古き懐かしき村雨組
眞行路秀虎が突如として姿を消し、東京から遠く離れた函館の地で無事が確認された事件は、言うまでもなく各方面に衝撃を与えた。
秀虎の母の淑恵は数日振りに帰ってきた我が子を見るや否や、周囲の視線も憚らずに抱き着いて泣き喚いたそうな。
「ああ……良かった! 本当に良かった!」
そんな淑恵に秀虎は言った。
「母さん、心配かけてごめん」
それは決して口先だけの謝罪ではない。親子の仲はむしろ良好なのだろうと俺は思ったものだ。
だが、その一方において輝虎は怒りに震えていたという。弟の家出を自分のせいにされた挙句に組の正統な後継者として弟を推す声が強まったことが、よほど悔しかったのだろう。
事件から程なくして、彼は銀座の眞行路邸を離れることになった。「弟を殺そうとした」との風聞が流れて輝虎としても家に居づらくなったのだろう。
全ては中川恒元の策略である。兄弟を揉めさせるだけ揉めさせ、眞行路一家を弱体化に追い込む。これを見越した恒元の掌の上で踊らされていたのだ。
2004年12月16日。
この日、中川会総本部では眞行路一家の後継者問題をめぐって理事会が催されるに至った。開催を強く要望したのは輝虎である。
「理事の皆様方におかれましては、この師走の慌ただしい中にお集まりいただき誠に恐れ入ります」
下座に平伏した輝虎は落ち着き払った様子で口を開いた。
「此度の理事会の開催の趣旨をご説明申し上げます。それは他でもない。この私、眞行路輝虎の眞行路一家五代目継承についてでございます」
中川会の幹部たちは皆、静まり返っていた。誰もがこの若造を冷ややかな眼差しで見ていた。というのも輝虎は自らの跡目継承にあたって幹部連中の支持を取り付けようとしていたのである。
「組の若頭として父を長きに渡って支え続けてきたのは私でございます。世間一般に置いても家は長男の継承こそが筋。どうか皆様のご指示を賜りたく……」
その発言には異論の声が上がった。
「おい、輝虎よ。お前は自分が何を言ってるか、分かっているのか? お前は恐れ多くも、先代の意思に背こうとしているんだぞ」
「大体にして今回の件は会長が裁定を下すことになってるじゃねぇか。それをお前みたいな若造が勝手に決めようなんざ思い上がりも甚だしいんだよ」
「そうだよ。身の程を弁えろってんだよ」
幹部たちから次々と浴びせられる罵声を輝虎はただじっと甘んじているようだった。その心中たるや如何ばかりか……だが、彼は決して怯まなかった。それどころか不敵な笑みを浮かべてさえいたのである。
「皆様方の言い分はよく理解しております」
そんな彼の態度に腹を立てた幹部がこう叫んだ。理事長補佐にして京葉阿熊一家の門谷次郎総長である。
「そもそも食客ふぜいが理事会を招集すること自体がおこがましい!」
「存じております門谷補佐。しかし、中川会の安寧のためにも銀座を器たり得る者が仕切ることは必要不可欠。どうか私にお力をお貸しください」
こう告げるなり輝虎は深々と頭を下げた。これに幹部たちはなおも罵声を浴びせる。
「ふざけんな! なんで俺たちがお前に協力しなきゃならねぇんだよ!」
「そうだ! そんな勝手な真似ができると思うなよ!」
彼らを諫めたのは恒元だった。
「まあまあ、皆。ここはひとつ輝虎に力を貸してやってはくれんか」
全員が顔を見合わせる。
「会長!?」
「しかし裁定は……」
幹部たちのざわめきが収まらぬ中、恒元はなおも口を開く。
「確かに眞行路の件については我輩が裁定を下すと言った。しかし、輝虎がこうして皆々と親睦を深めるのは吝かじゃない。大いに結構なことだよ」
護衛として傍から聞いていた俺は内心呆れ顔であった。そんな気など微塵も無いくせにと言いたかった。会長の中で答えは既に出ているのだ。
「輝虎には眞行路の家を継がないとしても別個で組を立ち上げて組織に貢献して貰いたいと考えている。輝虎は優秀な男だからね」
「お、お待ちください! それはいけません会長! あの愚弟に銀座を統べる器などあるはずもない!」
「何だ? 不服かね?」
すると門谷をはじめとする幹部たちが一様に輝虎へ声を荒げた。
「おい輝虎! 会長のお言葉を無視するんじゃねぇ!」
「そうだぞ! お前は大人しくしていれば良いんだ!」
なるほど。これが狙いだったか。幹部たちの前で精神的に揺さぶりをかけ、わざと醜態を晒させて組織内の評価を貶めてやる。
ある意味では姑息な嫌がらせの部類に入るが輝虎に権力を与えさせないという点では大いに効果がある。恒元も酷だ。それこそが彼が戦略家たる所以なのだろうが。
ただ、そんな幹部たちの中で予想に反した動きをする者が居た。
「まあまあ落ち着いてくれや、兄さんら。そんなに苛めちゃ輝虎君が可哀想じゃねぇか。なあ?」
手を鳴らして場を収めようとするのは直参『六代目椋鳥一家』総長、越坂部捷蔵。リーゼントに固めた頭髪が特徴の中年男である。
「越坂部……貴様、何を……」
怪訝な顔をする篁理事長らを尻目に越坂部は言った。
「輝虎君よ。お前さんが五代目に名乗りを上げたいってんなら俺が応援してやるぜ。銀座を仕切る器ってことを証明するって条件付きだが」
篁が止めようとするも構わず話を進める越坂部。これに幹部たちが反発した。
「越坂部ぇ! 何を言ってやがる!?」
「眞行路の跡目は会長がお決めになることだ! てめぇごときが口を出す問題じゃねぇんだよ! 引っ込んでやがれ!」
「大体にしてお前は謹慎明けだろうが! 口を閉じていやがれ!」
こいつらもこいつらで会長への忠誠心など皆無であろうに。椋鳥一家の増長が気に入らないのだろう。つくづく調子の良い連中である。
ところが、越坂部の肩を持つ者も存在した。
「私も捷蔵と同意見でございますよ。消去法で考えれば若頭しか有り得ないでしょう。他に誰が居るというのです」
吐き捨てるように具申したのは直参『三代目森田一家』総長、森田直正。水戸を中心に茨木県全体を仕切る男である。この男の発言には皆がざわめいた。
「森田!? てめぇ!」
それもそのはず。“御七卿”改め“御六卿”の中で最も多い構成員を誇るのが森田一家なのだ。森田の支持を取り付けたとなれば、輝虎は大きな庇護者を手に入れたことになる。
「越坂部、森田、貴様らぁ! 一体どういう了見だ!? 会長の御前で何を勝手なこと言ってやがる!?」
血相を変えて怒鳴りつける篁だったが、越坂部は平然とした様子でこう答えた。
「ああん? 何の話だよ?」
「んだとゴラァ!」
顔を真っ赤にする理事長を越坂部は鼻で笑った。次いでその口から出てきた言葉は衝撃的なものだった。
「輝虎君以外にゃ有り得ねぇだろって話よ。俺と森田の兄貴は冷静に物事を考えてるつもりだぜ。裁定も何も、結果は最初から決まってんだろ」
「何だと!?」
越坂部捷蔵は中川会随一の武闘派であり、数々の修羅場をくぐり抜けてきた男である。その彼がこうまではっきりと意思を示すというのは異例だった。
越坂部捷蔵は前々から会長に対しては敬意に欠ける男だった。そんな彼だが、こうもあからさまに歯向かってくるとは俺も予想だにしなかった。
「同じく。我らはあくまで会長の方針に従うまで。されど輝虎君以外に誰が居りましょうや」
森田直正も頷いている。これに幹部たちは動揺に包まれた。俺と恒元も思わず顔を見合わせる。建前はともかく現状で最も兵を持つ森田一家が輝虎を支持する側に立ったとあれば、彼に同調する直参組長は多いのではなかろうか。極道とは長いものに巻かれる奴が多いのだ。これは分からなくなってきたぞ。
「森田! てめぇ、会長に楯突こうってのか!?」
篁が怒りの形相で尋ねる。だが、森田は動じない。
「いえ。私はただ思ったことを正直に申し上げたまでです。理事長も内心では輝虎君以外には有り得ないとお思いなのでは」
「……」
そう言い放つと彼は輝虎に向き直った。
「輝虎君。さっき捷蔵が言ったように、君が五代目として肚を決めてくれれば我々は喜んで応援するよ。どうか自信を持ってくれ」
森田の言葉に輝虎は頭を下げた。
「ありがとうございます。森田の叔父貴。皆様方、どうか私に力をお貸しください」
幹部たちがざわめく中、越坂部捷蔵が輝虎の肩に手を置いた。
「任せときな。お前さんには期待してるんだ」
そのやり取りに俺は思わず舌打ちしそうになった。決めるのは会長だというのに。けれども、ここで俺が口出しするわけにはいかない。
「まあ、結構なことだよ。我輩が思った以上に輝虎は人望を集めているようだ。中川会の未来は安泰というわけだな」
やや動揺した恒元の声。彼としても森田の輝虎支持は想定していなかったのだろう。唇を強く噛みしめる姿が印象的だった。
そうしてこの日の理事会はお開きになった。閉会後、執務室に戻った恒元は怒り任せにゴミ箱を蹴り飛ばした。
「森田の奴は何を考えている!? この我輩の裁定を何と心得ているのか!? 実に許し難いことだ!!」
「落ち着いてください、会長」
才原が宥めたが、恒元の怒りは収まらなかった。彼は才原局長に詰め寄ってこう言ったのだ。
「落ち着いていられるか! 輝虎に銀座を仕切らせるなど断じてあってはならんことだ! それ以上に我輩が奴らの顔色を窺うなど……!」
いやはや、これは困ったことになった。よもや森田までが輝虎支持に回るとは。どうせ彼らは『会長の裁定などは自分たちの意向次第でどうにでもなる』と思っている。幹部たちの中に形成された多数派を恒元が最終的に支持することで、会長の権威を貶めてやろうという魂胆なのだ。まったく図々しい奴らである。
「しかし、森田が輝虎を推したってなると、同調する者はどんどん増えるでしょうね」
俺が呟くと恒元は舌打ちした。
「ああ、その通りだよ。水戸の森田一家に前橋の椋鳥一家。それだけで輝虎は3000騎以上の味方を得たことになる」
恒元は葉巻に火を点けて深く吸い込むと煙を吐き出した。そして苛立たしげに椅子に腰を下ろした。
「森田は昔から気に入らん奴だったが、まさかここまで増長するとはな……」
森田の影響力は本当に侮れない。彼の率いる森田一家は傘下組織のみならず北関東の右翼団体やカルト宗教団体にも多くの支持者を持っている。さらに越坂部の椋鳥一家は暴走族やチーマー集団を配下に置いているといわれ、両者とも有事の際には組員以上の兵を動員できる強大な勢力だ。
「輝虎が眞行路の跡目になれば、森田と越坂部の影響力はより強大になるでしょうね」
俺は率直な意見を述べた。恒元は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
「ああ、その通りだよ……まったく嘆かわしい」
彼らの狙いはただひとつ。眞行路一家の跡目問題を利用して銀座の利権を手に入れたいのだ。かつては銀座の猛獣が独占していた権益をそっくりそのまま貰い受けたいのであろう。
「篁も篁だ! 奴の忠誠心など所詮は口だけだ! あの局面で黙りおって!」
恒元は怒り心頭といった様子で机を叩いた。俺はそんな会長に尋ねた。
「では、こちらも早々に動いた方がよろしいのではないでしょうか。ひとまず直参組長の中で秀虎を推す者を募ってみては?」
「ああ、そうだ! こうなった以上、何が何でも秀虎に継がせてやる! 関東極道の支配者はこの我輩だということを思い知らせてくれるわ!」
何だか要旨が変わってきた気がするが、有力幹部らにこれ以上の力をつけさせないことは恒元にとって重要事。眞行路一家が弱体化しても代わりに森田や越坂部が増長したとあっては元も子もない。組織改革実現のためにも何とか避けたいだろう。
「では、直参組長の中で秀虎の味方をしそうな者を中心に当たりをつけてみます」
「ああ! 頼んだぞ!」
俺は一礼すると会長室を後にした。さてと、忙しくなりそうだ……。
この理事会が終わった翌日以降、局長の才原が自らの一族の忍びたちに直参組長たちの動向調査を命じることとなった。
『お前たち、頼むぞ』
才原局長の指示に忍びたちは揃って頷いた。全員が幼い頃より特殊な訓練を受けて育てられた隠密行動のプロ。いわば平成の世を生きる忍者たちだ。
中には女性も居るようだ。彼女らは全員が朽葉流忍術才原式の使い手であり、身分上は才原嘉門を組長とする中川会直参『才原組』の構成員という体になっている。
『承知しております』
『必ずや調べ上げてみせまする!』
『お任せください! 棟梁!』
才原局長は満足そうに頷いたのだが、今度は俺の方に向き直って小声で言ったのだった。
『あまり期待はせん方が良いな』
それもそのはず。椋鳥一家と森田一家が理事会で輝虎支持を表明した噂は大々的に広まってしまい、直参組長の多くが彼らに靡いたのだ。アンケートを取ったわけではないので実際の総数は不明だが、輝虎が居を移した高級マンションが連日連夜訪問客であふれ返っているというからおそらく確かだろう。
一方の秀虎といえば幹部たちの支持を集められずに居た。それどころか当人が「ヤクザにはなりたくない」とぼやいて部屋に引きこもってしまう始末。兄との差はみるみる開いてゆくばかりで、思うままにならない実情に恒元は頭を悩ませた。
「やはり秀虎は器に非ずか……」
そもそも彼の後見役たる母親の淑恵が未だ態度を明らかにしていないのだ。次男の家出騒ぎがあってからというもの、淑恵は組の跡目について明言を避け曖昧な態度を繰り返している。後継者問題のことは話題に出そうともしないという。
「淑恵は一体何を考えているのだ……」
恒元は歯ぎしりしていた。
一方、俺はというと、いつになく慌ただしくなった総本部の一室で意外な人物と顔を合わせていた。
「よう、涼平。久しぶりやな」
直参『本庄組』組長、本庄利政。この日は会長にシノギの定例報告に訪れていたところ。執務室を出て帰路に就く彼と偶然遭遇したわけである。
「……あんたか。何の用だ」
「おいおい。つれんこと言うなや。久しぶりに会ったんやで」
「ふん。あんたと話すことなんてない」
この男は油断ならない人物。かつては命を狙われたこともある。ゆえに俺は鼻を鳴らしてその場を去ろうとするのだが、本庄はしつこく食い下がってきた。
「まあそう言うなや。ちょっと話でもしようや? それとも何や、忙しいんか?」
「あんたと話す時間が勿体ねぇんだよ」
しっしっと手を払って見せた俺だが、それでも奴は引き下がらなかった。
「ええやないか。少しくらい付き合えや」
「嫌だね」
「わしをぞんざいに扱ってええんか? 今日はせっかく旨い話を持ってきてたんやで? 秀虎を跡目に据えるための話をなあ?」
本庄の放った言葉が俺の耳に留まる。
「……そらぁ、どういうことだ」
ピクリと反応を示した俺に本庄はニヤリと笑った。
「食いついたのぅ? 涼平」
「……いいから話せ」
俺が促すと本庄は手招きした。廊下で立ち話するよりも場所を変えようとのこと。俺は彼に誘われるがまま総本部の中庭に出た。
「話って何だよ」
「眞行路一家の五代目は輝虎に継がせるってのが恒元公の意向や聞いたで。せやけど、今は輝虎の方が支持を集めとると」
俺は頷いた。
「まあな」
「けど、んなもんは所詮ただの投票。情勢をひっくり返すなんて簡単な話。わしの手にかかれば一瞬や」
あっけらかんとした調子で言う本庄。
「どうするんだよ」
俺が尋ねると本庄はこう続けた。
「ええ? 皆、衰退した眞行路に代わって最大勢力になった森田と椋鳥に遠慮してるだけのことや。連中が奴らに遠慮しなくなるような状況を作れば秀虎に寝返る者も現れるかもわからへんやろ」
「いや、確かに理屈としてはそうだが。具体的にどうするのか聞いてんだよ。最大勢力に遠慮しない奴なんか居ねぇだろ」
「アホやなあ。森田と椋鳥を最大勢力じゃなくすりゃええんやろがい」
自信満々と言ってのける本庄だが俺としては納得が行かない。そんなことが出来るのだろうか。しかし、彼は秘策を持っているという。
「実はのぅ、わし森田一家についてとある情報を握っとんねん。ひらたく言やあ奴らの弱みやな。そいつを使えば森田は組が割れるで」
それほどに強烈な森田一家の弱みとは。一体、何であろうか。詳細を尋ねる俺であるが本庄はそれ以上の説明を寄越してくれなかった。
「まあ、森田一家を割らせなくても森田を脅して輝虎の支持を撤回させることはできるで。そうすりゃ椋鳥も森田に靡いて輝虎は裸の王様で」
そこまで冷静に聞いていた俺。無論のことそっくりそのまま受け止めることはしない。本庄がどういう男であるかはよく知っているつもりだった。
「……そいつを俺にここで持ちかけるメリットは何だよ。あんたのことだ。大なり小なり旨味を得られる打算があるんだろう」
「おう。鋭いのぅ。涼平は。せや。その通りや。あないボンクラ小倅を善意で推す奴がどこにおんねん。全てはビジネスやで」
「はあ。そうだと思ったよ」
結局、本庄も銀座の利権が欲しいのだろう。秀虎に味方をして、彼が跡目を継いだ暁にはその庇護者として見返りを貰うつもりだ。俺には、彼の魂胆がよく分かる。
「どや? 本家としては何としても秀虎に継がせたいやろ? せやったら、わしの案に乗る他あらへんよな?」
本庄はそう持ちかけてきた。確かに、眞行路一家の五代目を秀虎に継がせるという会長の意向は絶対だ。しかし……俺は冷静に返事をした。
「いや、断る」
すると、途端に本庄の顔が険しくなった。
「おいおい。何で断るねん」
「会長はどちらに決めるかお考えになっている真っ最中だ。会長のご意思が決まるまで本家の人間は何も出来ない。全ては会長の裁定次第なんだよ」
「裁定て。どっちみち秀虎に決まっとるようなもんやないか。恒元公は兄貴の方を快く思ってへんのやさかい」
「だとしても裁定が下るまで勝手な行動は出来ない」
「おどれは『意を汲む』っちゅうを知らんのかい」
「あんたの言うそれは『邪推』だ。とにかく、俺はあんたの話には乗れない。何を企んでるかは知らんが本家はあんたの思い通りにはならんぞ」
そう断言して踵を返した俺。我ながら適切な答え方をしたと思う。恒元が秀虎を推しているのは今の時点で秘密事項。本家の立場として対外的に表明するわけにはいかない。恒元が正式な裁定を下すまでは本家は中立を貫かなくてはならないのである。
「けっ。つまらん男になりよったからに。このままやったら輝虎の方に肩入れしてまうかも分からへんで。わしはより旨味のある方を選ぶ主義なんでな」
背後から煽るような声をかけられるも、俺は視線を合わさずに吐き捨てるのみ。
「好きにすれば良いさ」
まあ、本音を言えば本庄の支援は欲しくないわけでも無かった。それでも執事局次長の役柄の範疇を超えた振る舞いをするわけにはいかない。
「とりあえず会長に伝えときぃ。『わしに森田を何とかして欲しかったら相応の報酬を用意せぇ』ってな」
俺は黙って歩いて行く。しかし、本庄は止めない。なおも背後から声を浴びせてくる。
「今の情勢やったら森田は必ず先手を打つで! 人を事故に見せかけて殺すヒットマンを森田一家はぎょうさん抱えとんねん! 森田がガチになったら秀虎はどうなるか分からへんぞホンマに! 」
無視する俺に本庄は続けた。
「秀虎の身が危ういゆうんは会長もお分かりのはずや。せやけど、秀虎の護衛に執事局の兵は出せん。中立な裁定を下すっちゅうのが本家の立場やさかいのぅ」
それがどうしたと返したいところだが図星である。ここ最近の懸案材料である。どうにか悟られまいと無言を貫いていると本庄は嬉々として言った。
「おどれさえ良ければ兵を出したるで。本庄組で秀虎の身辺を警護したる。まあ、必要になったらいつでも言うてくれや」
高笑いしながら去って行く本庄を俺は背中で見送る。奴とは真反対の方向へ歩いた後、自然と大きなため息が漏れたのだった。
それから程なくして俺は執務室に呼び出された。苦々しい表情をしているのは会長もまた同じであった。
「どうしたものかねぇ、まったく」
声色から彼の悩みが伺える。秀虎がまるで幹部たちの支持を得られていない。兄に対して大きく後れを取っているのは明白だった。
そんな有り様では彼を眞行路一家五代目として擁立しようにもできない。何故なら当人自身がヤクザに対し強い忌避感を抱いているからだ。
「この3日の間に銀座三丁目に詰めていた兵の多くが輝虎の元へ走った。秀虎に味方する者は大いに減ってしまった。このままでは我輩は輝虎を跡目にせざるを得ん」
「では、そうなさるおつもりで?」
俺が尋ねると恒元は首を横に振った。
「いや、まだ決めかねておるよ。秀虎が本当に無能な男であるならばそれもやむなしだが……」
そこで言葉を区切る恒元。俺は彼の次の言葉を待ったのだが、彼は口をつぐんでしまった。眉間に皺を寄せて実に渋い表情だ。
「……あの子には度胸が無さすぎる。男の仕事をさせるのにまったくもって不適格だ。軟弱者では操る以前の問題なのだよ」
恒元が跡目候補に求めるのは忠実で乗じやすい男。されど決して誰でも良いというわけではなく、組を率いるに相応しい器量を備えた人物でなければ彼としても盃を与えたくないのだろう。
「かと言って、輝虎を跡目に据えるのはリスクの種でしかない。あれの腹の奥底には野心がある。いずれ父親と同じく力をつけて我輩に歯向かってこよう」
そう断言する恒元。彼はこう続けた。
「この3日間で多くの組員が輝虎の元へ合流したのは奴が覇道の継承を謳っているからだ。日本制覇を掲げた高虎路線を踏襲するつもりだと」
「いや、ですが高虎は会長の前で忠誠を誓ったはず……!?」
「残念ながら本心は違ったようだ」
才原一族の調べによると輝虎は自宅マンションに政治家や官僚、警察関係者らを招き、毎晩のごとくパーティーを開催しているという。その席では自らが「銀座の猛獣の正統な継承者」であると高らかに語り、日本を統べる野望に賛同するよう促していたのだとか。
「奴にこの事実を問い質せば『酔った上での放言だ』と弁明するであろうがな。人間、酒を飲んだ時に本心が出るというものよ」
苦々しくよう吐き捨てた恒元に俺も納得せざるを得なかった。やっぱり輝虎は信用ならない。直参の地位を与えたところで結局は高虎の二の舞になるだけだ。
「しかし、秀虎を推すには度胸が足りぬ。器でない者に盃をやれば我輩の名に傷が付く。関東極道たる矜持を見せてもらわねばな」
輝虎と秀虎。どちらを選ぶにしても問題が付きまとう。一番は秀虎に親分たる器を身に着けてもらうことなのだが、それは望むべくもない話。
恒元は葉巻に火を付けると、煙を吐き出した。
「……先ほど本庄が訪ねてきたよ。あの男も食わせ者だ。眞行路の跡目争いにかこつけて理事長補佐の位を手に入れようとしている」
「俺もさっき廊下で出くわしました。えっ? 本庄組長がそんなことを?」
「ああ。『自分を森田や越坂部と同格に上げてくれれば連中を牽制してみせる』と。要は出世がしたいだけなのだ」
本庄の内心に渦巻く欲望を恒元は見抜いていた。一方で、本庄もまた、恒元が中立な裁定を下すふりをしながら密かに秀虎の擁立を画策している事実に気付いている。あの陽気な男も恒元への忠誠心など皆無で専ら打算のみを軸としているのである。
「おそらく輝虎も我輩の魂胆に気付いているのだろうな。あの理事会は奴のあてつけ……いや、我輩に対する挑発だったのだ!」
苦々しく吐き捨てる恒元。彼は葉巻を口から離すと灰皿を手繰り寄せた。この仕草は話題を換える時の合図ともいえる。
「まあ、それはそうとして。西の方もだいぶきな臭くなっている」
「西の方と言いますと、関西の煌王会ですか?」
「うむ」
葉巻を深く吸い込み、恒元は話を切り出した。
「煌王会でクーデターが起きた件はお前も知っていよう。以前、村雨組の菊川が話したはずだ」
「ええ。何となくですが。確か煌王会の長島会長が電撃的に引退を表明したものの、そいつが実のところ若頭の橘による策略だったんでしたっけ?」
「左様だ」
事のあらましはこうだ。12月1日、煌王会の長島勝久会長が突如として引退を発表した。対外的に示された御教書には『同日付で渡世から身を引き跡目を橘威吉若頭に譲る』とあった。ところが、それは実際にはまったくのデタラメであり、橘率いる松下組が名古屋の煌王会本家御殿を取り囲んで会長に武力にて引退を迫り、橘が跡目を継いだというのである。
「無論、それに納得のいかぬ者たちは不当を訴えて橘の行為が謀反であると触れ回った。長島の地元である静岡の桜琳一家だ」
「けど、桜琳は戦わずして松下組に降伏したんでしたよね」
「流石は涼平。耳が早いな」
総長の片桐禎省が不在だったこともあり統制が取れなかったのだろう。満足に戦えぬまま桜琳一家は松下組に降伏し、解散に追い込まれた。長島体制で本部長を務めていた片桐は賊軍の大将として絶縁処分を言い渡されたというのが噂になっている。
「橘はあたかも自分が長島会長より正式に跡目を託された後継者であると称し、さながら官軍のごとく振る舞っている」
「ええ。こないだのブン屋から聞いた話だと、桜琳が負けたのを皮切りに反対勢力が次々と橘の軍門に降っているそうで」
「うむ。されど、その中で唯一橘に対して異を唱え続ける者が居る。横浜の村雨組だ」
長島体制にて幹部の地位にあった村雨組は、今回の橘によるクーデターを激しく非難。村雨組は長島体制を維持すべく、松下組の打倒および反乱鎮圧のため日夜戦いを繰り広げているという。
「ただ、今の時点で村雨組と肩を並べる者は居ない。橘は事を起こす前に貸元たちの大半から賛同を得ていたようでな。まさに孤軍奮闘といった状態だ」
それでも果敢に巨大な敵に食って掛かるのが村雨らしいと云えるだろう。話を聞いている中で何となく分かったが、今回の俺の仕事は村雨組の支援。中川会として煌王会の長島体制を助けるべく村雨組をバックアップして共に橘を倒そうというのである。
この俺が村雨組への援軍として遣わされるのだ。冷静に考えたら衝撃がこみ上げてきそうだ。無論のこと気は乗らない話だ。
「涼平。行ってくれるな?」
「……ええ。事情は分かります。橘がヤバい奴だってことは浅草の件で明らかですから。煌王の会長は長島のままの方が良い。俺もそう思います」
「そうか、行ってくれるか」
恒元は安堵の表情を浮かべた。俺が断ると踏んでいたのだろう。まあ、本音を言えば断りたかった。一度は出奔した旧主の元へ今さらどんな顔をして行けば良いというのだ。けれども会長の命令を断るという選択肢は本能的に有り得なかった。
「では、すぐに支度をするがいい」
「分かりました。俺の他には誰が行くんです?」
「酒井と原田を付ける」
「なっ!?」
思わず声が裏返る。どういうことか。援軍がたった3人というのは。曲がりなりにも戦略家の恒元。理由があるのは分かっていたが。
「我輩としては村雨組を応援したいが、表立って兵を送れば煌王会全体と戦争になりかねん。今の状況でそれは避けたいのだ」
「だからって3人ってのも……」
「お前たちには『会長の使いで横浜へ行った際に偶然戦いに巻き込まれた』体裁を取ってもらう。全てはお前たち個人の行動ということにする」
恒元は葉巻を灰皿に置くと深くため息をつくのだった。俺が納得いかないような表情を浮かべていると彼は言った。
「良いか。中川会との戦争を避けたいのは向こうとて同じこと。我輩の使者が巻き込まれたとなれば橘も大胆なことは避けたくなるだろうからな」
「なるほど。俺たちの存在を橘サイドへの牽制にするんですね。では、最終的には穏便な形での決着をはかるってことですか?」
「ああ」
恒元は頷いた。そして、こう続けるのだった。
「村雨が松下組に敗れれば、橘が東京に攻め込むための前線基地が横浜に作られることになる。そうなってはまずいのだ」
かくして俺は村雨組に対する中川会の“援軍”として横浜へ派遣されることになったわけだが、その胸中は実に複雑であった。
率直に言って気乗りしない。俺はかつて袂を分かち出奔した身である。村雨との確執は消えたとはいえ、緊張感は未だに残っていた。
横浜へと向かう車中、浮かない顔をしていた俺に原田が心配そうな面持ちで話しかけてきた。
「兄貴……?」
いつになく不安に満ちた声色をしている。よもや部下に動揺を悟られてしまうとは。俺も上司としては未熟である。
「何でもねぇよ」
繕うような返事をした俺に運転手の酒井が言った。
「確かに村雨の噂は有名ですからねぇ。残虐魔王、村雨耀介。いやあ……ぶっちゃけ俺も怖いですよ、どういう奴なのか」
酒井はハンドルを握りながら、さながら冗談っぽくそう語ったのだった。俺は思わず苦笑する。
「まあ、確かにな」
「それでも兄貴なら大丈夫ですって。相手がチーターだろうがライオンだろうが一瞬でK.O.ですよ」
原田は鼻息荒く言った。俺が村雨組に居た過去を部下たちは知らない。だからこそ軽口を叩いているのだろうが、今日はそれに助けられた。
「へへっ。ありがとな」
「えっ? 何がです?」
原田はきょとんとした。俺はその頭をポンと軽く叩いてやるのだった。そして、こう続けるのだった。
「何でもねぇよ」
俺たちはこれから中川会として村雨組に手を貸す。俺たちが行くことで松下組を牽制し、あわよくば煌王会を元の勢力図に戻すのが狙いだ。
上手く事が運ぶかは分からない。だが、俺たちに断るという選択肢は無かった。尤も俺は立場以前に本能的に中川恒元に従ってしまうのだが……。
まあ、それは今は考えないでおこう。
「次長、もうすぐ横浜です」
酒井がバックミラー越しに後部座席の俺を見た。俺は頷く。
「ああ、そうだな……」
車窓に映る景色はどんどんと移り変わってゆく。懐かしい。コンビニ、スーパー、服屋と5年前に馴染んだ店は今もなお変わらない。
横浜駅を過ぎるとすぐに国道に入る。ほどなくして酒井が声を上げた。
「あっ、そういえば。村雨組の事務所ってどこにあるんでしたっけ?」
どうやら出発前に確認していなかったようである。「おいおい、しっかりしろよ~」と野次る原田をよそに俺は頭の片隅に残っていた情報を伝えた。
「横浜の中区山手町の135番地だ」
「ありがとうございます!」
村雨組の事務所であり、組長の村雨耀介の邸宅。忘れるわけが無い。あの頃はさながら自分の実家のごとく住んでいた場所なのだから。
「兄貴! 着きましたぜ!」
横浜市内でも指折りの高級住宅街として知られる山手町。その中でもひと際小高い丘の上に築かれた赤レンガの洋館こそが今回の拠点。村雨邸である。
思わず唾を呑み込んだ俺。何せ5年ぶりの訪問だ。この状況で緊張するなという方がおかしいだろう。正面の駐車場に車を停めて降りると、さっそく数人の男に囲まれた。
「よう。俺は中川会の麻木ってモンだ。うちの組織から話が行っていると思うが……?」
「ちょっと待ってな」
「よろしくな」
門番は知らない男だった。年齢は20代半ばくらいだろうか。精悍な顔立ちに引き締まった身体つきをしている。日頃より武芸の稽古に励んでいるとすぐに分かる風貌だ。外に出ていた連中は全員が筋骨隆々。例えて言うなら“若武者”といった表現が最も似合う奴らだった。
「流石は残虐魔王の組。下っ端も強そうだな」
「馬鹿を言え。中川会だって負けちゃいねぇよ」
「ふんっ。分かってるっての」
小声で軽口を叩き合う酒井と原田のやり取りを聞いていると、先ほどの門番が戻って来る。今度は見知った顔の奴を連れて来た。
「ご無沙汰しております。麻木次長。お元気そうで何よりです」
「ああ。あんたは柚月さん……だったか?」
「いかにも」
俺たちの前に現れたのは長身痩躯の美青年だった。彼の名は柚月宰。この組では若頭補佐を務める男。年齢は30歳くらいだろうか。切れ長の瞳にすらりと通った鼻筋は端正そのもので、男の俺ですら見惚れてしまうほどの美しさである。
「今日はわざわざご足労いただきましてありがとうございます。ささっ、中へどうぞ」
俺と酒井と原田は屋敷に招き入れられた。中では組長が待っているという。
「兄貴、村雨組の組長ってどんな奴なんです?」
廊下を歩きながら原田が俺に尋ねる。俺は腕組みしながら答えた。
「俺の知る限り、この世界で一番強い男だ」
「えっ? マジっすか?」
「ああ。俺の知る限りな」
そう。村雨耀介は俺の中では最強クラスの存在といって良い。喧嘩をすれば一騎当千、大勢を相手にする戦いでもあっという間に片付けてしまう。
「兄貴より強いなんて、もう人間じゃないっすよ」
原田はオーバー気味に笑った。酒井も苦笑している。まあ、無理もないことだ。俺だって未だにあの男の存在を畏怖しているのだから。冗談抜きで。
「けどよ、次長なら勝てるんじゃないっすか?」
「無理だよ」
俺は酒井に即答した。そして続ける。
「俺とあの人とでは強さの次元が違うんだ」
そうなのだ。俺がどんなに本気を出したところで村雨耀介の足元にも及ばないだろう。それゆえにあまり関わりたくないと思っていたのだが、与えられた仕事とあっては止むを得ないことである。
「……我が主君もあなたとお会いするのを楽しみにしておりましたよ。麻木次長」
少し咳払いした後、先頭を歩く柚月が意味深な言葉を口にした。俺は思わず聞き返す。
「どういう意味だ?」
「それはお会いしてからのお楽しみということで」
柚月はニッコリと微笑んだ。その真意を推し量ることは出来ない。だが、何やら妙な予感がしたのだった。
「……」
組長の部屋は屋敷の3階にて一番奥まったところにある。俺はその位置を知っている。かつて入り浸っていた時代と何も変わっていなかった。
階段を上がり、いよいよ執務室へ向かおうという時。廊下ですれ違った男が俺を呼び止めた。
「ああ!? テメェは……!」
「なっ!」
俺もまた足を止める。そこにいたのは白鞘の日本刀を担いだ長身の男。若頭補佐の沖野一誠だった。
「麻木ィ!? な、何でここに!?」
驚愕の顔をした沖野だったが、その表情がみるみるうちに憎しみのこもったものへと変わってゆく。
「テメェ……一体、どういうつもりで帰って来やがったんだァ?」
俺は鼻で笑ってやった。
「よう。そういうあんたも相変らずだな」
沖野は俺に敵意をむき出しにしている。当然である。5年前に村雨組の中で俺のことを最も嫌っていたのがこいつだった。
一方でこちらにも奴との間には因縁がある。忘れもしない10代の時分の冬、横浜大学の講堂で殺し合いをした記憶が蘇ってくる。
あの時に受けた痛みと刀傷。そして燃え滾るような激しい怒り。あれから俺も色々あったが沖野との遺恨だけは頭の片隅に引っかかっている。
「丁度いい機会だ麻木ィ! ここで決着を付けてやるぜ!」
「望むところだ!」
俺と沖野は一触即発の空気に陥る。酒井と原田が気圧されて後ずさりする中、柚月は平然とした様子で俺たちの間に割って入った。
「お二人とも落ち着いてください。ここは組長のお部屋の前ですよ?」
彼は俺と沖野を交互に見た後に、諭すような口調で言うのだった。そしてこう続ける。
「沖野の兄貴。この御方は確かに村雨組にいらしたにせよ、今は中川会からのお客人。無礼は許されませんよ」
「……チッ」
沖野は小さく舌打ちをした後で刀を鞘に収めた。俺もまた拳を下ろすことにする。ここでやり合っても仕方がないからだ。
「今日のところは見過ごしてやる。だが、覚えておけよ。俺はお前を許したわけじゃねぇからな」
そう吐き捨てて去って行く沖野。面倒な奴と出くわしてしまったものだ。何処ぞへ出張中だったなら良かったのだが、あれがいるとなるとかなりやりづらい。
「うちの者がとんだ失礼をいたしました。麻木次長。ご容赦を」
「いや、別に。気にしちゃいねぇよ」
コクンと頭を下げた柚月に軽く応じた俺。しかし、直後に彼の口から飛び出した言葉は意外なものだった。
「しかし、あなた様もあなた様で単純なお人ですね」
「ほう?」
思わず聞き返す俺。柚月は薄く笑った後で続ける。
「あの程度の挑発に乗るなど愚の骨頂です。あれではまるで子供ではありませんか。中川会の会長側近としてどんな方が来るかと思えば、ただのチンピラでしたか」
俺はムッとしたが、すぐに言い返すことはしない。奴の言う通りだったからだ。沖野との因縁を引きずっているのは事実であるし、そもそも俺が中川会に来たのは村雨組への援軍としてなのだ。ここで揉め事を起こすわけにはいかないだろう。
「おい! お前、もういっぺん言ってみやがれ!」
「兄貴に向かって何ちゅう口の聞き方だゴラァ!」
いきり立つ部下たちを俺は冷静に諫める。
「静まれ」
その様子を見て柚月はますます笑った。
「ふっ……まあ、舎弟どもの手綱はしっかり握っておられるようで。安心しましたよ。援軍は援軍でも馬鹿な猿が3匹も加わったとあれば、それはただの足手まといにしかなりませんから」
痛烈な皮肉だ。猛烈な怒りが沸騰しかけたが、俺は何とか堪えた。代わりにこう言い返す。
「お褒め頂き光栄だぜ。けど、あんたも気を付けるこったな。ご指摘の通りうちの連中は馬鹿で単純で血の気が多いもんだからな」
すると、柚月が睨みつけてくる。
「だから何だというのです?」
「言葉通りの意味さ。調教された獣は基本的には大人しいが、相手があんまり無礼だと我を忘れて噛みつくことがある。特にあんたのような奴にはな」
その時だった。柚月が眉間に皺を寄せたかと思うと、こちらへにじり寄ってきたのだ。
「うちの組で勝手なことはさせねぇぞ。お前のことは若頭から何度も聞かされたよ。組長の御恩を仇で返してトンズラこいたチキン野郎が」
そう来たか。さっきまでの敬語が一切消え失せていたので少し驚いたが、この程度の啖呵で臆するほど俺は軟弱ではない。
「ほう……?」
敢えて鼻で笑ってやった。
「ふふっ。おたくの若頭も言葉足らずだな。いちばん肝心な部分を伝えてねぇ」
「何だと?」
「俺はあんたの数百倍は強いってことさ!」
その瞬間、俺は柚月の顔の中心めがけて突きを繰り出した。勿論のこと寸止めである。衝撃波が出ぬよう加減を調整しながら。
「っ!?」
俺はニヤリと笑った。柚月の顔色が一気に変わるのが分かった。
「テメェ……何を企んでやがる!?」
「別に何も。ただ事実を言ったまでだ。部外者の分は最大限に弁えるつもりだが、過小評価されるのは心外なんでな」
そう答えてから俺は改めて柚月を一瞥する。そして憎々しげに睨んでくる彼に、こう続けたのだった。
「俺を舐めてもらっちゃ困るぜ」
すると彼はフンと鼻を鳴らして言った。
「まあ、良いです。私はあなたを信用したわけではありませんが今後のために釘を刺させて頂きました。ご無礼をお許しください」
「おうおう。気にするな。その程度で不快に思ったりしねぇよ」
俺は敢えて軽快に笑ってやった。柚月は俺を睨みつけてくる。だが、すぐに表情を和らげると深々と頭を下げたのだった。
「では、ここでお待ちください」
そして先に組長の待つ奥座敷へと入ってゆく柚月の背中を見送った後、俺は酒井と原田に向き直った。
「お前らもあんまり突っかかるな。ああいう手合いは適当にあしらうのが一番なんだ」
すると彼らは不満げな顔をしたが、ただ素直に「分かりました」と言ったのだった。それから数十秒後。
「どうぞ。こちらへ」
戻って来た柚月が手招きをする。俺は部下を引き連れて中へと足を踏み入れた。
「よくぞ参ったな、涼平」
座布団の上に胡座をかいて座る男。煌王会幹部にして貸元『村雨組』組長、村雨耀介。齢は30代半ばくらいになるか。
「銀座で会うて以来か」
俺は軽く頭を下げてから彼の前に正座する。そして改めて頭を下げた。
「よろしくお願いいたします。村雨組長」
すると組長は苦笑いしたのだった。
「堅苦しいのは止せ。もっと力を抜かぬか」
「いえ、そういうわけにはいきませんので……」
先ほど沖野や柚月に釘を刺されたからではない。しかし、どういうわけかここは敬語を使わねばならないと直感的に思ったのである。
「フッ、まあ良い」
村雨耀介は薄く笑った後で言った。
「それで、中川会は我が組に加勢してくれるとな?」
「はい。そう会長の中川恒元公より仰せつかっております」
俺は即答した。組長が頬を緩める。
「それは良かった」
そして彼は背後を振り返って声をかけたのだった。
「親書を」
俺の一声で、背後に控えていた酒井が鞄から書状を取り出す。クリアファイルに入った便箋の古めかしい筆文字による手紙だ。
「中川恒元公より、村雨組長へ宛てた親書でございます」
酒井が差し出した書状を村雨耀介は受け取った。そして中身を確認する。
「ふむ……」
それから彼は俺を見た。俺は黙って頷く。すると村雨はニヤリと笑ったのだった。
「分かった。恒元様のお心遣いに心より感謝致そう。我が戦列に加わってくださった御恩、痛み入る」
「はい!」
俺は深々と頭を下げて返礼を言う。これでようやく肩の荷が下りた気がしたのである……いや、ここからが本題だ。
どうやって煌王会のクーデター派を討伐するか。その算段を確かな方法で付けねばならない。中川会恒元の代理人として彼の顔に泥を塗らぬ戦いをしなくてはならないのだ。
「それで、具体的な作戦についてですが……」
俺が切り出すと村雨耀介は首を振った。
「まあ、待て。まずは酒でも酌み交わすとしようではないか」
彼はそう言うと部下に指示を出す。程なくして運ばれてきたのは一升瓶に入った日本酒だった。俺は思わず二度見する。
「これは……?」
すると組長は言った。
「飛騨国の酒蔵で熟成されし銘酒だ。美味いぞ」
「……そうですか」
俺に昼間から飲む趣味は無い。だが、ここで断るのも野暮だろう。ましてや杯を出されたとあっては拒めない。
「では、頂戴いたします」
俺は盃を手に取るとそれを口元に運んだ。そしてゆっくりと傾ける。口に広がる芳醇な味わいが美しい。これはかなり上等の酒だと思われた。思わず感嘆の声が出る。
「ほう……」
すると村雨耀介がニヤリと笑ったのだった。
「どうだ? 美味いであろう?」
「はい!とても!」
俺の反応に気を良くしたのか彼は上機嫌になったようだ。
「嬉しいぞ。お前とこうして酒を酌み交わすのが長年の夢であったのだ。うむ、今日は存分に飲もうではないか!」
それから酒井と原田にも酒が振る舞われ、俺たちはしばしの間談笑に興じることになった。
「ときに涼平」
組長が口を開く。
「お前はこの5年間、如何に暮らしておったのだ?」
直球の気まずい質問。されども下手に誤魔化しても却って空気が凍るだけ。俺は正直に答える他なかった。
「まあ、色々ありましたよ。会長の計らいで海外に逃がしてもらいましたが、その後が大変でした。糞拾いから傭兵まで、あれこれやりましたね」
すると彼は納得したように頷いた。
「なるほどな……」
そして酒を口に運ぶ彼を見て俺は思った。何だか申し訳ないことをしてしまったと……しかし、同時にどこか懐かしい感じもしたのであった。毎日のように同じ食卓で飲み食いしていた5年前の情景が本当に美しく思える。
「お前に礼を申していなかったな」
「何がです?」
「あの時の礼だ。お前がいなければ今の我が組は無かった。心より感謝しておるぞ」
村雨組長に頭を下げられて、俺は恐縮した。
「いえ、そんな……」
「謙遜するでない。あの時のお前の活躍が無ければ郎党ともども滅んでおったわ。お前が清原を討ってくれたからこそ私は斯様にして居られるのだ」
そんな旧主の姿を見て、俺は何だか照れくさくなってしまった。あれは俺なりの罪滅ぼしというか、せめてもの恩返しのつもりだったのだ。
「いえいえ。どうか頭をお上げください」
ましてや褒めてもらいたくてやったわけじゃない。そのためにこそ敢えてフードを深々と被って事に及んだのだ。尤も、村雨組長があのヒットマンが俺だと気付いているので顔を隠した意味は無いのだが。
「お前には何か褒美を取らせなくてはなるまいと思っておった」
「いやあ、褒美だなんて」
「あの時、みすみすお前を手放したことを悔やまぬ日は無かった。されど斯様にしてまた会えた。こんなに嬉しいことは無い」
ああ、またしても寂寥感が胸をよぎる。村雨組を捨てて中川会に走ってしまったことへの悔恨と共に。しかし、同時に嬉しくもあったのだ。自分のやってきたことは無駄ではなかったのだと思えたのだから。組長から感謝の言葉を貰い、何だか胸の辺りが熱くなってゆくのが分かった。
「改めて申すが、よくぞ戻ってきてくれたな。涼平」
再び頭を下げる村雨組長。俺は慌てて言った。
「頭を上げてください! そんな大したことは……」
すると、村雨耀介はフッと微笑んだのだった。そして杯を空にすると言ったのである。
「謙遜するなと言うたばかりではないか? それとも何か? 私が感謝しておるのが迷惑か?」
「いえ! 決してそんなことは!」
俺は許されたのだろうか。本当のところは分からなかった。けれども村雨組長の思いに触れることができたのは素直に嬉しかった。
考えてみればいつもそうだ。この人が何を思っているか、それを勝手に推し測っては一喜一憂。昔から独り善がりに悩み続けてきた。
結局は過去の事件も言ってしまえば自意識の産物。傍から見れば何て無様な男であろうか。自分でもたまにみっともなく思えるくらいだ。
だが、俺は村雨の役に立ちたかったのだ。その思いだけは一本筋が通っていると言わせてもらおう。どんな誹りを受けてもあの日の忠誠心は本物だったと胸を張れる。村雨の評価の言葉を賜ったおかげで全てが報われたような心地だ。俺が積み上げてきた過去を何もかもひっくるめて。
いつしか俺は自分が晴れ晴れとした顔をしていると気付く。ここまで口角を挙げたのはいつ以来か。たぶん久方ぶりだ。
会話は次第にこの5年間の出来事についての話へと変わっていった。
「そうか。傭兵か」
組長は興味深そうに問うてきた。俺は苦笑いしながら言う。
「ええ、まあ……」
すると彼はしみじみとした声で言う。
「異国の戦場を駆け巡っておったのだな。随分と逞しくなったものだ」
「……ええ。あの頃より筋肉はついたかもしれませんね。足も速くなったと思いますし」
そこへ酔っ払った酒井と原田も会話に入ってくる。
「村雨組長ぉ。次長は本当に強いんですぜぇ。どんなに強い奴も素手でぶっ倒しちまうんですからぁ」
「兄貴はマジでヤバいっすよ。手から衝撃波を出せるのは中川会じゃ麻木の兄貴くらいのもんですよぉ。たぶんそうっすぅ」
彼らの言葉に村雨組長は笑った。
「そうか。それは面白いな。『手から衝撃波』とは些か滑稽であるが」
「え、ええ。はい……」
俺が謙遜すると原田が言った。
「そうっすよぉ! 麻木の兄貴は凄いんですぅ!」
そんな彼らを見て組長は穏やかに頷く。
「……良き部下を持ったようだな?」
俺は思わず照れ笑いを浮かべる。秘伝の古武術のことをあまりベラベラと喋らないで欲しいものだが、褒められて嫌な気はしない。軽く「飲みすぎだぞ」と注意して、自分もまた穏やかに頷いたのであった。
「はい。皆、よくやってくれています」
すると村雨がまたも笑う。
「うむ。良きことだ」
そして彼は杯を傾けながら言ったのである。
「人を使うのは容易き話に非ず。組を持って14年になるが私も未だに勝手が分からぬ。組織とはそういうものだ」
俺は黙って頷いた。村雨組長は続ける。
「沖野や柚月はよく仕えてくれておるが、他の者はままならぬことがある。殊に伊豆の奴らは厄介だ。折に触れて手向かおうとするのでな」
「伊豆っていうと三島の連中ですよね? まだあなたに従わない人間がいるんですか?」
「ああ。彼奴らはつまるところ斯波の代紋を捨てられぬのだ。表向き臣下の礼を取ってはいるが。腹の底では何を考えておるか分かったものではない」
少し驚いた。圧倒的なカリスマの器を持つ村雨組長でも、そんなことがあるのか。人を従わせるという行為が難しい何よりの証左だろう。いや、それにしたって政局を前にして足並みが揃わないのは問題だ。旧斯波一家出身者が村雨への叛意を隠そうともしない旨を聞くと尚のこと懸念がこみ上げてきた。
「だとすると、橘が伊豆を味方につけてこちらの切り崩しをはかってくることも有り得るんじゃないでしょうか?」
「ううむ。伊豆の者どもは松下組の増長も快く思っておらぬゆえ、その線は薄いと思うがな。念のため釘を刺しておくか」
「ええ。俺が煌王の若頭だったら真っ先に伊豆を調略しますよ。彼らを繋ぎ止めるための策を講じるべきです」
俺は憚りながらもそう意見具申した。
村雨組のシノギと云えば大半が麻薬や武器の密輸出入だ。それゆえシマ内における港は組にとっての要所中の要所。橘との戦争を見据えた軍資金確保のためにも土肥や熱海の港を要する伊豆半島は決して失ってはならないだろう。
尤も、軍略の天才である村雨耀介は俺に言われずとも分かっていたようであるが。そんな組長は頷いた後で言う。
「うむ、分かった……ところで涼平よ」
そこで言葉を区切って俺の方に向き直ったかと思うと真剣な眼差しで言ったのだった。
「お前は今、中川会で如何なる立場に在るのだ?」
そんな質問を投げかけられて一瞬戸惑ったが、とりあえず率直に答えてみる。
「執事局で次長をやってます」
「その執事局次長とやらは如何ほどの権を持っておる?」
「うーん、そんなに大きいわけじゃないですけど。組織外交の実務を任されてます。他所へ出かけた時には側近として一応の敬意を払われるくらいで」
すると村雨組長はしみじみとした様子で頷いたのだった。
「お前が身の丈に合うた地位に就いておるようで安堵したぞ」
「身の丈、と言いますと?」
「いや。深い意味ではない。ただ私は案じておったのだ。お前ほどの腕を持つ男が一介の護衛に甘んじておるではないかと。宝の持ち腐れであろう」
思わず背筋に電撃が走った。
「いやいや、そんなことはありません。まだろくに渡世のイロハも分からない俺には分相応な立場ですよ」
本心はともかく今の時点の“格”として相応との自覚はある。中川恒元の庇護の下、何不自由なく暮らせている。おまけに外交権を与えられて自分の裁量で他組織と折衝ができることはむしろ身の丈以上の待遇とも云えるだろう。
俺の返事に村雨はフッと微笑んで言うのだった。
「そうか。ならば良いのだがな」
この時、ほんの僅かに村雨耀介の視線が鋭くなったような気がした。瞳の奥の炎が盛んに揺らめいたような……まあ良いか。
それからは他愛もない世間話が続いた。話題が尽きないものだから酒もどんどん注がれるかと思いきや、一升瓶を飲み干した時点で終了。俺が横浜に居た頃から村雨組長は酒豪として名高かったが、どうにも「仕事を前にして酔っ払ってはマズい」ということらしい。
「軍議は夜に始める。それまで少し休んでおれ」
宴が終わると俺たちは屋敷にある小部屋へ案内された。前に俺が使っていた部屋とは違うが、当面の間、村雨邸への来訪時は自由に使って良いらしい。
「な、何ですかぁ~この狭い部屋はぁ~」
「ただの物置きじゃないっすかぁ~」
泥酔した酒井と原田が畳に横になって文句を垂れた。
「お前ら、少しは自重しろ。仮にもここは他所様の屋敷だぞ?」
俺は呆れた口調で注意したのだが、二人は聞く耳を持たない。それどころか……。
「麻木さぁん! 俺もう飲めないっすよぉ~飲み足りないっすよぉ~」
「次長ぅ! そもそも俺たちは客人ですぜぇ? それも中川会の会長が寄越した使者だってのにこの部屋はおかしいでしょう!」
「そうっすよぉ~! もっとまともな部屋に通してくださいよぉ~!」
などと喚き散らしている始末である。全く困ったものだな……だが、こいつらの主張も一理ある。村雨組側の態度はお世辞にも歓迎的とは言えなかった。「中川会の手は借りるが服属はしない」という村雨耀介の意思の表れなのか。何にせよ俺に文句を垂れる度胸は無かった。
今は中川会の会長側近である涼平と煌王会で幹部に上り詰めた村雨。本来ならば交わることの無い両者。そんな二人が共に戦列に立ったのも裏社会の偶然か……。