやって裏切りの現実から瞳を背けるなら極道なんかさっさと辞めろ」
「どの口が言う。瞳を背けてるのはあんたの方だぜ、沖野さんよ。芹沢さんの裏切りを信じたくねぇから俺にぶちまけ……」
「信じられるわけねぇだろうっ!!」
怒りに眉を吊り上げ、声を荒げ沖野は去って行った。彼もまた俺と同じく芹沢の反逆については肯定も否定もできないのだろう。かつてあの御仁に道を示してもらったという点では俺と沖野は似た者同士。彼の心情は大いに分かった。尊敬する先輩が背信行為に及んでいると知って心穏やかでいられるわけが無い。まあ、今の段階では確たる証拠に乏しいのだが。
そうこうしているうちに組長の車の近くでは新たな動きがあった。
「んじゃあ、組長。これから豊橋にカチコミかけますぜ。広小路通りの事務所を含めた数か所を奇襲して街を奪還します」
「うむ。頼んだ」
「承知」
下っ端は組長に一礼すると、すぐさま背後の仲間たちに向き直る。
「おう! てめぇら! カチコミだぜ!」
そうしてバンに乗り込んで街へ走っていった。どうやら奪還作戦が幕を開けるらしい。
広小路通りといえば村雨組の傘下事務所がある豊橋の中心的な歓楽街。同区画の3丁目にはかつて旧家入組の本部があった。村雨組はそこを豊橋を仕切る拠点として使っているのだ。今は松下組に奪われてしまっているようだが、これより奇襲作戦を敢行して取り返すというわけである。
「しっかし、キミにしては随分と大人しいじゃないか。いつものキミなら手勢を率い自ら先頭に立って殴り込みをかけていたところなのに」
「……将の務めは大局に立ち采配を振るうこと。そう申したのはお前であろう」
「ふふっ。ようやくキミも学習してくれたってわけだね。親分が無謀なことをしないのは若頭として嬉しい限りさ」
そんな軽口を叩き合いながら村雨と菊川は車に入った。作戦完了まで1時間近くは見積もるべきところ。寒空の下で待っては体に響くので車内にて暖を取るようだ。
俺もひとまず車の中に戻ろう。今後に備えて仮眠をとっておくか……そう思って椅子にもたれかかった俺だが、30分ほどで眠りが醒まされる。
「次長! さっき村雨の使いが来て、万事上手くいったとのことです!」
おっと。時間を要するかと思いきや、もう片が付いてしまうとは。俺は欠伸をしながら車外に出る。村雨組の面々は既に次の段階へと入っていた。
「うむ! ご苦労であった! では、全騎をもって豊橋へ入る! 未だ、何処ぞに伏兵が潜んでおるやもしれぬ! 皆の者、抜かるでないぞ!」
「へいっ!!」
組員は威勢よく答えると、続々とバンに乗り込み始めた。旧家入組事務所の奪還が済んだことで今度は町全体の掌握を行うのだろう。
「んじゃ、俺たちも行くか。原田。車を出してくれ」
「うっす。あの車列について行けば良いんですね」
彼は短く返事をしながらシフトレバーを引っ張る。一方、酒井は周囲を警戒している。車はすぐに発車し、川を渡って豊橋市へと入った。
「しっかし、ここが豊橋ですか。何だかこぢんまりとしてますねぇ。新幹線の停車駅というわりには人通りが少ないっすね」
「まあ、地方都市の夜中はこんなもんだろ」
「ああ、なるほど。そういうことですかい」
酒井は納得したように頷いたが、俺は少しばかり寂しさに浸っていた。この6年で豊橋も変わってしまったか。
豊橋駅周辺は夜間も多くの人で賑わっている。東京から名古屋への玄関口として多くの利用者を捌いている立派な駅だけあって周辺には店が立ち並ぶ。
だが、それはあくまでも駅周辺の話。駅から少し離れると途端に寂れた雰囲気となるのが地方の特徴であるらしい。今や政令指定都市以外は何処も人口が減っている。地方の衰退は日本中を悩ます問題だ。このまま豊橋も廃れていってしまうのかと考えると何だか切なくなる。
そんな感傷に浸りながら車窓を眺めること10分。俺たちは広小路の事務所までやって来た。
「へぇ。ここが事務所か。家入の野郎も大層な所に住んでたもんだ」
旧家入組事務所は地上3階建てになっていて、敷地面積はだいたい400坪。1階には駐車場や倉庫があり、2階と3階が事務所となっている。
「組長! お疲れ様です!」
「うむ」
組員の出迎えに村雨耀介は小さく頷いた。彼はそのまま事務所の階段を上がり3階の事務所へと入る。そこには既に村雨組の先遣隊が集っていた。
「この街は久方ぶりだな……いや、初めてやもしれぬな」
「俺は6年ぶりですね。あの時は大原総長の娘を助けに来たのに、とんだ肩透かしを食らった気分でした」
「覚えておるぞ。よもや横浜に居ったとは思わなんだ。燈台下暗しとはよく言えたものだな」
当時、俺は沖野と2人で豊橋を調べて来るよう命じられた。その結果として手がかりひとつ得られなかったから困り果てたのを覚えている。
自分は村雨組の人間としてヤクザになるんだ――そう確信していた10代の時分。しかし、今の俺は中川会の会長側近。さほど深い付き合いにはならぬと踏んでいた大原総長と同じ組織に居るのだから、裏社会では何が起こるか分からないとつくづく思わされる。
村雨との思い出話に花を咲かせていると、菊川が駆け込んできた。
「組長。哨戒に出した連中から報告があったけど、街中に松下組の組員らしき姿は見られないってさ。豊橋の奪還は概ね完了と考えて良いんじゃないかな」
「うむ。ご苦労。未だ残党がおるやもしれぬゆえ、気を抜くでないぞ」
そこへ俺はふと浮かんだ質問を投げた。
「意外とあっさり片が付いたもんだな? 豊橋は松下組に奪われてたって聞いたから、てっきりもっと多くの兵が詰めてると思ったぜ?」
すると菊川は答える。
「そりゃそうさ。何せ横浜へ海路で送り込んだ軍勢が壊滅したんだから。こっちの占領に割いてた兵力を補充に回さなきゃいけなくなったんだろうよ」
なるほど。川崎港における客船の爆沈は松下組に少なからぬ打撃を与えたというわけか。俺は納得し、村雨と菊川も頷いた。
「さて、これからどう動くかだな」
軍議が始まった。ヤクザの拠点という割には調度品の類が少ない旧家入組事務所の会議室に、組長以下幹部が顔を揃えている。全騎出撃は取り止めになったので政村の姿は無く、組長、菊川、柚月、沖野、そして芹沢に、客将の俺を加えた6名だ。
「菊川よ。何か良い策はあるか」
提案を求められた若頭は地図を見ながらゆっくりと話し始める。
「とりあえず、この辺りで事を起こしてみようか」
そう言って彼は地図上に等高線で記された丘陵地帯を指差した。そこには『大亀山』と書いてあった。
「この辺は水はけも何もあったものじゃない湿地でね。10年前にはレストランがあったんだけど、そこが潰れて以降は人が近づかなくなったみたい」
幹部たちは揃って頷いた。
「うむ。そのようだな」
「今や大亀山は周辺3キロに民家は無い陸の孤島だ。敵の大軍を引き付けて派手な喧嘩をするにはもってこいだと思う。街に物的被害を出さなくて済む」
菊川は一旦言葉を区切って村雨に向き直る。
「潰れたレストランの廃屋を要塞に造り変え、そこに籠城して松下組を迎え撃つってのはどうだい。古風なやり方だが確実だよ」
「……ふむ。そうだな」
村雨は腕組みをしてしばし考え込んだが、やがて口を開いた。
「良かろう。その案で参ろう」
山の中に敵を誘い込んでゲリラ戦を展開するとの概要に幹部たちは揃って賛意を示す。しかし、一人だけ納得しない男がいた。芹沢だ。
「ちょっと待ってくれ。迎え撃つって、具体的にどうするつもりだ。まさか松下組と大喧嘩しようってんじゃないだろうな」
「そのつもりだよ。何か問題でもあるのかい」
菊川は平然と答えた。すると芹沢は声を荒らげて反論する。
「ありまくりだ! 兵の数で劣る俺たちが少なくとも5千騎は優に動員できる松下組を相手にするだと!? そんな無謀な話があるか!」
舎弟頭に対して柚月は呆れ顔だ。彼は溜め息混じりに言う。
「無礼を承知で言わせてもらいますけどね、舎弟頭。この期に及んで何を躊躇ってるんですか。もはや戦争の是非云々を論じていられる段階じゃねぇでしょう」
「んだと……!?」
眉を歪める芹沢に対し、柚月は少し語気を荒くして次なる言葉を紡いだ。
「あんた、松下組と密かに繋がってるんじゃないですか!? だからこうやってうちの組が一打逆転しようとしてるのに反対する!」
「何を言ってやがる!? そんなわけねぇだろッ!」
ローテーブルを蹴って反論する芹沢。
「おい、柚月!」
沖野が諫めるが柚月は収まらない。俺としても胸が騒ぎ出す感覚が走った。芹沢のことを柚月までもが訝しんでいた件もさることながら、ここでそれを口に出すか。
「噂になってますよ。『舎弟頭は橘威吉に取り込まれてる』って。こないだ名古屋に交渉に行った時に調略されたんじゃないですか」
「くだらん戯言だ! 名古屋には確かに行ったが啖呵を切って来ただけだ! テメェはその噂とやらを信じて俺を誹ろうってのか!?」
ところが、彼は柚月の指摘に明らかに動揺していた。その一瞬の隙を突いて柚月が畳みかける。
「だったらどうやって今の戦況を打開するってんです!? 若頭の籠城案以外で策があるなら言ってみてくださいよ! 」
激しく詰め寄られた芹沢は苦虫を噛み潰したような表情で押し黙った。そして数秒後、彼を睨みつけながら返事を投げたのだった。
「……立てこもり続けたところで何になる。籠城ってのは援軍が来る見込みがある時にやるもんだ。今の村雨組に手を差し伸べる組織が無ぇのはテメェも分かるだろ」
「答えになってませんよ、舎弟頭。僕は『籠城以外でどうやって松下組と戦うつもりか』と聞いてるんだ。奴らと繋がってねぇなら説明できるはず」
「だから無謀な喧嘩をすることは無いと言ってるんだ。松下組とは戦わずに手打ちを結ぶ。それが最も安全で無難な道じゃねぇか」
手打ちとは。突如として芹沢の口から出た単語に俺を含めた全員が呆然とする。静まり返る一同をよそに芹沢は組長の方を向いて立ち上がった。
「兄貴! どうか俺に話をつけさせてください! 今なら出来るだけ穏便な形で事を収められます!」
すると村雨は重々しい声で答えた。
「ならぬ」
彼は芹沢を真っ直ぐ見つめて話を続ける。
「芹沢よ。お前は私に『橘威吉に頭を下げよ』と申しておるのか」
「そうは言っておりません! ただ、対等な立場で手打ちを結ぶのです! 向こうは女将様さえ渡せば攻撃はしてこねぇでしょうから!」
そんな舎弟頭の言葉に沖野が突っかかる。
「それって負けを認めるようなもんじゃねぇですか!」
だが、村雨が遮った。
「黙っておれ」
組長に一喝されて慌てて引き下がった沖野。
「ふむ……」
村雨は少し考え込んだ後、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。その口調は穏やかで、まるで茶飲み話でもしているかのようだった。
「……確かに女将様を橘に渡せば今以上の損は被らずとも済むやもしれぬな」
「組長!」
柚月が有り得ないとばかりに声を荒らげる。そんな部下を村雨は意に介さず言葉を続ける。
「芹沢よ。お前の苦労は重々に存じておるぞ。私のために橘と交渉の糸口を繋いでくれておったのだな。恩に着る。我ながら良き郎党を持ったものよ」
どういうわけか芹沢に賛辞を贈った組長。その言葉に当人が頬を緩ませるも、直後の行動に俺は息を呑まされた。何と村雨が舎弟頭に銃を向けたのだ。
「っ!?」
突然の行動に一同が呆気に取られる中、村雨は冷たく言い放つ。
「なれど芹沢。お前がここ暫くの間、私の許しを得ぬところで勝手に事を図っておったのは確かであろう」
「い、いえ! そんなつもりじゃ……!」
「では何だと申すのだ」
村雨は銃口をさらに突きつけながら問い質す。
「先回りして伊豆へ入ったお前は『溝端は沼津』と報告を寄越したが、実のところは船の上に居ったではないか。何故に左様な与太話を吐いた?」
「……っ!」
「間違えたとは言わせぬぞ? 何せ貴様は溝端の写真を送って参ったゆえ! 私に偽の情報を掴ませんと企んだか!?」
「それは……」
「答えよ芹沢ッ!」
怒声で問い詰められた芹沢が言い淀んでいると、菊川が手をパンパンと叩いて割って入る。
「まあまあ。その辺にしときなよ、組長。芹沢兄さんが内通なんかするわけないじゃないか。それはキミが一番分かってるはず。僕が思うに兄さんが伊豆で溝端を捉えたってのは本当さ」
そうして彼は微笑みながら言葉を続けた。
「たぶん溝端は伊豆に姿を現した後、ヘリか何かで船の上に移動したんだろうね。松下組が持ってる船にはヘリパッドも付いてるからさ。でもって、最初にわざわざ沼津に来たのは、伊豆に布陣する陸路勢の士気を煽るためってことで」
松下組の溝端が伊豆と川崎港の二か所で捕捉された理由を明確に説明してのけた菊川。確かに、それなら話に矛盾が無い。こじ付けのような気もしたが、今の時点で芹沢の内通を決定づける確証があるわけじゃないので、村雨をはじめ怒り心頭で追及していた面々はひとまず矛を収めた。
「……それはそうか」
村雨は銃を下ろした。そして彼は芹沢に向けて語りかける。
「芹沢よ。お前は私に忠実過ぎるあまり、ここで是が非でも和議を結ばねばならぬと思い込んでおったのであろう。そうだな?」
「は、はい」
「私の辞書に敗北の二文字は無い。要らぬ世迷言に気を揉む暇があるなら武功を立てることを考えよ。それが村雨組舎弟頭としての務めだ」
組長の静かなる叱咤に芹沢は平身低頭した。
「はい。申し訳ございませんでした」
こんなに深い立礼は初めてだと思ってしまうくらいの丁寧なお辞儀。その所作を見届けた村雨は、彼に言い放った。
「芹沢。お前には来る戦での先駆けを申し付ける。手勢と共に敵へ何人よりも速く攻めかかり、一番槍をつけるのだ」
「承知いたしました。必ずやご期待に応えてご覧に入れます」
「うむ。期待しておるぞ。お前が私の忠臣であることを手柄で示してみせよ。さもなくば他の者らも納得せぬ故な。己の手で身の証を立てるのだ」
こうして豊橋市内での籠城作戦が決まり、軍議はお開きとなった。芹沢は組長に一礼して会議室を出て行った。裏切り者でないことを証明せよと彼に申し渡した村雨だが、すごすごと準備に赴く部下の背中を見送る視線はどこか寂しげに映ったのは言うまでもないことだった。
それから組員総出で急ピッチで作業が行われる。大亀山にある件のレストランは食堂というよりかはダイナーに近い佇まいで、厨房には50年代のアメリカを演出したいのか鉄製の大型冷蔵庫が8台も備えられていた。それを正面に配置して防壁代わりに使うことにした。
「これなら十分籠城できるな」
俺はそう呟きながら店内を歩き回る。店の外では組員たちが泥にまみれて作業をしている。聞けば落とし穴を掘っているのだとか。
「おらっ、テメェも手伝いやがれ。麻木ィ。高みの見物決め込んでんじゃねぇぞコラ」
勿論、俺とて傍観に徹しているつもりは無い。沖野からスコップを奪い取り、酒井や原田と一緒に作業の列に加わる。その中に柚月が居たのは少々意外だった。
「へぇ。あんた、こういう土方仕事は苦手かと思ってたぜ」
「馬鹿にないで頂きたい。むしろ穴を掘るのは忍者の専門分野。沖野の兄貴に負けるわけにはいかないんでね」
俺の軽口に冗談っぽく返した柚月だが、口調と裏腹に表情は真剣そのもの。此度の戦いで何としても武功を挙げねばとの思いが彼にはある。沖野は兄貴分であり出世のライバルらしい。
「おい、そこ! サボってないで手を動かすんだよ!」
やがて俺たちに菊川から檄が飛ぶ。言われずとも分かってるよと内心毒づきながらも作業の手は休めない俺たちであった。
「……」
結局、作業が完了したのは翌朝6時。語るまでもなく徹夜の突貫工事。シャワーを浴びて作業着からスーツ着替えた頃には夜明けを迎えており、疲労困憊の体で飲むホットミルクティーが本当に美味いと感じられる朝だった。
「よう、お疲れさん。お前も作業に加わってくれたおかげで一晩で完成した。やっぱり元傭兵は違うわな」
割り当てられた宿所の屋上でタバコを吸っていると、芹沢が労いの言葉をかけてきた。俺は苦笑いしながら返した。
「へっ、ブルガリアで陣地を作った経験が活きるとは思わなかったぜ。おたくらがさっき掘った穴は塹壕に見せかけた落とし穴らしいが」
「まあ、そうだな……」
村雨と菊川は既に大亀山に入っているので、今は俺と芹沢しかいない。他の連中は仮眠に耽っている。
「……涼平。ここだけの話なんだが、お前に頼みたいことがある」
そう切り出す彼に俺はコクンと頷いて続きを促した。
「お前ん所の会長に謁見できないか」
「会長に?」
きょとんとした俺に芹沢は続ける。
「中川恒元公に橘威吉との仲裁を頼みたいんだ。橘だって中川とは揉めたくねぇだろうからな。村雨組に有利な条件で手打ちを結ぶには今しかない」
「ああ。そうか。やっぱりあんたは松下組との喧嘩に反対だったんだな?」
俺が尋ねると彼は大きく頷いた。俺の読みは当たったか。されど、そうなると……そんな俺の懸念を見抜いてか芹沢が言う。
「言っておくが内通はしてねぇぞ。村雨耀介は俺の全てだ。裏切るようなことが出来るかってんだ」
「分かってるよ。けどな、あんたの場合、その忠誠心の高さゆえに先走っちまったって線も考えられるんでね。組長のためを思えばこそ、敵と繋がってるんじゃねぇのか」
俺がそう言うと芹沢は少し驚いたような顔をした後、苦笑しながら言った。
「ふっ。俺にそんな胆力は無ぇよ」
「いや。あんたは豪胆の二文字を地で行く人だ。切羽詰まったガキを助けるために自分の若頭補佐をぶっ殺しちまうくらいだからな」
6年前に俺を助けてくれた感謝は忘れちゃいない。たぶん一生かかっても返しきれぬ程と思う。そんな恩人に俺はすぐさま説諭の語句を続けた。
「だから俺はあんたに裏切り者になって欲しくねぇんだ。兄貴の前途を憂い思う気持ちは分かる。けど、そのために大事な人に背を向けちゃいけねぇよ」
すると彼は呆れ顔を浮かべる。
「はぁ……ったく、お前も成長したもんだな。自分のことしか考えてねぇ身勝手なガキだった奴がこんな能書きを垂れるようになるとは。やっぱり異国暮らしってのは人間を変えるのかねぇ」
やれやれと呆れ果てているようでもあり、何処か嬉しそうともとれる複雑な表情の芹沢。分かってくれたのか? いや、そもそも彼が真に橘威吉と内通しているのか否かさえ未だはっきりとしないのだが……?
緊張のあまり眉間に皺が寄った俺に、芹沢は言った。
「涼平。俺は村雨耀介を裏切るくらいなら、この手で腹を切る覚悟でいるぜ」
「……っ!」
「俺は村雨組の舎弟頭だ。兄貴に背くことなんざ許されねぇからな。俺はあの人に命を賭けてるんだ」
その言葉は重く響いた。そして彼はこう続けたのだ。
「だがな、兄貴を正しい方向へ導くことも俺の役回りだと思ってる。兄貴が誤った道へ行きそうになったら全力で戻す。その為にはどんな手も使う」
その一言が俺の中でストンと落ちた。ああ、この人は村雨組長のためを思えばこそ……俺は答えに辿り着いてしまった。芹沢による『あの人に命を賭けてるんだ』という言葉が、胸の中で切ない輝きを帯びながら、波紋のように響き渡ってゆくのが分かった。
「じゃあ、事が明るみに出て殺されるのもあんたにとっては想定の範囲内だってのか?」
「ああ。覚悟の上だとも。俺が裏切り者の汚名を着るってだけで兄貴が破滅せずに済むんだったら喜んで着るぜ」
芹沢はそう言い切った。そのあまりにも威風堂々とした顔つきを前にして俺は思わされた。この人は本気だ、村雨組長を守るためにはどんなことでもやってしまうのだと。
「だがな、涼平」
すると彼は声のトーンを落として言ったのだ。
「たぶん兄貴は見抜いてるよ」
「……だろうな」
「きっと真意も含めて全て何もかもお見通しさ。けどよ、戦争が終わったら俺を処刑するだろうよ。村雨耀介は裏切り者を許さない。“例外”を作っちゃ残虐魔王の名が折れるからな。当然の話だわな」
芹沢は村雨の忠実なる部下だ。彼とて背信は本意ではあるまいに。されども3千騎もの兵を擁する松下組に単独で挑むという無謀な構図が、彼を裏切りへと駆り立ててしまったのだ。
そんな悲痛な心中を簡潔に表すように彼は言った。
「極道をやってるとな、仁義って言葉の意味が分からなくなる時がある。誰かに忠を尽くすってのは簡単じゃねぇな。この期に及んで思い悩むたぁ俺もまだまだ未熟だぜ」
俺は芹沢にかけるべき台詞が見当たらなかった。『あんたを応援する』とも『止めてくれ』とも言えない。肯定か否定かの二元論で割り切れる話でないことは分かっていたし、何より本当の意味で肚を決めた男を他者が翻意させることは不可能だと俺自身が知っていたからだ。
「……あんたと同列に語るのはおこがましいかもしれんが。俺もあの時は悩んだぜ。世話になった恩人の下を離れるってんだからな」
「へへっ。分かるよ。お互い不器用な男だな。まあ、出来ることならこれからも兄貴と一緒に渡世を走ってみたかったぜ。今となっては青臭い理想論だがな」
裏切りという引き返すことのできない非情な道。その道を選んだ男は、それでも尚も晴れやかな顔をしている。今でも未練がましく葛藤と苦悩に苛まれている自分とは根本的な部分から違うのだと思いながら、どんよりとした空気を一新するべく、その場しのぎにも程近いトーンで俺は言葉を繋いだ。
「あんたが松下組と繋がり始めたのはいつからだ?」
「今月の初旬。松下の連中が占領する名古屋へ組長の使いとして遣わされた時からだ。『村雨組は橘若頭の蹶起を決して容認しない』と啖呵を切って来いとの命令だった」
「そんなあんたに橘威吉が調略を仕掛けて来たってか?」
「シマとカネで勧誘されたのは確かだが、俺は名古屋に入る前の時点でとっくに決めていた。煌王会最大勢力の松下組に勝てるわけが無い。取るべき道は恭順一択だってな」
そう考えていた芹沢は表向き村雨組の使者として姿勢表明をする一方、松下組の幹部と水面下で連絡線を築くに至った。彼の思惑は、ただひとつ。仮に松下組と戦争になって敗れた場合でも、村雨に任侠稼業を続けさせることだ。
「どっち付かずの曖昧な態度が虫の良い話だってのは分かってる。それでも、情勢がどっちへ傾いても安泰になるよう考えて計らうのが子分の務めじゃねぇか」
「確かにな。村雨組が常勝軍団とはいえ、万が一の備えをしておくのは当然だ。あんたのやったことを否定するつもりは無い」
芹沢は松下組と極秘の回線を使ってやり取りしているというが、先方には一切の情報を流してはいないという。
「連中とは単に交渉のパイプを残してるだけだ。うちの内情を漏らすような真似は断じてやってねぇ」
「じゃあ、溝端が伊豆に居るって報告をしたのは何故だ?」
「奴の姿を本当に見たからだよ。その証拠に写真も撮っている。組長は偽造だの何だのと言ってたが、あれは誓って本物だ」
だとすると、菊川が指摘した通り、溝端は伊豆から川崎の船の上までヘリコプターで移動したのだろうか。神戸を中心に21都市を仕切る松下組の財力があれば空路を使うくらい容易かろう。しかしながら、あの客船のデッキにヘリらしき機体は載っていなかったような……。
ともあれ、芹沢が松下組と通じる理由はただひとつ村雨のためを思えばこそ。直接的に彼を害する行為をするはずがなかった。
「この喧嘩に勝とうが負けようが、俺は兄貴に粛清される。俺はあの人を裏切ったんだから仕方ねぇよ。俺の作ったパイプをきっかけに兄貴が橘と手打ちを結んでくれるならそれで良い」
彼はそう言い切った。その覚悟の程を見せつけられては、もう何も言い返せない。言い返した所で鬼の芹沢の信念の前では無意味なことだ。
「……で? 俺に恒元公へ取り次いで欲しいんだったな?」
「ああ。そうだ。頼むぜ。今を逃したら有利な条件での手打ちは不可能だと思ってる。向こうとスムーズに事を収めるには中川会の会長に間に入って頂く他ねぇんだ」
「取り次ぐのは構わねぇけどよ」
俺は返事に困った。今の恒元は森田と越坂部への対処に追われており、戦争の仲裁を行うのは難しいであろうと思ったのだ。しかし、それを打ち明ければ恒元に力が無いことを勘付かれてしまう。さて、如何に説明を行うか。僅かな間に悩んだ後、俺は言葉を濁した。
「うちの会長はこの戦争で村雨組が勝つことを望んでおられる。よっぽどあんたらに有利な内容じゃねぇと仲裁はお認めにならんだろう。少なくとも長島勝久公の復位は最低条件だ」
「ああ。それは承知してるよ。だからこっちも女将様を切り札に橘と交渉するつもりだ。『勢都子夫人がご健在であられる以上、権力の移譲は無効』ってな。6年前もその掟のおかげで長島体制は存続できた」
「親分が人事不省に陥ったら女将が親分の職を代行するっていう例の掟か。女将さんの存在がカードになるのは分かるが、橘が今さら素直に受け入れるか? 掟に従う律儀な人間だったらそもそもクーデターなんざ起こさねぇだろ」
「受け入れねぇなら受け入れさせるまでだ。そのためにも豊橋で松下組をブチのめしてやろうってんだ。相手方の幹部を何人か生け捕りにすりゃあ向こうも話を呑まざるを得なくなるだろ」
すなわち、芹沢は今の段階における松下組との交戦に賛意を示しているということ。松下組とのやり取りは“密通”であって情報漏洩を含んだ“内通”ではない――彼の返事に俺は胸を撫で下ろした。そしてこう続けたのだ。
「その言葉が聞けて良かったよ、芹沢さん」
「ああ。言ったじゃねぇか。俺は兄貴に火の粉をかけるような真似は断じてやってねぇってな。くどいようだが松下組とは交渉のパイプを繋いでるだけだ。それ以上の関係は無い」
「けど、事が終わったらあんたは……」
「処刑されるだろうな。コソコソ図ってるのが組長に勘付かれてる限り、それは避けられん。さっきも言ったけど俺は良いんだよ」
「いや、でも!」
「良いんだ。兄貴さえ輝いてくれたらな。俺のやってることはただの自己満足に過ぎねぇかもしれんが、村雨耀介への忠義だけは誰にも負けねぇ。俺は自分が信じた道を貫きてぇんだ。村雨の兄貴のおかげで今の俺があるんだからよ」
にこやかに笑って見せる芹沢に、俺がなおも反論しようとしたその時。野太い声が辺りに響いた。
「無理をせずとも良いぞ、芹沢」
俺と芹沢は顔を見合わせて一瞬、息を呑む。それは驚きというよりも戦慄に近い反応だったと思う。無理もない。
その場に現れたのは村雨組長だったのだ。
「あ、兄貴……!」
「組長……!?」
背後には菊川の姿もある。
「事の子細は全て聞かせて貰ったぞ」
流石は鉄火場のプロフェッショナル。屋上にやって来ている気配がまったく感じられなかった。若頭共々、息を潜めることには慣れているようだ。
「いや、兄貴。今の話は……」
「この戯け者が!」
次の瞬間、村雨の鉄拳が芹沢の顔を抉った。
「あぐっ……!」
「隠れて何を図っておったかと思えば! お前のせいで私がどれだけ気の休まらぬ日々を過ごしたと思うておる!? 私に火の粉はかけぬと抜かしておきながら、結局は私に害を成しておるではないか!」
村雨の怒りは収まらない。激しく殴られた芹沢が床に倒れ込んだ後も、その胸ぐらを掴んで激しく揺さぶったのだ。
「この村雨耀介を侮るな! お前ごときに心配されるほど軟弱ではないわ! 横浜へ出てより戦にて負けを知らぬことはよく存じておろうが!」
そして彼は続けたのである。先ほどまでの怒声とは打って変わって、それはまるで親が子を諭すような声色だった。
「私を甘く見るでない。お前ひとりに全てを背負わせる私だと思うか。私のためを思えばこそ、斯様な企てをしたのであろう」
「す……すんま……せん……」
「それは裏切りとは呼ばぬ。お前はお前なりの仁義を通したのだ。沖野らの手前では敢えてあのように誹ったが、あれは戦を前に皆の気持ちを引き締める必要があったゆえのこと。許せ。本来であれば手柄として褒め称えたかった」
「……はい……!」
「功を挙げた郎党を何故に処断せねばならぬのだ。お前は何も誤ったことはしておらぬ。もっと胸を張るが良い」
村雨から放たれる言葉のひとつひとつを胸に刻み込むように、芹沢は小さく頷いている。彼の瞳にはいつしか溢れ出んばかりの涙が貯まっていた。そんな彼を見るや菊川が声をかける。
「はあ、昔から涙もろいねぇ。芹沢兄さんは。要するに、兄さんにはこれからも組で活躍し続けて貰いたいってこと。大体にして、朋友も言葉足らずなんだよ。本音を言えば、兄さんが自分に隠れて勝手に突っ走ってたのが寂しいんだろう」
「何を戯言を。私が左様な情に流される男だと思うか。単にこの者が隠し立てしておったのが気に食わぬだけだ」
「その気持ちを『寂しい』って言うんだよ」
そう軽口を叩いた後、菊川は芹沢に改めて向き直る。
「兄さん。苦しい役回りを背負わせてすまなかった。組長の手前、言い出せなかったのはよく分かるよ」
「と、塔一郎……」
「でも、もう大丈夫だ。もう兄さん一人で抱え込まなくて良い。松下組との折衝の件は僕も組長も了承済みだから。今後は村雨組の使者として堂々と交渉に臨んでくれ。その結果に誰が不満を唱えようと僕らは兄さんの味方だから」
「……ああ! ありがとうな……!」
芹沢は袖で涙を拭いながら大きく頷いたのだった。そんな彼に村雨が言う。
「なれど、芹沢。私の許しを得ぬところで勝手に松下組の者と文を通じておったのは見過ごせぬな」
「は、はい……とんでもねぇことをしちまったって思ってます。それについては指を詰めて、きちんと落とし前つけますぜ。ああ、何だったら今この場で……」
「詰めずとも良い! いや、詰めるな! お前は大鷲会を抜けるにあたって既に右の小指を落としておろう! これ以上、刀を握るのに不得手になられても困るだけだ! 良いか、決して許さぬぞ!」
「じゃあ、どうすれば……」
「何もするな。己の勝手な振る舞いを心より悔い省みるのであれば、此度に限っては不問と致す。ただ、次は無いぞ。ゆめゆめ忘れず、胸に刻んでおけ。分かったな」
「はいっ!」
芹沢はその場で姿勢を正すと村雨に平伏した。平身低頭、地面に額が擦れる程の土下座である。凍てつくような寒さの中で、零れ落ちた舎弟頭の涙が白い吐息と共に、屋上のタイルをさらに冷やしていた。
「ふふっ。朋友も素直じゃないねぇ、本当は芹沢兄さんを許せたのが嬉しくて嬉しくて仕方ないくせに」
「黙らぬか」
冬の空の下で笑い合う村雨と菊川。そして、うしろめたさを全て溶かして心が澄やかになった様子の芹沢。
彼ら三人は主従であると同時に盟友である。これからどんな奴が相手になろうともこの男たちなら打ち倒してゆくだろう。仁義で結ばれた絆に感涙をこぼしそうになる一方、その情愛の輪の中に己が加われないことに微塵ばかりの哀愁を感じ入る俺であった。
「お前にも苦しい思いをさせたな、涼平」
「いえ。俺は別に」
「此度の働き、ご苦労であったぞ。よくぞ芹沢の真意を聞き出してくれた。見事だ」
いやいや。特に尋問のを行ったわけではないのだが。まあ、組長は喜んでいるのでそういうことにしておくか。
村雨からは「決戦は明日。ゆっくり休むが良い」と言われたので、俺はその言葉に従って宿所へと戻り、睡眠をとることにしたのだった。
ただ、村雨の云う決戦とやらは翌日ではなかった。
2004年12月25日。世間一般でいうクリスマスの朝、大亀山の陣城にて見張りの任に就いていた村雨組の組員が叫び声を上げた。
「来ました! 松下組です! 敵襲ッ!」
豊橋にやって来た松下組の兵隊は、さながら蟻の群れのようであった。黒いスーツの集団が大挙して押し寄せる様は圧巻の一言に尽きる。
「ほう。ようやく来たか。数は如何ほどだ?」
「おそらく500は下らねぇものと……」
対する村雨組は100騎にも満たない数である。しかし、その兵力差をものともしない気迫が彼らに漲っていた。
「者ども! 今こそ天下静謐の時ぞ! 渡世の道理も知らぬ逆賊どもを討ち払い、煌王の大権を長島勝久公にお返しする!」
「うおおおーっ!!」
「大義は我らにあり! 仁によって立つ我らに、松下の猿どもなんぞ敵ではない!」
「うおおーっ!!」
地鳴りのような組長の声に皆が奮い立つ。酒井、原田と共に屋上で配置に着いていた俺もまた一緒になって雄叫びを上げる。いつ見ても凄まじい残虐魔王の覇気には圧倒されるばかりだ。これほどの迫力を持った男は、おそらく関東には他に居ないだろう。もしかすると日本で彼一人だけかもしれない。決して大仰な喩えではなく、本当の話である。
「さっきバイクの音が聞こえましたぜ。芹沢さんが上手く誘導に成功したみたいですね。流石は村雨組のナンバー2だ」
「まんまと誘き出されるとは敵も雑魚っすね。たぶん広小路で敵を挑発してわざと追いかけさせたんでしょう。松下組の奴らはブチ切れてますね」
そう語りかけて来た部下たちに俺は頷いた。
「ああ……」
相手にとって不足は無い。銃器および銃弾は村雨組が沢山備蓄してある。倉庫には糧食も詰め込んであるので持久戦にも持ち堪えられそうだ。
強いて不満を挙げるなら中川会管轄の大江戸プロレスの興行を直接仕切れなくなったこと、あるいは柚月に貰った神野龍我の東京ドーム公演のチケットが無駄になったことか。尤も新聞によれば両方とも延期になったそうなので特に問題は無いのだけど。
何故、この世間的には一年の中で最も浮かれている日が村雨組にとっての決戦となったのか。それを語るには日を遡らねばなるまい。
2日前の12月23日。村雨組は名古屋に陣取る松下組一門に対してこんな呼びかけを行った。
『手打ちの交渉がしたい。今まで奪った領地を全て返してくれれば勢都子夫人をそちらに渡して降伏する。豊橋にて待っているぞ』
もはや語るまでもない陽動の文言であり、停戦と勢都子夫人を餌に松下組を豊橋に誘き出して一網打尽にするのが村雨の狙いだった。
当然ながら彼の思惑には向こうも気付いていよう。誰が見ても罠と分かる要求である。しかし、松下組にとっては嫌でも出て来なければならない事情があった。
「いやあ、見てくださいよ。組長。我ながら力作ですよ」
23日の夕方頃、そう誇らしげに村雨組長に語ったのは柚月。彼の手には一枚のビラが携えられていた。
ーーー
煌王会貸元諸君に告ぐ。
橘威吉は恩知らずの猿だ。本来なら欲得を捨てて忠勤に励まねばならぬ本家若頭の立場を弁えず、会長が認めぬフィリピン系マフィアとの密貿易で不正に富を成した。そして挙げ句の果てに、会長が6年前から半身不随であることを理由に『世代交代』などという身勝手な旗印を掲げて蹶起、長島勝久公をに本家御殿に幽閉し不埒にも自ら新会長を名乗るに至った。
この橘による行為は明確な仁義外れであり、勝久公から賜った恩を仇で返す言語道断の暴挙であることは言うまでもない事実であろう。
しかし、これに対して異を唱える者は今のところ我が親、村雨耀介をおいて他に居ない。身が沸き立つばかりの憤慨を覚え、すぐさま勝久公をお守りするために立ち上がるのが極道としては真っ当な姿であろうに。松下組に高禄で釣られたか、あるいは松下組の武力を前に恐れ戦いたか、いずれにせよ誰一人として反撃の狼煙を上げないのは嘆かわしい限りである。
不甲斐ない諸君らに代わり、我らが村雨耀介は仁義を貫き通すために戦うことを決めた。名古屋に押し込められている勝久公をお救いし、逆賊一党を撃滅するのだ。たとえ同心する有志が居らずとも、村雨耀介は橘威吉を討ち果たすまで奮戦を続けるであろう。
そこで諸君らに問いたい。
このまま橘威吉に尻尾を振り続けるのか? あるいは逆賊の専横を指を咥えて見ているつもりか? それとも任侠精神の原点へ立ち戻り村雨耀介と共に橘を倒すか?
もし諸君らに極道としての誇りが少しでもあるのなら、今すぐに組の総勢を率いて豊橋に参上せよ。そして我が戦列に加わり仁義を守ろうではないか。
平成16年12月23日 煌王会貸元村雨組若頭補佐 柚月宰
ーーー
この挑発的な文面のビラを書いた柚月は同日中に全国の煌王会系組事務所へファックスで送信。檄文という形で直系組長たちに決起を求めたのである。
無論、彼は受け取り手が本当に決起してくれるとは微塵も思っていない。多くの貸元たちが橘威吉にカネで取り込まれてしまっている以上、連中が書状ひとつで心変わりするとは考えられないからだ。柚月の狙いは、この書状を橘が読むことにあった。
俺が唸ったのは文書に描かれた絵だ。
「おいおい、これは……」
「どうです? 麻木さん? なかなか面白い絵でしょう?」
そこにあったのは、まるで起源説を唱えた某学者の風刺画のような猿の胴体に人間の顔が付いている構図だった。
「なるほど。この面長のジジイが橘威吉か」
「ええ。こうしてみるとそっくりでしょう。松下組の先代親分にも『猿』って渾名で呼ばれてたみたいですからね」
俺は思わず言葉を失った。皮肉が効いているが、まさかこのビラのために漫画風の絵を描くとは思わなかったのだ。それに結構上手いと来ている。
「日高さんが書いてくれたんです。あの人は道具だけじゃなくてこういうのも作れちゃうんです。尊敬しちゃいますよ」
懐かしい村雨組専属偽装師の名前はさておき、このイラストは相手を激怒させるのに十分だった。この文書をばら撒いてから数時間ほどで「松下組が名古屋に軍勢を終結させている」との情報が密偵より届いた。おそらくは橘が怒り狂い村雨組攻撃を命令したものと思われる。このままでは橘威吉の名誉にかかわる。たとえ罠と分かっていても豊橋に来るしかない。
「ううむ。柚月はよくやってくれたな。これで松下組を誘き出すことができた。後は群がる雑魚どもを叩き潰すだけよ。容易な話だ」
「でも、朋友。何でまた橘は僕らの処分を決めないんだろう。討伐命令が出たって割には絶縁や破門の札が回ったって話は聞かないよね」
「おそらくは私を討った後で組を体よく使うつもりなのだろうよ。橘は利用できるものは何でも利用するゆえ。つくづく下劣な男よ」
中川恒元が眞行路一家を復帰させる方便として用いた“食客”の習わしは関西ヤクザに無い。一度でも絶縁処分を下したら当人は二度と組に戻ることは無い。よって橘が村雨耀介および村雨組に今の段階で何の処分も下していない理由はそれだと考えられる。
「でも、絶縁ならキミの名前だけを挙げて書けば良いものを。破門にすらしていないってのは何か裏がありそうじゃない?」
「橘のことだ。おそらくは他所の動向を警戒しておろう。己が会長の地位に就いた後を見越してな」
「確かに。煌王会が内紛にかまけてる隙に九州ヤクザが攻め込んでくるかもしれない。キミを追放しなければ表向き『内紛は起きてない』って装える」
村雨の推測に菊川は納得したように頷いた。どうやら橘威吉は村雨組だけでなく九州極道たちをも脅威と考えているらしい。
「まあ、いずれにせよ決戦は明日だ。皆、心して掛かるのだぞ」
組長の言葉に俺たちは一斉に「応ッ!」と気勢を上げた。そしてそのまま翌24日に奴らが豊橋に押し寄せてくるものと思われたが……。
そうはならなかった。
「何っ!? 停電だと!?」
ラジオの臨時ニュースを聴いた村雨組長が驚きの声を挙げたのは12月24日の朝8時頃のこと。何とこの日、東京を中心とする首都圏1都6県と静岡、愛知、三重、滋賀、大阪など広域にわたって大規模な停電が発生。世に云う『平成16年列島電力騒動』と呼ばれる騒ぎが起きたのである。
賃金未払いをめぐる電力会社ストライキの影響で中部の発電所が稼働を中止、それにより管内地域に十分な供給できなくなったのが要因だった。
その日は朝から陣城の電気が灯かなかったので、俺も「あれ?」と戸惑ったものだ。ニュースによれば停電は12月24日、25日の両日にわたって続くようで、これによって生じる経済的損失は民間企業だけでも数兆円に達するという。
「携帯も繋がりませんぜ。これじゃあ連絡も取れやしない。村雨の連中とは無線でどうにかなりますけど、東京と音信不通になるのは困りますねぇ……」
「このクリスマスに電気が停まるなんて。日本はこれからどうなっちまうんでしょうね。気が滅入りますよねぇ」
「まあまあ。ストは労働者の正当な権利だ。連中を責めちゃいけねぇよ」
ぼやく部下たちを宥めながら俺は物思いに耽る。
東京には華鈴や琴音が居るのだ。この停電で彼女たちは割を食っていないだろうか。琴音ほどの金持ちであれば自家発電云々でどうにかなりそうだが、小さな喫茶店を営む華鈴は冷蔵庫や電子レンジの使用不能などで大いに泡を吹かされているに違いない。
「そういやあ兄貴、武道館でプロレスの大会を仕切るとか何とか言ってませんでした?」
「そもそもこのドンパチが片付かなきゃ東京には戻れねぇんだ。その辺は会長が上手く取り繕ってくれてるさ」
正式には発表されていないが、日本武道館で予定されていた大会は中止か延期に追い込まれたことだろう。それについては神野龍我の東京ドーム2DAYS公演も然り。
「まったく、とんだクリスマスだぜ……」
停電した区域には名古屋以西の関西圏も含まれているため、同地域を領地とする煌王会も少なからぬ影響を受けたと思われる。その日は松下組の軍勢が攻めて来ることは無かった。きっと道路管制システムの不調で高速道路が通行止めになったために迂回せざるを得なくなったのだろう。
日付が変わった頃、天井にぶら下げた灯油ランタンの光のもとで組長が皆に言った。
「多少の計算違いはあれど、我らは手筈通りに事を運ぶまでよ。橘は松下組の兵隊を引き連れて必ず豊橋へやって来る。全力をもって奴を叩き潰すのだ」
村雨の言葉に皆の表情が引き締まる。
「敵は松下組の軍勢、少なく見積もって1000騎はおろう。対して我が方は100騎足らずだが、この程度の不利を覆せねば極道として失格であろうよ」
彼はそう言い放つとニヤリと笑って見せた。その不敵な笑みに部下たちも釣られて笑う。
「たかだか10倍の差なんか、俺が1時間につき100人ずつぶった斬れば10時間で片が付きますぜ!」
豪快に得物を担ぐ沖野に続いて、柚月は鉄扇を開く。
「松下組のゴミどもを僕の忍術で嬲り殺しにしてやりますよ。奴らが悲鳴を上げる様子が楽しみです」
そんな彼らに向かって菊川が手帳を読み上げた。
「ええっと。それじゃあ陣割りを発表するか。まずは芹沢兄さんが広小路通りで手打ちの交渉をすると見せかけて、松下組の兵隊をこの大亀山まで誘導する」
若頭の言葉に芹沢は深々と頷いて見せた。
「任しとけ。何が何でもこの拠点へ連れて来てやる。仮に奴らが乗って来ねぇなら、俺がその場で木っ端微塵にしてやるよ」
「ちょっと大変な役回りになるけど頼んだよ。もしもその場で乱戦が始まったら連絡してくれ。僕がすぐさま援護に行くから」
そうして菊川は沖野と柚月に視線を戻す。
「2人は近くの森の中で待ち構えて、やって来た敵兵を襲って倒す。こちらの組員は分散して配置するんだよ。ゲリラ戦だからね」
彼らは菊川の指示に頷いた。
「ええ。思いっきり切り刻んで血の海にしてやりますよ」
「森に入った瞬間、奴らは恐怖に慄くことになるでしょう」
なお、沖野と柚月に部下の配置をレクチャーしたのは元傭兵の俺である。軍人と違ってヤクザは動きが粗いのでどこまで本物に近づけられるかは不明だが、木の陰に隠れて敵が来たら撃つという基本は変わらない。その辺りは喧嘩師集団村雨組、上手くやってくれると期待しよう。
「で、何とか森を突破する敵兵がいたら麻木クンの出番だ。キミはレストランの屋根に上って奴らを狙撃する。これを使ってくれ」
「ああ。ドラグノフか。このアイテムさえありゃ十分だよ」
菊川から受け取った銃を眺めて俺は微笑んだ。SVDドラグノフ狙撃銃。冷戦時代にソ連軍が開発したセミオート式のスナイパーライフルで、旧ソ連衛星国であった東欧ブルガリアで何度か使ったことのあるものだった。
「良いかい。地面に降りて戦うのは組長率いる本隊。キミの役割は援護だからね。気が昂って暴れたくなっても屋根から降りないでくれよ。くれぐれも頼むよ」
「分かってるって。俺は元傭兵だぜ。状況中に持ち場を離れてスタンドプレーに走るのがヤバいってことくらい本物の戦場で叩き込まれてるよ」
俺に釘を刺した後、菊川は組長の方を向く。
「陣割りとしてはこんなところかな」
「うむ。ご苦労であった」
そうして村雨組長は皆の前に歩み出て、高らかに声を上げた。
「いざ、参らん!」
こうして俺たちは打ち合わせで決まった各所へ赴き、配置についた。氷点下に迫るほどの寒さを防寒着だけで凌ぎながら待つこと7時間。
うっすらと陽が上り始めた時、レストランの屋根に陣取った俺が覗いたドラグノフのスコープに敵影が捉えられた。黒いスーツ姿の男の群れがこちらに向かって歩いて来る。
俺はスコープの倍率を上げて敵を眺めた。先頭を歩く男は身長が180センチはありそうで、その後ろにも屈強な男たちが控えている。おそらくあれが松下組の実戦部隊だと思われる。川崎の船に居た連中よりも強そうだ。気のせいだろうが。
どうやら芹沢が上手く誘導に成功した模様である。
「来たな」
俺が呟くと同時に見張りの組員が大声で伝令する。同時に村雨組長が改めて雄叫びを上げ、皆が彼に同調する。そうして森の奥からゆっくりと迫ってくる敵兵たちに視線を戻した時だった。
「ふっ、あいつ……」
思わず笑いがこみ上げてくる。向かってくる男らの中に溝端が居たのだ。奴は杖を突いて片足を引きずっているように見えた。
「うわあ。あの野郎、無事で済んだみたいですね」
「たぶん爆発で吹っ飛んで海に落ちたんじゃないっすかねぇ」
それぞれに失笑を吹き出した部下たちに俺は言った。
「面白い奴だな。海に落ちてから、どうやってここまで来たのかは分からんが」
港湾関係者に救助されたか、あるいは独力で泳いで陸に上がったか。何にせよ奴がここに居るということは復讐戦を挑みに来たということ。
心なしかスコープから見える溝端の顔は激情に燃えていた。
「んじゃ、俺たちも作戦開始と行こうぜ」
そう言って軽く笑うと、俺は銃を構え直す。狙うは敵の大将、溝端辰也。ここで一気に勝負を決めてやるつもりで、勢いよく引き金をひいた。
罠に嵌まった松下組。これを撃破し、村雨組は仁義を貫くことはできるのか。様々な思惑と葛藤を抱えた男たちの激戦は熾烈を極める。




