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鴉の黙示録  作者: 雨宮妃里
第11章 親分たる器
193/252

輝虎、謀る。

 16歳の時分以来に村雨邸で夜を明かした翌日。俺は屋敷で振る舞われた朝食に舌鼓を打った。


 泊まりがけで事に当たる俺たち中川勢に、組お抱えのコックが「良かったらどうぞ」と気遣いを形で示してくれたのだ。


 そうは言ってもじょうと呼ばれる揚げパンに山菜のかゆという風変わりな献立は相変わらず。組長が中国系のため、ここでの食事は基本的に中華料理なのだ。久々に食べたがどうにも慣れない味である。


「お口に合いませんでしたか?」


 食事の最中、酒井がそう聞いてきた。俺は正直に答えることにする。


「まあな。ガキの頃から何度も食ってる味なんだが、やっぱり独特すぎる。何つうか淡白なんだよ」


 すると原田も言った。


「兄貴の仰る通りですぜ。俺なんかはもっと濃い味の方が好みですね。総本部で食ってる甘ったるいパンの方がまだ好みかも」


 ちなみに原田の云うそれはヴィエノワズリと呼ばれる菓子パンで、バターをたっぷりと塗りたくって焼くフランス伝統の朝食だ。


 村雨耀介といい、中川恒元といい、何故に裏社会の実力者たちは変わった朝食を好むのだろう。朝くらい普遍的なものを食っても良いじゃないか。そうつくづく思う。


 閑話休題。2人の言葉をまとめ上げるがごとく俺は言った。


「けど、御馳走して貰ってる立場で贅沢は言えねぇ。せっかく用意してもらったんだからよ、残さず食おうじゃねぇか……」


 そして小声でこう続けたのである。


「……でなきゃ何をされるか分かったもんじゃねぇからなあ」


 朝食を取るダイニングルームには多くの組員たちが集まっている。皆、テーブルを囲みながら同じ献立の料理を食べている。


 この組において村雨の意向は絶対。それは食文化も例外ではなく、誰もが組長の好むものを食している。文句を言うことは絶対に無いのだろう。


 先ほどの軽口が彼らに聞こえてしまったようだ。物凄い形相で睨まれている。


「……」


 俺は溜め息をついた。そしてわざとらしく言い放つ。


「ああ、美味いな。村雨組の飯は。やっぱり朝はこうでなくちゃなあ」


 すると組員たちは一斉に頷いたのだった。そんな彼らを見て俺は思うのだ。やはりこいつらは忠臣の集まりであると。


 いくら稼業人とはいえ、ここまでボスに服従する組織が他にあるだろうか。中川会の執事局ですらもう少し規律が緩やかだというのに。


 そんな連中が食事を取りながら繰り広げる話題と云えば専ら情勢について。聞き耳を立ててみると、何やら昨晩のうちに大きな変化が起きていたようだ。


「向こうから赤文字が届いたらしいな。こっちが送ったのと入れ替わりで」


「ああ。まったく用意周到なことだぜ。橘組のお兄さん方も本気で村雨組うちを潰してぇと見た」


 未明に村雨組のポストに入っていたという赤文字=討奸状。このタイミングで届いたということは、先方は事前に準備しておいたということ。潜り込ませた偽ノミ屋がこちらの手で始末されるのを見計らって『組員殺害の咎』を口実に戦争を吹っかけてきたのだ。要は何もかもが橘威吉の計算通り。油断も隙もあったものではない。


「いよいよ戦争が始まるってことか……」


 組員の一人がそう呟いたのとほぼ同時。背広姿の下っ端が血相を変えて飛び込んできた。


「大変です! 茅ヶ崎の湘南しょうなん龍曜りゅうようかいが松下組に寝返りました! さっき屋敷の郵便受けに離反状が……!」


 その言葉で室内に衝撃が走った。


「な、何だと!?」


 湘南龍曜会は茅ヶ崎市から平塚市と小田原にまで勢力を拡げる組織だ。構成員は300人ほどで、旧横浜大鷲会の壊滅後に村雨組が傘下に入れた団体だった。


「あの浮かれ野郎ども、やっぱり裏切りやがった!」


「ふざけんじゃねぇぞ! こっちと手ぇ組んで橘をるって話だったじゃねぇか!」


 組員たちが口々に叫ぶ中、俺は改めて思わされる。いよいよ戦争が始まったのだと。村雨組は一歩出遅れてしまった。


 県南の茅ヶ崎を仕切る湘南龍曜会が松下組に付いたということは、神奈川における村雨組の勢力が半分に削られた事実を意味する。ましてや傘下団体の離反だ。いきなり敵方に背後へ回り込まれたといっても過言ではない状況である。


 すぐさま緊急会議が催された。


「うーん……まさか橘が湘南を調略していただなんて……流石にあそこはノーマークだったなぁ……」


 大広間の畳に脚を投げ出し、菊川は頭を掻いた。


「湘南が敵に寝返ったとなると、僕らは後ろを取られたも同然。せっかく中川会を味方に付けて後顧の憂いを絶ったというのに」


 同じく畳に胡坐をかいて座る村雨耀介が吐き捨てるように言う。


「仕方あるまい。彼奴らは元より我らに友好的ではなかったのだ。橘との戦が無くても遅かれ早かれこうなっておったわ」


 今や村雨組は煌王会の大半を敵に回している。そんな所に従っていても先は明るくないと考えたのかもしれない。ともあれ、湘南龍曜会の裏切りがもたらす最大の痛手は敵方の神奈川侵入を事実上許してしまったことだ。


 畳に拳を叩きつけて沖野が怒鳴った。


「クソがっ! これじゃあ松下の兵隊がいつ横浜になだれ込んできてもおかしくねぇじゃねぇか!!」


 彼に頷いて柚月も言葉を吐く。


「ええ。我々はさっそくチェックメイト寸前まで追い詰められたというわけです。少なくとも西への進撃は撤回しなくてはならない」


 敵の大将を誘き出すために伊豆へ乗り込むという算段だったが、湘南が寝返ったとなっては難しい。敵の勢力を間近に本領の守りを手薄にはできないからだ。


「そうだなあ……」


 柚月の言葉に菊川は口ごもった。すると政村が言う。


「まあまあ先輩方。そう慌てないでくださいよ。何であれ大将を誘き出して討ち取ればこっちの勝ちなんだから、伊豆にこだわることもぇでしょう」


 何だか他人事のような口調だ。


「いや、確かにその通りなんだけど。具体的にどう戦うのって話よ。派手に暴れられる場所は伊豆以外に存在しないわけだから」


「湘南でやりゃあ良いでしょう。龍曜会が橘側に寝返ったからは、その溝端とかいう大将格が茅ヶ崎あたりに来てるんじゃないですか?」


 そこを奇襲して討ち取れば良いと主張する政村。なるほど。言われてみれば確かに一理ある。指揮官が現地に直接赴いて調略をするのが松下組のモットーというなら、溝端は湘南龍曜会のある茅ヶ崎市を訪れているはず。そこを突く作戦は大いに有効だ。この男もたまには良いことを考え付くと思った。


「しかしですね、政村さん。今の茅ヶ崎に溝端が居るとは限りませんよ。これまで我らに気付かれぬよう水面下でコソコソ調略してた可能性もあります」


「だとしても行ってみなくちゃ分からねぇだろ。水尾組うちの兵隊を何人か偵察に出して、ビンゴだったら本隊で乗り込んでぶっ潰せば良い」


 懸念を表明する柚月に対してやや強気に言い切った政村。すると村雨組長は腕組みをして唸るのだった。


「まあ、待て。偵察をするにしても人手が必要なのだ。使える兵は一兵でも惜しい今この時に無駄足はなるだけ避けたい」

 そう言った組長に政村は反論する。


「何もしないとおっしゃるんですか? 敵が不穏な兆候を見せているというのに手をこまねいているおつもりですかい!?」


 天下の残虐魔王を相手にこうも堂々とぶつかるとは大した度胸。「てめぇ! 組長に向かって!」といきり立つ沖野を制して、村雨が淡々と答える。


「そうではない。斯様な時こそ慎重にならねばと申しただけだ」


「悠長な。敵はいつ攻めてくるかも分からねぇんですよ!? だったら今すぐに手を打った方が良いに決まってるでしょう!」


 政村の物言いに組長は言った。


「落ち着かぬか政村。何もせぬとは申しておらん。まずは冷静に敵の出方を窺うのだ」


 すると彼は舌打ちを鳴らしたのだった。その反応を見て俺は思うのだ。ああ、やっぱりこいつは単に自分が一番最初の武功を挙げたいだけなのだろうなと。


「はあ……」


 ため息をついた政村はさておき、村雨は懐から一枚の和紙を取り出していた。


「これは今朝に届いた書状だ。湘南龍曜会の波木康次郎会長が私に宛てて送ってきたものだ」


 そう言って村雨は和紙を拡げて皆に見せた。近づいて視線を落とすと実に達筆な筆文字だと分かる。そこには『拝啓 村雨耀介公』という始まりでこう書かれていたのだった。


『湘南龍曜会は、本日12月17日をもちまして村雨組および煌王会を脱退いたします。理由といたしましては、湘南の地域経済を軽んじる関西ヤクザのやり方に義憤を覚えたからです。よって今後は貴公の如何なる要求にも応じかねますことを何卒ご了承くださいませ』


 文末に『波木康次郎』の名が書いてある限り、それが湘南龍曜会から正式に送られたものであることは明白。しかしながら俺には引っかかる部分があった。

「……煌王会を脱退する? 村雨組だけじゃなくか?」

 思わず呟いてしまった俺に村雨が声をかけた。


「うむ。気付いたようだな。涼平」


 そうして彼は眉間に皺を寄せる。


「私も腑に落ちなかったのだ。我が組のみならず煌王会をも脱するとは。もしや奴らは直ちに松下組に付くわけではないのではないか?」


 普通、村雨組を離反して松下組に付くならばそのように書くはず。ところが、この書状では煌王会そのものから離れると記されているのだ。まるで“関西ヤクザ”を激しく憎んでいるかのような文章表現、これを読んだだけで湘南龍曜会が松下組に寝返ったとは何とも断言しにくい。


「態度を決めかねてるってことですかね?」


 そう疑問を呈した俺に、村雨は「ううむ」と呟くように答える。


「奴らは私が国と取り決めた大磯港の埋め立て普請を不満に思うておるゆえ、今さらこちらに帰参することは無いだろう。あれは煌王会本家の意向でもあった」


 大磯港の拡張工事は、名古屋のゼネコンを配下に置く煌王会本家が村雨に命じて行わせたシノギ。現地住民の民意を半ば無視する形で決められたため、地元の顔役たる湘南龍曜会が叛意を抱くのは当然。『煌王会の傘下であり続ければ割を食う』と考えたのなら村雨組どころか煌王会全体、もちろん松下組に向けても敵対心が湧くことだろう。


 しかし政村は納得いかないといった様子で反論する。


「橘威吉は敵を味方に付ける天才ですよ? 『あれは長島のしたことであって俺たち松下組は違う』と湘南の田舎者どもを言いくるめたかもしれませんぜ?」


「仮にそうだとしても、湘南が煌王会と手を組むことは最早無い。橘が如何ほどの高禄で誘ったとて無意味だ。お前もかつては同じ代紋にて禄を食んだ身、波木の人柄は存じておろう?」


「まあ……確かに地元愛が深い男ではありましたけど……」


 大金を提示されて“関西ヤクザ憎し”の信念が折れるか否かは微妙なところ。政村は押し黙ってしまった。


「ともかく今は情報が欲しい」


 村雨がそう言うと菊川が口を開いたのだった。


「それなら良い手があるよ」


 皆の視線が彼に集まる中、彼はこう言った。



「麻木クンを行かせてみるってのはどうだい? せっかく自由に行動できる遊撃部隊なわけだからさ……?」


 やはり俺に白羽の矢が立ったか。菊川の提案に村雨は頷いた。


「うむ。その手で行こう」


 こうして俺は村雨組の縄張りであった湘南地域を偵察する役回りを担うこととなったのである。任務の主旨は一つ。湘南龍曜会が村雨組を離反して松下組に付くのか、あるいは中立の立場を取るのか、事実関係を見極め、場合によっては武力をもって湘南を村雨組の縄張りに戻すことだ。


「涼平。どうにか波木に我が臣下へ戻るよう諭して参れ。万に一つ奴が既に橘の盃を呑んでいたとて、中川会のお前が行けば無碍には出来まい」


「なるほど。中川は同じく関東系。龍曜会サイドが敵意を向ける理由は無いですからね。分かりました。やってみましょう」


「頼んだぞ」


 そうと決まれば行動開始。俺は酒井と原田を伴って車を走らせる。


 横浜から湘南までは車で45分。首都高神奈川3号狩場線を降りれば、海風の香る街が見えてくる。茅ヶ崎市だ。


「ここが湘南……」


 横浜の市街地とはまるで違う光景に俺は少し驚いた。横浜と違ってビル群が少ないためか、少し高度のある土地に行けば海が視界に飛び込む。


 そして何より驚いたのは観光客向けの飲食店の多さである。神奈川県内でもなかなかの経済規模を誇る茅ヶ崎市だが、その大半が三次産業で成り立っている。温暖な気候と美しい海を楽しみに訪れる観光客こそが地域産業の基盤なのだ。


「さて……どこから行くかな」


 とりあえず湘南龍曜会の本部を目指すことにした俺。すると、ラチエン通りを走っていた頃だろうか。背後から妙な気配の接近に気付いた。


「ん?」


 バックミラーで確認すると、そこには一台のバイクが映っていた。その乗り手はフルフェイスヘルメットを被っているため顔は分からないが。男とも女とも判別しづらい華奢な体格である。


「……何だ? 尾行か?」


 俺は車を止めるよう原田に指示を飛ばした。と、その瞬間に向こうも停まる。どうやら傭兵の第六感が的中したようである。


「ちょっと出て来るわ」


 そう部下たちに言い残して俺は車を降りた。狭い道路を行き交う車とバイクが織りなす喧騒の中、俺とその刺客は対峙したのだった。


「おい。そこのお前。俺たちがこの街に入った時からずっと着いてきやがったな、何者だ?」


 単刀直入に訊く俺だったが、向こうは無言のまま。ヘルメットのシールド越しの視線を感じるだけだ。


「おい!」


 少し語気を強めると、相手はやっと口を開いたのである。


「……ふふっ。恐れ入りましたよ」


 その声は男のものだった。おまけに聞き覚えのある声だ。如何なる理由わけあってかは分からないが、とりあえずは質してみる。


「どういうことだ? 柚月さんよ?」


 俺の言葉を受けた男はようやくヘルメットを脱ぐ。銀色のロングヘアをたなびかせて現れたのは美青年は柚月宰。ご存じ村雨組の若頭補佐だ。


「いつから気付いてたんですか?」


「国道に差し掛かった時だ。後ろから妙な気配がしたんでな」


 俺がそう言うと彼は微笑んで言った。


「さすがですね麻木さん。僕の尾行に気付くなんて。隠密行動は自分の専売特許だと思ってましたが、考え直さなくてはならないらしい」


 バレバレの尾行で専売特許とは笑わせる。せめてバイクの消音機に特殊加工を施してから上手を名乗って欲しいもの。そんな彼に俺は訊いたのだ。

「お前、どういうつもりだ? なんで俺の後なんか着けてんだよ?」


 すると柚月は言うのだった。


「決まってるでしょう。あなたがおかしなことをしないか監視するためですよ、麻木さん。中川会の人間であるあなたがね」


「余計なことだと?」


「ええ。あなたが茅ヶ崎を偵察するふりをして、ちゃっかり湘南龍曜会を自陣に引き込む調略を行うんじゃないかと思いまして。僕は心配だったんですよ」


 俺は鼻で笑った。

「はあ? 馬鹿も休み休み言いやがれってんだ。俺が何でそんな真似をする必要があるんだよ、連中が必ずしもこっちの味方とは限らねぇってのに」


 すると柚月は言う。


「では、何故わざわざこんな狭い通りに来たんですか?」


 奴は実に口が達者な男で、喋らせれば次から次へと言葉が出てくる。そうして相手を煽って思い通りの回答を引き出す心理戦略なのだろう。


「湘南龍曜会の本部は中海岸の方だというのにどうしてここへ? まさか『かの有名なラチエン通りを観に来た』なんて言いませんよね?」


「ふっ。生憎、俺はこの辺りの地理には疎いもんでなあ。たまたまだ」


「たまたま? それにしては随分とゆっくりと走っていたみたいですが? 普通に走り抜けるにしては遅すぎだったのでは?」


「いいや。初めて来る街で車の速度が落ちるのは当然のことだと思うが。先方の人間と密会するつもりだった云々と難癖をつける気なのか分からねぇが、俺にそのつもりはぇぜ」


 すると柚月は「やれやれ」といった様子で苦笑しながら言った。


「あなたは本当に分かりやすい人ですね、麻木さん。人は何か隠し事をしている時ほど多弁になるんです。まさに今のあなたみたいにね」


 申し訳ないが、その程度の揺さぶりでどうにかなるほど軟弱な俺ではない。表情をまったく変えず即座に言い返した。


「いちいち無駄な勘繰りをする人間は嫌われるぜ。俺はあんたの組長から命令を受けてこの街へ来たんだ。そいつを邪魔することの意味が分からねぇのかい?」


 しかし柚月はあっさり答えてのける。


「まあ、良いでしょう。あなたが何を企んでいようと僕のすることは変わらない。組にとっての不届き者を始末することだ……」


 そうして俺の方へと距離を詰めて来た柚月。彼は鋭い視線をぶつけ、怒気のこもった声で凄んだ。


「……コソコソ動き回ってんじゃねぇぞ。中川から送り込まれたネズミ野郎が」


「おいおい。何を言ってやがる? 俺はあんたら村雨組を助けるために遣わされたんだぜ?」


 こちらも睨み返す。俺の拳の実力について柚月は昨日の時点でその恐ろしさを知っている。暫くの間、静かなる気迫の応酬が続いた。


「……」


 やがて心配になったのか、車の窓から酒井と原田が覗き込み始めた頃。先に表情を崩したのは柚月の方だった。


「ふっ。まあ、良いでしょう」


 彼はそう言って俺から離れた。


「麻木さんのその態度が演技でないのなら、僕はあなたを信じます。でも……」


 柚月はそこで言葉を区切って言った。


「……もし嘘だったなら、その時は覚悟しておいてください。念のためこの街でのあなたの素行は逐一監視させて頂きますので」


「ああ。構わねぇさ。好きにしろや。けど、くれぐれも俺の仕事の邪魔はするなよ。もし少しでも粗相があればその時は問答無用でテメェを殺す」


「ご勝手に」


 そう吐き捨てて柚月はバイクにまたがる。このまま俺も立ち去ろうかと思いきや、彼が思いがけない質問を浴びせて来た。


「麻木さん。ひとつ、質問させてください。あなたはどうして6年前に村雨組を離れたんですか?」


「……」


「かつてのあなたは組長に拾われたと聞きましたけど? 誰よりも村雨耀介に忠誠を誓っていたと聞きましたけど?」


 俺は答えなかった。答えることができなかったのだ。動揺を悟られぬよう、答えになっていない台詞を放つのが精一杯だった。


「……あの時は色々と事情があったんだよ。個人感情でどうこうできる話じゃねぇ。もう行って良いか。俺も忙しいんだ。お前と遊んでる暇は無い」



 すると柚月は言う。


「まあ、良いでしょう。その答えが何であろうと村雨組の敵となった時には、あなたは僕の敵だ。そこん所は、よく覚えておいてくださいね」


 俺は溜め息をついて車に乗り込む。


「はあ。面倒な奴もいたもんだ。この6年の間に村雨組も変わったぜ」


 すると酒井と原田はすっかり憤っていた。


「ったく! こっちが黙ってりゃあ良い気になりやがって、あのオカマ野郎! 次長に向かって何て言い草だ!」


「あのクソ野郎、腹が立ちますね! 軽くボコってやろうかな! 兄貴にあんな口の聞き方をするなんざ許せねぇ!」


 そんな彼らを「せやい」と窘めた一方、俺は自分の心が少し平静さを欠いてしまったことに気付く。柚月の問いに俺は如何なる返事を用意したというのか。あの時の出奔の理由を明確に説明できなかったではないか。当時の俺の行動で村雨組は破滅を免れた。それでも、出奔の事実は変わらない。何がどうあれ、組員からすれば俺はただの裏切り者なのだ。


「……情けねぇよなあ」


 そう呟いて捨てた俺。だが、部下たちは全力で否定した。


「そんなことありませんって!」


「そうです、何だか知りませんけど兄貴は男の中の男っすよ!」


 俺は2人の言葉に救われたような気がした。そして同時に柚月宰の言った言葉を思い出す。『かつてのあなたは組長に拾われたと聞きましたけど? 誰よりも村雨耀介に忠誠を誓っていたと聞きましたけど?』という核心を抉り取るような詰問の句を。


「ふっ……」


 思わず笑みがこぼれる俺。確かにそうかもしれないなと思ったのである。


「まあ良いさ。とにかく今は偵察だ」


 俺は原田に出発を促す。後ろには依然として柚月のバイクがある。おそらく今日は俺の後をずっとついてくるだろう。


「面倒な野郎に付きまとわれるとはな」


 そう俺が吐き捨てるのと同時に、車が動き出す。ところがその直後。突如として原田がブレーキを踏んだ。


「っ!?」


 何があったのかと前方を見やると、スーツ姿の男らが俺たちの行く手を塞ぐように立ちはだかっていた。


「兄貴! あれは……!」


 酒井がそう叫ぶ。俺は頷いた。


「ああ、ヤクザだ」


 スーツの男たちの正体は見紛うことなくヤクザだった。それもそのはず。全員が厳つい風貌をしている上に日本刀や金属バットといった得物類を携行している。


 柚月の野郎、俺を嵌めやがったか!


 そう直感して苛立ち任せに舌打ちを鳴らして後方を睨む。柚月はバイクに乗ったままその場に立ち続けていた。彼の後ろにもヤクザたちが集まっている。


 だが、どういうわけだろう。その男らは柚月が呼び寄せた風というわけでもなさそうである。むしろ彼に向って敵意を剥き出しににじり寄っていた。


 ヘルメット越しに柚月の表情が強張るのが分かる。あれは明らかに動揺している。想定外のことが起きて困惑している人間特有の顔だ。


「次長!」


 酒井が叫ぶ。


「どうしますか? ぶっ飛ばしますか!?」


 さて、どうするか。原田も興奮して「やっちまいましょうぜ!」と顔を真っ赤にする中、俺は冷静に頭を捻って部下に命じた。


「お前ら。俺を降ろしたら車を真っ直ぐに走らせて、そのまま横浜まで戻れ。前の奴を何人か轢いても構わねぇぞ」


 きわめて淡々と指示を飛ばしたことには大きな理由がある。敵の正体が何であれ、ここでの面倒事に彼らまで巻き込む意味はないと感じたからだ。


「……」


 俺の部下の長所は呑み込みが早いところだ。特に真意を説明するまでもなく、彼らは容認したらしい。


「へいっ!」


「兄貴、お気をつけて!」


 単純さが時として役に立つこともある。俺が車から降りると彼らはそのままアクセルを踏んで走り去っていった。2人とも俺が敵とナシを付けるのだろうと思ったのだろうが、本心は違う。


 柚月への助太刀だ。


「おう。俺もいるぜ」


 そう呟いて前方のヤクザたちを改めて見据えた俺。敵の中に銃を持った者は居ない。住宅街での発砲を躊躇う事情があると考えるべきか。


「……テメェら。何処の組のモンだ?」


 すると先頭に立つ男が答えた。


「俺たちは湘南龍曜会だ」


 やはりそうかと思う俺だったが、同時に疑問が湧く。何故に俺たちの所在が彼らに知れたのかという謎である。その答えの予想は瞬間的に思いついたが、柚月の声によってすぐさま否定された。


「麻木さん……! まさか、あなたの仕業ですか!?」


 どうやら彼が仕組んだことではないらしい。悲鳴にも似た素っ頓狂な声を聞けば明らかだ。俺は鼻で笑う。


「ふっ、んなわけねぇだろ。たぶんどっかで見られてたんだよ。街中に監視の糸を張り巡らすとは湘南龍曜会の情報力は侮れんわな」


「とぼけるな! あんたは村雨組を裏切ったのか!?」


 ここで湘南の奴らと通じて柚月を嵌めることなんて不可能だろうに。柚月はなおも続けたのだった。


「やっぱりあんたは食わせ者だったか! こいつらとグルになって僕を嵌めるとは! 結局は村雨組を裏切るつもりなんだな!」


「は? 何を言ってやがる。お前、大丈夫か?」


 俺は呆れてそう言うが、柚月は止まらない。


「ふざけるな! あんたの狙いは何だ!?」


「狙いか。まあ、そんなの決まってるじゃねぇかよ……」


 そう言って俺はニヤリと笑うのだった。そして冷淡に言ってやった。その一言を長ったらしい説明に代えるがごとく。


「……このクソみてぇな状況を打開することだ」


 軽く呟いた瞬間、男が背後から飛びかかってきた。


「何をべちゃくちゃ喋ってやがる!!」


 俺は気配だけを頼りに右足を後方へ突き出し、男の鳩尾に蹴りを食らわせる。


 ――グシャッ。


 破裂音と共に男が倒れ込む。


「な、何だコイツは!?」


「中川会にこれほどの使い手が!?」


 他のヤクザたちが動揺する中、俺は言った。


「さあてと……何で俺が中川会だって知ってるのかは分からんが……」


 そして淡々と続ける。


「……とりあえず全員ぶっ殺すぜ?」


 彼らの空気が凍り付いた。それはそうだろう。自分たちの仲間が、たった一撃の蹴りで内臓をぶちまけて息絶えたのだから。


 まあ、無理もない話だろうと思う一方で、俺は柚月の方に向き直って問うた。


「どうだい? 俺がこいつらとグルじゃないって分かってくれたか?」


 その言葉に柚月は軽く頷いた。


「ええ。どうやらそのようですね」


 俺は溜め息をつく。


「ったく、世話の焼ける野郎だぜ。お前さぁ、もう少し冷静になれよ?」


 すると柚月は僅かに笑んだ。


「すみませんね。相手を簡単に信用してはならないのはヤクザの鉄則なもので。あなたが村雨組長から何を教わったかは知りませんが、少なくとも僕はそう教わりましたよ」


 慇懃な謝罪に嫌味まで付け足してくるとは。相変わらず気に食わない野郎だ。ともあれ、彼の敵意が少し薄まったようなのでそれはそれで良い。


「まあ、良い。それよりお前、これからどうするつもりだ?」


 柚月はヘルメットを脱ぎながら答えた。


「決まってるじゃないですか。この者たちを返り討ちにするんですよ。あなたに華を奪われて堪るものですか」


 俺は小さく頷いた。


「そう来なくっちゃな」


 そして俺は前方を見据える。ヤクザたちは完全に戦意を欠いていた。中には、わなわなと震えて腰を抜かしている者までいる始末だ。


「じゃあ、行くぜ」


 そう言って一歩踏み出す俺だったが、それを制止したのは意外にも柚月宰だった。彼は俺の腕を掴んで言ったのだ。


「お待ちを。ここで闇雲に暴れても意味が無い。お互い同士討ちで怪我をするのは避けたいことですし、役割分担を決めませんか」


 おいおい。こちらは2人しかいないのにフォーメーション等を決めたところで何にもならないだろうが。まあ、そうは思ったがここはお手並み拝見といくか。


「分かったよ」


 そうして後方に下がった俺に柚月は言った。


「では、僕が敵を引き付けますので。麻木さんは僕の攻撃を合図に飛びかかってください」


「おう」


 俺は頷いた。村雨組若頭補佐の柚月宰。その喧嘩の腕前は大口に見合うほどのものなのか、じっくり確認させて頂こう。


「では参ります」


 そう言ってジャケットの内側に手を突っ込む柚月。さっそく銃を取り出すか。そう思った矢先、俺の予測は見事に外れた。


「おっ!?」


 なんと彼が取り出したのは透明な苦無。それを3本同時に構えると、前方に向かって勢いよく投げつけたのだった。


 そのスピードと正確さたるや、まるでダーツの矢のように真っ直ぐ飛んでいき、相手の急所を的確に捉えていった。3本とも命中だ。


 あれは硝子苦無。江戸時代に長崎で生まれた暗殺武器で、オランダ商人たちの監視にあたっていた幕府の密偵たちが好んで用いていたとされる。


「ううっ!」


「何だ、あれは!」


「は、速い……!」


 3人の男が呻き声を漏らして倒れる中、残りのヤクザたちは恐れ慄くばかり。まったく情けない連中である。


「ふっ。口ほどにも無い」


 鼻で笑う柚月。俺は彼の背中に向かって言う。


「やるじゃねぇか」


 しかし、彼は振り向かずに言ったのだ。


「ほら、何をボーッとしてるんですか。さっさと飛びかかってくださいよ。僕に遠慮をする必要なんてありませんからね」


 勿論、そのつもりである。俺は直後にスタートを切って敵に襲い掛かった。


「でやああっ!!」


 俺はヤクザの1人を殴り飛ばした。そいつが地面に倒れ込むと同時に他の奴らが襲い掛かってくる。だが、そんな雑魚どもにやられる俺ではない。


 1人は蹴りで顎を蹴り上げると、その勢いのまま回し蹴りを食らわせてやった。もう1人は顔面にストレートパンチを叩き込むと、そいつは吹っ飛んで地面を転がりながら昏倒した。次なる敵兵は金属バットを振るってきたのでそれを躱しつつカウンターのアッパーカットをお見舞いする。


「ぐあっ!」


 最後の1人は短刀で切り付けてきた。だが、俺はその腕を掴むと力任せに関節をへし折った。


「ぐぎゃっ!?」


 そして怯んだ相手の腹に強烈な掌底を叩き込むと、そいつは後方へ吹っ飛んでいった。そしてそのまま地面に倒れるのと同時に他のヤクザたちも一斉に倒れ伏すことになる。


 柚月はと言えば、彼は俺に背を向けたまま淡々と苦無を投げ続けていた。


「へっ、面白れぇな」


 俺はニヤリと笑んだ。柚月の奴、なかなか面白いことをしてくれるではないか。こちらの予想を良い意味で裏切ってくれる。


 やはり俺の見立ては間違っていなかったようだ。あの野郎が村雨組で出世する可能性は大いにあると確信した。


「仕上げと行くか!」


 俺が叫ぶと同時に柚月も動いた。彼は敵陣に突進し、その中央で懐から新たな武器を振り回す。それは鉄扇だ。


「はああっ!!」


 そして、その鉄扇を勢いよく一振りすると、凄まじい衝撃波が巻き起こる。それはまさに竜巻だった。ヤクザたちは為す術もなく飲み込まれていき、やがて全員が地面に倒れ込んだ。


「やるじゃねぇか」


 俺も負けてはいない。ヤクザたちの中に突っ込んでいき、次々と殴り倒していく。


「おらっ! どうした!? そんなもんかよ!」


 怯えて逃げ惑う敵方に拳が炸裂。無様に許しを乞う声が聞こえたが、この期に及んで手加減をするほど俺は優しくはない。


「や、やめてくれぇっ! うぎゃあっ!」


「ひいっ! ひいいっ!!」


 ヤクザたちは次々と倒されてゆく。そして最後の1人となったとき、涼平はそいつの胸ぐらを掴んで持ち上げた。


「よう? てめぇら、湘南龍曜会だな? お前らの親分は何処にいる?」


 その男は泣き喚きながら答えた。


「ほ、本部にいらっしゃる! 案内する! 案内するから! 殺さないでくれ! どうか命だけはッ!」


 俺は男を放すと、その背中を蹴ってやった。


「おう。案内しろや」


 男は地面に倒れ伏すも必死に立ち上がり、よろめきながらも歩き始める。


「さっさと歩け。それともここで殺されてぇのか」


 その言葉に恐怖を感じたのだろう。男は慌てて駆け出したのだった。柚月がため息をつきながら鉄扇を懐に仕舞う。


「はあ。まったく、極道の風上にも置けない奴らだ。簡単に脅しに屈した挙げ句に親の居所をペラペラ喋るなんてね」


 そんな彼を俺は拍手で称えた。


「やるじゃねぇか。さっきの技は見事なもんだった」


 すると柚月は鼻で笑う。


「ふん、当然ですよ。この僕を誰だと思っているんですか。近江月岡流忍術免許皆伝者の実力を舐めないで頂きたい」


 俺は肩を竦めた。先ほどの華麗な体捌きは、よもや忍術だったとは。近江おうみ月岡つきおかりゅう忍術にんじゅつとは室町時代に登場した忍術流派である。伊賀いがの里出身の者が開祖であり、その特徴はとにかく敵の暗殺に特化した殺しの技を得意する点にある。また江戸時代には服部一族と並ぶ江戸幕府直属の諜報機関としても知られており、近江月岡流の忍たちは暗殺や破壊工作といった任務も請け負っていたという。


 才原の使う朽葉流忍術とは似て非なる流派。そんな名門から免許皆伝を受けたともなれば体術にも長けているというわけだ。俺は素直に感心したのだった。


「お前、すげぇよ。俺は忍術を使う奴を他に知ってるがそいつは鉄扇を使わないもんでな。一対多数の戦いでああまで有利に立ち回れるとは」


「ええ、鉄扇術は近江月岡流のお家芸みたいなものですからね。そういうあなたも古武術経験者じゃないですか。もしや鞍馬菊水流?」


「まあな」


 誤魔化すように笑った俺に柚月は言った。


「ほう。やっぱり。俺も修業時代に聞かされましたけど、まさか実在していたとはね。驚いたものだ。何処で習ったんです?」


「外国で、ちょっとした縁があってな。その人に見込まれて伝承を受けたんだ。あんまり詳しくは話せないけどな」


「なるほど。鞍馬菊水流は平安時代から続く一子相伝の殺人武術。流派の掟で迂闊な他言はできないってわけですか」


「よく知ってるじゃねぇか」


 瞳をキラキラとさせながら尋ねてくる柚月。なるほど、この男は古武術オタクか。うっかり掟を破ってしまわぬよう俺が気を配ったのは言うまでもない。


「そりゃあ古武術やってる人間からしたら鞍馬菊水流なんて伝説みたいなものですから」


「ほう。他流派の皆様方にそんなに持ち上げられてるとは意外だぜ」


「当然ですよ。何せ地上最強の徒手空拳による近接格闘術ですからね。刀や槍などの武器を持たずに戦うことができて、その技の数々は鎧武者をも打ち倒せるほど強力だとか」


「ああ、そう言われたらそうかもしれねぇな。俺自身は自分テメェの技が最強だと思ったことはねぇけど」


「考えてみれば面白いですよね。古代の日本人の体捌きって。筋肉に頼らず純粋な体の動きだけで人智を超えた馬鹿力を出すんですもの」


「そうだよなあ」


「鞍馬菊水流は平安時代に京都で生まれた武術の分派って聞きますけど、その元となった本流はもっと凄いんだろうなあ。奥が深すぎますよ」


 少し話がこみ入ってきたので、軌道修正を図る俺。このままだとうっかり流派の秘密を漏らしてしまいそうで危うかった。


「……さて、行こうぜ」


「ええ。行きましょうか」


 バイクを押す柚月に肩を並べて、俺は歩き出す。前方を見やると湘南龍曜会のチンピラがおずおずと歩いている。組の本部は意外と近いらしい。


「それにしても茅ヶ崎ってのは洒落た街だよな。街並みがどうもマイアミみてぇだ。ラチエン通りって名前もイカしてやがる」


「へぇ。そうなんですか。僕は外国は香港しか行ったことがありませんから同意しかねますが」


「俺もアメリカにはまだ行けてない。でも、前にテレビか何かで見たのにそっくりなんだよな」


 すると柚月は「確かに海と近いですからね」と返し、大きく伸びをしながら続けた。彼の表情が少しばかり柔和になっているのが分かった。


「まあ、僕は海外旅行は嫌いなんで行きませんが」


 その言葉に俺は思わず苦笑する。この優男め、勿体無いことを言いやがるぜ。海外の文化や風習に触れれば自分の視野が広がるってのによ。


「外国は仕事で十分ですよ。わざわざ高いカネを払ってまでプライベートで行く価値があるとも思えない」


「俺も仕事っつうか止む無く外国に逃れたようなもんだからな。でも、行ってみれば意外と面白いもんだ。自然と英語も身に着く」


「英語を覚えたいなら音楽でも聞けば良い。最近は流暢な発音をするアーティストが邦楽でも増えてきましたから」


 よく見ると柚月は左耳に何かを付けている。耳に直接付けて聴くタイプの小型音楽プレーヤーのようだ。


「へえ、そうなのか」


「昔の曲は酷かったですけど、僕が推してるロックミュージシャンは違います。本当に発音が綺麗でネイティブと比べても何ら遜色は無い」


 柚月が左耳の端末を操作する仕草を見せたので俺は尋ねる。


「そりゃ知らなかったぜ。何て曲だ?」


 すると彼は得意気に答えるのだった。


「神野龍我の『VIRGIN BLOOD』ですよ」

「ああ! その曲は俺も知ってるぜ! こないだ出たアルバムは最高だったな!」


「ええ。僕もあのアルバムには感銘を受けました。特にラストナンバーの『TRUE TRAILER』は名曲だと思います」


「確かにあれは良い曲だ。俺もそう思うぜ」


 まさか、この柚月が神野龍我を好きだったとは。自分と音楽の好みが似ていた点も含めて意外である。俺と同じくバンド時代からのファンであるようだ。


「実は僕、LUVIAルヴィアの横浜のライブも観に行ったんですよ。97年の横浜スタジアムの『THEATER OF LUVIA』です」


「おおっ、マジか! それは俺がチケットを買うカネが無くて行けなかったやつだな。神野が歌い始める直前でマイクを落としたんだったよな」


「ええ。よくご存じで。龍我の発音はLUVIAの頃から別格でしたよ。英語は川崎のショーパブで外国人相手に身に着けたそうですから。他の歌手とは年季が違います」


「えっ? 神野龍我って川崎出身だっけ?」


「そうですよ。LUVIAはドラムスの中村みつる以外は全員が生まれも育ちも川崎育ちです。龍我の実家は中原区の市ノ坪にあるそうで」


 話を聞いた俺は腰が抜けそうだった。自分が中学生の頃からずっと憧れのロッカーと同郷だったなんて、市ノ坪といえば俺にもなじみの深い土地だ……思えば俺は神野龍我の出身地について考えたことなど一度も無かった。そんな俺に柚月は続ける。


「川崎の不良が今や国民的ロックシンガーになったわけです。尤も、龍我は16歳で上京して以来、地元には帰ってないらしいと聞きますけど」


「凄ぇよな……」


「ちなみに僕はクリスマスは東京ドームのライブに行く予定です。最新アルバム『GATE THE FATE』を引っ提げたツアーの最終公演。楽しみで仕方ありませんよ」


 生憎、その日は俺は別の用事が入っていた。大江戸プロレスが主催する『ビッグモンスター来日記念スペシャルマッチ』を12月24日に日本武道館で仕切ることになっており、どうしても席を外せないのである。よく考えると神野龍我のドームライブに客を取られてプロレスの方が不入りになるのではないか……そんな懸念が頭をよぎる。


「ま、まあ、楽しんできてくれや」


 いよいよクリスマスが来週に迫ってきている中、俺の頭は仕事でいっぱい。欲を言えば俺もプライベートな時間を過ごしたいが、そうはいかないようである。


「ええ。楽しんできますよ。あなたの分までね」


「あれ? 待てよ? 松下組とのゴタゴタが片付いていない以上、あんたも出かけるに出かけられねぇんじゃねぇの?」


「ご心配なく。うちの組長は子分の働きを労ってくださる方ですから、休暇は取りたいときに取れるんですよ。たとえ戦争中であろうとね」


 村雨耀介がそこまで甘い御仁とも思えないが、まあ村雨組の内部事情だ。中川会の俺には関わりが無いことなので放っておくとしよう。


「さて。着いたみたいですね」


 そんな他愛もない話をしているうちに大きな日本家屋が見えて来た。中海岸に程近い場所に建てられた湘南龍曜会の本部である。


 案内役を押し付けたチンピラ男が、震える声とともに手招きした。


「こ、ここが湘南龍曜会うちの本部です」


 それを聞いた柚月が「へぇ。初めて来たけど意外と立派な建物じゃないか」と呟くとチンピラ男は恐縮するように答えた。


「お、恐れ入ります! 柚月の旦那!」


「何だよ。僕のことを知ってるのか。だったら、今回のお前たちの行動が立派な裏切りだって事実は分かってるよな?」


「へ、へい……」


 そして彼は門扉を開きながら俺たちを通す。俺たちは敷地内に足を踏み入れる。すると玄関先で俺はあることに気付いた。


 居ないのだ。


 組員の姿がまるで見受けられない。親分の屋敷と云えば本来なら多数の組員が詰めているはずだ。それが無いのは不自然である。


「なあ、柚月さんよ」


 俺は疑問に思って尋ねた。


「どうしたんです?」


「湘南龍曜会ってのは300騎は揃えてるって聞いたぜ。それにしちゃ組員が少なすぎねぇか? 親分の屋敷に誰も居ねぇなんてよ……」


 すると柚月は一瞬だけきょとんとした表情をする。そしてこう返すのだ。


「そう考えればおかしいですよね。まあ、彼らがうちに反旗を翻した事実はさっきの喧嘩で証明されましたんで。何か思惑があってのことでしょう」


 この若頭補佐の言う通り、何かしら良からぬことを企んでいると考えるのが普通であろう。屋敷内で伏兵が待ち構えているかもしれない。俺は少し警戒しながら屋敷へ上がり、組員に先導されるがまま廊下を歩いて行った。


 程なくして通された応接間。金色の屏風に赤い敷物。そして金箔が貼られた壁には『仁義』と書かれた掛け軸が架かっている。


 室内に雑然と置かれた調度品の数々に視線が行く。田舎の組織とはいえ茅ヶ崎から小田原まで五都市を仕切るだけの所帯。湘南龍曜会はそこそこ羽振りが良いのかもしれない。


 そう考えながら座に腰を落ち着ける俺たち。柚月は胡坐をかくと、俺に耳打ちを寄越してきた。


「さて、麻木さん。ここから先は僕の仕事です。村雨組の若頭補佐としてのね」


「おいおい。俺は組長から直々に視察を頼まれてるんだが?」


「ええ。あなたの立場は分かっています。けど、僕にも若頭補佐たる立場というものがある。ここはお互いの立場を尊重し合いましょう。どうか分かってください」


 組の幹部として主君に背を向けた裏切り者への対処は自ら行うという柚月。所詮は部外者である俺は手出し無用と言いたいのか。ならば、何のために俺は茅ヶここへ遣わされたのであろうか……。


「さっきは聞きそびれたが、俺の尾行はあんたの独断か?」


「そうです。僕の独断です。先ほどの戦いで少しばかり懸念が拭えましたが、僕はあなたのことが信じられませんでしたので」


「その行為が組長の意に反していたとしても『独断です』と認めるのか?」


「はい。僕の答えは変わりません。僕の仕事は村雨耀介のために組の不穏分子を掃除すること、それを遂行するためなら時には組長に歯向かうことだって厭いません」


 この男には覚悟がある。彼の瞳と声色から、それがひしひしと伝わってくる。結果的にどんな罰を受けたとて柚月は甘んじて受け入れるのだろう。


「……はあ。敵わねぇな。今さらあんたに何を言ったところで無駄ってことか」


 ぶっきらぼうに吐き捨てた俺に、柚月は微笑んだ。


「流石に『口出し無用』とまでは申しません。ですが、龍曜会をどうするかは僕に一任して頂ければと。何卒ご容赦を」


「ちっ」


 俺は少し考えた後、舌打ちを鳴らして柚月に向き直った。


「じゃあ、好きにすれば良いさ。あんたはあんたの仕事をやり遂げてくれりゃあ良いよ。そこまで言うんだったらな」


 すると柚月はにこやかに笑った。


「ありがとうございます。麻木さん」


 もう俺としては反論のしようが無かった。こういう奴は何を言ったところで引き下がらない。まっすぐな信念で生きている人間は、己を曲げてまで他人に媚びることをしない。ましてや妥協するなど決して有り得ない。柚月はそういう男なのだ。


 されども村雨組長の命令は単なる隠密偵察であったはず。それが威力偵察へと発展し、挙げ句の果てには湘南龍曜会本部での直接詰問に変じてしまった。彼らを穏便な形で村雨組傘下へ戻すのが組長の理想である以上、勝手に潰せば越権どころか反逆にも等しい行為になるだろうに……柚月は己のしていることが分かっているのだろうか?


 と、あれこれ考えていると応接室の襖が開いた。


「おっ、遅くなりましたな。柚月の兄弟」


 来客対応の遅れを詫びながら入ってきたのは中年男性である。丸々と太った体躯にスーツを羽織り、頭髪はポマードでオールバックに固めていた。見たところ齢は50代くらいだろうか。


「私、湘南龍曜会で会長を務めております波木なみき康次郎こうじろうと申します。ええっと。あなた様は?」


 この屋敷の主に名前を聞かれた俺。肩書きの説明に少し悩んだが、意を決して答える。


「中川会執事局次長の麻木涼平だ」


「な、中川会ですと!?」


 波木が口をぱくぱくとさせる。この反応から察するに中川会と村雨組が一時的な協力関係にあることは知らなかったらしい。


「ああ、そうだ。訳あって村雨組長に手を貸してる」


 俺は波木を睨み付けながら続けた。


「まあ、部外者が言えた義理じゃないのは分かっているが言わせてもらうぜ。波木会長、あんたは選択を間違ったな。黙って村雨組の下に居続けりゃ子分たちを殺されずに済んだってのに、何をトチ狂ったんだか」


 先ほどのラチエン通りでの喧嘩は組を割ったことへの制裁という体にすれば良い。そう考えて凄みを利かせた俺に、波木は怯えながら返事をした。


「そ、それは……」


 しどろもどろになる波木を脅すかのごとく、柚月が机を叩いて声を荒げた。


「言い訳を聞こうじゃないか! 村雨組の若頭補佐であるこの僕がわざわざここまで出向いてんだ! 何で組を割ったか、その理由を包み隠さず話してもらうぞ!」


 その剣幕に波木はたじろぐ。同時に柚月が背広の内側に手を入れる。それは他でも無い拳銃を取り出す仕草だ。平常時ただでさえ脅迫の色を帯びた行為だというのに、この状況では殊に緊迫感が増す。波木が折れるのに時間はかからなかった。


「じ、実はですな……とある御方からお誘いを受け、煌王会を脱しようとの結論に至ったのでございます……」


 その発言に俺は思わず聞き返した。


「はあ? とある御方? 誰だ?」


 こちらの問いを受けた波木は俯いて言葉を濁す。


「そ、その方は私どもに、こう仰ったのでございます。『煌王会を抜けてこちらに付いてくれるなら求めるだけの金をくれてやるぞ』と……」


「何だそりゃ?」


 俺は呆れて言葉を失う。波木が組員たちに伝えた誘い文句もそうだが、この湘南龍曜会は村雨組の傘下にあるのだ。それが何故、煌王会の誘いを受けるのか? もしや……。


 俺は呆れて言葉を失う。要するに、先方の提示した多額のカネに釣られて離反を決めたということ。それを何の臆面もなく言ってのけるとは。


「あんたには恥ってもんがぇのか?」


 そうため息をついた俺に、波木は開き直ったのか反論を寄越してきた。


「しょ、しょうがないじゃありませんか! ただでさえ稼ぎが減って苦しかったのです! 300の若衆たちを養ってゆくためには……」


「ほう? そのためには盃を貰った親分に背を向けても構わないと? 湘南を仕切る顔役ともあろう男の言葉とは思えねぇな?」


「何とでも言われるが良い! どうせあなたにはお分かりただけない話なんだ! 時の権力に翻弄されてきた者の痛みなど!」


 それから波木は語り始めた。


 時は遡り3ヶ月前の出来事であるらしい。村雨組のフロント企業が神奈川県および中央省庁との間で合意した『湘南港臨港道路整備計画』なる公共事業が全ての発端。この事業は本来ならば地元の看板である湘南龍曜会の傘下企業が参入する予定だったのだが、煌王会本家の意向で半ば強引にシノギの管轄を外されたというのだ。


「本家は少しでも利益率が高い会社がやるべきだと言って、既に受注が内定していた私どもの会社から村雨の親分の会社へと仕切り先を挿げ替えたのでございます……」


 そういえば横浜を出る前に村雨組長も似たようなことを言っていたっけ。公共事業をめぐる不満が離反の引き金になったのではと。


 しかし、柚月は冷淡に言い捨てた。


「ふん。どんな申し開きをするかと思えば。よくある話だね」


「なっ!? よくある話ですと!?」


 波木が食ってかかると柚月は淡々と返した。


「僕らが本家のお墨付きで利権をかっさらったって言いたいのだろうけど、そんなのは渡世じゃ日常茶飯事じゃないか」


「な、何を……」


「子が親の求めるものを差し出す! 親に『寄越せ』と言われたらどんなものでも素直に献上する! それが渡世の掟ってやつだろう!」


 そして柚月は畳み掛けた。


「僕らは本家の命令に従っただけだ! 枝のお前らが上の命令に従うのは当然なんだよ!極道の癖にそんなことも分からないのか!」


 すると波木は狼狽えた様子で反論する。


「そ、それは……」


 しかし柚月はトドメを刺すように言った。


「あの事業をモノにできなかったせいで苦しくなったと言いたいのか? なら、お前が所詮はその程度の器量だったってことだな!」


「ぐっ……」


「上の決定に文句を言う暇があったら自分でシノギを見つける努力をしろ! それができないならさっと渡世の看板を畳んでしまえ!」


 波木は悔しそうに唇を噛んだ。そうして勢いよく立ち上がって柚月を睨みつけた。屈辱と憤怒が織り交ざった、まさに鬼の形相であった。


「あ? 何だよ? 文句でもあるのか?」


 しかし、波木は何も言わない。


「……」


 ここで逆らえば命は無い。彼が“言わない”のではなく“言えない”ということは明白だった。そんな老親分を柚月は露骨に嘲笑う。


「けっ! いっちょ前に能書きを垂れることも出来ないのか! この老いぼれが!」


 何も返せない波木会長。ここまで罵っては流石に可哀想だとも思ったが、任侠渡世の常識を考えれば柚月の叱責は実に真っ当。むしろ街を訪れた自分に刺客を放ったにもかかわらず波木を今のところ殺さないでやっている分、柚月の対応は温情あるものといえる。


 けれど、このまま罵り合いを続けたのでは話が前に進まない。ゆえに俺は助け舟を出してやろうと思ったが、その前に柚月が口を開いた。


「おい。さっさと座れよ」


「……」


「座れって言ってんだよ! 聞こえないのか! この三下野郎!」


 柚月は波木会長を怒鳴りつけた。その迫力に圧倒されたのか、彼はそそくさと着席する。


「……すみませんでした。柚月の兄貴」


 自分の息子ほど年が下である人物を“兄貴”と呼んで媚びへつらわねばならない点もまた、任侠渡世の掟であり不条理だ。されどもこれは盃を呑んで大きな傘に入った者の定めである。俺はその歯痒さを痛感しながら、波木に問いかけた。


「まあ、あんたの道理は分かったよ。懐事情が苦しい時に援助を持ちかけられたら誰でも飛び付いちまうだろうさ」


 すると波木会長が顔を上げた。その表情には希望の色が浮かんでいた。


「麻木さん! お分かりいただけましたか!」


 しかし俺は続けた。


「だがな……あんたのやっていることは筋を違えているんだよ」


 そして続ける。


「横浜大鷲会が滅んで路頭に迷ったあんたを村雨組長は救い上げてくださったはずだ。その恩に比べりゃ、たかが300人の食い扶持なんざ安いもんだろ?」


「そ、それは……」


 波木は言葉を詰まらせる。それと同時に玄関の方で車のエンジンのような轟音がけたたましく響いたが、俺は続けた。


「村雨耀介公はあんたにとって恩人だ。その恩を仇で返すつもりか!? そんな根性だからあんたは歳が下の若輩者に舐められるんだよ!」


「……」


おとこだったらテメェの子分くらいテメェで養ってみやがれ! それが渡世の道ってもんだろ!」


「……は、はい」


 俺の言葉に波木が俯いて返事をした。まあ、言いたいことは殆ど言ってやった。説教はこの辺にして今後の話をするとしようか。


「波木さん。幸いにも村雨組長は穏便に済ませることをお考えだ」


 そこまで言ったところで柚月に止められた。


「待った。ここから先は僕の仕事だと言ったはずですよ、麻木さん。村雨組若頭補佐の顔を潰さないで頂けますか」


 おっといけない。俺としたことが少々先走り過ぎた。柚月としては何ら譲るつもりは無いようである。


「ああ、すまねぇな」


 そう呟いて引き下がった俺。代わりに主導権を握った柚月は、波木を見据えて少し咳払いをした後に言葉を紡いでいった。


「波木さん。あなたたち湘南龍曜会のやったことは、本来ならば村雨組に対する謀反。会長であるあなたには命をもって償って頂きたいところ」


「……ええ。分かってます」


「ですが、組長は今回に限っては特別に許すとのお考えだ。二度とこのようなことを起こさぬと誓いを立て誠心誠意詫びてくれればお咎め無しとする」


 つまり、詫び=指詰めさえすれば一切を不問に付すということ。裏切り者は許さない村雨組長にしてみれば実に慈悲深い措置ともいえる。まあ、松下組との戦争を前に少しでも多くの兵を手元に置いておく為の決定だろうが、その辺は突っ込まないでおこう。


「……恐れ多いことにございます」


 ひたすらに平身低頭する波木。彼としても村雨に戻れるのは本望であったか……いや、だったら何故に裏切るような真似をしたのか。


 俺の代弁をするかのように柚月が問うた。


「ただし、このままおいそれと組に戻すわけにもいかねぇな。幾つか気になってることがある。それを聞かないことには僕も組長に話を持ち帰れん」


 すると波木は顔を上げた。


「な、何でしょうか?」


「あなたが今回の離反に至った理由を洗いざらい吐いてくれよ。さっきの説明じゃ不十分だ。ついでにあなたを誘った輩についても教えろ」


「……え?」


 波木が呆然と黙り込んだ。どうやら相当に答えにくい質問であるらしい。思えば『とある御方』などと随分と含みのある言い方をしていたものだ。


「ふん。やはり何か隠してるな? そいつを吐いて貰わんことには湘南龍曜会の復帰は叶わないぞ」


 柚月が凄んだところで、波木会長が観念したように口を開いた。


「……私の欲得のためではありません」


「は?」


「全ては可愛い子分たちを思ってのこと。今後10年に渡って億の扶持を頂けると確約頂いたからこそ、村雨の親分を離れることを決めたのでございます」


 その直後、俺は部屋の外に気配を察知する。何人かの集団がこちらへ近づいてくる。誰であろうかと警戒心を抱いた時。


 襖が勢いよく開いた。


「っ!?」


 ぎょっとする柚月をよそに俺は突然の乱入者たちを視認する。


「そこまでだ! 村雨組の手下どもが!」


 そう叫びつつ部屋に雪崩れ込んできたのは30人弱の組員たち。その先頭に立っているのは……。


「お前は!?」


 俺は思わず声を上げた。そう、それは眞行輝虎。銀座を仕切る眞行路一家の若頭だ。一体、何故に奴がここに? そんな俺を嘲笑うかのように当人が口を開いた。


「おいおい。こいつはどういう風の吹き回しだよ、麻木次長。中川会のあんたがどうしてここに」


「それはこっちの台詞だ! 輝虎! 何でテメェがここに居やがる!」


「まあまあ。そうカッカするな。俺は眞行路一家の若頭として、ちょいとした土産を持ってきただけさ」


「土産だと?」


 そう聞き返した俺に輝虎はニヤリと笑った。そして彼は波木の方へと向き直ると、その懐から1枚の紙を取り出して突きつけた。


「波木会長。約束のモンは持ってきたぜ。こいつが俺からの誠意ってやつさ」


 波木が震える手でそれを受け取ると、柚月も身を乗り出してその小切手に視線を落とした。そこに書かれていた文面を見て俺も度肝を抜かれた。


【贈 現金壱〇億円】


 それは小切手だ。


 10億円だと!?


 すなわち眞行路一家から湘南龍曜会に対して10億円の金を支払うということ。表向きは眞行路のフロント企業から湘南龍曜傘下の政治団体への献金との体裁を取っている。よって湘南龍曜会サイドは税金を差し引いても10億円全額を懐に入れる計算となる。


「どういうことだよ!?」


 やや呆然気味に問うた柚月だが、俺は説明を受けずとも何となく察した。波木の云う“とある御方”の正体が輝虎だと。そして湘南龍曜会が村雨組を離反した後、何処に寝返ろうとしているのか。


「……あんた、10億円で眞行路に買われたのかよ。波木会長」


 すると波木は力なく頷いた。


「え、ええ。ここにわす輝虎公にご慈悲をかけて頂いたのでございます。村雨組を捨てて眞行路一家の傘下に入れば10億円をくださると」


 事情を悟った柚月が舌打ちした。


「ちっ。何て野郎だ……」


 意表を突いた。よもや輝虎が絡んでいたとは微塵も思わなかったのである。俺が奴をを睨みつけるのに時間は要さなかった。


「テメェ! どういうつもりだ!」


 しかし、そんな俺に対して輝虎は余裕綽々といった態度で言葉を返した。


「どういうつもりも何も。俺は波木さんに10億円くれてやっただけだぜ。同じ関東ヤクザとして仲間の困窮を見過ごせなかったもんでな」


「ふざけるな! 湘南龍曜会を大金で買収して手駒にしようって魂胆だろう!?」


 すると輝虎は高らかに吹き出した。


「それの何がいけねぇってんだよ。あんただって津々浦々の地元所帯を中川の直参に引き入れてんだろ。報酬カネを用意する分、俺の方がマシだと思うぜ」


「ぐっ……」


 俺は言葉に詰まった。確かにヤクザ社会において金銭で傘下組織を吸収することは珍しいことではない。だが、10億円もの大金をあっさり拠出するなど今の眞行路一家には考えられない行為だ。これは眞行路一家および輝虎のカネではない。輝虎のバックには強大な権力があるということか!?


 いや、そんなことを考えている場合ではない。


「……テメェ、分かってんのかよ。龍曜会は誰の傘下だと思ってる。村雨組の米櫃に手を突っ込んでタダで済むわけがねぇぞ」


 その俺の言葉に輝虎がなおも高笑いする。


「ははっ! 次はどんないちゃもんを付けてくるかと思えば他所の組の肩を持つか、あなたは中川会の人間だろうに! 村雨が何だってんだよ!」


 そんな奴に対して柚月が怒鳴った。


「おい、貴様ァ! うちの代紋を随分と低く見ているようだな! その口を今すぐ塞いでやろうかゴラァ!!」

 すると輝虎が露骨に鼻で笑う。


「ああ? 誰かと思えば村雨の若頭補佐さんじゃねぇかぁ? てっきり女が騒いでるかと思ったが、あんたって男だったんだな?」


「んだとコラァ!」


「あんたが今さらどう喚こうが、決まったことは決まったことだ。本日をもって湘南龍曜会は眞行路一家の傘下に入る。もう盃も交わしてんだよ」


 思わぬ単語が飛び出した。既に盃の儀式を行っているとは如何なることか。柚月が物凄い形相で睨みつけると、波木はコクンと頷いた。


「えっ……いや、それは……」


「テメェ! やっぱり裏切り者だったのか!」


 激昂して詰め寄る柚月を輝虎が嘲笑う。


「そこまでだぜ。湘南龍曜会はうちの傘下に収まったんだ。手を出そうってんなら俺たち眞行路一家が黙っちゃいねぇぜ」


 そんな奴に対して柚月が真っ向から食って掛かった。


「どう黙ってないってんだ? 俺がお前ごときを恐れると思ってんのか? ついこないだ村雨組うち眞行路一家おまえたちを完膚なきまでに叩きのめしたわけだが?」


 すると輝虎はニヤリと笑った。そしてこう言い放ったのである。


「喧嘩がしてぇなら大歓迎だぜ。煌王会内部のゴタゴタに足を取られてる村雨組あんたらにとっちゃあ苦しい戦いになるだろうけど」


「……」


 柚月は無言で睨み返す。彼が反論に窮まるのも道理だった。松下組との戦争で精一杯の村雨組に眞行路一家までも敵に回せるだけの兵力があるわけもない。虎崩れの変で弱体化したとはいえ、今この状況で眞行路一家は大きな脅威。主君の利益を何より重んじる柚月は引き下がるしかなかった。


 無論、俺も黙って見ているわけではない。柚月に代わって輝虎に声を上げる。


「待て、輝虎。勝手に戦争を始めるなんざ本家が許さねぇぞ。自分テメェの立場ってものが分からねぇのか?」


「立場ねぇ。そう言われても、今の俺は直参じゃなくて食客だからよ。喧嘩をするのに会長の許可は要らないだろ」


「正式に親の跡を継いだわけでもねぇ癖に何を大口叩いてやがる。会長が弟の方を選べばお前は廃嫡、渡世からの追放だ。そんな状況でよくもまあ会長を蔑ろに……」


 すると輝虎がニヤリと笑った。


「反論になってねぇぞ、麻木次長。俺は『渡世にそんな掟は無い』と言ってんだ。中川の代紋さえ使わなけりゃ食客が何をしようとそしりを受けるいわれは無い」


 そこへ柚月が怒鳴って割り込んだ。


「村雨組を舐めてるのか!? だったらこの場で今すぐ殺してやろうか!? ああ!?」


 しかし、そんな柚月を無視して輝虎は続ける。


「大体よ、本家にだって得はあるだろ。麻木次長。龍曜会が眞行路一家うちの傘下に入ればゆくゆくは神奈川県南部が丸ごと中川会の領地になるんだから」

「ほう?」


「いずれ正式に中川会の直参に戻る日のために少しでもシマを増やしておこうと思ってな。俺は曲がりなりにも恒元公の利益を第一に考えているつもりだ」


 俺はハッとした。輝虎の主張は筋が通っている。湘南龍曜会が眞行路一家の傘下に入ることで、その所領が中川会の勢力圏に組み込まれることになるのだ。それが会長にとってメリットの無い話であるわけがない。むしろ組織全体の領土が増えるのだ。結果的には良い話ではないか。


「……」


 いやいや、待て待て。それで300の兵を失うことになる村雨組はどうなるのだ。納得しかけた頭を振り払って俺は口を開いた。


「輝虎! テメェ! よくもぬけぬけとそんな戯言を……」


 しかし、そんな俺の言葉を遮るように柚月が口を開いた。


「麻木涼平。あなたは知っておられたのか」


「えっ?」


「この男の企みを中川会本家として知っていたのかと聞いてるんだ!!」


 怒気に満ちた表情でこちらを凝視してくる柚月。大方の利害関係を把握したか。数秒前の僅かな沈黙が彼の憤りを誘ったようだ。


「……」


 俺は何も言えなかった。輝虎の買収工作についてはまったく知らなかった。しかし、それを口にして何になるというのか。


 柚月は、俺が輝虎と結託していたと思い込んでいる。その事実誤認を訂正する以前に、村雨耀介が不利益を被る展開を見過ごすのは個人感情として嫌だ。村雨を助けよとの恒元の命令を抜きにしても、俺はもう村雨に背を向けたくはなかった。


「どうなんだ!? 麻木涼平!!」


 説明を迫る柚月に対して俺はこう答えた。

「……知っていたら止めているさ。食客が会長の許可なく盃外交をやるなんざ、そんな舐めた話があってたまるか」


「だったらどうして強く咎めない! 将来的な利益を見込む中川恒元の意を汲んで黙認していたからではないのか!?」


「違う!!」


 だが、その先が出て来なかった。中川会執事局次長として恒元の利を第一に考えれば、輝虎のやったことには賛同するのが筋。しかし、それでは村雨耀介にまたしても不義理を働くことになるような気がする。


 俺が答えあぐねていると……。


「まったく分からねぇなあ。優男さんよ。俺にならともかく、あんたが麻木次長に何をそんなにムキになる必要があるんだ」


 輝虎が小馬鹿にするがごとく吐き捨てた。すると柚月は奴に鋭い視線を向けた。


「黙れ! 貴様には関係ない!」


「関係あるさ。見苦しい小競り合いを見せつけられたんじゃたまんねぇからよ。やるなら後にしてくれねぇかな」


 そんな奴に対して柚月は怒りが頂点に達した様子である。顔は真っ赤になり、こめかみには青筋が浮かんでいる。その様子を視認した輝虎はさらなる嘲弄の句をぶつけるものと思っていた。


 しかし。


「……まあ、怒る気持ちは分かるぜ」


 意外なことに奴は柚月に同情を寄せた。そして、彼と俺を交互に見つめる。


「だがな、今回の件は本家には未だ報告していない。サプライズ的に所領を献上した方が会長も喜ぶと思ったもんで水面下でやらせてもらった。麻木次長が寝耳に水なのは当然だよ」


 俺は輝虎の真意を測りかねた。奴は何を考えているのだろう。ここで助け舟を出して、俺に貸しを作る腹積もりか。


 訝しがる俺をよそに、柚月が低い声で応じる。


「……黙れ。これは麻木涼平が村雨組にとって信用に足る男か否かを問う話だ。部外者は口を挟むな」


 すると輝虎はニヤリと笑った。


「だったら証明する手立てがあれば良いのか? どういう経緯で一緒に居るのかは知らんが、麻木次長が村雨の敵じゃねぇってことを行動で示せば万事OKなんだよな?」


「何だと」


 いきなり訳の分からぬことを言った輝虎に対して柚月は怒りの中で困惑していた。しかし、やがて冷静さを取り戻したのか彼は問うた。


「何を考えている?」


「だから証明してやるって言ってんだよ。黙って見てな」


「……」


 俺は輝虎の真意を計りかねた。奴は何を考えているのか。俺の味方をしたいのか、それとも何か打算を隠しているのか。


 眉間に皺を寄せる俺にはお構いなしに輝虎は続けた。


「麻木次長。波木を殺せ」


 俺と柚月の反応はほぼ同時だった。


「ほう!?」


「えっ?」


 いきなり何を言い出すのだ。その場にどよめきが走る中、俺は思わず声を上げた。


「波木会長を殺せだと?」


 すると輝虎が軽薄な笑みを浮かべる。


「ああ、そうさ」


「テメェ、頭おかしいんじゃねぇのか!? 何で俺が波木さんを殺さなきゃならねぇんだ!?」


 だが、俺の怒声などまるで意に介さず、奴は言葉を続けた。


「あんたが村雨組にとって信用するに足る人間だと、そいつを行動で示すには村雨を裏切った大罪人を殺すのが一番だろ」


 いやいや、そんな理屈があるものか。俺は怒鳴る。


「ふざけるな!」


 それに対して輝虎は輝虎はさも当然のように言ってのけた。


「実に単純な理屈さ。俺と結託してなかったってことを証明するなら、俺の今回の取引相手を殺すのが手っ取り早い」


 と、言い終えたところで奴は柚月の方にも視線を向ける。


「村雨組としても落とし前をつけてぇだろう。波木は不埒にも組を割った裏切り者、そいつを生かしといたら組のメンツが立たねぇんだからよ」


 柚月は押し黙った。


「……」


 その沈黙が彼の心情を雄弁に物語っていた。奴も俺と同じように納得していないのだと。だが、そんな美青年に対して輝虎はさらに畳みかける。


「だからその落とし前を麻木次長につけてもらおうって話よ。さしずめ、恒元公の命令で出向中なんだろ。これから互いの信頼関係がますます大事になってくるぜ」


 不敵に笑いながら囁く輝虎。そんな彼の背後で男たちが騒ぎ始めていた。


「か、会長を殺す!?」


「マジで言ってんのか!」


「おいおい本気かよ!」


 どうやら彼らは皆が湘南龍曜会の構成員らしい。てっきり輝虎が連れて来た眞行路の若衆も混じっていると思っていたが違うようだ。


 しかし、それにしては何だか妙だ。自分たちの親分を殺す云々の話題が展開されているのに、彼らがやけに大人しいのだ。普通に考えれば動揺したり、あるいは激昂して輝虎に襲いかかってきてもおかしくはないというものを。


「……」


 俺は改めて構成員たちの顔ぶれをザッと見渡した。皆若くて10代から20代前半といったところか。全員が日焼けをしている。ヤクザというよりはチーマーといった雰囲気の装いをしている。背広が基本の中川会系列の組員とは明らかに違う。田舎を仕切る組織ならの緩さが垣間見えたというのが俺の率直な印象だ。


 しかし、先ほどラチエン通りで蹴散らした連中は全員がスーツだったぞ……?


 そう思ったのとほぼ同時、少し前から黙り込んでいた男が声を上げた。波木である。


「あ、あのぅ、輝虎公。私を殺すというのは?」


「おう。言葉通りの意味だ。申し訳ないが、あんたにはここで殺されてもらう」


「ふえぇぇっ!?」


 ようやく状況を察知したか。衝撃が遅れてやってきたように、波木が全身を震わせながら輝虎に詰め寄る。


「な、何故に私が殺されなければならないのですか!?」


 すると輝虎はニヤリと笑った。


「そりゃ決まってんだろ。あんたが村雨組の裏切り者だからだよ」


「う、裏切り者って! 私に村雨組から抜けるよう誘ったのは輝虎公ではないですか!?」


「まあ、そうだな。けど、それとこれとは別の話だ。村雨組としてはあんたを粛清しなきゃ気が済まねぇんだから、ご希望通り殺されてやってくれ」


「い、いや、でもさっきあなた様は私に手を出せば眞行路一家が黙っていないと……」


「言ったな。だが、黙ってることも出来る。第一に俺はあんたに眞行路の盃をやったわけじゃない。俺の兄弟盃を下ろしたのは若頭の遼太りょうただ。あんたの跡取りにな」


 その輝虎の言葉に背後に居た若い男がボソッと呟く。


「お、親父……」


 見たところ高校を卒業したばかりの10代くらいの齢か。波木はその少年の方を振り返りながら叫んだ。


「遼太! お前、どういうことだ!」


 すると遼太と呼ばれた男は申し訳なさそうに顔を背けた。どうやら図星のよう。波木はさらに声を荒げる。


「ま、まさか!? お前は私を差し置き、輝虎公の盃を呑んだというのか!? 私を追い落とし、組の跡を取るために!?」


 そんな翁に輝虎は言った。


「まあ、そういうことだ」


 そして、さらに続ける。


「あんたも良い倅を持ったな。『村雨を割るなら出来るだけ早くに眞行路の傘下に入ったが良い』と言ったら遼太は『自分が盃を受ける』ってよ。『ここぞって時の判断力に欠ける親父にはこれを機に引退して貰う』とさ」


 その言葉に波木は激怒した。


「遼太! お前という奴は! 親に黙って勝手なことを!」


 すると遼太が波木を怒鳴り返した。


「黙れ! もう盃は呑んだんだ! これからは俺が龍曜会の当代だ! 親父の言いなりになるもんか! やりたいようにやらせて貰う!」


 その怒声に波木は唖然とするばかりである。輝虎と盃を交わしてしまった以上、息子が父親に代わって湘南龍曜会の会長となる。それは波木康次郎の引退を意味する。当人にとっては受け入れがたい事実であるに違いない。しかし、当の遼太は父親に対してなおも啖呵を切る。


「親父! 村雨なんぞに媚を売ったあんたのせいで今までどれだけ皆が辛酸を舐めたと思ってんだ! これからは俺が輝虎の兄貴の下で湘南を盛り立てて行く!」


 すると輝虎がニヤニヤしながらさらに続けた。


「おう。やってくれや」


 そんな息子に波木は怒り心頭の様子だ。彼は息子の胸ぐらを掴んで叫んだ。


「遼太! お前みたいな未熟者に何が分かる! 大鷲会が潰れて路頭に迷ったあの時、他にどうする手段があったというのだ!」


「関東ヤクザの誇りを忘れて村雨組に降ったのが間違いだと言ってんだよ! このクソ親父!!」


「誇りで飯が食えるものか! 龍曜会うちみてぇなチンケな組が渡世で生き残っていくためには長いものに巻かれるしかないんだよ!」


「だからって村雨なんぞに尻尾を振って恥ずかしくないのかよ! せめて中川会の下に付くって選択もあったはずだ!」


「あの状況で村雨に降伏しておらねば潰されていたんだ! 世を渡る苦労も知らんくせに偉そうなことを抜かすな!!」


 そう叫ぶや否や、波木は息子の頬を拳で殴った。鈍い音が響く。


「うぐあっ!」


 父親に殴られ、遼太は吹っ飛んだ。


「遼太! お前に会長の座は100年早い!!」


 倒れ込んだ息子に迫ってなおも殴りつけようとする波木。だが、そんな彼を阻んだのは輝虎だった。


「はいはい。親子喧嘩はそこまでにしな」


 輝虎は波木を投げ飛ばした。波木は勢いよく地面に倒れ込む。


「ぐあっ!」


 そして、輝虎はその波木の顔を鷲掴みにして無理やり立たせた。さらに凄みを利かせながら言う。


「分かってたんだぜ。あんたが俺の下に付くふりをしてカネだけ掠め取る算段だったってな。銀座の猛獣相手に上手く立ち回ったつもりか、この老いぼれ!!」


 そうして輝虎は波木の腹に蹴りを叩き込む。


「ぐほっ!」


 波木は腹を押さえて跪いた。そんな彼を見下ろしながら輝虎は続ける。


「んで、盃呑む段取りを付けて、前払いの扶持を受け取ったら、頃合いを見計らって話を帳消しにするつもりだったんだろ。バレバレなんだよクソジジイ!」


 そう吐き捨て、輝虎はまたもや波木の腹に蹴りを入れた。


「ぶあっ!?」


 波木はうずくまり、腹を押さえて苦悶の表情を浮かべている。そこから暫く輝虎の暴行が続いた。若い男が老人を痛めつける凄惨な現場。


 胸ぐらを掴んで無理やり起こしては殴りつけ、倒れたところで蹴り飛ばし、さらに顔を力任せに踏みつけて蹂躙する。


 そんな光景を冷淡に見ていた俺には思い当たるところがあった。あの村雨組に届けられた離反状を書いたのは輝虎だったのではないかと。


 きっとあれは波木会長の魂胆を察した輝虎が、湘南龍曜会を後戻りできなくするために波木の筆を装って書いたものだ。


 波木の村雨組離反は眞行路輝虎から10億円を掠め取るための偽装工作。なればこそ波木は街中に警戒網を張りめぐらせていたのだ。真意を知って激怒した輝虎の襲撃に備えるために。そう考えればラチエン通りで激突した男らが俺を「中川会」などと呼んでいたことにも、俺の肩書きを聞いた瞬間に波木の顔に焦燥の色が浮かんだことにも辻褄が合う。


 だが、哀しいかな、湘南龍曜会の組員は大半が輝虎に懐柔されてしまった。会長に忠を誓う若衆は俺たちに討ち取られ、残るは風を読むことに疎い未熟者だけ。


 特に嫡男の遼太は父親の魂胆を汲み取れず、あろうことか輝虎に言われるがまま龍曜会を眞行路一家の傘下に組み入れてしまった。本当は波木会長には村雨組を本気で裏切る意図などは無かったというのに。ただ単に組の皆を食わせるだけの大金を入手すべく危ない橋を渡っただけだというのに。


 気の済むまで波木を痛めつけ、畳の上に広がった血だまりの中へ沈めた輝虎。奴は懐から銃を取り出して俺に手渡してきた。


「さあ、麻木次長。この老いぼれに始末をつけてやるんだよ。あんたの潔白をあんた自身の手で証明するんだ」


 まったく、人様を鼻つまみ者のように呼びやがって。無上に腹が立ってきたが、ここで黙っているわけにもいかないのでとりあえず前に出る。ただ、俺は奴の拳銃を受け取らなかった。


「は?」


 代わりに取り出したのはグロック17。日本に戻って来てからずっと使い続けている俺の相棒だ。その銃口を波木に向けると、奴は歯噛みした。


「ちっ、畜生……!」


 俺はその一言には反応せず、ただ一言だけ呟いた。


「忠を尽くすべき相手を間違えた代償ツケだ。すまねぇな」


 そして、俺は引き金を引いた。


 ――ズガァァァン!


 弾丸が波木の額にめり込む。


「ぐげえっ!」


 しわ枯れた呻き声を上げ、彼は後ろにのけ反って倒れた。銃創から噴き上がった鮮血が畳をさらに赤く染め上げる頃には、もう波木康次郎は息絶えていたのだった。


「ふふっ。良いぞ。裏切りの張本人である波木は麻木次長の手によって打倒された。村雨の若頭補佐さん。これで彼を信じてもらえるかな?」


「……貴様が気にすることじゃない」


「まあ、そうカリカリしなさんな。ともあれ一件落着だ。湘南は本日より眞行路一家のものとなるわけだ。文句は無いな? 村雨の若頭補佐さんよ?」


「答えるまでもないだろう。今の村雨組われわれに貴様らと構っている暇は無いのだからな」


「へっ、かっこつけた言い方しちゃってよぉ!」


 下品にせせら笑う輝虎と、悔しさに顔を引き攣らせる柚月。2人の会話を俺は黙って聞いていた。言葉を吐く気が失せていたと書いた方が適切か。


 初めてのことだった。殺す理由の無い人間を殺したのは。


 裏社会に脚を突っ込んだ10代の時も、異国を流浪した間も、正真正銘の戦場を駆けた傭兵時代も、銃口を向けた相手にはいつもそれなりに殺されるに相応しい罪があった。


 だが、今回は違う。


 波木康次郎は俺自身に危害を加えたわけでもなければ、奸計をめぐらせたわけでもない。ただ単に村雨組を裏切るふりをして眞行路一家からカネをむしり取ろうと画策しただけだ。そんな老人を俺は殺したのだ。

 もちろん、俺が殺さなくとも柚月が手を下していただろう。しかし、それでも俺の中の何かが削ぎ落されていくような感覚を覚えたのは確かだった。


「さてと、これでよしっと。遼太。これからはお前の時代だぜ。俺と一緒に湘南を盛り上げていこうじゃねぇか。なあ?」


「は、はい……」


 輝虎に肩をポンと叩かれた波木遼太は力なく頷いた。父親を生け贄として差し出したことに良心の呵責を覚えたのか。瞳を伏せる仕草が、彼の内心を何よりも雄弁に物語っていた。


「遼太ァ。さっそく働いてもらうぞ。とりあえず龍曜会の兵隊を100人ほど借りるけどよ、構わねぇよなあ?」


「も、もちろんです……」


 波木は輝虎の迫力に押されるように頷いた。この2人のやり取りを見て柚月が苦々しげに呟く。


「ふんっ。何が『これからはお前の時代だぜ』だ! 調子の良いことを!」


 すると輝虎はニヤニヤしながら柚月に応じた。


「おい。文句でもあるのか、ロン毛野郎。何だったら今すぐに横浜へ攻め込んでやっても良いんだぜ?」


「黙れ。敗軍の将の分際で付け上がるな。お前たちは一度、村雨組に完膚なきまでに叩き潰されているんだぞ」


「敗軍ってあんた、いつの話をしてんだよ。けたのは親父であって俺じゃない。この俺が指揮を執るからにはお前らなんざ秒で潰してやる」


 そう啖呵を切った輝虎は柚月の顔をじっと覗き込み、不敵な笑みで続ける。


「俺が跡を取るまで煌王会のゴタゴタで潰されねぇよう、せいぜい気張っておくことだな。方々に敵を作った村雨組の若頭補佐さんよ」


「貴様……!」


 柚月が怒りを露わにする。輝虎の憎らしさに拍車が掛かっているが、そんなことはどうでも良い。俺はただ己のした事を割り切ろうと努めるのに精一杯だった。

 そのせいで以降の時間が如何に流れたかは覚えていない。満面の笑みを浮かべる輝虎に見送られ、柚月と共に湘南龍曜本部を出たのが正午過ぎ。彼が屋敷を出る際に「裏切り者ども、覚えていやがれ!」と怒鳴っていた光景のみが印象に残っている。


 それだけ俺の心を抉ったのだろう。罪の無い人を殺したという、冷たくも重い事実が。


 柚月は波木を殺した俺を咎めなかった。むしろ「あなたにはとんだ迷惑をかけてしまったな」と労ってくれたほどだ。されど、俺はそれで救われるほど単純な人間ではない。


 屋敷を出てからというものの、俺の心はずっと重かった。まるで鉛を呑み込んだかのようだ。その重さに耐えきれず、俺はつい口走ってしまったのである。


「……あの爺さんには申し訳ねぇことをしたもんだ」


 すると柚月はこう答えたのだ。


「想像していた以上に青い男だな、あんたは。引き金をひいたことを悔やんだところで、殺した相手は帰ってこないというのに」


「別に悔やんでるわけじゃねぇよ」


 俺は力なく答えた。そんな俺の声色に苛立ちを覚えたのか、柚月はこんな言葉を投げかけてくる。


「ならば無駄なことは考えるな。極道である限り、こういうシチュエーションは無数にある。たった一回の殺しをいちいち振り返っていたのでは疲れるだけだ」


「まあ、確かにな……」


「あんたはこれまで沢山の人間を殺してきたはず。まさか自分が奪った命に優劣を付けられるほどの聖人君子だとでも言いたいのか。もしそうなら傲慢も甚だしいぞ」


 そう話す柚月の顔に表情は無かった。物事の本質というか核心を突かれたような心地。言われっ放しは不格好に思えたので、俺は咄嗟に強気な台詞を返す。


「うるせぇよ」


 そこからまた嫌味や皮肉を浴びせられるのかと内心で身構えたが、柚月が続けて出してきたのは意外にも穏やかな言葉だった。


「……まあ、そのように悩めるのは寧ろ誇らしいことなのかもしれませんね。あなたは未だ極道の闇に染まりきっていない。僕からしたら羨ましいよ」


「ああ? 羨ましいだと?」


「何でもない。行くぞ」


 それだけ吐き捨てて歩き出す。その後ろ姿を黙って見つめる俺。


 柚月の言っていることが腑に落ちなかった。俺もこれまで多くの命を奪ってきた人間だし、自分の行為を省みるつもりもない。ただ、それでも罪の無い人間を殺したという事実には心が抉られるのだ。まるでナイフで刺されたかのような痛みを覚えるほどに。


 渡世の道を極めた諸先輩方からすれば青臭い葛藤でしかないだろう心の迷いが“羨ましい”とは。まったくもって分からない。俺は自分が嫌で仕方ないというのに。


「おい、待てよ」


 ただ、俺は彼の後を追いかけるだけだった。


 この日の出来事は当然ながら村雨組に衝撃を与える。湘南地域における領土の電撃的消失。これは松下組との激突を前にした彼らにとっては大きな痛手だった。


「クソがっ!」


 口汚く吐き捨てた沖野が畳を叩く。


 12月17日、18時31分。村雨邸で開催された会議は苛立ちに包まれていた。湘南龍曜会の離反を食い止められなかったことで幹部たちの怒りが爆発した。


「おい麻木ィ! どういうことだゴラァ! 何とか言えや!」


 軍議の席で激昂したのは沖野だけではない。事の次第を聞いた政村は露骨に渋い顔をつくった。


「まずいよなあ、それ。領地をみすみす奪われるなんて赤っ恥も良い所じゃねぇか。柚月ちゃんも一緒に行ったってのに何やってんだか」


 溜息混じりの政村の言葉に柚月は平身低頭した。


「不徳の致すところでございます……」


「まあ、柚月ちゃんのせいだけじゃないけどね。俺が言ってるのは麻木涼平だ。結局は中川会の利益になっちまってるじゃねぇか」


 政村の指摘で全員の視線が俺に向けられる。柚月が勝手に茅ヶ崎へ赴いた件より、糾弾の的になっているのは今回の騒ぎに中川会が絡んだこと。


「黙ってないで何とか言ったらどうだ。麻木涼平。結果的に中川の領地が拡がるようお前が誘導したんじゃねぇのかよ」


 すると沖野も政村に同調した。


「そうだ! 一番得をしたのは中川だろ! 俺たちから領地を掠め取って南に勢力を拡げたんだからよぉ!」


「沖野の兄貴。今回の責任は全て僕にあります。麻木さんを攻めてはなりません」


「いいや! 中川の会長の意を汲んだ麻木ィが謀ったんだ! そうに決まってるぜ!」


 柚月の諫言を聞かずに俺を責め立てる沖野。まあ、矛先が俺に向くのは当然か。傘下組織が好き勝手にやっている中川会の組織事情など彼らにとっては知ったことではないのだから。


「沖野ちゃんの言う通りだよ。中川会は本当に俺たちの味方なのかねぇ」


 その言葉を受けて沖野が俺に迫る。


「おいコラァ! さっきから黙ってんじゃねぇぞ! 何とか言えや!」


 反論と弁明は柚月に任せようと思っていたが、仕方が無い。俺は渋々ながらに重い口を開く。


「……あれは眞行路輝虎の独断であって恒元公のご意思によるものではない。俺としても寝耳に水だった」


「百歩譲って知らなかったとしてもよ! テメェが眞行路のボンクラ御曹司を止めなかったのは何故だ!?」


「止めようが無かった。あの場で俺が輝虎を実力で制止していれば村雨組は銀座とも戦争になっちまう。それは俺としても避けたかったんだよ」


 俺はそのように答えるのが精一杯。無論、彼が納得するはずもない。容赦ない罵倒の句が飛んできた。


「能書き垂れてんじゃねぇぞ! 俺たちの味方するふりして、本当は内側から刺そうってんじゃねぇのか!? 中川会のゴミ野郎が!」


「違う! それは絶対に有り得ない!」


「違うってんなら説明してみろや! 何で湘南は眞行路に寝返った!」


「だからそれは輝虎の独断で……!」


「麻木ィ! まさか、中川恒元も承知してたんじゃねぇだろうなあ!?」


「そんなわけねぇだろうが!」


 俺は思わず声を荒げた。されども筋道を立てて説明できないのがもどかしかった。完全に“有り得ない”とは言い切れぬのが本音だ。


 中川恒元は老獪な男。今回の輝虎の行動は確かに度が過ぎた独断専行なれど、中川会にとって利益が大きい。損得には殊更シビアな恒元が村雨と輝虎で二枚舌を使っていたとしても何らおかしくはないのである。


 輝虎にしてみれば、家督継承の点数稼ぎのついでに湘南を手中に収め、秀虎派との争いを見据えて兵を確保しようという腹積もりだったはずだ。だが、そんな中川会の内部事情を説明したところで分かってもらえるべくもない。ましてや沖野にとっては火に油だったようで、彼はさらに語気を強めて叫んだ。


「この野郎! ぶった斬るぞ!!」


 すると、ここで村雨が割って入った。


「止めよ!」


 その一言で幹部たちは一斉に静まり返った。村雨は続ける。


「涼平を責めるのは酷というものぞ。沖野」


「……はっ」


「湘南龍曜会の跡取りは既に盃を呑んでおったというではないか。であれば何人も止めることはまかりならぬ。渡世は盃が全てなのだ」


「へい。申し訳ございませんでした」


 沖野は深々と頭を下げた。だいぶ興奮していたが、村雨の言葉を聞いて幾分か落ち着いたようだ。


「中川恒元公は村雨組われらのために表向き中立を守ると約束してくださった。私はその御心を嬉しく思うておる。不埒な物言いは許さぬぞ」


 その一言で皆が押し黙った。村雨組長としても今回の出来事は想定外だったことだろう。しかし、それを顔に出さず平静を装う姿からは貫録が感じられた。


「ともあれ湘南が橘の手に落ちなんだことはせめてもの幸いであった。湘南は遠からず奪い返すとして、今考えるべきは橘を迎え撃つこと。気を引き締めよ」


 村雨の檄に幹部たちは一斉に頭を下げた。俺もまたそれに倣ったが、心の内では別の事を考えていた。


 今回の煌王会の内紛で、中川恒元は何を得ようとしているのか……?


 あの男の狙いは融和的な長島体制の保守だけではないだろう。側近の俺を送り込んで事実上の介入を行ったからには、何かしらの打算を見込んでいよう。そうでなければ、わざわざ輝虎の暴走を黙認するわけがないのだ。


 他にも村雨組から利権を掠め取ろうとしているのか……?


 様々な推測が交錯したが、結局のところ答えは出なかった。まあ良い。村雨組うちには中川会と直接的に敵対する理由が無いのだから。今はただ松下組との激突に備えることに専念しよう……。


「申し上げます!」


 不意に飛び込んできた組員の声で俺は我に返る。その下っ端は伝令係のようで、伊豆半島へ哨戒に出ていた芹沢からの連絡という旨で報告を読み上げる。


「先ほど18時過ぎ頃、舎弟頭の組の若衆が沼津市内で溝端の姿を捉えたそうです! 100は下らない数の護衛を連れていたとのことです!」


 その伝令にどよめきが走る。


「何っ!?」


「もう出てきただと!?」


「やはり来たか!!」


 幹部たちが口々に息をつく中、俺はひしひしと感じていた。村雨組の命運を懸けた大戦おおいくさが迫っていることを。それはまさに天王山であった。

村雨組と松下組の対決が迫る!

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